プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第四巻を読んだときのメモ第3弾。
前回のメモ第2弾で,国家としての<知恵><勇気><節制>そして<正義>についての対話を見てきました。今回はその続きで,個人としての<正義>を考える部分です。
基本的には,国家の場合の延長線上にあります。というのは,「ひとが同じ名で呼ぶものは,それが大きなものであれ,小さなものであれ,同じ名で呼ばれるちょうどそのその点に関する限り,似ている」(435A) と言われているからです。しかし対話の中では,人の性質 (=国家と同じような<知恵><勇気><節制>に当たる) というものが魂全体から出てくるものなのか,それとも魂の内の別々のはたらきから出てくるものなのか,ということが大きなテーマとなり,それを説明するために順序だてられたソクラテスの話が面白いです。
最後に,国制に関する話題を始めたところでこの第四巻が終わります。
以下は読書時のメモです。
「しかるに,国家が正しい国家であると考えられたのは,そのなかに素質の異なった三つの種族があって,そのそれぞれが自己本来の仕事を行なっているときのことであり,さらにまた,それが節制を保った国家,勇気ある国家,知恵ある国家であるのも,同じそれらの種族がもっている他の状態と持前によるものであった」
「そのとおりです」と彼は答えた。
「してみると,友よ,個人もまたそのように,自分の魂のなかに同じそうした種類のものをもち,それらが国家における三種族と同じ状態にあることによって,当然国家の場合と同じ名前で呼ばれてしかるべきことになると,われわれは期待しなければならないだろう」(435B)
ここが丁度話題の転換点で,これ以後,国家としての<正義>→個人としての<正義>の追求へと移っていきます。
「そして,いいかね,グラウコン,ぼくの考えを打ち明けていえば,こうした問題をほんとうに正確にとらえるということは,われわれがいま議論のなかで採用しているような行き方をもってしては,けっしてできないだろう。その目標へ到達するための道としては,別のもっと長い道があるのだから。ただしかし,これまで語られ考察されてきた事柄に相応するような把握の仕方なら,できるだろうがね」(435D)
「こうした問題」というのは,直前のやりとりから,個人の魂の中身がどうなっているのか,ということだと思います。国家→個人という帰納的なアプローチによると,国家の場合は確かに人の魂,心というものは考えずに現実を基にしていたと思います。しかしながら,ソクラテスも読者も本当に解明したいのは (そしてなかなか解明できないのが),この問題という気もします。解説によると,「別のもっと長い道」は第六巻で取り上げられることになるようです。
「いったい,われわれは同じ一つのものによって,いま挙げられたようなそれぞれの性格のことを行なうのであろうか,それとも,三つの異なったはたらきのものがあって,そのそれぞれによって別々のことを行なうのであろうか。つまり,われわれは,われわれの内なるある一つのものによって物を学び,また別のものによって気概にかられ,さらにまた第三のものによって,食べたり生んだりすることや,すべてそれに類することにまつわるさまざまの快楽を欲望するのであろうか。それとも,われわれが行動を起すときにはいつも,われわれは魂全体によってそれらのひとつひとつのことをするのであろうか―。このような問題になると,納得の行くような決定を与えるのが難しいことになるだろう」(436B)
急に自問しだすこの辺からソクラテスの寝技にかかるというか,一体何が対話の目的なのかが分かりづらくなってくるところです(笑)。ただあとから振り返ってみると,これが結局「自分のことをする」という国家に関して言われた<正義>を個人にも適用するための種になっていることが分かります。
「いうまでもなく,同一のものが,それの同一側面において,しかも同一のものとの関係において,同時に,相反することをしたりされたりすることはできないだろう。したがって,もし問題となっているものの間に,そういう事態が起るのをわれわれが見出すとすれば,それは同一のものではなくて,二つ以上のものであったことがわかるだろう」(436B)
これも急に何を言ってるのかという感じですが,布石の1つです。教科書に載っている数学の証明とかで,「補遺」とか言って何の関係もなさそうな定理をまず証明しておいて,それが元の問題の証明の最後に使われたりすることがありますがそれに似ていますね。
それはそれとして,ソクラテスはここで「独楽は静止していると同時に動いている」といったパラドックスを明確に論破しています。この辺りは科学の本を読んでいるようです。
「では,以上のとおりだとすれば,われわれは,<欲望>というものがあるひとつの種類をなしていて,そのなかでいちばんはっきりしているのは,われわれが渇きと飢えと呼ぶものであると,こう主張してよいのではないかね?」
「ええ,そう主張するでしょう」と彼は答えた。
「一方は飲み物への,他方は食物への欲望なのだね?」
「ええ」
「ところで,渇きというものは,それがただ渇きであるかぎりにおいては,いま言われたもの以上の何かに対する,魂のなかの欲望であろうか?たとえば,渇きははたして熱い飲み物や冷たい飲み物に対する渇きであり,あるいはたくさんの飲み物や少しの飲み物に対する渇きであり,一言でいえば,何らかの性質の飲み物に対する渇きなのであろうか?それとも,渇きのうえに熱さの感じが加わってはじめて,それは冷たい飲み物に対する欲望となり,冷たさの感じが加わってこそはじめて,熱い飲み物に対する欲望となるというのが,ほんとうであろうか?また,多量という性格が加わることによって渇きが大きな渇きとなるならば,それはたくさんの飲み物に対する欲望となり,逆に渇きがわずかな渇きであるならば,少しの飲み物に対する欲望になるのではなかろうか?そして渇きそれ自体は,それの本来対象であるところの,飲み物それ自体以外のものに対する欲望となることはけっしてなく,同様にしてまた,飢えの対象となるのは,ただ単純に食べ物なのではないだろうか?」
「そのとおりです」と彼は言った,「それぞれの欲望それ自体は,ただもっぱら,その本来の対象であるそれぞれのもの自体に対するものであって,対象が『これこれしかじかの』ものであるのは,欲望のほうにも何かがつけ加わっている場合です」(437D)
ここは非常にプラトンらしさを感じる部分です。次にも書きますが,何というか数学的なんですよね。
「だがしかし」とぼくは言った,「およそ何かあるものとの相関関係において成立しているようなものは,ぼくの考えでは,その当のものが何らかの性質のものであれば,相関する相手も何らかの性質のものであるが,それぞれのもの自体は,ただそれぞれのもの自体との関係においてのみあるのだ」(438B)
続きですが,こういう話になると,数直線とか x-y 平面とか,あるいは関数型言語の Map 関数とか Functor 型のようなものを思い浮かべてしまいます。「飲み物」と「渇き」が線形独立である,といったイメージでしょうか。まあこれは自分のイメージなのでどうでもいいのですが。
「では,知識に関することはどうだろう?そのあり方は同じではなかろうか。知識とは,それ自体としては,ただ学ばれるものそれ自体の知識なのであり,あるいは知識の対象を他のどのような言葉で規定すべきであるにせよ,そのもの自体だけにかかわるものであるが,しかし,ある特定の知識,何らかの性質の知識は,ある特定のもの,何らかの性質のものを対象とする。ぼくの言う意味は,次のようなことだ。―知識が家を作ることの知識として成立した場合には,それは他のもろもろの知識から区別されて,建築術と呼ばれることになるのではないかね?」
「ええ,それに違いありません」
「それは,その知識が他のどの知識とも違うような,ある特定の性質の知識であることによってではないかね?」
「ええ」
「その知識は,ある特定の性質のものを対象とするからこそ,それ自身もある特定の性質の知識となったのではないか。そして同じことは,他のさまざまの技術や知識の場合にもいえるだろうね?」
「そのとおりです」(438C)
「何らかの性質のものを対象とする知識は,何らかの性質の知識」というのは当たり前のようですが,今までの話の延長線上で考えるとなるほどなと思います。対象がない知識 (というか,個人の「善」になるような知識?) というものが真の知識という,普通とは逆の (つまり具体的でない知識に意味はないだろうというのとは逆の) 結論になってしまうのでは,とも少し思います。
「そして,そのような行為を禁止する要因が発動する場合には,それは理を知るはたらきが生じて来るのであり,他方,そのほうへ駆り立て引きずって行く諸要因は,さまざまの身体条件や病的状態を通じて生じて来るのではないだろうか?」
「そう思われます」
「そうすると」とぼくは言った,「われわれがこう主張するのは,けっしていわれのないことではないというべきだろう―すなわち,それらは互いに異なった二つの別の要素であって,一方の,魂がそれによって理を知るところのものは,魂のなかの<理知的部分>と呼ばれるべきであり,他方,魂がそれによって恋し,飢え,渇き,その他もろもろの欲望を感じて興奮するところのものは,魂のなかの非理知的な<欲望的部分>であり,さまざまの充足と快楽の親しい仲間であると呼ばれるのがふさわしい,と」(439C)
この部分だけだと分かりづらいですが,「渇きは飲み物を欲するが,それでも人は飲み物を敢えて飲まない場合がある,それは魂の中の何か別のものである,それは何か」ということが考えられています。ここで<理知的部分>と<欲望的部分>というのが導入されます。
一番分かりやすいのが,「食べたい」(欲望) けど「食べると太る (あるいは持病が悪化する)」(理知) といったことだと思います。
「そしてそれはまた,ほかの多くの場合にもわれわれの気づくところではないかね」とぼくはつづけた,「欲望が理知に反して人を強制するとき,その人は自分自身を罵り,自分の内にあって強制しているものに対して憤慨し,そして,あたかも二つの党派が抗争している場合におけるように,そのような人の<憤慨>は,<理性>の味方となって戦うのではないかね?これに反して,自分に敵対する挙に出てはならぬと<理性>が決定を下しているのに,<気概>が<欲望>の側に与するということは,思うに,君はかつてそのような事態が君自身のうちに生じたのに気づいたことがあるとは主張できないだろうし,またほかの人のうちにしてもそうだろうと思うのだが」(440B)
欲望が理知に反する場合に,理知の側に立って戦うのが<気概的部分>ということが言われます。
実際には理知が欲望に負けることもしょっちゅうありますが,それでも気概というものは理知 (理性) の味方であり続けるものだと。
そういえば,なんかこの手の話題は,アリストテレスが三段論法を取り入れたりして精緻に分析していたような気もします。
「そうするとそれは,その<理知的部分>とも別のものなのだろうか,それとも<理知的部分>の一種族であり,したがって魂のなかには三つではなく二つの種族のもの―すなわち<理知的部分>と<欲望的な部分>と―があるだけだ,ということになるのだろうか?それとも,ちょうど国家において,金儲けを業とするもの,統治者を補佐する任をもつもの,政策を審議する任に当るものという,この三つの種族があって一国をまとめていたのと同じように,魂の内においてもまた,この<気概の部分>は第三の種族として区別され,悪しき養育によってだめにされないかぎりは,<理知的部分>の補助者であることを本性とするものなのであろうか?」(440E)
この辺りで気づくのですが,「三辺の比がそれぞれ等しい」という三角形の相似条件に当てはめるように,先に考えた国家と今考えている個人というものが相似ていると考えようとしているのが分かります。
「しかるに,この点はわれわれがよもや忘れてしまっているはずのないことだが,国家の場合は,そのうちにある三つの種族のそれぞれが『自分のことだけをする』ことによって正しいということだった」
「忘れてしまっているとは思いません」
「すると,ここでわれわれは,われわれのひとりひとりの場合もやはり,その内にあるそれぞれの部分が自分のことだけをする場合,その人は正しい人であり,自分のことだけをする人であるということを,憶えておかなければならないわけだ」(441D)
ということで,個人の場合にもやはり『自分のことだけをする』ことが<正義>だと言われます。
もっとも,素直に「自分のことだけをすることが正義」という言葉にしてしまうと,あまりにも誤解を生みそうなところではあります。<理知的部分>と<欲望的部分>と<気概的部分>のそれぞれがそれぞれのことだけをするように自分を戒める,と考えると途方も無く難しく感じます。
「そしてわれわれは,思うに,この部分のゆえに一人一人の人間を勇気ある人と呼ぶことになるのだ。すなわちそれは,その人の<気概の部分>がさまざまの苦痛と快楽のただ中にあって,恐れてしかるべきものとそうでないものについて<理性>が告げた指令を守り通す場合のことだ」
「正しい呼び方です」と彼は答えた。
「他方,知恵があると呼ぶのは,その人のうちで支配し,それらの指令を告げたあの小さな部分によるのであって,この部分もまた,三つの部分のそれぞれにとって,またそれらの部分からなる自分たちの共同体全体にとって,何が利益になるかということの知識を,自分の内にもっているのだ」
「ええ,たしかに」
「ではどうだろう,節制ある人と呼ぶのは,それらの部分の相互の間の友愛と協調によるのではないかね?すなわちそれは,支配する部分と支配される二つの部分とが,<理知的部分>こそが支配すべきであることに意見が一致して,この支配者に対して内乱を起さない場合のことだ」
「確かに節制とは」と彼は言った,「それ以外のものではありません。国家の場合も,個人の場合も」(442B)
<勇気><知恵><節制>についても,国家と同様であるということがここで言われます。実際,ここで言われていることは実感としてもそうだなあと思うことです。
「ただし実際には,グラウコン,それは―だからこそ役にも立ったわけだが―<正義>の影ともいうべきものだったのだ。生まれついての靴作りはもっぱら靴を作って他に何もしないのが正しく,大工は大工の仕事だけをするのが正しく,その他すべて同様であるという,あのことはね」
「そのようです」
「真実はといえば,どうやら,<正義>とは,たしかに何かそれに類するものではあるけれども,しかし自分の仕事をするといっても外的な行為にかかわるものではなくて,内的な行為にかかわるものであり,ほんとうの意味での自己自身と自己自身の仕事にかかわるものであるようだ。すなわち,自分の内なるそれぞれのものにそれ自身の仕事でないことをするのを許さず,魂のなかにある種族に互いに余計な手出しをすることも許さないで,真に自分に固有の事を整え,自分で自分を支配し,秩序づけ,自己自身と親しい友となり,三つあるそれらの部分を,いわばちょうど音階の調和をかたちづくる高音・低音・中音の三つの音のように調和させ,さらに,もしそれらの間に別の何か中間的なものがあればそのすべてを結び合わせ,多くのものであることをやめて節制と調和を堅持した完全な意味での一人の人間になりきって―かくてそのうえで,もし何かをする必要があれば,はじめて行為に出るということになるのだ。それは金銭の獲得に関することでも,身体の世話に関することでも,あるいはまた何か政治のことでも,私的な取引のことでもよいが,すべてそうしたことを行なうにあたっては,いま言ったような魂の状態を保全するような,またそれをつくり出すのに役立つような行為をこそ,正しく美しい行為と考えてそう呼び,そしてまさにそのような行為を監督指揮する知識のことを知恵と考えてそう呼ぶわけだ。逆に,そのような魂のあり方をいつも解体させるような行為は,不正な行為ということになり,またそのような行為を監督指揮する思わくが,無知だということになる」(443C)
今まで,何かと職人とか技術といった譬えが使われてきましたが,ここでは,<正義>とは魂の状態の保全という,とても内的なものである,ということが言葉を尽くして言われています。
そうありたい,とは思います。プラトンの著作全般に言えることですが,というか所謂哲学というものがそうなのかもしれませんが,結論が抽象的な場合が多いと思います。これは,(学問としてとらえる場合は別ですが,生きたものとするためには) それを目指すことに意味がある,ということかなと思います。具体的な結論がある場合にはそれをすればよいのですが,そういう簡単な問題ばかりではないでしょう。
「それでは<不正>とは,こんどは,三つあるそれらの部分の間の一種の内乱であり,余計な手出しであり,他の分をおかすことであり,魂の特定の部分が魂のなかで分不相応に支配権をにぎろうとして,魂の全体に対して起す叛乱でなければならないのではないか―その部分は本来,支配者の種族に属する部分に隷属して仕えるのがふさわしいような性格のものなのにね。思うに,何かそのようなこと,すなわちそれらの種族の混乱や本務逸脱が,不正,放埓,卑怯,無知,一言で言えばあらゆる悪徳にほかならないのであると,われわれは主張すべきだろう」(444B)
<正義>の反対の<不正>についても考察されます。自明なことという感じもしますが,正義←→不正,節制←→放埓,勇気←→卑怯,知恵←→無知,という対義になっていることが分かります。
「しかるに,健康をつくり出すということは,身体のなかの諸要素を,自然本来のあり方に従って互いに統御し統御されるような状態に落着かせることであり,他方,病気を生じさせるとは,それらの要素が自然本来のあり方に反した仕方で互いに支配し支配されるような状態をつくり出すことにほかならない」
「たしかにそうです」
「他方また」とぼくは言った,「<正義>をつくり出すということは,魂のなかの諸部分を,自然本来のあり方に従って互いに統御し統御されるような常態に落着かせることであり,<不正>をつくり出すとは,それらの部分が自然本来のあり方に反した仕方で互いに支配し支配されるような状態をつくり出すことではないかね」
「まさしくそうです」と彼。
「してみると,どうやら,徳とは魂の健康にあたるものであり,美しさであり,壮健さであるということになり,悪徳とはその病気であり,醜さであり,虚弱さであるということになるようだ」(444D)
魂を身体の健康・病気に譬えるというのは何度もなされていると思います。自然本来のものが健康であり正義である,というのはいわゆる性善説を思い浮かべます。
「これでもう,どうやらわれわれに残されているのは,こんどは,正しいことを行ない,美しい仕事を営み,正しい人であることが―そのような人であると知られていようといまいと―得になるのか,それとも,不正を行ない不正な人であることが―罰を受けず,善き人になるための懲らしめを受けずにすまされるなら―得になるのか,という点を考察することだろうね?」(444E)
第二巻メモ(1) で,「不正でありながら周りから正しいと思われている人」「正しいのに周りから不正と思われている人」を想定し,それでも正義を守るべきなのか?というグラウコンからの厳しい問いがありました。そもそもそれが,理想国を創造するきっかけだったわけで,やっとそこに戻ってきたという感じです。尤もその当のグラウコンは,「身体の本来のあり方がだめになっているとしたら,たとえありとあらゆる食物や飲み物,あらゆる富とあらゆる地位を与えられるとしても,人生は生きるに値しないと思われています」(445A) と,「ばかげた考察」だと言ってしまっていますが。
また,『ゴルギアス』などでも似たことは考察されていました。
「国制のあり方がいろいろあって」とぼくは言った,「いくつかの種類に区別されるのに応じて,どうやら魂のあり方のほうも,ちょうどそれと同じ数だけあるようなのだ」
「いったい,いくつあるのですか?」
「国制のあり方も魂のあり方も」とぼくは言った,「それぞれ五つずつ」(445C)
ということで,国制のあり方にテーマが移っていくことになり,ここまで言われてきた理想国では支配者の数によって<王制><優秀者支配制(アリストクラティアー)>と呼ばれる…と言われたところで第四巻が終わります。
この後,第五巻では王制の話の続きから始まる…と思いきや実際には,アデイマントス,ポレマルコス,トラシュマコスといった人物に引き止められ,別のテーマを論じることになります。それは「3つの大波」と言われる割と衝撃的な提案を含みます。
というわけで,続く…。