プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第四巻を読んだときのメモ第1弾。
まずは第三巻の続きから始まります。第三巻の終わりで,ソクラテスは国の守護者の在り様を語りました。それは,第三巻メモ(3) でも述べましたが,私有財産を持たず,自分の住居も持たず,(魂の中に金銀を持つという選ばれた人間なのだから) 報酬も貰えない,というものでした。読む人誰しもが,「そんなの全然幸福じゃない」と思うはずですがここでアデイマントスが読者に代わって (?) ソクラテスに問います。
それから,国家はどうあるべきかという話になってきます。国家が大きくなりすぎてはいけない…分裂してしまうからとか,教育・養育がそのために必要であるとか,法律ではどのようなことを規定すべきなのかとか。
そしてこれが第四巻のメインテーマになってくると思いますが,すぐれた国家は<知恵>,<勇気>,<節制>,そして<正義>を備えているとソクラテスは言い,それらは一体何なのか,ということが論じられます。ここでの<正義>の追求の仕方がちょっと面白いですがそれはメモ(2)で。
また,これを受けて,個人にも同様に<知恵>,<勇気>,<節制>,<正義>を当てはめることができる,ということになります…そもそも対話に国家というものを導入したのも,個人としての「正義とは何か」を考えるに当たって,まずは規模の大きい国家についての正義を考えて,それが分かれば遡って個人の正義が分かるだろう,という第二巻のいきさつがあるので,一種のターニングポイントになると思いますが,個人に当てはめる部分はメモ(3)に書く予定です。
以下は読書時のメモと考察です。
ここでアデイマントスが口をはさんで,次のように言った,
「ソクラテス,あなたは,もし誰かがこう主張したとしたら,いったい何と弁明なさるつもりですか?
―あなたのお話では,この人たちはさっぱり幸福ではないことになる。しかもそれは,彼らがみずから求めてそうしていることになる。なにしろ,国家はほんとうは彼らのものであるのに,この人たちは国家から何ひとつ善いものを享受しないのだから。たとえばほかの国の支配者たちだったら,土地を所有したり,立派な大邸宅を建てたり,それにふさわしい家具調度品をそなえたり,神々に個人的な犠牲を捧げたり,客人をもてなしたり,とくにあなたがいま言われた金や銀をはじめ,およそ人が幸福であるための条件として一般に認められているすべてのものを,所有しているというのに。しかるにこの人たちはといえば,何のことはない,まるで賃銭で傭われた兵隊のように,国のなかで,ほかに何もすることなしにただ見張りをしながら,坐っているだけのように見えるではありませんか。―とこのようにその人は言うでしょう」(419A)
ということで,第三巻の終わりの話に対する当然の疑問をアデイマントスはソクラテスにぶつけます。ソクラテスも,賃銭すら貰えないので,ある意味ではもっとひどいと認めます。しかし,ソクラテスは,今考えているのは「国家全体の幸福」であるとして,次のようにかわします。かわすというか,突き放します。
「いまの場合にしてもこれと同様であって,どうかわれわれに対して,国の守護者たちに守護者であることをやめさせて,他の何にでも仕立てることになるような,そのような性格の幸福を彼らに押しつけることを,強要しないでくれたまえ。というのは,それはわれわれにしても,たとえば農夫たちに豪華な礼装をまとわせ,黄金の冠をかぶらせて,どうにでも好きなように土地を耕すよう命じたり,また陶工たちにも,火のそばで寝椅子に左から右へ席につけてくつろがせ,楽しく宴をはって飲み交すように,轆轤はかたわらに放置して,気が向いた時だけ陶器を作ればよいというように命じたり,その他すべての人々をこうした仕方で仕合せにすることによって,国家の全体を『幸福』にするというやり方があることを,知らないではない。しかし,どうかわれわれにそういうやり方をとるよう忠告するのは,やめてもらいたいのだ。」(420D)
ここで挙げたような例は,個人の幸福ではあるかもしれない,と認めてはいます。しかしそうなると,「農夫はもはや農夫ではなくなり,陶工は陶工でなくなり,またそのほかの何びとも,相まって一国を成立させているそれぞれの特性を,もはや保持しなくなるだろうからだ」(421A)と言います。
以前にも思いましたが,デジタル的というか,個人としての幸福と,国家のための職責を全うするというのが両立できないという感じでしょうか。
さらに続きます。
「―このようにして,われわれのほうは,国に対してけっして害をなすことのないような,ほんとうの意味での守護者たちをつくりつつあるのに,かの反論をなす者がめざしている『幸福』とは,国家においてではなく,いわば祭の宴において御馳走をふるまって楽しむ農夫のような人たちのそれであるとすれば,この人の論じているのは国家の問題ではなくて,何か別のことだということになるだろう。
だから,われわれが考えなければならないのは,国の守護者たちを定めるにあたってのわれわれの目標は,できるだけ多くの幸福を彼ら守護者たちの内に与えられるようにということなのか,それとも,この点についてはむしろ国家の全体に目を向けて,全体としての国の中に幸福があるかどうかを見るべきであって,問題の補助者や守護者たちには,われわれの言う別のことを説得して行なわせるべきであるのか,ということなのだ。その別のこととはすなわち,彼らが自分自身の仕事に対してできるだけすぐれた専門の職人であるように,ということであって,この点はほかのすべての人々に対しても同じようにしなければならない。そしてこのようにして,国家の全体が成長してよく治められている状態のもとでこそ,それぞれの階層をして,自然本来的にそれぞれに与えられる幸福に,あずかるようにさせるべきである。…」(421B)
ここの後半で述べられている,「彼らが自分自身の仕事に対してできるだけすぐれた専門の職人であるように~この点はほかのすべての人々に対しても同じようにしなければならない」というのは,先取りしますが,<正義>とは「自分のことをする」ということの前触れ的な面があるように思います。
それはともかく,「彼ら」の幸福よりも国家全体の幸福,という考え方を世間一般に適用させることは,第一感,危険な発想というふうに思いますし,うまく行かないのではないかなとも思います。ただソクラテスも,「靴作りの職人が堕落しても国家にとってはたいしたことはないが,法律を守護する任の者たちについては,国家の全体を根底から滅ぼすことになる」と言っています(421A)。現代でも,政治家にはここでのソクラテスの話を適用させても尤もだという気がします。
「するとどうやら,ここにもうひとつ,守護者たちがあらゆる手段をつくして,国の中に忍びこんでくるのをけっして見逃さないように見張らなければならないものを,われわれは彼のために発見したことになるようだね」
「それは何のことですか?」
「富と貧乏のことだ」とぼくは言った,「ほかでもない,一方は贅沢と怠惰と,仕事本来のきまりの改変をつくり出し,他方はそういう改変のほかに,卑しさと劣悪な職人根性をつくり出すからだ」(421E)
前の話の流れで,何が職人を,そして守護者を劣悪にするのか?それは「富と貧乏」である,ということが言われます。
実感としては,これは確かにあるなと思います。貧乏はともかく,金があれば本来はもっとよい仕事をするための道具とか環境を手に入れることができ,技術を伸ばすことができると考えることもできますが,怠けてしまうと考えるほうが自然のような気もします。それとすごい技術者などは金にこだわっていないように見えます。あくまでそう思われるだけですが。
「それでは」とぼくは言った,「いまのことはまた,われわれの国の支配者たちにとって,国家の大きさをどれだけのものにすべきか,そしてそれだけの大きさの国家のためにはどれくらいの領土を区切り取って,それ以上の土地には手を出さずにいるべきかということの,最も適切な基準ともなるだろう」
「何が基準となるのですか?」
「ぼくの考えでは,次のことがその基準となる」とぼくは答えた,「すなわち,国家が一つであることをやめることなしに増大できるところまで増大させ,その限度を越えて増大させてはならない,ということだ」(423B)
中で貧富が生じないというのが国家の条件であると,ここでのソクラテスは考えているようです。そうでなかったら,それは1つの国家ではなく,それぞれが互いに争うことになると。
こうなると「国家」とは「単位」なのかなとも思います。というか元々,単位として国家を考えてきたはずで,ここではその仮定を適用しているに過ぎないのだという気もします。
また確かに,中が均質であれば課税や社会福祉などを平等に行なえるので,国家の事業としては,ソクラテスの言う国家というのは理想的なのかもしれません。逆に,均質でないところを平等にするのが国家の事業という気もします。いずれにしても,国家というものが分割できないもの,「単位」である,というのはある本質を言い当てているように思います。
「―すなわち,ほかの国民たちをもまたそのひとりひとりを,それぞれが生まれつき適している一つずつの仕事につけるべきであって,そうすることにより,国民のひとりひとりが自分に与えられた一つの仕事を果して,けっして多くの人間に分裂することなく真に一人の人間となるように,ひいてはそのようにして,国家の全体も自然に一つの国となって,けっして多くの国に分裂することのないようにしなければならないのだ,ということをね」(423D)
これは第三巻メモ(3) のところでもあった,身分に関係なく適材適所でという発想を受けています。
「そうするとどうやら」とぼくは言った,「守護者たちとしては,どこかそのあたりに見張所を建てなければならないようだね―つまり音楽・文芸のなかに」
「たしかに法に反したことでも音楽・文芸におけるそれは」と彼は言った,「やすやすと気づかれずに忍びこんでくるものですからね」(424D)
「事実またそれは,ほかには何もしないのですからね」と彼は言った,「こういう大へんなことを別とすれば。―すなわち,そういう音楽・文芸における違法というものは,少しずつ入りこんできては住みつき,じわじわと目立たぬように人々の品性と営みのなかへ流れ込んで行く。そしてそこから出てくるときには,もっと大きな流れとなっていて,こんどは契約・取引の上の人間関係の分野を侵すことになり,さらにそこから進んで法律や国制へと,ソクラテス,大へんな放縦さをもって向かって行き,こうして最後には,公私両面にわたるすべてを覆すに至るのです」(424D)
教育に関する興味深い指摘です。現在でも,「音楽・文芸」となっているところを「ネット(インターネット)」とか「スマホ」に置き換えると案外当てはまるような気がしますが,それはちょっと安易な譬えですかね。ここではもっと深いというか抽象的なことを言われていると思います。ただ,ここでは悪い面に焦点を当てていますが,逆のこともソクラテスはちゃんと言っています(メモでは省略)。
「だからまた」とぼくは言った,「そのようにして成長した人たちは,それまでの人々がすっかり失ってしまった,些細なものに思われているいろいろの習俗をもう一度,発見し直すことにもなるだろう」
「どのような習俗のことですか?」
「こういったものだ―若い者は年長者のそばでは,しかるべく沈黙していることとか,立ち上って席をゆずることとか,両親に仕えて世話することとか,さらにはまた,髪の切り方や服装や履物などの身だしなみ全般のこと,その他これに類することだ。それとも君は,ぼくの言うようには思わないかね?」
「思います」
「けれども,こうしたことを法律によって規定するのは,愚かなことだとぼくは思う。そんなことを言葉や文字で立法化してみたところで,効果もないし,長つづきもしないだろうからね」(425A)
ここも面白い部分で,いわゆる「最近の若い者」というのが当時もいたということが分かります(笑)。
でも,法律化することは愚かだとも言っています。最近,小学校で道徳教育を復活させるとかの話題を見ることがありますが,そういう考え方にもプラトンは与しないのでしょう。
次に続きます。
「いいえ」と彼は言った,「立派ですぐれた人たちに,いちいち指図するには及ばないでしょう。そうしたことのうち,規定される必要のあるかぎりの法律の内容は,そのほとんどを,彼らはきっと容易に自分で見出すことでしょうからね」
「そうだとも,君」とぼくは言った,「もしわれわれがすでにその前に語ったいくつかの法律を保持することを,神が彼らにお許しになるならばね」
「じっさい,もしそうでなければ」と彼は言った,「彼らは一生涯,たえずそのようなこまごましたたくさんの法律を,制定したり改正したりしながら過すことになってしまうでしょう。いつかは完全なものをつかまえることができると思って」
「君の言うそのような人びとの生き方は」とぼくは言った,「ちょうど,病気をしながら不節制のために良からぬ生活法から脱け出そうとしない人たちの場合と,よく似たものになるだろうね」(425D)
アデイマントスが非常に冴えたことを言っています。ここの最初の「立派で~」の言葉は,『国家』の中でも非常に印象に残っている一節です。ただそうすると,そもそも法律は必要なの?という発想も有り得ます。
『ポリティコス(政治家)』を読んだときにも思いましたが,法律というのは「網」で,その網を作っても現実というのは刻々と変化して網をすり抜けていきます。よって網というものを離散→連続に理想化したものを実現するのが,ここでソクラテスが目指している国家なのかなと思います(後で出ますが,いわゆる「哲人政治」が最たるもの)。が現実には近似としての法律も否定してはいないと。
「ではどうだろう」とぼくは言った,「彼らのこういう点は愛嬌があるのではないかね―もし誰かがほんとうのことを告げて,君は酔っぱらったり,たらふく食ったり,色欲に耽ったり,のらくら怠けたりするのをきっぱりとやめないかぎり,薬を飲んでも,焼いてもらっても,切ってもらっても,さらにはおまじないもお守り札も,そのほかそれに類するどのようなことも,何ひとつ君の為にはならないのだよと言う者がいると,誰よりもその人を憎むという点は?」
「あまり愛嬌もありませんね」と彼は答えた,「善いことを言ってくれる人に腹を立てるということは,愛嬌のあることではありませんからね」(426B)
「それなら,ついさっきわれわれが語っていたように,国家の全体がそれと同じようなことをする場合にも,きっと気味は讃美しないだろうね。それとも君には,次のような国家がしていることは,いま言ったような病人たちと,ちょうど同じことだとは思えないかね?すなわち,国のあり方そのものが悪いのに,国民たちには国制全体を動かすことを禁じて,これを犯す者は死刑に処する旨を告示する。そして他方,そのような悪しき体制のもとにあるがままの自分に最も快い仕方で奉仕してくれる者,自分にへつらい自分のいろいろな望みを察知することによって機嫌をとってくれる者,そしてそれらの望みを充たしてくれることに有能な者があれば,そのような者こそはすぐれた人物であり,国の重大事に関して知恵のはたらく人であって,国から名誉を授けられるであろうと告示するような,そういう国家のことだ」(426B)
ここはちょっと『ゴルギアス』を思い出します(518C あたり)。真実を言うことによって,相手に憎まれることがあり,逆に相手の欲望に応じると喜ばれる,とそこでは言われていましたが,国家についても同じようなことがここで言われています。
但し,ここでソクラテスは,そういう国家に奉仕し,そして自分が有能な政治家であると思い込んでいる連中については,無知ゆえのことで「愛嬌があり」,あまり腹は立てぬことだと言っています。また彼らは先述したような,こまごまとした法律を成立・改正することで何か解決できると思い込んでいると。
「それでは」と彼は言った,「われわれが法律を制定すべきこととしては,あとまだ何が残っていることになるでしょうか?」
ぼくは言った,
「われわれにはもう何も残っていない。しかしデルポイにいますアポロンにはなお,立法される事柄のうち最も重大で,最も立派で,第一のことを規定していただかなければならない」
「とおっしゃると,どのようなもののことですか?」と彼はたずねた。
「神殿の建立や犠牲の奉納をはじめとして,神々や神霊 (ダイモーン) や英雄神へのさまざまな奉仕のことだ。さらに,死者の埋葬その他,あの世の人々に仕えてなだめるために行なわなければならないすべての供養のこともある。」(427B)
今までの話を見ていると,「では法律で規定すべきものは何なのか?」と思うわけで,その一つは前に出た教育のことと言われたわけですが,別のものとして,神事に関することが言われています。
私の印象としては,不遜かもしれませんが,割とどうでもいいことこそを法律にするのだなと思います。どうでもいいというのは誤解がありそうですが,「これが正しい」ということが絶対になく,時代が移り変わっても変わらないもの,とでもいえばいいでしょうか。
「さあそれでは,アリストンの子よ」とぼくは言った,「これでもう君の国家の建設は,すっかり完了したことになるだろう。そこでつぎには,どこかから充分な明りを手に入れてきて,この国家のなかをしらべてみたまえ。自分でしらべるだけでなく,君の兄弟も,それからポレマルコスもその他の人々も,みな助けに呼びたまえ。―いったいこの国のうちのどこに<正義>があり,どこに<不正>があるか,両者は互いにどういう点で異なっているか,また,幸福になろうとする人が,すべての神々と人間に気づかれようと気づかれまいと所有していなければならないのは,どちらのほうなのか,といったことが,何とかしてわれわれに見てとれるかもしれないと期待しつつね」(427D)
ということで,ついに理想の国家が建設され (ちょっと呆気ない感がありますが),国家としての正義についての話題になっていきます。
続きはメモ(2)に。