プラトン『饗宴』メモ

プラトン『饗宴』((プラトン全集 (岩波) 第5巻) を読んだときのメモ。
この篇は,プラトンの著作では異色の内容で,表題のように宴会 (のようなもの) が舞台です。そこで出席者が,エロースという神をそれぞれ讃える演説を順に行なっていきます。最後にソクラテスが語ったあと,突如,かつてソクラテスの恋人であったアルキビアデスが乱入してきて,ソクラテスに対して怨みだか敬いだかよく分からないようなことを色々告げて,終わります。

ちなみにアルキビアデスを含めて出席者は全員男です (ソクラテスの回想に登場する (虚構の人物という説が有力らしい) ディオティマは女性の神官ですが)。恋というのも男→男のことを言っています。どうも当時はそういう男→男の恋愛というのはアテネでは普通で,ソクラテスだけがそうだった,というわけではないようです。
それが何でなのかは勿論説明不能ですが,『饗宴』を読んで残った印象としては,プラトン的な,真理を追い求める姿勢というのも関係しているように思われました。つまり動物的な恋愛ではなく,逆に純粋に感情の介入を許さずに理性として対象が好きになるということ,を突き詰めると,そうなるのかなあと。

以下では自分が読書中にメモしたことを抜き出しています。話の流れとは殆ど関係ありませんので要注意。

「それならば,ちなみに問おう。この指導原理は何であるか。醜いものに対しては恥じ,美しいものに対しては功名を競う心,これである。…恋をしている者は,自分が何か恥ずべきことをしているとか,あるいは他人からそういう目にあいながら,勇気に欠けるために身を守ることをしないとか,こうしたことが人に知れる場合には,その目撃者が父であれ,自分の仲間であれ,あるいはその他の誰であれ,自分の恋している少年に見られるほどには苦しみ悩むことはないであろう。また,恋される者も,それと同じ状態であることを,ぼくらは日ごろ見ているのである。つまりそのような者は,自分が何か恥ずべきことを人に見られるときには,とりわけ自分を恋している者に対して恥じ入るものである。」(178D のパイドロス)

言っているのは,恥の意識というのは恋から来る,ということでしょうか。そういえばプラトンの本では「孝」というものが出てくることは少ないように思います。孔子であれば、恋>孝、のようなことは決して言わなかっただろうなあと思いました。

「思うに,支配されている民の中に軒昂たる想いの生じることは,強固な友情や交わりと同様,支配者側にとって得になることではなく,しかもほかならぬこうしたものは,とりわけエロースこそがいちばん人々の心に植えつける傾向をもっているからである。…かくして,自分に恋を寄せている者の思いを受け容れることが醜いと決められた所では,そのように定めた人々の不徳によって,つまり支配者の貪婪と被支配者側の懦弱とによってそうなっているのであり,他方それが美しいと無条件に定められた所では,それは当事者たちの精神的怠惰に由ることなのである。」(182B のパウサニアス)

これも結構深い言葉なのかもしれません。規制を緩和するか引き締めるか,ということで一般論としても当てはまりそうですが,ここのようなテーマだと微妙すぎます。

「こういう少年たち (メモ註:元が男男の片割れである男) のみが成人するや,政治の世界に対して一人前の男子としての実を示すのである。しかも男盛りになった暁には,少年を恋して,結婚や子供を作ることには生れつき目もくれないのである。」(192A のアリストパネス)

ここの意味は,作中に出てくる神話が元になっています。すなわち,人間は元々2人で1人だったが (男男,男女,女女というパターンがあった),傲慢であったため神が人間を半分に分割した。しかしその半分になった人間は,元の片割れの自分を探して元に戻ろうとした。―これが恋 (エロース) の元で,なので元々が男男だったような人は男が男に恋すると。
プラトンの本にはこういう神話の内容がよく出てきます。プラトンが創作したものもあるのかは分かりませんが,多くはホメロス等で既に伝承されていたようです。しかも読む限りでは驚くほどよくできているというか,整合性が取れていると感心することが多いです。まあ科学なんてない時代ですからね…現実を説明するために,あるいは人が誤った方向に進まないために,そういう整合性の取れた物語が必要だった,ということでしょうか。
話を戻すと,男に恋するような男こそが,出世できる,ということを仕立て上げている,という感じでしょうか。

『神々にあっては,知を愛することはなく,知者になろうと熱望することもない―なぜなら,現に知者であるから―。また,神以外にも,知者であれば知を愛することはしない。しかし反面,無知蒙昧な者もまた知を愛さず,知者になろうと熱望することもない。つまり,この点こそは,無知の始末の悪いゆえんなのです。自分が立派な人物でもなければ思慮ある者でもないのに,自分の目には申し分のない人間にうつる点がね。ともかく,自分は欠けたところのある人間だと思わない者は,欠けているとも思わないものを自分から欲求するということは決してありません。』
『それなら,ディオティマ』とぼくは言った『いったい誰が知を愛するものなのです。知ある者も無知な者もそうでないとすれば』『そのことなら』と彼女は答えた『もう子供にだってわかり切ったことではありませんか。いま言った両者の中間にある者がそれです。そしてエロースもまた入るのです。さて,そのわけは言うまでもなくこうです。知は最も美しいものの一つであり,しかもエロースは美しいものに対する恋 (エロース) です。したがって,エロースは必然的に知を愛する者であり,知を愛する者であるがゆえに,必然的に,知ある者と無知なる者との中間にある者です。』(204A のソクラテスの回想)

この辺りまできてちょっと安心できました (笑)。いつものプラトンの本のようになってきたので。有名な「無知の知」を思わせる内容ですが,そもそも神は全て知っているので知る必要はない,また全く智恵もない人間も何かを知ろうとはしない,では誰が知を愛するのか?
答えは中庸ということですね。サインカーブのように,上下の頂点では微分係数 0 で,真ん中の時に微分係数が最大になる,という感じでしょうか。

『創作 (ポイエーシス) というのは広い意味の言葉です。言う迄もなく,いかなるものであれ非存在から存在へ移行する場合その移行の原因は全て,創作です。…しかし,それにもかかわらず,…創作全体のうちから一部分,すなわち,音楽と韻律に関する部分だけが別にされ,全体の名前で呼ばれているのです。』
『ところで,恋 (エロース) についてもまたそういった事情です。総じて言うならば,よきものと幸福であることへの欲望はすべて,あの “最も力強く,まったく巧智にたけた恋” というわけです。しかし,金儲けの道,体育愛好の道,愛知の道というふうに,数多くある別の道でそれ [恋] に向う人々は,恋をしているとも恋をしている人とも呼ばれないのです。ところが,恋のうちある一種類の道を進み一所懸命になる人々は,全体の名前を,つまり恋,恋している,恋している人,という名前を持つのです。』(205B のソクラテスの回想)

これもプラトンらしさが出ているというか。つまり物事の真理,または「イデア」を追求するということの中で,たまたま今回のそれは恋と呼ばれているだけだ,ということでしょうか。

『ソクラテス,すべての人は肉体的にも精神的にも妊娠して [生むものを持って] いるのです。』(206C のソクラテスの回想)

これも,「ソクラテスは産婆術を持っている」という,『テアイテトス』等に出てくるものと同じようなことを言っているのではないかと思います。つまりソクラテスの対話というのは,相手に質問をしてその答えを引き出すというスタイルですが,それを相手の孕んでいるものを出す手助けをしている,という見立てです。『テアイテトス』では自分自身は身籠ることはない,というようなことをソクラテスが言っていた気がしますが。

ということで,以上。プラトンの著作としては読みやすく,テーマとしてはちょっとキワモノ的なところもあるのですが,やはりそれでも随所にプラトンらしさが出ていた作でした。
次回は『パイドロス』の予定。

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