プラトン『法律』第九巻メモ(2)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第九巻を読んだときのメモ第2弾です。

前半の (1) では,神殿荒しに始まり,不正を犯した人間に与える罪について色々言われていました。特に不正というのは,故意によるものか,そうではないのか,ということで異なるのか?という議論など,刑事罰の根本的なことが言われて面白かったところです (勿論量刑的なところは現代とあまりにかけ離れていますが)。

後半はその続きで,では具体的に殺人事件や傷害事件における罰則はどういうものにすべきかが述べられます。そのため単調な感じもあるところですが,動物を裁判にかけるという話など,サラッと度肝を抜くような話が出てきたりします。

以下読書時のメモと引用です。第7章以前はメモ(1)を参照。

(第8章)

以下の数章では,(A) 故意によらず殺人を犯した場合,(B) 激情にかられて (計画性なく) 殺人を犯した場合,(C) 故意に (計画的に) 殺人を犯した場合,の大きく3通りに分けて,罰則を定めた法律が述べられます。そういうわけなので,引用して感想を述べる,というスタイルは難しいので,大雑把なまとめと感想を述べるようにします。正確な内容は,本を参照してください。

(A) 故意によらず殺人を犯した場合

このケースは,競技中,戦争中,軍事訓練中,医者が患者の治療を行っている時,という場合が挙げられています。
また,殺した相手が,他人の奴隷である場合 / 自分の奴隷である場合 / 自由民の場合 / 外国人の場合,で分かれています。

内容的には,第6章で言われていたように,故意ではないため「不正」ではなく,浄めを受け賠償は行うが死刑にはならない,という感じです (なので相手が自分の奴隷だったら賠償の必要はないみたいなことも言われます)。但し相手が自由民や外国人の場合は,1年間は被害者の住んでいた土地から離れなければいけない,ということも入っています。

但し犯人が規定に従わずに戻ってきた場合は,被害者の近親者が告訴しなくてはならない,そして告訴しなかった場合は,その近親者に殺人の汚れが移っているので,誰でもその近親者を告訴して祖国から5年間立ち去らせるようにしなければならない,とも言われます ((A)-(4))。
この後半は仰天ですね!被害者の近親者が逆に訴えられなければならないとは。犯罪は告訴する義務があって,その義務に背いたら罰則があるというのなら多少分かりますが,それが (故意ではなく) 人を殺したのと同じ以上の罰を受けないといけないというのはよく分かりません。

(第9章)

(B) 激情にかられて (計画性なく) 殺人を犯した場合

このケースは,殺そうとは思っていなかったのに突発的・衝動的に殺してしまい,後ですぐ後悔する,というような人のケースとして挙げられています。
故意であるとも故意ではないとも限定するのは難しいのでその間のものとして,計画的かどうかという観点で,より計画的であれば故意に近く,より計画的でなければ故意でないに近い,という判断がなされています。 玉虫色な感じもしますが,それだけ当時でも動機を断定するのは難しかったということでしょうか。

日本での刑事事件の裁判についてのニュースでも,よく「計画的犯行だったという検察側の主張が認められるかが焦点だ」,みたいな解説を聞きますが,ここで述べられているのと同じで,突発的であれば,悪の度合いがより小さい (なので弁護側はそう弁護しようとする),ということなのでしょう。

ここでも条文?のケースとしては,計画性の有無 / 奴隷を殺した場合 / 奴隷が主人を殺した場合 / 父・母親が息子・娘を殺した場合 / 夫 (妻) が妻 (夫) を殺した場合 / 兄弟を殺した場合 / 親を殺した場合 / 正当防衛の場合 (ただし親や (奴隷にとっての) 主人が相手の場合は適用されない),ということが書かれています。

前述の (A) に較べて詳細になっています。男女での区別はありませんが,奴隷と主人,子と親,に対しては不平等な内容になっています。

(第10章)

(C) 故意に (計画的に) 殺人を犯した場合の法律の「序文」

アテナイからの客人「では,まず最初に,この種の殺人の原因となるものがどれだけあるかを,わたしたちはもう一度,言えるだけ言ってみることにしましょう。さて,そのなかでも最大のものは,貪欲にかられて荒々しい状態になっている魂を支配している欲望です。そしてこの欲望は,多くの人たちにとって最も大きな,また最も強い憧れの的になっているものに対して,とくに向けられているのです。つまりそれは,金銭のことですが,この金銭が,生まれながらの卑しい性質と間違った教育による無教養のために,それを飽くこともなく際限もなしに獲得しようという数限りない欲求を,人びとのなかに生みつける力をもっているのです。」(870A)

ということで富への欲求が故意の殺人の最大の原因ということが言われます。ちなみに第二の原因は名誉欲 (とそれが生む嫉妬心),第三は臆病や不正に基づく恐怖心,と言われます。

ある意味実感しやすい動機ですが,最近の殺人事件を考えると,テロ・無差別殺人,通り魔や「誰でもいいから殺してみたかった」みたいなものが多いようにも感じます (報道されやすいからというのもあるかもしれませんが)。社会が複雑になったり,技術が進歩するとそれに伴って動機も変わってくるのかもしれませんが,法律を制定していた時点で想定していた動機と変わってきたら,罰も見直すべきなのか,それとも殺人という結果は同じなので必要ないのか。プラトンなら恐らく前者でしょう。

(第11章)

(C) の「本文」

誰かを殺した場合,人々が日常出入りする場所 (神域,市場,港など) から締め出され,裁判で有罪になったら死刑になり被害者の国土に埋葬されてもならないと言われます。
また,自ら手を下さなくても,計画を立てて人を殺させた場合も同様。相手が奴隷の場合でも同様と。

ちなみに,「殺された者の近親者が,犯人を告訴すべきなのに告訴しない場合,殺人の汚れを自分自身がかぶり,神々の憎しみも受ける。またその人は殺された者のために復讐したいと望むだれからも告発されてよい」(871A) と言われています。
第8章にも同様のものがありましたが,犯人の代りに告発されるというのは,ちょっと変な話ですね。ただ,例えば今の日本では,刑事事件は検察つまり国家が起訴することになるので,事件を起こしたのに起訴されないとなったら問題だと思うような気もします。あるいは,警察にも言わずに事件化しなかったケースなども当てはまるかもしれませんが,だからといって犯人の代りに告発されるというのもやはり変な感じはします。
本文で書かれているように,「汚れ」というものを適切に処理しないとその人にかかってくるという考え方があったのでしょうか。第1章の神殿荒しの話でも,遠い昔から人々の心に植え付けられている狂気がそうさせている,ということが言われていました。

(第12章)

故意の親族殺人,また自殺について。ここはなかなか印象的な部分が多いので,引用も多めです。

アテナイからの客人「父や母の,あるいは兄弟や子供の生命を,計画にもとづいて故意に,その身体から敢えて奪い去った者たちに対しては,公共の場所への出入りを禁ずる旨の警告が発せられるべきであるし,(中略) 裁判官たちの下役として働く係りの者たちが,その者を死刑にした上で,これを市域外の三つの路が交叉している指定の
場所へ,裸にして投げ棄てるべきである。そして役人たち全部が,国家全体に代わり,それぞれ石を手にとって,これをその死骸の頭に投げつけ,こうして国全体を汚れから浄めなければならない。そしてそのあとで,その死骸を国土の境界のところへ運び,法律に従って埋葬することなしに投げ棄てておくべきである。」(873A)

確かにひどい罪ではありますが,仕打ちもひどいものです。この前に,同族の者を殺めた場合,必ず同じ目に合わなければならない,という神話の例が出されていたりはしますが,「目には目を」的に,ひどい犯罪の場合には刑もここまで残虐にしないといけないものなのでしょうか。「石を手に取って投げつける」という部分は,「罪を犯したことのない者だけが,この女に石を投げなさい」という『ヨハネによる福音書』の有名な言葉を連想します。

逆説的に考えると,こういう考えが広くあったからこそ,宗教が生まれたのかもしれないとも思います。すぐ前に言われたように (870A),無教養や貧困が犯罪 (殺人) に繋がるというのは事実としてあった (ある) と思いますが,それって当事者にはどうしようもない部分が大きいと思います。同時に殺人を厳罰に処すことも必要なのは確かです。
すると法律 (刑法) というのは,本質的に,強者に有利になるように作らざるを得ない,とも考えられます。でもそれは例えば『国家』第1巻の「ノモス」と「ピュシス」の対立の議論と矛盾しますね。まあ刑法だけ引き合いに出すのも違うのでしょうが。

現代では平等を確保するのも法律・行政の役割だと思いますが,それがなかった時代,少なくとも心の平等を実現するためには,宗教しかなかったのかもしれない,と思いました。

アテナイからの客人「さて,それでは,「誰よりもいちばん身近かで最愛の者」と言われている人 (自分自身) を殺した者は,どんな処罰を受けるべきでしょうか。
わたしが言っているのは,天から定められている寿命を無理やりに奪い去って,自殺した者のことです。つまりそれは,国家が裁判にもとづいてこれを科したのでもなければ,またひじょうに苦しく逃れることのできない運命に見舞われて,やむをえずにそうしたのでもなく,さらには,救われる見込みもないし,生きてもいれないほどの辱しめを何か受けたからというのでもなくて,怠惰や男らしさに欠けた臆病のために,自分自身にこの不当な罰を科した者のことなのです。」(873C)

自殺について。この後には,墓には誰ひとり一緒に葬ってはならないとか,荒れ果てて名前もないところでなければならないとか,墓石も立てずその墓が誰のものなのか分からないようにすべきとか,まあ厳しいです。当時の (プラトンの) 自殺に対する考え方が端的に表れているともいえると思います。

いわゆる精神分析というか,自殺をしたくなるような心の動きみたいなものがあって,それは別に怠惰とか臆病とかではなく真面目さの故にも起こりうるが,それを理解しようという発想が当時は全くなかったのでしょうか。これは皮肉でも何でもなく,恵まれている人の論理としてはそう考えることもできそうなところで,現代が進歩しているなと思えるところです。

アテナイからの客人「もし動物が,荷を運ぶ動物でも,その他の動物でも,誰かを殺した場合は,――ただし,公に催される競技において,競技中にそのようなことが起こった場合は別として――,近親者は,その動物を殺人のかどで訴えるべきである。そして (中略) 裁判を行なって,その動物に罪がある場合は,これを殺して,国土の境界の外に投げ棄てるべきである。」(873E)

動物を訴えて,裁判にかけられる,というのはものすごく新鮮で,やや滑稽ではありますが,なぜ現代はこうなっていないのだろう?とも思います。
現代では,動物が仮に人間を殺した場合,有無を言わさず殺処分されるのでしょう――その動物を虐待していて (それ自体は動物愛護法か何かに違反でしょうけど),その仕返しに殺された,という動物側からすれば正当防衛のような場合だったとしても。でも動物にも意識は恐らくあり (動物にもよりそうですが),人間の悪意との考量は,できるとも思えます。人間と全く同じ法の適用は無理としても,少なくとも裁判にかけることができない理由は,ないようにも思えます。勿論裁判官は,現実的に人間が務めるしかなさそうですが。

なお,最近たまたま書店で『動物裁判』という本を目にしたので読んでみました。実際に動物が裁判にかけられる場面なども紹介されていました。
中世では割と動物を裁判にかけることは行われていたようです。著者はそれらを「愚行」と締めくくり,現代の国家はそれを乗り越えた,と書かれていました (ちなみに1990年の本です)。
確かに現実的には,犬や猫といったペット,豚や牛といった家畜,ハエとか蚊みたいな虫など色んな動物がいて,人との関係や危害を加えられる恐れ,意識のレベルなども様々だしそれらに対して裁判をするというのは,そもそも裁判が法に基づいて行われる以上は難しく,「物」として扱う (動物の所有者が管理者責任を問われる) しかないのかもしれません。外で何か食べていて,それをサルに奪われた場合,窃盗になるのか?スズメならどうか?虫なら?ウィルスなら?など考えるとキリがありません。
しかし,現実として動物は「物」ではありません。何らかの意図 (意識) をもって行為することは必ずあるので,その意図を無下に扱ってよいとはどうも自分には思えず,完全には納得できていないところです。日本的なアニミズムのような感性からしても,また猫とか動物を可愛がる慣習からしても,逆に動物から損害が与えられた時だけ「物」扱いというのはどうかしてる,と思います (←恐らく少数派なので,鵜呑みにはしないで下さい)。

まあ私が素人なだけで,法律の専門家などが過去に色んなことを検討した上で現在のようになっているのでしょうけど。
この辺りは,今後 AI がどんどん人間に近づいた時にも似たことが問題になるのかもしれません (あるいは既になっているのかもしれません)。

この後さらに,物体!の場合についても言われます。また,家に入ってきた泥棒を殺してしまった場合,近親者が性的暴行された場合の相手を殺してしまった場合など,無罪になるケースも挙げられ,正当防衛は許されるということだと思います。

(第13章)

傷害について話されますが,その前に以下のようなことが言われます。

アテナイからの客人「もっとも,神の恵みによって,世の中に誰か,生まれながらに充分な能力をそなえた者が現われてきて,そのような絶対的な支配者の地位につくことができたとすれば,その人は,自分自身を支配すべきいかなる法律をも必要としないだろう。なぜなら,いかなる法律も,いかなる規則も,知識にまさりはしないし,また知性が何ものかの従者や奴隷であるということは許されないことだからである。いな,知性はすべてのものの支配者であるのが当然だからである。もしその知性が,その本来のあるべき姿どおりに,ほんとうに真正なものであり,自由なものであるのならだね。しかし現実には,そのような能力をそなえている者は,どこにもけっして見出されはしないのである。ただし,いくらかそれらしい能力をそなえている者はいるけれども。だから,それゆえにこそ,わたしたちは次善のものとしての規則や法律を選ばなければならないのである。これらのものは一般的な原則に目を向けていて,個々のこと全部には目の届かないものではあるにしても。」(875C)

話の流れとはあまり関係ありませんが,本物の知性を持った者が国家の支配者になるほうがよい,という急に法律を否定するようなことが言われます。
しかしそんな人は存在しないので,次善策として法律による支配しかない,という背理法のような論理で法律による支配を肯定します。

この考えは,『国家』~『政治家』~『法律』という順での,プラトンの考え方の変遷が表れている,といえると思います。当然『国家』の哲人政治家なら上記の要件を満たすでしょうし,『政治家』でもそういう能力を持った政治家の支配術が述べられたと思いますが (かなりうろ覚えですが),しかしここでは,明確に,そんな能力を持った者は存在しないと言い切ります。何度もメモで書いていますが,プラトンが実際に政治に携わり,上手くいかなかったり絶望したりといった経験が,自らの理想と現実の妥協点を見出させたのかなと思います。

(第14章)

アテナイからの客人「法廷は可能な限り正しく構成されているし,また裁判にあたるはずの者は立派な教育を受けているうえに,きわめて厳重な審査も経ている,というような国家においては,有罪になった者たちがどんな刑罰に処せられ,どんな罰金を支払うべきかを,たいていの場合は,そのような裁判官たちの判断にまかせるのが正しいことであるし,また適切で立派なことでもあるわけです。
そうだとすれば,いまのこの場合も,ひじょうに多くの重要な規則を裁判官たちに対して法律で定めないとしても,わたしたちは非難されることはないでしょう。そういった規則は,もっと劣った教育しか受けていない裁判官たちでもよく理解して,被害者が受けた損害と加害者の行為との,その両面からみてふさわしい刑罰を,それぞれの犯罪に適用することができるでしょうから。」(876C)

この前には,ダメな裁判官ばかりの場合には,もっと明確に法律を規定する必要があるとも言われていました。

法と裁判の関係について考えさせられるところです。確かに相対的に見て,法を細かくして裁判の裁量を減らす方向と,法は大雑把にして裁判の判断の幅を大きく持たせる方向があるように思います。少し前に言われた,本当の知性を持った者が支配者になるほうがよい,というのと,結局は同じで,裁判官が毎回理想的な判断をできると仮定すればその方が優るがそれは現実にはあり得ないので次善策として法律を…ということになる気がします。

また,「判例は法律とほぼ同じ効力がある」というのをどこかで読んだことがあります。前述のように,あらゆる背景が違う裁判で,裁判官が間違うこともあると考えると,それでいいのかなと思う所ですが。詰将棋で,同じ形なら同じ手順で詰む,というように,誰が考えても正解があるような法解釈があるということでしょうか。

まあともあれ,今考えている国家では,裁判官も十分教育を受けているので,「たいていのことは彼らの自由裁量にまかせるのでなければなりません。」(876D) と言われています。その割には法律の細かく退屈な内容がこの後も続きます (まあ実際の法律の細かさはここで述べられるものの比ではないのでしょうけど)。

以下,「傷害に関する法律の条文」が続きます (引用は略)。まずは (A’) 故意による傷害です。

誰かを殺すつもりで (しかし実際には未遂に終わった) 意図的に行った傷害は,相手が (家族以外の) 市民の場合と配偶者の場合には追放,相手が親,子ども,(奴隷にとっての) 主人,兄弟姉妹だった場合には死刑にすると言われます。
殺害の場合もそうでしたが,つまり血のつながりがある場合が重いとみなされている,ということでしょうか。
ただ,ここに述べられている内容だけでは,傷害の程度が一切示されていないので,兄弟にかすり傷を負わせただけでも死刑になるのか?という疑問もわきます。殺す意図があった場合なので,結果ではなくその意図が問題なのだということは分かりますが,事件として見た場合に意図は必要条件ではあるが十分条件ではないので,立証が難しそうな気もします。
また,追放や死刑になった場合に,国から与えられた 5040 分の 1 の分配地をどう相続するのかということも言われます。また 5040 が出てきました。

(第15章)

(B’)怒りに基づいた (故意と故意ではない場合の中間の) 傷害についてまず言われます。
引用は省きますが,有罪になった場合,傷が治りうるものかどうかで損害の2~4倍の額を支払うべきと言われます。ただ,やはり親族間での傷害の場合は別の規定があり,特に子供が親に対して傷害を与えた場合は死刑もありうると言われます。犯人が奴隷の場合も別の規定があります。

続いて (C’)故意ではない傷害について言われますが,

アテナイからの客人「いかなる立法者も偶然の事故には勝てないからである」(879B)

ということであたえた損害に相当する額の弁償のみとなります。

ところで現実世界では,故意ではない場合に損害を弁償してもらうというのも結構ハードルが高いという気はします。
殺人や傷害の場合はさすがにそうも言ってられないですが,物が破損した場合などには,第一に,誰が損害を与えたということを証明するのが難しい気がします。
また第二に,弁償を要求せずに赦すことが有徳者の行いのように見られがちな気もします。
まあ軽微なものについては,あまり弁償を求めたりしないほうが世の中上手く回ると自分も思うし,わざとではないことに弁償を求めるというのも,それは利己心からくるという感じはしてしまいます。でも権利は当然あるし,線引きは難しいですね。そういう意味では,本対話篇のどこかで言われてもいましたが(忘れた),法律以前の慣習のようなものの方が人の行動を規定しているので,法治国家というのもある意味建前にすぎないのかもしれません。

(第16章)

暴行について述べられます。傷害と暴行の違いを知りませんでしたが (汗),簡単に調べたところでは,ケガをした場合に傷害になるようですね。
前文として,年長者には手を出してはならない,外国人にも手を出してはならない,というようなことが言われます。

アテナイからの客人「(1) もし誰かが,自分より20歳ないしはそれ以上も年上の者を殴っているなら,まず第一には,そこを通りかかった者は,もしその人が,[殴られている者と] 同年輩でも,年下でもない場合は,なかに入って,両者を引き離さなければならない。さもなければ,その人は,法の上で臆病者とみなされることになる。
またもしその人が,殴られている者と同年輩か,年下の場合は,あたかも自分の兄弟や父親,あるいはもっと年上の身内の者が不正な目にあわされているかのように考えて,殴られている者に加勢しなければならない。」(880B)

もし居合わせても見て見ぬふりをしていたら,(この後にも言われるが) 罰金を科されると。
現代では,罪にはならないと思いますが…見て見ぬふりをする可能性は高そうな気はします。
また,この暴行事件の法廷は,「将軍,部族歩兵隊長,部族騎兵隊長,および騎兵隊長によって」(880D) 構成されると書かれています。なんだか軍法会議みたいですが,何故なんでしょう?(ここまでの他のケースでは親族だったり護法官だったりという言及はありました。)

(第17章)

「両親に対する暴行」

アテナイからの客人「さて,死刑は,刑罰として最終のものではありません。あの世でこのような人たちを待っていると言われる苦難の方が,[死を始めとする] この世の苦難よりももっときびしいものなのです。だが,それがどんなに真実な話であっても,このような人たちの心には何の抑止的な効果をもあげていないのです。
(中略) それゆえ,このような犯罪に関しては,それを犯した者たちが生きている間にこの世で受ける懲罰は,できることなら,あの世で受けるそれに少しも劣らないものにする必要があるわけです。」(881A)

厳しい刑罰を科す理由のようなものが述べられます。生きている間に正義を追求するのは,死後の世界およびその後の転生した人生のため,という話は,『国家』第10巻などでも述べられた,「善く生きる」理由の根本的なものだったと思いますが,ここでも「あの世」が引き合いに出されています。しかしそれもあまり抑止力になっていないので,現実の刑罰も必要だと。

「抑止力」というのも難しいテーマですね。核兵器ですらも,抑止力のために合法的な所有が認められている (但し戦勝国のみ) くらいで,当時の人がどうすれば抑止力を実現できるのかと頭を悩ました結果,神や死後の世界に頼り,法的には死刑に頼った,ということなのでしょうか。

—————————

第九巻のメモは以上。

現在でいう刑法の話が続きましたが,被害者の親族が犯人を告発しない場合には,その親族に罪が移るとか,自殺した人はまともに葬ってはいけないとか,今の目で見ると首をかしげたくなるものもあります。ただ,そこに共通するのは,メモ (1) にもあったものと関連すると思いますが,故意に誰か (自分を含む) を殺めたり傷つけたりすることは「悪」または「呪い」に汚染されることであり,そういう半実体的なものが魂に宿ったり他の人に移動したりするようなイメージがあったのではないかと思わされます。そういった迷信的なものと,法治主義という現代にも通じるものが同居するというのが,ある意味新鮮です。法治主義というのも,人間が作った虚構という点では同じなのかもしれませんね。

また,動物が人間を殺した場合,その動物を裁判にかけるべき…という部分もかなり興味深い話でした。私個人としては,先進的に思えました。自然主義というか,科学万能主義の現在とは状況が異なるし,神話では神が動物の姿を取っていたりするということもあるわけで,動物に対する尊敬の念のようなものがあってナチュラルな形で人間と動物の魂を同列に考えられていたのかもしれません。プラトンも,アテナイからの客人にそこまで逡巡させて話させてもいないですし。

最後に抑止力としての刑罰という話がありましたが,そもそも本巻を通じてずっと語られた刑罰については「悪」が存在することが前提の話で,「消極的善」の担保のためとでも言えるものだと思います。本質的に,法律というのはそういうものなのかもしれません。プラトンには,ソクラテスの対話や教育論,イデア論 (『国家』),宇宙論 (『ティマイオス』) などの「積極的善」の追求の方が似合うと自分は思います。しかし老年に至るにつれ,法律論を書かざるを得なかったというのは…勿論現実を見たというのもあると思いますが,本巻途中でもまた理想的な支配者に言及したように,ここから理想 = 「積極的善」を再度投影しようとしたようにも思えます。

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