プラトン『メノン』メモ

プラトン『メノン』((プラトン全集 (岩波) 第9巻) を読んだときのメモ。

本対話篇の設定は非常に簡素で,最初からメノンとソクラテスの対話で始まり,おりからの問いが以下のメモの引用の最初の言葉で,本題にいきなり入っていきます。途中,メノンの召使という無名人物と,アニュトスという人物が対話に参加します。
なお,アニュトスとの対話場面はメモが残っていないのでここで書いておくと,アニュトスとはここではソフィストを徹底的に嫌った人物として描かれているのですが,他方で『ソクラテスの弁明』に出てくる裁判でソクラテスを告発した3人のうちの1人でもあります。プラトン対話篇ではだいたい,実際の相手との対話を超えて「ソクラテス対ソフィスト」という構図が多いと思うのですが,アニュトスは反ソフィストかつ反ソクラテス,という第三者的な人物に映り結構新鮮です (尤も本対話篇ではソクラテスと対立するわけではなく,一般的な知識人の例という感じ)。
さて本対話篇の大きなテーマとしては,以下のようなものが挙げられると思います。

  • 徳は教えられうるか
  • 想起説 (例として正方形の面積を求める過程)
  • 「知識」と「思わく」の違い

なお副題は「徳について」。以下は読書時のメモです。

メノン「こういう問題に,あなたは答えられますか,ソクラテス。―人間の徳性というものは,はたしてひとに教えることができるものであるか。それとも,それは教えられることはできずに,訓練によって身につけられるものであるか。それともまた,訓練しても学んでも得られるものではなくて,人間に徳がそなわるのは,生まれつきの素質,ないしはほかの何らかの仕方によるものなのか…。」(70A)

この「徳を教えられうるか」というのがこの対話篇の一貫したテーマです。『プロタゴラス』でもまさにこのテーマが論じられたと思います。また直前の『ゴルギアス』でも,弁論術とは何かが一応メインテーマでしたが,背後では,弁論術は徳を授けられるものではない,と言われていたと思います。かようにプラトンの対話篇の中身は結構オーバーラップしていますが,そもそも「徳」というものはソクラテスその人を象徴した言葉で,全ての対話篇に通底しているテーマといえるのかもしれません。

ソクラテス「すくなくとも,君がこの土地のだれかをつかまえて,いまのような問をかけるつもりになってみれば,それがわかるだろう。きっと誰でもわらってこう答えるだろうから。
「客人,どうやら君には,ぼくが何か特別に恵まれた人間にみえるらしいね。徳が教えられうるものか,それともどんな仕方でそなわるものなのか,そんなことを知っていると思ってくれるとは!だがぼくは,教えられるか教えられないかを知っているどころか,徳それ自体がそもそも何であるかということさえ,知らないのだよ。」」(71A)

ここで,ソクラテスの本対話篇での一貫した立場を架空の人物に語らせています。つまり「徳とは何か」が分からないのだから,それがどういうものであるか,つまり教えられるのかどうか,というのも分からない,と。

ソクラテス「君があげたいろいろの徳についても同じことが言える。たとえその数が多く,いろいろの種類のものがあるとしても,それらの徳はすべて,ある一つの同じ相 (すがた) (本質的徳性) をもっているはずであって,それがあるからこそ,いずれも徳であるということになるのだ。この相 (本質的徳性) に注目することによって,「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかにするのが,答え手としての正しいやり方というべきだろう。ぼくの言おうとすることがわからないかね?」(72C)

この言葉の前には,「男の徳は~,女の徳は~,子供の徳は~」といったように色んな条件での徳があるとメノンが言い,それに対するソクラテスの言葉です。
所謂「イデア」を思わせる言葉です。読み物として読む立場としては,イデア云々は比較的どうでもいいことなのですが,個人的にはこの追求の仕方は非常に論理的というか,集合論的な考え方だとかねがね思います。つまり対話相手が挙げているのは,必要条件ですが,ソクラテスが言わせようとしているのは十分条件である,と。

メノン「正義は,ソクラテス,徳なのですから。」
ソクラテス「徳,だろうか,メノン,それとも,徳の一種だろうか?」
メノン「と言われる意味は?」
ソクラテス「ほかの何についても言えるようなことだ。たとえば,円形というものについて考えてみてもよいが,ぼくなら,それを形の一種であると言って,ただたんに形であるとは言わないだろうね。なぜそういうふうに言うかというと,ほかにもいろいろ形があるからだ。」(73D)

メノン「それでは,勇気が徳であると私には思われますし,それから節制,知恵,度量の大きさなど,ほかにもずいぶんたくさんあるでしょう。」
ソクラテス「再度われわれは,メノン,同じ目にあったわけだね。一つの徳を求めながら,またしてもわれわれはたくさんの徳を見つけ出してしまった。そうなるに至った手順は,さっきとは別だけれども。君のあげたすべての徳目をつらぬいているただ一つの徳を,どうしてもわれわれは見つけ出すことができないのだ。」(74A)

徳なのかその部分なのか,という話は『プロタゴラス』でも語られていた記憶があります。あんまり面白くなかったので流してましたが(笑)。

あとこれは知らない人には何の事だかサッパリだと思いますが,ソフトウェア開発の「オブジェクト指向」の考え方で,イデア論やもしくは哲学を説明しようとする試みが行なわれていたのをどこかで見たことを思い出しました。ここの部分は,いかにも is-a 関係 (つまり継承) の例になりそうなので。私自身は,真実を追求する姿勢に数学的・理系的なものを感じたり,対話のやり方にアジャイル的なものを感じることはあっても,ソフトウェア開発の方法論を当てはめる観点でプラトンを読もうと思ったことはありません。

ソクラテス「そして問答法においては,ただたんにまちがっていない答をあたえるだけでなく,質問者が知っていると前もって認めるような事柄を使って答えるのが,おそらくその結果によりかなったやり方というべきだろう。」(75D)

これはさらっと書かれていますが,案外プラトン対話篇をつらぬく重要なことかもしれません。というのは,プラトン対話篇というのは読者に何の前提知識も求めず,何から読んでもそれ単体で読めるものになっているからで,それを示しているようにも思えるからです。知らないことを知っていると思わせないために,「分かった気にさせない」ということでもあるのかなと思います。

メノン「ソクラテス,お会いする前から,うわさはかねがね耳にしていました―あなたという方は何がなんでも,みずから困難に行きづまっては,ほかの人々も行きづまらせずにはいない人だと。げんにそのとおり,どうやらあなたはいま,私に魔法をかけ,魔薬を用い,まさに呪文でもかけるようにして,あげくのはてにこの私を,すっかり途方にくれさせてしまったようです。もし冗談めいたことをしも言わせていただけるなら,あなたという人は,顔かたちその他,どこから見てもまったく,海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら,あのシビレエイも,近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが,あなたがいま私に対してしたことも,何かそれと同じようなことであるように思われるからです。なにしろ私は,心も口も文字通りしびれてしまって,何をあなたに答えてよいのやら,さっぱりわからないのですから。」(80A)

ソクラテス「それから,このぼくのことだが,もしそのシビレエイが,自分自身がしびれているからこそ,他人もしびれさせるというものなら,いかにもぼくはシビレエイに似ているだろう。だがもしそうでなければ,似ていないということになる。なぜならぼくは,自分では疑問からの抜け道を知っていながら,他人を困難に行きづまらせるというのではないからだ。道を見うしなっているのは,まず誰よりもぼく自身であり,そのためにひいては,他人をも困難に行きづまらせる結果となるのだ。」(80C)

シビレエイのたとえが出てきました。ソクラテスの対話でよく出てくる,所謂アポリアーです。但し前半の言葉によると,実際にソクラテスの容姿はシビレエイそっくりらしいのですが。これは貴重な証言なのではないでしょうか。尤も残っている石像の写真を見ると,「100分de名著」で伊集院光が言っていた「西田敏行に似ている」というほうがしっくり来ます(笑)。そもそも自分自身が痺れている,というソクラテスの答えも秀逸だなと思います。

ソクラテス「こうして,魂は不死なるものであり,すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから,…魂がすでに学んでしまっていないようなものは,何ひとつとしてないのである。だから,徳についても,その他いろいろの事柄についても,いやしくも以前にもまた知っていたところのものである以上,魂がそれらのものを思い起こすことができるのは,何も不思議なことではない。なぜなら,事物の本性というものは,すべて互いに親近なつながりをもっていて,しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから。もし人が勇気をもち,探求に倦むことがなければ,ある一つのことを想い起したこと―このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが―その想起がきっかけとなって,おのずから他のすべてのものを発見するということも,充分にありうるのだ。それはつまり,探求するとか学ぶとかいうことは,じつは全体として,想起することにほかならないからだ。」(81C)

これが「想起説」と呼ばれるもののようです。そもそもメノンが「知っている事柄については,既に知っているのだから探求する必要がない,しかし知らない事柄については,何を探求すればよいのか分からない」ということを指摘した (実際にはソクラテスに言わせた) のがきっかけで,ソクラテスが語ったことです。
科学的な知見がない時代なので,本能的なものがなぜ人間に備わっているのかを説明しようとしたとも思えます。しかしどちらかといえば,セレンディピティみたいな後天的な閃きに近いでしょうか。それにしても上手い説です。本当によく考察した結果なのだなと思います。

この後,メノンの召使に正方形の面積についての問題を「想起」によって解かせる場面があります。メモは全面的に省略しましたが,面白い場面です。ここは「いかにして問題をとくか」という古典的な本 (理系では有名?) で,生徒に先生がどう図形の問題を解かせるかを教える場面を思い出しました。非常に似ていると思います。つまり未知の問題を解くプロセスとして,この想起説の考え方は今にも生きているのではないかと思います。

ソクラテス「とすると,もし徳というものが,魂にそなわる資質のひとつに数えられるようなものであり,また,かならず有益なものでなければならないとするならば,徳とは知でなければならないことになる。なぜなら,いやしくもすべて魂の資質というものは,それ自体単独では有益なものでも有害なものでもなく,そこに知もしくは無知がはたらくことによってはじめて,有害なものとなったり有益なものとなったりするのだから。こうしてこの議論にしたがえば,徳が有益なものである以上,それはひとつの知でなければならないのだ。」(88C)

この少し前では,「例えば勇気は,正しい知識が伴わなければ害を受け,伴えば有益になる」というようなことを言われます。ということで,徳は善いものであれば知識であり,知識なのであれば教えられる,という論理的な帰結が導かれたことになります。しかしそもそも徳は知識なのか?という疑問が生じ,「思わく」というものを提示した結果,次のように言われます。

ソクラテス「してみると,行為の正しさということに観点をおくなら,正しい思わくは,導き手としての「知」に何ら劣るものではないことになる。そしてこの点こそ,われわれがさっき,徳とはいかなるものかを考察するにあたって,見のがしていたことなのだ。われわれは,正しい行為を導くのはただ「知」だけだと言っていたのだから。実際にはしかし,正しい思わくもまたそうだったのだ。」(97B)

「思わく」の例として,実際に目的地までの道を歩いたことがあり行き方を知っている (知識) のと,歩いたことはないが行き方の見当をつけて,それが結果的に正しい (正しい思わく),ということが直前に書かれています。目的地に到着できるかぎりでは,知識と正しい思わくは同じだと。

ソクラテス「つまり,正しい思わくというものも,やはり,われわれの中にとどまっているあいだは価値があり,あらゆるよいことを成就させてくれる。だがそれは,長い間じっとしていようとはせず,人間の魂の中から逃げ出してしまうものであるから,それほどたいした価値があるとはいえない―ひとがそうした思わくを原因 (根拠) の思考によって縛りつけてしまわないうちはね。しかるにこのことこそ,親愛なるメノン,先にわれわれが同意したように,想起にほかならないのだ。そして,こうして縛りつけられると,それまで思わくだったものは,まず第一に知識になり,さらには,永続的なものとなる。ここにこそ,知識が正しい思わくよりも高く評価されるゆえんであり,知識は,縛りつけられているという点において,正しい思わくとは異なるわけなのだ。」(97E)

ここで「想起」と「知識と思わくの違い」が結びつきます。
「思わくを縛り付けたものが知識」というのは結構実感できる部分です。同じことを訊かれても,その時々で自分の答えが変わるようなことは確固たる知識ではないのかもしれません。他方で確かに自分の中で何か順序だてて答えを導いたようなことは,頭の中でしっかりと定着したような感じになります。このプロセスが「想起」なのだと言われれば,すごく納得します。

ソクラテス「してみると,実際の行為に関するかぎり,正しい思わくは,知識とくらべて何ひとつ劣るところはなく,また有益であるという点でも,けっしてひけをとらないわけだね。同じことは,正しい思わくをもっている人と,知識をもっている人とをくらべた場合にも言えるだろう。」(98C)

ということで,ここから,過去の偉大な政治家等の人物が国を治めることができたのは,知識を持っていたのではなく,正しい思わくをもっていたにすぎない,ということが言われます。知識ではないから,子孫に伝えられなかったのだと言われます。そしてその思わくは,神によって授けられるものである,と言われます。…ただこの結論は,どちらかといえば時間切れという側面なのかなと思います。結局は,ソクラテスの最初からの姿勢である,「そもそも徳とは何であるか」をまず明らかにすべき,というところで終わります。

ということで以上。『メノン』は比較的短い対話篇ですが,テーマにしても対話の流れにしても,プラトンらしさがとてもよく出ていて,入門的なものだと位置づけられるのも頷けます。
次回は『ヒッピアス (大)』の予定。

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