プラトン『プロタゴラス』メモ(1)

プラトン『プロタゴラス』((プラトン全集 (岩波) 第8巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,直接の舞台設定としては,友人がソクラテスを訪ねてきたときに,ソクラテスがプロタゴラスと対話した前日を回想するというものですが,実質的には,(プロタゴラスを訪れる過程も含めて) その前日のプロタゴラスとの対話がメインです…まあ題名からしても当然ですが。
その前日の深夜に,「プロタゴラスが (アテナイに) 来た」とヒッポクラテスがわざわざソクラテスを訪ねてくるくらいなので,プロタゴラスがいかに有名だったかが分かります。

本対話篇は,さすがプロタゴラスと思わせるような論説もあります。一方で,対話の劇場型の展開も面白いところで,途中,アルキビアデス,ヒッピアス,プロディコス,カリアスなども出てきます (対話の舞台はカリアス邸です)。

ちなみに副題は「ソフィストたち」で,ソフィストの中のソフィストであるプロタゴラスに,上で述べたようなソフィストも出てくるのでそのままの副題です。プラトンのソフィストについての対話篇は,名前どおり『ソピステス』や,やはり著名なソフィストである『ゴルギアス』などもあります。また,プロタゴラスについては,私がメモを残していない時期でしたが『テアイテトス』にも詳しく出てきていました…確かソクラテスがプロタゴラスに憑依されて話をするというような変わった現れ方でした。

なお,本対話篇のメモは長いため,2つに分ける予定です。この (1) は前半の,「徳は教えられるか」というテーマ,(2) は後半の,「楽しいものは何でも善いものなのか」というテーマが中心になると思います。

ソクラテスの友人「どこからやってきた?ソクラテス。言わずとしれたこと,アルキビアデスの青春を追いまわしてきたところなのだろうね。じっさい,ついこのあいだもぼくはこの目でみたが,あいかわらず美しい男だと思ったよ。だが,もう男だね,ソクラテス―われわれのあいだだけの話だが。もうすっかり鬚も生えはじめているし。」
ソクラテス「それがいったい,どうしたというのだ。君は,「鬚生えそめし若さこそ,げに優美さのきわみなれ」と言ったホメロスの賛美者ではなかったのか?アルキビアデスは,いままさにそういう若盛りにあるのだ。」(309A)

この怪しい会話で本篇が始まり,時系列的には現在になります。冒頭にも書きましたが,ソクラテスがプロタゴラスを訪ねたのは前日のことで,この後,この友人に当時の様子を話すという設定です。

「それならひとつ,言ってみてくれたまえ。君の考えではソフィストとは何ものなのかね」(ソクラテス)
「私の承知しているところでは,ソフィストとは,まさに読んで字のごとく,賢い事柄を知っている人にほかなりません」(ヒッポクラテス)
「…そこでもし誰かが,『では,ソフィストは,何に関して賢い事柄を知っているのか』とたずねたとしたら,われわれはその人に何と答えたものだろうか。ソフィストは,何をつくることを知っている者なのだろうか」
「われわれの答としては,ソクラテス,ソフィストとは,ひとを言論に秀でた者にする知識をもっている者である,というよりほかはないでしょう」
「おそらくそれで,間違ってはいないだろうが,しかし充分な答とはいえないようだ。なぜならわれわれにとって,その答はさらにあらたな問を要求するからだ―ソフィストがひとを言論に秀でた者にするというのは,いったい何についての言論なのか,とね。…」
「むろんそれは,自分がひとに知識をさずけるまさにその事柄についてでしょう」
「ちがいないだろうね。では,その事柄とはいったい何なのだろうか。ソフィストが自分でも知識をもち,弟子にも知識をさずけるのは,何についてなのだろうか」(312C)

ヒッポクラテスが,プロタゴラスに弟子入りしたいと言うので,ソクラテスは,よく考えるように言います。何度か尋ねて「ひとに知識をさずけるまさにその事柄 (についての言論)」を教えられるのがソフィストである,ということになりますが,捻り出した感はありますがなるほどと思います。

「そもそもソフィストとは,ヒッポクラテス,魂の糧食となるものを,商品として卸売りしたり,小売りしたりする者なのではないだろうか」(313C のソクラテス)
「ソフィストが,ちょうど身体の糧食をあきなう卸商人や小売商人と同じように,自分の売りものをほめたてて,われわれをだますことのないように,気をつけたほうがいいよ。というのは,彼ら食物の商人たちも,自分たちが持ってくる商品について,そのどれが身体によいか悪いか自分自身でも知らないのに,売るにあたって何もかもほめたてるし,彼らから買うほうは買うほうでまた,体育家や医者でもないかぎり,そのよしあしがわからない。それと同じように,いろいろの知識を国から国へと持ち歩いて売りものにしながら,そのときそのときに求めに応じて小売りする人々,そういう人々もまた,売りものとなれば何もかもほめたてるけれども,しかし中にはおそらく,君,自分が売ろうとするものについて,そのどれが魂に有益であり,有害であるかを,知りもしないような連中がいるかもしれない。」(313C のソクラテス)

魂に有益「である」ことではなく,有益「であると思われる」ことを教えるのがソフィストである…これは他の対話篇でも言っていたような気がします。ここの卸商人や小売商人の例は非常に分かりやすいです。プラトンは,イデア論などもあるように,「~であるまさにそのもの」とは何か,というのを常にソクラテスに追求させますが,ソフィストはそういうのは実はどうでもよく,人々がどう思うか,という思惑に対しての知識・言動をするものである,というのがソクラテスとソフィストの違いである…プラトンが描いているのはそういうことなのかな,と思います。ある意味市場主義的なのがソフィストといえるかもしれません。
そして,ある意味答は出ているのかもしれません。プロタゴラスなどのソフィストは豪勢な生活を送り,ソクラテスは清貧な生活を送ったわけです (と確たる根拠もなく書いてますが)。

話は変わりますが,私が好きな将棋では,「勝負師タイプ」と「求道者タイプ」がいます。前者は実戦的な,勝つための手・手段を考え,例えば相手の間違いを期待する手を指したり,相手の持ち時間が少なくなったら時間攻めをしたりします。後者は将棋の真理を常に追究し,常に最善手を求めますが,しかし将棋が完全に解明されない限り,最善手と思われるものが勝ちに結びつくかどうかは分からないので,結局実戦的には悪い手を指すこともあります。新しくない例でいえば,前者は大山康晴十五世名人,後者は加藤一二三九段などが当てはまりそうです…勿論以上は例であり,またそこまで分かりやすい人はそうはおらず気持ちがどちらにより近いかという程度だと思います。また,どちらが好ましいということではなく,ましてやプロであれば勝とうとすることは当たり前です。しかし,将棋の真理を追究する人がいればこそ,将棋界全体のレベルというものも上がるし,また将棋自体をただの勝ち負けのゲームにしてしまうことから守っている面もあると思います。
他にも,相撲は興行なのか伝統行事なのか,というのも多少似ているかもしれません。同じようなことは世の中にいくらでもあり,要は役に立つか,立たないか (立たないけれどもそれであるためには必要ではないか),という観点で二分できてしまうものは多いと思いますが,そういう場合は役に立たない方に本質があるかもしれません。閑話休題。

「そして他方,人々の行なおうとする論議が,そのすべてが正義と節制を通じて行なわれなければならないような,国民としての徳性にかかわる場合には,彼らは誰の意見でも聞き入れるのであるが,これも当然のことである。ほかでもない,人々は,この徳性に関するかぎり,もともとあらゆる人間がそれを分けもっているべきであり,さもなければ国家は成り立たないと考えているのだから。」(323A のプロタゴラス)

前の引用まではカリアス邸に行く前のソクラテスとヒッポクラテスの会話ですが,ここからがカリアス邸に着いたあとのソクラテスとプロタゴラスの対話です。
ここでは,他方で建設とかそういう専門的な分野については専門家のみが意見を言うことができる,と言われており,逆に徳性というものは専門技術ではなく誰でも持っている (いないといけない) ということです。

「すなわち,お互いがもっている欠点が,生まれつきや偶然によるものであると人々が考えるような場合には,何びともそのような欠点の持ち主に対して,これを是正しようという意図のもとに,怒ったり,叱ったり,教えたり,懲らしめたりするようなことはしない。ただ気の毒だと思うだけである。たとえば,醜い顔だちの者や,矮小な者や,虚弱な者たちに向かって,何かいま言ったような態度に出ようとするほど愚かな人間が,どこにいるだろうか。…だがこれに対して,心がけや,躾や,教えの結果として人間にそなわると考えられるような美点に関しては,もし誰かがそういった美点をもたずに,その反対の欠点をもっているならば,この場合にこそおそらく,怒りや,懲らしめや,訓戒が向けられるであろう。不正も,不敬虔も,また一言にしていえば,すべて国家社会の一員としてもつべき徳性に反するところのものは,この種の悪のひとつなのである。この場合にあっては,まさしくすべての人がすべての人に対して怒ったり叱ったりするのであるが,このことは明らかに,そのような徳性が心がけと学習によって獲得できるという,人々の教えを示すものといわねばならぬ。」(323C のプロタゴラス)

この部分を読んで,僕は昨今問題になっている体罰の問題を思い浮かべました。徳性を授けようという度合い (または,相手の徳性に反する度合い) が大きい場合,一般論として言葉で全てを伝えられるのか,伝えられずにその結果取り返しのつかない事態が起こったときに責任を取れる のか,という一種の不安が指導者にあることもあるとは思います。尤も,ここで先に言われている「生まれつきや偶然によるものである」原因で体罰を起こしたりするから論外扱いされるのだろうと思います。
まあなんしても,次にもあるように罰というものが徳性を授けるため,未来のため,というのがここで重要な考え方なのだろうと思います。

「道理をわきまえて懲らしめようとする者なら,過去になされた不正のゆえに報復するようなことはしない。一度なされたことは,取り返しがつかないだろうから。むしろその目的は未来にあり,懲らしめを受ける当人自身も,その懲罰を目にするほかの者も,二度とふたたび不正をくりかえさないようにするためなのである。そしてそう考えている以上,彼は徳というものを,教育可能のものと考えていることになる。とにかく,悪いことをやめさせようと思えばこそ,懲らしめをあたえるのであるから。」(324B のプロタゴラス)

プロタゴラスは,罰というのは「二度とふたたび不正をくりかえさないようにするため」,つまりその人に徳性を授けるものである,という観点から,それならそもそも徳とは教育可能であると言います。同じように,国家が罪人に刑罰を課すのは更生のためであれば,法律というものも徳を教育可能であることを前提にしている,ということが言われます。これはなるほどと思います。が,実際の法律は更生のため以外に,「目には目を」のように報復のための刑罰というのも被害者感情や抑止力のために必要な面もあるだろうとも思います。また,このプロタゴラスの説は死刑には整合がとれないと思いますが,日本においては「仇討ち」のような私刑を法が代行するという武士の時代の名残の意味合いも死刑にはあるのでしょうか。

「さて,ここにまだひとつの問題がのこっている。それは君が,すぐれた人物たちについて解釈に苦しんでいるところの難問であって,いったいぜんたいなぜすぐれた人物たちは,…自分自身がすぐれた人物であるゆえんの,その肝心の徳性に関しては,息子たちをほかの者とくらべて何らすぐれた人間にしなかったのであろうか,という問題である。」(324D のプロタゴラス)

優れた人の子が,必ずしも優れてはいない,ということは当時からあったのですね。企業や政治家における世襲批判というのは今にもあるので,非常に興味深い話題です。但し,プラトンの当時は当然,進化論や遺伝の法則などの生物学的な知見は知られていなかったということを前提にする必要はあると思います。

「そのような事柄について,そもそも彼らは,息子たちに教育をあたえもしなければ,万全の配慮もはらおうとしないのであろうか?―いな,ソクラテス,彼らは当然それをしていると考えねばならぬ。」(325C のプロタゴラス)
「さて,子供たちが先生たちの手をはなれると,彼らが自分の好き勝手なふるまいをしないように,今度は国家が,法律を学びその規範に従って生きることを要求する。それはちょうど文字を教える先生たちが,まだ字を上手く書けない子供たちのためにしてやることとまったく同じであって,…国家もそれと同じように,むかしのすぐれた立法者たちがつくり出した法律を,規範として下書きしてやり,支配するにも支配をうけるにも,これにのっとるように命じるのである。そして,この規範から道をふみはずす者があれば,懲らしめを与えるのである。」(326D のプロタゴラス)
「それなら,すぐれた人物を父親にもつ息子たちが,しばしばつまらぬ人間になる場合が多いのはなぜだろうか。」(326E のプロタゴラス)
「さて,笛を吹くことにおいてもちょうどこれと同じように,われわれがお互いに教え合うことに心の底から熱心になり,これを惜しまないとしたならば,どうだね,ソクラテス,その場合,すぐれた笛吹きの息子はへたな笛吹きの息子よりも,いくらかでもいっそうすぐれた笛吹きになることが多いと君は思うかね?私はそうは思わない。むしろ,誰の息子であろうと,笛を吹くための素質に最も恵まれているならば,そういう子供こそが長じてから名をあげ,素質がなければ名もない者になるというのが実際であろう。…しかしとにかく,笛吹きであるという点にかけては,彼らはすべて,笛を吹くことについて全然何も知らない素人とくらべれば,有能な笛吹きであることにまちがいないのだ。」(327B のプロタゴラス)

ここのプロタゴラスの説には非常に感心しました。「教育」と「資質 (または才能)」ということでしょうか。ある下限は,教育によって授けることができるが,できるのはそれだけで,それ以上は「資質」によると。まあ当たり前といえば当たり前ですが,2500年前からそういう説があったのが新鮮です。なので教育に必要な知識というものが秘匿されていて,例えば息子にだけ教育するなどすれば,世襲も立派に成り立ちそうな気はします。ただ政治とか経営とか,ましてや徳は違うでしょうね。

「いまわれわれが当面している問題についても,これと同じように君は考えなければならない。すなわち,法律の支配する人間社会の中で育てられた者のうちで,最も不正な者だと君に見えるような人間であっても,もしその人を,教育も法廷も法律もなく,徳をつねに心がけるようにしむけるいかなる強制もあたえられていない一種の野蛮人たちとくらべて,判定しなければならないとすれば,なお正義の人であり,この事柄の専門家であるといわねばならぬ。」(327C のプロタゴラス)

これは「教育や法治を諦めてはいけない」というふうに私は受け取りました。消極的ではありますが,前向きであると思います。下限を担保できるのが教育や法治であり,「どうせ教えても資質があるとは限らないから無駄だ」「どうせ更生などしない」といって最初から何もしないのでは,落ちるところまで落ちると。

ということで,その1ではプロタゴラスの「徳は教えられるか」というテーマの周辺を見てきました。個人的には納得してしまうことが多かったです。なお,以上で見てきたようなプロタゴラスの論説に対して,ソクラテスはこれといった反駁を行なっていません (と思います)。全然述べませんでしたが,「徳の構成要素のそれぞれは相異なる他のものと同じように部分か」というようなことをテーマにします。もし以上で述べてきたようなプロタゴラスに反駁するとしたら,どんなことを言っていたか…これはかなり大きな問題だと思いますが,面白い問題でもあると思うのでいずれ考えてみたいです。

冒頭に述べたように,次回は同じ『プロタゴラス』のその(2)の予定です。

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