プラトン『国家』第六巻メモ(3)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第六巻を読んだときのメモ第3弾。

ここでのテーマはずばり「(善の) イデア」といってもよいと思います。有名な「太陽の比喩」「線分の比喩」も出てきます (「洞窟の比喩」は第七巻)。
読み物としてプラトンを読む立場としては,いわゆる「イデア論」というのはどうでもいいことで,寧ろ後世の学問としての「哲学」という枠にプラトンを押し込めるような不遜なイメージがないともいえないようなものです。プラトンが著したものを「哲学」として捉えるだけでは,「哲学」として以上は何の役にも立たない,そしてそれはプラトンの意図したことではない,と思います(キリッ)。
…と,いうことで,必ずしも「イデア論」を理解しなくてもよい立場なのですが,ここに至っては,太陽の比喩の分かりやすさ,線分の比喩の意味不明さ (?) も相俟って,「イデア」という考え方のその強力さを実感します。とともに,メモにも書いたのですが,これまでに読んで来た対話篇にあまねく横たわってきたものが,少し姿を現わしたか,という感じも覚えました。
ちなみに,「理想」という言葉は元々西周が「イデア」を訳したものである,ということをどこかで読みました。

以下は読んだときのメモです。

「それというのも,君」とぼくは言った,「いましがたやっとの思いで宣言されたことを,あのときは口にするのがためらわれたからなのだ。しかしいまは,このことを宣言するだけの勇気が,われわれに完全に与えられたものとしよう―すなわち,われわれの任命する最も厳密な意味での守護者たちは,哲学者でなければならぬ,とね」(503B)

改めて哲人王のことが言われます。

「多分君は憶えているだろうが」とぼくは言った,「われわれは,魂における三つの種類のものを区別したうえで,そこから<正義>と<節制> と<勇気>と<知恵>について,それぞれが何であるかということを結論したのであった」(504A)

これは第四巻の主要なテーマでした。こういう感じでたまにおさらいをしてくれるのが,プラトンのいいところです。

「われわれはたしか,こう言っていたはずだ。―それらの徳の何であるかをできるかぎりよく見てとるためには,別のもっと長いまわり道が必要なのであって,そのまわり道を通って行けば,それらははっきりと明らかになるはずであるけれども,しかしそれまでに語られてきた事柄と同列の証明をつけ加えることなら,そのままの行き方でもできるだろう,とね。そうしたら君たちは,それで充分だと答えた。そこでそういう了解のもとに,あのときのことは語られたわけだが,それはどうもぼくには,厳密さに欠けるように見えた。しかし君たちにはあれで満足に見えたかどうかは,君たちから言ってもらわなければね」(504B)

だいぶ前の話のように思えますが,「別のまわり道」が必要,と言われたことはよく覚えていました。それだけコアなテーマという印象があったのかもしれません。

「それならば,君」とぼくは言った,「そういう任につく者は,もっと長いほうのまわり道を進まなければならない。そして体育で苦労するのにおとらず,学業においても苦労を積まなければならないのだ。そうでなければ,いまも言っていたように,その本分に最もふさわしい最大の学業の終極にまで到達することは,けっしてありえないだろう」(504C)

「国家と国法を守護する者」(504C) にとっては,この「まわり道」を進むことが必要ということになり,やっと語られることになりました。

「しかし,いったいあなたは,あなたが最大の学業と言われるものが何であるか,またその学業は何に関わるものなのかをあなたにたずねないままで,あなたを放免する人が誰かいるとお考えですか?」
「いや,けっして」とぼくは言った,「さあ,君もまたたずねたまえ。どっちみち君は,たしかにそれを一度ならず聞いたことがあるのだが,いまはそれに気づかないのか,あるいは,またしても,しつこくつかまえてぼくを困らせてやろうという魂胆なのか,どちらかなのだ。ぼくの思うには,きっと後者のほうだろ う。げんに君は,<善>の実相 (イデア) こそは学ぶべき最大のものであるということは,何度も聞いているはずだからね―この<善>の実相がつけ加わってはじめて,正しい事柄もその他の事柄も,有用・有益なものとなるのだ,と。」(504E)
「ありとあらゆるものを所有していても,しかしその所有が善い所有でないとしたら,何かの足しになると君は思うかね?あるいは,善を抜かして他のすべての事柄に知恵をもちながら,美しいもの・善いものについては何の知恵もないとしたら?」(505B)

…ということで,ついに「善のイデア」が出てきました。これが最大の学業とも言われていますが,「善のイデアが付け加わってはじめて,事柄は有用・有益なものとなる」「その所有が善い所有でないとしたら,何かの足しになるのか?」といったことは非常にプラトンらしさを感じます。
何というか,懐かしさに似た感じを覚えます。恐らく,今までのどの対話篇でも,ソクラテスの対話にはこれが通底していたからでしょう。

「ところでまた,君はこういうことも知っているはずだ,―その<善>とは,多くの人々には快楽のことだと思われているし,他方,もう少し気のきいた人々には知恵のことだと思われている,ということをね」
「ええ,もちろん」
「それからまた,友よ,後者のように考える人々は,その知恵とはいかなる知恵のことなのかを示すことができないで,しまいには,<善>を知る知恵がそれなのだ,などと言わざるをえなくなるということもね」(505B)

「善とは快楽か」というのは,『ピレボス』のテーマだったと思います (執筆されたのは『国家』より後ということだったと思いますが)。「善とは知恵か」というのは何となく直感的には間違ってもいなさそうという感じもありますが。もっともここでプラトンは必ずしもこれらをここで否定しているわけではなく,そういう考えもあると言いたいだけのようです。

「しかしどうだろう,この点は明らかとはいえないだろうか?―すなわち,正しいことや美しいこと (見ばえのよいこと) の場合は,そう思われるものを選ぶ人が多く,たとえ実際にはそうでなくても,とにかくそう思われることを行ない,そう思われるものを所有し,人からそう思われさえすればよいとする人々が多いだろう。しかし善いものとなると,もはや誰ひとりとして,自分の所有するものがただそう思われているというだけでは満足できないのであって,実際にそうであるものを求め,たんなる思われ (評判) は,この場合にはもう誰もその価値を認めないのではないか」(505D)

それはどうかなあ,と思ってしまった部分です。「正」「美」と「善」を対照していますが,仮に前者について「そう思われるものを選ぶ人が多い」のであるならば,実際には後者,つまり善についても,そう思われていることで満足するというのはありえるのでは,と一般的には思えるような気はします。
ただ,プラトンが言いたいのは,「次元が違う」というようなことなのかもしれません。「思われるものを選ぶ」という行為自体を束縛するのが「善」ということなのかもしれません。

「こうして,すべての魂がそれを追い求め,それのためにこそあらゆる行為をなすところのもの,―それがたしかに何ものかであると予感はしながらも,しかし,そもそもそれが何であるかについては,魂は困惑してじゅうぶんに把握することができず,さらに他の事柄の場合のように,動かぬ信念をもつこともできないでいるもの,―そしてまさにそのために,そういう他の事柄についても,そこに何か役に立つものがあったとしても,とらえそこなうことになってしまうのだが,― じつにこのような性格の,このように重大なものについて,われわれが万事を委ねるところの,国家における最もすぐれた人々までもがそのように不明のままであってよいと,はたしてわれわれは言ってよいものだろうか?」(505E)

ここは何というか,非常に素直に心の動きを描写しているという印象です。「そもそもそれが何であるかについては,魂は困惑してじゅうぶんに把握することができず」というのは,善というもののつかみどころのなさをよく表わしていると思います。

「自分の知らない事柄について,あたかも知っているかのように語るのが正しいことだと,君は思うのかね?」
「いいえ,けっして正しいこととは思いません」と彼は言った,「知っているかのように語るのはね。―しかし,自分の思っていることを,そのままただ自分の思うところを述べるというかたちでならば,当然話す気になってしかるべきでしょう」
「何だって?」とぼくは言った,「知識を欠いた思わくというものはどれもみな醜いものだということを,君は感じたことはないのかね?それの最上のものとて も,いわば盲目なのだ。―それとも,知ることなしに思わくだけで何か本当のことに行き当たる人たちは,盲人がひとり歩きして,たまたま道を間違えないとい うのと,どこか違うように思えるかね?」(506C)

ここは,アデイマントスがソクラテスに「善とは何か」を語らせようとして,ソクラテスが,自分ははっきりとは知らないので語ることはできないという意味で言った部分と思います。

「どうかゼウスに誓って,ソクラテス」と,ここでグラウコンが言った,「まるでもう終りまで来てしまったように引き下がらないでください。私たちとしては,あなたが<正義>や<節制>その他について話された,あれと同じ仕方で<善>についても説明してくださるなら,それで満足するでしょうから」
「それはもう,このぼくにしても,君」とぼくは言った,「それができたら大いに満足だろうよ。しかしぼくにはできないだろうし,できないのに気持だけが先に立って不体裁を演じ,笑い者になることだろうと,それが心配なのだ。
いや,幸福なる諸君よ,さしあたっていまのところは,<善>とはそれ自体としてそもそも何であるかということは,わきへのけておくことにしよう。なぜなら,それをとにかくぼくが何であると思うかということだけでも,そこまでいま到達するのは,現在の調子ではぼくの力に余ることのように思えるからだ。そのかわり,<善>の子供にあたると思われるもので,<善>に最もよく似ているように見えるものを,もし諸君がそれでよいと思うなら,語ることにしたいのだ。だが,それではだめだということなら,やめておこう」(506E)

ソクラテスはかたくなに,<善>とは何かを語ることを拒否?固辞?します。
というか多分,語れないというのは本当なのでしょう。語った瞬間にそれは違うものになってしまう,というものは実感としても結構ありますが <善> もそういうものなのかもしれません。とりあえずここでは,<善>の子供で妥協してもらうことになります。

「多くの美しいものがあり」とぼくは言った,「多くの善いものがあり,また同様にしてそれぞれいろいろのものがあると,われわれは主張し,言葉によって区別している」
「ええ,たしかに」
「われわれはまた,<美>そのものがあり,<善>そのものがあり,またこのようにして,先に多くのものとして立てたところのすべてのものについて,こんどは逆に,そのそれぞれのものの単一の相に応じてただ一つだけ実相 (イデア) があると定め,これを<まさにそれぞれであるところのもの>と呼んでいる」
「そのとおりです」
「さらにまた,われわれの主張では,一方のものは見られるけれども,思惟によって知られることはなく,他方,実相 (イデア) は思惟によって知られるけれども,見られることはない」(507B)

イデアについての分かりやすい説明だと思います。この <まさにそれぞれであるところのもの> というものこそは,他の対話篇 (正確には初期対話篇?) で散々追求されてきてその都度行き詰まり (アポリアー) に陥ってきたものでしょう。

「君は,いろいろの感覚の作り主が,見ることと見られることに関わる機能を,どれだけ特別に贅沢なものとして作ったかということに,気づいたことがあるだろうか?」
「いいえ,ぜんぜん」と彼。(507C)

僕も「いいえ,ぜんぜん」だったのですが (笑),言われてみると (この後の内容も含めてですが) 確かにそうなのかなと思ったりします。

「それでは」とぼくは言った,「ぼくが<善>の子供と言っていたのは,この太陽のことなのだと理解してくれたまえ。<善>はこれを, 自分と類比的なものとして生み出したのだ。すなわち,思惟によって知られる世界において,<善>が<知るもの>と<知られるもの>に対してもつ関係は,見られる世界において,太陽が<見るもの>と<見られるもの>に対してもつ関係とちょうど同じなのだ」(508B)

ここからが「太陽の比喩」です。そのまま <善> を太陽に喩えています。
以下,その説明が続きます。

「目というものは」とぼくは言った,「君も知っているように,もはやこれを,白昼の光が表面の色どりいっぱいに広がっているような事物には向けずに,夜の薄明りに蔽われている事物に向けるときには,ぼんやりとにぶって,盲目に近いような状態となり,純粋の視力を内に もっていないかのようにみえるものだ」
「大いにそのとおりです」と彼。
「けれども,思うに,陽光に明るく照らされている事物であれば,はっきりと見えて,同じその目の内に純粋の視力が宿っていることが明らかになるのだ」(508C)

「それでは,同様にして,魂の場合についても,次のことを心に留めてくれたまえ。―魂が,<真>と<有>を照らしているものへと向けられてそこに落着くときには,知が目覚めてそのものを認識し,その魂は知性をもっているとみられる。けれども,暗闇と入り混じったもの,すなわち,生成し 消滅するものへと向けられるときは,魂は思わくするばかりで,さまざまの思わくを上を下へと転変させるなかで,ぼんやりとしかわからず,こんどは知性をもっていないのと同じようなことになる」
「たしかにそういうことになります」
「それでは,このように,認識される対象には真理性を提供し,認識する主体には認識機能を提供するものこそが,<善>の実相 (イデア) にほかならないのだと,確言してくれたまえ。それは知識と真理の原因 (根拠) なのであって,たしかにそれ自身認識の対象となるものと考えなければならないが,しかし,認識と真理とはどちらもかくも美しいものではあるけれども,<善>はこの両者とは別のものであり,これらよりもさらに美しいものと考えてこそ,君の考えは正しいことになるだろう。これに対して知識と真理とは,ちょうど先の場合に,光と視覚を太陽に似たものとみなすのは正しいけれども,それがそのまま太陽であると考えるのは正しくなかったのと同じように,この場合も,この両者を<善>に似たものとみなすのは正しいけれども,しかし両者のどちらかでも,これをそのまま<善>にほかならないと考えるのは正しくないのであって,<善>のあり方はもっと貴重なものとしなければならないのだ」(508D)

「ぼくの思うには,太陽は,見られる事物に対して,ただその見られるというはたらきを与えるだけではなく,さらに,それらを生成させ,成長させ,養い育くむものでもあると,君は言うだろう―ただし,それ自分がそのまま生成ではないけれども」
「ええ,むろん生成ではありません」
「それなら同様にして,認識の対象となるもろもろのものにとっても,ただその認識されるということが,<善>によって確保されるだけでなく,さらに,あるということ・その実在性もまた,<善>によってこそ,それらのものにそなわるようになるのだと言わなければならない―ただし,<善>は実在とそのまま同じではなく,位においても力においても,その実在のさらにかなたに超越してあるのだが」(509B)

…ということで,少し長く引用しましたが,太陽の比喩は3つの比喩の中では比較的単純というか,分かりやすいものだと思います。
<善> とは真理を照らし,またそれを認識する力を与える,と。これが,ものを見る時に太陽 (=光源) がない場合にはぼんやりとしか見えないことに喩えられていると。また,成長させるはたらきもあると。
ただ,これはあくまで比喩であるとソクラテスに強調させていたのも,何となく分かる気はします。イメージは確かにしやすいですが,だからといって,これでは <善> について根拠があって説明したことにはなりません。そして,それでよいのだとも思います。

「ではそれらを,一つの線分 [AB] が等しからざる部分 [AC, CB] に二分されたかたちで思い描いてもらって,さらにもう一度,それぞれの切断部分を―すなわち,見られる種族を表わす部分 [AC] と思惟によって知られる種族を表わす部分 [CB] とを―同じ比例に従って切断してくれたまえ。」(509E)

続いて,「線分の比喩」についても語られます。が,ここでは内容については省略します…。文章だけでは意味不明だと思われますし。本には線分の図 (編集時につけ加えたのだと思います) とともに分かりやすく説明されています。

「それならまた,このことも知っているだろう―彼らは目に見える形象を補助的に使用して,それらの形象についていろいろと論じるということを。ただしその場合,彼らが思考しているのは,それらの形象についてではなく,それを似像とする原物についてなのであり,彼らの論証は四角形そのもの,対角線そのもののためになされるのであって,図形に描かれる対角線のためではなく,その他同様である。彼らが立体像として作るものや図形として描くものは,それだけとってみれば,それのまた影も水面の似像として用い,思考によってしか見ることのできないようなかのものを,それ自体として見ようと求めているのだ」(510E)

数学の問題を解くときに描く図形とはいったい何なのか,ということが言われています。それはそこに書いた図そのものではなく,四角形なら「理想的な」四角形のはずです。それがここでは「原物」と言われていると思います。
この手のことを考えると結構迷宮に入ったようになりますが,例えば試験問題などで「角Aの大きさを求めよ」みたいなものがあったとして,条件に示された図形をコンパスと定規で正確に図示して,分度器で角度を測れば答えになるんじゃないか,みたいなことは中学生くらいの時に誰しも考えることだと思います。しかし「正確な」図示など不可能で,僕らは線分すら引けないはずなのです(笑)。角度を測っても,精度の問題に突き当たって,90度丁度とかの角度すらも描けないはずです。そういう意味では真理というのは数式とか言葉とかでは表せますが現実には存在しない,似像に過ぎない,と思えてしまいます。

「可知界を切り分けたもう一つの部分 [EB] として,ぼくが次のようなもののことを言おうとしているのだとわかってくれたまえ。―すなわちそれは,理 (ロゴス) がそれ自身で,問答 (対話) の力によって把握するところのものであって,この場合,理はさまざまの仮設 (ヒュポテシス) を絶対的始原とすることなく,文字通り <下に (ヒュポ) 置かれたもの (デシス)> となし,いわば踏み台として,また躍動のための拠り所として取り扱いつつ,それによってついに,もはや仮設ではないものにまで至り,万有の始原に到達することになる。そしていったんその始原を把握したうえで,こんどは逆に,始原に連絡し続くものをつぎつぎと触れたどりながら,最後の結末に至るまで下降して行くのであるが,その際,およそ感覚されるものを補助的に用いることはいっさいなく,ただ <実相> そのものだけを用いて,<実相> を通って <実相> へと動き,そして最後に <実相> において終るのだ」(511B)

可知界についてです (前に示した部分は可視界の話)。学術的なもの (線分では CE) は,仮設を超えたものは出ないが,「理 (ロゴス) がそれ自身で,問答 (対話) の力によって把握するところのもの」では,<実相>のみを使って仮設を超越して始原に達するらしいです。
何となく感覚的には分かる気もします。いわゆる「発明」「イノベーション」というものの説明のようにも思えます。また例えば将棋の指し手でも,手を読むことによらずに直観で絶妙手を発見する,ということがあると思われていると思います (自分でそういう手を発見した経験は思い浮かびませんが,例えば昔の竜王戦の羽生-谷川の△7七桂などが思い浮かびます)。つまり発見時は仮設や理屈を超越していますが,検証すると確かに理屈にも適うということはあります。このプロセスは,確かに「始原に連絡し続くものをつぎつぎと触れたどりながら,最後の結末に至るまで下降して行く」という説明とよく合うのです。
…こんな喩えも,僕のイメージに過ぎませんが,そもそも線分の比喩自体もイメージであり,それをどう理解するかは各人によって異なるでしょうから (学会・学界にはコンセンサスがあるでしょうが),ご容赦ください。

「実在し知られるものでは,問答 (対話) の知識によって観得されるものは,いわゆる『学術』によって考察されるものよりも,明確であるということですね。後者にとっては,さまざまの仮設がそのまま始原にほかならないのであって,考察にたずさわる人々は,感覚ではなく思考を用いて対象を考察しなければならないけれども,しかし彼らは始原にまでさかのぼって考究するのではなく,仮設から出発して考察するがゆえに,あなたの見るところでは,対象についてほんとうの <知> をもつに至らないのです―ただしそれらの対象は,ひとたび始原と関係づけられるならば,それとともに知性による把握のもとにおかれるものではあるけれども。」(511C)

これはグラウコンの言葉ですが,「申し分のないほど,よく理解してくれた」(511D) とソクラテスに褒められます。
ここの言葉でも,『学術』というものは線引きされたものである,というような認識が引き起こされるように思います。また「感覚ではなく思考」と言われていますが,思考というのは仮設から導かれる論理的な推論のことかなと思います。

ということで,メモは以上。
ここでの説明に出てくるような「イデア」は,プラトンの考えを理解するためには役に立つものだと思いました。
話としてはこの第六巻の終わり方は中途半端で,この後第七巻に入ってすぐ,3大比喩の最後の「洞窟の比喩」が出てきます。

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