プラトン『国家』第五巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第五巻を読んだときのメモ第1弾。

第四巻の最後で,様々な国制について論じていこうとしており,第五巻のテーマも当然それになると思われましたが,そこでポレマルコスやトラシュマコスといった,第一巻で対話相手だった人物が久々に登場して,妻の問題,子供の問題についてのソクラテスの説明が足りないと異議を唱えます。
ソクラテス自身も,その点については騙しおおせようとするつもりだったことを認めます(笑)。そして男女の問題,妻子の共有の問題,そしてそういった理想の国制を実現するための条件といういわゆる「3つの大浪」を語ります。

1つ目の男女の問題は,今日でも通用するような (勿論科学的な知見の隔たりはあると思いますが) 非常にニュートラルで先進的な男女区別の論だと思いました。2つ目の妻子の共有の問題は,逆にぱっと見かなりトンデモな説としか思えません(笑)。いや,それもある種の先入観に囚われているからかもしれません。

3つ目の最大の大浪は,「哲人政治論」として『国家』の内容としても最も有名なものの内の1つだと思われます。全十巻の丁度中間地点,5合目まで来た読者へのご褒美?として非常に興味深い内容です。またこの辺りは本格的にいわゆるイデア論が導入されてくる箇所とも思われます。

本メモ第1弾では,1つ目の大浪についての対話の内容がテーマで,第2弾,第3弾でそれぞれの大浪について取り上げる予定です。

以下はメモです。

ここでぼくはそうした国家のことを,それぞれが一つから他の一つへと移り変って行くようにぼくに思われた順序に従って,つぎつぎに語って行くつもりであった。
ところが,ポレマルコスが―彼はアデイマントスから少し離れて坐っていたので手をのばし,アデイマントスの上着の肩のところを上から掴んで彼を引き寄せ,自分も身を乗り出しかがみこんで,何か二言三言ささやいた。ほかのことは何も聞きとれなかったが,彼がこう言ったのだけは耳に入った―「放免することにしようか?それともどうしたものだろう?」(449B)

「どうも私たちには」と彼は言った,「あなたがずるけて楽をしようとして,議論のなかから,けっして些細なものではない論題の全体をそっくりと,説明を避けるためにひそかに省いてしまっているとしか思えないのです。そしてあんなことをいともぞんざいに言ってのけながら,何とかごまかせるだろうと考えておいでのようです―妻女と子供については『友のものは皆のもの』になるだろうということは誰にも自明のことだ,などとね」(449C)

ということで,ソクラテスが色んな国制について話そうとしたところで,待ったがかかります。この劇場型の展開が面白いです。

ぼくは言った,
「このぼくを掴まえて,何ということを君たちはしてくれたのだ。国制の問題について,まるで最初から出直すのと変りのないような,どれほど大へんな議論を君たちはあらためて呼び起してくれるのか!ぼくとしては,この国制についてはもう話はすんだつもりで,よろこんでいたところなのに。君たちが言ったその問題は,あのとき言われたとおりに受け入れてくれて,そのままそっとしておいてもらえれば有難いと思いながらね。それをいま君たちはわざわざ呼び出すことによって,どれほどの議論の大群を呼び覚ますことになるか,君たちにはわかっていないのだ。ぼくにはその大群がまざまざと見えていたので,これはひどく厄介なことになりそうだと,それを回避するためにあのときは素通りしたのだが」(450A)

ソクラテスは,かなり強い調子でたしなめますが,半面,大きな問題であることを承知で,それを素通りしたことを認めます。
大きな問題であることを自覚しながらスルーしようとしたのは不誠実でソクラテスらしくないという気もしますが…。

「なるほど,自分の言おうとする事柄についてちゃんと知識をもっているという自信がこのぼくにあるのなら,その激励も役に立ったことだろう。なぜなら,もののわかった親しい人たちのなかで,最も重要で自分に親しい事柄について,真実を知っていて語るということは,安全で心もはずむことだからね。しかし,ぼくがまさにしようとしているように,確信もなく模索しながら同時に論をなすというのは,不安であぶなっかしいことだ。笑いものになるのがこわいのではない。そんな恐れなら,子供じみたことだからね。そうではなくて,真理を逸してつまずき,およそ最もつまずいてはならない事柄について,自分ばかりか親しい人たちまでも巻きぞえにして倒れることになるのではないかと,それがこわいのだ」(450E)

その問題を語らなかったのは,「確信もなく模索しながら同時に論をなす」ようなことだったから,「不安であぶなっかしいこと」だからと述べています。
心情としては,理解できる気もします。誰しも確信がないことを論じることほど,不安なこともなく,常に真理を探究するソクラテスにすればなおさらでしょう。
まあ何にしてもこれがプラトンの脚色で,ここで言われる「3つの大浪」については自分としても相当の衝撃を読み手に与えるということを,予め弁明しているフシが本巻には沢山出てきますがこれもその一環と言ってしまえばそれまででしょう。しかし後でも述べますが,こういうソクラテスの人間的な像を読者が読み取ることができる (→プラトンの人間像でもある) というのが対話篇の面白さです。

「いったい番犬のうちの女の犬たちは,男の犬たちが守るものと同じものをいっしょに守り,いっしょに獲物を追い,またそのほかの仕事も共通に分担しなければならないと,われわれは考えるだろうか?それとも,牝犬のほうは,子犬を産んで育てるためにそうした仕事はできないものとして,家の中にいるべきであり,牡犬が骨折り仕事や羊の群の世話いっさいを引き受けなければならに,と考えるだろうか?」
「すべての仕事を同じように分担しなければなりません」とかれは答えた,「両性の体力的な弱さ強さの差を考慮する点をのぞいてはね」
「ところでどんな動物でも」とぼくは言った,「共に同じ養育と教育を与えないでおいて,共に同じ目的のために使うことができるだろうか?」
「いいえ,できません」
「そうすると,女子も男子も同じ目的のために使おうとするなら,女たちにも同じことを教えなければならないわけだ」
「ええ」
「しかるに,男子には音楽・文芸と体育とが課せられたのだった」
「ええ」
「してみると,女子にもこの二つの術を課するほか,戦争に関する事柄も習わせ,そして男子と同じように扱わなければならないことになる」(451D)

ということで男女の区別についての対話に入っていきますが,ある意味ではこのグラウコンの言葉「すべての仕事を同じように分担しなければなりません」「両性の体力的な弱さ強さの差を考慮する点をのぞいてはね」で答えがコンパクトに尽くされていると言えるのかもしれません。

「しかしながら,思うに,人々が実際にやってみるうちに,着物を脱いで裸になるほうが,すべてそうしたことを包みかくすよりもよいとわかってからは,見た目のおかしさということもまた,理が最善と告げるものの前に,消えうせてしまったのだ。そしてこのことは,次のことを明らかに示した。すなわち,悪いもの以外のものをおかしいと考える者は愚か者であること。また,無知で劣悪なものの姿以外の何らかの光景に目を向けて,それをおかしいと見て物笑いの種としようとする者は,逆に美しいものの基準を真剣に求めるにあたっても,善いものを基準とせずに別の何かを目標として立てるものだということ」(452D)

着物を脱いで裸になるほうがよい,という理由はここでは分かりません…。ともあれここで印象に残ったのは,後半部分です。何かと笑いを取ることが重視される世の中なので。それは何なのか,と少し考えさせられます。

「『それなら君たちがいま言っていることは間違っているし自己矛盾だということに,どうしてもならざるをえないのではないか―何しろ君たちはこんどは逆に,男たちも女たちも,それぞれの自然本来の素質がまったくかけ隔っているにもかかわらず,同じことをしなければならないと主張しているのだからね』
―さあ君,これに対して何か弁明することができるかね?」
「そう急に言われても」と彼は言った,「とても容易に答えられるものではありません。」(453C)

男女の自然本来の素質が異なるのなら,すべきことも異なるのではないか,という仮想的な問いです。

「ほかでもない」とぼくは言った,「多くの人々が,自分ではそんなつもりでなくてもその中にはまりこんでしまって,実際には口論しているだけなのに,そうではなくて自分はまともな対話をしているのだ,と思いこんでいるようにぼくには見えるからだ。それというのも,彼らは論題になっている事柄を,その適切な種類ごとに分けて考察することができずに,ただ言葉尻だけをつかまえては相手の論旨を矛盾に追いこもうとするからなのであって,その場合お互いにしているのは,ただの口論であって対話ではないのだ」(454A)

ここでのソクラテスの言葉は,その前の仮想の議論相手の問いに対するものですが,なんかこの一節だけ取ってみても十分に通る内容だなという気がします。プラトンは「口論」「議論」という言葉を否定的に使ってソフィストと関連付け,「対話」という言葉を肯定的に使ってソクラテスや真実の探求の象徴と関連付けていると思います。

「同一ならざる自然的素質は同一の仕事にたずさわってはならないということを,われわれはまことに勇ましくもまた論争家流に,ただ言葉の上だけで追い求めている。他方しかし,いったいその自然的素質が異なるといい同じであるというのがどのような種類のものなのか,またわれわれが違った自然的素質には違った仕事を,同じ自然的素質には同じ仕事を割り当てたときに,その素質の異同ということをとくに何に関係するものとして規定したのか,といったことは,まったく考慮に入れていなかったのだ」(454B)

「だから」とぼくは言った,「男性と女性の場合についても同じように,もしある技術なり仕事なりにどちらか一方がとくに向いているとわかれば,そういう仕事をそれぞれに割り当てるべきだと,われわれは主張するだろう。けれども,もし女は子供を生み男は生ませるという,ただそのことだけが両性の相違点であるように見えるのならば,それだけではいっこうにまだ,われわれが問題としている点に関して女が男と異なっているということは,証明されたことにはならないと主張すべきだろう。そしてわれわれは依然として,われわれの国の守護者たちとその妻女たちとは,同じ仕事にたずさわらないければならないと考えつづけるだろう」(454D)

非常に論理的にソクラテスが問題を片付けたという印象です。もしこれに反論するとしたら,生物学的または統計的にここでいう「守護者」としてどちらかの性が優れているということを示す必要があると思います。
またここでは引用してませんが,「料理をしたり着物を織ったりということも,女性が得意だと思われている(が素質は男女とは関係ない)」ということも言われています(455C)。これもその通りだと思うわけですが,他方で,プラトンの時代も現代も結局あまり変わっていないというのは,男女区別の問題が今も昔も本質的に変わっていないということなのかと思う一方,それとも科学的に証明されていないだけでやはり女性の方がそういうことに向いているという原因が何かあるのではないか,という思いを抱かないでもありません。前者だとは思いますが。

「さあでは,答えてくれたまえ,とわれわれはその人に言うだろう―
自然本来の素質においてあることに向いているがある人は向いていない,と君が言っていたのは,一方の人はそのことを楽々と学ぶのに対して,他方は難渋しながら学ぶという場合のことかね。また一方は一を聞いて十を知るが,他方はさんざん教えられ練習しながら,教えられたことをおぼえることさえできないということかね。さらにまた,一方の人にあっては身体が精神に仕えてじゅうぶんに役立つのに,他方の人にとっては逆に妨げになるということかね。―はたして君は,こういったこと以外の何かによって,それぞれの事柄に生来向いている人とそうでない人とを区別していたのかね?」(455B)

ここではつまり,男女というのは「できる」「できない」という素質に全く介在するものではないということが言われています。そんなのはどっちにも関係なくできる人はできるしできない人はできないと。

「そうとすれば,友よ,国を治める上での仕事で,女が女であるがゆえにとくに引き受けねばならず,また男が男であるがゆえにとくに引き受けなければならないような仕事は,何もないということになる。むしろ,どちらの種族にも同じように,自然本来の素質としてさまざまのものがばらまかれていて,したがって女は女,男は男で,どちらもそれぞれの自然的素質に応じてどのような仕事にもあずかれるわけであり,ただすべてにつけて女は男よりも弱いというだけなのだ」(455D)

「したがって,国家を守護するという任務に必要な自然的素質そのものは,女のそれも男のそれも同じであるということになる。ただ一方は比較的弱く,他方は比較的強いという違いがあるだけだ」(456A)

「女は弱く,男は強いが自然的素質そのものは同じである」というのは簡単な結論といえると思いますが,現代でもそれなりに当てはまりそうです。ただ「女の方が弱い」ということを認めることが差別であると解釈すると,というかそれこそが,男女格差を助長するような気もします。
例えば,学校のマラソン大会で男子の方が距離が長く,女子の方が距離が短いということがあったとして,プラトンは決して差別とは言わないであろうことは話の流れから自明です。少し前のもそうですが,違いを認めることと区別・差別をするということは違うという,今でもよく言われそうなことがここでは書かれていて新鮮です。

「それならば守護者の妻女たちは着物を脱がなければならない―いやしくも,着物の代りに徳 (卓越性) をこそ身に着けるべきであるからには。そして戦争その他,国家の守護にかかわる任務に参加すべきであり,それ以外のことをしてはならないのだ。ただそうした任務そのもののうちでは,女性としての弱さを考慮して,男たちよりも軽い仕事を女たちに割り当てなければならないけれども。
裸の女たちを―それが最善のことであるがゆえに裸で体育にいそしむ女たちを―笑いものにするあの男はといえば,彼はまさしく『笑いの未熟な実を摘み取る者』にほかならず,どうやら,自分が笑っているものが何であるかをまったく知らず,自分のしていることの意味もわからないもののようだ。なぜならば,現在も未来も変らぬこの上なき名言は,こう告げているからだ―益になることは美しく,害になることは醜い,と」(457A)

もっと上にも出てきましたが,まあ別に着物を脱ぐことはないと思いますがね(笑)。
ところでこういう,最善であるからと裸になるというようなことと,そういうものを笑いものにするということは,対極にあることという気がします。個人的には前者を突き進むソクラテスは流石に堅苦しすぎるという気がします (まあこれが過激な言説だとは自身も認めていると思いますが)。かといって善なるものを笑いものにするのがいい傾向とも思えません。

「さてこれでわれわれは,女性に関する法を語るにあたっての,いわば一つの大浪を,無事に逃れることができたと主張して差支えないだろうね」(457B)
「ところが」とぼくは言った,「このつぎにやってくる浪を君が見たら,いまのを大きいなどとは言わなくなるだろう」(457C)

ということで第一の大浪についてはここまでです。この男女の問題については,ソクラテスの論理的かつ自然本来の素質を尊重する特徴がよい方に働いて,現在でも通用する説になっているのではないかと思います。次がとんでもないだけにね…。

で,ここからそのさらに凄い大浪が来るとソクラテスが予告している通り,また次も衝撃的な内容が語られますが続きはメモ(2)で。

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