プラトン『エウテュデモス』((プラトン全集 (岩波) 第8巻) を読んだときのメモ。
関係ないですが,7巻を飛ばして8巻を先にしています。7巻が貸し出し中だったため。
この対話篇は,ソクラテスが,過去にエウテュデモスとディオニュソドロスというソフィストと対話したときのことをクリトンとともに振り返る,という設定になっています。ほとんどが過去の対話の再現ですが,たまに現実に戻ってソクラテスとクリトンのやりとりが挟まれるといった感じです。副題は「争論家」。同じソフィストでも,プロタゴラスやゴルギアスとはだいぶ毛色が違うようです。
エウテュデモスとディオニュソドロスは「徳を教えることができる」と言うので,ソクラテスはそれを教えて欲しいと請うわけですが,両人が言うそれは争論術で,あらゆる言論に反駁することができる技術というようなもののようです。例えば「学ぶのは知者か,無知者か」という問いに,相手がどう答えたとしても,その反対であると言いくるめることができる,というような (実際にこの問いはクレイニアスという若者に向けられる)。
ということで基本的に話が全くかみ合いません。エウテュデモスとディオニュソドロスは,ついには「全ての人は全てのことを知っている」というような,どう考えてもおかしいだろということを言い出します (なのでメモも殆ど残っていません)。さらに,クテシッポスの問いに,全ての人は仔牛や仔犬の兄弟だとか,エウテュデモスがディオニュソドロスの歯が何本あるかを知っているとか,答えます。
読んでいる方もなんだかよく分からなくなるのですが,解説によると,本対話篇は「喜劇」らしく,ソクラテスがエウテュデモスとディオニュソドロスに徳の教師として徳を教えてもらうために対話をする過程で,実はソクラテスのほうが新の徳の教師である,ということを描いているようです。対話中ずっとソクラテスは2人を立てるようなことを言っていますが,実は逆説になっているということでしょうか。
以下は読書時のメモです。
で,私はびっくりして言った。「これほどのことが,あなた方には片手間仕事にすぎないというのでしたら,あなた方の仕事というのは,さぞ,立派なものでしょう。どうか是非とも,その立派なものは何か,私に言って下さい。」
「徳を,ソクラテス,僕らは,何人にもまして美しく且つ速やかに授けることができると思う」と彼 (メモ註:エウテュデモス) は言った。(273D)
これが過去の対話の導入部です (前述のように,本作はソクラテスとクリトンの会話の中で過去を振り返るという形式)。
「すなわち,学ぶという言葉を人々はこういう場合に,すなわち,ある事柄について初めには,何らの知識ももっていない人が,後になってこの事柄について知識を取り入れる場合に用いるが,しかしまた,この同じ言葉を,すでに知識をもっていて,その知識によって同じ事柄を―それが,為されることであろうが,言われることであろうが,一層よく見てみる場合にも用いるということを君が知っていなかったということをね…」(277E のソクラテス)
この言葉は,エウテュデモスがクレイニアスに,「学ぶ人は人間たちのうちいずれかであるか,知者かそれとも無知者か」と問い,クレイニアスが「知者です」と答えたら,なんだかんだと「無知者である」と反駁され,しかし直後にまた「知者でもある」ということにもなり混乱させたやりとりを受けたものです。これが本作の「争論術」の1つの例になっています。つまり相手がどちらと答えても自分が勝つようにしているわけです。
「知恵は,な,成功だろう,そして,これは,子供にだってわかることだろう」と私は言った。(279E)
「それでは,知恵はどんな場合にも人間たちに成功を得させるものだ。何故かというと,知恵はどんな時でも何についても為(し)損じるというようなことは決してなく,むしろそれは正しく行って,為(し)当てるからだ。そうでなければ,実はもう知恵ではないだろうからな」(280A のソクラテス)
「しかしどうだ。もし誰かが富や,さっきわれわれの挙げた善いものを,すべて所有してはいるが,しかしそれらを用いない場合に,それら善いものの所有によって,幸福であるだろうか」(280D のソクラテス)
「すなわち,もし愚昧がそれらの道案内をすれば,それらが,その悪くある案内者に随うことができればできるだけ,その反対のものどもよりもそれだけ大きな悪いものである。これに反して,もし思慮や知恵が道案内をすれば,それらは,それだけ大きな善いものである。しかしそれらのどちらも,それら自らただ自分らだけでは,何の値打もないものだ」と私は言った。(281D のソクラテス)
断片的になりましたが,これらのソクラテスの言葉は,エウテュデモス・ディオニュソドロスのやり方があんまりなので,こういうふうに教えてほしいという例として行なわれたソクラテスとクレイニアスとの対話の中のものです。本作の中で,比較的まともな?対話が行なわれるのが,このソクラテスとクレイニアスの対話です。
まず「善いものとは」というテーマで,その中に成功が含まれる,となり,その成功は,知恵によってもたらされる,ということが説かれます。
「狩猟術そのものはどんなのでも,狩って手に入れるだけで,それ以上には出ません。そして,それが何か狩るものを手に入れた時に,それを用いることができません。むしろ陸の猟師たちや海の漁師たちは調理人たちに譲り渡すのです。…また将軍たちだって同じように,彼らが或る国なり陣地なりを狩りとると,それを政治家たちに譲り渡します―何故なら狩ったものを自分では用いることを知らないからです。」(290B のクレイニアス)
ソクラテス「つまり,私たちには政治の術と帝王の術とが同じものであると思われるにいたったのだ。…その術には将軍術もその他の術も,ただそれだけが用いることを知っているもののように思って,自分たちがその職人として作ったものを支配して貰うために譲り渡しているように思われたのだ。」(291C)
ここは結構面白い話です。何かを手に入れたり作ったりすることそれ自体が幸福になるわけではない,それをうまく用いることができなければならない,と。そして用いる側の技術として,政治の術・帝王の術がある,と。
では,「ただそれだけが用いることを知っているもの」とは?つまりは政治の術とは?という追求が次に来ます。で,それは人々に何か知恵を授けるもの,というようなことが言われましたがはっきりは分かりませんでした。前に 279E 以下の引用として挙げた部分とも繋がってくると思います。
「すべての人はすべてを知っているのだ,一つでも知っておれば」と彼(ディオニュソドロス)は言った。(294A)
エウテュデモス,ディオニュソドロスに教えてもらおう,と尋ねたら,また「争論術」によってはぐらかされてしまい,前の話題はうやむやになってしまいました。
両ソフィストがその教育の手段として用いたものは争論術であって,自分の語ることの真偽を少しも問題にせず,ただ議論の相手を困惑させ,その口を封じて,勝利を得ることを目的としたのである。しかし,それは相手ばかりではなく,自分自身の口をも封じることになるのである。(解説)
これが本対話篇の副題である「争論術」とは何であるかのまとめになっています。
ということで以上。途中の「知恵」「政治 (帝王) の術」とは何か,という部分は面白かったですが全体としてはエウテュデモス・ディオニュソドロスの問答によってはぐらかされたという印象が強いです。次回は『プロタゴラス』の予定。