プラトン『アルキビアデス I』メモ

プラトン『アルキビアデス I』((プラトン全集 (岩波) 第6巻) を読んだときのメモ。
この対話篇ですが,まずアルキビアデスというのは『饗宴』にも出てきましたが,ソクラテスの恋人です (ちなみに双方とも男です…『饗宴』や『パイドロス』を読んできたのでもはや驚きません)。他の人がアルキビアデスから離れてしまっても,ソクラテスがアルキビアデスを想い続けるのは何故か,というのが話の大きな流れといえると思います。なおアルキビアデス自体は実在する人物で,波乱万丈な人生を送ったという記録があるようです。

ただ,実際の内容としては,政治家になりたいというアルキビアデスが如何にダメな人間か,ということをソクラテスがひたすらダメだしするような内容がずっと続きます。その中で,「知らないということを知ることが大切」といういわゆる「無知の知」にかかわる話や,「人間とは心である,なぜなら心が身体を支配しているからである」という話など,本筋とはちょっと離れたような部分でプラトンらしさが全開になるというまあよくあるパターンです。
最後は,「他の人間はアルキビアデスの身体という付着物を求めたが,私はアルキビアデスそのものに恋している」という感じにまとまりましたが,まあそれはどうでもよくて(笑),陰の結論である「自分を知るということは,克己節制すること (思慮の健全さを保つこと)」ということのほうが印象に残りました。この対話篇の訳者は田中美知太郎さんですが,そんな重鎮を当ててくるくらい,この対話篇の内容は(意外に?)重要ということなのかもしれません。

以下はいつものように,読書メモの転記とコメントです。

ソクラテス「それなら,きみは正と不正,美と醜,悪と善,利と不利などについて,答えが一致しないで,動揺することを認めているのではないか。だとすれば,きみのその動揺は,それらのものについて知らないから,そのためだということが明白になるのではないか。」(117A)

ソクラテス「それでは,どうかね。きみは天に上る方法を知っているかね。」
アルキビアデス「めっそうもない,そんなことは知りませんよ。」
ソクラテス「そしてきみのそれについてのその考えは,そもそも動揺することがあるだろうか。」
アルキビアデス「いいえ,けっして。」
ソクラテス「そしてそのわけはわかるかね。それともぼくが教えてあげようか。」
アルキビアデス「どうか教えてください。」
ソクラテス「それは愛する友よ,きみが知らないものを,知らないと思っているからだよ。」(117B)

知らない事柄について問われると動揺するが,知らないことを知っている事柄については問われても動揺しない。現実の実感としては,後者は開き直ったケースというようにも思えますが,ソクラテスが言っているのはもっと論理的な意味だと思います。

ソクラテス「しかし知っている人が過つこともないし,また知らなくても,その知らないということを知っている人は過つことがないとすると,のこるところは,知らないのに,知っていると思っている人が過ちをおかすという場合が,あるだけではないのか。」(117E)

この辺りは『論語』の「子の曰わく,由よ,汝にこれを知ることを教えんか。これを知るをこれを知ると為し,知らざるを知らずと為せ,これ知るなり。」(巻第一 為政第二) を彷彿とさせました。

ソクラテス「なぜなら,およそ何かの知識をもっている人については,他人をもその知識をもつ者にすることができれば,むろん,それがその知識をもっているというりっぱな証拠になると思うのだ。」(118D)

確かに,「知っているということは,教えられるということ」だなというのはよく思います。前述の「知っているということは,動揺しないということ」もそうですが,利害とは関係なく何かを習得した時の喜びの心境とも読めます。というかソクラテスの言葉には打算というものが一切入らないので,そう感じても当然ではあります。

ソクラテス「それでは,もしきみがこの国の指導者になることを志しているのなら,きみはスパルタやペルシアの王さまたちを相手にして,競技をするのだと考えたほうが,正しい考えをしたことになるのではないだろうか。」(120A)

ソクラテス「では,どうかね。われわれが自分自身いったい何であるかを知らないでいて,自身をよくするものがどういう技術であるかを,はたしていったい知ることができるだろうか。」
アルキビアデス「本当にそうです。」
ソクラテス「それなら,いったいどっちなのだ。自己自身を知るなんてことは,まさしく容易なことなのであって,デルポイの (ピュトの) 神殿にこの言葉を献じた者は大した人間ではなかったということになるのか,それともそれは難事であって,誰でもできるというようなものではないということになるのか。」(128E)

デルポイの神殿の言葉というのは「汝自身を知れ」という有名なやつです。そしてソクラテス流には,「汝自身 (は汝自身が何も知らないこと) を知れ」ということになるでしょうか。

ソクラテス「ところで,人間は,また身体の全体をも使用するのではないか。」
アルキビアデス「ええ,まったくそのとおりです。」
ソクラテス「ところで,使用者と使用されるものとは違うのだったね。」
アルキビアデス「そうです。」
ソクラテス「したがって,人間は自己の身体とは別ものであるということになるのかね。」
アルキビアデス「そうかもしれません。」
ソクラテス「では,人間とはいったい何だ。」(129E)

自分「ソクラテス,急に何を言われるんです」…と付け加えたくなるような最後の突拍子のない問いで非常に滑稽な印象を受けました (笑)。こういう禅問答的な端的な問いというのはソクラテスには珍しいと思います。これの答えは少し後に出てきます。

ソクラテス「人間は三つのうちのとにかく一つだということさ。」
アルキビアデス「三つって,何の三つでしょうか。」
ソクラテス「心か身体か,あるいは両方を合わせた,その全体かということだ。」(130A)
ソクラテス「ところで,身体も心身両方の合わさったものも人間ではないということになれば,思うに残るところは,そういうものは何もないか,あるいはもし何かあるとすれば,人間は心にほかならないという帰結だけであろう。」(130C)

ということで「人間は心である」という結論になりました。まあプラトンを哲学者と捉える場合はこの結論辺りは重要な部分なのかもしれません。自分としては,いかようにでも考えられるくらいにしか思いませんが実際,心 = 脳と考えればその通りなのでしょうか。

ソクラテス「つまりこれが,少し前にもわれわれが言ったことだったのだ。ソクラテスはアルキビアデスと,言論を用いて問答をしているというのがそれであったが,これはきみの外面を相手に言論をしているのではなく―と見るわけであるが―むしろアルキビアデスその人を相手にしているわけで,それはまたきみの心を相手にすることなのだ。」(130E)

問答をする時というのは心を相手にしている,というのはちょっと気取った言い方という気もしますが,少し考えると実はそれ以外の何ものでもないという気もします。

ソクラテス「してみると,身体のことを何かひとが知っていても,それは自分自身の付属物を知っているだけのことで,自分自身を知っているのではないことになる。」
アルキビアデス「そのとおりです。」
ソクラテス「してみると,医者は医者にとどまるかぎり,誰一人として自己人を知る者はないのであり,体育家も体育家としてとどまるかぎり,やはり自分自身を知る者は一人もないのである。」(131A)
ソクラテス「してみると,自分自身を知るということが,克己節制するということ (思慮の健全さを保つこと) だとすれば,これらの人たちは,その技術にたよっているかぎり,誰も思慮の健全な者はいないということになる。」
アルキビアデス「ええ,そうなると思います。」
ソクラテス「そしてまさにこの故に,これらの技術は,また単に職人的なものであり,すぐれた人の学ぶことではないようにも考えられたりするのである。」(131B)

この辺りは見方によると,文系>理系というか,何となく文系のほうが出世しやすいとか,技術者は所詮上の言いなりになるしかない,とかそういうことの裏付けになりうるとも取れます。勿論そんな器の小さいことではなく,単にその仕事の対象が人の心から近いか遠いかの差のように思います。仕事を離れた時に「克己節制するということ (思慮の健全さを保つこと)」ができるかどうかも重要かなと思います。

ソクラテス「してみると,誰かアルキビアデスの肉体に愛着した者があるとすれば,それはアルキビアデスに恋愛したのではなくて,アルキビアデスの付属物の何かひとつを求めただけのことになる。」
アルキビアデス「ほんとうにあなたの言われるとおりです。」
ソクラテス「これに反して,きみに恋愛する者というのは,きみのたましい (心) を愛する者なのだ。」(131C)

まさしく「プラトニックラブ」ってやつですね。

ソクラテス「してみると,さきほどわれわれは,自分自身は知らないけれども,自分のものは知っている人とか,あるいは自分のものの付属物は知っている人とかいうような,そういう人たちの存在を別々に認めることで,議論の一致を見たのだけれども,その一致はさっぱり正しくはなかったのである。なぜなら,これらのもの,すなわち自分自身も,自分のものも,自分のものの付属物も,みなすべてこれをしっかと見きわめるのは,[そういう別々の人たちではなくて]ただ一人のひと,ただ一つの技術でできることのように思われるからである。」
アルキビアデス「おそらくそうなるかもしれません。」
ソクラテス「またしかし,自分のものがわからなければ,また他人のものも,同じようにわからないだろうと思う。」
アルキビアデス「ええ,それに違いありません。」
ソクラテス「それなら,他人のものがわからなければ,国家社会のこともわからないことになるのではないか。」
アルキビアデス「ええ,それは必然です。」
ソクラテス「したがって,このような男が,一国の政治を扱うことはできないだろう。」
アルキビアデス「ええ,けっしてできないでしょう。」
ソクラテス「また一家をととのえることも,けっしてできないだろう。」
アルキビアデス「ええ,けっしてできないでしょう。」
ソクラテス「うん,そして自分のしていることもわからないだろう。」(133D)

ここは『大学』の,いわゆる「格物致知」の一節を思い出しました。ちょっと長いですが引用してみます。
「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲するものは先ずその国を治む。その国を治めんと欲するものは先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は先ずその身を脩(修)む。その身を脩めんと欲する者は先ずその心を正す。その心を正さんと欲する者はまずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。知を致むるは物に格(いた)るに在り。」(第1章-二)
国を治めるには家を,家をととのえるには自分を…というところが,そっくりです。

ソクラテス「してみると,きみがきみ自身のためにも,また国家のためにも用意しなければならないのは,何でも自分のしたいと思うことをする自由とか,支配的地位とかいうものではなくて,ただ正義と節制 (思慮の健全さ) なのだ。」(134C)

結論は,正義と節制,というものになりましたが,ここまでの話の展開や,また『大学』の一節に似た部分のように細かい仮定の帰結で,プラトンは決して天下り的な精神論を言うことはありません。プラトンの対話篇は基本的に分析的です。そこが東洋の古典とは違うところです。

ソクラテス「してみると,君たちの幸福のためには,このうえなくすぐれたアルキビアデスよ,自分のためにも,国家のためにも,用意しなければならないのは,独裁的な地位ではなくて,徳なのだ。」
アルキビアデス「ほんとうに,あなたの言われるとおりです。」
ソクラテス「うん,そして徳を身につけないうちは,自分よりすぐれた者に支配されるほうが,支配するよりもよいのである。これは子供だけの話ではなく,大人でもそうなのだ。」(135B)

『国家』に,支配する立場になる人間は,仕方がないからそうなるのだ,という話があったような気がしますが,確かに「自分がいちばんすぐれている」と思うような人が実際にいちばんすぐれているとも思えません。

「このような「正義と節制 (思慮の健全さ)」のすすめは,通常「プロトレプティコス・ロゴス」 (学と徳をすすめるの論)と呼ばれている文章の定式なのである。」
「つまり「自己自身を知る」ということは,ただ心理的事実として観察され,論理的分析の対象として興味をもたれるだけのものではなくて,また道徳的努力の目標として,自分をうっかり忘れてしまうことなく,いつも自分に気をつけ,コントロールがきいているような,つまり思慮が健全にはたらいている精神のあり方,生の状態が,特別の道徳的価値と意味をもつことになると言われているのである。」(解説 二)

解説にあった「自己自身を知る」ことのまとめ。

ということで『アルキビアデス I』については以上。分量的にも内容的にも,割と読みやすい対話篇でした。
次回は『アルキビアデス II』の予定。

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