プラトン『法律』第二巻メモ(1)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第二巻を読んだときのメモ第一弾。

第一巻の終盤は,酒に関する対話が続きました。これも完全に終わったわけではなく,第二巻でもまだ話題に上りますが,メインとなるのは,第一巻の中盤でも言及されていた,教育に関する対話になります。特に,音楽や歌舞が教育に与える影響とは?ということが論じられます。
読んでいて第二巻は,割と冗長で退屈…という印象も強いです。一つには,相手のクレイニアスがおとなしすぎる,ということもあるかもしれません。話に波乱が全く起きません。まあ前・中期対話篇と較べて,後期対話篇は,話としての面白さに欠けるというのは本対話篇に限ったことではない (と思われる) ので,そこは期待せずに読むしかないところではありますが。

以下,読書時のメモです。

アテナイからの客人「さて,当面の問題について,つぎに考察しなくてはならないのは,思うに,酒をかこむ会合が,わたしたちの天性のほどを見抜くという,ただそれだけの利点をもっているのか,それとも,その酒をかこむ会合が正しくとり行なわれた場合には,そこにはずいぶんと真剣になって考えるに値する,なにか大いなる利益がふくまれているのか,ということなのです。」(652A)

ということで,まだ酒の会合の話題が続きます。とはいえこの後,直接酒に関する言及がそんなにあるわけではありません。

アテナイからの客人「そこで,わたしが今一度思い出しておきたいことは,わたしたちの言う正しい教育とは,そもそも何であるか,ということです。それというのも,今のわたしの見当では,酒の会合というこのしきたりが立派に立て直されるとき,そこに,教育の擁護も見られると思うからなのです。」(653A)

第一巻でも教育に関することは言われており,また酒が教育に資するというようなことも言われていました。ここでも改めて,教育とは徳 (特に快楽と苦痛) を備え付けることということが言われます。
また,教育にはたるみが出てきてしまうので,神々は人間への休息として,神々への祭礼を,ムゥサたち,その指揮者アポロン,ディオニュソスの3神とともに与えた,と言われます(653D)。また(動物の中で)人間だけが,リズムとハーモニーを楽しみながら感じる感覚を持っている(神々から与えられた)と言われます(653E)。多くを省略しましたが,割と後々の伏線にもなっていそうな部分です。

アテナイからの客人「すると,わたしたちの場合,教育のない者とは,歌舞の心得をもたぬ者となるのではありませんか。他方,教育のある者とは,充分に歌舞の経験をつんだ者とすべきではありませんか。」(654A)

アテナイからの客人「すると,立派に教育をうけた者は,立派にうたい,おどることができるはずですね。」(654B)

なぜ唐突に,教育のある者が,充分に歌舞の経験を積んだ者であると言われるのでしょうか?クレイニアスは簡単に同意するのですが,それはこの後に詳しく話される内容だと思います。
それとは違うと思いますが,直接的には,労苦からの休息としての祭礼も教育に含まれるということが言われていたので,「休息の中に教育がある」という感じも受けました。

アテナイからの客人「すると,もしここにいるわたしたちが三人とも,歌と踊りについての立派さを認識できれば,わたしたちはまた,正しく教育された者と教育されていない者をも,認識できるわけですね。だが,その点で無知であれば,そもそも教育を守るものがあるのかどうか,あるとすればどこにあるのか,それさえついに,識別することができないでしょう。そうではありませんか。」
クレイニアス「そのとおりです。」
アテナイからの客人「ですから,つぎにわたしたちが,跡をつける猟犬のように探さねばならないのは,歌と踊りにおける立派な身振りと旋律 (メロディー) なのです。」(654D)

歌と踊りについての「善」が,教育についての「善」と通底しているために,前者の認識が後者に関わる,というプラトンらしい見方だと思います (「善」は「美」と言ってもいいのかもしれません)。

アテナイからの客人「さあ,どうでしょう,勇敢な魂が困難におちこんだ場合と,臆病な魂がそれとまったく同じ困難におちこんだ場合とでは,そもそもそこに生じる身振りと話し振りが似ているでしょうか。」
クレイニアス「どうして似ていましょうか,顔色すら似ていないというときに。」
アテナイからの客人「よい答えですね,あなた。しかし,いいですか,音楽はリズムとハーモニーにかかわるゆえに,そのなかには身振りと旋律がふくまれているのです。」(654E)

ここは少しうなった部分です。確かに身振り,話し振りの美しさみたいなものはあると思いますが,それが歌や踊りの立派さ(美しさ?)と共通していると。それなら,前に言われた,「歌と踊りについての立派さの認識が正しい教育の認識」というのもかなり実感が伴います。身振りや話し振りだけの話でもない,という気もします。

アテナイからの客人「そもそも歌舞は,さまざまの行為や状況を通じての諸性格の模倣であり,歌舞者 (俳優) はそれぞれ,各自の性質と模倣によってこれを演じます。したがって,そこで話される言葉,うたわれる調子,あるいは,なんらかの踊りの仕ぐさが,歌舞者 (俳優) の天性や習慣やその両方にかなっていて,自分にぴったりする場合には,歌舞者はそれに喜びを感じてほめたたえ,美しいと呼ばざるをえなくなります。しかし,それが彼らの天性や性格や習性にそむく場合には,彼らは喜びを感じることも,ほめたたえることもできず,醜いと呼ばずにはいられないのです。」(655D)

自分にはよく分からない部分ではありますが,実際に演劇を見たり,あるいは演じたりしている人には,天性と役柄の一致を感じたりすることはあるのでしょうか。
前半は『国家』の「詩人追放論」を思い出しました。

アテナイからの客人「悪い人間の下劣な性質に馴染んでいながら,それを憎みもせずに喜んで受けいれ,申しわけ程度の非難はしてみせるものの,じっさいに相手の悪徳に目ざめているわけではない,というような人がいますが,そういう場合のことですね。そんなとき,善悪どちらの性質に喜びを感じるにせよ,その人は,相手に同化されるにちがいありません。たとえ,それをほめるには羞恥を感じるにしてもです。しかし,そうだとすると,善きにつけ悪しきにつけ,こうした同化以上の大きな影響を確実にもたらすものとして,いったいそのほかに,なにをあげることができるでしょうか。」(656B)

すこしドキッとする部分です。あまり真似したくないようなものでも,受け入れると「同化」で,影響を受けること大だと。『国家』でも似たことが言われていたような。

アテナイからの客人「とすれば,すでに言ったように,もし誰か,旋律の正しさをわずかでも把え得る者があるなら,その人はそれを,迷うことなく法律と規則にもちこまなくてはなりません。というのも,快楽と苦痛を手段にする好奇心は,たえず新しい音楽を手がけてやまないにしても,それとて,神聖化された歌舞を古くさいときめつけて破壊するほどの大きな力は,まず持ってはいますまいからね。」(657B)

省略しましたが,エジプトの例が言われていました:立派な身振りや旋律を指定して神殿に告示し,そして芸術に携わる人が,それ以外の新機軸を出したり,国に伝承されている以外の新しいことをするのを許されてこなかった。かつ,それを「卓越した立法と政治の仕事」と。
旋律や他の芸術的なものの技術が,法律によって定められる,というのはどういうものなのでしょう。確かにそういったものが即ち教育であるということ,あるいはそういったものの絶対値のようなものがあってそれが国民の他の「善」の絶対値をも規定する,ということなら,国民の徳を最大化するために立法化するという発想はあり得るのでしょうか。
そういう風に考えると,理想的で不変な「善いもの」というものが存在する,というのが前提になっているのだなぁと思います。仮に「善いもの」が変化するものであれば,立法化は足枷でしかないと思います。

アテナイからの客人「かりに誰かが,体育競技,音楽競技,馬術競技というような区別をせず,そういう種類の別なく,ただ単純に競技を開催し,市民のすべてを集めてこう布告するとしたら,どういうことになるでしょうか。希望者は誰なりと,快楽についてだけ技を競うべくやってくるがよい。その手段に規定はなく,とにかく観客を最も楽しませた者,楽しませるという効果を最もあげて勝利を獲得し,競技者のなかでいちばん面白いとの判定を下された者,そういう者に賞品が設けてある,―こういう布告から,いったいどんな結果が生じると考えますか。」(658A)

アテナイからの客人「では,もしきわめて幼い子供が判定するとすれば,操り人形を演じた者を,勝利者とするでしょう。そうではありませんか。」
クレイニアス「そのとおりですね。」
アテナイからの客人「しかし,もうすこし大きい子供なら,喜劇を演じた者を勝利者とするでしょう。だが,教養ある婦人や若い青年たち,さらにおそらく大衆の大部分なら,悲劇を演じた者を勝利者とするでしょう。」
クレイニアス「おそらく,そうでしょうね。」
アテナイからの客人「しかしわたしたち老人は,たぶん,『イリアス』や『オデュッセイア』,あるいはヘシオドスの詩句を巧みに吟踊する吟踊詩人に,とりわけ楽しんで耳を傾け,彼をすぐれた勝利者と主張するでしょう。そうなると,いったい誰が,真の勝利をおさめたことになるのか。これが次の問題です。」(658C)

ここでは,子供から老人までの年代に応じて好むものとして,操り人形ー喜劇ー悲劇ー詩,という序列を作っています。実は結構面白いところという気もします。快楽を与えるもの,という共通点はあるわけですが,また全て「模倣」ではあると思いますが,より直接的なものから,真実に近いものになっていく…という感じなのでしょうか。

アテナイからの客人「わたしやあなた方としては,明らかに,わたしたち同年輩の者によって判定された者こそ,真の勝利者だと,言わざるをえません。なぜなら,わたしたちの国のその習慣こそ,あらゆる国,あらゆる所で今日見られるさまざまな習慣のなかで,とりわけ最善のものと思われるからです。」(658E)

仮にも,元々教育問題が言われていた中で,わたしたち同年輩の者,つまり老年者の判定が尊重されるというのは良く分からないところがありますが,年齢が上がるにつれて徳が養われる,ということから考えると当然なのかもしれません。かつ現代でも普通のこととして受け入れられそうな説でもあります。次に続きます。

アテナイからの客人「このわたしにしても,音楽は快楽を規準として判定されなくてはならない,というその点だけのことなら,世間の人びとと同意見なのです。とはいっても,どんな人の快楽でもよい,というのではありません。最もすぐれた人たちや充分な教育をうけた人たちを喜ばせるもの,とりわけ,徳と教育の点で他にぬきんでている一人の人間を喜ばせるもの,それこそ,最も立派なムゥサの技 (音楽) としなくてはなりません。」(658E)

音楽に関して,快楽は快楽でも,「徳と教育」の面で抜きん出ている人を喜ばせるものが,立派なものだと。
ところで本巻のような,音楽などの芸術方面において「徳」という言葉が出てくると,非常に胡散臭い感じを常に受けます。原語は ἀρετή (アレテー) だと思いますが,この言葉は,日本語の「徳」というともすると封建時代の遺物のような語感の言葉よりは,もっと広い意味があるとはよく言われることです。
また最近たまたまある新聞のエッセイで読んだのですが,『礼記』の「楽記」篇でも音楽に秀でることが徳のある人間の証である,ということが書かれていたそうです。
音楽を聴いて,感動する,心が動かされる,ということは自分もよくあるし一般論として否定はできないはずです。「その心の動きとは一体何なのか」という (技術的な) 側面が根本的にはプラトンが考えたテーマだと思います。が,それを教育に利用するということになると,プラトンが忌み嫌ったソフィストのしようとしていたことと紙一重のとても危うい試みになるのでは,という気がします。

アテナイからの客人「真の判定者は,劇場の観客から教わって,つまり,大衆の喝采やみずからの無教養ゆえに正気を失って,判定をくだすべきではありませんし,反対に,真実をわきまえていながら,勇気のなさや臆病ゆえに,判定の初めに神々に呼びかけたその同じ口で,嘘と承知の判定を軽々しく公表すべきでもないからです。」(659A)

この少し前に,「判定者はとりわけ勇気をそなえていなくてはならない」とも言われます。日常でも,周りが面白いと言っているからと,見る前から面白いことにしてしまっていたり,反対の意見が言えない,という例は結構あると思いますが,それに対してプラトンらしい厳しさを感じさせるところ。この後,シケリアやイタリアの反対の現実についての説明もあり,これも現代に当てはまりそうなところがあります。

アテナイからの客人「どうやら議論は,まわりまわって,三度目四度目に,同じところへ到着したようですね。すなわち,教育とは,法律によって正当と告示された理,また老齢の有為な人物から,その経験に照らし,真に正当なりと認められた理,そういう理へ子供たちを誘い導くことにほかならない,ということです。」(659D)

クレイニアス「わたしの見るかぎり,わたしたちの国クレテやラケダイモンの場合を除けば,あなたの今のお話しが実行されているのを,わたしは知りません。むしろ踊りについても,それ以外の音楽全般にわたっても,たえずなにか新しいものの生まれているのを,知っています。しかもそれらの変革は,法律によってではなく,ある種の無秩序な快楽によって行われているのですが,その快楽たるや,あなたがエジプトの例で説明されたように同一のものであったり,同一の状態を保ったりしているどころか,ひとときも同じ姿ではないものなのです。」(660B)

アテナイからの客人は直前に,「真の立法者は,称賛に値する美しい言葉を使って作家を説得し,説得できなければ強制し,作家をして,思慮も勇気もそなえ,あらゆる点ですぐれた人物の身振りをリズムで,調子をハーモニーでそれぞれ描きながら,立派な制作をするように,させることでしょう」(660A)と言います。それに対して抱いた自分の疑問を,ちょうどクレイニアスが聞いてくれました。
これに対してアテナイからの客人は,「こうあってほしいと望むことを話していて,真実を話したのではない」と弁解します。そして望んだとおりになれば,より立派な国になると言います。
この辺りの流れは,進化というか変化によって良くなるという発想がなく,「理」とでもいうものが不変とすると (「イデア」などからするとそうなるのだと思う),こうなるのかなという気がします。

アテナイからの客人「さあ,考えてみてください。わたしははっきりと申しますが,いわゆる悪しきものは,不正な人びとにとっては善いものですが,正しい人びとにとっては悪いものであり,いわゆる善きものも,善き人びとにとってこそ真に善いものですが,悪しき人びとにとっては悪いものとなるのです。そこで,さきほどもお尋ねしたことですが,わたしとあなた方とは同意見なのでしょうか,それとも,どうでしょうか。」
クレイニアス「ある点においては,わたしたちの意見は一致するように思われますが,しかし別の点では,まったく一致しないように思われます。」(661D)

この前で,「善き人は,大きく強かろうと,小さく弱かろうと,あるいは裕福であろうとなかろうと,とにかく思慮があり正しくさえあれば,幸福であり浄福である」(660E) などとも言われました。また,善いと考えられているものを全て身に着けていても,正義などの徳を欠いていたら,最大の禍いをもたらす,ということも言われました(661C)。この辺りは『国家』の「ギュゲスの指輪」を思い出しました。
しかし,本当の意味での「善いもの」というのは,正しい人にとっても不正な人にとっても善いものではないのか?とも思います。その意味では,「いわゆる善い (悪しき) もの」というのは,本文で具体的に挙げられている健康,器量,富など,何か限定があるのかもしれません。この辺り,日本語訳ではうまくニュアンスが伝わっていない可能性もありますが,相対的に善い悪いが論じられるのは若干プラトンらしくない印象も受けました。

アテナイからの客人「すると,わたしがあなた方を説得できない別の点とは,おそらくこのことなのでしょうね。健康,富,僭主的権力を一生涯所有してはいても,―いや,さらにお望みなら,不死と共に卓越した体力と勇気が彼にはそなわっており,いわゆる悪しきものは何ひとつ彼の身に生じないとつけ加えてもよいのですが―,たとえそうであっても,もし自分自身の内部にただ不正と傲慢だけをもつならば,そのような状態で生活をいとなむ者は,あきらかに幸福ではなくみじめになる,という点なのでしょうか。」
クレイニアス「まさにあなたのおっしゃるとおり,その点なのです。」(661E)

前の引用部分では,全面的に意見の一致を表明しなかったクレイニアスですが,ここで言われている「みじめである」というのが,周囲から「思われるもの」という意味で同意しているように思えます。
この後の部分(略)は,結構核心的なことが言われている気がしました。それを正確に読解できている自信はないのですが…。「正しい生き方」と「楽しい生き方」があったとして,それらが両立しないのなら (正しいが苦しい,楽しい (快い) が悪),それを是正するものが立法者のつとめ,と言っているのでしょうか。

メモ(2)に続く…。

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