プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第六巻を読んだときのメモ第1弾です。
第五巻までと割と大きな転換で,ここでは役人の役職について前半~中盤で述べられます。ここまで法律の必要性やその内容について色々語られてきたわけですが,それを実際に執行するための手段として,どう役職を作って選出するか,ということがかなり詳細に語られていきます。この詳細さは,『クリティアス』でのアトランティスの国土づくりを少し思い出します。また,裁判制度について語る部分もあり,これは短いですがかなり面白いと個人的に思いました。
後半では,結婚に関する規定が色々述べられますが,長くなったのでメモ(2)に。
以下,読書時のメモです。
アテナイからの客人「さて,これまでいろいろと述べてきましたが,次の仕事は,おそらくあなたの国のために役職を制定することでしょう。」
クレイニアス「まさしくそうです。」
アテナイからの客人「国制をととのえるのには,次の二つの段階があります。第一は役職の制定および役人の任命,つまり,いくつの役職があるべきか,またどんな仕かたで任命がなされるべきかという問題です。それが済んだらつぎに,それぞれの役職に法律を付与しなければなりません。」(751A)
ということで,国の為の役職についてです。これは面白そうなテーマと感じます。なのでメモも少し多めかもしれません。
今で言えば,公務員について,どんな職種があり何を行なうか,ということになるでしょうか。こういう政府・行政の業務に着目した描写というのは『国家』には見られず,『法律』で法律による国家機構を考えて行く上で考えざるを得なかった観点なのかなと思います。
アテナイからの客人「立法の仕事というものは大事なものではありますが,立派につくられた国家が,立派に制定された法律の施行を,不適格な役人の手に委ねるならば,立派な法律から何の利益も得られず,天下の物笑いになるばかりでなく,おそらく国家にとって最大の損害と不名誉とがそれから生じるであろうということは,誰にも明白だということです。」(751B)
前述のテーマの前にちょっと別の話として言われる言葉ですが,これは今でも (今だからこそ?) 通用する至言だと思います。
ただ,これは「理想」と「現実」という難しい問題という気もします。確かに法律というのは「理想」(言葉で表せる限りの) といえると思いますが,それを「現実」に落とし込むために,どうしても役人がいる,ということになるので,うまく役人を登用できないと,仏作って魂入れず,になります。
アテナイからの客人「役人の地位に向かって正しく歩む者たちは,彼ら自身もその家族も,子供のときから[その地位に]選出されるに至るまで,充分な吟味をうけていなければなりません。つぎにまた,選挙人たるべき人びとも,法を重んじる習慣のなかに育てられ,それぞれにふさわしい候補者を,あるいは嫌悪をもって,あるいは好意をもって,正しく退けるなり受けいれるなりできるように,充分に教育されていなければなりません。しかしこの点については,最近一緒になったばかりで,互いに知り合ってもいないし,そのうえ教育もない人びとが,どうして役人を間違いなく選ぶことができるでしょうか。」(751C)
この国家では,役人は「選出」されるもの,つまり選挙で選ばれるもの,というのが新鮮に思えます。しかし確かに,どうやって役人は選ばれるべきなのか?とも考えさせられます。今の日本で言えば,公務員試験によって選ばれるわけですが,当時はそもそもテストの概念があったのかどうか。
アテナイからの客人は,いきなり法律を受け入れて役人を適切に選び出せるようになるのは難しいが,子供のときからその法律に親しんで充分に受け入れていれば,適切に選び出すことができるだろう,ということをこの後で言っています。
以下,細かい規定は殆ど省いていますが,37人の護法官のうち,19人を入植者,残りをクノソス人から選ぶということがまず言われます。
また,役人(護法官)を選出する具体的な流れも語られます (753B~D)。
アテナイからの客人「クノソス人は入植者のなかから,できるだけ最年長で最善の人びとを,少なくとも100人選んで,彼らと協力して,これらすべてのことを取りしきらなければならないと言います。そして他にクノソス人自身のなかからも100人を選びます。これらの人びとは,新しい国へやってきて,役人が法律に従って選ばれ,選ばれた上で審査が行なわれるようにと,協力して配慮しなければならない,とわたしは言うのです。そしてこれらのことが済むと,クノソス人はクノソスに帰り,新しい国は自分で自分を守り,繁栄するように努力すべきなのです。」(754C)
アテナイからの客人「しかし,あの37人のなかに入った人びとは,現在も,また将来もずっと,次の目的のためにわたしたちに選ばれたものとします。第一に,彼らは法律の番人でなければならず,ついで市民各自が自分の財産の額を役人に申告する,財産登録の番人でなければなりません。ただし最高の財産階級は4ムナまでで,第二は3ムナ,第三は2ムナ,第四は1ムナまでは控除されます。もし誰かが申告以外の余分なものを持っていることが明らかになると,そのような財産はすべて国庫に没収されます。」(754D)
アテナイからの客人「誰でも望む者は,彼を不当利得のかどで告発し,護法官自身の前で裁判にかけることができるのです。」(754E)
ということで,護法官の仕事3つが語られます。今の日本で言うと何なんでしょう?「法律の番人」というのは,奇しくも日本では内閣法制局の通称として知られていると思います。財産登録の番人というのは,税務を取り仕切る国税庁やその上の財務省になるでしょうか。最後のは裁判官にも思えますが。
この後,将軍,騎兵隊長,部族騎兵隊長,部族歩兵隊長の選出が語られます (第4章)。かなり詳しく選出手続きが述べられています。ここでも,将軍と騎兵隊長を選出するのは,「戦争に参加すべき年齢のときに参加した者や,現に戦争に参加する者すべて」ということが言われます。
アテナイからの客人「政務審議会は12の30倍の人数から成り,――360という数は,これをさらに分けるのに好都合でしょう――,それを90人ずつ4つの部分に分け,おのおのの財産階級から90人ずつの審議員を選出します。最初に,最高の階級からの候補者指名には,全市民がかならず投票しなければならず,従わない者には定められた罰金が科せられます。」(756B)
次に政務審議員の選出について。財産階級別に選ばれるようです。以下,第2~第4階級の選出過程も同様に言われます。
アテナイからの客人「たしかに「平等は友情を生む」という古い諺は真実であって,まったく正しく,適切に語られています。しかし,この友情を可能にする平等とはどういう平等なのかということがすこぶる不明瞭であるために,それがわたしたちをすこぶる混乱させるのです。というのは,二種類の平等があって,それらは名前は同じですが,実際は多くの点でほとんど正反対のものだからです。」(757A)
「二種類の平等」というのは何なのか,というのは以下の引用で言われます。結構根本的なことを言っているように思えます。
アテナイからの客人「一方の平等は,どんな国家,どんな立法者でも,栄誉を与える際にそれを容易に導入することができます。これは尺度,重量,数による平等で,分配に籤を用いることによって,それを適用することができます。しかし最も真実な,最もよき平等は,誰にでも容易に見分けられるというものではありません。なぜなら,それを判定する能力はゼウスのものであって,この能力が人間の助けになるのは,いつもわずかだからです。しかし,国家なり個人なりにとって,それが助けになるかぎり,すべての善きものがそこから生みだされるのです。なぜなら,それは,より大きなものにはより多くを,より小さなものにはより少なくをと,双方にその本性に応じて適当なものを分け与え,とくに栄誉については,徳において大いなるものにはつねに大いなる栄誉を,徳と教養とにおいて反対のものにはそれにふさわしいものを,双方に比例的に分け与えるからです。じっさい,政治というものも,わたしたちにとってはいつも,まさにこの正義のことなのです。いまもわたしたちは,クレイニアス,この正義を目差し,この平等に眼を向けて,現在誕生しつつある国家を建設しなければならないのです。」(757B~D)
量的な平等と質的な平等,という感じでしょうか。
ここは,プラトンの中でかなりの葛藤があったのか?と思わされるところでもあります。実際,この前に示された政務審議員の選出過程は,「君主制と民主制の中間に当たる…」と言われますが,どちらの長所も短所も知っているために考え抜かれた過程なのだろうと思います。
また,政治における「正義」が,徳を多く持てば多くの栄誉を与えること,ということだと言われていますが,徳ではなく「功績」とでも置き換えれば現在でもそう変わらないかもしれません。本当は,困っている人に多く分配することこそが「正義」では,と思わなくもありませんが,そういう「国民は法の下に平等」という意味での「平等」は当時全然なかったのだと思われます(今もあるかどうかはよく分かりませんが)。
アテナイからの客人「審議員の大部分は,ほとんどの時間自宅にあって,家の仕事に精を出すのが許されます。そして彼らの12分の1を12の月のそれぞれに割り当て,1か月交替で守護者の役につかせ,外国からの,あるいは国内からの来訪者に迅速に応待させます。」(758B)
このくらいの (1年に1か月くらいの) 非常勤であれば,自分も役人をやってみたいと思いました(笑)。
ここまでは国家 (都市) に関する役職の話で,ここから先は地方に関する役職が述べられます。込み入ってくるので引用とは別に章ごとに少し内容をまとめます。
(第7章) 神殿の神官,都市保安官,市場保安官といったものがあると述べられます。
男女の神官の選出方法に関しては,引用はしてませんが「世襲だが,いなければ籤」ということが言われます。これは少し面白いと思いました。「神的偶然に委ねる」,という言い方もされていますが,言い方を変えると偶然性と神は同じ,と考えられていたということでしょうか。
アテナイからの客人「すべての神事に関する法律は,これをデルポイからもってきて,それに対して神事解釈者を任命した上で,この法律を用いなければなりません。」(759C)
政教分離なんて当然ない時代,神事が法律に出てくるのは当然だったのでしょうか?ただ,後世の宗教政治の萌芽という気はします。
(第8章) 保安官の仕事について。地方の防衛がメインテーマで,警察みたいなもの?と思いましたが,それだけでもないようで,後で示す引用のような面白いことも言われます。防衛については,
- 1つの部族あたり5人の地方保安官もしくは監視隊長
- 5人組のそれぞれに25~30歳の12人の若者
- 国家の(12に分かれた部分の)いずれかが籤によって割り当てられ,1か月交替で各地を回る
といったものです。加えて,
アテナイからの客人「まず第一に,国土が敵に対してできるだけよく防衛されるように,必要なかぎり,堀をつくり,溝を掘り,砦を築いて,何にせよ,国土や財産に危害を加えようとする者を,できるかぎり防がなければなりません。」(760E)
アテナイからの客人「また雨水が山の高みから山あいの落ち窪んだ谷間へと流れ込むときに,国土に害をなさず,むしろ利益をもたらすようにと,水の溢出を堤防や堀で防ぎます。こうして谷が雨水を受けいれ,呑みこんで,下流のすべての畑や土地のために,流れや泉をつくり,最も乾いた土地にさえ,たくさんのよい水を供給するようにします。」(761B)
アテナイからの客人「またこのような場所にはどこにも,若者たちは自分たちやまた老人たちのために体育場をつくり,老人向きの温浴場をしつらえ,よく乾いた薪を豊富に用意し,病に苦しむ人びとや,百姓仕事に疲れきった人びとの身体を癒すべく,やさしく受けいれてやります。これは,下手な医者にかかるよりもはるかに役に立つものです。」(761C)
ということで警察のようなものかと思いきや,地形を利用して防衛に利用したり,生活用水を供給したり,保健施設を作ったりすることも含まれています。ちゃんと老人をいたわっているのが意外なところ(笑)。まあこの執筆当時はプラトンも立派な老人なので,色々大変さが分かっていたということでしょうか。
(第9章) 続き。こちらの方が不正の摘発など,警察のような業務のことを言っているかもしれません。
アテナイからの客人「ところで,王のように最終決定を下す人たちを除いて,いかなる裁判官も役人も,裁判や職務の遂行に関して,執行監査を受けないですますことはできません。とくにこれらの地方保安官の場合,もし彼らがその管理下にある人びとに対して,不公平な賦役を課したり,農業の収穫を同意を得ないで奪い去ろうと企てたりして,不当な振舞いに及ぶならば,またもし賄賂として贈られたものを受けとり,あるいはそのうえ不正な判決を下したりするならば,誘惑に屈したものとして国中に恥をさらさせます。」(761E)
不正に厳しいですね。行政に監査が必要,という考えが既に示されていることに驚きます。当然あるべき姿だとも思いますが,一方で,役人には古今東西を問わず賄賂が付いて回っているのも事実だと思います。なぜこの目標が未だに果たせていないのだろう?とも思います。
アテナイからの客人「隊長と部下の地方保安官たちには,在職中の2年間を次のように過ごさせます。まず,それぞれの地域ごとに共同食事があり,全員がそこでいっしょに食事をとらなければなりません。」(762B)
『国家』で言われていた共同生活でしょうか。他にもかなり厳しい制約が言われます。共同食事を1日でも欠席したら,その人を「誰でも鞭で懲らしめても罰を受けません」とか。いやいや普通に傷害罪でしょ…と突っ込みたくなりますが(汗)。
(第10章) 都市保安官,市場保安官の役割について。
都市保安官については,特に水に関して,清潔な水が引かれるように管理するのが任務だと言われます。他に市街地の道路,幹線道路,建造物が法に違反していないか?の管理など。最高の財産階級のなかから6人が選出され,選挙管理人のくじによって3人が選ばれると。
市場保安官については,市場に対して,都市保安官と概ね同じ内容が言われます。ただ選ばれるのは第2と第1の財産階級から5人と言われます。
(第11章) 音楽と体育の役人について。いずれも,教育の担当者と,競技の担当者 (=審判官) があると言われます。
ここでは,その道の専門家である候補者の中から籤で選ぶと。詳しく言われるのは競技の審判官で,選ばれたあとの資格審査が割と強調されていると思います。
(第12章) 「男女児の教育全般にわたる監督者」について。この役職の資格は,50歳以上で嫡出子を持つ父親であると言われます。
かなりその教育は重要視されているようで,
「その役が国家における最高の役職のなかでもとくに最も重要なものでもある」(765E),「人間はたしかに温和な生きものだとわたしたちは認めますが,しかしながら,人間は一般に正しい教育と恵まれた資質とを得てこそ,最も神的な,最も温和な動物になるのであって,もし不十分な,あるいは立派でない育てられ方をすると,大地の生みだすもののなかで,最も獰猛なものになるのです。」(766A),「国中の人びとのなかで,あらゆる点で最善の人を子供たちの監督者に任命すべく,できるかぎりの努力を傾けなければならないのです。」(766A) と,当然とはいえ力強い言葉が並びます。
アテナイからの客人「政務審議会とその執行部とを除くすべての役人が,アポロンの神殿に赴いて,秘密投票を行ない,護法官たちのなかで,教育に関する事柄を司るのに最も優れていると各人が考える人を選びます。そして最も多くの票を得た人が,護法官を除く他の,選挙母体たる役人たちによって資格審査をうけた上で,5年間その任にあたり,6年目には,同じ方法で別の人がその役に選ばれるべきなのです。」(766B)
他の役職は,自分が読み間違えていなければ,(階級の制限はあるにせよ) 市民から選出していたと思いますが,これだけは (「秘密投票によって」) 役人が護法官の中から選出している,ということになるのでしょうか。今の日本では教育委員長のようなもの?
例えば現代でも,ある特定の思想団体・宗教団体をバックに持つ政党があったりします。仮に市民から国や地方の教育者や教育行政の担当者を選出するとなると,その思想団体・宗教団体の思想・教義に偏重した人が選出される可能性があります。そこを民主主義の範疇ととるか,教育の中立性が守れないととるか?と考えると結構難しい問題のような気がします。
もっとも,仮に役人から選出するにしても,今の日本で議会のチェックが全くないとは考えにくいので,多かれ少なかれ市民のバックにある団体の影響を受けているとも思えます。というか2018年頃からの○○学園問題など,「行政のプロセスをゆがめられた」と言われた問題は,まるっきりその構図かもしれません。行政 (役人) と立法 (政治家) のどちらが民意なのか?一義的には後者なのでしょうけど,現実に遍くそうなっているとも思われません。
(第13章) 法廷の設置,裁判官・裁判について。これは面白いです。引用を多く省略しているので分かりづらいですが,公平な裁判を行なうためにどうすればよいのか?というプラトンの苦心を見ることができ,現在につながるものも多く見られます。
アテナイからの客人「つねに双方の争点が明瞭になることが必要であり,時間をかけてゆっくりとたびたび審議を行なうことが,争点を明瞭にするのに役に立ちます。ですから,互いに争う人びとは,まず隣人や友人や,争われている事柄を最もよく知っている人びとのところへ行くべきです。しかし,もしそれらの人びとのところで十分な裁決を得られなければ,別の法廷に赴かなければなりません。そしてこの二つの法廷が解決をすることができなければ,第三の法廷がその訴訟に決着をつけるべきなのです。」(766E)
ここは日本での三審制を想起します。ただ最初の審判は,知人などで解決を図るべきだと。ちょっと違いますが家庭裁判所や簡易裁判所を連想します。
アテナイからの客人「その他の場合にとっては2つの法廷があります。1つは誰か個人が個人を,自分に対して不正をなしたとして告発し,裁判に持ち込んで決着をつけようと望む場合であり,もう1つは公共体が市民の誰かによって不正を加えられたと,誰かが考えて,公益を擁護しようと欲する場合です。」(767B)
ここは,完全に一致ではないが,現在の民事と刑事を連想します。プラトンを読んでいると,こういう今では当たり前で考えることもないような,根本的なことを考えさせてくれるのが面白いとつくづく思います。
なお,第3法廷の裁判官については,引用は省略していますが,役人の各役職のそれぞれから最善の人を選ぶ,と言われています。元々,当時のアテナイは陪審制であり,ソクラテス裁判のように一般市民が判決を決めていたわけですが,素人ではダメだという問題意識があったのだと思われます。一長一短だと思いますし,次の引用とも関連しますが,これは現在の日本の裁判員制度にも通じる部分があるのかもしれません。
アテナイからの客人「しかし,国家に対する罪の告発では,まず一般大衆が裁判に参加することが必要です,――なぜなら,誰かが国家に対して不正を行なった場合には,被害をうけるのは国民すべてであり,彼らがそのような裁決に参加しないならば,不平を抱くのはとうぜんでしょうから――。」(768A)
アテナイからの客人「しかし私的な訴訟にも,できるだけすべての市民が参加すべきです。なぜなら,裁判に参加する権利にあずからない人は,自分が国家の一員であるとはまったく考えないからです。」(768B)
陪審制に (当時のアテナイの) 問題を感じながら,やはり市民参加に意味がある,とも思っていたことが窺われます。この部分は現代でも有効なのだと思います。また,国家に対する訴訟という,今で言う刑事事件を連想させる方の訴訟に,一般大衆が参加する必要性を重く見ていたことも(とはいえどっちも参加すべきとも言っているのですけど),今の日本の裁判員制度が刑事事件のみを対象としていることと繋がる部分があります。そこは,刑事事件がある意味国家に対する不正で,それに対して国家が量刑を下すものだから,と考えるとなるほどと思います。
13章の裁判制度 (の役職) の話は本当に面白いと思います。ただまだ語り残された部分があるらしく,「立法の仕事の最後になされるのが,最も正しいことでしょうから」(768C)と言われて終わります。続きが楽しみなところです。
(第14章) 法律の改善の必要性について。画家が描いた絵を例にしたりして,法律も悪くならないように,かつ良くなっていくようにすべきということが言われます。
アテナイからの客人「ところで目下のところは,役人の選出のところまで来たわけですから,序論的部分はこれで充分に終ったとして,法律の制定を始めるのに,もはや何ら遅滞したり,逡巡したりする必要はありません。」(768D)
ということで,役人選出の話題についてはひとまず終わったようです。
アテナイからの客人「彼は最初に,法律を厳密さにおいてできるだけ欠けるところのないように書こうとするでしょう。ついで時が経ち,自分の善しとするところを実地に試してみて,次のようなことに気づかないほど愚かな立法者がいるとお思いですか。つまり,自分の築いた国家の体制と秩序とが,だんだん悪くなってゆくのではなく,つねにより善くなってゆくためには,必ずや自分の善しとするものの多くが,誰か後につづく者の手によって改善されねばならないようなものとして残されている,ということにね。」(769D)
この少し前に,「後継者は,その絵が時の経過により損なわれた場合に,これを修復し,また画家自身の…完成に近づけることができるのです。」という言葉も言われたりしていましたが,やはり『国家』第7巻~第8巻で言われていた時とは違っているなぁ,と思わされた部分です。その時は,善というのは不変であり,真の理想国家も不変であると言われていたと思います。しかしやはり時間というものがあって,また現実の変化というものがあって,法律も,あるいはその法律を適用した現実も,(1)経年劣化することがある,(2)技術的な未熟さゆえに最善ではないことがある,とプラトンは考えていたと。それを受け入れて付いていく必要性をここでは言っていると思います。理想は理想で変わっていない,ともとれますが,とにかく現実的です。
アテナイからの客人「わたしたちは法律を制定しようとして,すでに護法官も選んだのですが,わたしたちは人生の黄昏にあるのに対し,彼らはわたしたちに比べれば若いのですから,いまも言うように,わたしたちはただ法律を制定するだけでなく,これらの人びとが護法官であるとともに立法者でもあるように,できるかぎりの努力を傾けなければならないのです。」(770A)
ということで前述の,法律をメンテナンスしていく役割を,護法官に担わせようと言います。つまり役人が立法家も兼ねるということ?…と考えると今の日本ではそう驚くようなことでもないのでしょうか?実質的には官僚が法律を作っていますし。
ということで第6巻では主に役人の職や業務の制定が語られました。現代から見てもそれほど違和感を覚えるものは少ないと思います。特に裁判制度については,当時のアテナイにおける問題意識を反映して,より良いと思ったものを描いていると思いますが,驚くほど今の日本に通じるものがあると個人的に思いました。
プラトンも全くの想像でこれらを書いたのではなく,現実における国家や都市の役人の役職や仕事の中で,本当に必要で良いと思ったものを書き出し,悪いと思ったものを採り入れなかった,という感じではないでしょうか。であるなら,プラトンの (理想とまではいきませんが) 目標として描いた国家の延長線上に,我々は確かにいる,と言えるのかもしれません。
この後,主に結婚の話に移っていきますが,長くなったので一旦切ります。メモ(2)に続く…。