プラトン『法律』第七巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第七巻を読んだときのメモです。

第七巻は,子供の養育・教育という話がメインになっていると思います。右手と左手を同じように使えるようにすべし,とか,戦争に関わることでもできるだけ男女同じことを教えるべき,というのは,ある意味動物として冷静に人間を見ていたプラトンの一面が垣間見られる印象で,回り回って割と現代的という印象を持つところです (『国家』篇でもそうでしたが)。
また合間には,法律と慣習・しきたりの関係や,神と科学の両立?の話などかなり興味深いことが語られています。

以下読書時のメモです (2つに分けたくなかったので,かなり長くなってしまいました)。

アテナイからの客人「さて,男女の子供たちが生まれたので,そのつぎには,養育と教育とを語るのが,わたしたちにとって最も正しいことでしょう。
この問題は,語らないで済ますことはとうていできませんし,そうかといって語るとすれば,教えるとか勧告するとかいう形を取る方が,法律で規定するよりも,適当なようにわたしたちには思われます。なぜなら,私的な家庭生活には,人目につかない多くの細々した事柄が生じ,これらは個人の苦痛や快楽に左右されて,立法者の勧めるところに反するものとなるため,市民たちの性格を種々雑多な,互いに似ていないものにしてしまいやすいのです。しかしこのことは,国家にとって悪なのです。」(788B)

養育・教育がテーマとなるようですが,その基本的な思想は,やはり市民の性格・性質を同質なものにするべき,ということのようですね。これは第6巻で言われた結婚の問題などとも通じています。

アテナイからの客人「それなら,身体が最も多くの栄養を取って大きくなるとき,そのときに最も多くの運動を必要とするわけです。」
クレイニアス「何ですって,あなた。生まれたばかりのごく幼いものたちに,わたしたちは最も多くの運動を課そうというのですか。」
アテナイからの客人「いや,そうではありません。それよりもっと前に,母親の胎内で養われているときにです。」
クレイニアス「これは何ということを,あなた。胎児にとおっしゃるのですか。」

この前から,小さい頃の成長は急激であるということは言われていたのですが,さらにアテナイからの客人は,母親の胎内にいる時からそれは始まっていると言い,運動を与えることで「健康と美,その上,力までも」(789D) 与えることができると言います。鳥の雛を育てる例も言われますが (戦わせるため?),自力であろうと他力であろうと運動が影響を与えると考えていたようです。
生まれる前からクラシック音楽を聴かせると良い,などよく聞きますが,プラトンの時代でもそういう考えがあったのは新鮮です (とはいえ運動を主眼としていますが)。

アテナイからの客人「国家の中で主人で自由人である性格の持主は,それを聞けば次のような正しい認識におそらく到達するでしょう。すなわち,国家において個人生活が正しく規制されないかぎり,公の生活にとって確固とした法律が制定されることを期待しても無駄であろうということです。そしてこのことを理解した人は,さきほど述べられた諸規則を自ら法律として用い,そうすることによって,自分の家庭も国家も,ともに立派に整え,幸福に暮らすことでしょう。」
クレイニアス「まったく,もっともなお言葉です。」(790B)

色々養育について語られますが,違反したら罰則を与えるような法律を作ってもどうせ守られないだろうと上記引用の前に言われます。家庭内のことについては,制定して守らせるのではなく,言い聞かせて自主的に守らせる,というスタンスのようです。これは第6巻でも似たようなことが言われていました。
まあ国家の繁栄を願わないとしても,子供の健やかな成長を望まない親はいないはずなので,妥当だという気がします。

アテナイからの客人「ご承知のように,母親がなかなか寝つかない子供を寝つかせようとするときには,彼らに静止をではなく反対に運動を,――腕に抱いて絶えずゆさぶってやるのです――,沈黙をではなく歌を与え,そしてバッコスの狂気にとりつかれた人びとを癒すように,あの踊りと歌との結合という形での運動を治療に用いて,子供たちに文字通り笛の音による呪(まじな)いをかけてしまうのです。」(790D)

子供が泣いてしまって寝付かない時にあやす光景は,今も2,400年前も全く変わらないようですね。
ここで,なぜ小さい子供がぐずってしまうのか?というのをいきなり分析しだします。いかにもプラトンらしい面白いところです。詳細は割愛しますが,「元にあるのは一種の恐れで,外から与えられた運動が恐怖と狂気という内なる運動に打ち勝ち,心臓の苦しい鼓動を沈めて,魂に静けさと安らぎを生じせしめる」というようなことが言われます。勿論科学的ではなく経験的なものだと思いますが,一定の尤もさも感じます。

アテナイからの客人「ではどうでしょう。もしこの3年間,あらゆる手段を尽くして,わたしたちの子供が,できるだけ悲しみや恐怖やあらゆる苦しみを経験することのないように計らうならば,この間に子供の心をより快活な,明朗なものに育てあげるとは思われないでしょうか。」
クレイニアス「それはもちろんです。そして,あなた,もし彼に多くの快楽を与えてやれば,とくにそうすることができるでしょう。」
アテナイからの客人「これは驚きました。そこまではもうわたしは,クレイニアスについてゆけません。じつは,そのような行為が,わたしたちにとって,すべてのなかで最大の破滅なのです。」(792B)

子供を乱暴に押さえつけるような養育をすると,自由人らしくない偏屈な人間になると言われますが,しかし多くの快楽を与えるというクレイニアスの言葉には真向から反対します。まあこれは予想できたことですが,ではどうすべきなのか?という問いには,「中間」を目指すべきだとこの後で言われます。これは誰にでも当てはまるが,特に生まれたばかりの赤ん坊やそれ以前の妊婦にとっては重要ということが言われます。

アテナイからの客人「わたしたちがいま問題にしているこれらの規則はすべて,世間の人びとが書かれざる掟と呼んでいるものだということです。そして父祖の方と彼らが呼んでいるものは,このようなものの総体に他なりません。さらに,さきほどわたしたちが付け加えた言葉,つまり,それらを法律と名づけるべきではないが,それらに言及せずに済ませてもならないという言葉は正しかったのです。なぜなら,これらの規則は国制全体の紐帯であり,すべての,すでに文字に書かれ,交付されている法律と,将来成文化されるであろう法律との中間にあって,文字どおり祖先伝来の,すこぶる古い掟とも言うべきものです。ですから,それらが立派に定められ,慣習となるならば,それまでに書き記された法律をまったく安全に包み護る役をしますが,もしそれらが誤って正しい道から外れると,ちょうど大工の建てた建物の支柱が中心から外れたときのように,すべてを崩れさせ,重なり合って倒れさせるのです。」(793A)

養育の話題は続いていますが,その中で唐突に語られます。話の筋と関係ないところにいきなりプラトンの本音 (のようなもの) が出てくる,というのはプラトン対話篇あるあるですね。
プラトンの法律観がよく表れていると思います。それは,『国家』篇や『政治家』篇よりも現実的になって,法律の必要性を認識したとしても,やはり書かれていて安定した法律が全てではなく,書かれざる「掟」「慣習」「しきたり」といったものが「紐帯」となって,より「法」として良いものとなっていく,ということだと思います。何となくイギリスのような法律観という気もします。
では「掟」「慣習」「しきたり」といったものの正当性をどう判断し行動すればよいのか?とも思います。法律であれば,立法府が承認し,行政が執行し,裁判所が判断する,ということになると思いますが。そこは,行政にせよ個人にせよ,「倫理」とか「道徳」ということになるのでしょうか。そう考えると,やはり「哲人政治」の要素が出てきますね。
国民が法を定める,という民主主義で,ともすると法律さえ守れば何をしてもよい,となりがちな面の弱点をカバーするには,法を守るという前提条件を守った上で,行政や個人が倫理的に行動する,ということが必要なのかもしれません。…こう書くと至極当たり前のことですが(汗)。

アテナイからの客人「ところで,6歳以後は男女を別々にすべきです。――男の子は男の子と,同様に女の子は女の子同士で,時を過ごさせます――。だが,どちらも学習に向かわせなければなりません。男の子は,馬術,弓,投槍,石投げの教師のもとへ行かせますが,女の子も,もし彼女たちが同意するならば,これらのことを学ぶだけはさせるのがよいでしょう,とくに槍と楯の使用に関してはね。」(794C)
アテナイからの客人「人びとの考えでは,わたしたちの手に関するかぎり,右と左とではすべての行動において生まれつき相違があるとされています。だがそれでいて,足や下肢に関しては,その働きに何の差異も見出されていません。わたしたちは誰も,乳母や母親の愚かさのために,手がいわば片ちんばになってしまったのです。なぜなら,自然の能力から言えば両の手足はほとんど等しいのですが,わたしたちがそれらを正しく用いないで,習慣によって違ったものにしてしまったのですから。」(794D)

どちらとは書かれていませんが,現代でも基本的に右利きの人が多いと思われるので,それは昔からそうだったのですね。それに対して,自然本来では右と左は差がないので,同じように使えるべき,というのは,ダイバーシティ尊重というよりは,科学的・生物学的な見方という感じがします。

その後,学習は身体に関する体育と,魂をよくするための音楽・芸術に分かれ,さらに体育は,踊りとレスリングに分かれる…ということが言われ説明があります。

アテナイからの客人「ひどく変った耳馴れないことというものは,語る側も聞く側も充分な注意を払わなければなりませんし,いまの場合はとくにそうなのです。というのは,わたしは,これからお話しすることを口にするのがためらわれるのですが,何とか勇気を出して,怯まないようにしましょう。」
クレイニアス「何のことを言っておられるのですか,あなた。」(797A)

アテナイからの客人が何かひどく逡巡していますが,以下のことが言われます。

アテナイからの客人「同じ子供たちが,同じ仕かたで,同じようにして,つねに同じ遊びをし,同じ玩具を喜ぶようにすれば,真剣な事柄に関する規則も,変らないでいることが可能でしょう。しかしもし,これらの遊びが動かされ,新しくされ,絶えずさまざまの変化をうけて,子供たちが同じものを好ましいとはけっして言わないならば,そして自分たちの身のこなしや持ちものについても,何が美しく何が醜いかという一致した規準を持たず,むしろつねに何か新しいものを作りだし,形,色その他において従来とは違ったものを導入する人間がとくに尊重されるならば,このような人間以上の悪疫は国家にとって存しない,と言っても過言ではありますまい。というのは,彼はそれと気づかれずに若い者たちの性格を変え,彼らに古いものを軽蔑させ,新しいものを尊重させるからです。」(797B)

遊びやファッションについて,新しいものを取り入れると,古いものを軽蔑することになるからいけないと。そんな無茶苦茶な,という感じですが,既に最善の状態である,という認識だと思われるので,まあ仕方ないところなのでしょうか。アテナイからの客人に随分と躊躇させていたので,プラトンとしても突拍子のないことだという自覚があったのだと思われます。
復古的な,または例えばゲームに否定的な日本の一部では,こういう考え方に親和性が高いと思わなくもありませんが。
例えば将棋,サッカー,スマートフォンが出てきても,ここで建てようとしているクレイニアスの国では,それを受け入れないということになるのでしょうか。

それはともかく,プラトンがそう考えた理由としては,以下のようなものがあるようです。

アテナイからの客人「どの立法者も,先に言ったように,たとえ子供たちの遊びを変化させても,要するに遊びであって,それから最も重大で真剣な害悪が生じるとは考えていないのです。ですから彼らは,変化を防がないで,むしろ変化に屈し,追随しているのです。そして彼らは,次のことを考慮にいれていないのです。つまり,遊びに変化を持ち込む子供たちは,以前の世代とは違った人間になり,別の人間になるがゆえに別の生活を求め,別の生活を求めるがゆえに違ったしきたりや法律を欲するようになる,ということをです。そしてその結果として,いま言われた,国家にとっての最大の悪が訪れるであろうということを,彼らは誰ひとりとして恐れていないのです。」(798B)

遊びが子供たちの思考・考え方に与える影響というのは軽視されがちだが大きいものだ,というのは同意です。
何かしら変化があれば人も変わり,それで法律に適応しなくなることを恐れた,というのは,ある法律の立法者としては尤もな懸念にも思えてきます。それが養育の場面でも言われたように,影響を受けやすい子供であればなおさらのことかもしれません。ただ,時間的にも長い目で見れば,人の生活は外的な要因によって変わることがあり,そのために法律も変わるべきだとは自分は思います。でないと立法者がいる意味がありません。
まあそれにしても頭が固すぎるとは思いますが。やはり,変化を受け入れるか,それとも法律 (理想) が上か,ということにどうしても帰着してしまうように思われます。

アテナイからの客人「わたしたちの国の子供たちが踊りと歌とにおいて別の作品 (模倣) に触れたいという欲望を持たないように,また誰かがさまざまなたのしみを提供して,彼らを誘惑することのないように,あらゆる工夫をこらさねばならない,とわたしたちは言うのではありませんか。」
クレイニアス「ほんとうにおっしゃるとおりです。」(798E)

アテナイからの客人「(引用註:その目的のためには) すべての踊り,すべての歌を,神に捧げられた聖なるものとするということです。それにはまず祭礼を整えるべきで,一年を通じていかなる祭礼を,いつ,そしてどの神,神々の子およびダイモーンのために行うべきかの暦をつくるのです。」(799A)

アテナイからの客人「何ぴとも,公の神聖な歌や若者たちのすべての踊りに違反してうたったり,踊りの動作をしたりしてはならない。これは他のどんな法律に違反してもならないのと同様である。そしてこれに従う者は罰を免れるが,従わない者は,いま述べたように,護法官並びに男女の神官がこれを懲らしめるものとする。」(800A)

歌や踊りについてですが,それは優れたまたは劣った人間の在り方を模倣するものであるので,前に挙げた遊びと同様に好き勝手行わせるわけにはいかない,ということで引用のようなことが言われます。そのためには祭礼として許可する歌や踊りを定め,違反したものは罰されたり追放されたりするようです。
これもトンデモな説という感じを受けますが,「伝統」というものはこのようにして成り立ち,受け継がれていくのかもしれない,とも思います。

アテナイからの客人「詩人は国家が認める合法性や正当性,美や善に反しては何ひとつ作ってはならないし,またその作品を,この仕事のために任命された審査員や護法官たちに見せて承認を得ないうちは,いかなる個人にも見せてはならないということです。」(801D)

前に言われていた歌と踊りの話の続きの中で語られますが,完全に「表現の自由」がないですね。全ての歌や踊りは,神に捧げられた神聖なもの,とすぐ前に言われていたわけですが,ここではそれが,(詩人に対してではありますが) 国家の認可ということになっています。この辺りは今の価値観からするとコメントをするのもバカバカしいといったところですが,じゃあそれを何故プラトンが敢えてアテナイからの客人に言わしめたのか?とも思います。
詩人の (政治的な?) 力というものが,それだけ大きかったということなのかもしれません。今で言えば新聞のようなものだったのでしょうか?元々,当時の詩人というものは,神々の言葉を人々に伝えるもの,というような話は『イオン』などでも言われていたと思います。本当に神々の言葉を伝えるのなら,ここまでの下りによると寧ろ国家としては歓迎しそうなものですが,結局国が認めるものしか許可しないということなら,国家は神々を恣意的に利用しているということにしかならない,とも思えます。

アテナイからの客人「女性にふさわしい歌と男性のそれとを,何らかの型によって区別し,それらに適したハーモニーとリズムを与えなければなりません。
(中略)女性にふさわしい歌は,男女の自然的性の相違そのものをもとにして,それによって男性の歌との区別を明らかにせねばなりません。たしかに,豁達さと勇敢さへの傾向は男性的というべきですし,礼儀正しさと慎み深さへの傾向は法律の上でも,理論の上でも,とりわけ女性的だとみなされるべきです。」(802D)

神々に捧げる賛歌・頌歌の話題の一節です。そもそも声の質が違うので,男女で歌の傾向が違うのは分かりますが,そこを (事実かどうかはともかく) 男性は豁達さや勇敢さ,女性は礼儀正しさや慎み深さ,という男女間の性質 (性格) の違いに帰そうとするのが面白いところで,現代ではどうでしょうか。それでも「男女の自然的性の相違そのものをもとにして」という注意深い言葉は,プラトンが差別的な思想を持っていたわけではないことを感じさせます。

アテナイからの客人「わたしの言う意味は,真剣な事柄については真剣であるべきだが,真剣でない事柄については真剣であるなということ,そしてほんらい神はすべての浄福な真剣さに値するものであるが,人間の方は,前にも述べましたが,神の玩具としてつくられたものであり,そしてじっさいこのことがまさに,人間にとって最善のことなのだということです。」(803C)
アテナイからの客人「ですから,各人が,最も長く,最も善く過ごさなければならないのは,平和の暮しなのです。では,正しい生き方とは何でしょうか。一種の遊びを楽しみながら,つまり犠牲を捧げたり歌ったり踊ったりしながら,わたしたちは,生きるべきではないでしょうか。そうすれば,神の加護を得ることができますし,敵を防ぎ,戦っては勝利を収めることができるのです。」(803D)

急に話が脇にそれて,第一巻で言われた「人間は神の操り人形」論への言及とともに,戦争ではなく,遊びを楽しみながら平和に暮らすべし,ということが言われます。プラトンの最晩年に書かれた本対話篇ですが,プラトンの波乱の人生に基づいた実感なのでしょうか。
それと,そのように神にすべてを投げ出した,他力的な考えだからこそ,ここまで言われてきたように,犠牲を捧げる儀式や神々への賛歌などは国家として明確に定めなければならない,ということなのだろうか,と思いました。そう考えると,国家というより宗教という気もしますが,そもそも国家と宗教の違いとは何か?とも思います。
勿論全然違いますが,ここまで言われてきたものについては,宗教,また法律は教義,と置き換えてもあまり違和感がないようにも思います。また現代でも国家というのは,多かれ少なかれ宗教の影響を受けていると思われます。
まあなんにせよ,この話題が,この『法律』篇で,プラトンがアテナイからの客人に言わせた話,というところに深い意味があるように思います。

アテナイからの客人「子供は,父親が希望する者のみが通学し,希望しない者は教育を免除されるというのではなく,俗に言う「猫も杓子も」できるかぎり強制的に教育を受けなければなりません。子供は両親のものであるよりも国家のものであるのですから。また,このわたしの法律では,女性に対しても男性に対するのとまったく同じことが要求され,女性も男性と同じ訓練を受けるべきだとされるでしょう。」(804D)

義務教育について考えられていたようです。「子供は両親のものであるよりも国家のもの」という一文が不気味ですが…まあこの考え自体は『国家』篇から言われていることではあります。

アテナイからの客人「すべての男女が心をあわせ全力を傾けて,同じ仕事を遂行するのでないということは,何よりも愚かなことである,とわたしは主張します。ほとんどすべての国は,こうして同じ経費と労力をもって,ほんらいはいまの二倍であり得るのに,実際はほんらいの力の半分しか発揮していませんし,将来もそういうことになります。だがこれはたしかに,立法者にとって驚くべき過ちだということになるでしょう。」(805A)

当時でも狩りをしたり戦争に行ったりする女性がいる種族 (サウロマタイ人) を引き合いに出して,上記のようなことが言われます。男女を区別しない,ということも『国家』篇から言われていたことではありますが,ここでの言明は非常に先進的に思えます。かつ,物事を根本的に考えるプラトンにとっては当然なのだろうとも思います。
特に後半の「ほんらいはいまの二倍であり得るのに,実際はほんらいの力の半分しか発揮していません」という言葉は,女性が男性と平等に活躍していれば GDP がもっと増えるはず,みたいな最近ネットのどこかで見た意見と同じです。

ここからは (疲れてきたせいか) メモした部分が少ないので章ごとに見ていくことにします。

(第13章)

生活必需品は支給され,奴隷を使え,食事も用意されているような生活をする人は,家畜のように太って生き,苦労を厭わない他の動物の餌食になるしかないのでしょうか?いや,そうではなく,ひたすら身体と徳の育成をするべきだと。また,睡眠は必要最小限にしろと。

アテナイからの客人「睡眠を取りすぎることはわたしたちの身体にも魂にも,またこれらすべての公私の活動にも,ほんらい適当でないのです。じっさい,誰でも眠っているあいだは何の価値もなく,屍も同然です。」(808B)

(第14章)

子供の教育と罰,学ぶべき内容について。特に読み書きと竪琴について。

アテナイからの客人「これらの作品の学習について言いますと,多くのこのような人びとによって残された作品のなかには,わたしたちに危険なものがあります。」(810B)

過去に作られたものには,国家にとって有害なものがあると。その回答が次に言われるということで,何となく流れ的には,国家篇にあったように,北朝鮮を連想させるような言論統制的なものが言われるのかと思ったのですが…。

(第15章)

アテナイからの客人「私たちが,明け方からこれまでつづけてきた言論の跡を振り返ってみますと,――わたしたちはどうも神的な霊感に恵まれなかったわけではないようにみえますが―,それがわたしには,一種の詩作にまったくよく似た形で語られたように思われました。」(811C)

ということで,(省略したので分かりづらいですが) 本対話篇でここまで語られたことがお手本であり,これ以上のものはない,と言われます。
正直,ちょっと何を言っているのか分からない,という感じですが。もっと有体に言えば,「私の書いた対話篇を読め!」とプラトンが言っているということでしょうか。

(第16章)
竪琴の教師,教え方について。

(第17章)
体育で教えるべきこと…本章序盤で言われた体育の内容と,中盤で言われた男女を区別しないという内容の復習のようなもの。

(第18章)
踊りについて。2つに分ける:戦闘の踊り=ピュリケー(勇敢な魂を表す)と,平和の踊り=エンメレイア(節度ある魂を表す)。戦闘の踊りの説明は面白い。

(第19章)
喜劇と悲劇について:喜劇については物真似の劇という位置づけらしい。
また悲劇については,異国の悲劇作家に以下のように語るという場面が仮想されます。

アテナイからの客人「「おお,異国の人びとのなかで最も優れた方々よ,わたしたちは自分たち自身が悲劇の作者であり,しかもできるかぎり最も美しく,最も優れた悲劇の作者なのです。じっさい,わたしたちの全国家体制は,最も美しく,最も優れた人生の似姿として構成されたものであり,そしてこれこそまことに,最も真実な悲劇であると,わたしたちは主張します。ですから,あなた方が作者であるように,わたしたちもまた同じ種類のものの作者であり,しかも,最も美しいドラマの制作者かつ役者として,わたしたちはあなた方の競争相手なのです。そしてこのドラマは,もともと真の法律だけが作りあげることができるものなのだと,わたしたちは信じています。」」(817B)

比喩なのかもしれませんが,この対話自体が悲劇なのだと。この後,その相手の悲劇作家の作品が優れていたとしても,国家にふさわしいと役人が判断しなければ上演は認められない,ともクギを差します。

(第20章)
残りの3つの学問がある,と言われ,それは(1)計算と数,(2)線,面,立体の測定,(3)軌道を運行する諸星相互の関係に関するもの,と言われます。
ただ,それぞれの,どうしても必要なもののみを学べばよいと。他方,すべてを詳細にわたって究めるのは,「夜明け前の会議」の会員でよい,とも(これは傍注より。12巻に出てくるらしい)。

また「神的必然」という言葉が出てきます。「神でさえ必然と戦う姿は見られない」(818B) とも言われます (註によるとシモニデスの言葉らしい)。今で言えばこれは自然科学,または物理法則のことを言っているように思えます。何となくちょっと嬉しくなってくる流れです。

クレイニアス「では,あなた,これらの学問の持つ,人間的でない神的必然とはどんなものなのですか。」
アテナイからの客人「わたしの見るところでは,その必然というのは,それを実践することなしに,あるいはまたそれについてまったく無知であっては,神もダイモーンも半神も,人間に対して責任をもって人間世界を監督することができないようなものです。1も2も3も知らず,一般に奇数と偶数の区別もできず,数を数えることもまったく知らず,夜と昼とを数え分けることもできず,月や太陽や星の運行についても無知であるならば,そのような人はとうてい神的人間にはなれないでしょう。ですから,最高の学問についていささかなりと知識を得たいとする人にとって,すべてこれらの学問が不可欠であると考えないのは,この上なく愚かなことです。」(818B)

神が自然科学について全能である…というより,自然科学について全能なのが神(的)である,ということが言われていると思います。
これは面白いと思います。神というものが,自然科学とは無関係な存在なのではなく,自然科学と同じフィールドに立っていて,それを観測できる者というイメージが湧きます。
プラトンが宗教を作ったら,教義は自然科学になったのかもしれません。或いは,自然科学を含む意味での哲学でしょうか。

(第21章)
3つの学問のうち(1)計算と数,(2)線,面,立体の測定,について子供たちに教えるべきだ,ということが言われます。
その中で,線は線と,面は面と,立体は立体と,通約可能であるが,別々のものは通約可能ではない…これを多くのギリシア人は知らないが,それは恥ずべきことである,ということが言われます。
「通約可能」という意味がよく分かりませんが,例えばある線分の長さが2倍である場合に,その線分による面の大きさは2倍ではなくて4倍で,その線分による立体の大きさも2倍ではなくて8倍になるので,線分と面と立体は通約可能でない,というような感じでしょうか。
そういえば『メノン』で,ソクラテスが召使に出した問いで,ある正方形がある場合に,面積が2倍になるような1辺の長さを答えさせる場面がありました。

(第22章)
3つの学問のうち(3)軌道を運行する諸星相互の関係に関するもの,つまり天文学について。何を学ばせるか…という話になるかと思いきや,ある意味割と衝撃的なことをアテナイからの客人は口にします。

アテナイからの客人「わたしたちのところでは一般に,最高の神と全宇宙とを探究したり,その原因を究めることに忙殺されたりしてはならない――それは神を冒涜することであるから――と言われていますが,じつはそれと正反対のことが正しいように思われます。」
クレイニアス「それはどういう意味でしょう。」
アテナイからの客人「わたしの言うことは逆説的で,老人にはふさわしくないと思う人もあるでしょう。しかしもし誰かが,ある学問を美しく真実であり,国家にとって有益で,神にとってまったく好ましいとみなしている場合,それを言わないでおくことは,いかなる意味でも不可能です。」(821A)

まさに罪状が神を冒涜したということでソクラテスが処刑された当時でもそうだと思いますし,その後長い時代でも,キリスト教世界のヨーロッパであれば,間違いなく宗教裁判で死刑になっていた (そして本対話篇は出版はされなかった) でしょう。少し前の「神的必然」とも当然つながりますが,裏を返せば,当時としては先進的だったと思えます。

アテナイからの客人「ですから,メギロスにクレイニアス,まさにこういう理由で,わたしはいま,わたしたちの市民や若者たちが,天の神々についてそれらのことすべてを学ばなければならないと主張するのです。神々について冒涜的な言辞を弄せず,犠牲を捧げ敬虔な祈りをあげる際に,いつも神を敬う言葉を口にすることができるところまではね。」(821D)

それでも,確かにこれまでずっと神を祭り犠牲を捧げると言ってきていて,神を軽視するわけではありませんでした。いや寧ろ,まさにそのためにこそ,天文学つまり科学を学ぶべきであるとここで言っています。これも唸るところです。
普通は逆だと思いますよね…科学とか何だか分からないので助けて,というのが神への祈りだと思ってしまうところですが (私は宗教の信仰者ではないと思うのでどうしても分からないところはありますが)。他方で現代では科学を全く無視することは到底ありえません。なので科学と神を同じ方向に見ているというか,科学と宗教が対立するわけではないというのは,非常に先進的で,宗教対立や宗教と科学の対立が続く現代においても有効な見方であるように思えます。

アテナイからの客人「最善なる人びとよ,月,太陽,その他の星が彷徨うものだというこの考えは,正しくはないのです。その正反対が本当です,――これらの天体のおのおのは同じ軌道を回転しており,いくつかの軌道を通るように見えますが,じつは多数のではなく,つねに一つの軌道を回転しているのです――,そしてまたそれらのうち最も速いものが,間違って最も遅いと思われ,最も遅いものが最も速いとみなされています。」(822A)

太陽ではなく地球が回っている,とは考えられていなかったことは分かりますが,速いものが遅い,遅いものが速い,というのはよく分かりません。ただ,地球以外が回っているというだけでは説明がつかないことが分かっていたのだろう,という含みは感じられます。

(23章)
狩猟について。人間の狩り (つまり戦争や略奪など) も含む。
(法律にすべきものとすべきでないものがある,しかしいずれにしても文字にされたものを守る人が善き人である,という話も間に入る)

メモは以上。
基本的に教育・養育についても,国民を均質にすべしという思想に貫かれているとは思うのですが,右手/左手を区別しないとか,男女の区別をしないということについては,イデオロギーではなく生物学的な見方を冷静にしているという印象があり,他方で何でも与えられて家畜のように生きていればよいというのではない,とも明確に言っているところもあって (これは徳を修めるべしというこれまでの話からも当然なのですが),現代から見てもあまり古く感じられません。国が認可しない歌や踊りは禁止,というようなものはさすがにどうかと思いますが,今だから言えることで100年前はどうだったのか?とも思います。

また神々を祭ったり犠牲を捧げるということが前巻までずっと言われてきたわけですが,本巻では,「人間は神の操り人形」論が少し復活してきて,幸福とは神々の為に歌ったり踊ったりして楽しむことである,といった他力的で意外なことが言われたりしました。またその神々を祭るための定められた歌や踊り以外のものを歌ったり踊ったりすれば国によって罰せられるとか,詩人の歌は国家に認められたものしか許可しないといったことが言われ,国家と宗教の違いって何?と思わされたりしました (根本的なところでは違いは結構曖昧なのでは,と思います)。

他方で,正しく神に祈りをささげるためにこそ科学を学ぶことが必要だ,という面白いことも語られ,神 (宗教) と科学の関係 (共存) ということについてプラトンは既に考えていたのだなぁ,ということも思わされたりしました。

現代というのは,科学についても神 (宗教) についても,私のような末端の人間であっても,何か超越的な視点から考えがちで,かつそれが合理的だと思ってしまうところではありますが,当時は本当の意味で境界が曖昧で,かつ人々はその曖昧な世界の中に確かに生きていた,ということなのだと思います。自分が本当に超越した存在でない限り,本当はそちらの方が正しいのかもしれません。国家,というものの曖昧さが,それを証明しているようにも思えます。

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