プラトン『国家』第三巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第三巻を読んだときのメモ第1弾。

第三巻は第二巻の続きという感じで,国の守護者を育てるにはどうしたらよいのか,という話題の中で様々なことが論じられます。序盤は正直また神話の中身に関する話が続くので,退屈な展開ではあります。
「何を語るべきか」,ということが前半で語られた後,「いかに語るべきか」ということが話題になります。そしてその後で,音階やリズムの話を挟み,そもそも何を語るべきかに限らず他の職人の仕事にも同じように適用するべきではないか,ということが言われます。

「ではつぎに,その人たちが将来勇気ある人間となるべきだとすれば,どのように考えるべきだろうか?以上の事柄のほか,彼らをできるだけ死を恐れないようにさせる内容のことを,語り聞かせるべきではなかろうか。それとも君は,誰であれ,心の内に死の恐怖をいだいている者が,そもそも勇気ある人間になれると思うかね?」(386A)

これは最初の部分ですが,この後,神々に関する詩の中で,悲嘆にくれる内容であったり,放埓の内容だったり,殺しあう内容だったりするものは語り聞かせるべきではない,ということが言われます。逆に,節制や,勇敢さを喚起するような内容の話を語り聞かせるべきである,と。省略しますが,割と過激な感じで,独裁国家を想像してしまい,全面的に賛成する気持ちにはなれません。

「さあそれでは,話の内容については,これで終ったことにしよう。つぎは,ぼくの思うには,語り方のことを考えてみなければならない。そうすればわれわれにとって,何を語るべきかということと,いかに語るべきかということが,ともに完全に考察されたことになるだろう」(392C)

前の引用からだいぶ飛ばして,ここが1つの転換点です。中身の話から,どう語るかについてに話が移ります。

「しかるに,声においてにせよ,姿かたちにおいてにせよ,自分を他の人に似せるということは,自分が似ようとしている相手の人を,真似るということにほかならないだろうね?」
「そのとおりです」
「したがって,そのような場合には,どうやら,ホメロスにせよ他の作家 (詩人) たちにせよ,<真似>というやり方で叙述を行なっていることになるようだ」(393C)

「創作 (詩) や物語のうち,あるものはその全体が<真似>というやり方によるものであって,君の言うように,悲劇や喜劇がこれにあたる。またあるものは,作者自身の報告によるものであって,君はおそらくディテュランボスに,それを最もよく見出すことができるだろう。もうひとつは,その両方によるものであって,叙事詩の創作や,ほかにも多くの場合に見られるだろう」(394B)

実際に『イリアス』の引用があったりするのですが,前半の「<真似>というやり方」というのは現代の言い方で言うと直接話法のことで,次の「作者自身の報告によるもの」というのは間接話法のことのようです。何かを語るときに,真似,つまり直接話法で語るのと,間接話法で語るのとでどういった違いがあるのか?どういうことを語るときに,どちらで語るべきか?ということが焦点になってきます。

「それでは,アデイマントス,このことを考えてくれたまえ。つまりそれは,われわれの国の守護者たちは真似の達者な人間であるべきかどうか,という問題だ。はたしてこのこともやはり,先の原則に従って考えられるものだろうか?すなわちそれによれば,それぞれの人間は一人で一つの仕事をすれば立派にできるが,一人で多くの仕事をうまくこなすことはできず,あえてそうしようとすれば,たくさんのことに手を出してすべてに失敗し,どれにおいても名のある者にはなれないだろうということだったが」(394E)

この論理 (一人で多くの仕事をうまくこなすことはできない) は,国家の成り立ちを考える一番最初に言われた,全てのエキスパートではいられないというプラトン的な論理のことです。ではそれでも真似によって MP を消費する価値があるかどうか,というのが,この後で論点になることです。

「それとも君は,気づいたことがないかね―真似というものは,若いときからあまりいつまでもつづけていると,身体や声の面でも,精神的な面でも,その人の習慣と本性の中にすっかり定着してしまうものだということに?」(395D)

プラトンが真似を問題視するのは,真似をすることに MP を消費するということと同時に,こういう理由も大きいのでしょうが,これは結構実感できる話です。
若いときに限らず,周りの人の癖などがいつの間にか自分に移ってしまう,というのはあると思います。別に意図はせずとも,例えば「何であの人はあんなことをするのかなあ」とか思っていることでも,ふと気づくと自分がやっているとか。
それに,当時は恐らく本などない時代で,伝えるのは殆ど文字通り語ることによっていたと思われるので,真似 (直接話法) かどうかというのは聞き手に与える影響も単に文字で表される違いよりもずっと大きかったのだろうと思います。

「またぼくの思うには,言葉においても行為においても,気の狂った人々に自分を似せるような習慣をつけてはならない。たしかに,気の狂った人々についても邪悪な人々についても,それが男にせよ女にせよ,知識はもたなければならないけれども,しかしその種の人々のすることを何ひとつ実際に行なうべきではないし,真似すべきでもないからね」(396A)

その人の真似をすることがよいかどうか,端的な言葉になっているのがこの部分だと思います。当たり前のような言葉ですが,プラトンの思想の底流を何となく感じさせる言葉でもあります。

「ぼくの思うに,適正な性格の人は,叙述を進めて行くうちに,すぐれた人物のある言葉なり行為なりのところに来た場合には,自分がその人物になったつもりでそれを報告する気持にすすんでなるだろうし,そのような真似なら恥ずかしいとは思わないだろう…。けれども逆に,自分自身に似つかわしくないような人間が登場する場面に来た場合には,彼は,その人物がたまたま何か善いことをする場合のようなわずかな機会を例外として,本気になって自分を自分より劣った人間に似せようという気持にはなれずに,そうすることを恥ずかしいと思うだろう。それは一つには,そのような人間の真似をすることには慣れていないからでもあるし,一つにはまた,自分が心中軽蔑しているような,より劣悪な人間たちの型に自分をはめこんで形づくるということを,嫌悪するからでもある。冗談にするのでもないかぎりはね」(396C)

ということで,真似するかどうかの是非の結論になりました。この少し後で,「<真似>と単純な叙述との両方のやり方を含みはするけれども,<真似>が占める部分は,長い話のなかで少ししかないことになるのではなかろうか」とも言われます。

「それではこれで」とぼくは言った,「どうやら,君,音楽・文芸のうちで話と物語に関することは,すっかり片がついたようだ。何が語られるべきかということも,いかに語られるべきかということも,述べられてしまったのだからね」(398B)

「そうすると,このつぎには」とぼくは言った,「歌と曲調のあり方に関することが残されているのではないかね?」(398C)

「いずれにしても君は」とぼくは言った。「まず第一に,次のことはよく納得できて,言えるはずだ―歌というものは三つの要素,すなわち言葉 (歌詞) と,調べ (音階) と,リズム (表紙と韻律) とから,成り立っているということは」(398C)

今度はリズムに関する話になります。しかし内容は省略します。基本的に,物語に関することと同じことを辿ることになります。つまり,嘆きや悲しみや柔弱の調べというものは否定し,困難な状況の時に「毅然としてまた確固として運命に立ち向かう人,そういう人の調子や語勢を適切に真似るような調べ」や「結果が思い通りにうまく行って,そのうえでけっして驕り高ぶることなく,…節度を守り端正に振舞って,その首尾に満足する人,そういう人を真似るような調べ」というようなものはよい,ということで,具体的にどんな調べがよいかを当時の作品などから類推しようとします。

「それではわれわれは,ただ詩人たちだけを監督して,すぐれた品性の似姿を作品の中に作りこむようにさせ,さもなければ,われわれのところで詩を作ることを許さずにおけばよいのだろうか?それともむしろ,他のさまざまの職人たちをも同じように監督して,問題の悪しき品性や放埓さや下賤さやみぐるしさを,生きものの似像のうちにも,建築物のうちにも,そのほかどのような制作物のうちにも作りこまないように禁止し,それを守ることのできない者は,われわれのところでそうした制作の仕事をすることを許さないようにすべきだろうか…。いや,われわれの探し求めるべき職人は,そのすぐれた素質によって,美しく気品ある人の本性がのこす跡を追うことのできるような制作者でなければならないのではないか…」(401B)

結局,詩人に何をどう語らせるか,ということの抽象化を進めて,あらゆるものに当てはめようとします。その行き着く先はイデアというものでしょうか。
しかしこの場合,いささか度が過ぎるような気がするというのが率直なところです。こういう規制を行なうというのは,前にも書きましたが,たまにテレビのニュース等で流れる,北朝鮮でトップを礼賛する勇ましい歌や動画を連想してしまうのです。勿論,その国家のトップや統治機構によるのであって,そういう意味で (先取りしますが) 哲人王による政治が実現することが必要条件なのだろうと思います。
この辺りでは,僕も現実のほうを少し考えて,プラトンの主張に珍しく少し疑義を覚えたのでした。

「だから,グラウコン」とぼくは言った,「そういうことがあるからこそ,音楽・文芸による教育は,決定的に重要なのではないか。なぜならば,リズムと調べというものは,何にもまして魂の内奥へと深くしみこんで行き,何にもまして力づよく魂をつかむものなのであって,人が正しく育てられる場合には,気品ある優美さをもたらしてその人を気品ある人間に形づくり,そうでない場合には反対の人間にするのだから。そしてまた,そこでしかるべき正しい教育を与えられた者は,欠陥のあるもの,美しく作られていないものや自然において美しく生じていないものを最も鋭敏に感知して,かくてそれを正当に嫌悪しつつ,美しいものをこそ賞め讃え,それを歓びそれを魂の中に迎え入れながら,それら美しいものから糧を得て育くまれ,みずから美しくすぐれた人となるだろうし,他方,醜いものは正当にこれを非難し,憎むだろうから―まだ若くて,なぜそうなのかという理を把握することができないうちからね。やがてしかし,理が彼にやって来たときには,このように育てられた者こそは誰にもまして,その理と親近な間柄となっているためにすぐ識別できるから,最もそれを歓び迎えることになるだろう」
「たしかに私としては」と彼は答えた,「そのようなことのためにこそ,音楽・文芸による教育はあるのだと思います」(401D)

こちらは同意します。教育の根本的な意義かもしれないとも思います。
以前,僕が高校くらいの時ですが,寝台特急で乗り合わせたおばあさんが「微分積分なんて習っても何の役にも立たなかった」と言っていたのをふと思い出しました。それはある意味自分にとっても真実で,僕も仕事で微分積分を使うことは今はほぼ皆無ですが,ものの量の変化の仕方について考えることが身について,それに関する正しいことや誤ったことが分かるようになった,ということはあると思います。それは,「美しいこと」なんだろうと思います。例として適切かどうかは知りません(笑)。

「それでは,ぼくが言いたいのはこういうことなのだ。―神々に誓って,音楽・文芸の場合もそれと同じように,われわれ自身にしても,われわれが国の守護者として教育しなければならぬと言っている者たちにしても,節制や勇気や自由闊達さや高邁さやすべてそれと類縁のもの,他方またそれと反対のものの実際の姿が,いろいろとくり返し現れるのをあらゆる場合に識別し,それらが内在しているあらゆるもののうちに,その実際の姿をも似姿をもともに認識できるようになるまでは,そして小さなもののうちにあろうと大きなもののうちにあろうと,けっしてないがしろにせず,いずれを知るにも同一の技術と訓練を必要とするものだと考えるようになるまでは,われわれはけっして,音楽・文芸に習熟した者となったとはいえないのではないだろうか?」(402B)

これも,印象的な言葉ですが,音楽や文芸にも限らないようにも思えました。「いろいろとくり返し現れるのをあらゆる場合に識別し,それらが内在しているあらゆるもののうちに,その実際の姿をも似姿をもともに認識できる」というのは,ある技術に対する「理」の境地というふうにも感じます。

「それでは」とぼくは言った,「もしもある人が,その魂の内にもろもろの美しい品性をもつとともに,その容姿にも,それらと相応じ調和するような,同一の類型にあずかった美しさを合わせそなえているとしたら,見る目をもった人にとっては,およそこれほど美しく見えるものはないのではないか?」
「ええ,たしかに」
「そして,最も美しいものは,最も恋ごころをそそるものだね?」
「もちろんです」
「とすれば,真に音楽・文芸に通じた人は,できるだけそのような調和をそなえた人たちをこそ,恋することだろう。逆に,この調和がないならば,彼はそのような者を恋しないだろう」
「恋しないでしょうね―少なくとも,その欠陥が魂のほうにあるとするならば」と彼は言った。(402D)

結論として,音楽・文芸は「美しいものへの恋」に終着します(笑)。いや「(笑)」とか付けましたが,プラトンをここまで読んだ者としては,別に普通の印象ではあります。『パイドロス』のメモに,少し美に関してプログラミングや将棋に言及して書きましたが,プラトンの言う「美」というものは,さきほど「ある技術の「理」の境地」と書いたそういうものが現出したものであるというふうに僕は (勝手に) とらえています。

ということで,ここまで音楽や文芸の話でしたが,ここからは「体育」の話で,医術や食べ物といった話題になっていきます。それはメモ(2)に続きます。

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