プラトン『国家』第二巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第二巻を読んだときのメモ第1弾。

第一巻でトラシュマコスとの対話が終わり,一応正義が不正に勝るという結論にはなったと思いますが,グラウコンがそれでは納得できないということで引き続き正義について話題にしていきます。途中でアデイマントスも加わってきます。なおグラウコンとアデイマントスは兄弟で,プラトンの兄です。
トラシュマコスとは異なり,自分たちはそう考えているわけではないが世間ではこう考えられている,と代理を立てる形で不正を讃える側に立ちます。しかしこのほうが不気味というか,(ソクラテスも途中で述べていますが) 本当はグラウコンたちも内心ではその通りだと思っているのかもしれません。ともかく,長い演説のようなグラウコンとアデイマントスの言葉がずっと続きます。
実際,かなり手ごわく,ソクラテスも答えに窮します。そこで,人間ではなく国家としての正義を考察し,それで明らかになった正義を元に人間としての正義を考えようということになります。
国家としての正義を考えていくところからは,メモ (2) に書きます。

では読書時のメモです。

「そこで,ご異存がなければ,こうしましょう。つまり,トラシュマコスの説を私がもう一度復活させて,次の諸点を私の口から語ることにするのです。
まず第一に,<正義>とは,どのようなもので,どのような起源をもつものと一般に言われているか,ということ。
第二に,正しいことをする人々はみな,それを<善いこと>ではなく<やむをえないこと>と見なして,しぶしぶそうしているのだということ。
第三に,人々のそういう態度は,当然であるということ。―なぜなら,不正な人の生のほうが正しい人の生よりはるかにましであるからと,こう一般には言われているからです。」(358C)

「そういうわけですから,私は精いっぱいの努力をつくして,不正な生を讃えて語ってみましょう。そしてそれを語ることによって,こんどはあなたから,どういう仕方で<不正>をとがめ<正義>を讃えるのを聞かせていただきたいと私が望んでいるかを,あなたに示すことにしましょう。」(358D)

ここでのソクラテスの対話の相手である,トラシュマコスとの対話で完全には納得しなかったグラウコンによって,3つの命題が提示され,それらについて,不正側に仮に加勢してそれをソクラテスに論破してもらうことによって,正義の善さを引き出そうとします。

「では,私がさっき約束した最初の論題について聞いてください。それは,<正義>とは何であり,どのような起源をもつものなのか,という問題です。
人々はこう主張するのです。―自然本来のあり方からいえば,人に不正を加えることは善 (利),自分が不正を受けることは悪 (害) であるが,ただどちらかといえば,自分が不正を受けることによってこうむる悪 (害) のほうが,人に不正を加えることによって得る善 (利) よりも大きい。そこで,人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って,その両方を経験してみると,一方を避け他方を得るだけの力のない連中は,不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが,得策であると考えるようになる。このことからして,人々は法律を制定し,お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。
これはすなわち,<正義>なるものの起源であり,その本性である。つまり<正義>とは,不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと,不正な仕打ちをうけながら仕返しをする能力がないという最悪なこととの,中間的な妥協なのである。これら両者の中間にある<正しいこと>が歓迎されるのは,けっして積極的な善としてではなく,不正をはたらくだけの力がないから尊重されるというだけのことである。」(358E)

「不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが,得策であると考えるようになる」…解説によると,ここの正義の起源についての説明は,「社会契約説」的な説明ということです。人に不正を与えることが善,というのは「ん?」という感じですが,食料を得るために動物を殺したりすることと同じということでしょうか。
そこから導かれた,「<正義>とは,不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと,不正な仕打ちをうけながら仕返しをする能力がないという最悪なこととの,中間的な妥協」…なるほどと思わされる説です。
『ゴルギアス』でカリクレスが主張していたことと通じていると思いました。つまり法律は弱者のためのものであり,強い者を押さえつけるためのものである,と。
何にしても,「不正」というものが,水が上から下に流れるのと同じように,人として自然であり,問題がなければそのままにしておくべきで,水路を作って流れを導いて分かち合うようなことは妥協,というような感じでしょうか。

「つぎに,正義を守っている人々は,自分が不正をはたらくだけの能力がないために,しぶしぶそうしているのだという点ですが,このことは,次のような思考実験をしてみればいちばんよくわかるでしょう。つまり,正しい人と不正な人のそれぞれに,何でも望むがままのことができる自由を与えてやるわけです。そのうえで二人のあとをつけて行って,両者それぞれが欲望によってどこへ導かれるかを観察すればよい。そうすれば,正しい人が欲心 (分をおかすこと) に駆られて,不正な人とまったく同じところへ赴いて行く現場を,われわれははっきり見ることができるでしょう。すべて自然状態にあるものは,この欲心をこそ善きものとして追求するのが本来のあり方なのであって,ただそれが,法の力でむりやりに平等の尊重へと,わきへ逸らされているにすぎないのです。」(359B)

これも,不正というものが自然であると考えれば全くその通りなのだと思います。
個人的な実感としては,半分くらいその通りだなと思います。特に最近のネット社会を考えてみると,よい例になるのかなと思います。未だに規制・法律が追いついておらず割と何でもアリに近い状態とも言えるし,あるいは原理的にそうというか,合法的であっても例えば口では言えないような言葉で他人を非難して傷つけたり (傷つけなくとも信じられないくらい品のないことを書いたり),ある思惑による株価の上下を利用して瞬間的に利益を得るといったことはあると思います。それが「不正」だとして,現実世界では「正しい」人がネットでは「不正」である,という例はいくらでも挙げられるでしょう。現実ではタガにはめられているが,規範のないネット上ではそれが解放されるのかもしれません。
さらに卑近な例でいえば,ゲームで裏技を使うことを許容するかどうか,ということも近いかもしれません(笑)。僕は使う派で,よく FF でアイテムを無限に増殖する技を使ってました…。
他方で,そういう状況にあっても,自分の欲望の赴くままに何でも行うという人ばかりとも思えません。が,それについてもグラウコンは後で手厳しく吟味してきます。

「これすなわち,すべての人間は,<不正>のほうが個人的には<正義>よりもずっと得になると考えているからにほかならないが,この考えは正しいのだと,この説の提唱者は主張するわけです。事実,もし誰かが先のような何でもしたい放題の自由を掌中に収めていながら,何ひとつ悪事をなす気にならず,他人のものに手をつけることもしないとしたら,そこに気づいている人たちから彼は,世にもあわれなやつ,大ばか者と思われることでしょう。ただそういう人たちは,お互いの面前では彼のことを賞讃するでしょうが,それは,自分が不正をはたらかれるのがこわさに,お互いを欺き合っているだけなのです。」(360D)

「面前では正しい人を賞賛するが,それは不正をはたらかれるのが怖いので互いに欺き合っているだけ」というのはなかなかグサリと来る言葉です。学校や会社で「あの人は真面目だ」と言う場合にも,同じようなニュアンスが潜んでいるのではないか?と思ってしまいそうになります。
ただ,ソクラテスじゃないですが,そういう考え方にならないためのものが人としての真の「学び」ではないかと個人的には思います(キリッ)。まあでも残念ながらここのグラウコンの言葉は現実を表しているとは思います。

「さていよいよ,問題の二人の人間の生についての判定ですが,これを正しく行なうためには,われわれは一方に最も正しい人間を置き,他方にこれまた最も不正な人間を置いて比較しなければなりません。そうしないと,正しい判定は不可能です。」(360E)

「こうして,完全に不正な人間には完全な不正を与えて,何ひとつ引き去ってはなりません。彼は最大の悪事をはたらきながら,正義にかけては最大の評判を,自分のために確保できる人であると考えなければなりません。そして万が一しくじるようなことがあっても,その取り返しをつける能力をもっていると考えなければなりません。すなわち,自分がおかした不正の何かがあばかれた場合には,人を説得しおおせるだけの弁論の能力をもち,力ずくで押さえなければならぬ場合には,自分の勇気とたくましさにより,また味方と金を用意することにより,相手を押えつけるだけの実力をもっている者と考えなければなりません。」(361A)

ということで,最も不正な人間と最も正しい人間を仮に想定するわけですが,かなり worst of worst な不正な人間ですね。本当は不正だが,他の人からは,その人は正しい人に見えると。また正しく見せる能力を持つと。確かに評判とか,その結果として得られる報酬を考えると,またそれを使い放題に使えるとすると,最強かもしれません。

「さて,不正な人間をこのように想定したうえで,その横にこんどは正しい人間を―単純で,気だかくて,アイスキュロスの言い方を借りれば『善き人と思われるることではなく,善き人であることを望む』ような人間を―議論のなかで並べて置いてみましょう。正しい人間からは,この<思われる>を取り去らなければなりません。なぜなら,もしも正しい人間だと思われようものなら,その評判のためにさまざまの名誉や褒美が彼に与えられることになるでしょう。そうすると,彼が正しい人であるのは<正義>そのもののためなのか,それともそういった褒美や名誉のためなのか,はっきりしなくなるからです。こうして一切のものを剥ぎとって裸にし,ただ<正義>だけを残してやって,先に想定した人間と正反対の状態に置かねばなりません。すなわち,何ひとつ不正をはたらかないのに,不正であるという最大の評判を受けさせるのです。そうすれば彼は,悪評や,悪評のもたらすさまざまの結果のためにへなへなにならないということによって,その<正義>のほどが完全に吟味されることになるでしょう。」(361B)

こちらも worst of worst な (本来は best と言うべきでしょうが,worst と言いたくなります…) 正しい人です。本当は正しい人なのに,周りからは不正な人と映るとは。今までの話の流れからすると,どうしようもない人ということになります。
ただ,この辺でも,自分が直観的に考える「正しい」と「不正」というものが,完全に逆転しているようだ,ということを忘れずに念頭に置いておきたいです。

「というのは,グラウコンが意図していると思われる点をもっとはっきりさせるためには,われわれとしては,彼が語ったのと反対の立場の議論,つまり,<正義>のほうを讃え,<不正>をとがめる議論も,並べなければならないからです。
思うに,父親は息子たちに向かって,また,一般に誰かの身の上を気づかう人々はすべてその当人に向かって,正しい人でなければならないと説き進めるものですが,これは<正義>というものをそれ自体として讃えているのではなくて,<正義>がもたらすよい評判を讃えているのです。つまり,彼らのそういう勧告の真意は,正しい人であると思われることによって,その評判から,役職,結婚その他,グラウコンがいま数え上げたようなすべての善いものが手に入るようにしなさい,それらが正しい人に与えられるのは,要するによい評判のおかげなのだからと,こういうわけなのです。」(362E)

アデイマントスが割り込んできて話します。確かにこれまでのグラウコンの言葉とは違い,正義の利点を述べている…ようではありますが,これはあくまで正しいと「思われる」ことによる利点にすぎません。

「すべての人々が異口同音にくり返し語るのは,節制や正義はたしかに美しい,しかしそれは困難で骨の折れるものだ,これに対して放埓や不正は快いものであり,たやすく自分のものとなる,それが醜いとされるのは世間の思わくと法律・習慣のうえのことにすぎないのだ,ということです。彼らはまた,不正な事柄のほうが多くの場合正しい事柄よりも得になると言い,邪な人間であっても金その他の力をもっていれば,そういう人間のことを,公の場でも個人的な立場でも,何はばかるところなく,祝福し尊敬しようとします。他方,正しくても無力で貧乏な人間に対しては,前者とくらべてより善人であることは認めながらも,これを見下し,軽蔑しようとするものです。」(364A)

今度は逆に,不正が醜いとされているのも,思わくと法律習慣によるものだと言います。そして不正の方が得だと言います。
「邪な人間であっても金その他の力をもっていれば…何はばかるところなく,祝福し尊敬しようとする」「正しくても無力で貧乏な人間に対しては,…善人であることは認めながらも,これを見下し,軽蔑する」…確かにそういう「権力になびく」人はいるし,それが否定はできません。

「しかしそういうあなた方すべてのうちで,かつて誰一人として,<不正>をとがめ<正義>を讃えるにあたって,評判のことや,名誉のことや,それらから結果する報いのことを云々する以外の仕方によった者はいなかった。<正義>と<不正>のそれぞれが,それぞれを所有している者の魂の内にあって,神々にも人間にも気づかれないときに,それ自体としてそれ自身の力で,どのようなはたらきをなすかということは,詩においても教えにおいても,かつて一度もくわしく語られたことはなかった。」(366E)

「<正義>を讃えるにあたっても,まさにこの肝心の点を讃えてください。<正義>はそれ自体として,それ自身の力だけで,その所有者にどのような利益を与えるのか,逆に<不正>はどのような損害を与えるのかを,示してください。報酬や評判を讃えることのほうは,ほかの人々におまかせになればよろしい。」(367D)

ということで当然ここに来ます。他人の思わくを相手にするのではなく,正義それ自体としてどういう利益があるのか?何となくイデア論の香りがしますね。
ところで,東洋の古典では,例えば「天網恢恢疎にして漏らさず」とか「李下に冠を正さず」とか,人が見ていないところでも正しくしていないとダメだという観念,あるいは「秘すれば花」のように寧ろ見せないのが美徳という観念,があるように思います。それは現代にも生きている気もします。そして,それが何故かというところまではあまり触れられていないように思います。
勿論私のようなアマチュアが知らないことも沢山あると思いますが,いい意味で「天下り的」なのかな,とよく思います。正直ソクラテスの対話にさらされなくてよかったと思います(笑)。もっともソクラテス自身は,違うと思いますが。つまり,暗黙的に,思わくではなくソクラテス的な「善さ」を東洋では認めているような気もします。

「まずぼくは,どうやって<正義>を助けたらよいのかわからない。どうもぼくには,それだけの力がないように思えるのでね。…
かといってまた,<正義>を助けずにいるということも,ぼくにはできないことだ。なぜなら,<正義>が悪しざまに罵られているところに居合わせながら,自分がまだこうして息をして口もきけるというのに,見捨てて助けないというのは,不敬虔なことでもあるのではないかと怖れるのでね。」(368B)

グラウコンとアデイマントスが示した議論は,今でもそうですが当時も確かに現実をよくとらえていたのだと分かります。ソクラテスも困っています。
しかしソクラテスにとっては,分からない,ということは普通というか当然のことでもあるのだと思います。喜びでさえあるのかもしれません。対カリクレス,対トラシュマコスの時も,最初はどうなることかと思いましたが,結局いつの間にかソクラテスの土俵に乗っていました。今回はそのとき以上に厳しそうな戦いですが,だからこそ面白い対話がなされるのではと期待できます。

「<正義>には,われわれの主張では,一個人の正義もあるが,国家全体の正義というものもあるだろうね?」
「ええ,たしかに」と彼は言った。
「ところで,国家は一個人より大きいのではないかね?」
「大きいです」と彼。
「するとたぶん,より大きなもののなかにある<正義>のほうが,いっそう大きくて学びやすいということになろう。だから,もしよければ,まずはじめに,国家においては<正義>はどのようなものであるかを,探求することにしよう。そしてその後でひとりひとりの人間においても,同じことをしらべることにしよう。」(368E)

ということで,大きいもののほうが調べやすいという論理で,人ではなくまず国家の正義を検討するということになりました。かなり遠大な構想です。

この後第二巻は,実際に何もないところから国家というものを作っていき,そこの正義・不正というものを考える,という展開になりますが,続きはメモ(2)に。それにしても毎回長くなります(笑)。

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