プラトン『国家』第三巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第三巻を読んだときのメモ第2弾。

「では音楽・文芸の次には,若者たちは体育によって育てられなければならない」(403C)

ということで,メモ第1弾で,どういった叙述の仕方や音楽のリズム等を教えるべきかという「音楽・文芸」が論じられたことを見ましたが,その続きとして次は体育等について述べられます。
食べ物は素朴なものがよいとか,体育とは体を鍛えることが目的ではなく実は魂のためであるといったこと,また,「ぼくがためらうのもはなはだ無理からぬこと」として,人は生まれたときに金や銀や銅や鉄が混ぜ込まれておりそれに応じた地位につかなければならない,というような作り話?がソクラテスから語られたりします (→長くなったのでこの作り話はメモ(3)で述べます)。

メモ第1弾ではやや退屈というようなことも述べましたが,本メモの対象である第三巻の後半は,面白いと思います。割とストイックな感じというか,プラトン的というところを僕に感じさせるからでしょうか。

なお一応断っておきますが,『国家』については全集で読むのは諦めました…。図書館で借りてもすぐ期限が切れてしまうし,重くて持ち歩くのが大変ですし。ということで,岩波文庫版をこれ以降は使うことにします。訳者も同じで,本文については今まで違いを見つけたことがありません (ただ違うところは違うと思います;文庫版のほうが新しいです)。

以下は本文を読んだときのメモです。

「そうすると最善の体育は,われわれが少し前に述べた単純な音楽・文芸の,姉妹のようなものだということになるね?」
「どういう意味でしょうか?」
「すぐれた体育,とくに戦士たちのためのそれは,単純素朴なものだろうということだ」
「どういうふうにでしょう?」
「こうしたことなら,ホメロスからも学ぶことができるだろう」とぼくは言った,「というのは,君も知っているように,彼は陣中での英雄たちの宴会において,彼らに魚をふるまっていない。それも,場所はヘレスポントスの海岸だというのに。また肉も煮たのは出さないで,焼いたのだけをふるまっている。たしかに兵士たちには,それがいちばん簡単に用意できるものだろう。どんなところでも,じかに火だけを使うほうが,鍋釜を持ちまわるよりも簡単だといってよいからね」
「ええ,たしかに」
「またたしか,香辛料のことも,ホメロスは一度も語っていなかったと思う。もっともこのことなら,他の一般の競技者たちにしても,身体を良好な状態にしようとするなら,そのようなものはすべて避けなければならないことを知っているのではないかね?」(404B)

まず守護者の食べ物について語られますが,なんというか結局,音楽や文芸と同じように,単純素朴なものがよいということが言われます。まあ実際,体力をつけるとか健康に気をつけるということを考えた場合には,おいしいということは関係ないということでしょう。逆説的 (対偶的) に考えると,おいしいものを選り好みする人は守護者にふさわしくない,ということになります。
なお,全般に言えることですが,「守護者」という言葉は,文字通り国を外的から守る役割の人間の意味で言われるとともに,上に立つ者というような意味でも語られているように思えます。ここでも,勿論体力を考えた場合においしいかどうかは二の次だと言われているとともに,もっと広い意味で,国のために責任を持つ者は私欲を捨てよということも背後に感じられます。冒頭で書いた「ストイックさを感じさせる」というのはこの辺に原因があるのかもしれません。

「すると,先の場合には,多様さは放埓を生むということだったが,ここではそれは病気を生むのであり,他方単純さは,音楽においては魂の内に節度を生み,体育においては身体の内に健康を生む,ということになるのではないかね?」
「完全におっしゃるとおりです」と彼は答えた。
「そして,一国に放埓と病気がはびこるときは,数多くの裁判所と医療所が開かれ,法廷技術と医療技術とが幅をきかすことになるだろうね―自由人ですら大ぜいの人たちが,ひどくそうした事柄について真剣な関心を寄せるような状況では」(404E)

御意…。これに追い打ちをかけるソクラテスの辛辣な言葉は次に続きます。

「しかし,一般の名もない人たちや手職人たちばかりか,自由教育を身につけたと称する人たちまでもが,最高の腕をもつ医者や裁判官を必要としているということ,―いったい,一国における教育が悪しき恥ずべき状態にあることを告げる証拠として,これよりももっと大きなものを何か君は見出すことができるかね?そもそも君には,自分が用いるべき正義を他の人々から借り入れざるをえず,そういう他人をみずからの主人・判定者となし,自分自身の内には訴えるべき正義を何ももたないという状態が,恥ずべきことであり,無教育の大きな証拠だとは思えないかね?」
「それはもう,何よりも恥ずべきことだと思います」と彼は答えた。
「次の場合よりも,もっと恥ずべきだと思うというのかね?」とぼくは言った,「すなわちそれは,生涯の大部分を法廷で訴えたり訴えられたりしながら費やすだけではなく,低俗な好みのために,まさにそうすること自体を得意がるような考えを植えつけられている場合だ。自分は不正を犯すことにかけては腕ききで,あらゆる仕方で身をかわし,あらゆる抜け道を通り抜けて,身をしなわせながら罰を受けないように逃れるだけの腕をもっているのだ,とね。それも,些細でまったくつまらない事柄のためにだよ。それというのもほかではない,そういう人は,自分自身の生涯を,居眠りしている裁判官など少しも必要としないようなものにするほうが,どれだけ美しく善いことであるかということを知らないからなのだが」
「いいえ,そのほうが先の場合よりも,さらに恥ずべきことです」と彼は言った。(405A)

前半では「自由教育を身につけたと称する人たちまでもが,最高の腕をもつ医者や裁判官を必要としているということ」「自分が用いるべき正義を他の人々から借り入れざるをえず,そういう他人をみずからの主人・判定者となし,自分自身の内には訴えるべき正義を何ももたないという状態」が「恥ずべきこと」で無教育の証拠であると言われます。
後半は,『ゴルギアス』で話題になった弁論家を思い浮かべます。真実かどうかではなく,真実らしさによっていかようにも相手を説得する (迎合する,と『ゴルギアス』では言われた) と。
その時も思ったことですが,ここでも「恥ずべきこと」という非難がなされているわけですがそれよりも経済的・物質的なものを優先すれば,現実にはなかなか聞き入れられないという人もいるだろうと思います。極端にいえば多少体調が悪くなろうともおいしいものを沢山食べて酒も飲んで,金に余裕もあるので後で薬を飲んだり医者に見てもらったりして治せばよい,というのもトレードオフと言ってしまえば理に適った選択肢かもしれません。しかしプラトンを読む人間としては,ソクラテスの言う「恥ずべきこと」という最大限の非難を重く受け止める人間でありたいものです。

「たとえば大工ならば」とぼくは言った,「病気になると医者に頼んで,薬を飲んで病気を吐き出してしまうなり,あるいは下剤をかけたり焼いたり切ったりしてもらって,病気からすっかり解放されることを求める。けれども,もし長期の療養を命じられて,頭に布切れを巻いたり,それに類したことをいろいろされるようなことがあれば,彼はただちに言うのだ,―自分には病気などしている暇はないし,それに,病気のことに注意を向けて,課せられた仕事をなおざりにしながら生きていても何の甲斐もないのだ,と。そしてその後は,そのような医者には別れを告げて,いつもの生活へと立ちかえり,健康を回復して,自分の仕事を果しながら生きて行く。またもし彼の身体がそれに堪えるだけの力がなければ,死んで面倒から解放されるのだ」(406D)

病気が直る見込みがなければ,「死んで面倒から解放される」というのはちょっと過激ですが,案外こういう考え方の人は多いのかもしれません。よく「死ぬならポックリ死にたい」というようなことは聞きます。先達の方々の思いが簡単に理解できるわけはありませんが,確かにただ生きるためだけに療養をするというのは,何も自分の責務を果すことができず,周りに面倒もかけ,生き恥をさらすだけだ,という思いがあるとしたら理解できます。最近聞きませんが安楽死 (尊厳死) 問題というのもあります。
ただ,次の言葉にも注意する必要があります。

「しかるに他方,金持は,―とわれわれは言う―それから遠ざけられなければならない場合には生きる甲斐がないといったような,そういう仕事を何ひとつ課せられてもってはいない」(407A)

実際には,今の世の中ではかなり多くの人が,というか少なくとも日本ではほぼ全員が,プラトンの言う「金持」なのかもしれません。社会保険などの福祉もあるし,本当に死と天秤をかけて働かなけれならないという人は殆どいないような気もします。そういう意味では,先ほど述べたようなポックリ死にたいというのは,そこまで覚悟が必要なわけではなく,ある意味贅沢なことを言っているかもしれません。

「それでは,われわれは次のように主張すべきではないだろうか?―すなわち,アスクレピオスもまた,まさにこれらのことを知っていたからこそ,生まれつき生活法によって健康な身体をもちながら局部的な病気にかかった人々,そういう人々とそういう身体の状態のためには医術を教え示し,薬や切開によってそういう人々から病気を追い出して,市民としての仕事をそこなわないようにと,ふだんと同じ生活法を命じたけれども,しかし他方,内部のすみずみまで完全に病んでいる身体に対しては,養生によって少しずつ排泄させたり注入したりしながら,惨めな人生をいたずらに長引かせようとは試みなかったし,また,きっと同じように病弱に違いない彼らの子供を生ませなかったのである,と。そしてむしろ,定められた生活の課程に従って生きて行くことのできない者は,当人自身のためにも国のためにも役に立たない者とみなして,治療を施してやる必要はないと考えたのである,と」
「アスクレピオスも,ずいぶんと国家社会のことに気をつかう人物だったことになりますね」と彼は言った。(407C)

これは,現代でいえばかなり受け入れられない説でしょう。個人の選択として治療を受けない自由はあっても,医者の側であえて治療を施さないことは今の日本では許されないと思われます。
そこを考えると,グラウコンの言う「国家社会のことに気をつかう人物だった」というのも成程と思えなくはありません。どんなに堕落したひどい生き方をして身体を壊しても,今の日本では医療費は社会保険でまかなわれます。

「そうした点は,まさにおっしゃるとおりです」と彼は言った,「しかし,次の点についてのあなたのご意見はいかかでしょうか,ソクラテス。―そもそもわれわれは,国のなかにすぐれた医者を所有しなければならないのではありませんか?そして,すぐれた医者とはほかでもない,健康な人をも病人をも,どちらもできるだけ数多く扱ったことのある医者こそが,とりわけそうであるはずでしょう。その点は裁判官にしても同じことで,ありとあらゆる性質の人間と接した人々が,すぐれた裁判官となるはずです」(408C)

ここで話題の転換があり,グラウコンは,健康から病人まで,色んな患者を扱ったことがあるほうがすぐれた医者のはずだと言い,裁判官も同じだろうと言います。これに対してソクラテスは,医者については確かにそうかもしれないが,裁判官は違うと言い,以下のように述べます。

「しかしながら,裁判官の場合は,君,魂によって魂を支配するのが仕事なのであって,だから彼の魂には,若いときから邪悪な魂のあいだで育てられてこれと親しくつき合い,みずからあらゆる不正を犯す経験をつみ,その結果他人の不正事を,ちょうど身体の場合に病気を診断するような具合に,自分自身のことにもとづいて鋭く推察できるようになる,というようなことは許されないのだ。逆に,裁判官の魂は,やがて美しくすぐれた魂となって,正義を健全に判定すべきであるならば,若いときは悪い品性には無経験で,それに染まないようにしていなければならない。だからこそまた,立派な人物たちは,若いときにはお人好しで,不正な人々にすぐだまされやすい人間のように見えるのだ。なにぶんにも自分自身の内に,邪悪な人々と同性質の範型をもっていないのだから」
「じっさいまた」と彼は言った,「彼らはとくに,よくそういう目にあうものです」(408E)

裁判官は,魂については無菌状態で成長しなければならない,といった感じでしょうか。
この部分は,裁判員制度を思い起こしました。プラトンの言っていることが本当なら,裁判官というのはすぐれた魂の持ち主で,不正を判断するのに最も適していることになり,そこに素人の裁判員を招き入れる必然性はありません。
でも裁判員制度というのが導入された背景というのは恐らくそもそも逆に,頭の固い (というと語弊があるかもしれませんが) 裁判官だけでは時代の変化や庶民感覚がなく,国民の感覚とずれるからだということがあるのではないかと思います。
私の実感としては,今の日本の裁判官というのがプラトンが言うような神聖な人間であるとは想像できないし,多分実際そうではないでしょう(笑)。裁判官といっても神に選ばれるわけでもなく,試験に合格してなるものであるとすれば,プラトンの言うような素質を持っている人間だけが裁判官になるというのは,ありえないことで,寧ろ「試験に合格すること」というのはある意味では迎合的なものであって悪しき魂の持ち主が裁判官になることを防ぐことはできないでしょう。

「さだめし,この上なく気だかい品性の持ち主であることでしょうね」と彼は言った,「そのような裁判官なら」
「そしてすぐれた裁判官でもあるのだよ」とぼくは言った,「君の質問の眼目であったところのね。なぜなら,すぐれた魂をもつ人は,すぐれた人間なのだから。これに対して,あの腕の立つ猜疑心のつよい人,自分自身が多くの不正をはたらいてきて,何でもやってのける賢い人間のつもりでいる人は,たしかに自分と似た者たちを相手にするときは,自分の内にある範型に照らして抜け目なく警戒するので,有能に見えるだろう。ところが,ひとたび善良で自分より年長の人たちと接触するときが来ると,見当違いの疑いをかけ,健全な品性というものがわからないので,こんどは逆に愚か者に見えることになる。なにぶんにも自分では,そういう品性の範型を持ち合わせていないのでね。ただ,すぐれた善い人間よりも劣悪な人間に出会う機会のほうが多いため,自分にも他人にも,どちらかといえば無知であるよりも賢い男だと思われているだけなのだ」
「それは完全におっしゃるとおりです」と彼は答えた。(409C)

ソクラテスの言葉の後半に出てくるような人は確かにいます。どんなに偉くてもいわゆる「小者」というのはいます。

「それでは君は,そのような裁判官のあり方とともに,われわれが先に述べたような医術のあり方をも合わせて,これを法として君の国に制定することになるだろうね。これら両者は,君の国民のなかで,身体と魂の両面においてすぐれた素質をもつ者たちの面倒をみるであろうが,そうでない者については,身体の面で不健全な人々は死んで行くにまかせるだろうし,魂の面で邪悪に生まれつき,しかも治癒の見込みがない者たちはこれをみずから死刑に処するだろう」(409E)

いやー身体が悪い人をみずから死なせることを法にするのは厳しいのでは…?と思わずにはいられません。まあでも2,400年前で,今のような飽食で医療の進んだ時代とは違っていたのだろうとは思います。

「そもそも,グラウコン」とぼくは言った,「音楽・文芸と体育による教育ということを設定した人々も,ある人たちがそう思っているように,一方によって身体を世話し,他方によって魂を世話するという,そういう目的をもって設定したのではないのではあるまいか?」
「ではいったいどうだとおっしゃるのですか?」と彼はたずねた。
「おそらくは」とぼくは答えた,「両方とも魂のことを最も重要な目的として設定したのだろう」(410C)

体育をするのも魂のためである,ということが言われます。これは簡単にいえば,体育とは気概的な素質を高めるというようなことです。
僕も何となく週1回ジョギングをすることが習慣になっていますが,そう言われると,こういう面もあるようには思います。体力も勿論重要ですが,ちょっとしたことで「だるい」とか「面倒くさい」とか思わないためには多少運動して自分を追い込むことも必要だと思います。

「わかりました」と彼は言った,「ただもっぱら体育だけを事としてきた人たちは,しかるべき限度以上に粗暴な人間になる結果となるし,他方逆に,ただもっぱら音楽・文芸だけを事としてきた人たちは,彼らにとって望ましい以上に柔弱になってしまうということですね」(410D)

前述のソクラテスの論の分かりやすい帰結として語られます。これは実感としては,帰納的に正しいように感じられます (勿論例外もあるとは思いますが)。

「しかるにわれわれは,国の守護に当る者たちはいま挙げた二つの素質を,両方とももっていなければならないと主張する」
「そうでなければなりませんとも」
「それらは互いに調和していなければならないね?」
「もちろん」
「そしてそのように調和している人の魂は,節度があり,また勇気があるのだね?」
「たしかに」
「他方,その調和がない人の魂は,臆病であり,また粗暴なのだね?」
「まったくそのとおりです」(410E)

ということで音楽・文芸と体育について,それらを教えることがなぜ必要なのかという答えの1つになる簡潔な言葉かなと思います。国の守護者に限らず,現代の教育に当てはめてもその通りかもしれません。

第三巻はまだ続きますが,ちょっと長くなってきたので,続きはメモ(3)に書きます。

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