プラトン『ヒッピアス(小)』メモ

プラトン『ヒッピアス(小)』((プラトン全集 (岩波) 第12巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,一緒にヒッピアスの演説を聴いていたエウディコスが,ソクラテスに何か意見を促す場面から始まり,ヒッピアスが語った『イリアス』と『オデュッセイア』の人物評について尋ねます。そして「抜け目のない人」という評が「偽りの人」だということになり,偽りの人とは実は真実の人であり,善い人のことなのではないか?ということが対話の中で言われます。
この「偽りの人=真実の人=善い人」である,という推論はかなり衝撃的で,ソクラテスも自分で導いておきながら同意できないと言います。自分も改めて眺めると,そんなバカなと思いますが,しかし対話を追っていると,確かにそうなのだなと思ってしまうのがプラトン対話篇の面白さです。この短い初期対話篇は,自分でその問題点を考えろというのが裏のテーマなのかもしれません。以下でも一応自分なりに考えました。
なお,『ヒッピアス(小)』と『ヒッピアス(大)』は,いずれも同じ人物であるヒッピアスとの対話篇です (『小』は『大』の息子が相手というわけではない)。「大」と「小」という名称について詳しくは分かっていないようですが,『小』の方は偽作の疑いはないようです (解説によると,アリストテレス『形而上学』で参照されているのが『小』と見られているらしい)。
副題はそのもの,「偽りについて」。

以下は読書時のメモです。

エウディコス「どうしたんだね,なぜ君は黙っているのだ,ソクラテス。ヒッピアスがこれほどの演説を披露してみせたというのに。一緒になって今の話のどこかを讃めるとか,あるいはまた,話にどこか適切でないところがあると思われるならそれに反駁するとか,どうしてしないのだね?こともあろうに,自ら哲学の議論に加わることを他の誰よりも強く要求するはずの,われわれだけが取り残されているのだからね。」(363A)

これが本対話篇の最初です。ここから,ヒッピアスの演説を大勢が聴いていた情景が思い浮かびます。プラトン対話篇はつかみが上手いですね。

ソクラテス「それで,もしヒッピアスさえその気なら,その点についてぜひ問いただしてみたいのだ。これら二人の人物について彼がどう考えているか,つまり,どちらのほうが優れていると彼は主張するか,をね。」(363B)

「二人」というのは,ホメロス『イリアス』のアキレウスと,『オデュッセイア』のオデュッセウスのことを指します。ヒッピアスが演説で両物語 (詩) とその登場人物に触れたようです。
この後でも,適宜引用はなされますが,読者にはこれらの登場人物の素性について簡単にでも知っていることを前提にしていることが,含意されているように思われます。当時の教養だったのでしょうか。まあ本対話篇に限りませんが。

ヒッピアス「つまり,私の主張では,ホメロスはアキレウスを,トロイアへ赴いた人々の中で最も優れた人物として,またネストルを最も賢明な人物に,そしてオデュッセウスをいちばん抜け目のない人物に描き上げているのだ。」(364C)

「抜け目のない」という形容が微妙なものを感じさせます。なおギリシャ語原文では πολυτροπώτατον (→ πολύτροπος) という単語のようで (Perseus Digital Library のテキストより),辞書で調べる限りでは「変わりやすい,多様な」というような意味のようですが。次に続きます。

ソクラテス「そこで,どうか言ってもらいたい,そうすれば少しはよく理解できると思うんだが―アキレウスはホメロスによって抜け目のない人物に描かれてはいないのかね?」
ヒッピアス「決してそんなことはない,ソクラテス。むしろ,最も一本気で,最も真実の人間とされているのだ―『祈願』の中で彼ら二人を互いに語り合わせている場面では,ホメロス描くところのアキレウスはオデュッセウスに向かってこう述べているのだからね。(中略)
けだし,一事を心に秘めて他を口にするがごとき者,
そは,冥府の門に似てわが憎む者なればなり。
されどわれは,語るべし,今より語り果されんごとく。」(364E)

ソクラテス「それでやっと,ヒッピアス,私は君の言おうとすることが判ったように思う。どうも,君の言う抜け目のない人間というのは,偽りの人のことのようだね,私の見るところでは。」(365B)

ということで結局,「抜け目のない人」というのは「偽りの人」ということで合意されます。

ソクラテス「ではどうなんだろう,同じこの領域で偽りを語るほうは?先の真実の場合と同じように,こだわりなしに堂々と答えてくれたまえ,ヒッピアス。誰かが君に700の3倍はどれだけになるかと訊ねたとしたら,どうだろう,君は,偽りを言おう,そして決して真実は答えまいと望むならば,最もうまく偽りを言うことができ,それについていつも同じように偽りを述べられるのだろうか,それとも,その気になっている君よりは,計算にかけては無知である者のほうがもっとうまく偽りを言うことができるだろうか。いやむしろ,無知な者は,偽りを述べるつもりはあっても,ひょっとしたはずみで,心ならずも真実を述べることがままあるかもしれないが,君のほうは,知者なんだから,偽りを言おうと望む以上は,いつでも同じように偽りを言うことができる,というわけかね?」
ヒッピアス「そうだ,君の言う通りだ。」(366E)

本対話篇の主要なテーマである「偽り」について最も具体的に述べられている部分だと思います。無知であれば,偽ろうと思っても心ならずも真実を述べてしまうことがある,よって偽ることができるのは知者である,というくだりが印象的です。

ソクラテス「それなら同じ人間ではないか,計算に関して偽りと真実を述べる能力を最も多く備えているのは。そしてそれは計算に関して優れている者,つまり計算家ということだ。」(367C)

ソクラテス「では判ったね,同じ人間が,これらのことに関しては偽りの人でも真実の人でもあって,真実の人が偽りの人より優れているということは少しもないのだ,ということが。なぜなら,それらはおそらく同一人物であって,君が先ほど考えたように全く反対であるというわけではないのだからね。」(367C)

「同じ人間が偽りの人でも真実の人でもある」という部分は非常に面白いです。直感的には,その人が嘘 (偽り) を言う人間なのか,が問題という気はしますが,どうなのか。
逆説的ですが,能力や知識がある人は,偽りを言うことは少ない,という先入観というか,根強い観念のようなものを自分の中に発見したような思いです。この対話の場でも,その観念は共有されていると思われる一方,ソクラテスはそれをこそ掻き回してきているという気もします。
この後,ソクラテスがヒッピアスの持つ能力や持っているものなどを褒めつつねちねちと言う展開が続きます:どんな場合に真実の人と偽りの人は別なのか?しかし言うことはできないだろうね,そんな場合はないのだから,とか。

ヒッピアス「ソクラテス,君はいつもなにかこんな風な議論をひねり出すね。そして,議論のいちばん厄介なところをとり上げては,それをしっかりとつかまえて,こま切れにしてつつき廻し,議論が対象としていることがらの全体で議論を戦わせることをしない。」(369B)

何だか,『ヒッピアス(大)』でもそっくりなことを言っていたような。ソフィストからの悪口としてこう描かれていますが,ソクラテスの対話の特徴がよく表れています。
この後,ソクラテスは,アキレウスが偽りを言っていることを指摘します。

ヒッピアス「それは君の考察の仕方がよくないからだ,ソクラテス。なぜなら,アキレウスが偽って言っているその偽りだが,彼がそういう偽りを言うのは明らかに企みによるものではなく,心ならずもそうしているのだが,しかしオデュッセウスのほうの偽りは,彼の意図であり企みから出たものだからだ。」
ソクラテス「君は私を騙しているね,なんということだヒッピアス。そういう君自身もオデュッセウスを見習っているではないか。」
ヒッピアス「決してそんなことはない,ソクラテス。君は何を言いたいのだ,また何をもとにしてそんなことを言うのだ?」(370E)

急にソクラテスが激高?してヒッピアスが戸惑いますが,一つには前に意図して偽る人の方が心ならずも偽る人よりも優れていることになったので,オデュッセウスの方が優れていることになる,ということになり矛盾する,というのがあると思います。もう一つは実際にアキレウスの方も策謀を巡らして偽りを言う場面があるということでその場面を持ち出します(それは省略)。

ヒッピアス「でもどうして,ソクラテス。意図をもって不正をなし,意図的に策謀をめぐらして悪事を働く者が,心ならずもそうする者より優れているなどということが,どうしてありえようか。後者には寛大な態度が示されるというのに。つまり知らないで不正を働くとか,偽りを言うとか,その他の悪事を行うような場合にはだね。また法にしても,たしかに意図をもって悪事を働いたり偽りを言ったりする者に対しては,心ならずもそうする者以上に,はるかに厳酷なのだ。」(371E)

本対話篇のヒッピアスは,『ヒッピアス(大)』のヒッピアスに較べると,常識人という印象を受けます。ここで言っている言葉も常識的な内容だと思います。
ここでソクラテスが突如本気モードに突入します(長い演説調の語りが暫く続く))。

ソクラテス「つまりこの私には,ヒッピアス,全く君の言っていることは正反対であるように思えるのだ。すなわち,人々に危害を加えたり,不正を働いたり,偽りを言ったり,欺いたり,過ちを犯すなどのことを意図的にやって,心ならずもそうするのではないような人は,不本意ながらそうする者よりも優れている,とこう思われるのだ。そうはいえ,時にはそれと正反対に思われることもあり,この点では私の意見がふらついているのだ。それが,私の知らないためであることははっきりしている。」(372D)

これまでの命題が繰り返されますが,ソクラテスは自身の意見がふらついているとも言います。ソクラテスらしい率直さだと思いますがこれは最後にも言われます。

ソクラテス「まあ,そう言わないでくれたまえよ,ヒッピアス。でも故意にではないのだよ,私がそうするのは。故意にだとしたら,私は知者で腕利きの人間のはずだからね,君の論法で行けば。いや,それは心ならずもそうなったのだ。」(373B)

ヒッピアスが,ソクラテスは議論の中に混乱を引き起こすのだと困惑を述べた際のソクラテスの返しです。嫌味っぽい感じで,本対話篇のソクラテスは比較的印象がよくありません(笑)。
この後ソクラテスは「よい走者」と「悪い走者」を例に出し,故意に遅く走る者と,心ならずも遅く走る者を比較したり,他の競技にも広げ,そして体つき,声,視力などにも当てはめますが,結局同じ議論の繰り返しです。

ソクラテス「それなら,一言で全体をまとめると,例えば耳でも,鼻でも,口でも,その他どんな感覚器官でも,すべての場合において,心ならずも悪しき行為をなすものは,劣ったものであるという理由で,所有するに値しないものであり,一方,故意にそうするものは,優れたものであるということで,所有に値する,とこういうわけだ。」
ヒッピアス「うん,そのように思われる。」(374D)

耳や鼻が心ならずも偽るとか,故意に悪しき行為をなす,というのはあまり実感がわきませんが,結論は同じです。
…実感がわかない,というのは寧ろ何かのヒントかもしれません。この場合,耳や鼻については「性能がよい」と言った方がしっくり来る気がします。それは真実とか偽りという,何かの意思によって行為に意味付けされるものではない,それはただそれで機能を果たすものである,という感じがします。

ソクラテス「ところで,われわれの魂がよりすぐれたものとなるのは,それが心ならずも悪事をなし,過ちを犯す場合よりは,むしろ故意にそうする場合ではないかね。」
ヒッピアス「しかし,それでは恐ろしいことになろうよ,ソクラテス。もし,故意に不正をなす者のほうが,心ならずもそうする者より優れた者になるとしたら。」
ソクラテス「でもとにかく,これまでの議論からすれば,彼らは明らかにそうなるように思えるのだ。」
ヒッピアス「しかし,この私にはそうは思えない。」(375D)

珍しく(?),私もここではヒッピアスに賛同します。故意に悪意をなす人の方が魂がより優れたものになる,というのは常識的に考えればどう考えても間違っているように思えます。一方でこれまで同意しながら対話で導かれてきた帰結であることも確かです。
この後道具や魂についても,故意に過ちを行うほうが心ならずも過つよりも優れていると言われます。

ソクラテス「したがって,不正を故意になすというのは善い人間のなしうることであり,心ならずもそうするのは悪い人間のすることだ,ということになるね―善い人間は善い魂を持っているとする以上はね。」
ヒッピアス「うん,善い魂を持っていることは確かだ。」
ソクラテス「したがって,故意に過ちを犯したり,恥ずべき不正なことをなしたりする者というのは,ヒッピアス,かりにこういう人間がいるとしたら,それは善い人間をおいて他にないということになるだろう。」
ヒッピアス「どう見ても,ソクラテス,その結論については君に同意できないね。」
ソクラテス「それはそうさ,言っている私でさえ自分に同意できないのだからね,ヒッピアス。でも,われわれが試みてきた議論によれば,現にそのような結論になってくるのは避けられないのだ。しかし,先ほども言ったことだが,私は,この問題については,上へ下へと考えがふらついていて,一刻も同じ見解をもてないでいるのだ。考えがふらつくのが私は他の普通人のことであれば,べつに驚くほどのことでもない。だが,知者であるあなたがたまでもふらつくようなことにでもなれば,それはもう,われわれにとっても恐ろしいことだ―君たちのもとへ出掛けてきても,そのふらつきから解放されないわけだからね。」(376B)

ということで再び,考えがふらついていて,自分でもこの結論に同意できない,と言います。自分はそれでよいのだとも言います。知者 (=ソフィスト) はそれではダメだとも言います。ここで本対話篇は終了します。

以上,本対話篇では,最後まで偽りの人 (故意に過ちを犯す人) は真実の人であり優れた人である,という結論は反駁されずに終わります。
さて,この点について自分なりに少し思った所をまとめます。

  • 真実を知る人こそが,故意に偽る「ことができる」,そういう能力がある,というのは確かだと思います。しかしこれをもって,真実の人=偽りの人,となるのだろうか?真実を語り得る人は,同じ確からしさを以て,偽りを語ることもできるでしょう。どちらを語るかは,その人が真実を知っているかどうかとは,直交 (独立) しているように思われます。優れた医師は,最善の治療をする能力があるからこそ,最悪の (わざと失敗する) 治療の能力もあると思いますが,どちらを選ぼうとするかは医師としての能力とは直交 (独立) しているように思われます。ソクラテスの論法は,2次元直交座標を1次元に射影して (技術的な (モノであれば性能的な) 次元とでも言えるでしょうか),大小を比較しているような印象があります。もう一方の次元に射影すれば (倫理的な次元とでも言えるでしょうか),「正か不正か」というものが得られるように思います。正しい人は真実を語り,不正な人は偽りを語るのでしょう。
    付記すると,心ならずも偽りをなす人は,故意に偽りをなす人よりも,(技術的な次元で) 能力が低いだけということが言えると思います。倫理的な次元での大小は関係ないのです。
  • 有体に言って,「故意に過ちを犯したり,恥ずべき不正なことをなしたりする者は善い人間」という「善」はプラトンが他の著作も通して追求している「善」ではないと思います。真実を追い求めることが「善」ではないのか?「善い人間」とは,故意に偽りをなすことができる時であっても,真実に背かない人のことではないのか?
    例えば『国家』では,「我々が語ったような者になるべき人々は…自然的素質のなかにこういう点がなければならない。偽りのなさ、すなわち、いかなることがあっても、けっしてみずからすすんで虚偽を受け入れることなく、これを憎み、そして真実を愛するという点だ」(485C) とソクラテスに言わせています。

ということを思ったりしましたが,当然このようなことは他の対話篇でプラトン自身が言っているわけで,どうも掌の上で遊ばされている感が否めません(汗)。実際にソクラテスに反論した人はエネルギーを使っただろうなと実感しました。そういう意味で本対話篇は,短いですが特徴的で面白かったです。

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