プラトン『ラケス』メモ

プラトン『ラケス』((プラトン全集 (岩波) 第7巻) を読んだときのメモ。

この対話篇は,戦士が重武装して戦う訓練をしているところを見物しているという場面で,リュシマコスとメレシアスが,自分たちの息子がこの戦うすべを学ぶべきかどうかを著名な将軍であるニキアスとラケス,そしてソクラテスに相談する,というのが大まかな設定です。
対話の内容は,この対話篇の副題が「勇気について」であることからも分かるように,勇気とは何であるのかということに帰着します。ニキアスとラケスで主張が異なり,しかもこの2人は仲が悪く,お互いを非難するようなことを言い,ソクラテスがなだめるようなところもあるのですが,そういうところもこの対話篇の見所なのかなと思います。勇気とは何であるか,ということの結論は,他の対話篇でもそうであるように,結局出ません。

以下は読書時のメモです。

リュシマコス「…われわれはどちらも,自分の父親についてであれば,彼らのしたりっぱな仕事を,それが戦時のことであれ平時のことであれ,同盟国の仕事であれ,この国の仕事であれ,たくさんこの若者たちに語ることができるのですが,われわれ自身のしたことというと,二人 (メモ註:リュシマコスとメレシアスの息子たち) とも何も語ることがないのです。そこでそのことで,いささかこの人たちに恥ずかしくもあり,また自分たちの父親にたいしては,われわれが青年になってからは,われわれの気ままにさせておいて,他人のことばかりに精だしていたと,とがめたりもするのです。それで,この事実をこの若者たちに示して,もし私たちの言うことをきかず自分自身に対する心がけを怠るようなことがあれば,名もない人間になるだろうが,その心がけを忘れなければ,きっと,おまえたちのもらっている名に恥ずかしくない人間になるだろう,と言っているのです。」(179C)

最初に書いたように,リュシマコスとメレシアスが自分たちの息子をどうすべきか,と相談するのが対話のきっかけになっているのですが,この2人は,自分たちが自分たちの父親ほど出世というか成功しなかったことを恥じていて,息子たちにはそうなってほしくない,という思いがあるようです。対話篇が書かれてから 2,500 年ほど経つわけですが,人の心とは変わらないものだな,などと思いました。

ニキアス「…ところで,それにすくなからぬ追加をつけますと,それを心得ることによって誰でも,それまでの自分よりずっと,戦いにおいて大胆に勇敢になるでしょう。またこのようなことは,いささか些細なことだと思う人があるかもしれませんが,ばかにせずに言っておかねばならないのは,その人はまた,それまでよりもみごとな態度を,見せるべき場所で見せることになるでしょうし,そこではまた,そのみごとな態度のゆえに敵方の目に,ずっと恐るべきものとして映るでしょう。」(182C)

ニキアスは (戦いの技術を学ばせることに) 賛成派。戦いの技術を身につけることで,態度も優れたものになると。

ラケス「それは…いずれにせよ学んでみる値うちのないものです。じっさいまたこうも思われますから。つまり,もし臆病な人が,自分はそれを知っていると信じるならば,そのことのために,いままでより向こうみずになり,その結果,じつは彼がどのような人間であったかということが,いままでよりはっきり人目にたつことになるでしょうし,またもし勇気のある人であれば,いつも人から監視されていて,すこしでもしくじればひどく悪口を言われることになるでしょう。」(184B)

ラケスは反対派。

ソクラテス「何ですって,リュシマコス?どちらか,われわれの中の多数がすすめるほうの意見を,あなたは用いようとしておいでになるのですか。」(184D)
ソクラテス「正しく判断されるためには,知識によって判断されるべきであって,数によるべきではないでしょうからね。」
メレシアス「そうですとも。」
ソクラテス「それでは,いまのばあいも,私たちの中に誰か,いまわれわれの協議している問題について,技術をもっている人がいるかいないかというそのことを,まずしらべてみねばなりません。そして,もしいるとすれば,他の人はほうっておいて,たとえ一人であってもその人の言うことに従うことにし,もし誰もいなければ,そのときは誰か他に人を探さねばなりません。」(184E)

ニキアスとラケスで意見が分かれたので,ソクラテスの残りの1票で決めてもらおうというようなことをリュシマコスは言うのですが,ソクラテスは数ではなく,確かに技術を持っている人の知識によって判断されるべきであると言います。つまりここでは民主主義的な多数決を否定します。もっとも,後の対話では,ここにはそういう人は「誰もいない」ということになるのですが。逆説的ですが,どこを探しても誰もそういう知識を持っている人がいない状態で何かを決めるとしたら,多数決になる,ということでもあるように思います。

ニキアス「といってソクラテス,重武装して戦うことが,いまのわれわれの問題であって,それを若者たちが学ぶべきか学ぶべきでないかを,しらべているのではありませんか。」
ソクラテス「たしかにそうですよ,ニキアス。しかし,人が何か目につける薬について,それをつけるべきかどうか考えるばあい,そのときそのような考慮がなされているのは,その薬についてであるとお思いですか,それとも目についてであるとお思いですか。」
ニキアス「目についてだと思います。」(185C)
ソクラテス「そうしますと,相談にのってくれる人をしらべるにあたっても,それのためをわれわれが考えてやっている,この当のものを世話する術に,はたしてその人がたけているかどうか,をしらべるべきです。」(185D)

ここは何気ない部分ですが,個人的にハッとしたところです。読書でも何でもそうですが,その内容を見て何を得られるのかというよりは,それを読む自分自身を考えるべきである,ということなのかなと。

ニキアス「誰でもあまりソクラテスに近づいて話をしていますと,はじめは何か他のことから話し出したとしましても,彼の言葉にずっとひっぱりまわされて,しまいにはかならず話がその人自身のこととなり,現在どのような生きかたをしているか,またいままでどのように生きてきたか,を言わせられるはめになるのです。さていったんそうなると,その人の言ったことを何もかもきちんと吟味してしまうまで,ソクラテスは離してくれないでしょう。」(187E)

ソクラテスの対話の特徴 (産婆術などともよく言われます) がよく出ています。ニキアスも別に嫌がっているわけではなく,「常に自分自身が成長できる」というようなことをこの後に言っています。

ラケス「つまり,もし誰かが戦列にふみとどまって敵を防ぎ,逃げようとしないとすると,よろしいか,その人は勇気のある人である,ということになるでしょう。」(190E)
ソクラテス「私のあなたにお訊きしたいと思ったのは,重甲戦において勇敢な人たちだけでなく,騎馬戦その他あらゆる種類の戦いにおいて勇敢な人々,また,戦いだけでなく,海難において勇敢である人々,さらには,病に対して,貧乏に対して,あるいは政治上の事件に対して,勇敢なすべての人々,さらにはまた,苦痛や恐怖に対して勇敢な人々だけではなく,欲望や快楽にたいしてりっぱに戦うことのできる人々―ふみとどまるにせよ,あとで向きなおるにせよ―それらの人々も含めてのことなのです。このようなことにも,勇敢な人々が,いるでしょうからね,ラケス。」(191D)

「勇気」という言葉も日常であまり使わないような気がしますが,現代でも全く同じような問答があっても全然不思議ではありませんね。確かに一義的には,敵に向かっていく気概のような印象はありますが,しかしソクラテスの言うような意味のほうが本当の勇気ということも思います…あえて現代風に言えば「リスクを冒す」という感じでしょうか。

(ここで,引用メモは略したが,ラケスは「思慮ある忍耐心が勇気である」,ニキアスは「恐ろしいものと恐ろしくないものとの知識が勇気である」と主張し,この2人は仲が悪いのかちょっと口論っぽくなったりしている。)

ソクラテス「さてわれわれのほうは,ニキアス,お聞きのように,「未来の悪が<恐ろしいもの>であり,未来の悪くないもの,あるいは善きものが,<恐ろしくないもの>である」と主張するのですが,あなたのほうは,これらについて,そのようにおっしゃいますか,それとも違ったふうにおっしゃいますか。」(198C)

ラケスとニキアスの主張では,個人的にはニキアスのほうが実感しやすいという意味で同意できます。しかしソクラテスは,それは未来だけではなく過去も現在もそうであり,しかも恐ろしいかどうかではなく善と悪についての知識ではないかとただします。そしてそれは,勇気ではなく徳の全体であり,最初に合意した,<勇気>は徳の諸部分の一つ,というのに反するので,結局<勇気>がなんであるかは見つけ得なかったということになります。

ソクラテス「われわれは,みんないっしょになって,なによりまずわれわれ自身のために―われわれは必要としているのですからね―,つぎにはまた,この若者たちのために,金銭も他の何ものも惜しまずに,できるだけすぐれた先生を探さねばならない,と私は申します。他方,われわれ自身を,現在の状態のままにしておかないように,おすすめします。」(201A)

これは最後の場面です。勇気が何であるかが結局明らかにならなかったから,というのも勿論ありますが,対話篇を通じてのラケスとニキアスのお互いを非難する姿勢を見て,
(^^).。oO (こんなことでは子供や若者の教育について論じる以前の問題だ)
と内心思っていたのではないでしょうか。

以上。『ラケス』はいわゆる初期対話篇に属する作とのことで,「~とは何か」という対話の過程が分かり,また登場人物もそれなりにいてマンネリ化せず,長さもほどほどなので,読みやすい対話篇だと思いました。
次回は『リュシス』の予定。

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