プラトン『国家』第六巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第六巻を読んだときのメモ第1弾。

第五巻では,3つの大浪という大きなテーマが扱われ,最後の大浪である「哲人王(哲人政治)」論が非常にインパクトを残しました。つまり「哲学者」が政治を行なうか,政治を行なうものが哲学を行なうべきであると。
この第六巻は,その「哲学者」を段々と浮き彫りにしていくという感じなのが前半です。プラトン (ソクラテス) が言う哲学者というものと,世の中の人が「役立たずで碌でなし」だと思っているという哲学者の,主客両面において論じられます。そして後半にはいよいよイデア論の3つの比喩のうちの「太陽の比喩」「線分の比喩」が出てきます。

今回改めて (2度目) 読んでみると,この第五巻~第六巻の流れは,プラトンが言う「哲学」というものを考える上では非常に重要な部分だなと思います。また今まで漠然と捉えていた「イデア論」というものが,この「哲学」とはっきり自分の中で結びついた感じがします。

このメモ第一弾では,前半の,哲学者に関するテーマの部分です。

「さて,グラウコン」とぼくはつづけた,「どのような人々が哲学者 (愛知者) であり,どのような人々がそうでないかということは,これまでのいくらか長い議論の末に,やっとどうやら明らかになったわけだね」(484A)

これは第五巻メモ(3) で扱ったようなことを受けています。「真実を観ることを,愛する人たち」(475E) というのが僕のお気に入りですが,それ以外にも色んな例を交えて単に知識を持つだけの人と区別されていました。

「では,われわれとしては」と彼は言った,「つぎに何をなすべきでしょうか?」
「まあ,順序をふんで行くよりほかはないさ」とぼくは言った。「哲学者とは,つねに恒常不変のあり方を保つものに触れることのできる人々のことであり,他方,そうすることができずに,さまざまに変転する雑多な事物のなかにさまよう人々は哲学者ではない,ということであれば,いったいどちらの種類の人々が,国の指導者とならなければならぬだろうか?」(484B)

国の指導者としてふさわしいのは,哲学者とそうでない人のどちら?という二択として再度問われていますが,「つねに恒常不変のあり方を保つもの」というのは勿論イデアを指していると思われます。ただイデアという概念は別にしても,ソフトウェア開発でも「安定したものに依存せよ」というようなオブジェクト指向での格言がありますが,変りやすいものと変りにくいものをちゃんと区別して,変りにくいものに拠り所を置けるほうが結果的に変りやすい情勢等に対応できることになるのかなと思ったりします。

「まず次の点は,哲学者たちの自然的素質について,すでにわれわれのあいだで同意ずみのこととしておこう。すなわち,彼ら哲学者たちは,生成と消滅によって動揺することなくつねに確固としてあるところの,かの真実在を開示してくれるような学問に対して,つねに積極的な熱情をもつということ」(485A)

ここから,哲学者の自然的素質について対話されます。哲学者の自然的素質が,前に述べられた国家の守護者の素質と一致すれば,哲学者が守護者となる根拠となることになります。

「ではつぎに考えてもらいたい。―将来,われわれが語ったような者になるべき人々は,いまのことに加えて,その自然的素質のなかにこういう点がなければならないかどうか」
「どのような点が,ですか?」
「偽りのなさ,すなわち,いかなることがあっても,けっしてみずからすすんで虚偽を受け入れることなく,これを憎み,そして真実を愛するという点だ」
「当然そうあってよいことです」と彼は言った。
「そうあってよいどころではない,友よ,およそ何ものかに対して生まれつき恋ごころをいだく者ならば,その恋する相手と同族・親近のものすべてに対して,どうしても愛情を寄せずにはいられないはずだ」(485B)

最初の条件もそうですが,大体同じようなことを繰り返している感もあります(笑)。ただ,ソクラテスの口調の強弱というのはあり,ここの「虚偽を憎んで真実を愛する」というところは,いい加減に同意したグラウコンに追撃を行なっています。
僕自身もこのフレーズは思い入れがあり,寺田寅彦の「夏目漱石先生の追憶」に似た内容が書かれています。哲学者に限らず,寅彦のような科学者にとっても,漱石のような文学者にとっても,真実を愛し偽を憎むというのは人として大切なことなのでしょう。

「ある人の欲望が,ものを学ぶことや,すべてそれに類する事柄へ向かってもっぱら流れている場合には,思うに,その人の欲望は,魂が純粋にそれ自身だけで楽しむような快楽に関わることになり,肉体的な快楽については,その流れが涸れることになるだろう。もしその人の<知>を求める気持が,見せかけだけのものでなく,心底からのものだとすればね」(485D)

これも『国家』でしばしば使われるデジタル的論理だと思いますが,真実を求めようとするならば他の雑多な欲望に気をとられることはないと。

「さらにまた,もうひとつ,君が哲学的素質とそうでないものとを区別しようとするとき,しらべなければならぬ点がある」
「と言いますと?」
「けちな根性を少しでももっているのを見逃してはいけない,ということだ。なぜなら,およそ狭量な精神というものくらい,万有の全体を―神的なものも人間的なものも―つねに憧れ求めようとするほどの魂と,正反対の性格のものはないからだ」(486A)

ここはケチな自分には耳が痛い部分です(笑)。昨今ではエコであるという風に褒められることもあり,それは「節制」にも繋がることもあると思うケチですが,狭量な精神をそういう耳障りのよい言葉にすり変えることがないようにしないととは思います。

「それならどうだろう―端正で,物欲がなく,けちな奴隷根性もなく,ほら吹きでもなく,臆病でもないような人が,つき合いにくい人間だったり,不正直だったりすることがありうるだろうか?」
「ありえません」
「それなら君は,その点についても,哲学者たるべき魂かそうでないかをしらべるにあたって,相手が幼少のころから早々に,よくしらべなければならないだろう。つまり,公正にして穏和な魂であるか,それとも,交わりがたく粗暴な魂であるかをね」(486B)

途中飛ばした部分もありますが,この引用の始めに述べられているような魂を持つのが哲学者であるというまとめです。なかなかいそうでいないのかもしれません。

「してみると,われわれは,他のさまざまの条件に加えて,生まれつき度を守り優雅さをそなえた精神を求めるべきだろう。そのような精神は,もって生まれた素質におのずから促されて,それぞれの真実在の実相へと容易に導かれて行くだろうから」(486D)

「では,哲学がこのような仕事であるとすれば,君はこの仕事に対して,一点の非難の余地でも見出すことができるかね?それは,生来の自然的素質において記憶がよく,ものわかりがよく,度量が大きく,優雅で,真理と正義と勇気と節制とを愛して,それらと同族の者でないかぎり,けっしてじゅうぶんに修めることのできないような仕事なのだ」(487A)

最後の「真理と正義と勇気と節制」というのは,第四巻で国家および守護者が備えるべきものとして挙げられていたものです。

「私がこのようなことを言うのは,現状に目を向けたうえでのことなのです。なぜなら,現にいま,人は次のように言うかもしれませんからね―
『たしかに,言葉のうえでは,質問されたひとつひとつの点についてあなたに反対することはできない。しかし事実において目にするところは違うのだ。実情はといえば,哲学を志して,若いときに教養の仕上げのつもりでそれに触れたうえで足を洗うということをせずに,必要以上に長いあいだ哲学に時を過した人たちは,その大多数が,よしまったくの碌でなしとは言わぬとしても,正常な人間からほど遠い者になってしまう。最も優秀だと思われていた人たちでさえも,あなたが賞揚するこの仕事のおかげで,国家社会に役立たない人間となってしまうことだけはたしかなのだ』」(487C)

ここから少し場面が転換します。アデイマントスが,現実に哲学がどう人々から思われているか,ということを問題にして,ソクラテスに問います。ここで言われていることは,『ゴルギアス』でカリクレスが言ったことに似ています。

「聞かせてあげよう―このぼくには,彼らの言うことがほんとうだと思われる,とね」
「それならいったい」と彼は言った,「哲学者たちが国々を支配するときが来るまでは国家は禍いから解放されないだろうと言える根拠が,どこにあるのです?その当の哲学者たちが国の役に立たない人間であるということに,われわれが同意するとしたら?」(487D)

「えっ本当なんですか?」と思わず言いたくなるところです。勿論プラトンは,哲学者そのものが役に立たないとソクラテスに言わしめているわけではない,と思います。

「それではまず,哲学者たちが国のなかで尊敬されていないことを不思議がっているとかいうその人に,いまの比喩を教えてやりたまえ。そして,もし哲学者たちが尊敬されたとしたら,そのほうがよほど不思議だということを,納得させるように努めてくれたまえ」
「ええ,教えてやりましょう」と彼。
「それからまた,君の言うことは正しい,たしかに哲学をしている最もすぐれた人々でさえ,一般大衆にとっては役に立たない人間なのだ,ともね。ただし,役に立たないことの責は,役に立てようとしない者たちにこそ問うべきであって,すぐれた人々自身に問うべきではないのだと,命じてやりたまえ。…本来からいえば,金持ちであろうが貧乏人であろうが,病気になれば医者の門を叩かなければならないし,一般に支配を受ける必要のある者はすべて,支配する能力のある者の門を叩かねばならぬというのが,ほんとうなのだ。いやしくも真に有為の支配者であるならば,支配者のほうから被支配者に向かって,支配されてくれなどと願うべきではない」(489B)

間を結構飛ばしましたが,この直前に,船と船乗りの比喩による説明がソクラテスからなされています。多くの船乗りは技術を学んだこともないのに,自分に舵を任せてくれと船主に頼み込み,反対する人を追い落とそうとする。また,本当に技術を持っている人を,役立たず呼ばわりする,というような内容です。
前の段で,「彼らの言うことは本当だと思われる」とソクラテスが言ったのは,「一般大衆にとっては」という意味なのだろうと思います。ただ,ここでの「役に立たないことの責は,役に立てようとしない者たちにこそ問うべき」なども含めて結構上から目線な感じは受けますね。プラトンらしくはありますが。

「つぎに,こんどは,多くの人々がなぜ碌でなしにならざるをえないかということのほうについて,話すことにしようか。そしてできれば,このことの原因もやはり,哲学そのものにあるのではないということを,示すように努めようか」(489D)

「それなら,次のように言えば,われわれは哲学者を適切に弁護することになるのではないだろうか?―すなわち,心底から学ぶことを好む者は,真実在に向かって熱心に努力するように生まれついているのであって,一般にあると思われている雑多な個々の事物の上にとどまって,ぐずぐずしているようなことはないのだ。そのような人は,真実在に触れることがその本来の機能であるような魂の部分―真実在と同族関係にある部分―によって,<まさに何々であるところのもの>と呼ばれるべき,それぞれのものの本性にしっかりと触れるまでは,ひたすらに進み,勢いを鈍らせず,恋情をやめることがない。彼は魂のその部分によって,真の実在に接し,交わり,知性と真実とを産んだうえで,知識を得て,まことの生活を生き,はぐくまれて行く。そのようにしてはじめて,彼の産みの苦しみはやみ,それまではやむことがないのだ,と」(490A)

この部分は,『テアイテトス』に出てくる「産婆術」を思い出しました。これもプラトンが理想とする哲学者像の表現でしょうが,ソクラテス自身といってもよいでしょう。

「それでは」とぼくは言った,「このような自然的素質が,多くの人々の場合,どのようにして損なわれていくか,その堕落の原因を考えてみなければならない。ほんの少数の者だけがこの堕落からまぬかれるけれども,残ったこの少数の者が,世間で『碌でなしとは言わぬまでも,役立たずの者たち』と呼ばれている人たちなのだ。
そしてそのつぎに,こんどは,この哲学的素質を真似し装って,その仕事のなかに居坐っている者たちを観察しなければならない。その魂の自然的素質がどのようなものでありながら,自分にそぐわない,自分の力以上の仕事のなかにやってきて,いろいろとへまをやらかしては,あらゆる仕方であらゆる人々のあいだに,君の言うような評判を哲学に対して与えるようになったかを,究明しなければならない」(490E)

完全無欠のように言われていた哲学者 (哲学的素質) が,どのように堕落するのかという話になってきます。少し面白くなってきました(笑)。

「こうして,われわれが規定したような哲学者の自然的素質は,思うに,もし適切な教育を与えられるならば,成長して必ずやあらゆる徳性に達するであろうが,逆に,もしふさわしからぬところに蒔かれ植えられて,育てられるならば,たまたま運よく神の助けでもないかぎり,およそまったく正反対の結果にならざるを得ないだろう。
いったい,君もやはり多くの人々の考えと同じように,一部の若者たちがソフィストたちから害毒を受けているとか,ソフィストたちが個人的な教育を通じて害毒を―言うに値するほどの害毒を―与えているとかいうふうに,考えているのかね?むしろ実際には,そういうことを言っている人々自身こそが最大のソフィストなのであって,相手が若者であれ,もっと年取った人々であれ,男であれ女であれ,最も効果的な教育をほどこして,自分たちの思いどおりの人間に仕上げているのではないかね?」(492A)

ここで,最善の自然的素質に恵まれた人は,悪い方向へも最大になる素質があるといったような論が展開されます。また後半では,ソフィストについて言われます。流れとしては,本当の意味で哲学的な素質があるような人が,ソフィストによってそれが反対の方向に伸ばされてしまう,ということでしょうか。ソフィストの「教育」は具体的には次に続きます。

「次のような場合のことだ」とぼくは答えた,「彼ら大衆が国民議会だとか,法廷だとか,劇場だとか,陣営だとか,あるいはその他,何らかの公に催される多数者の集会において,大勢いっしょに腰をおろし,大騒ぎをしながら,そこで言われたり行なわれたりすることを,あるいは賞讃し,あるいは非難する―どちらの場合も,叫んだり手を叩いたりしながら,極端な仕方でね。さらに彼ら自身に加えて,岩々や彼らのいる場所までが,その音声を反響して,非難と賞讃の騒ぎを倍の大きさにするのだ。
このような状況のただなかにあって,若者は,諺にも言うように,『いったいどのような心臓 (こころ) になる』と思うかね?個人的に受けたどのような教育が,彼のために抵抗してくれると思うかね?そんな教育などは,このような非難・賞讃の洪水のために,ひとたまりもなく呑みこまれて,その流れのままにどこへでも流されて行ってしまうとは思わないかね?そしてその若者は,彼ら群集が美しいと主張するものをそのまま美しいと主張し,醜いと主張するものをそのまま醜いと主張するようになり,彼らが行なうとおりのことを自分の仕事とするようになり,かくて彼らと同じような人間となるのではなかろうか?」
「そうです,ソクラテス」とアデイマントスは答えた,「それはまったく避けられないことです」(492B)

プラトンの著書ではお馴染みという感もありますが,真実を求めるのではなく,多数者を味方につける力があるのがソフィストという感じでしょうか。確かにそんな状況になっては,真実を求めようとする心がくじけてしまいそうです。そして自らもソフィストのようになってしまうと。
これは現代でも十分あてはまるのかもしれません。どうしようもない政治家というのは沢山いると思いますが,それなりに素質があるから選ばれるのでしょうし,最初は高い志を持っていたはずです。しかし,セクハラヤジを飛ばす議員がいたり,それを事実上不問にする議会だったりすると (→2014年6月頃の都議会ですが),こういう下劣なやり方でもいいと思って堕ちてしまうのかもしれません。勿論会社などでも同じでしょう。

「そんなことを企てるだけでも,大へん愚かなことだといわなければならないだろう。なぜなら,彼ら大衆のほどこす教育に反するような教育によって,徳に関して異なった品性がかたちづくられるということは,いまもないし,これまでにもなかったし,これから先もけっしてないだろうから。少なくとも,友よ,人間の品性であるかぎりは」(492E)

「そんなこと」というのは,直前に書いたようなソフィストの教育に反対して勝つ,ということです。これを読むと,彼らの教育が何か正統なものという感じに読んでしまいそうですが,多分これは,「不正を受けても仕返しをしない…仕返しもまた不正である」というのと同じ意味で,ソフィストと反対のことをしようとすることが同じ次元で愚かであるという意味なんじゃないかと思います。

「例の,賃銭をもらって個人的に教えるほうの連中,―この連中のことをしも,彼ら大衆はソフィストと呼んで,自分たちの競争相手と考えているのだが,そのひとりひとりが実際に教えている内容といえば,まさにさっき話したような,そういう大衆自身の集合に際して形づくられる多数者の通年以外の何ものでもなく,それが,このソフィストたちが『知恵』と称するところのものにほかならない,ということだ」(493A)

ここで言われているソフィストは,明らかにプロタゴラスやヒッピアスといった有名なソフィストを念頭に置いていると思います。実際,これらソフィストの名前を冠した対話篇で,いかに彼らがそれで稼いでいるかということがよく書かれています。しかしここまで執拗に (とまでは行かないかもしれませんが) ソフィストを悪く言うのも品がないように思わないでもないです。が,プラトン (かソクラテス) にとってこれは宿命の敵だから仕方ないのでしょう。

「こういったすべてのことを,長いあいだいっしょにいて経験を積んだおかげで,よくのみこんでしまうと,彼はこれを『知恵』と呼び,ひとつの技術のかたちにまとめ上げたうえで,それを教えることへと向かうのだ。その動物が考えたり欲したりする,そういったさまざまのもののうち,何が<美>であり<醜>であるか,何が<善>であり<悪>であるか,何が<正>であり<不正>であるかについて,真実には何ひとつ知りもせずにね。こうした呼び方のすべてを,彼はその巨大な動物の考えに合わせて用いるのだ。つまり,その動物が喜ぶものを『善いもの』と呼び,その動物が嫌うものを『悪いもの』と呼んで,ほかにはそれらについて何ひとつ根拠をもっていない。要するに,必要やむをえざるものを『正しい事柄』と呼び,『美しい事柄』と呼んでいるだけのことであって,そういう<必要なもの>と<善いもの>とでは,その本性が真にどれだけ異なっているかについては,自分でも見きわめたことがないし,他人にも教え示すことができないのだ」(493B)

ここでは動物を思い通りに動かすという喩えですが,これも『ゴルギアス』で「迎合」と言われていたところの,弁論術の効果とよく似ています。つまり対象が喜び,自分の思い通りになりさえすればよく,そこにはここまで語られてきた「善」そのもの,「善」のイデア的なものは全く介在する余地はありません。それは明らかに哲学的なものではない,ということになります。

「それでは,種々雑多な人々の集まりからなる群集の気質や好みをよく心得ていることをもって,<知恵>であると考えている者―それは絵画の場合でも,音楽の場合でも,それからむろん政治の場合もそうだが―そういう者は,いま述べたような動物飼育者とくらべて,いささかでも違うところがあると思うかね?実際,もし誰かがそういう群集とつき合って,自分の詩その他の製作品や,国のための政策などを披露し,その際必要以上に自分を多数者の権威にゆだねるならば,そのような人は,何でも多数者がほめるとおりのことを為さざるをえないのは,まさに世に言うところの『ディオメデス的強制 (必然)』だろうからね。けれども,その多数者がほめることが,ほんとうに善いことであり美しいことであるという理由付けの議論となると,君はこれまでそういう連中のうちの誰かから,噴飯ものでないような議論を聞いたことがあるかね?」
「いいえ」と彼は言った,「将来も聞くことはないだろうと思います」(493C)

「必要以上に自分を多数者の権威にゆだねる」というのは,怖い響きです。

「では,これらすべての点をよく心にとめたうえで,さっきのことをもう一度思い起してくれたまえ。いったい大衆というものは,多くの美しい事物ならぬ<美>そのものの存在を,あるいは一般にそれぞれのものについて,多くの事物ならぬそれぞれのもの自体の存在を,容認したり信じたりすることがありうるだろうか?」
「とうてい無理でしょう」と彼は言った。
「してみると」とぼくは言った,「大衆は哲学者たりえないということになる」
「ええ」
「そして哲学をしている人々が彼ら大衆から非難されることも,どうしても避けられないということになる」
「避けられないことです」
「だからまた,群衆とつき合って彼らの気に入られようと望んでいる,先に話したような個人的な教育家たちからも,当然同じ態度をとられるだろう」
「明らかに」
「このような事情だとすれば,天性の哲学者のための救いとなるもの,―彼が最後の目標に到達するまで自分本来の仕事のなかに留まることを可能にするようなものを,君はいったいどこに見出すことができるかね?」(493D)

「大衆は哲学者たりえない」というのは思い切った言葉です。だから哲学者のことを理解できず,ソフィストに取り入れられる,と。そんな状況で,本当の哲学者は報われるのかと。
まあ大衆については,全員が全員,イデア的なものを理解しろというのはもとより無理な話という気もしますが,でも政治家とかはそんなことではいけないという気はします。

「以上のようにして,友よ,」とぼくは言った,「あたら最善の自然的素質が損なわれて行くのであり,それを堕落させて,最善の仕事へと赴くのを妨げる力は,これほどまでに大きいのだ。そうでなくてさえすぐれた素質というものは,われわれの主張するように,まれにしか生まれてこないものなのに…。そしてこのような素質をもった人間たちのなかからこそ,国と個人に対して最大の害悪をなす人たちも出てくるし,また,運よく望ましい方向へ流された場合には最大の善をなす人たちも,出てくるのだ。これに反して,ちっぽけな自然的素質は,国に対しても個人に対しても,大したことは,けっして何ひとつなさないだろう」(495A)

この直前に,すばらしい素質を持った若者が,いかに周囲から足を引っ張られて逆の方向に進んでしまうか,ということが語られます。また,この直後には,哲学を女性に喩えて (文法上女性名詞だかららしい) ,結ばれるにふさわしい人たちは脱落してしまい, 不似合いで卑しい人間たちが押しかける,とも言われます。なんかそう喩えられると,ちょっといたたまれなくなります…。

「さて,これら少数の人たちの一員となって,自分の所有するものがいかに快く祝福されたものであるかを味わい,他方,多数者の狂気というものを余すところなく見てきた者たち,―彼らはまた,次のような現実を思い知らされるわけなのだ。すなわち,国の政治に関しては,およそ誰ひとりとして,何ひとつ健全なことをしていないと言っても過言ではないし,正義を守るために相共に戦って身を全うすることのできるような,味方にすべき同志もいない。野獣のただなかに入りこんだひとりの人間同様に,不正に与する気もなければ,単身で万人の狂暴に抵抗するだけの力もないからには,国や友のために何か役立つことをするよりも前に身を滅ぼすことになり,かくて自己自身に対しても他人に対しても,無益な人間として終るほかはないだろう…
すべてこうしたことをよくよく考えてみたうえで,彼は,静かに自分の仕事だけをして行くという途を選ぶ。あたかも嵐のさなか,砂塵や強雨が風に吹きつけられてくるのを壁のかげに避けて立つ人のように,彼は,他の人々の目に余る不法を見ながらも,もし何とかして自分自身が,不正と不敬行為に汚されないままこの世の生を送ることができれば,そしてこの世を去るにあたっては,美しい希望をいだいて晴れ晴れと心安らかに去って行けるならば,それで満足するのだ」(496C)

何というか,非常に虚無的な話です。哲学的な素質を持った人が,現実を前に「静かに自分の仕事だけをして行くという途を選ぶ」…不正を犯さないことに満足して,静かに生きると。三顧の礼を受ける前の諸葛亮はこんな気持ちだったのでしょうか。
でも,現実はそうするしかないのかもしれない,と思うこともあります。会社に勤めている自分もそうですし,政治家でも何でもそうでしょうが,組織としての「善」と自分個人としての「善」のギャップは,如何ともしがたいものです。寧ろ,「恒産なくして恒心なし」というように,仕事では自分を殺してでも何とかやっていけて生活の糧があるから,プライベートでは自分を精一杯持つことができるのかも,とも思います。まあこんなことを言うとプラトンには怒られるでしょうがね(笑)。

「しかしね」とぼくは言った,「それだけでは,最大のことをなしとげたと言うわけにもいかない―彼の住む国家のあり方が,自分の素質にぴったりと適合したものでないならばね。なぜなら,そのようにぴったりと適合した国家においてこそ,彼自身ももっと成長するだろうし,個人的なものとともに公共の事柄をも,安全に救うことになるだろうから」(497A)

…と,プラトンはやはり自分の素質と国家のあり方が適合するほうがベターだと言います。こういう時,プラトンは前向きだなあと思います。何というか,それが可能であると疑わないところがです(笑)。でも「善」というものを,それが国家のものであれ個人のものであれ,疑うということに幸福はない,という気はします。

この後は,また哲学者による統治の可能性に関する話から,有名なイデアの比喩に話が移っていきますが,メモ第2弾に続く…。

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