プラトン『法律』第八巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第八巻を読んだときのメモです。

なかなか掴みどころのない『法律』篇ですが,本巻もそんな流れの中で,祭礼や体育競技,軍事訓練などについての話題から始まります。
途中では愛,同性愛,近親愛みたいな内容になって少し引き込まれます。そういったものが法律とどう関わってくるのか,というのは少し考えさせられるところですが,どういう法律にするか,というよりも技術的 (?) な部分が結構印象に残る部分です。
終盤では土地の境界とか,水とか,果実を勝手に取った場合にどう処罰されるのかとか,ある種牧歌的で退屈な話題で終わります。

ここでは章ごとにメモを書いています。本文を引用せずに自分で要約しただけのものもあります。

(第1章)

アテナイからの客人「つぎにすることは,デルポイの神託の助けを借りて,さまざまの祭礼を定め,それを立法化すること,つまり,どんな犠牲を,どの神に捧げるのが,国家にとってすぐれた,幸いなことであるかをきめることです。」(828A)

冒頭の言葉。祭礼に関する話が展開されます。12柱の神々に対して,12の祭礼を設け,それぞれの季節にふさわしいものにする,等々。
また同時に,戦闘の訓練についても話題にされ,そこで賞讃や非難に使われる詩歌は国家において尊敬されている人でないと作ってはならない,そして「何ぴとも,無許可の音楽作品を,たとえそれがタミュラスやオルペウスの賛歌より甘美であっても,敢えて歌うことは許されません。」(829D) といったことも言われます。
第7巻で言われていた,歌や踊りは国家が認可したものしか許されない,というものの延長線という感じでしょうか。

(第2章)
戦闘の訓練についての話題が続いています。

アテナイからの客人「「ではどうだろう,もしかりに,ボクシングやパンクラティオンや,何か別のそのような競技の競技者たちを養成している場合であれば,あらかじめ毎日練習試合をすることなしに,本番に臨んだであろうか。いや,もしわれわれがボクサーであるとすれば,試合の前に何日も何日も戦いの仕かたを学び,練習を重ねるのではないだろうか,いざ勝利を争って戦うその時に,用いるつもりのあらゆる技を試してみながら。そして,できるだけ本番に近いようにして,打撃を加えたり,打撃を防いだりすることを,できるかぎり充分に練習するために,ボクシングの競技用グローヴの代りに練習用グローヴを手にはめるのではないだろうか。」」(830A)

立法者が自問自答するという形で言われるので括弧を二重にしています。
この自問自答はまだ続き,軍事についても,小規模な訓練は毎日行いつつ,より実戦に近い模擬戦を毎月1回行うべきと言われます。
結構面白いと思ったところで,当たり前といえば当たり前のことが言われているとも言えますが,例えば災害対策とか現在のようなパンデミック対策のようなものでもそうあるべきなのでしょう。

(第3章)
しかしそういう実戦訓練は現在の国々では全然行われていない,とも言われます。その原因は2つあると言われ,1つは,富への執着であるということが言われます。
そして,幾分かの逡巡を感じさせながら,もう1つが語られるのが次です。

アテナイからの客人「これまでの議論でたびたび語ってきた似而非国制,つまり民主制,寡頭制,僭主制が,原因だとわたしは主張します。じっさい,これらのどれも真の意味の国制ではなく,すべては,派閥制とでも呼ぶのが最も正しいでしょう。というのは,どれも支配するものとされるものとの合意の上に立つのではなく,支配することを欲するものが,支配されることを欲しない者を,つねに何らかの力によって支配するのですが,支配者は被支配者を恐れて,被支配者が,立派に,豊かに,強く,勇敢になることを,そして何よりも戦闘的になることを,自分からはけっして許そうとはしないからです。さて以上の2つが,ほとんどすべての悪の重要な原因であり,とくにわたしたちがいま問題にしているこれらの悪のまさに重要な原因なのです。」(832C)

これはかなり強いことが言われていると思います。民主制も寡頭制も僭主制も,実態は「派閥制」であると。全てを否定しては,そもそも国制についての議論が成り立たない気もしますが,これは『国家』篇の理想を描いた後で,色んな困難を体験してきたプラトンが現実を喝破したものなのでしょう。そして支配者が,(支配されることを欲しない) 被支配者が豊かになることを恐れた,というのも,現代でもかなりリアリティを持った説だと思えます。国家での支配ー被支配の関係ではありませんが,資本主義下の格差を考えた場合などには,低賃金で働いている人がいて,マージンで儲けている人がいて成り立っているところがあり,富裕層の本音として潜んでいるかもしれません。

支配者が被支配者を恐れる,というのは,似たような話は,『国家』篇で民主制が僭主制に移り変わる話の中でも出てきたように思いますが,ここでは (現実の) 寡頭制や民主制であっても,被支配者を恐れると言われます。もしそういうものがあれば,例えば民主制であれば,全市民が自分以外の全市民の豊かさを恐れる,ということになり,誰も他社の幸福を願わない,ということになります。もはや既存の国制が解決できる問題ではない,とも思えます。

続きます。

アテナイからの客人「しかしわたしたちがその法律を制定しつつある目下の国制は,わたしたちが述べている悪を2つとも免れているのです。たしかに,わたしたちの国家は,最大の余暇を享受し,市民は相互に自由であり,その法律の結果として,思うに,彼らは金銭欲に取りつかれることが最も少ないでしょう。」(832D)

ここで語られている,クレイニアスの国では,自由で金銭への執着がないので大丈夫だろうと。
現代の議論でいえば,ベーシックインカムみたいなものを想像します。確かに生活に必要なお金のことを考えなくてよいというのは,お金それ自体と同じくらい,精神的な負担・疲弊が減るという気がします。考えてみれば,日々の労働というのは,人の悪意にさらされる可能性が信じられないくらい多いと思います (そうでない人もいるのでしょうが)。金銭への執着がそれらの悪意を全て説明可能にするとも思えませんが,大部分は元をたどるとそうという気もします。

(第4章)
体育競技について,どんなものを取り入れるように法律を定めるべきかということが語られます。
色々言われますが,一貫しているのは,戦争に役に立つものであるべきだ,ということに尽き,そのための武器・武具を着用して行えということのようです。
例えば競走については短距離や中距離や長距離などのいずれも,重装備をつけて走らなければならないと言われます。同様に,力の競技 (レスリングやパンクラティオン) に該当するものも重装備をしたり軽装歩兵の武器による試合をするとか,乗馬についても騎兵のように武装を行うべきと言われます。

(第5章)
吟誦詩人や祭礼の際の歌舞団の競演について前半に語られますが,後半は「少なからず重大な事柄で,それを人びとに納得させることが困難なことがあります。
それはまさに神さまのお仕事なのです」(835B) と言われる問題があると言われます。それが以下です。

アテナイからの客人「では,そのような国家で,多くの人びとをしばしば極端に走らせるもろもろの欲望,理性が法律の形を取ろうとするとき,それから遠ざかるようにと命じる欲望から,いったいどんな仕かたで遠ざかることができるのでしょうか。そしてそれらの欲望の多くを,すでに定められた諸規則が抑制するとしても,それは何も不思議ではありません。」(835E)
アテナイからの客人「しかし,少年少女のあいだの,および成人した男女のあいだの愛,そこから個人にとっても,国家にとっても,数え切れないほどの出来事が起こってきたのですが,それに対しては,どのような用心をしたらよいのでしょうか。また,どんな草を刻んで薬をつくりだし,各人にこのような危険から逃れる道を見つけてやれるのでしょうか。それはまったく容易ならぬことです,クレイニアス。」(836A)

端的に言えば,「愛」というものを国家はどう扱えばよいのか?ということでしょうか。随分と法律っぽくない話という気もしますが,考えてみれば,今でいえば内心の自由をも侵害するようなことはこれまでも度々言われてきました。

アテナイからの客人「もしひとが自然の本性に従って,ライオス以前の法律を制定しようとし,女性に対するのと同じように,男性の若者たちと愛の交わりをともにするのは正しくないことであると言い,動物の習性を引き合いに出して,それが自然に反することであるがゆえに,そのような目的をもって雄が雄に触れることはないのだと指摘するならば,たぶん彼の用いる論証は [一般的には] 説得力を持つでしょうが,あなた方のお国では,けっして賛同されないでしょう。」(836C)

男性の同性愛については,反対ではないと言っているようです。これはちょっと意外ではあります。というのはこれまで結婚や子育て,教育というものが,国家の繁栄のためになされるべきもの,というような流れでずっと来ていたように思うためです。であれば,現代における各国の右派勢力のように,同性愛には反対しそうなものですが。
他方で,この時代は少年愛のようなものは普通に行われていたはずなので,経験的に悪いものではないと考えていたのかもしれません。
この話題はこのあと結構続きます。

(第6章)

アテナイからの客人「肉体に愛着し,熟れた果実に飢えるように,青春の華に飢える者は,それを満喫することを自分自身に勧め,愛されるものの心のあり方など見向きもしません。しかし肉体的欲望を二義的なものとし,相手を欲するよりもむしろ観る者,魂をもって真に魂を欲する者は,肉体が肉体に堪能することを非行であると考え,そして節制,勇気,度量,知恵を尊び敬って,清らかな恋人とともにつねに清らかな交わりを持つことを願うでしょう。しかしこれら両者の混合である愛,それはわたしたちがさきほど第三の愛として述べたものです。」(837B)

友愛の3つの種類などは省略しましたが,「肉体より魂」というところは何となくプラトンらしいところです。

この後,なぜ近親相姦は法律を無視するような人でも回避されるのか,というような生々しい話もされます。生々しいので引用は控えましたが,その理由は,喜劇や悲劇などを通じて,不敬虔で恥ずべきことであるという世論?ができているからだ,というようなことがメギロスとともに語られます。そして,この世論操作が法律制定の基礎として使える,ということが考えられていたようです。何となく現代のメディアや SNS を使った世論形成みたいなことを連想します。
実際のところ,ここで言われているようなことの抑止力は,生物学的な何かがあるのではないのか?と自分は何となく思っていました。それを踏まえても,正しいか正しくないかは別にして,何か理由を説明されれば,それがパズルのピースのようにはまると感じられて,信じてしまう,というところが人間にはあると思います (Belief echos というものが結構近いでしょうか)。ここでの世論形成みたいなものが説得に有用,ということは言えるのでしょう。

(第7章)

アテナイからの客人「しかし,もし誰か精力絶倫の血気さかんな若者がわたしたちの傍に立って,この法律が制定されるのを聞くならば,おそらく彼は,馬鹿げた,できもしない規則をきめるといって嘲り,あたり一面をそのわめき声で一杯にすることでしょう。(中略) つまり,それが可能であるということ,およびいかにしたら可能であるかということを知るのは,いともたやすいことです。(中略) しかし事態は今日,それが実現可能であるとは思われないところに来ているのです。それはちょうど,共同食事の制度が可能であるとは,つまり,国全体が永続的にそれを実行することができるとは考えられないのと同様です。」(839B)

前の章の続きで,親族間での交わりを禁止するための「仕組み」のようなものが,他の事柄に利用できれば,法律を守らせる強力な力になるだろうということがまず言われます。しかし,それは (理論上は?) 可能でも,それが実現可能と思われていないものは,法律として確立するのは困難だと言われます。
人の心に「傾き」のようなものがあり,それに沿った規則であれば守られやすいが,それに逆らった規則であれば守られにくい,というのはあり,一方でそれを克服するのが理性である,とも思えます。あまり理性に期待して法律を作るべきではない,ということになるでしょうか。

アテナイからの客人「わたしたちは誰でも,タラスのイッコスがオリュンピアの競技や,その他の競技のために,どんなふうにしたかを話に聞いて知っていますね。彼はそれらの競技に勝利を得ることを切望し,また専門的知識をわきまえ,節度ある剛毅な性格の持ち主であったので,聞くところによると,鍛錬の最中はけっして女にも少年にも触れなかったと言います。また,クリソンやアステュロスやディオポンポスやその他多くの人びとについても,同じことが言われています。」(839E)

身体が健康で,何かの競技のための鍛錬を積むことが,快楽に勝利し,遠ざかることになると言われます。
何か身体を動かして打ち込むことがあれば邪念が遠ざかる,というのは実感として分かります。

(第8章)

アテナイからの客人「そして,あの性格的に堕落してしまった人びと,それを一つの種族として,「自分自身に負けた者」とわたしたちは呼ぶのですが,彼らを三種類の力が取り囲んで,法律に違反しないように強制するでしょう。」
クレイニアス「どんな種類の力ですか。」
アテナイからの客人「神に対する畏怖の念,名誉を重んじること,身体ではなく魂の美しいあり方を欲すること,この三つです。いま言われたこれらのことは,おそらく夢物語での祈りに過ぎませんが,もしそれが実現されれば,すべての国家にとって,この上ない善きものとなるでしょう。」(841B)

性の問題について話題が続きますが,その中で言われる一節です (提示される法律案自体は常識的で,どうということもありません)。

法律というのは器であって,本来はそれを守らせるべき民こそが,国家の本体である,ということはプラトンも考えていたのだろうと思います。なので法律を作るだけではなくて,いかにその法律が守られるようになるか,ということにも腐心していたことが十分に感じられます。

または,法律というのは理想であって,それを守らせることによって「魂の美しいあり方」が追求されるような法律こそが優れたものだ,という逆説的な見方もできるのかもしれません。いずれにしてもこの周辺では,法律を定めてそれを上から目線で守らせればよい,という単純な考え方ではないということがよく感じられます。

(第9章)
共同食事についてまた言及があり,その食料の調達のために,農夫や牧羊者,養蜂業者などのための法律が必要ということが言われます。その中で,土地の境界を変えてはならない,ということが割と強調されます。

アテナイからの客人「これらの事柄については,多くの立法者たちによってすでに充分に語られており,わたしたちは彼らの法律を利用すればよいのであって,わたしたちの国の偉大な建設者に,普通の立法者でも扱えるような多くの細々した事柄まで,すべてを立法するように要求する必要はありません。たとえば農業用水については,古くからの立派な法律が定められていて,それをわざわざ,わたしたちの議論の中に引きいれる必要はないのです。」(843E)

既に優れた法律があるものは,それを流用して使えばよいと。
関係ありませんが,現代でも法律の著作権とか特許みたいなものはあるのだろうか?とふと思いました。まあないのだろうとは思いますが,もし法律によって国家が定まるのなら,優れた国家の法律を模倣すれば優れた国家が作れることになるので,最初にその法律を作った国家が独創性を主張したり,または別の国家が勝手にその法律を用いることで相対的に自国が利益を得られなくなるため,法律のライセンス料を徴収しようとしたりするという発想もあり得るかもしれない,とちょっと思いました。ただその場合,著作権法や特許法自体もまた法律なので,著作権法の著作権は何に守られるのだろう?と思ったりもします(笑)。まあなので著作権法に著作権はないのでしょうけど…。

(第10章)
果実についての法律案。上等な葡萄・無花果は,自分のところから収穫するのはよいが,他人の木から許可なく取った場合には罰を受ける…というようなことが言われます。
ただ,外国人の場合はもてなしの印として取ってもよいとか,梨,林檎,ざくろなどは (外国人でなくても) こっそり取ってその場で食べてもよいとか,30歳未満はその場合も鞭を打ってやめさせるとか,正直奇妙な法律案です。ある意味では当時の慣習が分かる部分かもしれません。

(第11章)
前半は,誰かが所有権を持つ水に損害を与えた場合の罰,また収穫物を搬入する際に誰か (の財産) に損害を与えた場合の賠償について言われます。
そして,ふと以下のようなことが言われます。

アテナイからの客人「刑がそれに従ってきめられる,これらの無数の細々した諸規則,訴状の提出,被告の召喚,証人――その数を二人にすべきか,それとも何人にすべきか――,すべてこのような事柄については,法律に定めないでおくわけにはゆきませんが,それはまた老齢の立法者の仕事に値するほどのものでもありません。ですから,それらは若い立法者たちが,先人の法律を手本にして,彼らの大きな規則に則って,自分たちの細々した規則をつくるべきです。そしてそれらを必要に応じて実験的に用いてみて,このようにしてすべての法律が充分に整ったとみなされるまで,彼らは努力すべきです。そして充分に整ったならば,それらの法律を不動のものとし,もはや正しい形をとったものとして,それを用いて生活しなければなりません。」(846B)

常識的なことを言っているように思えますが,「先人の法律を手本にして」作るべき「細々した規則」,というのとそうでないものとの境目というのはどこにあるのだろう?とも思えます。その部分にこそ,国家の根幹がある,という気もします。だからこそ「老齢の立法者」の仕事なのでしょう。

アテナイからの客人「さて,職人一般については,次のようにすべきです。第一に,市民は誰ひとりとして,職人の仕事に従事してはなりません。市民の家僕も同様です。なぜなら,市民たるものは国家公共の秩序を確保し維持するという,充分な仕事を持っており,それは多くの訓練と,同時に多くの勉学を必要とし,片手間に行なうことを許さないものだからです。二つの仕事なり,二つの職業なりを,徹底的に遂行することは,ほとんどの人間の能力を超えたものであり,さらに自分が一つの職業に従事し,他人が別の職業にあるのを監督することは,力にあまることなのです。」(846D)

後半に言われている部分については,そう思うこともあり,もしそう決められていたらと若干羨ましさを覚えたところです。
日本の会社では,上司からの無茶振りなどで,自分の専門にないことをやらされがちで,それは必然的に質の低下を招きやすいところです。
または最後に言われていることの実例として,管理業務と開発業務を一緒にやらされたりします。もしここで言われているような考え方が浸透していれば,そういう無茶振りをされても “That’s none of my business.” と毅然と言うこともできるのでしょう。

それはともかく,最初に「市民は職人の仕事に従事してはなりません」と言われ,また市民の仕事は「国家公共の秩序を確保し維持する」と言われますが,この市民は公務員のことではないかと連想します。公務員じゃなくて本当の意味で市民なら,じゃあ職人は市民ではない,ではなんなのか?ということにもなります。『国家』篇その他,職人というのはしばしば登場してきましたが,身分が市民と違うのかどうなのか?ということはあんまり考えてはこなかったと思いました。

(第12章)
収穫物の供給と分配について言われます。特にメモはありません。

(第13章)
市場で売られる商品について,また売られ方について。それと外国人の居住について。特にメモはありません。

メモは以上。
一番印象に残ったのは,6章~7章あたりの愛や性の話題で (生々しくて印象に残りやすいというのもある),特に近親を性の対象としないということが心に起こらないのは何故か,という理由を考察し,悲喜劇などによる世論の形成に帰した上で (それ自体は若干違和感もありますが),逆にそれを,人の欲望を制御するための仕組みとして使えるのではということに敷衍した場面です。実はこれは,広告などの手段で現代に実現されているとも思えます。特にネット時代の今,Cookie を使ったトラッキングや SNS などで,広告のターゲットが絞りやすいので,神話や悲喜劇に頼るしかなかった当時よりも効率的なのでしょう。
その前には,戦闘訓練の話題の中で,既存の国制を「派閥制」とこき下ろして,支配者が被支配者を恐れるがために,被支配者が裕福や勇敢になるのを許さない,という部分もありました。この辺り,建前ではなく本音というか現実ではそういうふうに考える人や時がある,ということを経験からプラトンは思い知っていたのかもしれません。
後半の方は,「こまごまとした事柄まで新たに立法する必要はない,すでに他の国家の優れた法律が存在するのだから」というようなことが言われている部分もありますが (843E),それにしても細かい話が続いて退屈ではありました。果実の収穫や水,農産物,市場といったものについての取り決めの話題で,殆どメモに残さなかったのですが,外国人については法律の内容が分かれるものが結構あるというのが印象に残りました。

プラトン『国家』第七巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第七巻を読んだときのメモ第2弾。

第七巻の前半で,「洞窟の比喩」と支配者になるべき者の教育について主に対話がなされたと思います。教育とは向け変えの技術で,善を指向するようにするものであると。また,ここで言われている国家の支配者にはそういう教育を受けた者 (つまり哲学者) が就くべきであるということも言われました。
後半では,その具体的な教育内容がテーマになってきます。それは(1)数と計算,(2)幾何学,(3)立体幾何学,(4)天文学,(5)音楽理論,であると (それぞれの名称は『国家』文庫版の冒頭の要約に従った)。これは現代での所謂「リベラルアーツ」に繋がってくるものなのかもしれません。しかし後で触れると思いますが,プラトンは単に教養を深めるためにこれらの学問を課すべしと言っているわけではなく寧ろ逆です。

以下は読書時のメモです。

「さあそこでだが」とぼくは言った,「もしそれらのほかにはもう何も挙げることができないのならば,それらすべてに関わりをもつような何かを,つかまえることにしてみたらどうだろう?」
「と言いますと,それはどのようなものでしょうか?」
「たとえば,およそすべての技術も思考も知識も,共通に用いる或るものがある。これはまた,誰でもが最初に学ばねばならぬものだ」
「何のことでしょう?」と彼はたずねた。
「なに,大したことでもない」とぼくは言った,「つまり,一と二と三を識別するということだ。これを総括して言えば,数と計算ということになる。それとも,これについては,すべての技術も知識も必ずそれを共有しなければならぬ,と言っては間違いだろうか?」(522B)

この直前に、第三巻で言われた守護者が身に付けるべき素養の「体育」「音楽・文芸」とは違うかということが言われますが、体育は身体という変化するものが対象であり、音楽や文芸は習慣付けのためのもので知性を授けるものではないとして退けられます。『ティマイオス』などでも言われていますが,プラトンは「実在」 (不変のもの) と「生成」 (変化するもの) というものを区別しており,善 (のイデア) というものは前者に属します。
ということで、(1)数と計算です。言われてみれば確かに、思考というものを考えた時に、必要なものという気はします。普通は気づきさえしないことですね。また「1」とか「2」というものも定義さえされてしまえば不変です。

「おそらくこの学科は,ちょうどわれわれが求めているような,知識を目覚めさせるように導く性格を本来もっているものの一つらしいのだが,しかし誰もこの学科を―実在するものへと全面的に引っぱって行く力をそれがもっているにもかかわらず―正しい仕方で用いていないのではないか,ということだ」(523A)

…と,僕が上で述べたようなことは浅はかな理解で,ここからプラトン一流のたとえ話で数と計算の重要性が述べられます。

「よく注意すれば,君は次のことに気づくはずだ。―感覚に与えられるもののうちで,そのあるものは,感覚だけでじゅうぶんに判別されるというわけで,それをよくしらべるために知性の活動を助けに呼ぶことはない。しかしまた場合によっては,感覚は何ひとつ信頼できるものを与えないというので,それをよくしらべるように全面的に知性の活動を命じ促すものもあるのだ」(523B)

「知性を助けに呼ばないものというのは」とぼくは言った,「その感覚が同時に正反対のものを示すようなことにならない場合のことだ。これに対して,そういう結果になる場合のことを,知性の助けを呼ぶものと,ぼくは規定するわけだ。つまり感覚だけでは,あるものがこれであるとも,その反対であるとも,いっこうに明らかにされないような場合であって,それが近くから感覚されるか遠くから感覚されるかということには関係がない。」(523B)

「その感覚が同時に正反対のものを示すようなことに」なるかどうか,という論じ方はプラトンらしい,という気がします。一言で言えば,相対性があるかということでしょうか。そしてこの後,「指」に関するたとえ話が続きます。それは面白いですが省略します。

「すなわち,もし<一>というものがまさにそれ自体として,じゅうぶんに見られ,あるいは何か他の感覚によってとらえられるものであるとしたら,ちょうど指の場合について言っていたのと同じように,それはわれわれを実在するものへと引っぱって行く性格のものではないことになるだろう。けれども,もしそれが見られるときにはいつも,何か反対のものが同時に見られて,一つとして現われるのに少しも劣らず,またその反対としても現われるということになるのであれば,これはもう,その上に立って判定する者が必要となるだろう。すなわちこのような状況のなかで,魂は困惑に追いこまれて,自己の内で知性の活動を呼び起しながら探求のやむなきに至り,<一>とはそれ自体としてそもそも何であるのかと,問わざるをえなくなるだろう。そしてこのようにして,<一>について学ぶことは,実在の観想へと魂を向け変えて導いて行くようなものに属することになるだろう」(524E)

端折っている箇所も多いのですが,深いことが言われていると思います。例えばあるものが長いことも短いこともあり,その「長い」ということも「短い」ということもそれぞれが一つであって,場合によって「長い」とも「短い」とも魂に取り次ぐことがある,知性の働きをもたらす (つまり何がどのくらい長い (短い) かということを捉える) のが「数と計算」ということ,でしょうか。そしてこれを測定?するのにはアトミックなもの (<一>) が必要になるので,「実在の観想へと魂を向け変えて導いて行く」と。

「してみると,どうやらそれらの学問は,われわれが求めている学科のひとつだということになるようだ。というのは,戦士にとっては,軍団を編成するためにそれを学ぶ必要があるし,哲学する者にとっては,生成界から抜け出して実在に触れなければならないがゆえに,それを学ばなければならないのであって,そうでなければ,思惟の能力ある者とはけっしてなれないからである」
「そのとおりです」と彼。
「しかるに,われわれの国の守護者は,まさに戦士にしてまた哲学する者なのだ」(525B)

「したがって,グラウコン,この学科を学ぶことを法によって定め,国家において最も重要な任務に将来参与すべき人々を,計算の技術の学習に向かうように説得することは,適切な処置であるということになる。そして彼らは,この学科に素人として触れるのではなく,純粋に知性そのものによって数の本性の観得に到達するところまで行かなければならない。貿易商人や小売商人として売買のためにそれを勉強し訓練するのではなく,その目的は戦争のため,そして魂そのものを生成界から真理と実在へと向け変えることを容易にするためなのだ」(525B)

ということで,「数と計算」を支配者・守護者になる人に学ばせるべきである,ということになります。
ここまでの一連の展開は,「なんで学校で算数・数学を学ぶの?」という素朴な疑問に対する一つの答えになるのかなと思います (戦争に役立つというのはおいといて)。

「ほかでもないが,いまもわれわれが言っていたように,この学問は魂をつよく上方へ導く力をもち,純粋の数そのものについて問答するように強制するのであって,目に見えたり手で触れたりできる物体のかたちをとる数を魂に差し出して問答しようとしても,けっしてそれを受けつけないという点だ。じっさい,君も知っているだろうが,この道に通じた玄人たちにしても,彼らは,<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる人があっても一笑に付して相手にしない。君が<一>を割って細分しようとすれば,彼らのほうがその分だけ掛けて増やし,<一>が一でなくなって多くの部分として現われることのけっしてないように,あくまでも用心するのだ」(525E)

なかなか面白いです。完全に空想上の?ものであると。でもプラトンの定義によると,これは「実在」 (「生成」に対して) ということになると思います。<一>というものが atomic なものということなので。

「それなら,友よ」とぼくは言った,「君もこう見るのだね―おそらくこの学科こそはわれわれにとって,ほんとうの意味で必要欠くべからざるもの (強制力をもつもの) であるだろうと。なぜなら,それは明らかに,魂を強制して,純粋の知性そのものを用いて真理そのものへ向かうようにさせるのだから」(526B)

こういう頭の中だけで考えられる不変のものを考える学問こそが必要…まさに数学の世界という感じがします。また,プログラミングでいえば副作用のない関数型言語を思い浮かべます。
こういう抽象的なものこそが必要,というところは,前にも書いた気がしますが,「それで?」「では具体的には?」みたいに具体的な結果をすぐに欲しがる昨今の世相とは異なるところで,個人的にはどちらかといえば勇気づけられるところです。とはいえ競合するものでもないとは思います。

「ではどうだね,このことをもう注意したことがあるだろうか。―すなわち,生まれつき計算の才のある者は,あらゆる学問を学ぶのに鋭敏に生まれついているといってよいし,また遅鈍な者も,この学科によって教育され訓練されると,たとえほかに何の得るところがなかったとしても,少なくとも以前の自分よりも鋭敏になるという点では,誰もが進歩するということだがね」(526B)

直接は関係ないですが,将棋の棋士を連想しました。将棋の棋士も将棋に限らず頭が物凄く良いと思いますが,それは将棋のルールの上で手を読むというメタな思考を繰り返すことで,頭の回転が速いというだけではなくて (勿論それもあると思いますが),何か真理が見えてくるのかもしれません。

「第二番目には,これにつながりのある学科のことを,はたしてそれがわれわれの目的に適うものであるかどうか,しらべてみることにしよう」
「どのような学科ですか?幾何のことをおっしゃっているのですか?」と彼は言った。
「まさにそのとおり」とぼくは答えた。(526C)

(1)数と計算の話が長かったですが,ここで(2)幾何学に移ります。

「われわれがしらべなければならないのは,幾何の多くのもっと進んだ部分が,あのそもそもの目的,すなわち,<善>の実相を観てとることを容易にするという目的に対して,何らかの点で寄与するものであるかどうか,ということなのだ。」(526E)

少し前でグラウコンが,「陣営の構築や,要地の占領や,軍隊の集合と展開」(526D) などに幾何の心得が役立つ,と言うのですがそれはメインではないと言われます。がそれも副次的な効果として有意義だとも後で言われます(527C)。ともあれ,<善>の実相を観てとることが目的と言われます。

「それが知ろうとするのは,つねにあるものであって,時によって生じたり滅びたりする特定のものではないということだ」
「それは容易に同意を得られる点です」と彼は言った,「なぜなら幾何学は,つねにあるものを知る知識なのですから」(527B)

この辺りは,第六巻メモ(3) の 510E 辺りでも考えたのと同じようなことを考えました。幾何学で考えられる図形というのは完全なもので,逆に実際に図形を描いた時点ではそれは不完全になります。これが幾何学が「つねにあるものを知る」と言われるのだと思います。
この ReadOnly 感はやはり関数型言語っぽいです。

「ではどうだろう,三番目の学科としては,天文学をそれと定めることにしようか?それとも,君は不賛成かね?」
「私としては,それでよいと思います」と彼は答えた,「というのは,月や年の移り変りにおけるさまざまの時期 (季節) を正確に感知するということは,農耕や航海に必要であるだけでなく,軍隊統率のためにも,それに劣らず大切なことですからね」
「君も愉快な男だね」とぼくは言った,「なんだか大衆に気がねして,役にも立たない学問を押しつけようとしていると思われはしないかと,びくびくしているように見えるではないか。しかしほんとうに重大な点,容易には信じがたい点は,こうした学問のなかで各人の魂のある器官が浄められ,ふたたび火をともされるということだ。」(527D)

(3) として天文学に移ります。ここでグラウコンが(2)幾何学の時と同じように実利的な面を強調して,ソクラテスにたしなめられますが,グラウコンがボケて,ソクラテスが突っ込むという図式は本巻ではずっと続きます(笑)。
ともあれ,言われていることは(2)幾何学のときとあまり変わりません。

「それでは,もう一度話を後へ戻してくれたまえ」とぼくは言った,「なぜなら,さっき幾何のつぎに来るべき学科を取り上げたときの,われわれのやり方は正しくなかったからね」
「どういう点がですか?」と彼はたずねた。
「平面のつぎに」とぼくは言った,「もうすでに円運動のうちにある立体を取り上げたからだ―立体をそれだけで取り上げる前にね。しかし順序としては,二次元のつぎには三次元を取り上げるのが正しい。そしてこれは,立方体の次元や一般に深さを分けもつものについて考えられるものであるはずだ」
「たしかにそれはそうです」と彼は言った,「しかしそうした事柄は,ソクラテス,まだ完全に発見されたとはいえないように思えますが」(528A)

ここで(3)は立体幾何学に入れ替わります。ただグラウコンが指摘するように,まだ学問として理論が確立する前のようです。これは脚注にもあります。

「じっさい現在においてすら,世間の人々から軽視されて成長を阻害され,さらにそれが有用であることの根拠を理解していない研究者たちからも,同じ扱いを受けているにもかかわらず,この研究はそれ自身の魅力によって,すべてこれらの抵抗を排して成長しつつあるのだからね。」(528C)

引き続いてのソクラテスの言葉です。まだ確立していない理論とか成長中の技術とかは,あるいはそれに対する法規制なども,現代でもたくさんあると思いますが,「成長自体はそれ自身の魅力によって抵抗はあっても続く」というのは実感する部分です。

「それでは,第四番目の学科として天文学を置くことにしよう」とぼくは言った,「いま未開拓のままの残されている先の学問の研究が,国家がそれを推進するという前提のもとに,すでに確立されているものと考えてね」(528E)

改めて(4)天文学が言われます。

「たぶん君の考えは立派で,ぼくの考え方は愚直なのかもしれない。というのは,ぼくとしては,目に見えない実在に関わるような学問でないかぎり,魂の視線を上に向けさせる学科としてはほかに何も認めることができないからだ。」(529B)

ここも例の,グラウコンのボケ→ソクラテスの突っ込みの場所なのですがどうも神妙です。グラウコンは「魂を強制して上の方を見るようにさせ,魂をこの世界の事物から天上へと導くものである」とこの前に言うのですが,ソクラテスは「目に見えない」実在に関わるもののみが魂の視線を上に向けさせると。これは(1)~(3)の延長線上と考えれば納得はできます。

「だから」とぼくは言った,「天空を飾る模様は,そうして目に見えぬ実在を目指して学ぶための模型としてこそ,これを用いなければならないのであって,それはちょうど,ひとがダイダロスなり,あるいは他の工人なり画家なりによって特別苦心して見事に描かれた図形を前にしたときと同じことである。すなわち,幾何学に通じた人ならば,そうした図形を見て,この上なく美しい出来栄えを認めながらも,しかし等しいものや,二倍のものや,その他何らかの正確な数量的関係の真実のあり方を,そうした図形の内に直接とらえるつもりで本気でこれをしらべるのは,滑稽なことだと考えるだろう」(529D)

実際に天体の動きについてあれこれするのではなく,それを実現させているものについて学び考え,その「美しさ」を理解することが天文学の要諦であると言っているように思われます。
この考え方は,東洋思想で「造化」と呼ばれるものと近いのかもしれません。

「目が天文学との密接な関係において形づくられているのとちょうど同じように,音階の調和をなす運動との密接な関係のもとに耳が形づくられているのであって,この両者に関わる知識は,互いに姉妹関係にあるのだ,と。これはピュタゴラス派の人々が主張し,われわれもまた,グラウコン,賛成するところなのだがね。―それともわれわれは,どういう態度をとろうか?」(530D)

(5)音楽理論について述べられています。ピュタゴラス派の人の音楽研究について言及されていますが,基本的には,今まで述べられた視覚的なものに対して聴覚的なものを対応させたと考えられます。

「つまり彼らは,耳に聞えるこの音の協和の中に直接に数を探し求めるけれども,しかしそれ以上のぼって問題を立てるところまでは行かず,どの数とどの数とがそれ自体として協和的であり,どの数とどの数がそうでないか,またそれぞれは何ゆえにそうでありそうでないのかを,考察しようとしないのだ」(531C)

これも,天文学について述べられたことと似ていると思います。

色々と教育すべき学問について論じられましたが,結局は「善」とか「美」といったイデアというものが脈のようにあって,そこへの入り口となる学問を学ぶべきである,ということになるのかなと思います。冒頭に述べましたが,所謂リベラルアーツという言葉から受ける印象と違い,「教養を豊かにする」という意味 (知識を増やすという意味で) は一切受け取れません。そこは注意する必要があると思います。

次はいよいよ哲学的問答法 (ディアレクティケー) についてですが,それはメモ (3) に。

プラトン『国家』第七巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第七巻を読んだときのメモ第1弾。
随分間が空いてしまったので,ちょっとストーリーを忘れ気味です…。

第六巻の後半では,イデアに関する3つの比喩のうち「太陽の比喩」と「線分の比喩」が語られて終わりました。第七巻はその続きで,「洞窟の比喩」からたちまち入ります (なぜ「洞窟の比喩」だけ第七巻になったのか?と素人考えには思います)。このメモ第1弾では,「洞窟の比喩」に関わる前半部分だけを書く予定です。

この「洞窟の比喩」,本を読めば書いてあるのでここでは詳しく述べませんが,単独でもすごく面白いです。以前,「100分de名著」という NHK E テレの番組でプラトンの『饗宴』がテーマになっていましたが,そのときの第4回に何故か?「洞窟の比喩」が結構出てきていて,その時の図が分かりやすくてお気に入りです。

洞窟の比喩

「100分de名著」の『饗宴』で出てきた,「洞窟の比喩」の絵。

以下は読書時のメモです。

「こうして,このような囚人たちは」とぼくは言った,「あらゆる面において,ただもっぱらさまざまの器物の影だけを,真実のものと認めることになるだろう」(515C)

前述したように,洞窟の比喩の説明については割愛していますが端的なまとめです。洞窟の奥しか見られないように縛り付けられた人=囚人は,後ろから映されたもの (=影) しか見えないのでそれを真実だと思い込むと。

「彼らの一人が,あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと,また歩いて火の光のほうを仰ぎ見るようにと,強制されるとしよう。そういったことをするのは,彼にとって,どれもこれも苦痛であろうし,以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても,目がくらんでよく見定めることができないだろう。
そのとき,ある人が彼に向かって,『お前が以前に見ていたのは,愚にもつかぬものだった。しかしいまは,お前は以前よりも実物に近づいて,もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから,前よりも正しく,ものを見ているのだ』と説明するとしたら,彼はいったい何と言うと思うかね?そしてさらにその人が,通りすぎて行く事物のひとつひとつを彼に指し示して,それが何であるのかをたずね,むりやりにでも答えさせるとしたらどうだろう?彼は困惑して,以前に見ていたもの[影]のほうが,いま指し示されているものよりも真実性があると,そう考えるだろうとは思わないかね?」(515C)

いきなり真実を見せても,直視できないし信じることもできないだろう,「目が痛くなり,向き返って,自分がよく見ることのできるもののほうへと逃げようとするのではないか。そして,やっぱりこれらのもののほうが,いま指し示されている事物よりも,実際に明確なのだと考えるのではなかろうか?」(515E) ということが言われます。現実的です。

「だから,思うに,上方の世界の事物を見ようとするならば,慣れというものがどうしても必要だろう。―まず最初に影を見れば,いちばん楽に見えるだろうし,つぎには,水にうつる人間その他の映像を見て,後になってから,その実物を直接見るようにすればよい。そしてその後で,天空のうちにあるものや,天空そのものへと目を移すことになるが,これにはまず,夜に星や月の光を見るほうが,昼間太陽とその光を見るよりも楽だろう」(516A)

なので一気に真実を見せるのではなく,少しずつ目を慣れさせるべきだと。この辺り,割と当たり前の話がなされている感じはしますが,前に話された「太陽の比喩」が当然前提になっている喩えでもあります。

「するとどうだろう?彼は,最初の住いのこと,そこで<知恵>として通用していたもののこと,その当時の囚人仲間のことなどを思い出してみるにつけても,身の上に起ったこの変化を自分のために幸せであったなどと考え,地下の囚人たちをあわれむようになるだろうとは,思わないかね?」(516C)

一旦太陽そのものを見るに至り,それが「自分たちが地下で見ていたすべてのものに対しても,ある仕方でその原因となっているものなのだ」(516B) ということを悟ったら,似像を真実だと思っている地下の囚人のことを憐れむだろうと。

「地下にいた当時,彼らはお互いのあいだで,いろいろと名誉だとか賞讃だとかを与え合っていたものだった。とくに,つぎつぎと通り過ぎて行く影を最も鋭く観察していて,そのなかのどれが通常は先に行き,どれが後に来て,どれとどれが同時に進行するのが常であるかをできるだけ多く記憶し,それにもとづいて,これからやって来ようとするものを推測する能力を最も多くもっているような者には,特別の栄誉が与えられることになっていた。」(516C)

ちょっとドキリとさせられる部分です。会社などの組織でうまく手柄を上げて昇進するような人を連想します(空想ですけど)。会社のトップであっても同じでしょう。ただ,現実社会でそれが必ずしも悪いこととも思えません。「善」ではないことは確かですが。

「そこでもし彼が,ずっとそこに拘禁されたままでいた者たちを相手にして,もう一度例のいろいろの影を判別しながら争わなければならないことになったとしたら,どうだろう―それは彼の目がまだ落着かずに,ぼんやりとしか見えない時期においてであり,しかも,目がそのようにそこに慣れるためには,少なからぬ時間を必要とすれば?そのようなとき,彼は失笑を買うようなことにならないだろうか。そして人々は彼について,あの男は上へ登って行ったために,目をすっかりだめにして帰ってきたのだと言い,上へ登って行くなどということは,試みるだけの値打さえもない,と言うのではなかろうか。こうして彼らは,囚人を解放して上のほうへ連れて行こうと企てる者に対して,もしこれを何とかして手のうちに捕えて殺すことができるならば,殺してしまうのではないだろうか?」(516E)

これは,解説にも書かれていることですが,それを見るまでもなく『ソクラテスの弁明』で描かれるソクラテス裁判を思い浮かべます。また,『ゴルギアス』でも似たことが書かれていました (517D も合わせて) が,その時は「迎合としての弁論術を持ち合わせていないがために死ぬのなら運命を受け入れる」ということが述べられていました。
また,「100分de名著」でも言われていましたが,もしそうやって「真実を見よう」といって地下から囚人たちを上へ連れて行こうとする人がいたら,その人の方が「お前こそ現実を見ろ!」と地下の囚人たちから言われて罰を受ける,というのはありそうなことです。
1つ前の部分もそうですが,「民主主義」(民主制)という観点からすると必ずしも間違っていないんじゃないか,という感じがしてしまうところはあります。もっと正確に言うと,間違っていると思っていてもそれが世間には受け入れらないんじゃないか,という感じでしょうか。

「知的世界には,最後にかろうじて見てとられるものとして,<善>の実相 (イデア) がある。いったんこれが見てとられたならば,この<善>の実相こそはあらゆるものにとって,すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ,考えが至らなければならぬ。すなわちそれは,<見られる世界>においては,光と光の主とを生み出し,<思惟によって知られる世界>においては,みずからが主となって君臨しつつ,真実性と知性とを提供するものであるのだ,と。そして,公私いずれにおいても思慮ある行ないをしようとする者は,この<善>の実相をこそ見なければならぬ,ということもね」(517B)

一応比喩自体の説明は終わって,再度善のイデアの話になりますが,ここでは「線分の比喩」と「太陽の比喩」が合わさったような感じで,コンパクトにまとまっています。
ここに至ると,「洞窟の比喩」というのはある意味では現実とイデア界の連続性の導入のようにも思えます。それは地下にいる人が急に太陽を見ても目がくらむので徐々に目を慣らす必要があるとか,地下の人に太陽を急に見ろと言っても逆に追い落とされるといった例にあるように,「あなたは線分上のどこにいる」とか「太陽を見ていない」といった 0 と 1 のような論理というか理屈だけで行っても無茶で,時間的・空間的に飛躍はできないということがいえるかもしれません。

「そもそも教育というものは,ある人々が世に宣言しながら主張しているような,そんなものではないということだ。彼らの主張によれば,魂のなかに知識がないなら,自分たちが知識をなかに入れてやるのだ,ということらしい―あたかも盲人の目のなかに,視力を外から植えつけるかのようにね」
「ええ,たしかにそのような主張が行なわれていますね」と彼は言った。
「ところがしかし,いまのわれわれの議論が示すところによれば」とぼくは言った,「ひとりひとりの人間がもっているそのような[真理を知るための]機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは,はじめから魂のなかに内在しているのであって,ただそれを―あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには,身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように―魂の全体といっしょに生成流転する世界から一転させて,実在および実在のうち最も光り輝くものを観ることに堪えうるようになるまで,導いて行かなければならないのだ。そして,その最も光り輝くものというのは,われわれの主張では,<善>にほかならぬ。そうではないかね?」
「そうです」
「それならば」とぼくは言った,「教育とは,まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく,いちばん効果的に達成されるかを考える,向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは,その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて,視力ははじめからもっているけれども,ただその向きが正しくなくて,見なければならぬ方向を見ていないから,その点を直すように工夫する技術なのだ」(518B)

プラトンの教育論?といったような内容といえるでしょうか。真理を知るための能力は予め魂の中に備わっていて,教育とは「向け変えの技術」である,というのは『メノン』などで言われる所謂「想起説」に基づく内容といえると思われます。
個人的にはこの後の例 (引用は略) も含めて『荀子』の性悪説を思い浮かべますが…。

「そこで,われわれ新国家を建設しようとする者の為すべきことは,次のことだ」とぼくは言った,「すなわちまず,最もすぐれた素質をもつ者たちをして,ぜひとも,われわれが先に最大の学問と呼んだところのものまで到達せしめるように,つまり,先述のような上昇の道を登りつめて<善>を見るように,強制を課するということ。そしてつぎに,彼らがそのように上昇して<善>をじゅうぶんに見たのちは,彼らに対して,現在許されているようなことをけっして許さないということ」
「どのようなことを許さないと言われるのですか?」
「そのまま上方に留まることをだ」とぼくは言った,「そして,もう一度前の囚人仲間のところへ降りて来ようとせず,彼らとともにその苦労と名誉を―それがつまらぬものであれ,ましなものであれ―分かち合おうとしないということをだ」(519C)

少し前ですが,ここの後半で言われている「そのまま上方に留まる」人を,「<幸福者の島>に移住した人」と語られています。真実を知っている人にとっては,そのままでいる方が幸福だが,しかし降りていって,似像を真実だと思っている人に伝道しなければならないと。
ただ,これを実践して殺されたのがソクラテスか?という気もします。他方で現代の「哲学」者もそうなのかもしれませんが,学問という枠内や,頭の中だけで何かやっているだけに甘んじていて (それが仕事だとすれば仕方ないと思いますが),現実世界に訴えかけるということはあまりないのではと思います。プラトンが言う「哲学者」と現代の「哲学」を専門とする人に対して感じる言いようのない断絶は,<幸福者の島>にい続けようとするかどうかの違いなのかもしれません。官僚出身の政治家は多くても,哲学出身の政治家なんてあんまり聞きませんしね。
それが現在の政治というものの原因なのか帰結なのか。
ただ一応,ここでソクラテスは,指導者としての教育の一部として哲学を学んだ場合である,ということを言っています。現代のように,大学で自分の好きなことを自由に学ぶのであれば,それを国家の役に立てるというのも<幸福者の島>に居続けるのも自由,ということになるのかもしれません。しかしそれは,勿体ないと思いますけどね…。

「『そしてこのようにしてこそ,われわれと君たちの国家には,目覚めた正気の統治が行なわれることになり,けっして現今の多くの国々におけるように,夢まぼろしの統治とはならないだろう。現在多くの国々を統治しているのは,影をめぐってお互いに相戦い,支配権力を求めて党派的抗争にあけくれるような人たちであり,彼らは支配権力をにぎることを,何か大へん善いこと (得になること) のように考えているのだ。しかしおそらく,真実はこうではあるまいか。つまり,その国において支配者となるべき人たちが,支配権力を積極的に求めることの最も少ない人間であるような国家,そういう国家こそが,最もよく,内部的な抗争の最も少ない状態で,治まるのであり,これと反対の人間を支配者としてもった国家は,その反対であるというのが,動かぬ必然なのだ』」(520C)

二重に括弧がついていますが,この部分はソクラテスが<幸福者の島>に居続けようとする哲学者に対して言おうとする言葉です。
「支配権力を求めることの最も少ない人間が支配者になれば,抗争の最も少ない状態で治まる」という下りは印象的です。まあ,常に本当を目指すのなら,そんな権力闘争をしている暇はないということでしょう。次にも関係してきます。

「もし君が,支配者となるべき人たちのために,支配者であることよりももっと善い生活を見つけてやることができるならば,善い政治の行なわれる国家は,君にとって実現可能となる。なぜなら,ただそのような国家においてのみ,真の意味での富者が支配することになろうから。真の意味での富者とはすなわち,黄金に富む者のことではなくて,幸福な人間がもたねばならぬ富―思慮あるすぐれた生―を豊かに所持する者のことだ。
これに反して,自分自身の善きものを欠いている飢えて貧しい人々が,善きものを公の場から引ったくって来なければならぬという下心のもとに公共の仕事に赴くならば,善い政治の行なわれる国家は実現不可能となる。なぜならその場合,支配の地位が人々の闘争の的となるため,この種の争いが内部から生じて固有の禍いとなり,彼ら自身のみならず,その他の国民同胞をも滅ぼしてしまうからだ」(521A)

この前半のように,政治を一段上から見下ろせるようなものが,真の哲学者の生活であるとソクラテスは言っています。
さて,なぜこういったことが現在の政治家には感じられないのか,と考えるとやはり絶対に正しいものというのはなくて,何が正しいのかは個人によって異なるという民主主義的な?前提があると思います。そこで共通に価値がある (と思われている),金銭や物質的な裕福,身体的な健康といったものを尺度として国民に訴求していくしかなくて,なかんずく「金(カネ)」なのでしょう。
それはどうしてもそうなるような気もしますが,政治家自身がそういうものを専ら追求していては,ソクラテスに言わせれば「善きものを欠いている飢えて貧しい人々」ということになるのでしょう。

ということで,今回は以上。
第7巻はまだまだ続き,では実際にそういう支配者となる人間にするにはどういった教育をなせばよいのか,ということがテーマになっていきますが,続きは第2弾にて。

プラトン『ピレボス』メモ

プラトン『ピレボス』((プラトン全集 (岩波) 第4巻) を読んだときのメモ。
この対話篇は,「快楽について」という副題がありますが,「快楽こそは善」と主張するピレボス,プロタルコスに対して,「知性や思慮のほうが善に近い」と主張するソクラテスが真っ向から対立し,どちらがより善に近いかを対話によって明らかにしようとします。

まあ,この対話の解釈については,専門家や,哲学を専攻する学生には重要でしょうが,単にプラトンの著書を文学として楽しむ者としては,極端にいえばどうでもよいことで,私も (これまでの対話篇のメモでもそうでしたが) どう解釈するかという読み方はしていません。本篇では,知性や思慮が快楽より善に近い (実際には一位と二位はもっと別なもので,やっと三位に知性が入ったと思います…図書館に返してしまったので詳細を振り返れません) という結論になりましたが,勿論,逆の結論になってもそれはそれで一つの立場ですし。

ということで,対話篇の流れとは一切関係なく,とりあえず自分が気になって書き写した部分について振り返っておく,といういつもの方法にしておこうと思います。

それは,およそあるとそれぞれの場合に言われているものは一と多からできているのであって,しかも限と無限性を自己自身のうちに本来的な同伴者としてもっているという意味のものだ。したがってわれわれは,これらがこのように宇宙構成されている以上,あらゆるものについていつも一つの相を指定して,それぞれの場合にこれを探し求めなければならない。というのは,そういう一つの相はそれぞれに内在しているのが見出されるだろうから。そしてそれをつかまえたら,一つの相の次は,二つ何らかの仕方でありはしないかとよく見るようにしなければならない。もしなければ,三つなり,あるいはほかの何らかの数字を探すのだ。そしてそういう数を構成している一の各々について,また同じやり方をくりかえし,ついに最初の出発点となった一が,一であり多であり無限であるということを見るだけにとどまらず,それが一定数の多であることを見るところまで行かねばならない。また無限という相を,多量のものがあればすぐに適用するのではなくて,まずその前にその多量のものがもっている,一と無限の中間にある数のすべてをよく見るようにしなければならない。そしてそれができたら,その時はもうそれ全体に含まれている一つ一つを,それぞれ無限へと放してやって,すきにさせていいことになる。かくて神々は,いまぼくが言ったことだが,われわれに授けてくれたのだ,こういう仕方で考察し学習し,また相互に教え合うことを。しかし今の世の賢者たちは,一を―そして多でもいいが―行きあたりばったりのやり方で,あるいは早すぎ,あるいはおそすぎたりしながらつくる。そして一がすむと,すぐに無限にする。かれらの眼にはその中間の数が入らないのである。そしてこれによって逆にまた,われわれがおたがいの間で言論を交す問答法的なやり方と,ただ論争によって勝負を争うだけのやり方とが截然として区別されるのである。」(16C のソクラテス)

今までで一番長い引用かもしれません(汗)。この部分も含め,前半は一とか多についての話題が続き,『パルメニデス』の退屈さを彷彿とさせますが,ただこの部分は印象に残りました。非常に分析的というか,技術者の心得を言っているように思いました。
何か不具合があったとき,例えば本当は4の倍数を入力するとエラーになるのを,12 でエラーになるので「2の倍数での入力が原因」または「6の倍数での入力が原因」と早とちりして騒ぎ立てるようなことがあります。しかし,例えば6を入力して不具合が起きず,10を入力して不具合が起きず,16を入力して不具合が起きれば,4の倍数での入力が原因であることが分かります。このように,予断を持たず,実証したことに基づいてのみ一般化・理論化する,という姿勢を持たねばならない,といわれたような気がしました。

「つまりものの崩壊によって苦痛が生じ,それが再び保全されるときが快楽であるとするならば,崩壊もなければ保全の回復もない動物については,もしそのような状態があるとしたら,動物のそれぞれのうちにいったいどのような状態がなければならないことになるのかを,われわれは心のなかでよく考えてみなければならない。さあ,よく気をつけて答えてくれたまえ。そもそもそのような場合には,いかなる動物も快や苦を多少とも感ずるということはないというのが,まったくの必然ではないのか。」…「思慮の生活を選んだ者には,きみも知っての通り,いま言われたような生き方をすることは,何のさわりにもならないのである。」…「そしてそれがあらゆる生活のうちで一番神に近い生活であるとしても,多分なにも奇妙なことはないはずだ。」(32E のソクラテス)

これはプラトンの本音…なのでしょうか?これは対話の本流ではないと思うのですが,ピレボス・プロタルコスとの対話はおいといて,本心としてはこういうストイックな―ストア派はプラトンより後なので正しい表現ではないかもしれませんが―人間であれ,と言っているような気もします。

「したがって,欲求されているものへとみちびくものが記憶であることを明らかにすることによって,以上の論は,すべての動物について,その衝動と欲求のすべてが,またしたがって生のもとになるものが,たましいの領域に属することを宣明したのだ。」(35D のソクラテス)

「では,以上のことからして,われわれには三つの生き方があるとしよう。一つは快適の生活,もう一つは苦痛の生活,そして他の一つは,そのどちらでもない生活。」(43C のソクラテス)

「ところが,それだとかれらは愉快にしているということについて,いつわりの思いなしをしていることになる,いやしくも苦しみを感じないということと,愉快であるということの,両者それぞれの本来自然のあり方が別のものだとしたらね。」(44A のソクラテス)

苦痛からの解放が快楽なのか?プラトンは快楽を「本来自然のあり方への復帰過程」というような言い方もしています。ただこの手の言い方―絶対と相対を混ぜてくるような―は,プラトンの対話篇には結構出てくるような気がします。

「いや,心配はいりません。あなたの言おうとされていることはわかりました。わたしの見るところ,両者の差異は多大です。なぜなら,克己心のある人たちに対しては,「やりすぎるな」というような,ことわざにもなって一般化されている原理があって,かれらはこれのすすめにしたがうから,それぞれの場合に抑止力になってはたらくわけでしょうからね。ところが,思慮もなければ,自制心もない人たちの場合は,強度のはげしい快楽が,かれらを捉えてはなさず,かれらを狂喜に到らしめ,かれらを爪はじきされるような人間に仕立てるからです。」(45D のプロタルコス)

「そしてまたこれらの快楽をまったくいつもいつも追求するのは,当人がしまりのない無分別な人間であればあるほど,ますますひどいことになる。そしてこれらの快楽こそ最大の快楽だなどと呼び,最大限にいつもこのような快楽のうちに生きている者を,この上ない幸福者にかぞえたりするのである。」(47D のソクラテス)

やはり快楽主義をかなり強烈に批判しているという感じです。でも何かプラトンのもどかしさが感じられるのは私だけでしょうか。プラトンにとっては,こんなことは水が上から下に流れるようなもので言葉にするまでもない,当然のことだったのではないかと思われますが,それを激しい言葉で言わなければならないのは逆に諦念のようなものも感じてしまいます。

「したがって,われわれが友人の滑稽な点を笑うのは,他方からみれば,嫉妬の情に快感を混入しているわけで,つまりはその快を苦に混合していることになるというのが,以上の議論の主張だということになる。なぜなら,われわれがさきほど同意したところでは,嫉妬はたましいの苦痛であり,笑うことは快なのであるが,この二つがこの時には同時に起っているからだとするのである。」(50A のソクラテス)

この辺りはちょっとドキッとさせられた部分です。それにしても,いつもながら鋭い分析です。こういう分析の鋭さにはいつも感心させられます。プラトンを理系的だと感じさせる一因です。

「しかしぼくがいま言った営みには,ちょうどさっき白というものについて,たとい小さくても,純粋でさえあれば,多量でも純粋ではないものにくらべて,まさにこの上なく真実であるというその点ですぐれていると言ったように,今もまたよく考え,充分に推理をはたらかせた上で,知識のもつ何らかの実利性とか,あるいは世間的な見栄とかいうものには目もくれず,もしわれわれのたましいに真なるものを愛し求め,万事をただこのためになすというような力が生まれついてそなわっているなら,これを探し出して言うことにしようではないか―知性と思慮の純粋性をこれこそが,とうぜん最大限に獲得所有すると言うことができはしないかどうか。それとも,これよりもっと強力な別のものをわれわれは求めなければならないのだろうか。」(58D のソクラテス)

ここの「たましいの真なるものを愛し求め」というのを読んで,寺田寅彦の『夏目漱石先生の追憶』の,

先生からはいろいろのものを教えられた。俳句の技巧を教わったというだけではなくて、自然の美しさを自分自身の目で発見することを教わった。同じようにまた、人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事を教えられた。

をふと思い出しました。寅彦が漱石に教わったということと,プラトンが「万事をただこのためになす」と言っていることが同じなら,この3者のファンである私にとってこれ以上のものはない,という思いがします。世の中,金や権力や保身に魂を売ったような人が多いですが,これらを読んでどう思われるのでしょうか。自分もそうならないためにしばしばプラトンや寅彦の言葉を省みなければと思います。ちょっと高潔すぎるきらいはありますが(笑)。

「つまりわれわれにとって確実なもの,純粋なもの,真なるもの,そしてわれわれが明々白々なと呼ぶところのものは,ただかのものを対象とする場合においてあるのだというのだ。かのものとは常に同一性をたもち,同じ状態で,他との混合は少しも許さぬようなものであって,われわれの対象とするのはこれか,あるいは,これに最も親しい同族関係にあるものでなければならない。しかしこれ以外のものは,すべて二次的なもの,後から来るものと言わなければならない。」(59C のソクラテス)

これはいわゆるイデア論の一環でしょうか。

…ということで,今回も話の本筋が結局何だったのか分からないメモになりました(笑)。まあいつも思いますが,脇道と思われるところにも正鵠を射る言葉が散りばめられているのがプラトン対話篇かなと個人的には思っているので,その意味ではピレボスも,有名な対話篇ではありませんし,自分がどれだけ理解できたか分かりませんが,とても楽しめました。次は5巻『饗宴』の予定。