プラトン『ヒッピアス(大)』メモ

プラトン『ヒッピアス(大)』((プラトン全集 (岩波) 第12巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,ヒッピアスがアテナイを訪れた時のソクラテスとの対話で,この2人以外に誰も出てこないというプラトン対話篇としては比較的簡素な設定です。
前半では,ヒッピアスが著名なソフィストでボロ儲けしていること,スパルタ (ラケダイモン) では何故か受け入れられないことなどが話されます。そしてソクラテスが,ある知り合いから「<美>とは何か?」と問われて行き詰まってしまったということを話し,同じ質問をヒッピアスにぶつけます。このテーマがその後ずっと最後まで続きますが,ヒッピアスは「何が美しいか」ということばかり語り (例えば「美しい乙女である」とか),噛み合いません。結局お決まりのアポリア (行き詰まり) に陥り,対話は終了します。
但し,本対話篇はアポリアというよりは,ソフィストの愚かさを浮かび上がらせるためにソクラテスがいちいちヒッピアスの説を反駁して,袋小路に追い詰めたという印象はあります。本作は明らかに初期対話篇と見られていますが,その辺りは他の初期対話篇とはちょっと異なるかもしれません。最後は敵対的な終わり方をします。
なお本対話篇は,偽作の可能性があると研究者から考えられているようです。個人的には,後述する「視覚と聴覚を通じての快楽」が美であるという定義の吟味など,非常にプラトンらしいとは思いましたが。
副題はそのもの,「美について」。

以下,読書時のメモです。

ソクラテス「ところが他方,あの昔の人たちときたら,その唯一人として報酬として金銭を要求するのが妥当などとけっして考えはしなかったし,また雑多な群衆の間で自分の知恵を披歴してみせるべきだとも思わなかった。そのように彼らはおひと好しで,金銭に多大な価値があろうなどとは気づきもしなかったのです。これに引きかえ,いま言ったご両人は,二人とも,他の職人たちが何であれそれぞれの技術でかせいでいるより多額の金銭を,その知恵によってかせいでいるのです。それにまたこの人たちよりもっと前にプロタゴラスがそうしました。」(282C)

昔の人は大衆にソフィストの術を教えても,報酬として金をとらなかったが,対話相手のヒッピアスを始めゴルギアス,プロディコス,プロタゴラスは大金を稼いている,ということが言われます。ヒッピアスは自分たちの技術が昔の人より優れているから多額の報酬を貰うのだと言いますが,むろんソクラテスは皮肉のつもりでしょう。『弁明』では,ソクラテスは何かを教えることがあっても報酬を一切受け取ったことがないと言われています。

ヒッピアス「それというのも,ソクラテス,ラケダイモン人にあっては,法律をみだりに改変したり,あるいはまた慣わしに反して子息の教育することは,父祖伝来のしきたりではないのでね。」
ソクラテス「なんですって?ラケダイモン人にとっては,正しい行ないをせず,間違ったことをするのが,父祖伝来のしきたりなのですか?」(284B)

ヒッピアスが,ソフィストとして金銭をかせいでいるが,ラケダイモン(スパルタ)人からはあまり稼げなかったといいます。それに対してソクラテスが相当あおっていくやり取りが続きますが,自覚しているのかいないのか,柳に風といった感じで乗ってきません。ヒッピアスは,法習(法秩序)に合わなかった,と言っていますが。

ソクラテス「実はごく最近のことなのですが,ある人がですね,あなた,わたしがある議論において,あるものを醜いとして非難し,あるものを美しいとして賞讃していたら,何かこんなふうな調子で,きわめてぶしつけに質問をしてきて,わたしを行詰りにおとしいれたのです。「ねえ,君は」とその男は言うのでした,「ソクラテス,どういうものが美しく,どういうものが醜いかを,いったいどうして知っているのかね?というのは,さあ,<美>とは何か,君は言うことができるかね?」と。そしてわたしは自分の至らなさのために行詰ってしまい,彼に適切な返答をすることができなかった。」(286C)

ヒッピアスが「ひとが若いうちにそれを業とすれば最も評判の高い人となるような,そうした美しい営みとはどのようなものか」(286B) という物語を人に聞かせたという話をした後で,上記が言われます。評判を得るのは美しいこと,という部分にソクラテスが噛みつかないはずはありません。
この後ずっと,この「ある人」の虎の威を借る形で,「この彼ならこう質問する」という形で,ソクラテスがヒッピアスに迫る場面が続きます。後に出てくる描写からも自明なことですが,これはソクラテス本人です。

ヒッピアス「すると,ソクラテス,そういう質問をする男は,ほかでもない,何が美しいかを聞くことを要求しているのだね?」
ソクラテス「わたしにはそうとは思われませんね。そうではなく,美とは何かを聞くことを要求しているのだと思います,ヒッピアス。」(287D)

本対話篇は結局,これに尽きるという気がします。「何が○○か (○○という性質か)」ではなく「○○とは何か」というのを追い求めようとするのは,プラトン対話篇ではお馴染みです。本対話篇でのヒッピアスは,この趣旨を理解していない人として一貫して描かれています。

ソクラテス「するとさらに,これにつづけて彼は言うでしょう―彼の性格から推して,わたしにはほぼよくわかっているのです―,「ねえ君,では美しい土鍋はどうかね?するとこれは美ではないかね?」」
ヒッピアス「ソクラテス,いったいそいつは誰なのかね?おごそかな問題に,かくもくだらないものの名をあえて口にするとは,実に教養のないやつだ。」(288C)

ここの「美しい土鍋」は面白い部分です。元々ヒッピアスが「美しい乙女こそが美なのだ」と言ったことに対するソクラテスの反駁の中の1コマですが,土鍋は他の何かの対話篇でも出てきたような気がします。何にしても,他の対話篇同様,「美しいものが,それ (を分有すること) によって美しくあるところの美」,いわばイデア的なものをソクラテスは追求しているということが分かれば,(ここに限りませんが) ヒッピアスの言う美の定義は一蹴されることはすぐ分かります。

ソクラテス「それならさあ,よく見てください。はたして<ふさわしいもの>とは,こういうもののことをわれわれは言うのですか?もしそれがそなわるなら,何であれそれがそなわる対象のそれぞれのものを美しく見えさせるもののことですか,それともじっさいに美しくあらしめるもののことですか,あるいはそのいずれでもないのですか?」
ヒッピアス「少なくともぼくには,美しく見えさせるものだと思われる。ちょうどひとが着物なり靴なり似合ったものを身につけていると,たとえおかしな姿のひとでも,より美しく見えるようにね。」(293E)

プラトンの他の対話篇を読んでいると,見えたり思われたりするものが「そのもの」であったためしはなく,ここでもヒッピアスが言うような「美しく見えるものが美」というのは却下されます。
美をテーマとした対話篇は,『パイドロス』などもありますが,良くも悪くも本対話篇は対話相手がソフィストであることがその内容を強く特徴づけていると思います。あまり深まりません。

ソクラテス「視覚と聴覚を通じての快楽が美しいのは,このゆえに,つまりそれが視覚を通じるがゆえにではないだろうからね。なぜといって,もしこのことがそれが美しくあることの原因だとしたら,もう一方の,聴覚を通じての快楽のほうは,けっして美しくはないだろうからだ。」(299E)

本対話篇で提案される<美>の定義はいくつにも変遷します (それは省略) が,「視覚と聴覚を通じての快楽」という定義の吟味が一番歯応えがあります。
見た目や聴き心地が善いものが<美>である,というのは割と直感的だと思います (勿論プラトン一流の<美>の定義とは実際は遠いわけですが)。それを,
「見て快いもの,聴いて快いものはそれぞれ美しい」
→「(全ての快楽ではなく)視覚と聴覚を通じての快楽が美,ということはその2つ両方のみに共通して随伴するものがある」
→「視覚と聴覚それぞれ(のみ)に随伴するものが美,ではない」
→「視覚と聴覚の快の両方に随伴するものは美だが,視覚と聴覚それぞれの快に随伴するものは美ではない」
→「前に仮定したこと:見て快いもの,聴いて快いものはそれぞれ美しい,に反する」
という順で,「視覚と聴覚を通じての快楽」という<美>の定義が否定されます(ここに書いたまとめは,私の理解によるまとめで本文の構成とは異なりますし,間違っているかもしれません)。奇数と偶数という例で,それぞれとしては真でも両方としては偽となることがありうる,という話も出てきて面白い部分です。

ヒッピアス「けれども,ソクラテス,君はどう思うのかね,こうしたことの一切合財を。これらはまさに,さっきぼくが言っていたように,細かく切り裂かれた,言論のそぎ屑であり裁ち屑ではないか。それよりむしろ,ああいうことのほうが美しくもあり,大きな価値もあることなのだ,―法廷なり政務審議会なり,その他論議がその前で行なわれる何か公共の機関なりで,申し分なく立派に弁論を駆使し,聴き手を説き伏せたうえで,己れの身の安全や自己の財産や友の身の安全という,勝利者への褒美のうちでも最小ではなくて最大の物を携えて,立ち去ることができるということのほうがね。」(304A)

最終盤で,ヒッピアスの化けの皮が剥がれたというか,ついに本音が出ます。ソクラテスの吟味を屑呼ばわりし,法廷等での議論に勝ち,自身や友の身の安全や財産を勝ち取ることの方が価値があると言います。ここは『国家』や『ゴルギアス』を彷彿とさせます。
まあ本対話篇の流れを踏まえると,気持ちは分かるという気もします。本対話篇は他の対話篇と比較しても,ソクラテスの一方的な土俵という印象はあり,ヒッピアスに良いところがありません。しかし現実にはソフィストとして大金を稼いで自他共に「勝ち組」と認められているという自負があるはずで,それは相手の思惑のみを相手にすればよいことなので,ソクラテスが言うあれこれは枝葉末節であって本質的ではない,ということかもしれません。
それに対するソクラテスは…?

ソクラテス「「しかし君は」と彼は言うでしょう,「誰にせよ,ひとが言論なり,その他の何らかの行為なりを美しく営んでいるかいないかを,どのようにして知るのだろう―肝心の<美>を知らないというのに。そんなていたらくでも,君は死ぬより生きているほうがましだと思うのかね?」と。」(304E)

ヒッピアスの反撃に対して,ソクラテスは直接反論はしません。こういう対話ではアポリアに陥ってヒッピアスのような人の議論に踏みにじられ,一方で家に帰れば「彼」から「何であるか」も分からずに弁論を駆使するのかと罵詈雑言を浴びせられる…と自分を嘆いてみせます。
しかし「彼」の言葉を借りて,そんなことで生きているほうがましか?と決然と言います。
こういう所は,倫理思想という見方もできるかもしれませんが,「論理的」という印象を個人的には持ちます。論理的とは,(論理学的な観点とは異なりますが) ある言論の1つ1つの要素を決しておろそかにしない,本当でないことを自分に許さない,という態度である,という言い方もできるのかなと思います。レンガを積んで壁を作っているようなもので,1つでも抜けがあればそこから崩れてしまうように,「○○とは何か」という根本的な概念を軽視していてはその組み合わせである世の中の真理を語りえない,とソクラテスは言っているように思います。そこはソフィストたるヒッピアスとは平行線なのでしょう。

ということでメモは以上。
本対話篇は,プラトン初期対話篇らしい,「○○とは何か?の追求→アポリア(行き詰まり)」という流れが分かりやすい作品の1つだと思います。また,典型的なソフィストの像と,それに対するソクラテス (というかプラトン) の立場というのも分かりやすいと思います。

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