プラトン『テアゲス』メモ

プラトン『テアゲス』((プラトン全集 (岩波) 第7巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,デモドコスがソクラテスに,息子 (テアゲス) の教育について相談するという設定です。テアゲスはソフィストの元に弟子入りしたいと父に言うが,本当にそれでいいだろうかとソクラテスに相談し,ソクラテスは本人に直接話を聞きます。
テアゲスは,知者になりたいと言いますが,それは一体どんな人間なのか,といったことが追及されます。で,ソクラテスはテアゲスに,政治家に弟子入りしたらよかろうと言いますが,テアゲスは「政治家の息子が優れた政治家になれるとは限らないくらいだから,政治家に弟子入りしても高が知れている」といった鋭い返答をします(この辺は『プロタゴラス』とも通じますね)。
そして結局,ではソクラテスに弟子入りすればいいのではとデモドコスとテアゲスが言います。それに対しソクラテスは,「ダイモーンの合図」に従うとか,自分は弟子に何か具体的に教えたりすることはないとか言いますが,ここはソクラテス流の弟子育成術の紹介になっています。
なお副題は,「知恵について」。

以下は読書時のメモです。

デモドコス「わけても現在この子にとりついている願望が,わたしには頭痛の種でねえ。それはけっして卑しい性質のものではないのだが,危険なものだからだ。なにしろこの子は,ソクラテス,彼の言うところによれば,<知者>になりたいというのだからねえ。」(121C)

冒頭部です。ここから,まずデモドコスがソクラテスに相談します。しかし結局,本人 (テアゲス) に聞いてみようということになります。

ソクラテス「それでは君は,それ自体は知っているが,それの名前は知らないのかね,それとも名前も知っているのかね?」
テアゲス「むろん名前も知っています。」
ソクラテス「では何かね?言いたまえ。」
テアゲス「<知恵>としか言いようがないでしょう,ソクラテス。それ以外の何か別の名でそれを呼ぶことができるでしょうか?」(123D)

「知恵とは何なのか」というソクラテスとの問答を通じて,結局「知恵としか言いようがない」という答になりました。この後,どんなものが知恵なのか,ということが,ソクラテスがいくつか例を示しながら,「あらゆる人間を支配するのに必要な技術」というような答に導かれますが…。

ソクラテス「そうすると,その国のうちにいるすべての人間を支配しようとのぞむ者はみな,この人たちが行なったのと同じ支配,つまり独裁支配をのぞみ,独裁君主たらんことをのぞんでいるのでないかね?」
テアゲス「そのようです。」
ソクラテス「それでは君がのぞむと言っているのもこういう支配なのではないかね?」
テアゲス「私が答えてきたことからすると,どうやらそうらしいです。」(124E)

ということで,テアゲスは,知者になるということは,独裁君主になること,というようなことに同意させられます。
当然ですがソクラテスが知恵をそういうものだと考えているはずはありません。しかしそういう風に誘導したのはソクラテスです。結局のところ,知者になるためにソフィストに弟子入りしようとしているということがそもそもソクラテスにとって笑止千万であり,反例を示すことによってそれを否定するというやり方なのかなと思いました。

テアゲス「たしかに考えてみると,私は独裁君主になることをこいねがっているのかもしれません,できることなら万人の,それがだめならできるだけ多くの人たちの上に君臨する独裁君主に。そしてこれは思うにあなたにしたところで,また他の人々だって誰でもみな,ねがうことでしょう,―おそらくはさらに神になりたいとさえね。しかし,私がのぞんでいると言っていたのは,そのことではありませんでした。」
ソクラテス「それならいったいぜんたい君がのぞんでいるのは何なのかね?国民を支配したいと君は言っているのではないのかね?」
テアゲス「でもけっして力ずくでではありませんし,また独裁君主たちのようなやり方でもありません。そうではなくて,相手の合意を得て支配することです,―この国のなかの有数の人々がそうしたようなやり方で。」(125E)

テアゲスについて,なかなか素直な若者なのだなという印象を持つ部分です。人々はだれでもみな,独裁君主や,神にさえなりたいと思っているだろうというのはある部分では真実を言い当てているのかもしれません。ただ,改めて考えると,それが知者なのか,と思わずにはいられません。少なくともソクラテスは支配者になりたいとは思わなかったはずです。この後,結局ここで言われていた「知者とは」という追求はうやむやのうちに終わってしまいますが,知者を追及するに値しない方向に話が進んでいたからだという感じも個人的にはします。

デモドコス「もしこの子があなたにつくのを喜び,またあなたもこの子を弟子にする気になってくれるとしたら,わたしとしてはそれ以上の仕合せはあるまいと思うだろうからね。」(127B)

ということで,今度はソクラテスの弟子になればいいのだという方向に進みます。ただ,ソクラテスは素直にそれを受け容れようとはしません。

ソクラテス「ぼくには,子供の時からはじまって,神の定めによっていつもぼくにつき従っている,何かダイモーンからの合図といったものが,あるのだよ。それはひとつの声であって,それが現われる時はいつも,ぼくが何かをしようとしていると,それをしないようにとぼくに合図をするのであって,何かをなせと勧めることはどんな場合にもないのだ。また友人の誰かがぼくに助言を求めていて,この声が現われるような場合もこれと同じことで,それはさし止めるのであって,何かを行なうことを許さないのだ。」(128D)

この部分の「ダイモーンの合図」というのは,『ソクラテスの弁明』などにも出てくる結構有名な話です。ふと,ダイモーンの声が「~するな」とソクラテスに語りかけ,ソクラテスはそれに従うと。また他人に対してもその合図があることがあり,ソクラテスがそれを忠言しても,相手がそれを取り合わなかった場合にはいつも悪いことが起きると。というわけで,その合図があるかどうかで,テアゲスが弟子としてふさわしいかどうかも何ともいえないと言います。ただ,最後には,「じゃあひとまず合図が出るかどうか実際に一緒にいさせて確認させてくれ」ということになるのですが。

「ソクラテス,それはまことに信じがたいことですが,しかしほんとうのことです。じっさい私は,あなた自身もご承知のとおり,ついぞこれまで何ひとつとしてあなたから教えていただいたということはありませんでした。にもかかわらずあなたといっしょにいるといつも,私は進歩を遂げたのです,―同じ部屋でなくても,ただ同じ屋根の下にいるというだけです。」(130D,ソクラテスの回想のアリステイデス)

これは過去にソクラテスに付いていたアリステイデスについての回想の一節ですが,ソクラテスと一緒にいた頃は特に何も教えてもらわないのに進歩したといいます。しかし,離れてしまうと徐々にその進歩が失われてしまったといいます。ちょっと聖人化しすぎな感じもありますが実際そういう人だったということなのでしょう。確かに一緒にいるだけで心が澄んでいくというような人はいます。

すなわち,「ソクラテスの教育」は,教師が弟子に学問知識を教えるというような,一方から他方への知識の伝達という形でなされるのではない。神的な意志,「ダイモーンの合図」によって,教師と弟子の関係は決定され,神意によってそのような関係が許されるならば,その親密な交際,特に直接的な接触という仕方で,師の影響力を受け,弟子は進歩向上する,しかしこの点もすべて神的な意志の決定にかかっている,というようなものである。(解説)

解説にある「ソクラテスの教育」の記述です。結局のところは「ダイモーンの合図」に従うという話です。ただ,それに水を差すようですが,そういう合図というものが本当に実際に聞こえてきたとは考えにくいわけで,ではそれは一体何なのだ,という疑問が現代の科学の時代に生きる私としては起こります (ちなみにプラトンの著書に出てくるソクラテスの言葉の大半はプラトンの作り話ですが,『ソクラテスの弁明』等は事実に忠実だとされており,よって「ダイモーンの合図」というのもソクラテスが言ったのだと思われています…クセノポンの著書にもあるそうですし)。それは,霊感とか直感とでもいうべきものなんでしょうか。

ということで,本篇はテアゲスの言う「知者」とは何かという追求から始まりますが,「ダイモーンの合図」「ソクラテスの教育」というのが隠れたテーマだと思います。
次回は『カルミデス』の予定。

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