プラトン『国家』第十巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第十巻を読んだときのメモ第2弾。

メモ(1)でいわゆる「詩人追放論」の部分が終わった後,まず魂の不死が論じられます。その後,『国家』篇の最後の最後,「エルの物語」が語られます。
少し先取りしますが (そして実は物語自体は本メモではあまり取り上げていませんが),すごい物語です。岩波文庫で20ページちょっとですが,これだけで映画化やゲーム化ができそうなほど,時間的にも空間的にも壮大なスケールを感じさせる物語です。また惑星の運動に関する知見が当時も結構あったんだなあと驚かされます(尤も脚注を読まないと分かりませんでしたが)。と同時に,生前の生き方が死後の生き方を束縛するという意味で,この期に及んでは宗教的な何かをも感じさせます。
それと,プラトンの著作はそもそも対話篇という形式が独特なわけですが,更にその中で色んな設定を含んだ物語の形で自説を語るというのも回りくどい感はあります。この「エルの物語」というものは一体何なのか?プラトンはどういう意図でこれを考え出し,書いたのか?というのも興味深いところです。「自分自身も詩人だということを示して対話から追放して終了させるため」という皮肉だというのが私の皮肉です(笑)。勿論冗談ですが。
以下読書時のメモです。

「しかしながら」とぼくは言った,「われわれはまだ,徳の最大の報い,徳に対して約束されている最大の褒賞のことを,語ってはいないのだ」(608C)

詩人についての対話が終わって,直後にこう言われます。徳の最大の報い,とは何でしょうか?

「わずかばかりの時間のうちには,どれほどの大きなことが生じうるだろうか?というのは,幼少から老年にいたるまでのこの時間の全体などというものは,全永劫の時間にくらべるならば,ほんのわずかなものにすぎないだろうからね」(608C)

マルクス・アウレリウス・アントニウス『自省録』あたりにも,似た言葉が出てくるのを思い出しました。何か理想化されたものがあり,それは恐らく未来永劫不変で,それに対して自分が年を取るのは如何に速いことか,そしてすぐ死ぬのだろう,というようなことは自分も最近よく感じます。

「君は気づいていないのかね」とぼくは言った,「われわれの魂は不死なるものであって,けっして滅び去ることがないということに?」
するとグラウコンは驚いて,わたしの顔をまじまじと見つめて,言った,
「いいえ,ゼウスに誓って!あなたには,それがそうだと確言できるのですか?」
「当然できなければならぬはずだ」とぼくは答えた,「君にしても同じだと,ぼくは思う。何も特別むずかしいことではないのだから」(608D)

グラウコンがどちらの意味で「いいえ,ゼウスに誓って!」と言ったのか分かりづらいところですが,否定の意味なのでしょう。オーバーリアクション気味のそのグラウコンに対して,ソクラテスは当然のように魂の不死を確言できると言います。
今の世の中でも,別に宗教的じゃない人でも亡くなった人に対して「あの世で喜んでいることでしょう」といった言葉をよく聞きます。それは「魂が不死」という観念というようなものを皆どこかで持っているから,のような気もします。それとこのソクラテスの「魂の不死」論はどこか繋がってくるのでしょうか。

「君は,あるものを善いとか悪いとか呼ぶだろうね?」
「ええ」(608D)

最終巻の最後になってもこんな感じで展開が始まります。呑気なものです(笑)。

「そうすると,それぞれのものは,それぞれと密接に結びついた固有の害悪によってこそ滅ぼされるのであり,あるいは,もしそれによって滅ぼされないとすれば,もはやほかには,その当のものを滅ぼすものはありえないことになるわけだ。なぜなら,善いものは何ものをも滅ぼすことはないだろうし,さらには,善くも悪くもないようなものも,同様だから」(609A)

前に少し説明があるのですが,例えば目にとっては眼炎が害悪だと言われます。それがあったとしても,目を「滅ぼす」(つまり「死なせる」) 所までいかなければ,もともと滅亡ということはないと。続きます。

「ではどうだろう」とぼくは言った,「魂には,それを悪化させるようなものが何かあるのではないかね?」
「大いにあります」と彼は答えた,「われわれがいましがた見てきたすべてのもの,不正,放縦,怯懦,無知などがそれです」(609B)

魂にとっての害悪が言われます。これが魂を滅亡させるものかどうか,ということが当然言われます。そこは重要ながら省略しますが,否定されます。

「同じ理由によって」とぼくはつづけた,「身体の悪が魂の内に魂の悪をつくり出すのでなければ,われわれは,魂が自己に固有の悪がないのに,自分と縁のない悪によって滅ぼされるということを,けっして認めないだろう。それは,あるひとつのものが,それとは別のものに属する悪によって滅ぼされることにほかならないから」(610A)

同じ理由,というのはこの前に「身体が食物の害悪によって滅ぼされる」場合のことが考えられた時のもので,それは「食物によってでも直接には病気という自分自身に固有の悪によって滅びた」のだから自分自身の害悪以外から滅ぶことはない,ということが言われていました。この下りは結構印象的です。自分の権外の影響を受けまいとするストア的な思想の源泉を見る気がします。ともあれ結局,魂に悪を作ることはできないと言われます。
「魂が不死」というのは,害されても滅びないという意味での「不死」なんだなあ,とふと思います。輪廻転生するという意味での「不死」とはまた別で(輪廻転生の意味では後の「エルの物語」がそれに当たると思います),こういう不死は割と意外な感じもします。

「まったく,ゼウスに誓って」と彼は言った,「もしも不正がそれを受け入れる者に直接死をもたらすものだったら,不正はべつにそれほど恐ろしいものではないことになるでしょうね。なにしろ,それのおかげでいろいろの禍いから解放されるわけなのですから。けれども,実際に判明するのは,まったく反対のことではないでしょうか。すなわち,不正はむしろ,可能な場合には他人を殺すものであり,不正の所有者当人には大いに生気を与えるもの,それもただの生気ではなく,不眠不休の活力を与えるものだと思います。それほど不正は,どうやら,当人に死をもたらすことから程遠いところに住んでいるようですね」
「まことに君の言うとおりだ」(610D)

魂は不死だと言われたわけですが,それでは不正は,当人 (の魂) に向かうのではなくて他人に向かうものだと。「受け入れる者に直接死をもたらすものだったら,不正はべつに恐ろしくない」という言葉などは,グラウコンがソクラテス顔負けの,冴えたことを言っているなという印象です。しかしソクラテスのような善の人にとってならともかく,実際には不正を行う人にしてみれば願ったりなのかもしれないと思います。

「しかしグラウコン,われわれはもっと別のところに目を向けなければならないのだ」
「どのようなところに?」と彼はたずねた。
「哲学という,魂にそなわる知への希求に。―魂が,神的で不死で永遠なる存在と同族であるみずからの本性にうながされて,何を把握し,どのような交わりに憧れるかを,われわれは注視しなければならない。」(611D)

海神グラウコスの譬えで,魂に付いた付着物を取り除いて本来の姿を見なければならない,と前に言われます。不死かどうかという話から「魂とは何か」という問いへの転換が行われます…しかし,この問題はここではこれ以上追求されません。但しここで言われるように,知への希求を本質的に備えることには疑いがないようです。
プラトン対話篇にはたまにこう,前後とすこし雰囲気が違って,ソクラテスに決然と言葉を述べさせる場面があります。私は特に好きな場面です。他と違って有無を言わさない感じで,論証というより,プラトンの信念が現れた部分のように思います。

「では,グラウコン」とぼくは言った,「いまならもう,これまで論じた事柄に加えて,正義その他の徳が本来もつべき報酬のことも認めてやったとしても,何も文句は出ないだろうね―正義の徳は魂に対して,人間たちからも神々からも,人がまだ生きている間も死んでからのちも,どれだけの,またどのような報酬をもたらすかを語ったとしても?」(612B)

省略したのですがこの直前に,「ギュゲスの指輪を持っていようといまいと…魂は必ず正しいことを心がけなければならぬ」(612B) とも言われます。不正を行ってもバレないような状況でも正しいことを行うことになるような,正義その他の徳の報酬とは?この辺りは,遠い昔である第二巻の対話を受けてのことでしょう。これがそもそも,個人の正義を考えるために国家の正義を考えるということで,この対話篇がこのタイトル (国家,ポリテイア) になった遠因だと思いますが,しかし製作費が尽きた映画の終盤のように,この周辺の対話は非常にあっさりとしています。第二巻であれだけソクラテスに肉薄したグラウコンが,ここでは借りてきた猫のように従順になってます(笑)。

「したがって正しい人間については,たとえその人が貧乏のなかにあろうと,病のなかにあろうと,その他不幸と思われている何らかの状態のなかにあろうと,その人にとってこれらのことは,彼が生きているあいだにせよ死んでからのちにせよ,最後には何か善いことに終るだろうと考えなければならぬ。なぜなら,すすんで正しい人になろうと熱心に心がける人,徳を行なうことによって,人間に可能なかぎり神に似ようと心がける人が,いやしくも神からなおざりにされるようなことは,けっしてないのだから」(613A)

このことが,「神々からの正しい人への褒賞」と言われます。この前後も含めて,妙に神に愛されるとかそういう事が語られています。これは,話の途中で神話が出てきたりすることは珍しくないですが,何かの原因や理由を神に帰するというのは珍しいようにも思えます。
この後,「人間の側から」の話もあるのですが省略。ただ,「正しい人々は,年が長じてから,望むならば自分の国において支配の任につき…」(613D) というのはちょっと気になりました。支配者にはみずから望んでそうなるのではない,以前の巻で言われていたはずなので。

「さてしかし」とぼくは言った,「これらのものは,正しい人と不正な人のそれぞれを死後において待ちうけているものとくらべるならば,数においても大きさにおいても,何ものでもないのだ。それがいかなるものかを,いまやわれわれは聞かなければならない。正しい人と不正な人のそれぞれが聞かされるべきことを聞いて,われわれの議論から借りとして支払われるべきものを,すっかり完全に受け取ってしまうために」(614A)

ここからいよいよ,いわゆる「エルの物語」が始まります。

「そのむかし,エルは戦争で最期をとげた。一〇日ののち,数々の屍体が埋葬のために収容されたとき,他の屍体はすでに腐敗していたが,エルの屍体だけは腐らずにあった。そこで彼は家まで運んで連れ帰られ,死んでから一二日目に,まさにこれから葬られようとして,野辺送りの火の薪の上に横たえられていたとき,エルは生きかえった。そして生きかえってから,彼はあの世で見てきたさまざまの事柄を語ったのである。」(614B)

なんと,死後12日したら生き返ったと。この時点で既に信憑性ゼロですが,事の真偽は問題ではないと思います (さすがにプラトンも真実だと思われることを期待はしなかったでしょう)。半面プラトンがどうにでも都合よく作ったであろうということも念頭に置く必要はあると思います。以下,エルが見てきた場面が描かれて行きます。
以下少しだけ引用をしていきますが大部分は省略しています。これは物語の要約ではありません。

「こうしてつぎつぎと到着する魂たちは,長い旅路からやっと帰ってきたような様子に見え,うれしそうに牧場へ行き,ちょうど祭典に人が集まるときのように,そこに屯した。知合いの者どうしは互いに挨拶をかわし,大地のなかからやってきた魂は,別の魂たちに天上のことをたずね,天からやってきた魂は,もう一方の魂たちが経験したことをたずねるのであった。こうしてそれぞれの物語がとりかわされたが,そのさい一方の魂たちは,地下の旅路において―それは千年つづくのであったが―自分たちがどのような恐ろしいことをどれだけたくさん受けなければならなかったか,目にしなければならなかったかを思い出しては,悲しみの涙にくれていたし,他方,天からやってきた魂たちは,数々のよろこばしい幸福と,はかり知れぬほど美しい観物のことを物語った。」(614E)

天上や地下から戻って来た (正しい人は天上へ行かされ,不正な人は地下に行かされていた) 魂たちが語り合うという,ちょっと牧歌的な印象を受ける場面です。なおこの部分もそうですが,エルの物語の数か所で,岩波文庫には図が挿入されており非常に話が分かりやすくなります。

「人間の一生を100年とみなしたうえで,その100年間にわたる罰の執行を10度くり返すわけであるが,これは,各人がそのおかした罪の10倍分の償いをするためである。」(615B)

過去にどのくらい不正を行ったかに応じて罰が与えられると言われ,それは100*10=1,000年間であると言われます。なお正しい人は同じく10倍の報いを与えられるともあります。

「さて,牧場に集まった魂たちのそれぞれの群れが七日間を過すと,八日目に彼らはそこから立ち上がって,旅に出なければならなかった。旅立って四日目に,彼らはあるひとつの地点に到着したが,そこからは,上方から天と地の全体を貫いて延びている,柱のような,まっすぐな光が見えた。その光の色は何よりも虹に似ていたが,もっと明るく輝き,もっときよらかであった。
そこからさらに一日の行程を進んだのち,彼らはその光のところまで到着した。そしてその光の中央に立って,天空から光の綱の両端が延びてきているのを見た。というのは,この光はまさしく,天空をしばる綱であったから。それは,あたかも軍船 (三段櫂船) の船体をしばる締め綱のように,回転する天球の全体を締めくくっているのである。」(616B)

急に宇宙を連想させる情景が描かれます。この後はその世界観の描写が続くのでもう省略するしかないのですが,水星・金星・火星などの惑星の回転運動をも描いているようです (解説による)。『ティマイオス』も少し連想させます。
プラトンは,何のためにこんな世界を『国家』に描いたのでしょうか?読者に天文学を紹介するためでしょうか (そういえば夏目漱石も『吾輩は猫である』に (寺田寅彦による?) 最先端の物理学の話題を載せたりしていました)。それとも当時の天文学の成果を歴史に残すという意味でしょうか。それとも惑星は本当に神と同一視されていたのでしょうか。

「『第一番目の籤を引き当てた者をして,第一番目にひとつの生涯を選ばしめよ。その生涯に,以後彼は必然の力によって縛りつけられ,離れることができぬであろう。
徳は何ものにも支配されぬ。それを尊ぶか,ないがしろにするかによって,人はそれぞれ徳をより多くあるは少なく,自分のものとするであろう。
責は選ぶ者にある。神にはいかなる責もない』」(617E)

神の意を伝える神官の言葉なので括弧が入れ子になっています。いろんな生涯の見本 (人間だけでなく動物のもある) が目の前に置かれ,ここで人間として生きる選択を籤で決めた順番で行うことになります。

「けだしこの瞬間にこそ,親愛なるグラウコンよ,人間にとってすべての危険がかかっているのだし,そしてまさにこのゆえにこそ,われわれのひとりひとりは,ほかのことを学ぶのをさしおいて,ただこのことだけを自分でも探求し,人からも学ぶように心がけねばならないのだ―善い生と悪い生とを識別し,自分の力の及ぶ範囲でつねにどんな場合でも,より善いほうの生を選ぶだけの能力と知識を授けてくれる人を,もし見出して学ぶことができるならば。」(618B)

善を追い求める生き方をするのは (と直接は言われませんが),ここで善い生を選択するためだと言われます。魂が不死であるという本メモ前半部分で言われていたことも繋がってきたように思います。

「『最後に選びにやって来る者でも,よく心して選ぶならば,彼が真剣に努力して生きるかぎり,満足のできる,けっして悪くない生涯が残されている。
最初に選ぶ者も,おそろかに選んではならぬ。最後に選ぶ者も,気を落してはならぬ』
エルの話によると,神官がこのように言い終るや,第一番の籤を引き当てていた者は,ただちにすすみ出て,最大の独裁僭主の生涯を選んだ。彼は選択にあたって,浅はかさと欲ふかさのために,あらゆる事柄をじゅうぶんに考えてみなかったのである。」(619B)

最初に人生を選ぶ権利を得た者が,最悪といっていい選択をする例が言われます。次に続きます。

「この男は,天上のほうの旅路を終えてやって来た者たちのひとりであった。彼は前世において,よく秩序づけられた国制のなかで生涯を過したおかげで,真の知を追求する (哲学する) ことなく,ただ習慣の力によって徳を身につけた者だったのである。概して言えば,これと同じようなしくじりにおちいった少なからざる者が,天上からやって来た者たちであった。彼らは,苦悩によって教えられることがなかったからである。これに反して,地下からやって来た者の多くは,自分自身もさんざん苦しんできたし,他人の苦しみも目のあたりに見てきたので,けっしてあだやおろそかに選ぶようなことはしなかった。」(619C)

天上からやってきた者が悪い生涯を選択しがちで,地下からやってきた者が善い生涯を選ぶことが多いと。つまりある魂は周期的に善と悪の人生を経験するということになるのだと思います。ただ,「つねに誠心誠意知を愛し求め」(619E) るような人は常に天上の旅路を行くだろうと言われます。

「まことに,エルの語ったところによれば,どのようにしてそれぞれの魂がみずからの生を選んだかは,見ておくだけの値打のある光景であった。それは,哀れみを覚えるような,そして笑い出したくなるような,そして驚かされるような鑑物だったのである。というのは,その選択はまずたいていの場合,前世における習慣によって左右されたからだ。」(619E)

この後,当時の過去の有名人たちの魂が,どういう生涯を選ぶか,という具体的な例が描かれますが,他愛のない話です。あまり善悪に関係がない部分 (=習慣?) は,前の生涯を踏襲するということでしょうか。

「このようにして,グラウコンよ,物語は救われたのであり,滅びはしなかったのだ。もしわれわれがこの物語を信じるならば,それはまた,われわれを救うことになるだろう。そしてわれわれは,<忘却の河>をつつがなく渡って,魂を汚さずにすむことだろう。しかしまた,もしわれわれが,ぼくの言うところに従って,魂は不死なるものであり,ありとあらゆる悪をも善をも堪えうるものであることを信じるならば,われわれはつねに向上の道をはずれることなく,あらゆる努力をつくして正義と思慮とにいそしむようになるだろう。」(621B)

まあ自分が作った物語だからだろうと言いたくなる所ですが(笑),この物語を信じるなら,知を愛し善を求める生を送れば,魂は不死なので,(身体の)死後も報われるということになります。その意味でずっと一貫しています。

このグラウコンへの呼びかけで(最後ちょっと省略してますが),『国家』は幕を閉じます。最後,物語が一方的に延々と語られるという形になったので,あまり対話がなく取り上げにくかった面はあります。但し,死んだのちにも魂は不死で,生前の生き方に束縛されるというのは,「死ねばチャラ」ではなくちゃんと財産 (負債) が残るというわけで,これまで『国家』で語られてきた生きる上で善を追求する理由は何か?という意味での一番の根拠として示されたといえるのかもしれません。

全体のまとめというか,自分にとっての『国家』について,別途簡単に振り返る予定。

プラトン『国家』第十巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第十巻を読んだときのメモ第1弾。

さて,国家も最終巻である第十巻です。第九巻で話としては一応完結したようにも思えますが,第十巻では詩などの模倣の技術のことが語られ,「徳への報い」のことが「エルの物語」を通じて語られます。
第十巻が独立して感じられるのは,画家や詩人に対するプラトンの偏見的ともとれる見方や,死者が生き返るという「エルの物語」が,(それまでと較べて) いささか飛躍していて非現実的な感があるからだと思われます。とはいえ詩については,これまでの対話から当然のように納得させられることもあるし,「エルの物語」を含む死後の世界の話も,イデア論,宇宙論,などを含めたプラトンの世界の1つの表象でしょう。
本メモ(1)は詩人についての部分で,「エルの物語」についてはメモ(2)で書く予定です。

以下は読書時のメモです。

「たしかにわれわれのこの国については」とぼくは言った,「ほかの多くの点でもこの上なく正しい仕方で国を建設してきたと思うけれども,しかしぼくは,とりわけ詩 (創作) についての処置を念頭に置いてそう言いたい」
「とおっしゃいますと,どのような?」と彼はたずねた。
「詩 (創作) のなかで真似ることを機能とするかぎりのものは,けっしてこれを受け入れないということだ。というのは,ぼくは思うのだが,それを絶対に受け入れてはならぬということは,魂の各部分の働きがそれぞれ別々に区別された今になってみると,前よりもいっそう明らかにわかっているわけだからね」(595A)

いわゆる「詩人追放論」と言われるプラトンの立場を端的に示す最初の箇所です。真似ることの弊害は第3巻でも言われていましたが,詩の本質を模倣であるというのがプラトン一流の捉え方だと思います。この後そのココロが存分に語られます。

「話さなければならない」とぼくは言った。「子供のころからぼくをとらえているホメロスへの愛と畏れとが,話すのを妨げるけれども。―じっさいホメロスこそは,あの立派な悲劇作家たちすべての最初の師であり指導者であったように思えるからね。しかしながら,ひとりの人間が真理よりも尊重されるようなことがあってはならない。いや,いま言ったように,話さなければならない」(595B)

プラトンにもホメロスへの敬意があるようで,神妙です。「ひとりの人間が真理よりも尊重されるようなことがあってはならない」は至言ですね。どこかで使えそうです。

「それならば,われわれは次のことから考察をはじめることにしようか―いつもやっている探求方法を出発点としてね。というのは,われわれは,われわれが同じ名前を適用するような多くのものを一まとめにして,その一組ごとにそれぞれ一つの<実相>(エイドス)というものを立てることにしているはずだから。どうだ,わからないかね?」(596A)

うろ覚えですが,名前が実相を表す,というのは『クラテュロス』を想い起こす一節です。ともあれ,いつものように根本的なところから,対話が始まります。

「ところがそれらの家具について,<実相>(イデア)はということになると,二つあるだけだろう―寝椅子のそれが一つと,机のそれが一つ」
「はい」
「ところで,これもまたわれわれのいつもの説ではないか,―すなわち,いまの二つの家具のそれぞれを作る職人は,その<実相>(イデア)に目を向けて,それを見つめながら一方は寝椅子を作り,他方は机を作るのであって,それらの製品をわれわれが使うのである。他のものについても同様なのだ,とね。なぜなら,<実相>そのものについては,職人のうち誰ひとりそれを作ることはないのだから。どうして作ることができようか?」

これの前の「寝椅子や机は数多くある」という一節に続くのですが,身近な例で実感があります。色んな対話篇で「徳」とか「美」とか「勇気」とかについて追求されてきたのと同じで,「まさにそれであるところのもの」をここでは<実相>(イデア)と言っているのですね。
あまり本筋とは関係ありませんが,一つ前の引用と合わせると,「<実相>を作ることはできないが,それに名前が付くことはできる」…というのは一体何なのか?と思います。名前の有無に限らず<実相>は存在するように思えますが…。本来的には,名前とは任意に付けられるようでいて,<実相>にともなって収束するもの,というようにも思えます。

「むずかしい仕方ではないよ」とぼくは答えた,「いろんなやり方で,すぐにでもできることなのだが,まあいちばん手っとりばやくやるには,鏡を手に取ってあらゆる方向に,ぐるりとまわしてみる気になりさえすればよい。そうすれば,君はたちまち太陽をはじめ諸天体を作り出すだろうし,たちまち大地を,またたちまち君自身およびその他の動物を,家具を,植物を,そしていましがた挙げられたすべてのものを,作り出すだろう」
「ええ」と彼は言った,「そう見えるところのもの(写像)を,しかしけっしてほんとうにあるのではないものを,ですね」
「うまい!」とぼくは言った,「議論のために必要適切なことを言ってくれた。というのは,思うに,画家もまたそのような製作者だろうからね。そうだね?」(596D)

すべてなんでも作るような職人がいる,というソクラテスの示唆から上記が言われます。それは見た目を作るだけなら鏡があればよいと。まるで一休さんですが,「そう見えるところのもの,しかしけっしてほんとうにあるのではないもの」というグラウコンの返しは,現代に置き換えても痛い所を衝いているように思えます。何でもスマホ等で写真に撮れるのもそうですがそれに限らず,自分が心底から考えたり作り出したものでもないことを,どこかから調達し,そう見せる(思わせる)コストがものすごく低い現代こそです。

「もし神が二つだけでもお作りになるとするならば,そこにふたたび一なる寝椅子が新たに現れて来て,それの[寝椅子としての]相を,先の二つの寝椅子はともに貰い受けてもっていることになるだろう。そして,この新たな一つの寝椅子こそが<まさに寝椅子であるところのもの>であることになり,先の二つはそうでないことになるだろう」
「そのとおりです」と彼は言った。
「思うに,神はこうした事態を知っているがゆえに,真にあるところの寝椅子の真の作り手となることを―けっして或る特定の寝椅子を作る或る特定の製作者となることをではなく―お望みになって,本性(実在)としてのただ一つなる寝椅子を作り出されたのだ」(597C)

実相(イデア)の唯一な性質をよく表していて面白い箇所だと思います。ただ,何故寝椅子は寝椅子なのか?とも思います。これは最初に<まさに寝椅子であるところのもの>があったというより,実際に大工たちが色々作っている内に寝椅子という概念が出来たという方が自然な気もします。さらに言うと,電気でも半導体でもスマートフォンでもなんでもいいのですが当時存在していなかったものについて,それが実現しない前である当時から実相(イデア)は存在していたと考えるのでしょうか?実相(イデア)は時間を超越すると考えるのでしょうか?よく分かりません。あくまでも実感で,自分の思ったことはアリストテレス的かもしれませんが。

「してみると,悲劇作家もまた,もし彼が<真似る者>(描写家)であるとするならば,そうだということになるだろう―つまり,いわば真実(実在)という王から遠ざかること第三番目に生まれついた素姓の者だ,ということになるだろう。そして他のすべての<真似る者>(描写家)もまた同じことだ」(597E)

省略していますが,神を『本性(実在)製作者』,大工を製作者,画家を<真似る者>として実在に近い方から順位付けしています。

「してみると,真似(描写)の技術というものは真実から遠く離れたところにあることになるし,またそれがすべてのものを作り上げることができるというのも,どうやら,そこに理由があるようだ。つまり,それぞれの対象のほんのわずかの部分にしか,それも見かけの影像にしか,触れなくてもよいからなのだ。
たとえば画家は―とわれわれは言おう―靴作りや大工やその他の職人を絵にかいてくれるだろうが,彼はこれらのどの職人の技術についても,けっして知ってはいないのだ。だがそれにもかかわらず,上手な画家ならば,子供や考えのない大人を相手に,大工の絵をかいて遠くから見せ,欺いてほんとうの大工だと思わせることだろう」(598B)

この部分,『ゴルギアス』に出てくる,弁論術に対するソクラテスの言説と非常に似ています。それの見た目(模倣)バージョンといえるでしょうか。あるいはソフィストを向う側に見ているのかもしれません。それにしても画家に対する見方が厳しいですね。

「では,もしある人が,真似(描写)の対象となるべきものと,その対象の影像と,この両方をともに作り為す能力があるとしたならば,いったいその人は,真剣になって影像を製作することに身をささげ,その仕事を最上の所有物として自分の生活の前面にかかげるだろうと,君は思うかね?」(599A)

もし,製作する能力と真似る能力の両方を持っていたら,誰だって製作するだろう,という話がこの後も続きます。そして返す刀で詩人についても,言葉を真似たり伝えたりするだけで何も実行する能力がない,というようなことが長々と語られ,切り捨てられるのがこの第十巻の前半部です。

「それでは,ホメロスをはじめとしてすべての作家(詩人)たちは,人間の徳―またその他,彼らの作品の主題となるさまざまの事柄―に似せた影像を描写するだけの人々であって,真実そのものにはけっして触れていないのだということを,われわれはここで確認することにしようか?それはちょうど画家の場合と同様であって,先ほどわれわれが言っていたように,画家は実際の靴作りと思えるものを創作するけれども,自分が靴を作ることを知っているわけでもないし,また描いて見せる相手のほうも,同様に何も知らずに,ただうわべの色と形から見て判断するだけの人たちなのだ」(600E)

ということで「真実そのものにはけっして触れていない」という,プラトン的にかなり決定的な烙印が詩人や画家に対して押されました。前述しましたがソフィストに対する言及とほぼ同じで,怨みすら感じられるような峻烈なものです。実際,アリストファネスなどを念頭に置いていたのかもしれません。なお少し後で,「韻律とリズムと調べをつけて語るならば,大へん立派に語られているように思えるのだ」(601A) ともソクラテスに言わせています。
この辺り,善悪はともかく,「プラトンとはそういう人だ」と思うしかありません。作家(詩人),画家,音楽家が知り合いにいたりするとちょっと腹立たしい思いになるかもしれません。そもそも,模倣しか能がないのが画家や作家,というのは現代の感覚からずれています。何も真実に触れることだけが糧になるわけでもないと思いますし。ただ想像ですが当人だったら意外と何とも思わないのではという気もします…抽象的ですが技術的な印象を受けるのもプラトンらしいところ。

「画家は―とわれわれは言う―手綱や馬銜を描くであろう」
「ええ」
「しかしそれを作るのは,皮職人や鍛冶家だろう」
「たしかに」
「では,手綱や馬銜がどのようなものでなければならぬかを,画家は知っているだろうか?それとも実は,製作者である鍛冶家や皮職人でさえ知らないのであって,そのことの知識をもっているのは,それらを使うすべを心得ている人,すなわち,馬に乗る人だけではないだろうか?」(601C)

「あらゆるものについて,事情は同じであると言うべきではないだろうか?」
「どのような意味でですか?」
「それぞれのものについて,いま挙げたような三つの技術があるのではないかね―すなわち,使うための技術,作るための技術,真似るための技術」(601C)

使う人・使うための技術,というのが出てきました。多くは省略しますが,使う人はその物の善し悪しに通じていて,製作者にそれをどのような物として作らなければならないかという知識を伝えるが,真似る人にはそういった知識は必要がない,ということが言われます。

「では,こうした点については,どうやらわれわれは,十分な同意に達したらしいね。すなわち,真似る人は,彼が真似て描写するその当のものについて,言うに足るほどの知識は何ももち合わせていないのであって,要するに<真似ごと>とは,ひとつの遊びごとにほかならず,まじめな仕事などではないということ,そして,イアンボスやエポスの韻律を使って悲劇の創作にたずさわる人々は,すべてみな,最大限にそのような<真似ごと>に従事している人々である,ということだ」(602B)

ということで,作家(詩人)というのは,前に言われたように真実に触れていないだけでなく,知識も持っていないと,ダメを押します。
まあ仮にそうだとしても作家が模倣に生きる職業だとは思いませんが,現代に当てはめると,所謂「まとめサイト」を作ることなどはそういう部類なのかもしれないなと思ったりします。逆に言うと当時の文学に対する見方というのはそういうものだったのかもしれません。

「ところで,測ること,数えること,秤にかけることは,そうした錯覚に対抗してわれわれを助けるための絶妙の手段として,発明されたのではないかね?これのおかげで,われわれの内に支配するのは見かけ上の大きさ・小ささの差異や,見かけ上の数や重さの差異ではなく,数や長さや重さをちゃんと計算し測定したものこそが,支配するようになったのだ」(602D)

見かけ(印象)ではなく,絶対的な尺度があるということが言われます。何となくプラトンらしい流れです。

「そういうわけで,じつはこの点の同意を得たいと思いながら,ぼくはさっき言っていたのだよ。―つまり,絵画および一般に真似の術は,真理から遠く離れたところに自分の作品を作り上げるというだけでなく,他方ではわれわれの内の,思慮(知)から遠く離れた部分と交わるものであり,それも何ひとつ健全でも真実でもない目的のために交わる仲間であり友である,とね」(603A)

人間の思慮というものは絶対的な計量を行うもの,というのがプラトンがいつも言っていることで,真似の術のような見た目だけで思慮に働き掛けないものについては,こういう評価になるだろうなというのは想像できたところです。かつ,模倣というものを「測る,数える」という観点から喝破するのもプラトンならではとも思います。

「立派な人物というものは」とぼくは言った,「息子を失うとか,その他何か自分が最も大切にしているものを失うとか,そういった運命を身に受けたとき,ほかの誰よりも平静にそれを堪え忍ぶだろうということ,ここまでのことは,あのときもたしか,われわれは言っていたはずだ」
「ええ,たしかに」
「いまはさらに,こういうことを考えてみようではないか―いったい,そういう人物は,少しも悲しくはないのだろうか?それとも,そういうことはありえないことであって,ただ悲しみに堪えて節度を保とうとしているのだろうか?」
「後のほうでしょう」と彼はいった,「実情はといえば」(603E)

後の布石として,悲しみを内に秘める立派な人というのが言われます。第八巻で,名誉支配制の国制に対応する人間が言われた時のことを少し思い出します。

「法はきっと,こう言うことだろう―不幸のうちにあっては,できるだけ平静を保って,感情をたかぶらせないことが最も望ましいのだ。ほかでもない,そうした出来事がほんとうは善いことか悪いことかは,必ずしも明らかではないし,堪えるのをつらがってみても,前向きに役に立つことは何ひとつないのだし,そもそも人の世に起る何ごとも大した真剣な関心に値するものではないのだし,それに,悲しみに耽るということは,そのような状況のなかでできるだけ速やかにわれわれに生じてこなければならないものにとって,妨げになるのだから,とね」
「どのようなことが,妨げられるとおっしゃるのですか?」と彼はたずねた。
「起ったことについて熟慮することがだ」とぼくは言った。(604B)

生きているとこういうことがいかに難しいかを日々実感します。こういう恬淡とした,本来の意味でのストイックな,しかし前向きな生き方ができたらいいなと思います。

「だから明らかに,真似を事とする作家(詩人)というものは,もし大勢の人々のあいだで好評を得ようとするのならば,生来けっして魂のそのような部分に向かうようには出来ていないし,また彼の知恵は,けっしてその部分を満足させるようにつくられてはいない。彼が向かうのは,感情をたかぶらせる多彩な性格のほうであって,それはそのような性格が,真似て描写しやすいにほかならないのだ」(605A)

と,作家(詩人)は,感情を理性で抑える立派な人を描くことはできずに,ただむやみに感情的な人ばかり描いている,それは真理とくらべると低劣なものだ,ということが言われます。これを言うために,感情を抑える人を讃えていたのが分かります。将棋で「玉は包むようにして寄せよ」という格言がありますが,周到な筋書きで作家(詩人)を先回りして着実に追い詰めています。
確かに言っていることはその通りだなあと思います。同時に,そういった思慮深い人を描写する言論とは,一体なんなのか。そもそもあるのか。ということも思います。あらゆる描写は,その対象が真実ではなく,演じたものである可能性,または見る側が錯覚した可能性を捨てきれません。イデアは目に見えない(し聞こえない)からです。であれば何か外形的なことを書くこと自体に意味はあるのか。という問いは当然プラトン自身にもブーメランで問われます。『パイドロス』辺りにヒントがあるのでしょうか?

「こういう事実を考慮してもらいたいのだ。―すなわち,先に自分自身の身に起った不幸に際しては無理に抑えられていたが,ほんとうは心ゆくまで泣いて嘆いて満たされることを飢え求めていた部分―というのは,そういったことを欲求するのが,魂のこの部分の自然生来の本性だからなのだが―まさにその部分こそが,いまや,作家(詩人)たちによって満足を与えられ,喜ぶところの部分にほかならないのだということだ。ほかならないのだということだ。そして他方,われわれの内なる生来最もすぐれた部分は,理によって,また習慣によってさえも,まだじゅうぶんに教育されていないために,この涙っぽい部分に対する監視をゆるめてしまう」(606A)

作家(詩人)は,善なる人を描けないだけでなく,人の抑えるべき感情的な部分を呼び覚ましてしまう,ということが言われます。ここの少し前に,「われわれを最も強くそのような状態にさせる作家のことを,すぐれた作家であると真剣に褒め讃えるのだ」(605D)とも言われ,人は自分が本来そうあるべきでない姿に欲求を持つことを指摘しますが,それを喚起する作家(詩人)はけしからんとなるわけです。
感情的な部分,よく言えば人間らしい感情を引き起こすというのなら,悪い面ばかりではないようにも思いますが。思慮深さとは相反するのは確かだという気はします。
「そういったことを欲求するのが,…自然生来の本性」というのは,ソクラテスの口から出ると重い言葉です。これを克服したソクラテスの覚悟というか凄みを感じさせます。

「同じことはまた,滑稽なことについても言えるのではないだろうか。すなわち,もし君が,自分でやるのは恥ずかしいような滑稽なことを,喜劇の行なう真似や私的な機会などに聞いて大いに喜び,下劣なことだと憎むことをしないのであれば,君はまさに悲痛な事柄におけるのと同じことをしていることになるのではないかね?
というのは,道化者と評判されるのをおそれて,この場合にも,ふざけて滑稽なことをしたがる部分を自分の内において理の力で抑えていたのに,いまやまたも君はその部分をゆるめてやり,そしてそのような機会に元気をつけて活溌にしてやることによって,しばしばそれと気づかぬうちに,自分自身の生活そのものにおいて喜劇役者となりはてるところまで,引きずられて行くことになるからだ」(606C)

本当に喜劇役者に魂を引っ張られるならそうだと思いますが…真面目すぎるという感じはします。
確かにバラエティ番組等でも,低俗だと分かっていても笑ってしまったりすることはありますが,自分が実際そういうことをしたがる欲求が裏にあるとは思ったことはありません。が,そうなのかもしれません。

「ただここで,われわれが頑固で粗野だと非難されないためにも,哲学と詩(創作)との間には昔から仲違いがあったという事実を,詩(創作)に向かって言い添えておくことにしよう。というのは,『主に吠えたて叫ぶ犬めが』とか,『愚か者らの下らぬおしゃべりのなかで威張っている』とか,『あまりにも賢い連中の群を支配する者』とか,『自分が貧しいということを思いめぐらすのが落ちの,繊細の思想家たち』とか,その他数えきれない多くの言葉が,哲学と詩の間に昔から対立があったことを示しているからだ。」(607B)

最後に念を押されましたが,こう言われると,こういう不倶戴天の関係があったから帰納的にこれまでのような詩人追放論を言ったのではないのかと逆に思ったりもします。
ただこの後,詩の有益さを論じ明らかにされるのであれば迎え入れる,ということも一応言われます。

「まことに,親しいグラウコンよ」とぼくは言った,「ここで争われていることは重大な,ふつう考えられているよりも,はるかに重大なことなのだからね―すぐれた人間となるか,悪しき人間となるかという,このことは。だからけっして,名誉や金銭や権力の誘惑によって,さらにはまた詩の誘惑によってそそのかされて,正義をはじめその他の徳性をなおざりにするようなことがあってはならないのだ」(608B)

という言葉で締めくくられて,第十巻の前半部が終わります。

これは私見ですが,プラトン自身に詩人の要素が全くなかったら,対話篇という形式で後世に作品を残すこともなかったのでは?という気がします。但しその意味で,作中では「あくまでソクラテスに言わせている限りでは」矛盾はしていないとも言えます。これは対話篇という形式の相補性というか多態性といえるのかもしれませんね。

続きはメモ(2)にて。

プラトン『国家』第九巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第九巻を読んだときのメモ第2弾。

第九巻では,これまで僭主独裁制について第八巻から続く説明の後,各国制に対応する人間で優れたものと劣ったものの判定がなされました。続いて,魂の3区分,真/偽の快楽についての判定がなされます。そして,第二巻で提起された問いに戻ってその答えが考察されます。不正が得かどうか,ということについての答えとなる内容で,副題である「正義について」の締め括りにふさわしいものとなっています(第十巻はまたちょっと独立的です)。
途中で出てくる,「キマイラのような怪物と,ライオンと,人間が一体となり,外からは人間としか見えない」という人間のモデルは秀逸だと思います。人間だからこそ持っている理性的な部分と,獣的な部分の混在をよく表していると思います。

以下は読書時のメモです。

「さあこれでよし」とぼくは言った,「以上がわれわれにとって,一つの証明となるだろう。つぎに,この第二番目の証明を見てくれたまえ。それが何ほどかの意味があるものと思えるかどうか」
「それは,どのような証明のことでしょうか?」
「ちょうど国家が三つの種族 (階層) に分けられたように」とぼくは言った,「一人一人の人間の魂もまた,それと同様に三つに区分される以上,そのことにもとづいてわれわれの問題は,また別の証明を得ることになるだろうと,ぼくには思われるのだ」(580C)

ということで,国制に基づいて順位付けされた第一の証明に続いて,魂の3区分,つまり理知的部分,気概的部分,欲望的部分に対応して論じようとします。この3区分は第四巻に出てきました。国制を頂上とすると (いや実際の頂上はイデア論だったかもしれませんが),ちょうど山を下りている感じですね。
この後,魂の3区分についておさらいがあります。そして人間の分類としても <知を愛する人>,<勝利を愛する人>,<利得を愛する人> という3つの種類があると言われます。さらに,快楽にもそれらに対応した3種類があると言われます(581C)。

「だから,君も知っているように」とぼくは言った,「もし君がそうした三種類の人間に向かって,それらの生き方のうちでどれがいちばん快く楽しいかということを,ひとりひとり順番にたずねてみる気になったとしたら,それぞれが自分の生き方を最も褒め讃えるのではないかね。まず金儲けを事とする人間は,利得を得ることにくらべるならば,名誉を得ることの歓びや学ぶことの楽しみなどは,そうしたことが何か金になるのでもないかぎり,まったく何の価値もないと言うことだろうね?」(581C)

悪い順に言おうとしているのか,まず利得を愛する人の快楽について言われます。とにかく金,というヤな人間です (但し実際の欲望はもっといろいろあってここでは金を代表させているに過ぎないと思います)。この後,勝利を愛する人,知を愛する人についても快楽が言われますが,他の2つに該当する快楽を全く無視するのだと書かれているところは共通しています。
まあここでは理想的なサンプルを作っているだけで,実際の人間には,RGB で色が表されるように3つのそれぞれの重みが付けられてその人にとっての快楽が定義される,と考えないと一般性がないと思います。

「それなら次のようにして,考えてみたまえ。―いったい,物事が正しく判定されるためには,何によって判定されなければならないだろうか。経験と,思慮と,言論(理)によってではないだろうか?それとも,これらよりももっとすぐれた判定の基準が何かあるだろうか?」(582A)

とりあえずここで物事の判定基準が導入されます。
それから,「知を愛する者は,利得を得ることがもたらす快楽も知っている」ということも言われます。つまり包含関係ができていて,知を愛する人の経験⊃利得を愛する人の経験,ということのようです。次に続きます。

「では,名誉を愛する人とくらべてどうだろう?はたして後者が知恵をもつ楽しみに無経験である以上に,知を愛する人は名誉を得る楽しみに無経験だろうか?」
「いや,名誉というものは」と彼は言った,「人々がそれぞれ努力の目標としてきたことをなしとげるならば,おのずから彼らのすべてに与えられるものです。じっさい,富者も勇者も知者も,多くの人々から尊敬されることに変りはありませんからね。したがって,名誉を得ることがどのように楽しいかということについては,全部の者がその快楽を経験するわけです。」(582C)

ここで名誉を得る楽しみ(快楽)は,全部の者が知っている,というちょっと意外なことが言われます。具体的に,名誉を愛する人と利得を愛する人の比較がないので微妙ですが,利得を愛する人の経験⊃名誉を愛する人の経験,と言われているように取れます。
順位としては,名誉を愛する人は第2位ということになるので(後で述べられる),経験すべきでないことを経験するのが利得を愛する人…と言えるのでしょうか。まあ世の中,経験したくないとかしないほうがよいことも沢山あるので実感があるところではあります。

「それでは,以上の二点にわたって,以上のようにしてつづけて二度,正義の人は不正の人を打ち負かしたことになるだろう。つぎに三度目はオリュンピアの競技にならって,救い主にしてオリュンピアの神なるゼウスのために,さあ心して見てくれたまえ―思慮ある知者のもつ快楽をのぞいて他の人々の快楽は,けっして完全に真実の快楽ではなく,純粋の快楽でもなく,陰影でまことらしく仕上げられた書割の絵のようなものだということを。このことをぼくは,知者たちの誰かから聞いたことがあるように思うのだ。(583B)」

国制による比較,魂の区分による比較がこれまでになされましたが,次は3つ目として,真実の快楽についての考察がなされます。ここで言われた「陰影でまことらしく仕上げられた書割の絵」という言葉からは,「洞窟の比喩」が連想されます。そこから,イデアへの近さ,という観点なのかなとも思われますが実際にはもっと具体的に論じられます。

「ところで君は」とぼくは言った,「病人たちの言葉を思い出さないだろうか―彼らが病気に悩んでいるときに口にする言葉を?」
「どのような?」
「いわく,『健康であることほど快いものはない。だが病気になる前には,それが最も快いものだということに,自分は気づかずにいた』と」
「そのことなら思い出します」と彼は答えた。
「また,何かひどい苦痛に悩まされている人たちが,『苦痛の止むことほど快いことはない』と言うのを,君は聞かないだろうか?」(583C)

ということで,病気でない,苦痛がない,ということを快いものだと人は考えます。が,実際にはそれは「静止状態」であり積極的な快楽では決してない,とソクラテスは言います。
この手のモチーフはプラトン対話篇ではよく出てきます (例えば『ゴルギアス』)。同じ数直線上に並ぶもので,相対的 (定性的) には方向は合っているが,絶対的 (定量的) にはゼロというか原点の付近であってよい値になっているわけではない,という話でしょうか。

「してみるとそれは,実際にそうであるのではなく,ただそのように見えるだけなのだ」とぼくは言った,「すなわち,静止状態がそのときどきによって,苦と並べて対比されると快いことに見え,快と対比されると苦しいことに見えるというだけであって,こうした見かけのうちには,快楽の真実性という観点からみて何ら健全なものはなく,一種のまやかしにすぎぬということになる」(584A)

相対性ではなく絶対性を追求するプラトンらしい部分です。つまり,「である」のが絶対性,「見える」のが相対性であると思えます。

「しかしながら」とぼくは言った,「肉体を通じて魂にまで届くいわゆる快楽は,そのほとんど大多数のもの,最も主要なものが,この種類に属している。すなわち,いずれも苦痛からの解放と呼ばれてしかるべきものなのだ」
「たしかにそうですね」
「そして,快苦がこれから起ろうとするのに先立って,それへの予期から生じてくる予想的快楽や予想的苦痛もまた,これと同列のものといえないだろうか?」(584C)

大多数が実際は苦痛からの解放である,「肉体を通じて魂にまで届くいわゆる快楽」は具体的にはどういうものがあるのか?怪我や病気からの回復というのは分かりますが。ただここで言おうとしているのは,実は消去法的というか,背理法的なことなのかもしれません。本当の快楽とは知を愛し,真理に近づくことでありそれ以外ではないというような。
予想的快楽 (苦痛) というのも面白いです。日曜日の夜に翌日の仕事のことで憂鬱になったりするものが予想的苦痛でしょうか(笑)。確かに全く相対的なものではあります。

「では,君はどう思うかね―ある人が<下>から<中>へと運ばれるとき,その人は,自分が<上>へ運ばれているとしか考えないのではなかろうか?そして<中>のところに立って,自分がそこから運ばれてきたほうを見やりながら,自分はいま<上>にいるとしか考えないのではなかろうか?もしその人が,ほんとうの<上>というものを見たことがないとすればね」(584D)

これも「洞窟の比喩」を連想しますねえ。

「それならば同様にして,真理に無経験な人たちが,他の多くの事柄について不確かな考えをもつとともに,快楽と苦痛とそれらの中間状態に関してもまた,彼らが苦へと運ばれるときには正しく判断し,そして実際に苦しむのであるが,しかし他方,苦から中間状態へと運ばれるときには,充足と快に到達したとすっかり思い込んでしまうとしても,君はそれを不思議に思うだろうか?ちょうど白色を見たことがない人々が灰色を黒と対比させて眺める場合と同じように,彼らも,真の快楽を知らないために,たんに苦痛がないだけの状態を,苦痛との対比のもとに見ることによってだまされてしまうのだが,君はそのことを驚くだろうか?」(584E)

ということでここまでのまとめのようなことが言われます。
ただ,実際にここで言われるような「真の快楽」,ベクトルの向きが合っているだけではなくて本当にプラスの領域に辿り着くようなものを,達成するのはそう簡単ではないようにも思えます (最初から簡単なんて誰も言ってませんが…)。例えばプラトンが書いたものを読んで,何かしら自分によい影響があったとしても,それは読まない状態から読んだ状態という「相対的なもの」で,つまり良い方向ではあるとしても,絶対的にプラスに辿り着くものなのかどうかなんて分かりません。
それなら,何かしら自分の中から,自ずから生じて来るものがないと,真の快楽とは言えないのでは?と思うわけです。それを「真の快楽を『知る』こと」であると言えるのなら,プラトンの書くことと一致はするのですが。

「つねに不変にして不死なる存在と真理に関連をもつもの,そしてそれ自体もそのような性格で,そのような性格の存在のうちに生じるもののほうが,よりすぐれて存在すると君には思えるだろうか。それとも,片ときも同じ相を保つことのない死すべきものと関連をもつもの,そしてそれ自体もそのような性格で,そのような存在のうちに生じるもののほうだろうか?」
「それはもう」と彼は答えた,「つねに不変なる存在に関連をもつもののほうが,はるかにすぐれています」(585C)

ここの部分は『ティマイオス』などでも言われている「存在と生成」に繋がっていくことですね。哲人政治やイデアの考え方にも通底していて,極めてプラトン的だなあと思います。ただ,今を生きる自分などは,技術の進歩は速く,不変なものなどなく「変化せぬものは変化のみ」というヘラクレイトス・プロタゴラス的な考えにも実感があります。
多分どちらもあり,「不変なものなどない」という達観が思い上がりなのだという気がします。

「こうして,全般的に言って,身体に奉仕する種類のものは,魂に奉仕する種類のものよりも,真理と存在に与る程度が少ないということになるわけだね?」
「ええ,はるかに」
「そして身体そのものについても,魂とくらべて,同じことが言えるとは思わないかね?」(585D)

身体と魂版の「線分の比喩」といえるような内容です。つまり身体の変化するもの(AD)→身体の不変なもの(DC)→魂の変化するもの(CE)→魂の不変なもの(EB),という線分 (AC:CB = AD:DC = CE:EB) ができるのかもしれません。

「したがって,思慮 (知) と徳に縁のない者たち,にぎやかな宴やそれに類する享楽につねになじんでいる者たち,彼らはどうやら,<下> へと運ばれてはまたふたたび <中> のところまで運ばれるというようにして,生涯を通じてそのあたりをさまよいつづけるもののようだ。彼らはけっして,その領域を超え出て真実の <上> のほうを仰ぎ見たこともなければ,実際にそこまで運び上げられたこともなく,また真の存在によってほんとうに満たされたこともなく,確実で純粋な快楽を味わったこともない。むしろ家畜たちがするように,いつも目を下に向けて地面へ,食卓へとかがみこみ,餌をあさったり交尾したりしながら身を肥やしているのだ」(586A)

ここも「洞窟の比喩」が連想されるところですが…。自分はソクラテスが言うことが本当に分かっているのだろうか。結局は自分も<中>と<下>をさまよい続けるだけで終わる人間なのではないか。と思ってしまうところではあります。少し前にも書いたように,本当に <上> を知りたいのなら,繰り返し読んだり考えたりして自分自身から何かが出てくるのを根気よく待つしかないのかなと思います。少なくともプラトンは本気でこれを書いたわけなので,こちらも本気で考えないと不誠実で『国家』を読む意味がありませんが,それでも十分ではないのだと思います。
ともあれ後半部分から,「自分が家畜であってもそれは快楽か」という問いは,非常に印象的です。それが「真の快楽」ではないかどうかの分かりやすい判定方法かもしれません (嫌な判定ですが)。

「ところで君は知っているかね」とぼくはたずねた,「僭主(独裁者)は王とくらべて,どれほど不快な生活を送るかを?」
「教えていただければ,わかるでしょう」と彼は答えた。
「思うに,三つの快楽があるうちで,その一つは本物の快楽であり,あとの二つは贋物の快楽であるが,僭主(独裁者)は法と理とを逃れて,その贋の快楽のさらに向う側にまで超え出たうえで,奴隷の護衛隊にくらべられるような快楽といっしょに暮しているのだ。そして彼がどのくらい劣った生活を送っているかを語るのも,まったく容易ではない。強いて語るとすれば,おそらく次のようなことになるだろう」(587B)

ここで三つの快楽と言われているものは,解説によると,(1)王の快楽,(2)名誉支配制的な人の快楽,(3)寡頭制的な人間の快楽,ということになるようです。
この後,僭主の生活がどのくらい劣っているのかを,プラトン一流の計算が行われた結果,王の方が僭主の729倍快い生活を送っているということが言われます。

「さあ,これでよし」とぼくは言った,「いまやわれわれの議論がこの地点にまで到達した以上,ここでもう一度,最初に語られた言説を取り上げることにしようではないか。われわれがここまでやって来たのも,そもそもはこの言説のためだったのだからね。言われていたことは,たしかこうだった―完全に不正な人間でありながら,世間の評判では正しいと思われている者にとっては,不正をはたらくことが有利である,と。どうだね,このように言われたのではなかったかね?」
「たしかにそうでした」(588B)

変な計算を見せられて疲れてなんかよく分からなくなってきたところで,最初に戻ってきました。

「物語に出てくるような,大昔の怪物のどれか一つを思い浮べてくれたまえ」とぼくは言った,「キマイラとか,スキュラとか,ケルベロスといったようなね。そしてまだほかにも,いくつかの動物の姿が結びついて一つになっている怪物が,たくさんいたと言われている」(588C)

ここから卓越した比喩を使った話が始まります。ここで挙げられている怪物は,ファイナルファンタジー等のゲームをやったことがあればすぐ思い浮かべられますね。
詳細な描写は省きますが,(1)キマイラのような色んな頭を持つ怪物,(2)ライオン,(3)人間の3者が結び付けられ,そしてそれが外側からは1人の人間に見えるような人間(?)が想像させられます。

「さあそれでは,この人間にとって不正をはたらくことが有利であり,正義をなすことは利益にならない,と説く人に対して,われわれは,その主張の意味するところはまさしく次のようなことになるのだと,言って聞かせることにしようではないか。―すなわちこの人間にとっては,かの複雑怪奇な動物とライオンと,ライオンの仲間どもに御馳走を与えてこれを強くし,他方,人間を飢えさせ弱くして,動物たちのどちらかが連れて行くままにどこへでも引っぱられて行くようにしてしまうこと,そして二つの動物を互いに慣れ親しませて友愛の関係に置くことなく,動物たちが相互の間で噛み合い闘い合って,互いに相手を食い合うがままにさせておくこと,このようなことが利益になるのだとね」(588E)

特に書かれていませんが,前述した3つが,「欲望的部分」「気概的部分」「理知的部分」を表していることは明らかです。そして不正が有利であるということは,内なる人間は他の2者の思うがままになってしまうと…。比喩は卓抜で,直感的ではあるのですが,前から同じことを何度も言われているという気もしないでもありません。

「では他方,正義が有利であると説く人の主張は,われわれが言行ともに次のことを目ざさなければならないのだ,ということにほかならないのではなかろうか?―すなわち,内なる人間こそが最もよく人間全体を支配して,かの多頭の動物をみずからの配慮のもとに見守り,ちょうど農夫がするように,穏やかなものはこれを育てて馴らし,野生の荒々しいものは生え出ないように防止し,ライオンの種族を味方につけ,そして動物たちを,お互いに対しても内なる人間自身に対しても友愛の関係に置いたうえで,その全部を共通に気づかいながら,そのようにして養い育てることができるようにしなければならないのだと」(589A)

前の箇所の対句的な部分です。内なる人間が全体を支配する,というのは当然の流れです。他に「穏やか」「友愛」という言葉も目を引きます。少し後ですが,「醜い事柄とは,穏やかな部分を野獣的な部分の配下に従属させるような事柄ではないだろうか?」(589D)ともあります。

「だとすれば,あらゆる点からみて,正義を讃える人の説くところは真実であり,不正を讃える人の説くところは誤りであることになるだろう。なぜなら,快楽のことを考えてみても,評判や利益のことを考えてみても,正義の礼讃者は真実を語っているのに対して,正義をけなす人の言い分には何ひとつ当っているところがないし,またそもそも,自分が何をけなしているかを知らずにけなしているのだからね」(589C)

ここは正直難しいと思いました。全体の流れからすると当然ではあるのですが。また大勢に影響がある箇所でもないと思いますが。「正義の礼讃者が,自分が何を讃えているのかを知らずに讃える」ということはないのでしょうか。全体に言えることだと思いますが,プラトンの言うことは,細い針金の上をちゃんと通れる人にとって正しい,通れない人 (それが本当は大多数のはず) のことが考えられていない,という感じはあります。

「それなら」とぼくはつづけた,「そのように考えるならば,誰にせよ,不正に金を受け取ることが利益になるということが,そもそもありうるだろうか―もしその結果として,金を受け取ることによって同時に自分のうちの最善の部分を,最もたちの悪い部分の奴隷としてしまうことになるのだとしたら?
いいかね,もし金を受け取ることによって,息子なり娘なりを奴隷に―それも野蛮で悪い男たちの奴隷に―することになるとしたら,たとえそのために,巨万の富を手に入れたとしても,けっしてその人の利益になるとはいえないだろう。それなのに,自己の内なる最も神的なものを,最も神と縁遠い最も汚れた部分の奴隷として,何らいたましさを感じないとしたならば,はたしてそれでも彼は,みじめな人間だとはいえないだろうか?その人は,夫の命と引きかえに首飾りを受けとったエリピュレよりも,もっとはるかに恐ろしい破滅を代償に,黄金の贈物を受け取ることにならないだろうか?」(589D)

もしここに書かれているようなことに肯定できないなら,プラトンは合わないでしょうね。あるいは「哲学」という学問の視点でも特に目を瞠るべき部分ではないでしょうが。私は2,400年も前にプラトンがこれを書いていたということに,人として救いを感じます。

「また下賤な手細工仕事や手先の仕事といったものが,なぜ不名誉なものとされると思うかね?それはほかでもない,その人がもっている最善の部分が生まれつき弱くて,自分の内なる獣たちを支配する力がなく,仕えることしかできないようになっていて,ただ獣たちにへつらうことだけしか学ぶことができないような場合,ただそのことのためであると,われわれは言うべきではないだろうか?」(590C)

手細工仕事,手先の仕事が下賤で不名誉だと言われています。これは,皮革細工などがそういう扱いを受けている時代を連想しました。ただ現代では,実際にはもっと広義の労働者階級といえるのでしょう (当然自分も含まれる)。被支配者→自分を支配することができない,というレッテルを貼られるのは悔しいですが。まあ時代の違いもあるでしょう。

「そして明らかに」とぼくは言った,「法律というものも,国民すべての味方として,そのような意図をもっているのだ。子供たちを支配することもまた同じ。すなわち,われわれは同じこの意図のもとにこそ,子供たちの内部に―ちょうど国家の場合と同じように―ひとつの国制をうち立てるまでは,彼らを自由に放任することをしない。そして,彼らの内なる最善の部分をわれわれの内なる最善の部分によって養い育てることにより,同じような守護者と支配者を代りに子供のなかに確立してやって,そのうえではじめて,放免して自由にしてやるのだ」(590E)

子供たちを支配する,というのは教育と言い換えられると思いますが,「教育は法律と同等」ということになります。これは思わず唸りました。大人と子供も国家に見立てると。日本国の各地の教育委員会とかが喜びそうな話です。

「またどうして,不正をはたらきながら人に気づかれず,罰を受けないことが利益になると主張できるのだろうか?むしろ,真実はこうではあるまいか。―すなわち,不正が人目を逃れた者は,さらにいっそう悪い人間となるが,他方,人に気づかれて懲らしめを受ける者の場合は,その人の内なる獣的な部分が眠らされて穏やかになり,おとなしい部分が自由に解放される。」(591A)

「罰を受けることが利益」というのは『ゴルギアス』にも同様のことが書かれていました。

「つぎに,そのような人は」とぼくは言った,「身体の状態や養育を獣的で非合理な快楽に委ねて,そこにのみ関心を向けて生きる,というようなことをしないのはもちろん,健康を目標とすることさえなく,どうすれば強壮になり健康になり美しくなるかというようなことにしても,そのことから思慮の健全さが得られると期待できるのでないかぎりは,これを重要視することもないだろう。彼はつねに,魂の内なる協和音をもたらすためにこそ,身体の内なる調和をはかるのが見られるだろう」(591C)

私がダイエットや健康食品に飛びつく人に対して持っている意見と似ています(笑)。本当の健康というのは外面的なものではなく,魂に従属すると考えれば自然なことではあります。

「むしろ彼は」とぼくは言った,「自己の内なる国制に目を向けて,みずからの国制のなかにあるものを,財産の多寡によって,いささかでもかき乱すことのないように気をつけながら,できるかぎりこのような原則にもとづいて舵を取りつつ,財産をふやしたり消費したりすることだろう」(591E)

御意。

「するとそのような人は」と彼は言った,「国の政治に関することを,すすんで行なおうという気持にはならないでしょうね。もしもいま言われたようなことに,もっぱら気を使うのだとしたら」
「いや,犬に誓って」とぼくは言った,「自己自身の本来の国家においてならば,大いにその気持になるだろう。ただし現実の祖国においては,おそらくその気にならないだろうけれども。何か神の計らいによって,たまたまそういう機会が与えられるのでもないかぎりはね」(592A)

結局この「誰が政治家になるんだ問題」になります。第5巻での哲人政治論が想い起こされますが,ここでは現実の国家においては率直に降参してしまっています。これが,プラトンが現実の人生でここまで辿ってきたすえの政治に対する諦念である,と考えると重い言葉です。今現在の世界の国家に対しても,プラトンはどう言うでしょうか。

「だがしかし」とぼくは言った,「それはおそらく理想的な範型として,天上に捧げられて存在するだろう―それを見ようと望む者,そしてそれを見ながら自分自身の内に国家を建設しようと望む者のために。しかしながら,その国が現にどこかにあるかどうか,あるいは将来存在するだろうかどうかということは,どちらでもよいことなのだ。なぜなら,ただそのような国家の政治だけに,彼は参加しようとするのであって,他のいかなる国家のそれでもないのだから」
「当然そのはずです」と彼は答えた。(592B)

洋画のラストで俳優が語るセリフのような(いや洋画なんて滅多に見ないのでイメージですが…),すごいカッコいいフィナーレで第9巻が終わります。狭義には(第10巻はやや独立的な内容なので)これが『国家』自体のフィナーレで,第10巻は後日譚的なものと見ることもできるかもしれません。ここまで述べられた国家というものそれ自体も実はイデアである,という種明かしだった,という見方もできるのかもしれませんね。

ということで第9巻は以上。これで一応,第2巻以来の「不正は正義より得なのか?」という問いの答えになった,ということになるのだと思いますが (第10巻でも正義については言われます),読む人はこれで納得できるのでしょうか?…私は正直よく分かりませんでした(長かったというのもありますが)。結局のところ,「不正をなしたことに対する罰を与えることがその人にとって善である」ことを肯定するとか,そういう割と論理的というよりは寧ろ倫理的・宗教的に近い部分が土台になっているようにも思われるため,明確に「証明終わり」という感じはしませんね。
それでもプラトンが書こうとしたことは多少分かるつもりです。或いは真剣に向き合うことがこの『国家』を読む価値なのだろうと思います。プラトンにとっては常に,言葉で説明することの限界との闘い,ではなかったかと思います。

次回は第10巻。

プラトン『国家』第九巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第九巻を読んだときのメモ第1弾。

第八巻で,国制の話がなされ,<優秀者支配制><名誉支配制><寡頭制><民主制><僭主独裁制>について順に論じられましたが,<僭主独裁制>は途中までだったため,この第九巻はその続きから始まります。

長かった『国家』も,哲人政治,イデア (3つの比喩),国制といったヤマ場を越えながら段々収束に向かっていきます。序盤に張った伏線も少しずつ回収されているといった感もあります (といっても私自身も序盤をだいぶ忘れていますが)。
このメモも,だいぶ途中の中断が長かったりしましたが,多少力を抜いて終わりまで行ければと思います。

以下は読書時のメモです。

「ところで」とぼくは言った,「なおまだ物足りないと感じる点があるのだが,何かわかるかね?」
「どんな点でしょう?」
「欲望に関することだ。どれだけの数のどのような欲望があるかということを,われわれはまだじゅうぶん確定的にとらえていないような気がする。この点が不完全のままだと,われわれが目標としている問題の探求も,それだけ不明確なものとなるだろう」(571A)

僭主独裁制的な人間の考察の前に,欲望に関する話が入ります。第八巻でも,民主制の考察の谷間に「必要な欲望」「不必要な欲望」についての補題が入りましたが,その続きのような話です。

「不必要であるような快楽と欲望のうちには,不法なとも呼ばれるべきものがあるように思われる。そうした欲望はおそらく,すべての人の内に生まれついているものなのだが,しかし法によって懲らしめられ,また知性に助けられた他のより良い欲望にたしなめられて,ある人々の場合にはすっかり取り除かれ,残ったとしてもわずかで力の弱いものとなる。」(571B)

「眠りのうちに目覚めるような欲望のことだ」とぼくは言った,「すなわちそうした欲望は,魂の他の部分,理知的で穏やかで支配する部分が眠っているとき,他方獣的で猛々しい部分が,食物や酒に飽満したうえで,跳びはねては眠りを押しのけて外へ出ようと求め,自分の本能を満足させることを求めるようなときに,起るものだ。」(571C)

誰にでも恐ろしい欲望はあるが,それは法や知性によって抑制されると言われます。その欲望は「眠りのうちに目覚める欲望」だという言い方がされます。結構省略していますがこの後で,前に出てきた魂の理知的部分,欲望的部分,気概的部分をよく呼び覚まして眠ればそれは起きないということが言われます。

「しかしわれわれはこうした話に少し深入りしすぎて,わき道にそれてしまった。われわれが知りたいとのぞんでいる肝心の点は,要するに,各人の内にはある種の恐ろしい,猛々しい,不法な欲望がひそんでいて,このことは,われわれのうちできわめて立派な品性の持主と思われている人々とても例外ではないということ,そして,夢の中では,この恐ろしい欲望が明らかに現われること,こういうことなのだ。(572B)」

丸々3章分わき道にそれたりしていたわけで(五~七章),この位普通だと思いますがともあれ今回はすぐ軌道修正します。『歎異抄』の中で「さるべき業縁のもよほさば,いかなるふるまひもすべきとこそ」(第十三条)という言葉がありますが,誰にでも恐ろしい欲望が眠っていてそれがふと表に出るのではと恐れる点は似ているかもしれません。

「ではふたたび」とぼくは言った,「そのような人間がすでに年を取ったとき,彼に若い息子がいて,こんどは彼の習性のなかで育てられた場合を想定してくれたまえ」
「想定します」
「そしてさらに,ちょうど父親の身に起ったのと同じことが,この息子の場合にもくり返されるものと想定してくれたまえ。すなわちこの息子は,あらゆる不法のかぎりへ,誘惑者たちが全き自由と呼ぶところの生き方への,誘い導かれるのであるが,ここで,父親とその他の身内の者たちは先の中間的な欲望を支援し,他方誘惑者たちはこれに対抗して,反対の側を支援するというわけだ。」(572D)

ということで名誉支配性→寡頭制や,寡頭制→民主制と同じ道を辿ります。殆ど省略しますが,親の財産を取り上げたり,暴力を振るうといったようなどうしようもない息子の姿が描かれます。

「昔から恋の神エロースが独裁君主だと言われているのも」とぼくは言った,「こういう事情のためではないだろうか?」(573B)

「そして,わがよき友よ」とぼくは言った,「言葉の厳密な意味において僭主独裁制的な人間が出来上るのは,人が生まれつきの素質によって,あるいは生活の習いによって,あるいはその両方によって,酔っぱらいの特性と,色情的特性と,精神異常的特性とを合わせもつに至ったときなのだ」
「完全にそのとおりです」(573C)

例によって民主制的な人間の中に葛藤がある中で,「彼の内にひとつの恋の欲情を植えつけて…指導者として押し立てようとはかるのだ」(572D) と言われたため,エロースが独裁君主だと言われているようです。恋が理性を狂わせるというのはいくらでもありそうな話ですが,民主制→僭主独裁制の決め手が「恋」であるというのは唸ります。ただどちらかというと,欲望を呼び起こす最強のところのものが「恋」ということで所謂恋愛とは限らないのでしょう。(不必要な)欲望の源泉を「恋」と仮定することはなかなかないと思われるので印象に残ります。
いずれにせよ,誰でもが持っている欲望が呼び起された時に僭主独裁制的な人間になる,というのは怖い話です。

「彼らの内におびただしく孵化したはげしい欲望どもが叫び出し,そして彼らは,いわば他のさまざまの欲望に針を突きたてられるかのごとく,とりわけ,他のすべての欲望を護衛隊として従える恋の欲情そのものによって追いたてられるようにして,荒れ狂いながら,だまし取ったり力ずくで奪い取ったりすることのできる物持が誰かいないものかと,探しまわるのではないだろうか」(573E)

僭主独裁制的な人間がどうなるかですが,ここでも「恋」が出てきました。僭主独裁制のキーワードは「恋」なのでしょうか。

「何ともまあ」とぼくは言った,「僭主的な息子を生むということは,幸せなことのようだね!」
「ええ,まったく」と彼。(574C)

またソクラテスのこの手の皮肉というかボケのやり取りが出てきます。

「これらの考えは,以前,彼自身がまだ法と父親の規制下にあって自分の内に民主制を保っていたころは,睡眠中に夢のなかで解放されるだけのものであった。しかし,恋の欲情の僭主独裁制に支配されるに至って,いまや彼は目覚めながらつねに,かつて時たま夢のなかでしかならなかったような,まさにそのような人間になりきってしまって,どのようなおそるべき殺人からも,おそるべき食い物からも,おそるべき行為からも,身を引くことがなくなるだろう。恋の欲情は彼の内なる僭主(独裁者)として君臨しつつ,ありとあらゆる無政府状態と無法状態のうちに生き,恋自身が独裁者であるがゆえに,いわば国家に相当するところの,その欲情を内にもつ人間を導いて,あらゆる恥しらずのことを行なわせるだろうし,そうすることによって自分と自分を取り巻く騒々しい一団を養って行くだろう。」(574E)

僭主独裁制的な人間の行き着く先がまとめられているような箇所です。繰り返しではありますが,自分に眠る欲望が解放されることの恐ろしさを思わされます。

「それでは」とぼくは言った,「個人としての人間の判定にあたっても,それと同じことを要請するならば,ぼくは正当な要請をしたことになるだろうね。人間について判定する資格のあるのは,ただ,思惟によって人間の品性の内にまで入り込んで見抜く能力のある人,けっして子供のようにただ外から眺めて,独裁政権が外の人々に対して装っている華麗な見せかけによって目を眩まされることなく,じゅうぶんに見抜くような人だけであると,こう主張してよいだろうね?
ぼくとしては,われわれすべてはそのような人の言うところを聞かなければならないと思うのだが,どうだろう?すなわち,われわれが耳を傾けるべき人は,そうした判定能力をもつ上に,僭主と同じ屋根の下に暮したことがあって,家における彼のさまざまの行動に立ち合い,身内の者のひとりひとりに対して彼がどのような態度をとるかに親しく接したことのある人―けだし身内の者たちの中にいるときこそ,舞台用の衣装を脱いだ裸の姿が最もよく見られるだろうからね,―そしてまた公の場において危険に臨んだときの振舞にも,居合わせたことのある人でなければならない。」(576E)

前半は,話の流れとしては当然という感じでプラトンらしい書き方ですが,こういう人が人間について判定する資格がある,というのが自明なのかどうかはよく分かりません。
後半の部分は,第7巻で言われた「幸福者の島」から出てきた人という意味でしょうか。もしくは「洞窟の比喩」において一度外に出た後再び中に戻ったことのある人とも言えるかもしれません。。

「しかるにまた,僭主の独裁のもとに奴隷の状態にある国家は,自分の望む通りのことを行なうということが,最も少ないのではないかね」
「ええ,それはもう」
「してみると,僭主の独裁下にある魂もまた,魂全体について言えば,自分の望み通りのことを最もなしえない,ということになるわけだ。そのような魂は,たえまなく欲望の針によってむりやりに引きまわされて,騒乱と悔恨に満たされていることだろう」(577D)

国家のありようと,その支配者 (=ここでは僭主) の内面 (魂) は似たものであるということが言われた後で上のようなことが言われます (そもそも『国家』の第2巻以降では個人としての正義を考察するために,それよりマクロな人の集まり~国家を考えたのでした)。普通に考えると,例えばブラック企業のトップは社員から搾取して自分はのうのうと贅沢をしていて幸福といえるように思えますが,まあ現代の経済至上主義ではそれはそれで勝ちかもしれませんが,結局は自分の欲望を他人の犠牲に転嫁している時点で実は依存関係が逆転していて,ある種の束縛なのでしょう。

「しかし,こんどは個人としての僭主独裁制的な人間について,君は同じそうしたことに着目しながら,どのように言うだろうか?」
「他のさまざまの人間すべてのうちでも」と彼は答えた,「際立って最もみじめな人間であると」
「その点になると」とぼくは言った,「もはや君の言うことは正しくない」
「どうしてですか?」と彼はたずねた。
「そういう人は」とぼくは言った,「まだ最もみじめな人間であるとはいえないように思うのだがね」(578B)

「それはね」とぼくは言った,「もともと僭主独裁制的な性格の人間である上に,私人としての生活にとどまりつづけることができず,運悪く何かの不幸なめぐり合わせによって,みずからが実際に僭主(独裁者)となる羽目になった人のことだよ」(578C)

僭主独裁制的な人間が最悪ではない,というのは驚くところです。じゃあ何が最悪なのかというと,実際に僭主になった僭主独裁制的な人間と。ちょっと混乱します。角度にラジアンが導入されて,数値に使われていた π がいきなり角度に入ってきたというような感覚です。

「ではどうだろう,―かりにいま,ある神が,50人あるいはもっと多くの奴隷を所有している一人の男を,彼自身と妻子ともども国家のなかから選び出して,自由人の誰ひとりとして彼を助けに来るはずのないような寂しい場所へ,他の財産や召使たちといっしょに置き去りにしたと想像してみよう。そうなったときその男は,召使たちに殺されはしないかと,自分と子供たちと妻の身についてどのように恐れ,どれだけの恐怖におちいるだろうと思うかね?」(578E)

ここはちょっと怖いです。実際に私人として多くの奴隷をかかえているような人 (つまり僭主独裁制的な人間) が,独裁者的な立場においやられていく過程です。「自由人の誰ひとりとして彼を助けに来るはずのないような寂しい場所」でなければ,僭主独裁制的な性格であっても自分の奴隷から反逆されないと少し前に言われていて,それは国家が一般市民を保護しているからと言われています。ただ,今の視点でいえば,反逆が起きた方が寧ろ民主的であるという気もするのですが。

「それでは,僭主(独裁者)とは,まさにそれと同じような一種の牢獄の中に縛られているのではないだろうか―生まれつきわれわれが述べたような性格で,多くのありとあらゆる恐怖や欲情に満ち満ちている人間としてね。」(579B)

やっぱり僭主(独裁者)というのは人の怨みの上に立っているのが違う所だと思わされる一連の流れです。実際の所,誰か他の人を自分と同等に信用するのであればそれは僭主にはならないはずで,逆にそうでないということは常に出し抜かれる緊張を強いられるということでしょう。

「してみると,たとえそう思わない人がいたとしても,真実には,正真正銘の僭主(独裁者)とは,じつに最大のへつらいと隷属を行なうところの,正真正銘の奴隷なのであり,最も邪悪な者たちに仕える追従者にほかならないのだ。彼は自分のさまざまの欲望をいささかでも充足させるどころか,最も多くのものに不足していて,魂の全体を見てとる能力のある人の目には,真実には貧乏人であることが明らかだろう。」(579D)

奴隷(のような民)を所有している僭主が,正真正銘の奴隷だ,というのはパラドックスにも思えます。ここまで読んでいれば当然のようではあり,上にも引用してきたように僭主の魂は隷属状態だと言われています。

「『アリストンの息子は,次のように判定を下した。―最もすぐれていて最も正しい人間が最も幸福であり,そしてそれは,最も王者的で,自己自身を王として支配する人間のことである。他方,最も劣悪で最も不正な人間が最も不幸であり,そしてそれは,最も僭主独裁制的な性格である上に,自己自身と国家に対して,実際に最大限に僭主(独裁者)となる人間のことである』」(580C)

王者支配制的な人間から僭主独裁制的な人間までの5人で,「誰が何位か」という順位付けがされることになり,上記のようなことが言われます (ソクラテスが,こう布告しようか,という形で言うので二重括弧になっています)。最もすぐれた人間は王者であり,かつ自分自身を支配しているというのは前にも述べましたが『大学』の「国を治めるには家を治め,家を治めるには自己を治める」というような一節を連想します(ちょうど父親との関係にも例えられますしね)。

「さらにその布告につけ加えて,こう言い渡してもよいかね?」とぼくは言った,「『たとえすべての人間と神々に,そのような性格の人間であることが気づかれようと気づかれまいと,このことに変りはない』と」(580C)

この付け足しは肝要なところです。「気づかれようと気づかれまいと」というのは,第二巻で「正義や不正という,評判や,周りからどう映るかではなく,正義そのもの」が一体どんな利益があるか,というところから長い長い話が始まったからです(366E 辺り)。

というわけで,第二巻で提示され,その後の長い道を歩むことになった元の命題について,やっと答えらしきものが出てきました。といっても命題自体を忘れてしまったりするほど色々ありましたが…。尤も,答えは名言されなくても,実はずっとソクラテスの土俵で,その答えを前提にした対話が展開されてきたという感じもします。

続きはメモ第2段にて。

プラトン『国家』第八巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第八巻を読んだときのメモ第2弾。

メモ(1)では,<名誉支配制>,<寡頭制>についての国制の成り立ちと,それぞれの国制に対応した人間についての描写の部分を書きましたが,続きである今回は<民主制>と<僭主独裁制>の部分です。
<民主制>については,日本を含めた現代の国家に当てはまる国制なので,実感があります。特に「民主制は自由を善としている」という,現代でも通用する姿を鮮やかに描き出しています。

なお,本文でソクラテスは,あたかもフィクションのように各国制を(<名誉支配制>については「スパルタのような」と明示しています)述べていますが,実際にはモデルとなった国家ないし指導者があったようで,脚注によると<民主制>はアテナイ,<僭主独裁制>はシュラクサイ旅行時のデュオニュシオス一世の治世をある程度モデル化していたのではないかとのこと。つまり<優秀者支配制>こと哲人政治の時のような完全に観念的なモデルと並列に考えると少し無理があり,現実ありきになっている可能性はあると思います。

以下は読書時のメモです。

「それでは,つぎにどうやら<民主制>について,それがどのようにして生じ,生じてからどのような性格をもつかを,考察しなければならないようだ。そのあとでまた民主制的な人間の性格を学んで,これを他と比較判定することができるようにね」(555B)

ということで,いよいよ我らが?民主制の考察になります。

「そこで,寡頭制国家においてその支配者たちは,まさにそのような怠慢な態度で放埓な浪費を許しておくことによって,しばしば凡庸ならざる生まれの人々を貧困へと追い込むのだ」(555D)

「し かも彼らには」とぼくは言った,「このような禍いが燃え上ろうとするとき,先に触れたようなやり方でこれを消し止めようという気はないのだ―つまり,自分の財産を好きなように処分するのを禁止することによってね。さりとてまた,このような事態を解決するための別の法律に訴えるというやり方をも,とろうとし ない」(556A)

<寡頭制>→<民主制>にはどうやって変化するか,というテーマですがこの辺りはまだ寡頭制国家の説明になっています。寡頭制国家では,民の放埓を放置して,支配者がその富を奪う,ということが言われます。

「危険のさなかにあってお互いを観察し合うような機会があるとしたならば,そのような条件のもとでは,貧乏な人々が金持 たちから軽蔑されることはけっしてないだろう。むしろ逆に,しばしば瘠せて日焼けした貧乏人が,戦闘に際して,日陰で育ち贅肉をたくさんつけた金持のそば に配置されたとき,貧乏人は金持がすっかり息切れして,為すすべもなく困り果てているのを目にするだろう。―このような場合,彼は,そんな連中が金持でい るのは自分たち貧乏人が臆病だからだ,というように考えるとは思わないかね?そして自分たちだけで集るときに,『あの連中はわれわれの思いのままになる ぞ。何の力もないのだから』ということを,お互いに口から口へと伝えひろめて行くとは思わないかね?」(556D)

この辺りでついに民衆の逆襲が始まります。民主制の萌芽ですが,武力に訴えて立場を逆転させます。まあ武力というか,寡頭制の支配者は金の亡者という設定なので,金がない状況でそれ以外の部分で勝負すれば勝つというのはある意味当然ではあります。

「そこで,思うに,貧しい人々が闘いに勝って,相手側の人々のうちにある者は殺し,あるものは追放し,そして残りの人々を平等に国制と支配に参与させるようになったとき,民主制というものが生まれるのだ。そして大ていの場合,その国における役職は籤で決められることになる」
「事実たしかに」と彼は言った,「それが民主制の成立次第です―武力によって達成されるにせよ,他方の側の人々が恐れて退くことによって達成されるにせよ」(557A)

「大ていの場合,役職は籤で決められることになる」というのが本来の民主制を思わせます。確か昔の歴史の資料で見たのが,市民全体が参加する直接民主制のギリシャの議会の図ですが,それは流石に無理があるとして,ランダムに議員を選べば精度は落ちますが理念は引き継げるのかもしれません。

「ではまず第一に,この人々は自由であり,またこの国家には自由が支配していて,何でも話せる言論の自由が行きわたっているとともに,そこではなんでも思いどおりのことを行なうことが放任されているのではないかね?」(557B)

ここの部分ですが,当然のことが書かれていると一見思いましたが,考えてみると民主制が「第一に自由」と言えるような根拠って一体何なんでしょう?別の言い方をすると,<寡頭制>と<僭主独裁制>に挟まれた<民主制>に自由の極値が存在するのは何が理由なのでしょう?
「権力者に支配されていない状態では自由が最大になる」と仮定すれば,その通りかもしれません。

「おそらくは」とぼくは言った,「これはさまざまの国制のなかでも,いちばん美しい国制かもしれないね。ちょうど,あらゆる華やかな色彩をほどこされた色とりどりの着物のように,この国制も,あらゆる習俗によって多彩にいろどられているので,この上なく美しく見えるだろう。そしてたぶん」とぼくはつづけた, 「ちょうど多彩の模様を見て感心する子供や女たちと同じように,この国制を最も美しい国制であると判定する人々も,さぞ多いことだろう」(557C)

人々が自由で多様な国制であると言われます。これは今でも全く当然の理念だと考えられていると思います。ここで言われている「美しい」という言葉は,ソクラテス自身は『饗宴』などでおなじみの「美」とは異なる意味で,やや皮肉的に使っているとは思いますが。日本国で一時期言われていた「美しい国」というのともまた違うのでしょう。

「この国は,その放任性のゆえに,あらゆる種類の国制を内にもっているからだ。おそらく,われわれがいまこころみていたようにして国家を建設しようと思う者は,ちょうど国制の見本市へ出かけて行くように,民主制のものにある国家へ行って,どれでも自分の気に入った型のものを選び出したうえで,その見本に従っ て国家を建設しなければならないのかもしれない」(557D)

個別には様々な国制を内包していると言われます。確かに高徳な人もいれば堕落した人もいて法に触れなければ皆生活を許されています。そうすると全体として見ると,全てが互いに打ち消し合って零ベクトルのようなものになりますが,これが民主制の殆ど定義のようにも思えてきます。つまり足し合わせると 0 になるからこそ自由ということが言えるかもしれません。

「それに,この国制がもっている寛大さと,けっして些細なことにこだわらぬ精神,われわれが国家を建設していたときに厳粛に語った事柄に対する軽蔑ぶりはどうだろう!すなわち,われわれはこう言った―とくにずば抜けた素質をもつ者でもないかぎり,早く子供のときから立派で美しいことのなかで遊び,すべて立派で美しい仕事にはげむのでなければ,けっしてすぐれた人物とはなれないだろう,と。すべてこうした配慮を,この国制は何とまあ高邁なおおらかさで,足下に踏みにじってくれることか。ここでは,国事に乗り出して政治活動をする者が,どのような仕事と生き方をしていた人であろうと,そんなことはいっこうに気にも留められず,ただ大衆に好意をもっていると言いさえすれば,それだけで尊敬されるお国柄なのだ」(558B)

と,当然こういう話になると思います。支配者になる人間になるための教育などを論じ,「徳による治世」の国家を目指してきたソクラテスとしては,そんなものいらんという国制には我慢ならないでしょう。
「ただ大衆に好意をもっていると言いさえすれば,それだけで尊敬される」というのは日本のいわゆる「選挙対策」の政策などを彷彿させます。

「ところで,君さえよければ」とぼくは言った,「われわれが暗闇のなかで手探りの議論をするようなことのないように,まずはじめに,<必要な欲望>と<不必要な欲望>とを,はっきりと規定しておくことにしようか?」(558D)

民主制的な人間は,どう生じるか,ということを話す場面ですが,ここでプラトンの対話篇らしい,本題の流れを中断した補題が入ります。<必要な欲望>と<不必要な欲望>についてですが,この中身については大体想像の通りなので割愛します。

「それならまた,われわれがさっき雄蜂と呼んでいた人間とは,ほかでもない,そのような快楽と欲望に満たされていて,<不必要な欲望>に支配されている人間のことを言っていたわけだね?他方,<必要な欲望>に支配されている人が,けちで寡頭制的な人間にほかならないわけだね?」 (559C)

雄蜂と呼んでいた人間,というのは結構前に出てきたのですが,金を浪費して尽きても働かない人間というような感じだったと思います。<必要な欲望>に支配されているのがけちで寡頭制的な人間,というのは必要なものに関しては必要最低限のコストしかかけない,ということでしょうか。というよりは金銭勘定をしている時点で支配されているということなのかもしれません。

「ひとりの青年が,さっきわれわれが言っていたように,教育をかえりみず万事物惜しみする環境のなかで育てられたのち,ひとたび雄蜂どもの与える蜜の味をおぼえたとき,そしてそういう烈しく恐ろしい動物たちと―彼らは多彩にして多様な,あらゆる種類の快楽を提供するすべを心得ているのだが,そういう動物たちと―交わるようになったとき,おそらくそのときにこそ,彼自身の内なる寡頭制が民主制へと移行する,その変化の始まりがあるのだと思ってくれたまえ」(559D)

ここからの民主制的な人間の成り立ちは非常に面白いです。

「こうしてついには,思うにそれらの欲望は,青年の魂の城砦 (アクロポリス) を占領するに至るだろう。学問や美しい仕事や真実の言論がそこにいなくて,城砦が空になっているのを察知するからだ。これらのものこそは,神に愛される人々の心の内を守る,最もすぐれた監視者であり守護者でもあるのに」(560B)

「雄蜂」たちと付き合うようになっても,元々の寡頭制的な性格との葛藤がある,ということも描かれますが,結局は大群に押し切られます。というよりも寝返られて防衛する勢力が無くなるという形で描かれるのが面白いです。

「こうして,<慎み>を『お人好しの愚かし さ』と名づけ,権利を奪って追放者として外へ突き出してしまうのをはじめ,<節制>の徳を『勇気のなさ』と呼んで,辱しめを与えて追放 し,<程のよさ>と締りのある金の使い方を,力を合わせてこれを国境の外へ追い払ってしまうのではないかね」(560D)
「そしてこのまやかしの言論たちは,それらの徳を追い出して空っぽにし,自分たちが占領して偉大なる秘儀を授けたこの青年の魂を洗い浄めると,つぎには直 ちに,<傲慢><無統制><浪費><無恥>といったものたちに冠をいただかせ,大合唱隊を従わせて輝く 光のもとに,これを追放から連れ戻す。<傲慢>を『育ちのよさ』と呼び,<無統制>を『自由』と呼び,<浪費>を 『度量の大きさ』と呼び,<無恥>を『勇敢』と呼んで,それぞれを美名のもとにほめ讃えながら―。」(560E)

ここで一旦城を奪われます。不必要な欲望,に完全に占領されてしまったようですが,続きがあります。

「もし彼が幸運であり,度はずれの熱狂にかられるようなことがなければ,そして年を取って行くおかげもあって,大きな騒ぎが過ぎ去ったのに,追放されたものたちの一部分をふたたび迎え入れ,侵入してきたものたちに自分自身を全面的に委ねることがないならば,その場合彼は,もろもろの快楽を平等の権利のもとに置いたうえで暮して行くことになるだろう。すなわち,あたかも籤を引き当てるようにしてそのつどやってくる快楽に対して,自分が満たされるまでの間,自分自身の支配権を委ね,つぎにはまた別の快楽に対してそうするというように,どのような快楽をもないがしろにすることなく,すべてを平等に養い育てながら生活するのだ」(561B)

ということで,ここに今までの話が結実し,民主制的な人間が見事に描き出されました。また「平等」というこれも民主制を象徴すると思われる言葉は,色んな快楽に対して選り好みせずにすべて等しく認める,ということに帰着しました。言葉として言われると新鮮ですが,これは現代でも実感できるように思えます。
多様な人がいるのが民主制の特徴だと思いますが,これが「平等だから」というのが面白い所です。平等だからバラバラで,足し合わせる (平均を取る) とゼロになるというブラウン運動のようで,ある意味では自然な状態という感じもします。

「ただし,真実の言論 (理) だけは」とぼくは言った,「けっして受け入れず,城砦の見張所へ通すこともしない―かりに誰かが彼に向かって,ある快楽は立派で善い欲望からもたらされるものであるが,ある快楽は悪い欲望からもたらされるものであって,前者のような快楽は積極的にこれを求め尊重しなければならないが,後者のような快楽はこれを懲らしめて屈従させなければならない,と説き聞かせることがあってもね。そういうすべての場合に彼は,首を横にふって,あらゆる快楽は同じような資格のものであり,どれもみな平等に尊重しなければならないと,こう主張するのだ」(561B)

1つ前の言葉とセットになると思いますが,快楽に対して善悪の判断をしないということが言われます。平等であることの弱点も言い当てているかのようです。
善悪では判断しない,なかんずく「真実の言論は決して受け入れない」というのは改めて言われると結構ショックではあります。ただ別にそれ即ち悪に走るわけでもありませんし,背景には「法」というものの存在が前提にされているのだろうと思います。ここに限りませんが,背景に「法」というものをどの位見るかでプラトンの読み方が変わってくるのかもしれません (その意味では我ながら「法」というものがあまり意識に根付いていません…)。

「こうしていまや」とぼくは言った,「かの最も美しい国制と最も美しい人間について述べることが,われわれの仕事として残されているということになろう。すなわちそれは,<僭主独裁制>と<僭主>(独裁者)だ」(562A)

僭主独裁制を「最も美しい」,というような言い回しはよく出てきますね。

「ところで,寡頭制から民主制が生じてくる過程と,民主制から僭主独裁制が生じてくる過程とは,ある意味で同じ仕方によるとはいえないだろうか?」
「どのような意味で?」
「寡頭制的な人々が目標として立てた善」とぼくは言った,「そして寡頭制国家がそれゆえに成立したところの要因,それは<富>であった。そうではないかね?」(562B)
「そこでまた,民主制国家が善と規定するところのものがあって,そのものへのあくことなき欲求こそが,この場合も民主制を崩壊させるのではあるまいか?」
「民主制国家は何を善と規定していると言われるのですか?」
「<自由>だ」とぼくは言った,「じっさい,君はたぶん,民主制のもとにある国で,こんなふうに言われているのを聞くことだろう―この<自由>こそは,民主制国家がもっている最も善きものであって,まさにそれゆえに,生まれついての自由な人間が住むに値するのは,ただこの国だけである,と」(562B)

民主制の説明は終わり,僭主独裁制の説明に入ったところですが,微妙な時間差で民主制の定義らしきものが言われます。また寡頭制とも対比され,寡頭制 : 富 = 民主制 : 自由,というようなことが言われます。この後も暫くは民主制の話です。

「他方また」とぼくはつづけた,「支配者に従順な者たちを,自分から奴隷になるようなつまらぬやつらだと辱しめるだろう。個人的にも公共的にも賞讃され尊敬されるのは,支配される人々に似たような支配者たち,支配者に似たような被支配者たちだということになる。このような国家においては,必然的に,自由の風潮はすみずみにまで行きわたって,その極限に至らざるをえないのではないかね?」(562D)

「たとえば」とぼくは言った,「父親は子供に似た人間となるように,また息子たちを恐れるように習慣づけられ,他方,息子は父親に似た人間となり,両親の前に恥じる気持ちも怖れる気持ちももたなくなる。自由であるためにね。そして居留民は市民と,市民は居留民と,平等化されて同じような人間となり,外人もまた同様だということになる」
「たしかにそういうことになりますね」と彼。
「そういうことのほか」とぼくは言った,「次のようなちょっとした状況も見られるようになる。すなわち,このような状態のなかでは,先生は生徒を恐れて御機嫌をとり,生徒は先生を軽蔑し,個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。一般に,若者たちは年長者と対等に振舞って,言葉においても行為においても年長者と張り合い,他方,年長者たちは若者たちに自分を合わせて,面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために,若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる」
「ほんとうにそうですね」と彼。(563A)

年長者が若者たちを真似て…という下りは昨今よくある光景で実感があり,それは寧ろ好ましいと思われているという気がしますが,逆に言うと歳を取ったらどっしりと構えているべきというプラトンの考え (というよりも当時の常識?) が感じられます。ともあれここに書かれていることは今の日本ではほぼ達成?されているという気もします。民主制だからこそこうなるのかは実感できませんが,流石の卓見です。

「すべてこうしたことが集積された結果として」とぼくは言った,「どのような効果がもたされれるかわかるかね―つまり,国民の魂はすっかり軟らかく敏感になって,ほんのちょっとでも抑圧が課せられると,もう腹を立てて我慢ができないようになるのだ。というのは,彼らは君も知るとおり,最後には法律をさえも,書かれた法であれ書かれざる法であれ,かえりみないようになるからだ。絶対にどのような主人をも,自分の上にいただくまいとしてね」
「よく知っています」と彼は言った。(563D)

少し上に,「法」というものを背後にどれだけ見て取るか?ということを書きましたがこの僭主独裁制の成り立ちの場面ではそれがはっきり無効化されました。

「寡頭制のなかに発生してその国制を滅ぼしたのと同じ病いが」とぼくは言った,「ここにも発生して,その自由放任のために,さらに大きく力強いものとなって,民主制を隷属化させることになる。まことに何ごとであれ,あまりに度が過ぎるということは,その反動として,反対の方向への大きな変化を引き起しがちなものだ。」(563E)

「というのは,過度の自由は,個人においても国家においても,ただ過度の隷属状態へと変化する以外に途はないもののようだからね」
「たしかにそれは,当然考えられることです」
「それならまた,当然考えられることは」とぼくは言った,「僭主独裁制が成立するのは,民主制以外の他のどのような国制からでもないということだ。すなわち,思うに,最高度の自由からは,最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ」(564A)

『国家』を読んでいて,日本国は寡頭制っぽいと思ったり僭主独裁制っぽいと思ったりよくしますが,ここに書かれているように,「最高度の自由」というのは移ろいやすく安定しないもので,寡頭制側と僭主独裁制側を振り子のように常に他方からの反動として行き来しているのかもしれません。「常に存在するもの」たるイデアとは自由は真逆のものなのかもしれません。

「そうすると彼らは,べつに変革を起そうと欲しているのではなくても,他方の側の者たちから,民衆に対して陰謀をたくらんでいるとか,寡頭制をもくろんでいるとかいった非難を受けることになる」
「たしかに」
「こうして彼らは,最後には,民衆が自分の意志によってではないが,無知ゆえに中傷家たちにだまされて彼らに危害を加えようとするのを見ると,そのときはもはや,欲すると欲しないとにかかわらず,ほんとうに寡頭制的な人間になってしまうのだ。みずからすすんで,そうなるのではない。この禍いもまた,あの雄蜂が彼らを毒針で刺して生みつけるものなのだ」(565C)

「みずからすすんで,そうなるのではない」が微妙に印象に残ります。本当かどうかは別にして,そういう言い訳が成り立つと思ったためです。

「ところで,民衆の慣わしとして,いつも誰か一人の人間を特別に自分たちの先頭におし立てて,その人間を養い育てて大きく成長させるのではないかね?」
「たしかに,それが民衆の常です」
「してみると,このことは明らかだ」とぼくは言った,「すなわち,僭主(独裁者)が生まれるときはいつも,そういう民衆指導者を根として芽生えてくるのであって,ほかのところからではないのだ」(565D)

この「民衆の慣わし」は,代議制民主主義のことを言っているのでしょうか?それは穿った見方かもしれませんが,もしそう考えると,自分たちは自分たちの代表を「養い育てて大きく成長」させるというような発想はないなと思います。

「それでは」とぼくは言った,「このような人間と,このような生きものが内に生まれた国家とが,いかに幸福であるかということを語るようにしようか?」
「ええ」と彼は言った,「ぜひそうしましょう」(566D)

先ほどの「最も美しい国家」に続き,また皮肉が出てきました。アデイマントスも相変わらず一緒にボケるのでどこまで本気なのか分からなくなるときがあります(汗)。

「そこで僭主(独裁者)は,支配権力を維持しようとすれば,そういう者たちのすべてを排除しなければならない。ついには敵味方を問わず,何ほどかでも有為の人物は一人も残さぬところまでね」
「ええ,明らかに」
「そういうわけだから,彼は,誰が勇気のある人か,誰が高邁な精神の持主か,誰が思慮ある人か,誰が金持であるかといったことを,鋭く見抜かれなければならない。こうして彼は,そういう人々のすべてに対して,好むと好まざるとにかかわらず敵となって陰謀をたくらまなければならないという,はなはだ幸福な状態に置かれることになるのだ―国家をすっかり浄めてしまうまでは」(567B)

某国の諜報機関を連想します。ここに書かれているような「正しい」人のことを見抜き排除する,というのは,第2巻で出てきた「裏で不正を働きながら正しいとみせかける,不正な人」「本当は正しい行いをしているが不正と見られる,正しい人」を想定して,それでも正義を讃えるか?とグラウコンとアデイマントスがソクラテスに迫った場面を思い起こします (361A)。そうか,そこに戻るのか。と1人で納得。

「こうして」とぼくは言った,「これらの仲間は彼を讃歎し,これら新参の市民たちは彼と交わるけれども,心あるすぐれた人々は,彼を憎み彼を避けるのではないかね」(568A)

「ゼウスに誓って」と彼は言った,「そのときこそ民衆は,やっと思い知らされることでしょう,―自分がどのような身でありながら,どのような生きものを産み出し,かわいがって大きくしたかということを。そして追い出そうとしても,いまや相手の力のほうが自分よりも強いということを」(569A)

民衆が,自分たちの富を吸い上げる僭主のことに後になって気づいても手遅れだということが,いい歳になっても親に養われる子供にたとえられて語られます。

「そうだとすれば」とぼくは言った,「僭主(独裁者)とは父親殺しにほかならないし,老いた親に対して残酷な養い手だということになる。そしてどうやら,これこそがすでに,万人の認める公然たる僭主独裁制というものであるようだ。民衆はといえば,ちょうど諺のとおりに,自由人への隷属という煙を逃れようとして,奴隷たちの専制支配という火の中に落ちこんでしまったことになるだろう。あの豊富で度はずれの自由の代りに,いまや最もきびしく最もつらい,奴隷たちへの隷属という仕着せを身にまとってね」(569B)

ということで僭主独裁制の1つのまとめになっています。思ったのは,民主制(自由人)が専制支配されるようになるというまさにその瞬間というものは一体何なのでしょう?それはやはり僭主が法を(実質的に)無効化した瞬間ということになるのでしょうか。

以上で第8巻は終了ですが,僭主独裁制的な人間の考察がこのまま第9巻に続くことになります。
本メモではプラトンの民主制についての考察を存分に見ることができました。民主制的な人間があらゆる快楽を平等に受け入れる,というのは斬新だと思いましたがある真理の一面を衝いているという気がします。

プラトン『国家』第八巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第八巻を読んだときのメモ第1弾。

第七巻メモ(3)の最後でも述べましたが,第四巻の最後に予告された,国制についての話題が漸く再開されます。具体的には,これまで述べられてきた理想的な国家<優秀者支配制(アリストクラティアー)>に対して,<名誉支配制><寡頭制><民主制><僭主独裁制>が論じられます。基本的には,先に挙げたものが優れていて,後に挙げたものが劣ったものであるとプラトンは考えていたようで,どのようにして優れた国制が劣った国制になってしまうのか,ということも述べられます。同時に,それぞれの国制に対応した個人の性質・性格も述べられます。

現代の先進国では<民主制>が必要かつ十分な国制だと考えられていると思います。一方で問題も認識されていると思いますし,内部的には<寡頭制><僭主独裁制>的なところも十分にありそうな気がします。なのでそれ以外の制度だったらどうなのだろう?と思わないこともないと思います。そこへ行くと,「真顔で」別の国制について書かれているというのは現代では意外と貴重かもしれません。当時のプラトンはただ研究的だったのだと思いますが。

ただ,後で述べますが<優秀者支配制>が<名誉支配制>に移行する過程というのだけはちょっと異色です。そこは良くも悪くもプラトン的です。

以下は本文を読んだ時のメモです。

「つまり,あのときあなたは,ちょうど先ほどと同じように,国家のことについてはすでに論じ終えたものとして話をすすめられていて,それまでに述べたような国家を善い (すぐれた) 国家と定めよう,またその国に対応する相似た人間を善い (すぐれた) 人間と定めよう,と言っておられました。それもどうやら,あのときあなたはもっとすぐれた国家と人間のことを語ることができたはずですのにね。しかしそれはともかく,国の正しいあり方がそれであるとすれば,それ以外の国家は間違ったあり方の国家であると,あなたは言われました。
そして,残りのそのような国制については,私の記憶するところでは,あなたはそれには四つの種類があると言われて,それらもまた論じるに値するものであり,それらの国制の間違っている点と,さらにそれらに対応する人間たちのことをよく見なければならぬと言われたのです。それはほかでもない,そうした人間をすべて見て,どれが最善の人間でどれが最悪の人間であるかを同意によって確かめたうえで,はたして最善の人間が最も幸福であり,最悪の人間が最も不幸であるか,それともそうではないかという問題を,われわれが考察するためであるということでした。
そこで私が,その四つの国制とは何をさして言っておられるのかをおたずねしたところ,ちょうどそのときポレマルコスとアデイマントスが口をさしはさんだのです。そしてそういう次第で,あなたは彼らの議論を取り上げたうえで,ここまでやって来られたのです」
「大へん正確に思い出させてくれたね」とぼくは言った。(543C)

ということで,第四巻の最後で予告された国制の話が,第五巻で割り込まれて「3つの大波」の話題になり,またその後「太陽」「線分」「洞窟」の3つの比喩により<善>のイデアが説かれ,そして支配者のために必要な教育について論じられ…漸くここで再開されることになりました。

「ぼくが言おうとしている国制は,一般に通用している名称をもったものばかりだからね。すなわち,まず,多くの人々から賞讃されているところの,かのクレタおよびスパルタふうの国制がある。それから,第二番目の国制で第二番目に賞讃されているもの,<寡頭制>と呼ばれている国制があり,これはじつに多くの悪をはらんでいる国制だ。それから,その敵対者であり,それにつづいて生じてくる<民主制>。そして,これらすべての国制にたちまさる高貴な<僭主独裁制>,これが第四番目にあって,国家の病として最たるものだ。」(544C)

具体的に4つの国制が言及されます。「クレタおよびスパルタふうの国制」については<名誉支配制>と後で呼ばれます。
微妙に皮肉が混じっていてよく分かりづらいのですが,優れているものから<名誉支配制>→<寡頭制>→<民主制>→<僭主独裁制>となっていると言われています。また右に示したものは,左に示したものが劣化したものというような描かれ方になっています。

「そうすると,つぎにわれわれは,それより劣った人間たち―すなわち,まずスパルタふうの国制に対応する人間としての,勝利を愛し名誉を愛する人間を,そしてさらに寡頭制的な人間,民主制的な人間,僭主独裁制的な人間のことを,論究して行かなければならないわけだね?その目的は,最も不正な人間を観察し,これを最も正しい人間に対置させることによって,そもそも純粋の<正義>は純粋の<不正>に対し,それを所有する人間の幸福と不幸という点から見てどのような関係にあるか,というわれわれの考察を完成させることにある。そうすればわれわれは,トラシュマコスに従って<不正>を求めるべきか,それともいま示されつつある言説に従って<正義>を求めるべきかを,決めることができるだろうからね」(545A)

この章の骨組みが示されます。「そうすると」,と頭にあるのは,哲学者が支配する理想の国制<優秀者支配制>及びそれに似た人間については十分に考察され,それが善く正しい人間であると結論づけたということです(544E)。

「―お前たちが言うように組み立てられた国家が,変動をこうむるということは,たしかに起りがたいことではある。しかしながら,およそ生じてきたすべてのものには滅びというものがあるからには,たとえそのように組み立てられた組織といえども,けっして全永劫の時間にわたって存続することはなく,やがては解体しなければならぬであろう。
その解体は,次のようにして起る。」(546A)

最善国家であるならば,最善であるがゆえに滅びも起らないはずだが,それがなぜ滅びて<名誉支配制>になってしまうか。ということが,ムゥサの女神たちに語らせる形でこの後続くのですが,この解体の話は省略します。非常に難解な箇所で,何故か?直角三角形とか調和級数などが出てきます。文庫版でも解釈が補注として別に大きく述べられています。
省略はしますが,しかし非常にプラトンらしいところだと思っています。『ティマイオス』にもつながる宇宙観に基づいていると思います。なので現代の目から見るとやはりオカルトっぽさがあります。一言で言えば「運」ということだと私は単純に思いますが,そこで妥協せずに,ゲームやプログラムのランダム性を生じさせる乱数を解析するような勢いがあります。
しかし国家の悪化は変化によっておこるというのはちょっと重要かも (ポパーも似たようなことを指摘していた気がします)。

「争いが起ると」とぼくはつづけた,「二つの種族がそれぞれ別の方向へ国を引っぱろうとした。すなわち,鉄と銅の種族は金儲けと,土地や家や金や銀の所有のほうへと引っぱり,他方,金と銀の種族は,生まれつき貧しくはなく魂において富んでいるから,徳と昔からの制度のほうへ導こうとした。こうして互いにはげしく争い対抗し合っているうちに,やがて彼らは妥協して,土地や家を分配して私有することに同意し合い,またそれまで自由人として彼らにより守護されていた友や養い手たちをいまや隷属化して,従属者として家僕として所有しながら,自分たちは戦争と,この人たちへの監視に専念することにした」(547B)

理想国家では,土地や金は全て共有されるものであると第三巻で言われていましたが,省略したムゥサの女神の話の内容に基づいて,それが段々崩れていってしまうと。金,銀,鉄・銅の種族というのも第三巻で述べられていたことです。

「それでは,国のあり方に変化が起るのは以上のようにしてであろう。ところでしかし,変化したあとの国は,どのような統治のあり方をとるだろうか?それとも,あらためて言うまでもなく,この国制は以前の国制と寡頭制との中間にあるのだから,ある点では以前の国制に似ているが,他の点では寡頭制に似ることになり,さらにこの国制自身に固有の点をも,もつことになるのではないだろうか」(547C)

ここで,まだ説明されてない寡頭制を出すのはちょっと違和感がありましたが(プラトンの著作に前提知識を要求されることは基本的にない),すぐ後に「こういう寡頭制の特徴と似ている」という説明があります。両方説明してしまおうという一種のレトリックかなというところで面白いです。

「しかしこの国制におけるもっとも際立った特徴はといえば,それは気概の性格が支配的であることから由来しているただ一つの点だけなのだ。すなわち,勝利と名誉を愛し求めることが,それだ」(548C)

<名誉支配制>の特徴の分かりやすい箇所です。

「そしてまたこのような人間は」とぼくはつづけた,「若い時には金銭を軽蔑するけれども,年を取るにつれて,しだいにますます金銭に愛着を寄せるようになるのではないかね。それは,もともと彼が金銭を愛する性質を分けもっているからでもあるが,同時にまたこのような人間は,徳の最上の守り手を欠いているために,純粋で確固とした徳をもっていないからなのだ」
「その最上の守り手とは,何でしょう?」とアデイマントスがたずねた。
「文芸・音楽の教養 (ムゥシケー) とねり合わされた理論的知性 (ロゴス) のことだ」とぼくは言った,「ただこれだけが,いったん形成されると,一生その人のなかに住みつづけて,徳を救い守る力となるのだ」(549B)

国制の説明の後に,国制に対応する人間について考察される部分です。これはその後に出てくる国制についても同じような展開で,その前の国制から何かが欠けて悪い国制になってしまう,ということになっています。
ここの<名誉支配制>的人間とは,一部だけ抜き出しましたが簡単に言えば,<優秀者支配制>的人間から「徳」が失われた人間,ということになると思います。

「他方,このような人間がどうして出来上るかといえば」とぼくは言った,「その次第は次のとおりだといってよい。―ときとしてこのような人はすぐれた父親をもつ若い息子だったのだが,その父親は,あまりよく治められていない国に住んでいて,さまざまの名誉だとか役職だとか裁判事だとか,すべてそういったわずらわしい関わり合いを逃れて生き,自分の権利を放棄してでも何とかして面倒を避けようと願うような人であり…」(549C)
「その息子は,まず,母親からいろいろとぐちを聞かされるだろう。つまり母親は,自分の夫が役職についていないのに不満だし,そのためにほかの女たちのあいだで肩身がせまい。それに彼女の見るところ,夫はいっこうに金銭のことに熱心でないし,私的な裁判や公の集会で勇ましく戦ったり口論したりすることもなく,その種の事柄にはいっさい無関心の様子である。夫の注意は彼自身に向けられていて,妻である自分のことは,対して尊重してくれるでもなければ,さりとて軽蔑するでもないことをいつも感じている。すべてこういったことから彼女は苛立って,息子に向かってぐちをこぼすことになるのだ」(549C)

ここで言われている父親というのは,勝利や名誉,財産には無欲で,とても自省的な人間のようです。父親としてはどうかと思わないでもありませんが個人的には共感します。少し飛ばして次に続きます。

「さて,そうなるとこの青年は,すべてこのようなことを聞いたり見たりしながら,他方ではしかし,父親の言葉を聞き,父親の生き方を近くから見て他の人々のそれと比較対照させるので,その両方から引っ張られることになる。すなわち,父親のほうは,彼の魂のなかの理知的な部分をうるおして成長させ,他の人々のほうは,欲望的な部分と気概の部分を養い育てるのだ。こうして,もともと彼は素質の上で劣悪な人間として生まれついてはいなかったのに,他の人々とのよくない交わりをもったために,その両方から引かれて中間に落着くことになり,自分の内なる支配権を,中間的な部分としての勝利を愛する部分,気概の部分へと引きわたして,かくて傲慢で名誉を志向する人間となったのだ」(550A)

国制と同じで,気概の部分が支配的になると述べられます。幾分トートロジ的な議論にも思えますが。

「ところで,思うに,いま述べた国制のあとに来る国制といえば,<寡頭制>がそれだということになるだろう」
「あなたの言われる<寡頭制>とは」と彼がたずねた,「どのような制度のことでしょうか?」
「財産の評価にもとづく国制だ」とぼくは言った,「つまり,金持が支配し,貧乏人は支配にあずかることのできない国制のことだ」(550C)

ここからは<寡頭制>に移ります。ここで言われている国制の定義は,「寡頭制」という言葉からはちょっとイメージしづらい (文字通り言えば,「少数派支配制」などと置き換えられるものを想像してしまう) ですが,文庫の解説によるとこの規定内容はアテナイの実際の寡頭制理念に即したものであった (トゥキュディデス『歴史』など) らしいです。

「各人がもっている,金のいっぱい入った例の宝蔵が,先のような国制を滅ぼすのだ」とぼくは言った,「すなわち,まず彼らは,自分自身のための金の使い道を見つけ出して,それに都合のよいように法を曲げるのだ。彼ら自身もその妻たちも,法に従わずにね」
「そういうことになるでしょうね」と彼。
「ついで,思うに,彼らはお互いのやり方を見て競い合うことにより,自分たちのところの大多数の者を,同じそのような人間に仕上げることになる」
「そういうことになるでしょうね」
「そしてそれからは」とぼくは言った,「彼らは殖財の道をひたすら前進して,金をつくることを尊重すればするほど,それだけますます徳を尊重しないようになる。富と徳とは,元来そういう対立関係にあるのではないだろうか―いわば,両者のそれぞれを秤の皿の上に乗せると,つねにまったく正反対のほうに傾く,といったようなね」(550E)

この「金権政治」の国制では,金を儲けることが第一目的になってしまうのは明らかです。そして金を儲けた自分たちに都合のよい法を作ることに熱心になり,徳を求めることもしなくなってしまうと。尤も徳については<名誉支配制>の段階で失われていたとはいわれていました。

「こうして最後に,彼らは勝利を求め名誉を愛する人間であることをやめて,金儲けを求め金銭を愛する人間となり,そして金持の人を賞讃し讃歎して支配の座につけ,貧乏な人を軽んじることになるのだ」
「たしかに」
「まさにこの時点において,彼らは寡頭制国家の基準を規定した法律を制定する。すなわち,その国における寡頭制の度合いの強弱に応じて大きかったり小さかったりする金額を定めたうえで,財産がその規定額に達しない者は支配の役職に参加できないことを,宣告するのだ。そして,こうした法律の内容を武器に用いた強制的な力で実行に移し,あるいは,そこに至る前に脅迫することによって,このような国制を確立するわけだ。そうではないかね?」(551A)

という,こうして言われると身も蓋もない政治手法ですが,制度としてこうあるのであれば寧ろ潔い気もします。現実には,1人1票は平等にあるとしても,儲かっている企業が献金して自分たちに有利な立法を政治に働きかけたりとか,金を持っている者が政治に与える影響が大きいのは現今の国制にも実態として当てはまると思われるからです。

「それではよく見てくれたまえ―こうしたすべての欠点のなかでも,次のような点は,この国制にいたって初めて許されるようになる最大の悪ではないかということを」
「どのような点がですか?」
「自分の持物のすべてを売り払うことができて,他人がそれを手に入れることが許されるということ,そして売りつくした後,国の構成員としてのなんらの役割も果すことなしに,国家のうちに住みつづけることが許されるという点だ―商売人でもなければ職人でもなく,騎兵でもなければ重装歩兵でもなく,ただ貧民・困窮者と呼ばれながらね」(552A)

これは後半は「労働の義務」がない,という意味でしょうか。ただこの後で,「そのように落ちぶれた人は,まだ富裕で贅沢をしていたころでも,いくらかでも国家の役に立っていたのだろうか?」(552B) と追及されます。
この辺りは自分もたまに考えます。小さいころは「労働の義務」というのを習いましたが,現実には不動産を持っていたり株取引をしたりして,いわゆる労働というか,何らかの価値を社会に与えずに生活している (と思われる) 人もたくさんいると成長して知ったからです(勿論納税はするわけですが)。働かないと生活の糧を得られない人からすれば,そういった人がいるのは<寡頭制>的といえるのかもしれません。

「では,先に見た名誉支配制的な人間から寡頭制的な人間への変化は,とりわけ次のようにして起るのではないだろうか」
「どんなふうにですか?」
「こういう場合を考えてみたまえ。―名誉支配制的な人間に子供がいたとして,その子供は,最初のうちは父親に負けまいとつとめて,その足跡を追っていたが,やがてその父親が突然,暗礁に衝突するように国家と衝突して,自分の所有物も自分自身も失ってしまうのを目にするとする。つまりその父親は,将軍の地位にあったり,何かその他の重要な役職にあったりしたのだが,やがて法廷に引き出されるような羽目におちいり,中傷者たちに痛めつけられたあげく,死刑にされたり,追放されたり,市民権を奪われて全財産を失ってしまったりするわけだ」
「ありそうなことです」と彼は言った。(553A)

ここから寡頭制的人間の成り立ちが言われます。

「そして思うに,その大王の足もとのそれぞれの側に,理知的部分と気概の部分とを地面に坐らせて,召使としてはべらせることになる。そのうえで,理知的部分に対しては,どのようにすれば金がもっとふえるかということ以外には何も計算し考察することを許さず,他方,気概の部分に対しては,富と富者以外の何ものも讃歎し尊敬しないように命じ,また財貨の所有とそれに役立つこと以外のいかなることにおいても,名誉心を満足させることを許さないのだ」
「名誉を愛する野心的な青年が金銭を愛する人間へと,それほど急速にまた確実に変化して行く事情としては,ほかには考えられませんね」と彼は言った。(553D)

金の亡者になってしまうと。<名誉支配制>では理知的部分が失われていたと思いますが,<寡頭制>では加えて気概の部分も失われて,(金銭に対する) 欲望的部分のみが残ったという感じでしょうか。

「とにかく何かさもしくて」とぼくはつづけた,「どんなことからでも利益をあげては食を立てるような人間なのだ。こういう人々をしも,大衆は褒め讃えるものだがね。―こういうのが,あの寡頭制国家に似ている人間ではないだろうか?」
「そうだと私は思います」と彼は言った,「とにかく,あの国家においても,そのような人間においても,何よりも尊重されるのはお金なのですからね」
「思うに,それというのも」とぼくは言った,「そのような人間は教育に心を向けなかったからなのだ」(554B)

寡頭制=とにかく金,ということしか言われていないような気がしてきます。

「だから,そのことから明らかなように,このような人間は,そのほかのいろいろの取引において,正しい人であると思われてよい評判を得ているような場合には,一種すぐれた自制力によって,自分の内にある他の悪い欲望を抑えているのだ。ただしその抑制は,それがよくないことだという説得によるものではなく,理によって欲望をおとなしくさせるのでもなく,一般に自分の財産のことが心配なので,やむをえぬ強制と恐れによってそうするのだがね」(554C)

金銭に対する欲望は尽きないが,自制心はあると述べられます。この部分は,第二巻で述べられていた「不正な人間=不正を犯しても正しいと思われる人間」というテーマを思い出します。

「さらにまた,このけちな人間は,国のなかで個人的に何か勝利を争ったり,立派な名誉を競い合ったりするような場合,まことに取るに足らぬ競争相手でしかないのだ。彼は名声のため,またすべてこの種の競争のために金を費やす気持にはなれない。浪費的な欲望を目覚めさせて,勝利を求めて共に戦うよう招集するようなことになりはしないかと,それがこわいからだ。こうして彼は,寡頭制的な人間 (オリガルキコス = 小数を支配する者) にふさわしく,自分がもつ数少ない力でしか戦わないから,ほとんどの場合打ち負かされることになるが,富は確保するというわけだ」(555A)

正直に言うと,この辺は自分も当てはまるような気がしています。前も述べましたが,制度としては民主主義でも,実態としては金を持っていることが優遇される世の中であり,人間として筋を通しても報われない時があるので自衛手段としてそういう生き方も取り入れざるを得ない…ということも言えるのかなと思います。ソクラテスには怒られそうですが。

ということでここまでで<優秀者支配制>→<名誉支配制>→<寡頭制>の変遷と特徴が述べられてきました。
次は<民主制>ですが,それは次回とします。

プラトン『国家』第七巻メモ(3)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第七巻を読んだときのメモ第3弾。

第七巻では,ここまで支配者になる人間に課すべき教育内容について述べられてきましたが,ここからはいよいよその最高峰である「哲学的問答法」(ディアレクティケー) についてです。
ある意味では,プラトンらしさが全開になるところである,とも言えると思います。端的に言えば,哲学的問答法とはイデアにアプローチする最善の方法,ということになるでしょう。つまりこれまで他の対話篇を含めてソクラテスを通して実践されてきた対話というものが,3つの比喩によって描かれてきた<善>そのものであるイデアというものに結実する瞬間です。
別にイデアという考え方を用いなくとも (僕自身も割とどうでもよい),真理を求める,くらいの意味でも十分に通用すると思います。まあ,対話で真理が得られる,と言われても若干首をかしげたくなるところもありますが,実際どうなのでしょうか。
それから,実際に教育を施す期間などについて述べられます。

以下は読書時のメモです。

「それでは,グラウコンよ」とぼくは言った,「いまようやく,ここに本曲そのものが登場することになるのだ。この本曲を演奏するのは,哲学的な対話・問答にほかならない。それは思惟によって知られるものであるけれども,比喩的にこれを再現しようと思えば,先に述べた視覚の機能に比せられてよいだろう。すなわち,すでにして実物としての動物のほうへ,天空の星々のほうへ,そして最後には太陽そのもののほうへと,目を向けようとつとめるとわれわれが語った,あの段階がそれである。ちょうどそれと同じように,ひとが哲学的な対話・問答によって,いかなる感覚にも頼ることなく,ただ言論 (理) を用いて,まさにそれぞれであるところのものへと前進しようとつとめ,最後にまさに<善>であるところのものそれ自体を,知性的思惟のはたらきだけによって直接把握するまで退転することがないならば,そのときひとは,思惟される世界 (可知界) の究極に至ることになる。それは,先の場合にわれわれの比喩で語られた人が,目に見える世界 (可視界) の究極に至るのと対応するわけだ」
「ええ,まったくそのとおりです」と彼は言った。
「ではどうかね,このような行程を,君は哲学的問答法 (ディアレクティケー) と呼ばないだろうか?」(532A)

ということで,(メモ(2)で言われた個々の学科については「前奏曲」とした上で) ここで「本曲」たる「哲学的問答法」という言葉が導入されました。ここで言われている内容は,太陽の比喩,線分の比喩で言われていたことが使われていると思います (省略しましたが少し後に,洞窟の比喩で言われたことも繰り返されています)。

「われわれがこれまで述べてきたいくつかの学術を研究することは,全体として,ちょうどこれに相当するような効果をもっているわけであって,それは,魂のうちなる最もすぐれた部分を導いて,実在するもののうちなる最もすぐれたものを観ることへと,上昇させて行くはたらきをするものなのだ。ちょうど先の場合に,肉体のうちなる最も明確な部分[目]が,目に見える物体的な世界のうちなる最も輝かしいもの[太陽]を見るところまで,導かれて行くのと同じようにね」(532C)

これまで取り上げてきた学術は,ここで述べられている意味において通底しているということでしょう。
メモ(2)でも書きましたが,さまざまな学科を学ぶことは,(単なる知識としての) 教養を身につけるためではない。それらの「和集合」としての知識ではなく,それらの「共通部分」としての真理を観る力を得るという意味において有用ということをプラトンは言っているのだと思います。

「しかしこれらの学術は,われわれの見るところでは,自分が用いるさまざまの仮設を絶対に動かせないものとして放置し,それらをさらに説明して根拠づけるということができないでいるかぎりにおいて,実在について夢みてはいるけれども,醒めた目で実在を見ることは不可能なのだ。なぜなら,そもそもの出発点として,自分がほんとうには知らないものを立てておいて,結論とそこに至る中間は,その知らないものを起点として織り合わされているとすれば,そのようにして得られた首尾一貫性が,どうして知識となることができようか?」
「けっして知識とはなりえません」と彼は答えた。
「そこで」とぼくは言った,「哲学的問答法の探求の行程だけが,そうした仮設をつぎつぎと破棄しながら,始原(第一原理)そのものに至り,それによって自分を完全に確実なものとする,という行き方をするのだ。そして,文字通り異邦の泥土のなかに埋もれている魂の目を,おだやかに引き起して,上へと導いて行くのだ―われわれが述べたもろもろの学術を,この転向(向け変え)の仕事における補助者としてまた協力者として用いながらね」(533C)

「自分がほんとうには知らないものを立てておいて,結論とそこに至る中間は,その知らないものを起点として…」というところは,少しドキリとするところです。自分が学んだことというのは,そういうものばかりではないかと。
そしてこの起点 (仮設) を問い,始原 (→510B) に到達することが,プラトンのいう「哲学」ということになるのではないか,と思います。

「そもそもまた,哲学的問答法の心得があると君が呼ぶのは,それぞれのものの本質を説明する言論を求めて手に入れる人のことではないか。そしてそれができない者は,本質を説明する言論を自他に対して与えることができないかぎりにおいて,その当のものについて<知>をもっているとは言えないと主張するのではないか?」(534B)

流れに埋もれてはいますが,個人的には,ここがジャストな答えという印象でした。何度か読み返してやっと気づきましたが。なぜ<善>を得るのに対話が必要なのか,というのは,「ものの本質を説明できるということは知っていること」ということなのですね。
ただ半面,暗黙知のようなものはどうなのかなあ,という気もします。本当に対話 (哲学的問答法) という形を取らないと,「始原への到達」というものができないのでしょうか?対話によっては得られないものもあるのではないでしょうか?そう考えると,プラトンがいう<知>というのは案外限定されたものであるのかもしれません。確かに対話によって,つまり説明できるもの→<知>というのは明らかですが,逆も満たすものだけをここで<知>と言っているのかもしれません。

「それなら,善についても同様ではあるまいか。他のすべてのものから<善>の実相を区別し抽出して,これを言論によって規定することのできない人,―思わくを基準とするのではなく,事柄自体のあり方を基準として吟味しようと熱心につとめながら,あたかも戦場におけるがごとく,吟味のためのあらゆる論駁を切りぬけ突破して,すべてこうしたなかを不倒の言論をもって最後まで進みおおせるということのできないような人―そのような人は,<善>そのものはもとより,他のいかなる善きものをも知ることがないと,君は言うのではないか。かりにたかだか,その影のようなものに触れることがあったとしても,それは思わくによって触れているのであって,知識によるものではなく,かくてこのような人は,今生を夢と眠りのうちに過しながら,この世で目を覚ますより前に冥界へ行ってしまい,こんどこそ完全な眠りにおちてしまうことになるのではないか?」(534B)

「他のすべてのものから<善>の実相を区別し抽出」というのは,前奏曲といわれた学術から「共通部分」を得る,と私がさっき述べたことと同じと言えると思います。「思わくによって触れているのであって,知識によるものではない」という部分はソフィストを連想します (→『ゴルギアス』)。

「それでは」とぼくは言った,「哲学的問答法というのはわれわれにとって,もろもろの学問の上に,いわば最後の仕上げとなる冠石のように置かれているのであって,もはや他の学問をこれよりも上に置くことは許されず,習得すべき学問についての論究はすでにこれをもって完結したと,こう君には思われないかね?」(534E)

一応ここで哲学的問答法についての対話は一区切りとなりました。重大なテーマだったと思いますが割とあっさり終わりました。

「それでは」とぼくは言った,「あと君に残っているのは配分の仕事,―以上見てきた諸学科を誰に,どのような仕方で課すべきかという問題だ」
「ええ,明らかに」と彼。
「では君は,先に行なった支配者の選抜のことを憶えているだろうか―どのような者たちをわれわれが選び出したかを?」(535A)

ということで,第七巻の残りは「配分の仕事」となります。先の「支配者の選抜のこと」というのは第三巻の後半に言われたことだと思います。その時との違いは,ここでは<善>(のイデア) というものが導入されていることでしょう。

「また真実ということに関しても」とぼくは言った,「われわれはこれと同じように,次のような魂を不具とみなすべきだろう。すなわち,故意の偽りに対しては憎しみをもち,そういう嘘をつくことに自分でも堪えられず,他人の嘘にもひどく憤慨するけれども,故意でない偽りはしごく寛容に受け入れ,自分の無知がさらけ出されても苛立ちもせず,豚のように,無知の泥にまみれて汚れていてもいっこうに平気な魂のことだ」(535D)

色々と哲学を学ぶための資質について言われます。体育は好きだが学問は嫌いという,苦労を厭う人 (逆も) はダメだとか。その中でここの言葉は少し引っかかりました。故意のものだけでなく,故意でない偽りに対して憎しみを持たないのもダメだと。ただ偽りというのが「嘘」ではなく「無知」ということなら納得できます。

「しかしとにかく話しているぼくには,そう思えるのだ」とぼくは言った,「だがそれはそれとして,このことは忘れてしまわないようにしよう,―つまり,先に述べた選抜では,年を取った人たちをわれわれは選び出したけれども,今回はそれが許されないということだ。なぜなら,ソロンは老年になっても多くのことを学ぶことができると言ったけれども,それを信じてはいけないのであって,学ぶことは走るのよりも,もっとだめだろうからね。むしろ大きな苦労,たくさんの苦労はすべて,若者たちにこそふさわしいのだ」(536C)

確かに「先に述べた選抜」の時は,「年長者じゃないといけないの?」と思った記憶があります。ただ「学ぶことは走るのよりも,もっとだめ」というのはちょっと意外ではあります。しかし上にも書いたように,今は<善>が導入されているので,その意味においては若いうちから学ばないといけないということなのかもしれません。「三つ子の魂百まで」と言いますが,年を取っても知識は増やせても,魂は確かにある時期に定まるという気はします。

「ほかでもない」とぼくは言った,「自由な人間たるべき者は,およそいかなる学科を学ぶにあたっても,奴隷状態において学ぶというようなことは,あってはならないからだ。じじつ,これが身体の苦労なら,たとえ無理に強いられた苦労であっても,なんら身体に悪い影響を与えるようなことはないけれども,しかし魂の場合は,無理に強いられた学習というものは,何ひとつ魂の中に残りはしないからね」(536E)

さらに「自由に遊ばせるかたちをとらなければいけない」とも続けています。
一般に,プラトンに「自由」というのはあまり連想できないかもしれません。第三巻で言われた守護者の条件でも,共同生活して報酬はないとか,全然自由という感じではなかったですが,教育に関しては自由にやらせ,強制してはダメだと明確に言っています。これは現代の感覚でも古びていないと感じます。

「君は気がついていないかね?」とぼくは言った,「現在この問答の技術による哲学的議論には,どれほど大きな害悪がまつわりついているかということに」
「どのような害悪でしょう?」
「それにたずさわる人々が」とぼくは言った,「法を無視する精神にかぶれるようになるということだ」
「たしかにそのとおりです」と彼。(537E)

グラウコンは「たしかにそのとおりです」と即答しましたが,どういうことなのでしょう?
この後実例の話になりますが,<善>と法律を対比させると,まあそういうものという気はします。法律については,プラトンも『国家』~『ポリティコス(政治家)』~『法律』,と考え方がだんだん変遷していったとどこかで読んだ記憶があり,『国家』の段階ではあまり信頼を置いていなかったと思われます。

「われわれは子供のときから,何が正しいことであり美しいことであるかということについて,きまった考えをもたされていると思う。われわれは,ちょうど親のもとで育てられるようにして,それらの考えのなかで育てられてきているのだ。その権威に屈指,それを尊重しながらね」(538C)

「それならどうだろう」とぼくは言った,「このような状態にある人がやがて問を受けることになって,<美しいこと>とは何であるかと問いかけられ,法を定めた人から聞いたとおりを答えたところ,言論の吟味にかけられて論駁されたとする。そして何度も何度もいろいろの仕方で論駁されたあげく,自分が教えられてきたことはなにも美しいことではなく,醜いことなのかもしれないと考えざるをえないようになり,さらに<正しいこと>や<善いこと>や,これまで最も尊重してきたさまざまの事柄についても同じことを経験したとする。このような場合,そうした教えに対する尊重やその権威への服従という点に関して,その人の態度はそれから以後どのようになると思うかね?」(538D)

ということで対話の結果,法律を軽視することになることもあるだろうということになります。今の日本では,法律を守ることは大きな前提として考えてしまうところがあるので,そういう考えに至りづらいと思いますが,その法律とは一体何で,どのように決まったのかというところまで考えると,それが絶対ということでもないと思うかもしれません。

「それでは,そういういたましいことが君の選んだ三十歳の人たちに起らないために,言論の習得に着手させるにあたっては,あらゆる用心と警戒が必要なのではないだろうか」
「ええ,大いに」と彼。
「では,そういう用心のための重要な一策は,そもそも若いときにはその味をおぼえさせないということではあるまいか。」(539A)

これもまた,権利や自由を尊重する現代では問題視されそうな意見だと思われます。良くも悪くもプラトンらしいという気はします。

「その期間は」と彼がたずねた,「どのくらいとされますか?」
「十五年間だ」とぼくは答えた,「そして五十歳になったならば,ここまで身を全うし抜いて,実地の仕事においても知識においても,すべてにわたってあらゆる点で最も優秀であった者たちを,いよいよ最後の目標へと導いて行かなければならない。それはつまり,これらの人々をして,魂の眼光を上方に向けさせて,すべてのものに光を与えているかのものを,直接しっかりと注視させるということだ。そして彼らがそのようにして<善>そのものを見てとったならば,その<善>を範型 (模範) として用いながら,各人が順番に国家と個々人と自分自身とを秩序づける仕事のうちに,残りの生涯を過すように強制しなければならない。すなわち彼らは,大部分の期間は哲学することに過しながら,しかし順番が来たならば,各人が交替に国の政治の仕事に苦労をささげ,国家のために支配の任につかなければならないのだ。そうすることを何かすばらしい仕事とみなすのではなく,やむをえない強制的な仕事とみなしながら―。そしてこのようにしながら,つねにたえず他の人々を自分と同じような人間に教育し,自分にかわる国家の守護者を後にのこしたならば,彼らは<幸福者の島>へと去ってそこへ住まうことになる。」(540A)

十五年間,というのは「洞窟」の中にいさせる期間のことです。そしてその後で選抜された者は,「順番が来たら政治に苦労を捧げる,それをやむをえない強制的な仕事とみなす」と。この部分は今までにも何度か出てきていますが,特徴が出ていると思います。そもそも,政治家をしょうがなくやる,という超然とした人は例えば日本に実際にいるんでしょうか(笑)。
孔子は「五十にして天命を知る」と言いましたが(『論語』),いずれにせよ50歳くらいではまだまだこれからということなのでしょう。

「ソクラテス,あなたは統治する男たちを」と彼は言った,「まるで彫像家がするように,この上なく立派な姿に仕上げられましたね」
「統治する女たちもだよ,グラウコン」とぼくは言った,「というのは,ぼくが話してきたことは,けっして男たちだけのことではなく,女たちのなかから生まれつき充分な力量をもった者が出てくる場合には,まったく同等にそのような女たちについても言われてきたのだと,考えてもらわなくてはこまるからね」
「正当な御注意です」と彼は言った,「いやしくも女たちが,われわれの論じたように,すべての仕事を男たちと共通に分担すべきであるからにはね」(540C)

男と女については,第五巻でさんざん言われたことですが,生物学的な素質として<善>というものの追求に関して男女差があるとは思えないし,ここでそれが言われていると思います。

「そのとき彼らは」とぼくは言った,「現在国の中にいる十歳以上の年齢の者を,すべてのこらず田舎へ送り出してしまうだろう。そしてその子供たちを引き取って,いま親たちがもっているさまざまの習性から引き離したうえで,まさにわれわれが先に詳述したような,彼ら自身のやり方と彼ら自身の法のなかでこれを育てるだろう。―このようにすれば,われわれが説いたような国家と国制は最もすみやかに,かつ最も容易に確立されて,国自身が幸福になるとともに,国を成立させている民族も最も多くの恩恵に浴することになるだろうと,認めてくれるかね?」(540E)

仮に今まで言われてきたような人が支配者になったとして,実際に国家を再編成するための手段が言われます。
ただこのリセットの仕方はかなり無理筋という感はしますがね。

「それではもうこれで」とぼくは言った,「この国家についても,それからまたこの国家に相似た人間についても,われわれの議論はじゅうぶんに尽くされたことになるのではないか?そういう人間をわれわれが,どのような人でなければならぬと言うことになるかは,これもまた明らかだろうからね」
「ええ,明らかです」と彼は言った,「そしておたずねに対しては,たしかに議論はこれで片づいたと答えられるように思えます」(541B)

読み手としての僕はもうすっかり迷子になってしまったような気がしますが(笑),ここで国家と人間についてのテーマが終わったようです。もとはと言えば,第四巻の最後で次は国制について論じようと予告したのに,第五巻でポレマルコスやトラシュマコスが異議を唱えて引き留めたのでした。次の第八巻でようやくその国制についての話が始まります。
第四巻のメモを最後に書いたのは2014年4月なので,個人的には9か月越しにやっと脱線から戻ることになります(汗)。

プラトン『国家』第七巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第七巻を読んだときのメモ第2弾。

第七巻の前半で,「洞窟の比喩」と支配者になるべき者の教育について主に対話がなされたと思います。教育とは向け変えの技術で,善を指向するようにするものであると。また,ここで言われている国家の支配者にはそういう教育を受けた者 (つまり哲学者) が就くべきであるということも言われました。
後半では,その具体的な教育内容がテーマになってきます。それは(1)数と計算,(2)幾何学,(3)立体幾何学,(4)天文学,(5)音楽理論,であると (それぞれの名称は『国家』文庫版の冒頭の要約に従った)。これは現代での所謂「リベラルアーツ」に繋がってくるものなのかもしれません。しかし後で触れると思いますが,プラトンは単に教養を深めるためにこれらの学問を課すべしと言っているわけではなく寧ろ逆です。

以下は読書時のメモです。

「さあそこでだが」とぼくは言った,「もしそれらのほかにはもう何も挙げることができないのならば,それらすべてに関わりをもつような何かを,つかまえることにしてみたらどうだろう?」
「と言いますと,それはどのようなものでしょうか?」
「たとえば,およそすべての技術も思考も知識も,共通に用いる或るものがある。これはまた,誰でもが最初に学ばねばならぬものだ」
「何のことでしょう?」と彼はたずねた。
「なに,大したことでもない」とぼくは言った,「つまり,一と二と三を識別するということだ。これを総括して言えば,数と計算ということになる。それとも,これについては,すべての技術も知識も必ずそれを共有しなければならぬ,と言っては間違いだろうか?」(522B)

この直前に、第三巻で言われた守護者が身に付けるべき素養の「体育」「音楽・文芸」とは違うかということが言われますが、体育は身体という変化するものが対象であり、音楽や文芸は習慣付けのためのもので知性を授けるものではないとして退けられます。『ティマイオス』などでも言われていますが,プラトンは「実在」 (不変のもの) と「生成」 (変化するもの) というものを区別しており,善 (のイデア) というものは前者に属します。
ということで、(1)数と計算です。言われてみれば確かに、思考というものを考えた時に、必要なものという気はします。普通は気づきさえしないことですね。また「1」とか「2」というものも定義さえされてしまえば不変です。

「おそらくこの学科は,ちょうどわれわれが求めているような,知識を目覚めさせるように導く性格を本来もっているものの一つらしいのだが,しかし誰もこの学科を―実在するものへと全面的に引っぱって行く力をそれがもっているにもかかわらず―正しい仕方で用いていないのではないか,ということだ」(523A)

…と,僕が上で述べたようなことは浅はかな理解で,ここからプラトン一流のたとえ話で数と計算の重要性が述べられます。

「よく注意すれば,君は次のことに気づくはずだ。―感覚に与えられるもののうちで,そのあるものは,感覚だけでじゅうぶんに判別されるというわけで,それをよくしらべるために知性の活動を助けに呼ぶことはない。しかしまた場合によっては,感覚は何ひとつ信頼できるものを与えないというので,それをよくしらべるように全面的に知性の活動を命じ促すものもあるのだ」(523B)

「知性を助けに呼ばないものというのは」とぼくは言った,「その感覚が同時に正反対のものを示すようなことにならない場合のことだ。これに対して,そういう結果になる場合のことを,知性の助けを呼ぶものと,ぼくは規定するわけだ。つまり感覚だけでは,あるものがこれであるとも,その反対であるとも,いっこうに明らかにされないような場合であって,それが近くから感覚されるか遠くから感覚されるかということには関係がない。」(523B)

「その感覚が同時に正反対のものを示すようなことに」なるかどうか,という論じ方はプラトンらしい,という気がします。一言で言えば,相対性があるかということでしょうか。そしてこの後,「指」に関するたとえ話が続きます。それは面白いですが省略します。

「すなわち,もし<一>というものがまさにそれ自体として,じゅうぶんに見られ,あるいは何か他の感覚によってとらえられるものであるとしたら,ちょうど指の場合について言っていたのと同じように,それはわれわれを実在するものへと引っぱって行く性格のものではないことになるだろう。けれども,もしそれが見られるときにはいつも,何か反対のものが同時に見られて,一つとして現われるのに少しも劣らず,またその反対としても現われるということになるのであれば,これはもう,その上に立って判定する者が必要となるだろう。すなわちこのような状況のなかで,魂は困惑に追いこまれて,自己の内で知性の活動を呼び起しながら探求のやむなきに至り,<一>とはそれ自体としてそもそも何であるのかと,問わざるをえなくなるだろう。そしてこのようにして,<一>について学ぶことは,実在の観想へと魂を向け変えて導いて行くようなものに属することになるだろう」(524E)

端折っている箇所も多いのですが,深いことが言われていると思います。例えばあるものが長いことも短いこともあり,その「長い」ということも「短い」ということもそれぞれが一つであって,場合によって「長い」とも「短い」とも魂に取り次ぐことがある,知性の働きをもたらす (つまり何がどのくらい長い (短い) かということを捉える) のが「数と計算」ということ,でしょうか。そしてこれを測定?するのにはアトミックなもの (<一>) が必要になるので,「実在の観想へと魂を向け変えて導いて行く」と。

「してみると,どうやらそれらの学問は,われわれが求めている学科のひとつだということになるようだ。というのは,戦士にとっては,軍団を編成するためにそれを学ぶ必要があるし,哲学する者にとっては,生成界から抜け出して実在に触れなければならないがゆえに,それを学ばなければならないのであって,そうでなければ,思惟の能力ある者とはけっしてなれないからである」
「そのとおりです」と彼。
「しかるに,われわれの国の守護者は,まさに戦士にしてまた哲学する者なのだ」(525B)

「したがって,グラウコン,この学科を学ぶことを法によって定め,国家において最も重要な任務に将来参与すべき人々を,計算の技術の学習に向かうように説得することは,適切な処置であるということになる。そして彼らは,この学科に素人として触れるのではなく,純粋に知性そのものによって数の本性の観得に到達するところまで行かなければならない。貿易商人や小売商人として売買のためにそれを勉強し訓練するのではなく,その目的は戦争のため,そして魂そのものを生成界から真理と実在へと向け変えることを容易にするためなのだ」(525B)

ということで,「数と計算」を支配者・守護者になる人に学ばせるべきである,ということになります。
ここまでの一連の展開は,「なんで学校で算数・数学を学ぶの?」という素朴な疑問に対する一つの答えになるのかなと思います (戦争に役立つというのはおいといて)。

「ほかでもないが,いまもわれわれが言っていたように,この学問は魂をつよく上方へ導く力をもち,純粋の数そのものについて問答するように強制するのであって,目に見えたり手で触れたりできる物体のかたちをとる数を魂に差し出して問答しようとしても,けっしてそれを受けつけないという点だ。じっさい,君も知っているだろうが,この道に通じた玄人たちにしても,彼らは,<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる人があっても一笑に付して相手にしない。君が<一>を割って細分しようとすれば,彼らのほうがその分だけ掛けて増やし,<一>が一でなくなって多くの部分として現われることのけっしてないように,あくまでも用心するのだ」(525E)

なかなか面白いです。完全に空想上の?ものであると。でもプラトンの定義によると,これは「実在」 (「生成」に対して) ということになると思います。<一>というものが atomic なものということなので。

「それなら,友よ」とぼくは言った,「君もこう見るのだね―おそらくこの学科こそはわれわれにとって,ほんとうの意味で必要欠くべからざるもの (強制力をもつもの) であるだろうと。なぜなら,それは明らかに,魂を強制して,純粋の知性そのものを用いて真理そのものへ向かうようにさせるのだから」(526B)

こういう頭の中だけで考えられる不変のものを考える学問こそが必要…まさに数学の世界という感じがします。また,プログラミングでいえば副作用のない関数型言語を思い浮かべます。
こういう抽象的なものこそが必要,というところは,前にも書いた気がしますが,「それで?」「では具体的には?」みたいに具体的な結果をすぐに欲しがる昨今の世相とは異なるところで,個人的にはどちらかといえば勇気づけられるところです。とはいえ競合するものでもないとは思います。

「ではどうだね,このことをもう注意したことがあるだろうか。―すなわち,生まれつき計算の才のある者は,あらゆる学問を学ぶのに鋭敏に生まれついているといってよいし,また遅鈍な者も,この学科によって教育され訓練されると,たとえほかに何の得るところがなかったとしても,少なくとも以前の自分よりも鋭敏になるという点では,誰もが進歩するということだがね」(526B)

直接は関係ないですが,将棋の棋士を連想しました。将棋の棋士も将棋に限らず頭が物凄く良いと思いますが,それは将棋のルールの上で手を読むというメタな思考を繰り返すことで,頭の回転が速いというだけではなくて (勿論それもあると思いますが),何か真理が見えてくるのかもしれません。

「第二番目には,これにつながりのある学科のことを,はたしてそれがわれわれの目的に適うものであるかどうか,しらべてみることにしよう」
「どのような学科ですか?幾何のことをおっしゃっているのですか?」と彼は言った。
「まさにそのとおり」とぼくは答えた。(526C)

(1)数と計算の話が長かったですが,ここで(2)幾何学に移ります。

「われわれがしらべなければならないのは,幾何の多くのもっと進んだ部分が,あのそもそもの目的,すなわち,<善>の実相を観てとることを容易にするという目的に対して,何らかの点で寄与するものであるかどうか,ということなのだ。」(526E)

少し前でグラウコンが,「陣営の構築や,要地の占領や,軍隊の集合と展開」(526D) などに幾何の心得が役立つ,と言うのですがそれはメインではないと言われます。がそれも副次的な効果として有意義だとも後で言われます(527C)。ともあれ,<善>の実相を観てとることが目的と言われます。

「それが知ろうとするのは,つねにあるものであって,時によって生じたり滅びたりする特定のものではないということだ」
「それは容易に同意を得られる点です」と彼は言った,「なぜなら幾何学は,つねにあるものを知る知識なのですから」(527B)

この辺りは,第六巻メモ(3) の 510E 辺りでも考えたのと同じようなことを考えました。幾何学で考えられる図形というのは完全なもので,逆に実際に図形を描いた時点ではそれは不完全になります。これが幾何学が「つねにあるものを知る」と言われるのだと思います。
この ReadOnly 感はやはり関数型言語っぽいです。

「ではどうだろう,三番目の学科としては,天文学をそれと定めることにしようか?それとも,君は不賛成かね?」
「私としては,それでよいと思います」と彼は答えた,「というのは,月や年の移り変りにおけるさまざまの時期 (季節) を正確に感知するということは,農耕や航海に必要であるだけでなく,軍隊統率のためにも,それに劣らず大切なことですからね」
「君も愉快な男だね」とぼくは言った,「なんだか大衆に気がねして,役にも立たない学問を押しつけようとしていると思われはしないかと,びくびくしているように見えるではないか。しかしほんとうに重大な点,容易には信じがたい点は,こうした学問のなかで各人の魂のある器官が浄められ,ふたたび火をともされるということだ。」(527D)

(3) として天文学に移ります。ここでグラウコンが(2)幾何学の時と同じように実利的な面を強調して,ソクラテスにたしなめられますが,グラウコンがボケて,ソクラテスが突っ込むという図式は本巻ではずっと続きます(笑)。
ともあれ,言われていることは(2)幾何学のときとあまり変わりません。

「それでは,もう一度話を後へ戻してくれたまえ」とぼくは言った,「なぜなら,さっき幾何のつぎに来るべき学科を取り上げたときの,われわれのやり方は正しくなかったからね」
「どういう点がですか?」と彼はたずねた。
「平面のつぎに」とぼくは言った,「もうすでに円運動のうちにある立体を取り上げたからだ―立体をそれだけで取り上げる前にね。しかし順序としては,二次元のつぎには三次元を取り上げるのが正しい。そしてこれは,立方体の次元や一般に深さを分けもつものについて考えられるものであるはずだ」
「たしかにそれはそうです」と彼は言った,「しかしそうした事柄は,ソクラテス,まだ完全に発見されたとはいえないように思えますが」(528A)

ここで(3)は立体幾何学に入れ替わります。ただグラウコンが指摘するように,まだ学問として理論が確立する前のようです。これは脚注にもあります。

「じっさい現在においてすら,世間の人々から軽視されて成長を阻害され,さらにそれが有用であることの根拠を理解していない研究者たちからも,同じ扱いを受けているにもかかわらず,この研究はそれ自身の魅力によって,すべてこれらの抵抗を排して成長しつつあるのだからね。」(528C)

引き続いてのソクラテスの言葉です。まだ確立していない理論とか成長中の技術とかは,あるいはそれに対する法規制なども,現代でもたくさんあると思いますが,「成長自体はそれ自身の魅力によって抵抗はあっても続く」というのは実感する部分です。

「それでは,第四番目の学科として天文学を置くことにしよう」とぼくは言った,「いま未開拓のままの残されている先の学問の研究が,国家がそれを推進するという前提のもとに,すでに確立されているものと考えてね」(528E)

改めて(4)天文学が言われます。

「たぶん君の考えは立派で,ぼくの考え方は愚直なのかもしれない。というのは,ぼくとしては,目に見えない実在に関わるような学問でないかぎり,魂の視線を上に向けさせる学科としてはほかに何も認めることができないからだ。」(529B)

ここも例の,グラウコンのボケ→ソクラテスの突っ込みの場所なのですがどうも神妙です。グラウコンは「魂を強制して上の方を見るようにさせ,魂をこの世界の事物から天上へと導くものである」とこの前に言うのですが,ソクラテスは「目に見えない」実在に関わるもののみが魂の視線を上に向けさせると。これは(1)~(3)の延長線上と考えれば納得はできます。

「だから」とぼくは言った,「天空を飾る模様は,そうして目に見えぬ実在を目指して学ぶための模型としてこそ,これを用いなければならないのであって,それはちょうど,ひとがダイダロスなり,あるいは他の工人なり画家なりによって特別苦心して見事に描かれた図形を前にしたときと同じことである。すなわち,幾何学に通じた人ならば,そうした図形を見て,この上なく美しい出来栄えを認めながらも,しかし等しいものや,二倍のものや,その他何らかの正確な数量的関係の真実のあり方を,そうした図形の内に直接とらえるつもりで本気でこれをしらべるのは,滑稽なことだと考えるだろう」(529D)

実際に天体の動きについてあれこれするのではなく,それを実現させているものについて学び考え,その「美しさ」を理解することが天文学の要諦であると言っているように思われます。
この考え方は,東洋思想で「造化」と呼ばれるものと近いのかもしれません。

「目が天文学との密接な関係において形づくられているのとちょうど同じように,音階の調和をなす運動との密接な関係のもとに耳が形づくられているのであって,この両者に関わる知識は,互いに姉妹関係にあるのだ,と。これはピュタゴラス派の人々が主張し,われわれもまた,グラウコン,賛成するところなのだがね。―それともわれわれは,どういう態度をとろうか?」(530D)

(5)音楽理論について述べられています。ピュタゴラス派の人の音楽研究について言及されていますが,基本的には,今まで述べられた視覚的なものに対して聴覚的なものを対応させたと考えられます。

「つまり彼らは,耳に聞えるこの音の協和の中に直接に数を探し求めるけれども,しかしそれ以上のぼって問題を立てるところまでは行かず,どの数とどの数とがそれ自体として協和的であり,どの数とどの数がそうでないか,またそれぞれは何ゆえにそうでありそうでないのかを,考察しようとしないのだ」(531C)

これも,天文学について述べられたことと似ていると思います。

色々と教育すべき学問について論じられましたが,結局は「善」とか「美」といったイデアというものが脈のようにあって,そこへの入り口となる学問を学ぶべきである,ということになるのかなと思います。冒頭に述べましたが,所謂リベラルアーツという言葉から受ける印象と違い,「教養を豊かにする」という意味 (知識を増やすという意味で) は一切受け取れません。そこは注意する必要があると思います。

次はいよいよ哲学的問答法 (ディアレクティケー) についてですが,それはメモ (3) に。

プラトン『国家』第七巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第七巻を読んだときのメモ第1弾。
随分間が空いてしまったので,ちょっとストーリーを忘れ気味です…。

第六巻の後半では,イデアに関する3つの比喩のうち「太陽の比喩」と「線分の比喩」が語られて終わりました。第七巻はその続きで,「洞窟の比喩」からたちまち入ります (なぜ「洞窟の比喩」だけ第七巻になったのか?と素人考えには思います)。このメモ第1弾では,「洞窟の比喩」に関わる前半部分だけを書く予定です。

この「洞窟の比喩」,本を読めば書いてあるのでここでは詳しく述べませんが,単独でもすごく面白いです。以前,「100分de名著」という NHK E テレの番組でプラトンの『饗宴』がテーマになっていましたが,そのときの第4回に何故か?「洞窟の比喩」が結構出てきていて,その時の図が分かりやすくてお気に入りです。

洞窟の比喩

「100分de名著」の『饗宴』で出てきた,「洞窟の比喩」の絵。

以下は読書時のメモです。

「こうして,このような囚人たちは」とぼくは言った,「あらゆる面において,ただもっぱらさまざまの器物の影だけを,真実のものと認めることになるだろう」(515C)

前述したように,洞窟の比喩の説明については割愛していますが端的なまとめです。洞窟の奥しか見られないように縛り付けられた人=囚人は,後ろから映されたもの (=影) しか見えないのでそれを真実だと思い込むと。

「彼らの一人が,あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと,また歩いて火の光のほうを仰ぎ見るようにと,強制されるとしよう。そういったことをするのは,彼にとって,どれもこれも苦痛であろうし,以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても,目がくらんでよく見定めることができないだろう。
そのとき,ある人が彼に向かって,『お前が以前に見ていたのは,愚にもつかぬものだった。しかしいまは,お前は以前よりも実物に近づいて,もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから,前よりも正しく,ものを見ているのだ』と説明するとしたら,彼はいったい何と言うと思うかね?そしてさらにその人が,通りすぎて行く事物のひとつひとつを彼に指し示して,それが何であるのかをたずね,むりやりにでも答えさせるとしたらどうだろう?彼は困惑して,以前に見ていたもの[影]のほうが,いま指し示されているものよりも真実性があると,そう考えるだろうとは思わないかね?」(515C)

いきなり真実を見せても,直視できないし信じることもできないだろう,「目が痛くなり,向き返って,自分がよく見ることのできるもののほうへと逃げようとするのではないか。そして,やっぱりこれらのもののほうが,いま指し示されている事物よりも,実際に明確なのだと考えるのではなかろうか?」(515E) ということが言われます。現実的です。

「だから,思うに,上方の世界の事物を見ようとするならば,慣れというものがどうしても必要だろう。―まず最初に影を見れば,いちばん楽に見えるだろうし,つぎには,水にうつる人間その他の映像を見て,後になってから,その実物を直接見るようにすればよい。そしてその後で,天空のうちにあるものや,天空そのものへと目を移すことになるが,これにはまず,夜に星や月の光を見るほうが,昼間太陽とその光を見るよりも楽だろう」(516A)

なので一気に真実を見せるのではなく,少しずつ目を慣れさせるべきだと。この辺り,割と当たり前の話がなされている感じはしますが,前に話された「太陽の比喩」が当然前提になっている喩えでもあります。

「するとどうだろう?彼は,最初の住いのこと,そこで<知恵>として通用していたもののこと,その当時の囚人仲間のことなどを思い出してみるにつけても,身の上に起ったこの変化を自分のために幸せであったなどと考え,地下の囚人たちをあわれむようになるだろうとは,思わないかね?」(516C)

一旦太陽そのものを見るに至り,それが「自分たちが地下で見ていたすべてのものに対しても,ある仕方でその原因となっているものなのだ」(516B) ということを悟ったら,似像を真実だと思っている地下の囚人のことを憐れむだろうと。

「地下にいた当時,彼らはお互いのあいだで,いろいろと名誉だとか賞讃だとかを与え合っていたものだった。とくに,つぎつぎと通り過ぎて行く影を最も鋭く観察していて,そのなかのどれが通常は先に行き,どれが後に来て,どれとどれが同時に進行するのが常であるかをできるだけ多く記憶し,それにもとづいて,これからやって来ようとするものを推測する能力を最も多くもっているような者には,特別の栄誉が与えられることになっていた。」(516C)

ちょっとドキリとさせられる部分です。会社などの組織でうまく手柄を上げて昇進するような人を連想します(空想ですけど)。会社のトップであっても同じでしょう。ただ,現実社会でそれが必ずしも悪いこととも思えません。「善」ではないことは確かですが。

「そこでもし彼が,ずっとそこに拘禁されたままでいた者たちを相手にして,もう一度例のいろいろの影を判別しながら争わなければならないことになったとしたら,どうだろう―それは彼の目がまだ落着かずに,ぼんやりとしか見えない時期においてであり,しかも,目がそのようにそこに慣れるためには,少なからぬ時間を必要とすれば?そのようなとき,彼は失笑を買うようなことにならないだろうか。そして人々は彼について,あの男は上へ登って行ったために,目をすっかりだめにして帰ってきたのだと言い,上へ登って行くなどということは,試みるだけの値打さえもない,と言うのではなかろうか。こうして彼らは,囚人を解放して上のほうへ連れて行こうと企てる者に対して,もしこれを何とかして手のうちに捕えて殺すことができるならば,殺してしまうのではないだろうか?」(516E)

これは,解説にも書かれていることですが,それを見るまでもなく『ソクラテスの弁明』で描かれるソクラテス裁判を思い浮かべます。また,『ゴルギアス』でも似たことが書かれていました (517D も合わせて) が,その時は「迎合としての弁論術を持ち合わせていないがために死ぬのなら運命を受け入れる」ということが述べられていました。
また,「100分de名著」でも言われていましたが,もしそうやって「真実を見よう」といって地下から囚人たちを上へ連れて行こうとする人がいたら,その人の方が「お前こそ現実を見ろ!」と地下の囚人たちから言われて罰を受ける,というのはありそうなことです。
1つ前の部分もそうですが,「民主主義」(民主制)という観点からすると必ずしも間違っていないんじゃないか,という感じがしてしまうところはあります。もっと正確に言うと,間違っていると思っていてもそれが世間には受け入れらないんじゃないか,という感じでしょうか。

「知的世界には,最後にかろうじて見てとられるものとして,<善>の実相 (イデア) がある。いったんこれが見てとられたならば,この<善>の実相こそはあらゆるものにとって,すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ,考えが至らなければならぬ。すなわちそれは,<見られる世界>においては,光と光の主とを生み出し,<思惟によって知られる世界>においては,みずからが主となって君臨しつつ,真実性と知性とを提供するものであるのだ,と。そして,公私いずれにおいても思慮ある行ないをしようとする者は,この<善>の実相をこそ見なければならぬ,ということもね」(517B)

一応比喩自体の説明は終わって,再度善のイデアの話になりますが,ここでは「線分の比喩」と「太陽の比喩」が合わさったような感じで,コンパクトにまとまっています。
ここに至ると,「洞窟の比喩」というのはある意味では現実とイデア界の連続性の導入のようにも思えます。それは地下にいる人が急に太陽を見ても目がくらむので徐々に目を慣らす必要があるとか,地下の人に太陽を急に見ろと言っても逆に追い落とされるといった例にあるように,「あなたは線分上のどこにいる」とか「太陽を見ていない」といった 0 と 1 のような論理というか理屈だけで行っても無茶で,時間的・空間的に飛躍はできないということがいえるかもしれません。

「そもそも教育というものは,ある人々が世に宣言しながら主張しているような,そんなものではないということだ。彼らの主張によれば,魂のなかに知識がないなら,自分たちが知識をなかに入れてやるのだ,ということらしい―あたかも盲人の目のなかに,視力を外から植えつけるかのようにね」
「ええ,たしかにそのような主張が行なわれていますね」と彼は言った。
「ところがしかし,いまのわれわれの議論が示すところによれば」とぼくは言った,「ひとりひとりの人間がもっているそのような[真理を知るための]機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは,はじめから魂のなかに内在しているのであって,ただそれを―あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには,身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように―魂の全体といっしょに生成流転する世界から一転させて,実在および実在のうち最も光り輝くものを観ることに堪えうるようになるまで,導いて行かなければならないのだ。そして,その最も光り輝くものというのは,われわれの主張では,<善>にほかならぬ。そうではないかね?」
「そうです」
「それならば」とぼくは言った,「教育とは,まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく,いちばん効果的に達成されるかを考える,向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは,その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて,視力ははじめからもっているけれども,ただその向きが正しくなくて,見なければならぬ方向を見ていないから,その点を直すように工夫する技術なのだ」(518B)

プラトンの教育論?といったような内容といえるでしょうか。真理を知るための能力は予め魂の中に備わっていて,教育とは「向け変えの技術」である,というのは『メノン』などで言われる所謂「想起説」に基づく内容といえると思われます。
個人的にはこの後の例 (引用は略) も含めて『荀子』の性悪説を思い浮かべますが…。

「そこで,われわれ新国家を建設しようとする者の為すべきことは,次のことだ」とぼくは言った,「すなわちまず,最もすぐれた素質をもつ者たちをして,ぜひとも,われわれが先に最大の学問と呼んだところのものまで到達せしめるように,つまり,先述のような上昇の道を登りつめて<善>を見るように,強制を課するということ。そしてつぎに,彼らがそのように上昇して<善>をじゅうぶんに見たのちは,彼らに対して,現在許されているようなことをけっして許さないということ」
「どのようなことを許さないと言われるのですか?」
「そのまま上方に留まることをだ」とぼくは言った,「そして,もう一度前の囚人仲間のところへ降りて来ようとせず,彼らとともにその苦労と名誉を―それがつまらぬものであれ,ましなものであれ―分かち合おうとしないということをだ」(519C)

少し前ですが,ここの後半で言われている「そのまま上方に留まる」人を,「<幸福者の島>に移住した人」と語られています。真実を知っている人にとっては,そのままでいる方が幸福だが,しかし降りていって,似像を真実だと思っている人に伝道しなければならないと。
ただ,これを実践して殺されたのがソクラテスか?という気もします。他方で現代の「哲学」者もそうなのかもしれませんが,学問という枠内や,頭の中だけで何かやっているだけに甘んじていて (それが仕事だとすれば仕方ないと思いますが),現実世界に訴えかけるということはあまりないのではと思います。プラトンが言う「哲学者」と現代の「哲学」を専門とする人に対して感じる言いようのない断絶は,<幸福者の島>にい続けようとするかどうかの違いなのかもしれません。官僚出身の政治家は多くても,哲学出身の政治家なんてあんまり聞きませんしね。
それが現在の政治というものの原因なのか帰結なのか。
ただ一応,ここでソクラテスは,指導者としての教育の一部として哲学を学んだ場合である,ということを言っています。現代のように,大学で自分の好きなことを自由に学ぶのであれば,それを国家の役に立てるというのも<幸福者の島>に居続けるのも自由,ということになるのかもしれません。しかしそれは,勿体ないと思いますけどね…。

「『そしてこのようにしてこそ,われわれと君たちの国家には,目覚めた正気の統治が行なわれることになり,けっして現今の多くの国々におけるように,夢まぼろしの統治とはならないだろう。現在多くの国々を統治しているのは,影をめぐってお互いに相戦い,支配権力を求めて党派的抗争にあけくれるような人たちであり,彼らは支配権力をにぎることを,何か大へん善いこと (得になること) のように考えているのだ。しかしおそらく,真実はこうではあるまいか。つまり,その国において支配者となるべき人たちが,支配権力を積極的に求めることの最も少ない人間であるような国家,そういう国家こそが,最もよく,内部的な抗争の最も少ない状態で,治まるのであり,これと反対の人間を支配者としてもった国家は,その反対であるというのが,動かぬ必然なのだ』」(520C)

二重に括弧がついていますが,この部分はソクラテスが<幸福者の島>に居続けようとする哲学者に対して言おうとする言葉です。
「支配権力を求めることの最も少ない人間が支配者になれば,抗争の最も少ない状態で治まる」という下りは印象的です。まあ,常に本当を目指すのなら,そんな権力闘争をしている暇はないということでしょう。次にも関係してきます。

「もし君が,支配者となるべき人たちのために,支配者であることよりももっと善い生活を見つけてやることができるならば,善い政治の行なわれる国家は,君にとって実現可能となる。なぜなら,ただそのような国家においてのみ,真の意味での富者が支配することになろうから。真の意味での富者とはすなわち,黄金に富む者のことではなくて,幸福な人間がもたねばならぬ富―思慮あるすぐれた生―を豊かに所持する者のことだ。
これに反して,自分自身の善きものを欠いている飢えて貧しい人々が,善きものを公の場から引ったくって来なければならぬという下心のもとに公共の仕事に赴くならば,善い政治の行なわれる国家は実現不可能となる。なぜならその場合,支配の地位が人々の闘争の的となるため,この種の争いが内部から生じて固有の禍いとなり,彼ら自身のみならず,その他の国民同胞をも滅ぼしてしまうからだ」(521A)

この前半のように,政治を一段上から見下ろせるようなものが,真の哲学者の生活であるとソクラテスは言っています。
さて,なぜこういったことが現在の政治家には感じられないのか,と考えるとやはり絶対に正しいものというのはなくて,何が正しいのかは個人によって異なるという民主主義的な?前提があると思います。そこで共通に価値がある (と思われている),金銭や物質的な裕福,身体的な健康といったものを尺度として国民に訴求していくしかなくて,なかんずく「金(カネ)」なのでしょう。
それはどうしてもそうなるような気もしますが,政治家自身がそういうものを専ら追求していては,ソクラテスに言わせれば「善きものを欠いている飢えて貧しい人々」ということになるのでしょう。

ということで,今回は以上。
第7巻はまだまだ続き,では実際にそういう支配者となる人間にするにはどういった教育をなせばよいのか,ということがテーマになっていきますが,続きは第2弾にて。

プラトン『国家』第六巻メモ(3)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第六巻を読んだときのメモ第3弾。

ここでのテーマはずばり「(善の) イデア」といってもよいと思います。有名な「太陽の比喩」「線分の比喩」も出てきます (「洞窟の比喩」は第七巻)。
読み物としてプラトンを読む立場としては,いわゆる「イデア論」というのはどうでもいいことで,寧ろ後世の学問としての「哲学」という枠にプラトンを押し込めるような不遜なイメージがないともいえないようなものです。プラトンが著したものを「哲学」として捉えるだけでは,「哲学」として以上は何の役にも立たない,そしてそれはプラトンの意図したことではない,と思います(キリッ)。
…と,いうことで,必ずしも「イデア論」を理解しなくてもよい立場なのですが,ここに至っては,太陽の比喩の分かりやすさ,線分の比喩の意味不明さ (?) も相俟って,「イデア」という考え方のその強力さを実感します。とともに,メモにも書いたのですが,これまでに読んで来た対話篇にあまねく横たわってきたものが,少し姿を現わしたか,という感じも覚えました。
ちなみに,「理想」という言葉は元々西周が「イデア」を訳したものである,ということをどこかで読みました。

以下は読んだときのメモです。

「それというのも,君」とぼくは言った,「いましがたやっとの思いで宣言されたことを,あのときは口にするのがためらわれたからなのだ。しかしいまは,このことを宣言するだけの勇気が,われわれに完全に与えられたものとしよう―すなわち,われわれの任命する最も厳密な意味での守護者たちは,哲学者でなければならぬ,とね」(503B)

改めて哲人王のことが言われます。

「多分君は憶えているだろうが」とぼくは言った,「われわれは,魂における三つの種類のものを区別したうえで,そこから<正義>と<節制> と<勇気>と<知恵>について,それぞれが何であるかということを結論したのであった」(504A)

これは第四巻の主要なテーマでした。こういう感じでたまにおさらいをしてくれるのが,プラトンのいいところです。

「われわれはたしか,こう言っていたはずだ。―それらの徳の何であるかをできるかぎりよく見てとるためには,別のもっと長いまわり道が必要なのであって,そのまわり道を通って行けば,それらははっきりと明らかになるはずであるけれども,しかしそれまでに語られてきた事柄と同列の証明をつけ加えることなら,そのままの行き方でもできるだろう,とね。そうしたら君たちは,それで充分だと答えた。そこでそういう了解のもとに,あのときのことは語られたわけだが,それはどうもぼくには,厳密さに欠けるように見えた。しかし君たちにはあれで満足に見えたかどうかは,君たちから言ってもらわなければね」(504B)

だいぶ前の話のように思えますが,「別のまわり道」が必要,と言われたことはよく覚えていました。それだけコアなテーマという印象があったのかもしれません。

「それならば,君」とぼくは言った,「そういう任につく者は,もっと長いほうのまわり道を進まなければならない。そして体育で苦労するのにおとらず,学業においても苦労を積まなければならないのだ。そうでなければ,いまも言っていたように,その本分に最もふさわしい最大の学業の終極にまで到達することは,けっしてありえないだろう」(504C)

「国家と国法を守護する者」(504C) にとっては,この「まわり道」を進むことが必要ということになり,やっと語られることになりました。

「しかし,いったいあなたは,あなたが最大の学業と言われるものが何であるか,またその学業は何に関わるものなのかをあなたにたずねないままで,あなたを放免する人が誰かいるとお考えですか?」
「いや,けっして」とぼくは言った,「さあ,君もまたたずねたまえ。どっちみち君は,たしかにそれを一度ならず聞いたことがあるのだが,いまはそれに気づかないのか,あるいは,またしても,しつこくつかまえてぼくを困らせてやろうという魂胆なのか,どちらかなのだ。ぼくの思うには,きっと後者のほうだろ う。げんに君は,<善>の実相 (イデア) こそは学ぶべき最大のものであるということは,何度も聞いているはずだからね―この<善>の実相がつけ加わってはじめて,正しい事柄もその他の事柄も,有用・有益なものとなるのだ,と。」(504E)
「ありとあらゆるものを所有していても,しかしその所有が善い所有でないとしたら,何かの足しになると君は思うかね?あるいは,善を抜かして他のすべての事柄に知恵をもちながら,美しいもの・善いものについては何の知恵もないとしたら?」(505B)

…ということで,ついに「善のイデア」が出てきました。これが最大の学業とも言われていますが,「善のイデアが付け加わってはじめて,事柄は有用・有益なものとなる」「その所有が善い所有でないとしたら,何かの足しになるのか?」といったことは非常にプラトンらしさを感じます。
何というか,懐かしさに似た感じを覚えます。恐らく,今までのどの対話篇でも,ソクラテスの対話にはこれが通底していたからでしょう。

「ところでまた,君はこういうことも知っているはずだ,―その<善>とは,多くの人々には快楽のことだと思われているし,他方,もう少し気のきいた人々には知恵のことだと思われている,ということをね」
「ええ,もちろん」
「それからまた,友よ,後者のように考える人々は,その知恵とはいかなる知恵のことなのかを示すことができないで,しまいには,<善>を知る知恵がそれなのだ,などと言わざるをえなくなるということもね」(505B)

「善とは快楽か」というのは,『ピレボス』のテーマだったと思います (執筆されたのは『国家』より後ということだったと思いますが)。「善とは知恵か」というのは何となく直感的には間違ってもいなさそうという感じもありますが。もっともここでプラトンは必ずしもこれらをここで否定しているわけではなく,そういう考えもあると言いたいだけのようです。

「しかしどうだろう,この点は明らかとはいえないだろうか?―すなわち,正しいことや美しいこと (見ばえのよいこと) の場合は,そう思われるものを選ぶ人が多く,たとえ実際にはそうでなくても,とにかくそう思われることを行ない,そう思われるものを所有し,人からそう思われさえすればよいとする人々が多いだろう。しかし善いものとなると,もはや誰ひとりとして,自分の所有するものがただそう思われているというだけでは満足できないのであって,実際にそうであるものを求め,たんなる思われ (評判) は,この場合にはもう誰もその価値を認めないのではないか」(505D)

それはどうかなあ,と思ってしまった部分です。「正」「美」と「善」を対照していますが,仮に前者について「そう思われるものを選ぶ人が多い」のであるならば,実際には後者,つまり善についても,そう思われていることで満足するというのはありえるのでは,と一般的には思えるような気はします。
ただ,プラトンが言いたいのは,「次元が違う」というようなことなのかもしれません。「思われるものを選ぶ」という行為自体を束縛するのが「善」ということなのかもしれません。

「こうして,すべての魂がそれを追い求め,それのためにこそあらゆる行為をなすところのもの,―それがたしかに何ものかであると予感はしながらも,しかし,そもそもそれが何であるかについては,魂は困惑してじゅうぶんに把握することができず,さらに他の事柄の場合のように,動かぬ信念をもつこともできないでいるもの,―そしてまさにそのために,そういう他の事柄についても,そこに何か役に立つものがあったとしても,とらえそこなうことになってしまうのだが,― じつにこのような性格の,このように重大なものについて,われわれが万事を委ねるところの,国家における最もすぐれた人々までもがそのように不明のままであってよいと,はたしてわれわれは言ってよいものだろうか?」(505E)

ここは何というか,非常に素直に心の動きを描写しているという印象です。「そもそもそれが何であるかについては,魂は困惑してじゅうぶんに把握することができず」というのは,善というもののつかみどころのなさをよく表わしていると思います。

「自分の知らない事柄について,あたかも知っているかのように語るのが正しいことだと,君は思うのかね?」
「いいえ,けっして正しいこととは思いません」と彼は言った,「知っているかのように語るのはね。―しかし,自分の思っていることを,そのままただ自分の思うところを述べるというかたちでならば,当然話す気になってしかるべきでしょう」
「何だって?」とぼくは言った,「知識を欠いた思わくというものはどれもみな醜いものだということを,君は感じたことはないのかね?それの最上のものとて も,いわば盲目なのだ。―それとも,知ることなしに思わくだけで何か本当のことに行き当たる人たちは,盲人がひとり歩きして,たまたま道を間違えないとい うのと,どこか違うように思えるかね?」(506C)

ここは,アデイマントスがソクラテスに「善とは何か」を語らせようとして,ソクラテスが,自分ははっきりとは知らないので語ることはできないという意味で言った部分と思います。

「どうかゼウスに誓って,ソクラテス」と,ここでグラウコンが言った,「まるでもう終りまで来てしまったように引き下がらないでください。私たちとしては,あなたが<正義>や<節制>その他について話された,あれと同じ仕方で<善>についても説明してくださるなら,それで満足するでしょうから」
「それはもう,このぼくにしても,君」とぼくは言った,「それができたら大いに満足だろうよ。しかしぼくにはできないだろうし,できないのに気持だけが先に立って不体裁を演じ,笑い者になることだろうと,それが心配なのだ。
いや,幸福なる諸君よ,さしあたっていまのところは,<善>とはそれ自体としてそもそも何であるかということは,わきへのけておくことにしよう。なぜなら,それをとにかくぼくが何であると思うかということだけでも,そこまでいま到達するのは,現在の調子ではぼくの力に余ることのように思えるからだ。そのかわり,<善>の子供にあたると思われるもので,<善>に最もよく似ているように見えるものを,もし諸君がそれでよいと思うなら,語ることにしたいのだ。だが,それではだめだということなら,やめておこう」(506E)

ソクラテスはかたくなに,<善>とは何かを語ることを拒否?固辞?します。
というか多分,語れないというのは本当なのでしょう。語った瞬間にそれは違うものになってしまう,というものは実感としても結構ありますが <善> もそういうものなのかもしれません。とりあえずここでは,<善>の子供で妥協してもらうことになります。

「多くの美しいものがあり」とぼくは言った,「多くの善いものがあり,また同様にしてそれぞれいろいろのものがあると,われわれは主張し,言葉によって区別している」
「ええ,たしかに」
「われわれはまた,<美>そのものがあり,<善>そのものがあり,またこのようにして,先に多くのものとして立てたところのすべてのものについて,こんどは逆に,そのそれぞれのものの単一の相に応じてただ一つだけ実相 (イデア) があると定め,これを<まさにそれぞれであるところのもの>と呼んでいる」
「そのとおりです」
「さらにまた,われわれの主張では,一方のものは見られるけれども,思惟によって知られることはなく,他方,実相 (イデア) は思惟によって知られるけれども,見られることはない」(507B)

イデアについての分かりやすい説明だと思います。この <まさにそれぞれであるところのもの> というものこそは,他の対話篇 (正確には初期対話篇?) で散々追求されてきてその都度行き詰まり (アポリアー) に陥ってきたものでしょう。

「君は,いろいろの感覚の作り主が,見ることと見られることに関わる機能を,どれだけ特別に贅沢なものとして作ったかということに,気づいたことがあるだろうか?」
「いいえ,ぜんぜん」と彼。(507C)

僕も「いいえ,ぜんぜん」だったのですが (笑),言われてみると (この後の内容も含めてですが) 確かにそうなのかなと思ったりします。

「それでは」とぼくは言った,「ぼくが<善>の子供と言っていたのは,この太陽のことなのだと理解してくれたまえ。<善>はこれを, 自分と類比的なものとして生み出したのだ。すなわち,思惟によって知られる世界において,<善>が<知るもの>と<知られるもの>に対してもつ関係は,見られる世界において,太陽が<見るもの>と<見られるもの>に対してもつ関係とちょうど同じなのだ」(508B)

ここからが「太陽の比喩」です。そのまま <善> を太陽に喩えています。
以下,その説明が続きます。

「目というものは」とぼくは言った,「君も知っているように,もはやこれを,白昼の光が表面の色どりいっぱいに広がっているような事物には向けずに,夜の薄明りに蔽われている事物に向けるときには,ぼんやりとにぶって,盲目に近いような状態となり,純粋の視力を内に もっていないかのようにみえるものだ」
「大いにそのとおりです」と彼。
「けれども,思うに,陽光に明るく照らされている事物であれば,はっきりと見えて,同じその目の内に純粋の視力が宿っていることが明らかになるのだ」(508C)

「それでは,同様にして,魂の場合についても,次のことを心に留めてくれたまえ。―魂が,<真>と<有>を照らしているものへと向けられてそこに落着くときには,知が目覚めてそのものを認識し,その魂は知性をもっているとみられる。けれども,暗闇と入り混じったもの,すなわち,生成し 消滅するものへと向けられるときは,魂は思わくするばかりで,さまざまの思わくを上を下へと転変させるなかで,ぼんやりとしかわからず,こんどは知性をもっていないのと同じようなことになる」
「たしかにそういうことになります」
「それでは,このように,認識される対象には真理性を提供し,認識する主体には認識機能を提供するものこそが,<善>の実相 (イデア) にほかならないのだと,確言してくれたまえ。それは知識と真理の原因 (根拠) なのであって,たしかにそれ自身認識の対象となるものと考えなければならないが,しかし,認識と真理とはどちらもかくも美しいものではあるけれども,<善>はこの両者とは別のものであり,これらよりもさらに美しいものと考えてこそ,君の考えは正しいことになるだろう。これに対して知識と真理とは,ちょうど先の場合に,光と視覚を太陽に似たものとみなすのは正しいけれども,それがそのまま太陽であると考えるのは正しくなかったのと同じように,この場合も,この両者を<善>に似たものとみなすのは正しいけれども,しかし両者のどちらかでも,これをそのまま<善>にほかならないと考えるのは正しくないのであって,<善>のあり方はもっと貴重なものとしなければならないのだ」(508D)

「ぼくの思うには,太陽は,見られる事物に対して,ただその見られるというはたらきを与えるだけではなく,さらに,それらを生成させ,成長させ,養い育くむものでもあると,君は言うだろう―ただし,それ自分がそのまま生成ではないけれども」
「ええ,むろん生成ではありません」
「それなら同様にして,認識の対象となるもろもろのものにとっても,ただその認識されるということが,<善>によって確保されるだけでなく,さらに,あるということ・その実在性もまた,<善>によってこそ,それらのものにそなわるようになるのだと言わなければならない―ただし,<善>は実在とそのまま同じではなく,位においても力においても,その実在のさらにかなたに超越してあるのだが」(509B)

…ということで,少し長く引用しましたが,太陽の比喩は3つの比喩の中では比較的単純というか,分かりやすいものだと思います。
<善> とは真理を照らし,またそれを認識する力を与える,と。これが,ものを見る時に太陽 (=光源) がない場合にはぼんやりとしか見えないことに喩えられていると。また,成長させるはたらきもあると。
ただ,これはあくまで比喩であるとソクラテスに強調させていたのも,何となく分かる気はします。イメージは確かにしやすいですが,だからといって,これでは <善> について根拠があって説明したことにはなりません。そして,それでよいのだとも思います。

「ではそれらを,一つの線分 [AB] が等しからざる部分 [AC, CB] に二分されたかたちで思い描いてもらって,さらにもう一度,それぞれの切断部分を―すなわち,見られる種族を表わす部分 [AC] と思惟によって知られる種族を表わす部分 [CB] とを―同じ比例に従って切断してくれたまえ。」(509E)

続いて,「線分の比喩」についても語られます。が,ここでは内容については省略します…。文章だけでは意味不明だと思われますし。本には線分の図 (編集時につけ加えたのだと思います) とともに分かりやすく説明されています。

「それならまた,このことも知っているだろう―彼らは目に見える形象を補助的に使用して,それらの形象についていろいろと論じるということを。ただしその場合,彼らが思考しているのは,それらの形象についてではなく,それを似像とする原物についてなのであり,彼らの論証は四角形そのもの,対角線そのもののためになされるのであって,図形に描かれる対角線のためではなく,その他同様である。彼らが立体像として作るものや図形として描くものは,それだけとってみれば,それのまた影も水面の似像として用い,思考によってしか見ることのできないようなかのものを,それ自体として見ようと求めているのだ」(510E)

数学の問題を解くときに描く図形とはいったい何なのか,ということが言われています。それはそこに書いた図そのものではなく,四角形なら「理想的な」四角形のはずです。それがここでは「原物」と言われていると思います。
この手のことを考えると結構迷宮に入ったようになりますが,例えば試験問題などで「角Aの大きさを求めよ」みたいなものがあったとして,条件に示された図形をコンパスと定規で正確に図示して,分度器で角度を測れば答えになるんじゃないか,みたいなことは中学生くらいの時に誰しも考えることだと思います。しかし「正確な」図示など不可能で,僕らは線分すら引けないはずなのです(笑)。角度を測っても,精度の問題に突き当たって,90度丁度とかの角度すらも描けないはずです。そういう意味では真理というのは数式とか言葉とかでは表せますが現実には存在しない,似像に過ぎない,と思えてしまいます。

「可知界を切り分けたもう一つの部分 [EB] として,ぼくが次のようなもののことを言おうとしているのだとわかってくれたまえ。―すなわちそれは,理 (ロゴス) がそれ自身で,問答 (対話) の力によって把握するところのものであって,この場合,理はさまざまの仮設 (ヒュポテシス) を絶対的始原とすることなく,文字通り <下に (ヒュポ) 置かれたもの (デシス)> となし,いわば踏み台として,また躍動のための拠り所として取り扱いつつ,それによってついに,もはや仮設ではないものにまで至り,万有の始原に到達することになる。そしていったんその始原を把握したうえで,こんどは逆に,始原に連絡し続くものをつぎつぎと触れたどりながら,最後の結末に至るまで下降して行くのであるが,その際,およそ感覚されるものを補助的に用いることはいっさいなく,ただ <実相> そのものだけを用いて,<実相> を通って <実相> へと動き,そして最後に <実相> において終るのだ」(511B)

可知界についてです (前に示した部分は可視界の話)。学術的なもの (線分では CE) は,仮設を超えたものは出ないが,「理 (ロゴス) がそれ自身で,問答 (対話) の力によって把握するところのもの」では,<実相>のみを使って仮設を超越して始原に達するらしいです。
何となく感覚的には分かる気もします。いわゆる「発明」「イノベーション」というものの説明のようにも思えます。また例えば将棋の指し手でも,手を読むことによらずに直観で絶妙手を発見する,ということがあると思われていると思います (自分でそういう手を発見した経験は思い浮かびませんが,例えば昔の竜王戦の羽生-谷川の△7七桂などが思い浮かびます)。つまり発見時は仮設や理屈を超越していますが,検証すると確かに理屈にも適うということはあります。このプロセスは,確かに「始原に連絡し続くものをつぎつぎと触れたどりながら,最後の結末に至るまで下降して行く」という説明とよく合うのです。
…こんな喩えも,僕のイメージに過ぎませんが,そもそも線分の比喩自体もイメージであり,それをどう理解するかは各人によって異なるでしょうから (学会・学界にはコンセンサスがあるでしょうが),ご容赦ください。

「実在し知られるものでは,問答 (対話) の知識によって観得されるものは,いわゆる『学術』によって考察されるものよりも,明確であるということですね。後者にとっては,さまざまの仮設がそのまま始原にほかならないのであって,考察にたずさわる人々は,感覚ではなく思考を用いて対象を考察しなければならないけれども,しかし彼らは始原にまでさかのぼって考究するのではなく,仮設から出発して考察するがゆえに,あなたの見るところでは,対象についてほんとうの <知> をもつに至らないのです―ただしそれらの対象は,ひとたび始原と関係づけられるならば,それとともに知性による把握のもとにおかれるものではあるけれども。」(511C)

これはグラウコンの言葉ですが,「申し分のないほど,よく理解してくれた」(511D) とソクラテスに褒められます。
ここの言葉でも,『学術』というものは線引きされたものである,というような認識が引き起こされるように思います。また「感覚ではなく思考」と言われていますが,思考というのは仮設から導かれる論理的な推論のことかなと思います。

ということで,メモは以上。
ここでの説明に出てくるような「イデア」は,プラトンの考えを理解するためには役に立つものだと思いました。
話としてはこの第六巻の終わり方は中途半端で,この後第七巻に入ってすぐ,3大比喩の最後の「洞窟の比喩」が出てきます。