プラトン『ゴルギアス』((プラトン全集 (岩波) 第9巻) を読んだときのメモ。
本対話篇は,まずソクラテスとカイレポンが,カリクレスと話していて,ソクラテスがゴルギアスと話すためにカリクレスの家に招かれるという場面で始まります。そしてカリクレス邸で,ソクラテスがゴルギアス,ポロス,カリクレスの3人と対話していきます。
テーマは大きく分けると,(1) 弁論術とは何か (対ゴルギアス),(2) 不正を受けることと不正を行なうことはどちらがより害悪か (対ポロス),(3) 人生いかに生くべきか (対カリクレス),というような感じに分かれています。
内容についてはここでは措くとして,それぞれの人物について簡単に書くと,ゴルギアスは非常に有名な弁論家で既に老齢,ポロスは長い演説調の話が好きでソクラテスによく注意される若者,カリクレスは欲望に忠実な気鋭の政治家,という感じでしょうか。特にカリクレスの口調の激しさは,『国家』のトラシュマコスと並んでプラトン対話篇の中で (自分が文庫やこれまでの全集で読んだ範囲でですが) は際立って好戦的・挑発的で非常に印象的です。これに対しソクラテスがどう反駁していくか,というのが読み物としては非常に面白いところです。
また,(3) ではプラトンはソクラテスの生き方についてのかなり本質的なことを書いていて,それで本対話篇はプラトンの代表作として数えられることも多いと思います。実のところ,僕がプラトンに興味を持ったのは,ある無料の講座で (確か2011年) 『ゴルギアス』の一部分の紹介があり (確か「ソフィストというのは議論はするが真実は何も語らない」というようなことだったと思う),それで面白そうだと思ったのがきっかけです。
なお今回はメモが多くなったので2部に分けます。1部すなわち当記事は,前述の (1),(2) つまり対ゴルギアス,対ポロスの対話に関して,2部は (3) すなわち対カリクレスの対話に関してのメモを書いていきます。
また副題は「弁論術について」です。
ソクラテス「ごもっともです。さあ,それでは,弁論術についても,どうか,その調子で答えてください。それは,およそ存在するもののうちの,何についての知識ですか。」
ゴルギアス「言論についてだよ。」(449D)ソクラテス「では,その技術は,何を対象にしているのか,言ってください。弁論術の用いる言論が取り扱っている対象とは,およそ存在するもののうちの,いったい,何なのですか。」
ゴルギアス「それはね,ソクラテス,人間にかかわりのある事柄のなかでも,一番重要で,一番善いものなのだよ。」(451D)
ソクラテスはゴルギアスに,まさに「弁論術とは何か」を肉薄しますが,やはり最初はなかなかかみ合いません。しかし,「言論について」と言われれば,「しかし医術とか計算術とか天文学も言論を用いるが,これらは弁論術ではない。では弁論術とは何の言論に関する技術か (なお後ではソクラテスは「弁論術は技術ではない」と述べる)」という感じでだんだん追い込んでいきます。
ソクラテス「それで,いったい,そのものとは何だと言われるのですか。」
ゴルギアス「わたしの言おうとしているのは,言論によって人びとを説得する能力があるということなのだ。つまり,法廷では裁判官たちを,政務審議会ではその議員たちを,民会ではそこに出席する人たちを,またその他,およそ市民の集会であるかぎりの,どんな集会においてでも,人びとを説得する能力があるということなのだ。しかも,君がその能力をそなえているなら,医者も君の奴隷となるだろうし,体育教師も君の奴隷となるだろう。それからまた,あの実業家とやらにしても,じつは,他人のために金儲けをしていることが明らかになるだろう。つまり,自分のためにではなく,弁論の能力があり,大衆を説得することのできる,君のために金儲けをしているのだということがね。」(452D)
ここで「弁論術とは,人びとを説得するためのものである」というところまで来ました。特に大衆を相手にするということが重視されているように思えます。また弁論術さえ知っていれば,自分がそれ以外の専門知識を持っていなくても,自分の為に他の人を利用できるということも言われます。ここはとても実感しやすい部分です。また他の対話篇でも出てきたソフィストの説明にもちょっと似ています。
ゴルギアス「というのはつまり,むろん君は百も承知だろうけれども,あの船渠も,アテナイの城壁も,そして港湾の施設も,テミストクレスの提案にもとづいて生まれたものであるし,またその一部は,ペリクレスの勧告によってできたものであって,決して職人たちの意見によって生まれたものではないのだよ。」
ソクラテス「たしかに,テミストクレスについては,そんなふうに伝え聞いております,ゴルギアス。また,ペリクレスのほうについては,彼が「中の城壁」のことでわれわれに勧告していたときに,わたし自身も直接,彼から話を聞いたのです。」
ゴルギアス「それだけではなく,君がさきほど話していた人たちの,選考が行なわれるような場合にも,ソクラテス,君が現に目にしているとおり,それらのことについて提案し,そして自分の意見を通す人たちは,弁論家なのだよ。」
ソクラテス「それを不思議に思っていますからこそ,ゴルギアス,さきほどからわたしは,弁論術の力とはいったいどういうものなのかと,訊ねているわけなのです。実際,そのように見てくると,その力の大きさは,何か人間業を超えたもののようにわたしには見えるのですから。」(455D)
「決して職人たちの意見によって生まれたものではない」というのがこの部分のテーマです。つまり腕のよい職人の意見ではなく,弁論家の意見によって決まるのだということがゴルギアスから言われます。その道の専門家で真実をよく知っている職人ではなく,その道の知識がなくても説得を行なう能力のある弁論家に決定権があると。
ゴルギアス「しかしまた他方,ゼウスに誓って言うのだが,もしだれかが相撲場に熱心に通って,身体つきがよくなり,拳闘の心得ができたものだから,そこで,自分の父や母を,あるいはその他,家族や友人たちのうりの誰かを,殴ることがあるとしても,それだからといって,体育教師や武装して戦う術を教えた人たちを憎んだり,国家から追放したりしてはならないのである。というのは,教えた人たちのほうは,敵や不正を加える者どもに対して,それらの術を正しく用いるようにという意図で授けたのであるが,習った人たちのほうがその教えをゆがめて,その力と技術とを正しくない仕方で使っているからだ。だから,決して,教えた人たちが悪いのではないし,また,そのことに関して,その技術が責任を問われることもなければ,その技術が悪いのでもないのだ。そうではなくて,その技術を正しく用いない人たちが悪いのだとわたしは思う。」(456D)
これは現代でも色んなことに当てはまると思います。殺人に使われたから包丁が悪いのかとか,事件の背景として連絡の手段に使われたから LINE が悪いのかとか。2,500年前から言われていたのですね。そして「技術に使われる」という構図もきっと当時からあったのでこういうことが言われてもいたのでしょう。
ソクラテス「ところで,そういうわたしとは,どんな人間であるかといえば,もしわたしの言っていることで何か間違いでもあれば,こころよく反駁を受けるし,他方また,ひとの言っていることに何か本当でない点があれば,よろこんで反駁するような,とはいってもしかし,反駁を受けることが,反駁することに比べて,少しも不愉快にはならないような,そういう人間なのです。…」(458A)
これは対話の内容とは関係ありませんが,ソクラテスの人物を表している箇所ではあると思います。言うのは簡単ですが,現実世界で反駁されても不愉快にならないというのはなかなか難しいことです。
ソクラテス「そうすると,弁論術のほうが医者よりも,説得力があるという場合には,知識のない者のほうが知識のある者よりも,ものごとを知らない人たちの前でなら,もっと説得力がある,ということになるでしょう。」…
ソクラテス「つまり弁論術は,事柄そのものが実際にどうであるかを少しも知る必要はないのであって,ただ,何らかの説得の工夫を見つけ出して,ものごとを知らない人たちには,知っている者よりも,もっと知っているのだと,見えるようにすればよいわけなのです。」(459B)
実際にその事柄を知っている必要はなく,(本当に知っている人よりも) 知っているように見えるようにするのが弁論術である…この辺りは,『プロタゴラス』に出てきた,「魂に有益「である」ことではなく,有益「であると思われる」ことを教えるのがソフィストである」というのを彷彿とさせる部分です。つまりどちらも思惑を相手にしていて,真実を求めてはいないのだというところが共通していると思います。
ソクラテス「それは,技術の名に値するような仕事ではないが,しかし,機を見るのに敏で,押しがつよくて,生まれつき人びととつき合うのが上手な精神の持主が,行なうところの仕事なのです。そして,その仕事の眼目となっているものを,わたしとしては,迎合 (コラケイアー) と呼んでいるのです。この迎合の仕事には,ほかにもいろいろと多くの部門があるように思いますが,たとえば,料理法もその一つなのです。それは一般に技術であると思われていますが,しかしわたしに言わせるなら,技術ではなくて,経験や熟練であるにすぎません。そして弁論術も,この種の仕事の一部門であるとわたしは呼んでいるのですが,さらにまた化粧法も,それからソフィストの術も,そうなのです。つまりそれらは,四つの対象に応じて,四つの部門をつくっているわけです。」(463A)
ここに書かれていることは,理解云々以上にかなり意識の底にこびりついている実感という感じがあります。結局は文系か理系かということにも近いのかもしれません…上にも出てきましたが,人の思惑を相手にするのが文系の学問という見方も有り得るのかなと。また技術を担う,自然を相手にするのが理系であれば,その反対の迎合を担うのは文系であると。僕は何度かプラトンは理系的だと思うと書いてきましたが,そう考えると自明なことということになります。
念のため書くと,プラトン的な善さを求めるには理系的なほうが近いのかなということであって,現実は逆なんじゃないかという思いも拭えません。会社とか組織に属して勤めている以上,その組織の目標を達成するために迎合が必要なことも全く否定しません。しかし,それでも真にどうあるべきかを無視して,思惑を相手に迎合するだけで進歩があるのだろうか,とはよく思います。何れにせよこういう狭量な喩えはプラトンに失礼なので以後やめにします(汗)。
ソクラテス「かくて,これら四つの技術があって,そしていつも最善ということをめざしながら,前者の組は身体の,後者の組は魂の世話をしているのですが,そのことを迎合の術は感知すると―という意味は,はっきり認識してというのではなく,当て推量してということなのですが―自分自身を四つに分けた上で,いま言われた技術のそれぞれの部門の下にこっそりもぐり込み,そのもぐり込んだ先のものであるかのようなふりをしているのです。そして,最善ということにはまるっきり考慮を払わずに,そのときどきの一番快いことを餌にして,無知な人びとを釣り,これをすっかり欺きながら,自分こそ一番値打ちのあるものだと思わせているのです。」(464C)
今までのと共通しますが,迎合というのは善を求めるものではない,というのがプラトンの考えなのでここではかなり批判的に書かれています。そして,それは「当て推量」でその技術を知っているふりをして,無知な人に対して自分が知っていると思わせる,と。
ただ,ここではソクラテスの主張ばかり挙げていますが,例えば政治家とか社長が法律なり事業なりの末端の詳細なところまで知っているはずもなく,どこかで「迎合」が行なわれるのは仕方がないという気もします。
ただ,その上で,知っていることと知らないことを峻別することの重要さということは変わらないはずで,「知らないことを知っているふりをして自分に便宜をはかること」はダメだといっているのだろうとは思います。
ソクラテス「また,そういう料理法のようなものは,技術であるとは認めずに,むしろ経験であると主張しているのだ。なぜなら,それは自分の提供するものが本来どんな性質のものであるかについて,何の理論も持たず,したがって,それぞれの場合において,なぜそうするのかという理由を述べることができないからである。」(465A)
プラトン対話篇で不当な仕打ちを受けているのが料理法です(笑)。だいたい医術との引き合いに出され,本当に身体のためになるものではなく,体が快いと思うことをするという感じの悪い意味で使われます。まあ確かにとも思います。全く関係ありませんが,僕は普段薄っぺらい布団を狭い散らかった床に敷いて寝ていて,全く快適ではなく,ホテルのベッドのようなところで快適に寝たいとたまに思います。しかし寝心地が悪くとも僕は今のところ極めて健康です。それは寝るときに快適かどうかではなく,日頃の節制の問題だろうと思います。
というわけで(?),「技術」か「迎合」か,というのは善か快か,ということと繋がりがあるのではと思ったりします。
現代においても,ある事柄が「技術」に当たるものか,「迎合(経験,熟練)」に当たるものか,を考えるのは面白いと思います。
ソクラテス「―つまり,化粧法の体育術に対する関係は,ソフィストの術の立法術に対する関係に等しく,また,料理法の医術に対する関係は,弁論術の司法 (裁判) の術に対する関係に等しい,ということである。」(465C)
ここで,身体と魂のそれぞれについて,それを善くするための技術と迎合の一覧が分かりやすく傍注に載っていたので掲載します。
今までほぼ省いていますが,魂を善くする技術が政治術であるとプラトンは言っています。
ソクラテス「どうしてって,人に不正を行なうのは,害悪の中でもまさに最大の害悪だからだ。」
ポロス「え?それが最大の害悪なんですか?自分が不正を受けるほうが,もっと大きな害悪ではないですか。」
ソクラテス「いや,とんでもない。」
ポロス「するとあなたは,人に不正を行なうよりも,むしろ,自分が不正を受けるほうを望まれるのですね?」
ソクラテス「ぼくとしては,そのどちらも望まないだろうね。だがもし,人に不正を行なうか,それとも,自分が不正を受けるか,そのどちらかがやむをえないとすれば,不正を行なうよりも,むしろ不正を受けるほうを選びたいね。」(469B)
この「不正を行なうよりも,むしろ不正を受けるほうを選ぶ」というのは本対話篇の中で一番感銘を受けた箇所です。命題自体は中学生でも理解できるような易しいものですが,それでも『ゴルギアス』のこの下りを読んで心を打たれない人は少ないでしょう。
理由云々ではなく,そうソクラテスに言わせたプラトン (または本当にそういったかもしれないソクラテス) の心情を噛み締めたいと思います。
ソクラテス「ところで,裁きを受けるということは,最大の悪,つまり悪徳からの解放だったのではないか。」
ポロス「そうでした。」
ソクラテス「それというのも,裁きは,人びとを節度のある者にし,より正しい者となし,かくして,悪徳の医術となるからであろう。」
ポロス「そうです。」
ソクラテス「そうすると,一番幸福なのは,魂のなかに悪をもたない人間なのだ。というのも,その悪こそ,もろもろの悪のなかでも最大のものであることが明らかにされたのだから。」
ポロス「むろん,そうです。」
ソクラテス「ところで,二番目に幸福なのは,その悪から解放される人だろう。」
ポロス「そうらしいです。」
ソクラテス「で,その人とは,説諭されたり,叱責されたり,裁きを受けたりする人のことだったのだ。」
ポロス「ええ。」
ソクラテス「したがって,その悪をもったままでいて,それから解放されない人は,一番不幸な生活を送る,ということになるのだ。」
ポロス「そうなるようですね。」
ソクラテス「では,その一番不幸な生活を送る人というのは,まさにこういう人のことではないかね。つまり,最大の悪事を犯し,最大の不義不正を行ないながら,うまく立ちまわって,説諭されることも,懲戒されることも,また裁きを受けることもないようにしている者があるとすれば,誰であろうと,まさにそのような人こそ,それなのではないかね。たとえば,君の主張によると,アルケラオスはそれに成功しているのだし,またその他の独裁者たちや,弁論家たちや,権力者たちにしても,そうだということなのだが。」(478D)
ここも印象に残る箇所です。「裁きを受けるよりも,裁きを受けないほうが不幸である」と。
こういう考え方は,物質主義的というか,裁きを受けることによって生じる経済的・時間的な損失を不利益と考えてしまうと全く相容れないことです。しかしこれは裏を返すと,経済的・時間的な利益を得られるのであれば不正を犯してもよいという考え方になりかねない,ということでもあるのかなと思います。
プラトンの言っていることは,個人の善の追求が何よりも利益になるということに基づいていると思うので,それを念頭に置けば特に違和感はなくなります。プラトンを読むときくらいは,物質的な幸福から超然としていたいものです(笑)。
ソクラテス「ところで,今度は反対に,いまとは逆の場合で,かりにひとが誰かに対して,…害を加えなければならないのだとしてみよう。…そんなときには,その敵が裁きを受けないように,また裁判官のところへも行かないように,ひとは言行いずれの面においても,あらゆる手段をつくして,工作しなければならないわけだ。…もし死刑に値する悪事を行なっていたのなら,できることなら決して死刑にならずに,むしろ悪人のままでいつまでも死なないでいるように,…。そういう目的のためになら,ポロスよ,弁論術は役に立つものであると,ぼくには思われるのだ。けれども,およそ不正を行なう意志のない人間にとっては,それの効用は大したものだとは思われないよ,よし,これまでの話の中にはどこにも明らかにされなかったような効用が,何かあるとしてもだよ。」(480E)
前の内容を受けて,ここは逆に,「人に害をあたえるのなら,裁きを受けさせない」というパラドックス的なことが言われます。
さてここで言われているような内容(裁きを受けさせない)は,現代では被告人の弁護士の役割を思わせます。被告を無罪にしようとしたり,可能な限りの減刑を求めたりといったことを弁護士はするのだと思います。しかしここでのソクラテスの論法で言えば,その被告が本当に悪人であれば,その悪さに適った刑罰を与えることがその被告の幸福のためであり,やみくもに減刑を求めることではないということになりますし,「弁護士は被告に正しく刑を受けさせることが責務である」と弁護士が言うのなら,逆に検察側がやみくもに大きな刑を与えようとしているという論理になります。実際検察の問題も最近よく報じられます。そういう無思慮な人ばかりではないとしても,多分その差分が,完璧ではない人間社会の妥協点なのかもしれません。
さてカリクレスとの対話については,メモ(2) に続きます。