プラトン『国家』第六巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第六巻を読んだときのメモ第2弾。

メモ第1弾の続きといった内容です。現存する国制では,哲学者による統治が行なわれるようなものはない,しかし可能性がないわけではないし,反対する人にも説明すれば納得するだろうと。
何となく楽観的という印象があります。大衆や,哲人政治に反対するであろう人たちにも,ここで対話されているようなことを説得できるだろうと言われたり,支配者の地位になるような人の中に哲学的素質が芽生える可能性も無くはないと言われたり。まあ楽観的じゃないと哲人政治なんて考えられず,逆にひたすら悲観的で人の善なるものを信じられないなら恐怖政治に陥るしかないのでしょう。だからプラトンはある意味では究極的な楽観主義者であるのかもしれません(笑)。ただまあ,そういうところもプラトンから学び取るべきことなのかもしれません。
なおイデアの本格導入や,太陽の比喩等は次のメモ第3弾に書く予定です。

以下は読書時のメモです。

「哲学に適合した国家のあり方とおっしゃるのは,現存するさまざまの国制のうちの,どれのことなのでしょうか?」
「けっしてどれでもない」とぼくは言った,「まさにそのことが,ぼくの不満とするところなのだ。現在行なわれている国制のうち,どれひとつとして哲学的素質に値するものはないという,そのことがね。だからこそまた,そのような素質はねじ曲げられ,変質させられることにもなるのだ」(497A)

現存するさまざまの国制,というのは実はまだ『国家』では殆ど具体的に述べられていません。第四巻の最後でこれから言及しようとしたところで,別のテーマ (3つの大浪) に移ってしまいました。それは第八巻まで待たねばならないことになります。いずれにせよ,それらは不適合だと。

「そこで君はつぎに,それならその最善の国制とは何かとたずねるだろうことは,よくわかっている」
「わかってはいませんよ」と彼は言った,「わたしがたずねようとしていたのは,そういうかたちの質問ではなくて,いったいその国制とは,われわれがこれまで国を建設しながら語ってきた国制と同じものなのか,それとも違うのか,ということです」(497C)

微妙に反抗的な態度を取るアデイマントスが印象的です(笑)。まあいずれにしても,これまで対話のテーマだった国家の国制ではどうなのか,という話になるのは流れとしては必定です。

「ぼくは熱意のあまり,大胆にも,こう言おうとしているのだよ―国家がこの哲学という仕事を扱う仕方は,現状とまったく反対でなければならない,とね」
「どのような意味で,でしょうか?」
「現状では」とぼくは言った,「哲学を手がける者があるとすれば,そういう人たちは,やっと子供から若者になったばかりのころ,家を持って生計を立てるようになるまでのあいだに,哲学の最も困難な部分に近づいてみたうえで離れ去ってしまう。そんな連中が,いちばんよく哲学を学んだ人たちと見なされてしまうようなありさまなのだ。最も困難な部分というのは,論理的な議論にかかわる部分のことだがね。―そしてそれから以降は,もし招かれてほかの人々のそういう議論の聴き手になることを承諾でもすれば,それで大したことをしたつもりになっている。哲学的な議論などは,片手間のこととしてなすべきだと思っているわけだからね。最後に,老年になると,ほんの少数の例外をのぞいて,彼らの内なる火はすっかり消えてしまう。もう二度と点火されることがないだけ,ヘラクレイトスの太陽よりもずっと完全にね」
「では,本来はどのようにすべきなのでしょうか?」と彼は言った。
「まったく正反対のやり方でなければならない。若者や子供のころには,若い年ごろにはふさわしい教養と哲学を手がけるべきだし,身体が成長して大人になりつつあるあいだは,身体のことにとくによく配慮して,哲学に奉仕するだけの基礎をつくらなければならない。年齢が長じて,魂の発育が完成期に入りはじめたならば,こんどは,そのほうの知的訓練を強化すべきである。そして,やがて体力が衰えて,政治や兵役の義務から解放されたならば,そのときこそはじめて,聖域に草食む羊たちのように自由の身となり,片手間の慰みごとをのぞいては他の一切を投げ打って,哲学に専心しなければならない。そうしてこそ人は幸せに生きることになる,死んでのちはあの世において,自分の生きてきた生のうえに,それにふさわしい運命をつけ加えることになるだろう」(497E)

『ゴルギアス』でのカリクレスは,確か大人になっても哲学を行なっているような人間はぶん殴ってやりたいみたいなことを言っていましたが(笑),ここではソクラテスに,歳をとるほど哲学に専心しないといけないと言わせています。
前半で,「哲学の最も困難な部分というのは,論理的な議論にかかわる部分」と言っていますが,勿論プラトンにとっての哲学は,真実を愛し,イデアを追求することなので,哲学とは何かということについてのギャップがあったということなのでしょう。

「われわれとしては,このトラシュマコスをも,その他の者たちをも説得してしまうまでは,あるいは少なくとも,この人たちが次の世に生まれかわって,いまと同じような議論をすることになったときのために,何ほどか役に立つことをしてやるまでは,けっして努力をゆるめないだろう」
「次の世とはまた」と彼は言った,「少しばかり先のことをおっしゃるものですね!」
「いやいや」とぼくは答えた,「それまでの時間などは無に等しいようなものだ―全永劫の時間を前にしてはね」(498D)

プラトン (ソクラテス) の時間に対する卓見を表す場所だと思います。

「こういった事情があればこそ」とぼくは言った,「またそれを予測したからこそ,われわれはあのとき,恐れながらも真実に強制されて,次のように言ったのだ―
さっき言ったような哲学者たちが,つまり,今日役立たずと呼ばれてはいるが,けっして碌でなしではないところの数少ない哲学者たちが,何らかのめぐり合せにより,欲すると欲しないとにかかわらず国のことを配慮するように強制され,国のほうも彼らの言うことを従順に聞くように強制されるのでなければ,あるいは,現に権力の座にある人々なり王位にある人々なりの息子,ないしはその当人が,何らかの神の霊感を受けて,真実の哲学への真実の恋情に取りつかれるのでなければ,それまでは国家も,国制も,さらには一個人も同様に,けっして完全な状態に達することはないだろう,と。
いま言った二つの条件のうち,どちらか一方,もしくは両方ともが,実際には実現不可能であると考える根拠はまったくない,とぼくは主張したい。もしそうなら,われわれは,たんなるむなしい祈りにしかすぎないような説をなす者として,正当に嘲笑されてしかるべきだろうからね。そうではあるまいか?」(499B)

「こういった事情」というのは,ここまで述べられたような哲学的な素質を持った人による支配や討論などを見たり聞いたりしたことがある人は殆どいない,というようなことですが,確かに何事もそういう理想というか,可能性を知らない,もしくは実現不可能と考えていると,といざチャンスがあったとしても活かせないような気がします。つまりプラトン (ソクラテス) は,確率的に「哲人王」が出現する可能性はあるはずだがそもそもそういう可能性が活かされていないわけだと見ているように思いました。

「ねえ,君」とぼくは言った,「大衆というものをそう無下に悪く言うものではないよ。彼らにしても,君が彼らと争うつもりでなく,穏やかに言い聞かせる気持で,学問愛好に対する偏見を解いてやり,君の言う<哲学者>とはどういう人々のことかを教えてやるならば,そして,彼ら自信が考えているような連中のことを君が言っているのだと思われないために,哲学者たちの自然的素質やその仕事のことを,さっきのようなやり方でちゃんと規定してやるならば,きっと意見を変えることだろう。それとも君は,たとえ彼らが君の説明どおりの見方をするとしても,違った意見をもち,違った答をするようにはならないと,言うつもりかね?いったい,誰にせよ,自分自身が悪意のない穏やかな者でありながら,怒ってもいない者に対して怒ったり,悪意のない者に対して悪意をもったりすると思うかね?」(499E)

基本的にプラトンが大衆のことをいつも悪く言っているじゃないかという気もしますが(笑),まあ彼らは誤解しているだけだと。

「ではまさにこの点についても,君は同じ考えだろうか?ほかでもない,多くの人々が哲学に対してきつく当ることのそもそもの責任は,その柄でもないのによそから入りこんできた,あの騒々しい連中にあるということだ。彼らは,お互いに罵り合い,喧嘩腰であって,いつも世間の人間たちのことばかり論じるという,およそ哲学には最もふさわしからぬことをしている」
「まったくです」と彼。(500B)

「あの騒々しい連中」とは勿論ソフィストを指すと考えられます。
ふと思ったのですが,プラトンは「ソフィスト」についてもイデア的なものを考えていたのかもしれません。「一部の若者たちがソフィストから害毒を受けている(が)…実際には,そういうことを言っている人々自身が最大のソフィストであって…」(492A) と前に言っていますが,つまり善のイデアと同様に,ソフィストのイデアというものがあって,ソフィストたち自身よりもそういう言動をさせているそのものを憎んでいたのかもしれません。

「彼らはその仕事にあたって」とぼくは言った,「いわば画布に相当するものとして,国家と,人間たちの品性とを受け取ったうえで,まず第一に,その画布の汚れを拭い去って浄らかにするだろう。これがそもそも,容易ならぬ仕事なのだ。だがいずれにせよ,君も知るように,彼らはすでにまずこの点において,他の者たちとは違うと言うべきだろう。すなわち,相手が一個人にせよ,国全体にせよ,これを清浄な状態で受け取るか,あるいは自分自身で清浄にするか,どちらかでなければ,それまではけっして手を着けようとせず,法を起草しようともしないという点においてね」(501A)

この辺りは,哲学者が,自己自身のように国全体をどう形作るかという話になっています。いわゆる「ゼロベースで」という感じなのでしょうか。

「さあ,これでわれわれは」とぼくは言った,「われわれを目がけてはげしい勢いで押し寄せてくると君が言っていた連中を,何とか説得することができるだろうか?彼らは,そんなやつに国を委ねるのかと怒ったが,あのときわれわれが彼らに推奨したのは,実はこのようにして国家のあり方を描く画家なのだ,と言ってね。どうだろう,彼らはいま,このことを聞いて,いくらか穏やかになってくれるだろうか?」
「いくらかどころか」と彼は言った,「ずっと穏やかになるでしょう。聞きわけがありさえすれば」
「じっさい,彼らにしても,どの点に異論を申し立てることができるだろう?哲学者とは,実在と真理を愛する者ではないとでも言うのだろうか?」(501C)

現実には全然穏やかになってくれないと思いますが(笑)。実在と真理を愛する者ばかりだといいんですけどね。前々から書いてますが,現代では物理的・経済的な利益を幸福であると考えがちだと思われます。そのために実在と真理をねじ曲げることを厭わない人も多いでしょう。見方によっては,ソクラテス流の対話によってそれを変えることができると信じているのがソクラテスであって,前向きだなあといつも思うようなところです。
また,くだんの連中も,「実際に自分が行なうのではなく,そういう考えの方が優れている」ということならば同意してくれるかもしれませんが…。

「ではどうだろう―そのような自然的素質が自分にぴったりと適合した仕事を与えられたとき,いやしくも何らかの素質がそうなるとすれば,まさにこのような自然的素質こそは,すぐれた性格,哲学的な性格として完成されるだろうということ,このことを否定するのだろうか?それとも,われわれが排除したような人たちのほうが,むしろそうなるなどと主張するだろうか?」
「むろん,そんなはずはありません」
「とすれば,哲学者の種族が国の支配者となるまでは,国家にとっても,国民にとっても,禍いのやむときはないだろうし,われわれが言葉によって物語っている国制が事実において完成されることもないだろう,とわれわれが言うのに対して,彼らは,なおも怒りつづけるだろうか?」(501D)

ということで,哲学者が支配者になることが,今までの国制を実現するための必要条件である,と「哲人王」と同じことが繰り返されます。

「さあそれでは」とぼくはつづけた,「彼らのほうは,この点をすっかり納得してくれたものとしよう。ところで,王位や権力の座にある人々の子供に,哲学的な素質を持った者がたまたま生まれてくるという可能性はないと言って,その点で異論を申し立てる人が誰かいるだろうか?」
「一人もいるはずがありません」と彼は言った。
「では,そういう素質に恵まれた者が生まれたとしても,どっちみち必ず堕落してしまう,と言い切ることが誰かにできるだろうか?」(502A)

今度は既に支配者になるべき人が哲学者になるというパターンについての問いで,これは No という答えが当然直後に言われます。
前に「確率的」ということを述べましたが,ここでも何となく確率的な意味を感じられます。普通は堕落するが中にはたまたま堕落しないような人もいると。
確率的,というのは言い換えれば生物学的,科学的であり,哲学の立場からすれば神の領域でもあると思います。そういうところが,プラトン対話篇で神話が多く出てくることと繋がってくるのかもしれないとふと思いました。

「そうするとどうやら,この立法の問題についていまわれわれに結論できることは,われわれの案は,もし実現できれば最善のものである,しかるにその実現は,困難ではあるけれどもけっして不可能ではないと,こういうことになるようだ」(502C)

「それでは,この点はやっとこれで片がついたわけだから,つぎに,残された問題を論じなければならない。それは,こういう問題だった。―われわれの国制の守り手となるべき者たちは,どのようなやり方で得られ,何を学び何を業とすることによって育成されるか,また,それぞれ何歳ぐらいのときに,それぞれの学問にたずさわったらよいか」(502C)

ということで,哲学者による支配というテーマが一段落ついたところで,ここからは本格的に「善のイデア」とは何かということを探求していくことになりますが,キリがいいのでここで一旦終ります。続きはメモ(3)に。

 

プラトン『国家』第六巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第六巻を読んだときのメモ第1弾。

第五巻では,3つの大浪という大きなテーマが扱われ,最後の大浪である「哲人王(哲人政治)」論が非常にインパクトを残しました。つまり「哲学者」が政治を行なうか,政治を行なうものが哲学を行なうべきであると。
この第六巻は,その「哲学者」を段々と浮き彫りにしていくという感じなのが前半です。プラトン (ソクラテス) が言う哲学者というものと,世の中の人が「役立たずで碌でなし」だと思っているという哲学者の,主客両面において論じられます。そして後半にはいよいよイデア論の3つの比喩のうちの「太陽の比喩」「線分の比喩」が出てきます。

今回改めて (2度目) 読んでみると,この第五巻~第六巻の流れは,プラトンが言う「哲学」というものを考える上では非常に重要な部分だなと思います。また今まで漠然と捉えていた「イデア論」というものが,この「哲学」とはっきり自分の中で結びついた感じがします。

このメモ第一弾では,前半の,哲学者に関するテーマの部分です。

「さて,グラウコン」とぼくはつづけた,「どのような人々が哲学者 (愛知者) であり,どのような人々がそうでないかということは,これまでのいくらか長い議論の末に,やっとどうやら明らかになったわけだね」(484A)

これは第五巻メモ(3) で扱ったようなことを受けています。「真実を観ることを,愛する人たち」(475E) というのが僕のお気に入りですが,それ以外にも色んな例を交えて単に知識を持つだけの人と区別されていました。

「では,われわれとしては」と彼は言った,「つぎに何をなすべきでしょうか?」
「まあ,順序をふんで行くよりほかはないさ」とぼくは言った。「哲学者とは,つねに恒常不変のあり方を保つものに触れることのできる人々のことであり,他方,そうすることができずに,さまざまに変転する雑多な事物のなかにさまよう人々は哲学者ではない,ということであれば,いったいどちらの種類の人々が,国の指導者とならなければならぬだろうか?」(484B)

国の指導者としてふさわしいのは,哲学者とそうでない人のどちら?という二択として再度問われていますが,「つねに恒常不変のあり方を保つもの」というのは勿論イデアを指していると思われます。ただイデアという概念は別にしても,ソフトウェア開発でも「安定したものに依存せよ」というようなオブジェクト指向での格言がありますが,変りやすいものと変りにくいものをちゃんと区別して,変りにくいものに拠り所を置けるほうが結果的に変りやすい情勢等に対応できることになるのかなと思ったりします。

「まず次の点は,哲学者たちの自然的素質について,すでにわれわれのあいだで同意ずみのこととしておこう。すなわち,彼ら哲学者たちは,生成と消滅によって動揺することなくつねに確固としてあるところの,かの真実在を開示してくれるような学問に対して,つねに積極的な熱情をもつということ」(485A)

ここから,哲学者の自然的素質について対話されます。哲学者の自然的素質が,前に述べられた国家の守護者の素質と一致すれば,哲学者が守護者となる根拠となることになります。

「ではつぎに考えてもらいたい。―将来,われわれが語ったような者になるべき人々は,いまのことに加えて,その自然的素質のなかにこういう点がなければならないかどうか」
「どのような点が,ですか?」
「偽りのなさ,すなわち,いかなることがあっても,けっしてみずからすすんで虚偽を受け入れることなく,これを憎み,そして真実を愛するという点だ」
「当然そうあってよいことです」と彼は言った。
「そうあってよいどころではない,友よ,およそ何ものかに対して生まれつき恋ごころをいだく者ならば,その恋する相手と同族・親近のものすべてに対して,どうしても愛情を寄せずにはいられないはずだ」(485B)

最初の条件もそうですが,大体同じようなことを繰り返している感もあります(笑)。ただ,ソクラテスの口調の強弱というのはあり,ここの「虚偽を憎んで真実を愛する」というところは,いい加減に同意したグラウコンに追撃を行なっています。
僕自身もこのフレーズは思い入れがあり,寺田寅彦の「夏目漱石先生の追憶」に似た内容が書かれています。哲学者に限らず,寅彦のような科学者にとっても,漱石のような文学者にとっても,真実を愛し偽を憎むというのは人として大切なことなのでしょう。

「ある人の欲望が,ものを学ぶことや,すべてそれに類する事柄へ向かってもっぱら流れている場合には,思うに,その人の欲望は,魂が純粋にそれ自身だけで楽しむような快楽に関わることになり,肉体的な快楽については,その流れが涸れることになるだろう。もしその人の<知>を求める気持が,見せかけだけのものでなく,心底からのものだとすればね」(485D)

これも『国家』でしばしば使われるデジタル的論理だと思いますが,真実を求めようとするならば他の雑多な欲望に気をとられることはないと。

「さらにまた,もうひとつ,君が哲学的素質とそうでないものとを区別しようとするとき,しらべなければならぬ点がある」
「と言いますと?」
「けちな根性を少しでももっているのを見逃してはいけない,ということだ。なぜなら,およそ狭量な精神というものくらい,万有の全体を―神的なものも人間的なものも―つねに憧れ求めようとするほどの魂と,正反対の性格のものはないからだ」(486A)

ここはケチな自分には耳が痛い部分です(笑)。昨今ではエコであるという風に褒められることもあり,それは「節制」にも繋がることもあると思うケチですが,狭量な精神をそういう耳障りのよい言葉にすり変えることがないようにしないととは思います。

「それならどうだろう―端正で,物欲がなく,けちな奴隷根性もなく,ほら吹きでもなく,臆病でもないような人が,つき合いにくい人間だったり,不正直だったりすることがありうるだろうか?」
「ありえません」
「それなら君は,その点についても,哲学者たるべき魂かそうでないかをしらべるにあたって,相手が幼少のころから早々に,よくしらべなければならないだろう。つまり,公正にして穏和な魂であるか,それとも,交わりがたく粗暴な魂であるかをね」(486B)

途中飛ばした部分もありますが,この引用の始めに述べられているような魂を持つのが哲学者であるというまとめです。なかなかいそうでいないのかもしれません。

「してみると,われわれは,他のさまざまの条件に加えて,生まれつき度を守り優雅さをそなえた精神を求めるべきだろう。そのような精神は,もって生まれた素質におのずから促されて,それぞれの真実在の実相へと容易に導かれて行くだろうから」(486D)

「では,哲学がこのような仕事であるとすれば,君はこの仕事に対して,一点の非難の余地でも見出すことができるかね?それは,生来の自然的素質において記憶がよく,ものわかりがよく,度量が大きく,優雅で,真理と正義と勇気と節制とを愛して,それらと同族の者でないかぎり,けっしてじゅうぶんに修めることのできないような仕事なのだ」(487A)

最後の「真理と正義と勇気と節制」というのは,第四巻で国家および守護者が備えるべきものとして挙げられていたものです。

「私がこのようなことを言うのは,現状に目を向けたうえでのことなのです。なぜなら,現にいま,人は次のように言うかもしれませんからね―
『たしかに,言葉のうえでは,質問されたひとつひとつの点についてあなたに反対することはできない。しかし事実において目にするところは違うのだ。実情はといえば,哲学を志して,若いときに教養の仕上げのつもりでそれに触れたうえで足を洗うということをせずに,必要以上に長いあいだ哲学に時を過した人たちは,その大多数が,よしまったくの碌でなしとは言わぬとしても,正常な人間からほど遠い者になってしまう。最も優秀だと思われていた人たちでさえも,あなたが賞揚するこの仕事のおかげで,国家社会に役立たない人間となってしまうことだけはたしかなのだ』」(487C)

ここから少し場面が転換します。アデイマントスが,現実に哲学がどう人々から思われているか,ということを問題にして,ソクラテスに問います。ここで言われていることは,『ゴルギアス』でカリクレスが言ったことに似ています。

「聞かせてあげよう―このぼくには,彼らの言うことがほんとうだと思われる,とね」
「それならいったい」と彼は言った,「哲学者たちが国々を支配するときが来るまでは国家は禍いから解放されないだろうと言える根拠が,どこにあるのです?その当の哲学者たちが国の役に立たない人間であるということに,われわれが同意するとしたら?」(487D)

「えっ本当なんですか?」と思わず言いたくなるところです。勿論プラトンは,哲学者そのものが役に立たないとソクラテスに言わしめているわけではない,と思います。

「それではまず,哲学者たちが国のなかで尊敬されていないことを不思議がっているとかいうその人に,いまの比喩を教えてやりたまえ。そして,もし哲学者たちが尊敬されたとしたら,そのほうがよほど不思議だということを,納得させるように努めてくれたまえ」
「ええ,教えてやりましょう」と彼。
「それからまた,君の言うことは正しい,たしかに哲学をしている最もすぐれた人々でさえ,一般大衆にとっては役に立たない人間なのだ,ともね。ただし,役に立たないことの責は,役に立てようとしない者たちにこそ問うべきであって,すぐれた人々自身に問うべきではないのだと,命じてやりたまえ。…本来からいえば,金持ちであろうが貧乏人であろうが,病気になれば医者の門を叩かなければならないし,一般に支配を受ける必要のある者はすべて,支配する能力のある者の門を叩かねばならぬというのが,ほんとうなのだ。いやしくも真に有為の支配者であるならば,支配者のほうから被支配者に向かって,支配されてくれなどと願うべきではない」(489B)

間を結構飛ばしましたが,この直前に,船と船乗りの比喩による説明がソクラテスからなされています。多くの船乗りは技術を学んだこともないのに,自分に舵を任せてくれと船主に頼み込み,反対する人を追い落とそうとする。また,本当に技術を持っている人を,役立たず呼ばわりする,というような内容です。
前の段で,「彼らの言うことは本当だと思われる」とソクラテスが言ったのは,「一般大衆にとっては」という意味なのだろうと思います。ただ,ここでの「役に立たないことの責は,役に立てようとしない者たちにこそ問うべき」なども含めて結構上から目線な感じは受けますね。プラトンらしくはありますが。

「つぎに,こんどは,多くの人々がなぜ碌でなしにならざるをえないかということのほうについて,話すことにしようか。そしてできれば,このことの原因もやはり,哲学そのものにあるのではないということを,示すように努めようか」(489D)

「それなら,次のように言えば,われわれは哲学者を適切に弁護することになるのではないだろうか?―すなわち,心底から学ぶことを好む者は,真実在に向かって熱心に努力するように生まれついているのであって,一般にあると思われている雑多な個々の事物の上にとどまって,ぐずぐずしているようなことはないのだ。そのような人は,真実在に触れることがその本来の機能であるような魂の部分―真実在と同族関係にある部分―によって,<まさに何々であるところのもの>と呼ばれるべき,それぞれのものの本性にしっかりと触れるまでは,ひたすらに進み,勢いを鈍らせず,恋情をやめることがない。彼は魂のその部分によって,真の実在に接し,交わり,知性と真実とを産んだうえで,知識を得て,まことの生活を生き,はぐくまれて行く。そのようにしてはじめて,彼の産みの苦しみはやみ,それまではやむことがないのだ,と」(490A)

この部分は,『テアイテトス』に出てくる「産婆術」を思い出しました。これもプラトンが理想とする哲学者像の表現でしょうが,ソクラテス自身といってもよいでしょう。

「それでは」とぼくは言った,「このような自然的素質が,多くの人々の場合,どのようにして損なわれていくか,その堕落の原因を考えてみなければならない。ほんの少数の者だけがこの堕落からまぬかれるけれども,残ったこの少数の者が,世間で『碌でなしとは言わぬまでも,役立たずの者たち』と呼ばれている人たちなのだ。
そしてそのつぎに,こんどは,この哲学的素質を真似し装って,その仕事のなかに居坐っている者たちを観察しなければならない。その魂の自然的素質がどのようなものでありながら,自分にそぐわない,自分の力以上の仕事のなかにやってきて,いろいろとへまをやらかしては,あらゆる仕方であらゆる人々のあいだに,君の言うような評判を哲学に対して与えるようになったかを,究明しなければならない」(490E)

完全無欠のように言われていた哲学者 (哲学的素質) が,どのように堕落するのかという話になってきます。少し面白くなってきました(笑)。

「こうして,われわれが規定したような哲学者の自然的素質は,思うに,もし適切な教育を与えられるならば,成長して必ずやあらゆる徳性に達するであろうが,逆に,もしふさわしからぬところに蒔かれ植えられて,育てられるならば,たまたま運よく神の助けでもないかぎり,およそまったく正反対の結果にならざるを得ないだろう。
いったい,君もやはり多くの人々の考えと同じように,一部の若者たちがソフィストたちから害毒を受けているとか,ソフィストたちが個人的な教育を通じて害毒を―言うに値するほどの害毒を―与えているとかいうふうに,考えているのかね?むしろ実際には,そういうことを言っている人々自身こそが最大のソフィストなのであって,相手が若者であれ,もっと年取った人々であれ,男であれ女であれ,最も効果的な教育をほどこして,自分たちの思いどおりの人間に仕上げているのではないかね?」(492A)

ここで,最善の自然的素質に恵まれた人は,悪い方向へも最大になる素質があるといったような論が展開されます。また後半では,ソフィストについて言われます。流れとしては,本当の意味で哲学的な素質があるような人が,ソフィストによってそれが反対の方向に伸ばされてしまう,ということでしょうか。ソフィストの「教育」は具体的には次に続きます。

「次のような場合のことだ」とぼくは答えた,「彼ら大衆が国民議会だとか,法廷だとか,劇場だとか,陣営だとか,あるいはその他,何らかの公に催される多数者の集会において,大勢いっしょに腰をおろし,大騒ぎをしながら,そこで言われたり行なわれたりすることを,あるいは賞讃し,あるいは非難する―どちらの場合も,叫んだり手を叩いたりしながら,極端な仕方でね。さらに彼ら自身に加えて,岩々や彼らのいる場所までが,その音声を反響して,非難と賞讃の騒ぎを倍の大きさにするのだ。
このような状況のただなかにあって,若者は,諺にも言うように,『いったいどのような心臓 (こころ) になる』と思うかね?個人的に受けたどのような教育が,彼のために抵抗してくれると思うかね?そんな教育などは,このような非難・賞讃の洪水のために,ひとたまりもなく呑みこまれて,その流れのままにどこへでも流されて行ってしまうとは思わないかね?そしてその若者は,彼ら群集が美しいと主張するものをそのまま美しいと主張し,醜いと主張するものをそのまま醜いと主張するようになり,彼らが行なうとおりのことを自分の仕事とするようになり,かくて彼らと同じような人間となるのではなかろうか?」
「そうです,ソクラテス」とアデイマントスは答えた,「それはまったく避けられないことです」(492B)

プラトンの著書ではお馴染みという感もありますが,真実を求めるのではなく,多数者を味方につける力があるのがソフィストという感じでしょうか。確かにそんな状況になっては,真実を求めようとする心がくじけてしまいそうです。そして自らもソフィストのようになってしまうと。
これは現代でも十分あてはまるのかもしれません。どうしようもない政治家というのは沢山いると思いますが,それなりに素質があるから選ばれるのでしょうし,最初は高い志を持っていたはずです。しかし,セクハラヤジを飛ばす議員がいたり,それを事実上不問にする議会だったりすると (→2014年6月頃の都議会ですが),こういう下劣なやり方でもいいと思って堕ちてしまうのかもしれません。勿論会社などでも同じでしょう。

「そんなことを企てるだけでも,大へん愚かなことだといわなければならないだろう。なぜなら,彼ら大衆のほどこす教育に反するような教育によって,徳に関して異なった品性がかたちづくられるということは,いまもないし,これまでにもなかったし,これから先もけっしてないだろうから。少なくとも,友よ,人間の品性であるかぎりは」(492E)

「そんなこと」というのは,直前に書いたようなソフィストの教育に反対して勝つ,ということです。これを読むと,彼らの教育が何か正統なものという感じに読んでしまいそうですが,多分これは,「不正を受けても仕返しをしない…仕返しもまた不正である」というのと同じ意味で,ソフィストと反対のことをしようとすることが同じ次元で愚かであるという意味なんじゃないかと思います。

「例の,賃銭をもらって個人的に教えるほうの連中,―この連中のことをしも,彼ら大衆はソフィストと呼んで,自分たちの競争相手と考えているのだが,そのひとりひとりが実際に教えている内容といえば,まさにさっき話したような,そういう大衆自身の集合に際して形づくられる多数者の通年以外の何ものでもなく,それが,このソフィストたちが『知恵』と称するところのものにほかならない,ということだ」(493A)

ここで言われているソフィストは,明らかにプロタゴラスやヒッピアスといった有名なソフィストを念頭に置いていると思います。実際,これらソフィストの名前を冠した対話篇で,いかに彼らがそれで稼いでいるかということがよく書かれています。しかしここまで執拗に (とまでは行かないかもしれませんが) ソフィストを悪く言うのも品がないように思わないでもないです。が,プラトン (かソクラテス) にとってこれは宿命の敵だから仕方ないのでしょう。

「こういったすべてのことを,長いあいだいっしょにいて経験を積んだおかげで,よくのみこんでしまうと,彼はこれを『知恵』と呼び,ひとつの技術のかたちにまとめ上げたうえで,それを教えることへと向かうのだ。その動物が考えたり欲したりする,そういったさまざまのもののうち,何が<美>であり<醜>であるか,何が<善>であり<悪>であるか,何が<正>であり<不正>であるかについて,真実には何ひとつ知りもせずにね。こうした呼び方のすべてを,彼はその巨大な動物の考えに合わせて用いるのだ。つまり,その動物が喜ぶものを『善いもの』と呼び,その動物が嫌うものを『悪いもの』と呼んで,ほかにはそれらについて何ひとつ根拠をもっていない。要するに,必要やむをえざるものを『正しい事柄』と呼び,『美しい事柄』と呼んでいるだけのことであって,そういう<必要なもの>と<善いもの>とでは,その本性が真にどれだけ異なっているかについては,自分でも見きわめたことがないし,他人にも教え示すことができないのだ」(493B)

ここでは動物を思い通りに動かすという喩えですが,これも『ゴルギアス』で「迎合」と言われていたところの,弁論術の効果とよく似ています。つまり対象が喜び,自分の思い通りになりさえすればよく,そこにはここまで語られてきた「善」そのもの,「善」のイデア的なものは全く介在する余地はありません。それは明らかに哲学的なものではない,ということになります。

「それでは,種々雑多な人々の集まりからなる群集の気質や好みをよく心得ていることをもって,<知恵>であると考えている者―それは絵画の場合でも,音楽の場合でも,それからむろん政治の場合もそうだが―そういう者は,いま述べたような動物飼育者とくらべて,いささかでも違うところがあると思うかね?実際,もし誰かがそういう群集とつき合って,自分の詩その他の製作品や,国のための政策などを披露し,その際必要以上に自分を多数者の権威にゆだねるならば,そのような人は,何でも多数者がほめるとおりのことを為さざるをえないのは,まさに世に言うところの『ディオメデス的強制 (必然)』だろうからね。けれども,その多数者がほめることが,ほんとうに善いことであり美しいことであるという理由付けの議論となると,君はこれまでそういう連中のうちの誰かから,噴飯ものでないような議論を聞いたことがあるかね?」
「いいえ」と彼は言った,「将来も聞くことはないだろうと思います」(493C)

「必要以上に自分を多数者の権威にゆだねる」というのは,怖い響きです。

「では,これらすべての点をよく心にとめたうえで,さっきのことをもう一度思い起してくれたまえ。いったい大衆というものは,多くの美しい事物ならぬ<美>そのものの存在を,あるいは一般にそれぞれのものについて,多くの事物ならぬそれぞれのもの自体の存在を,容認したり信じたりすることがありうるだろうか?」
「とうてい無理でしょう」と彼は言った。
「してみると」とぼくは言った,「大衆は哲学者たりえないということになる」
「ええ」
「そして哲学をしている人々が彼ら大衆から非難されることも,どうしても避けられないということになる」
「避けられないことです」
「だからまた,群衆とつき合って彼らの気に入られようと望んでいる,先に話したような個人的な教育家たちからも,当然同じ態度をとられるだろう」
「明らかに」
「このような事情だとすれば,天性の哲学者のための救いとなるもの,―彼が最後の目標に到達するまで自分本来の仕事のなかに留まることを可能にするようなものを,君はいったいどこに見出すことができるかね?」(493D)

「大衆は哲学者たりえない」というのは思い切った言葉です。だから哲学者のことを理解できず,ソフィストに取り入れられる,と。そんな状況で,本当の哲学者は報われるのかと。
まあ大衆については,全員が全員,イデア的なものを理解しろというのはもとより無理な話という気もしますが,でも政治家とかはそんなことではいけないという気はします。

「以上のようにして,友よ,」とぼくは言った,「あたら最善の自然的素質が損なわれて行くのであり,それを堕落させて,最善の仕事へと赴くのを妨げる力は,これほどまでに大きいのだ。そうでなくてさえすぐれた素質というものは,われわれの主張するように,まれにしか生まれてこないものなのに…。そしてこのような素質をもった人間たちのなかからこそ,国と個人に対して最大の害悪をなす人たちも出てくるし,また,運よく望ましい方向へ流された場合には最大の善をなす人たちも,出てくるのだ。これに反して,ちっぽけな自然的素質は,国に対しても個人に対しても,大したことは,けっして何ひとつなさないだろう」(495A)

この直前に,すばらしい素質を持った若者が,いかに周囲から足を引っ張られて逆の方向に進んでしまうか,ということが語られます。また,この直後には,哲学を女性に喩えて (文法上女性名詞だかららしい) ,結ばれるにふさわしい人たちは脱落してしまい, 不似合いで卑しい人間たちが押しかける,とも言われます。なんかそう喩えられると,ちょっといたたまれなくなります…。

「さて,これら少数の人たちの一員となって,自分の所有するものがいかに快く祝福されたものであるかを味わい,他方,多数者の狂気というものを余すところなく見てきた者たち,―彼らはまた,次のような現実を思い知らされるわけなのだ。すなわち,国の政治に関しては,およそ誰ひとりとして,何ひとつ健全なことをしていないと言っても過言ではないし,正義を守るために相共に戦って身を全うすることのできるような,味方にすべき同志もいない。野獣のただなかに入りこんだひとりの人間同様に,不正に与する気もなければ,単身で万人の狂暴に抵抗するだけの力もないからには,国や友のために何か役立つことをするよりも前に身を滅ぼすことになり,かくて自己自身に対しても他人に対しても,無益な人間として終るほかはないだろう…
すべてこうしたことをよくよく考えてみたうえで,彼は,静かに自分の仕事だけをして行くという途を選ぶ。あたかも嵐のさなか,砂塵や強雨が風に吹きつけられてくるのを壁のかげに避けて立つ人のように,彼は,他の人々の目に余る不法を見ながらも,もし何とかして自分自身が,不正と不敬行為に汚されないままこの世の生を送ることができれば,そしてこの世を去るにあたっては,美しい希望をいだいて晴れ晴れと心安らかに去って行けるならば,それで満足するのだ」(496C)

何というか,非常に虚無的な話です。哲学的な素質を持った人が,現実を前に「静かに自分の仕事だけをして行くという途を選ぶ」…不正を犯さないことに満足して,静かに生きると。三顧の礼を受ける前の諸葛亮はこんな気持ちだったのでしょうか。
でも,現実はそうするしかないのかもしれない,と思うこともあります。会社に勤めている自分もそうですし,政治家でも何でもそうでしょうが,組織としての「善」と自分個人としての「善」のギャップは,如何ともしがたいものです。寧ろ,「恒産なくして恒心なし」というように,仕事では自分を殺してでも何とかやっていけて生活の糧があるから,プライベートでは自分を精一杯持つことができるのかも,とも思います。まあこんなことを言うとプラトンには怒られるでしょうがね(笑)。

「しかしね」とぼくは言った,「それだけでは,最大のことをなしとげたと言うわけにもいかない―彼の住む国家のあり方が,自分の素質にぴったりと適合したものでないならばね。なぜなら,そのようにぴったりと適合した国家においてこそ,彼自身ももっと成長するだろうし,個人的なものとともに公共の事柄をも,安全に救うことになるだろうから」(497A)

…と,プラトンはやはり自分の素質と国家のあり方が適合するほうがベターだと言います。こういう時,プラトンは前向きだなあと思います。何というか,それが可能であると疑わないところがです(笑)。でも「善」というものを,それが国家のものであれ個人のものであれ,疑うということに幸福はない,という気はします。

この後は,また哲学者による統治の可能性に関する話から,有名なイデアの比喩に話が移っていきますが,メモ第2弾に続く…。

プラトン『国家』第五巻メモ(3)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(上)) 第五巻を読んだときのメモ第3弾。

『国家』第五巻は「3つの大浪」とたとえられるソクラテスの説が披露され,メモ(1)と(2)で最初の2つの部分を取り上げたのですが,本メモ(3)は最大の大浪で,いわゆる「哲人王」「哲人政治論」と言われるものです。
『国家』の内容を紹介するときに,恐らく,序盤のトラシュマコスの激しい肉薄や,後半の「洞窟の比喩」などイデア論を譬えた比喩を抑えて,第1位に挙げられるのがこの「哲人王」の部分ではないでしょうか?確かにその内容は一見して分かりやすく印象的です。
また,前半では「実践は言論より真理に触れることが少ない」といった,常に理想というものを視界にとらえるプラトンらしい命題が言われ印象的です。また哲人政治について述べた後に,ではその哲学者とは一体どういう人なのか,ということも論じられます。ここもかなり重要なことが言われていると思います。最後に,「知識」と「思わく」の違いについても出てきます。

「と にかく,こういう国制がもし実現したとすれば,こういったすべての善い点や,ほかにもまだ無数の長所があるということは認めますから,もうこれ以上,制度そのもののことは話していただかなくても結構です。いまやわれわれは,肝心かなめの点を,すなわち,それが実現可能であるということ自体を,またいかにして実現可能であるかということを,われわれ自身に納得させるように努めるべきときです。そのほかのことについては,これで話を打ち切ることにしましょう」
「これはまた突然に」とぼくは言った,「ぼくの話に向かって襲撃をかけてきたね。ぼくがぐずぐずと引き延ばしているのを,容赦しないというのだね。おそらく君は,先の二つの大浪をぼくがやっとのことで逃れたところへ,君がいま差し向けてよこしたこの第三の浪こそ,三つのうちで最も大きく,最も厄介な大浪だということを,わかってくれていないのだろう。それがどんなものかを実際に見聞きしたなら,君はきっと,大いに寛大になってくれるだろう,―なるほど,これほど常識はずれの言説なら,ぼくがそれを口外して検討を試みるのを恐れてためらっていたのは,無理ではないとね」(471E)

ということで,メモ(2) の最後で急かされたように,ではどうすればそういう国家が実現できるのか?ということを語らされることになります。ソクラテスは,さきの2つの大浪よりも衝撃的な内容であることを予め印象付けます。

「いや, べつに。ただ,君にききたいのだが,もしわれわれが<正義>とはどのようなものかを発見したとした場合,われわれは,正しい人間というのもま た,<正義>そのものと少しも異なっていてはならぬ,あらゆる点でその<正義>の理想そのままでなければならぬ,というふうに要求するだろうか?それとも,できるだけそれに近い人間であって,他の誰よりも<正義>を分けもっているならば,それでよしとするだろうか?」
「そうです」と彼は答えた,「それでよしとするでしょう」
「とすれば」とぼくは言った,「われわれがこれまで,<正義>とはそれ自体としていかなるものであるか,また完全に正しい人間がもしいたとしたら,その場合それはどのような人間であるかを探求してきたのは,模範となるものを求める意味においてだったのだ。そして,<不正>や最も不正な人間のほうについても同様である。つまりそれは,そういう模範としての人間に着目して,彼らが幸・不幸に関してどのようなあり方を示すかをしらべ,それをわれわれ自身にも当てはめてみて,そういう人間に最もよく似た者はまた最もよく似た運命をもつであろうということに,同意せざるをえないようにするためだったので。われわれの目的はけっして,そのような模範が現実に存在しうるということを証明することではなかった」(472B)

…微妙に言い訳っぽい感じがしないでもないのですが,理想と現実が違うとしても理想が色あせるわけではないぞと。次に続きます。

「それなら,かりにわれわれが,語られたとおりに国家を統治することが実際に可能であるということを証明できないからといって,われわれの語った事柄がそれだけ価値を失うと思うかね?」
「けっしてそうは思いません」と彼。
「では,それが真実だと承知したまえ」とぼくは言った,「しかしながら,もしこのうえさらに君を満足させるために,この国家はどのようにすれば最もよく実現され,どのような条件のもとで最も可能であるかを証明することに努力しなければならないとすれば,そのような証明のために,もう一度同じ事を確認しておいてもらいたいのだ」
「どのようなことを?」
「いったい,言葉で語られるとおりの事柄が,そのまま行為のうちに実現されるということは,可能であろうか?むしろ,実践は言論よりも真理に触れることが少ないというのが,本来のあり方ではないだろうか?人はそう思わないかもしれない。しかし君は,これに同意するかね,しないかね?」
「同意します」と彼は答えた。
「それでは,われわれが言葉によって述べたとおりの事柄が,実際においても,何から何まで完全に行なわれうるということを示さなければならぬと,ぼくに無 理強いしないでくれたまえ。むしろ,どのようにすれば国家が,われわれの記述にできるだけ近い仕方で治められうるかを発見したならば,それでわれわれは, 事の実現可能性を見出して君の要求にこたえたことになるのだと,認めてくれたまえ。それとも,それだけの成果ではまだ不服かね?ぼくとしては満足できるのだが」
「ええ,わたしも同じです」と彼は答えた。(472E)

この内容も前の言葉に続くもので,国家についても今まで語られたことが実現できると証明できなくてもやむを得ない,寧ろ実現できなくても言論のほうが真理に近いと。
実現可能かどうかはまずは考えずに,理想の国家を打ち立てて,現実のほうをそこに近づけていく…というのは個人的には共感したい部分です。が,実際はどうかというと,例えばそういう姿勢がソフトウェア開発の世界では失敗しがちな事例が多いと思います。

また全く別の観点からいうと,プラトンのいう言論というのはやはり数学的だ,という思いがします。プラトンの理想というものは,数学では極限が表現できるのと似ているのかもしれません。例えば f(x) = log x は,x → ∞ のとき,f(x) → ∞ になりますが,log の増加率というのは非常に鈍くて f(1000000) でもたったの 6 です (底を 10 として)。それでも数学的には x → ∞ のとき,log x → ∞ で,これは「真理」です。
「実践は言論よりも真理に触れることが少ない」というのは,f(x) が ∞ になるような x は実感できないのが現実,というような感じともいえると思います。そしてプラトンは,数学という抽象化された世界と同様に,正義などの徳についても,x → ∞ に相当するような言論を立てようとしていた,という見方もできるかもしれません。数学の例えは不遜なのでここでやめますが,次の「哲人王」についてもこういう見方はありうるかもしれません。

「さあ,とうとう」とぼくは言った,「われわれが最大の浪にたと えていたものに,ぼくは直面するときがきた。だがとにかく,それは語られなければならぬ。たとえそれが,文字どおり笑いの大浪のように,嘲笑と軽蔑でぼくを 押し流してしまうことになろうとも。―では,これから言うことを,しらべてくれたまえ」
「言ってください」と彼はうながした。
「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った,「あるいは,現在王と呼ばれ,権力者と呼ばれている人たちが,真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり,すなわち,政治的権力と哲学的精神とが一体化されて,多くの人々の素質が,現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり,親愛なるグラウコンよ,国々にとって不幸のやむときはないし,また人類にとっても同様だとぼくは思う。 さらに,われわれが議論のうえで述べてきたような国制のあり方にしても,このことが果されないうちは,可能なかぎり実現されて日の光を見るということは, けっしてないだろう。
さあ,これがずっと前から,口にするのをぼくにためらわせていたことなのだ。世にも常識はずれなことが語られることになるだろうと,目に見えていたのでね。実際,国家のあり方としては,こうする以外には,個人生活においても公共の生活においても,幸福をもたらす途はありえないということを洞察するのは, むずかしいことだからね」(473C)

ここが,『国家』の最大のターニングポイントたる「哲人王」の記述のコアな部分だと思います。相当躊躇したあとにソクラテスの口からやっと出てきますが,内容自体は割とさらっと簡潔に語られます。
メモ(1) で,これは『国家』をここまで読んだ人へのご褒美だ,と書きましたが,単にここだけを読むのと,ここまでのソクラテスやグラウコン,アデイマントス,トラシュマコスたちの腐心を経てここまで辿り着いて読むのとでは違うでしょう。というか自分の場合は,「まあ普通じゃん」というような感じでした。この感じ方自体は普通ではない可能性はありますが(笑),でも何の突拍子もなく出てきたというより,他の対話篇を含めてプラトンがソクラテスに語らせてきたことがエッセンスとして凝縮されてきたという印象です。なので説明は不要という感じです。

ただ,以下に哲学者の定義も出てきますが,ここで言われている哲学者というのが,「いわゆる哲学者」ではないと考えられる,ということは念頭に置く必要があるように思います。「いわゆる哲学者」というのは今の少なくとも日本で哲学者と言った場合に認識される哲学者という意味です。はっきりいって何の役にも立たないことを考えている連中だと思われていると思います(笑)。あるいは「哲学」という学問に通じているとか,概念を系統立てて整理するとか,そういうイメージはあると思います。
ある意味では当たり前すぎる話ですが,プラトンが著した当時は学問としての「哲学」なんてなく,寧ろ (今で言う) 科学ともかなりごっちゃになっていたと思います。また,対話篇を読んでいても分かる通り,プラトンには何か統一的な概念を整理したいという意志があったとも思えません。ただソクラテスのように,物質的/経済的な利得ではなく,常に「善」なり「正義」なり (勿論それらの「イデア」といってもいいと思います) を追求し続ける人,という感じではないでしょうか。
極論すれば,「哲人王」論というのは,トートロジという気もするほどです。プラトンの言う哲学者は,ソクラテスのような,プラトンの理想とする考えを持った人間というようにも読めなくはないからです。だから象徴的ではありますが,他の対話篇も読んできた身からすると「普通じゃん」となるわけです。

「ソクラテス,何という言葉,何という説を,あなたは公表されたのでしょう!そんなことを口にされたからには,御覚悟くださいよ。いまやたちまち,あなたに向かって非常にたくさんの,しかもけっしてばかにならぬ連中が,いわば上着をかなぐり捨てて裸にな り,手あたりしだいの武器をつかんで,ひどい目にあわせてやるぞとばかり,血相かえて押し寄せてきますからね。その連中を言論によって防いで,攻撃を脱れるのでなければ,あなたはほんとうになぶりものにされて,思い知らされることになりますよ」
「そういうことになったのも」とぼくは答えた,「もとはといえば,君のせいではないのかね?」(473E)

ここまで恫喝っぽい表現もあんまりないと思いますが(笑),それだけ当時としてもこの説が異端であると思われる背景があったことを示しています。ソクラテスのとぼけ方は少し面白いところです。

「さ て,そこで思うのだが,もしわれわれが君の言うような連中の攻撃を何とか脱れようとするなら,哲学者たちこそが支配の任に当るべきだとわれわれがあえて主張する場合,われわれが<哲学者>と言うのはどのような人間のことなのかを,彼らに向かって正確に規定してやらねばなるまい。それがはっきり すれば,ある人々は生まれつき哲学にたずさわるとともに国の指導者になるのが適しているが,他の人々は哲学にたずさわることもなく指導者に従うのが適しているという事実を指摘することによって,われわれの立場を防禦することができようからね」(474B)

当然の流れですが,ここで哲学者を定義しようとします。

「では,次のことを肯定するか否定するかしてくれたまえ―ある人をあるものの欲求者であるとわれわれが言う場合,その人は,その欲求の対象の全部の種類を要求していると言うべきだろうか,それとも,ある種のものは欲求するが,ある種のものは欲求しないと言うべきだろうか」
「全部の種類を欲求していると言うべきです」
「では哲学者 (愛知者) もまた,知恵を欲求する者として,ある種の知恵は欲求するがある種の知恵は欲求しないと言うのではなく,どんな知恵でもすべて欲求する人である,と言うべきだろうね?」
「そのとおりです」(475B)

哲学者は,「特定の知恵ではなくどんな知恵でもすべて欲求する人」であると。

「これに反して,どんな学問でも選り好みせずに味わい知ろうとする者,喜んで学習に赴いて飽くことを知らない者は,これこそまさに,われわれが哲学者 (愛知者) であると主張してしかるべき者である。そうではないかね?」(475C)

この少し前に,学習について好き嫌いを言うものは「食物について好き嫌いを言うような者」というたとえもありました。

「そ うなりますと,たくさんの妙な連中があなたの言われた条件にかなう者だということになるでしょう。というのは,見物の好きな連中はみな,学ぶことに喜びを 感じるからこそ,見物好きであるのだと私は思いますし,また,聞くことを好む連中にしても,哲学者のうちに数えられるにしては,何かあまりにも奇妙すぎる人たちですからね。何しろ彼らは,哲学的な議論やそれに類する談論には,けっして自分からすすんで赴こうとはしないのに,合唱隊の歌を聴くことになると, まるで自分の耳を賃貸して,ありとあらゆる合唱隊を聞くことを契約してあるかのように,ディアニュシア祭のときなど,あちこちと駆けずりまわって,町で催される公演も村で催される公園も,一つ残らず聞きのがさないようにするのですからね。(475D)」

このグラウコンの指摘は私もそう思いました。知恵を欲求する人,学ぶことが好きな人はだれでも哲学者なのかと。

「では,真の哲学者とは」と彼はたずねた,「どのような人だと言われるのですか?」
「真実を観ることを」とぼくは答えた,「愛する人たちだ」(475E)

このソクラテスの答えは,噛み締めるしかありません。僕自身は,この答えで竹を割るように納得しました。哲人政治論よりもここのほうが重要でしょう。

「そ して,<正>と<不正>,<善>と<悪>,およびすべての実相 (エイドス) についても,同じことが言える。すなわち,それぞれは,それ自体としては一つのものであるけれども,いろいろの行為と結びつき,物体と結びつき,相互に結びつき合って,いたるところにその姿を現わすために,それぞれが多 (多くのもの) として現われるのだ。」(476A)

これはイデア論の説明と見ることができるのでしょう。が,イデア論云々はどうでもよく,「それ自体」というのがあり,それが姿を現したものもある,というのがここでは分かります。

「一方の人たちは」とぼくは言った,「つまり,いろいろのものを聞いたり見たりすることの好きな人たちは,美しい声とか,美しい色とか,美しい形とか,またすべてこの種のものによって形づくられた作品に愛着を寄せるけれども,<美>そのものの本性を見きわめてこれに愛着を寄せるということは,彼らの精神にはできないのだ」(476B)

この辺りは『饗宴』とも関係してきそうな内容ですが,「そのもの」ではなくてそれが現実に姿を映したもののみに愛着を寄せる人,「そのもの」を認められない者 (は,哲学者ではない) というのを言っています。
少し後に言われることですが,この人たちのことを,「知識」ではなく「思わく」を持つ者,であると語られます。

「ではどうだろう。いま言った人たちとは反対に,<美>そのものが確在することを信 じ, それ自体と,それを分けもっているものとを,ともに観てとる能力をもっていて,分けもっているもののほうを,元のもの自体であると考えたり,逆に元のもの自体を,それを分けもっているものであると考えたりしないような人,このような人のほうは,目を覚まして生きていると思うかね,夢を見ながら生きていると 思うかね?」
「まさに,はっきりと目を覚まして生きていると思います」(476C)

「そのもの」を観てとる能力がある人が,哲学者である,ということになります。
何となく仕事などでも実感する部分です。個別の細かい作業の手順を知っていることと,業務の本質を見抜いていることの違いに似ていると思いました。細かい作業手順を知っていても応用はできませんが,本質を見抜いていれば何かあっても即座に最善の対応ができるでしょう。

「では,ここにわれわれは,一つの論点を確立したことになるのではないか?この論点は,もっといろいろの仕方で考察したとしても揺がぬだろう。すなわちそれは,完全にあるものは完全に知られうるものであり,他方,まったくあらぬものはまったく知られえないものである,ということだ」(477A)

突然「ある」「あらぬ」といった話が出てきますが,これは<知識>と<思わく>の区別と連動しています。以下少し飛ばします。

「そうすると,<あるも の> には<知識>が対応し,他方,<無知>は必然的に<あらぬもの>に対応するのであれば,いま言われた中間的なものに対応するものとしては,<知識>と<無知>との,やはり中間にあるようなものを,求めなければならないのではないか―もしそのよ うなものがあるとすれば」(477A)

「ところで君は,少し前に,<知識>と<思わく>とは同一のものではないと認めていた」
「じっさい」と彼は言った,「誤ることのないものが,誤ることのあるものと同一のものであるなどと,いやしくも理をわきまえた人ならば,どうして考えることができましょう」
「うまい!」とぼくは言った,「では,<思わく>は<知識>とは別のものだということについて,われわれの間の意見の一致は明らかなわけだ」
「別のものです」(477E)

「すると<思わく>は,この両者の外にあるものだろうか?つまり,明確さにおいて<知>を超えるものであったり,あるいは,不明さの点で<無知>を超えるものであったりするのだろうか?」
「そのどちらでもありません」
「そうではなくて」とぼくは言った,「<思わく>は,<知>とくらべれば暗く,<無知>とくらべれば明るいものなのだと,そういうふうに君には思えるのだろうね?」
「まさにそのとおりです」と彼。
「両方の極の内に位置づけられるのだね?」
「ええ」
「そうすると<思わく>は,両者の中間的なものだということになるだろう」(478C)

ということで,<無知> (あらぬもの) というものが 0 で,<知> (あるもの) というものが 1 で,思わくというものはこの線分上の開区間のどこかにあるものである,というような意味のことが言われます。また,途中で知識というものは誤ることがないが,思わくというものは誤ることがある,ということも言われています。
「知識」と「思わく」については,『メノン』で,目的地に到達するまでの道を実際に歩いたことがあって「知っている」ことと,聞いたりして一応到達できそうという「思わく」,という例があったのを思い出しました。

「では,これだけの前提をもとに,あの有能な男―<美>そのものを認めず,恒常不変に同一のあり方を保つ<美>の実相 (イデア) というものがあることをまったく信じないで,多くの美しいものだけを認める男―あの男をして語らせ,答えしめよ,とぼくが言おう。それはさっきの見物好きの男,<美>や<正>やその他のものが一つであると人が言っても,けっして受けつけようとしない,あの男のことだ。
『君よ』とわれわれはこの男に言うだろう,『君の言うそれら多くの美しいもののなかに,醜く現われることのけっしてないようなものが,はたして一つでもあるだろうか?数々の正しいもののなかに,けっして不正に見えることのないようなものが,一つでもあるだろうか?数々の敬虔なもののなかに,けっして不敬虔に見えることのないようなものが,一つでもあるだろうか?』」
「いいえ」とグラウコンは言った,「それらのものは,必ずや,何らかの仕方で美しくあるようにも醜くあるようにも現われるものです。おたずねの他のすべてのものについても,そのことは不可避です」
「では,多くの二倍の分量のものはどうだろう?それらは,二倍のものであるとともに半分のものであるとも見なされることは,絶対にないだろうか?」
「いいえ」(479A)

「見物好きの男」が認めるのは,相対的なものであるようです。この手の議論はよくプラトン対話篇に出てきますね。

「したがって,多くの美しいものは見るけれども<美>そのものを観得することなく,他の者がそこまで導こうとしてもついて行くことのできない人たち,また,多くの正しいものは見るけれども<正>そのものを観得しない人たち,その他すべてにつけて同様の人たち―このような人たちは,万事を思わくしているだけであって,自分たちが思わくしているものを何ひとつ,ほんとうに知ってはいないのだと,そうわれわれは主張すべきだろう」(479E)

自分はどうなのだろう?と思わずにはいられない部分です。というより「そのものを観得する」ことは,目指すべきですが,「実践は言論より真理に触れることが少ない」ので現実には無理ということかもしれません。

「では,そのような人々は<愛知者>(哲学者) であるよりは <思わく愛好者> であると呼んだとしても,われわれはそれほど奇妙な言葉遣いをしたことにならないだろうね?そんな言い方をしたら,彼らはわれわれに対して,ひどく腹を立てるだろうか?」
「いいえ―彼らが私の言うことに従ってくれさえすればね」とグラウコンは言った,「真実のことに対して腹を立てるのは,許されないことですから」
「そうすると,それぞれのものについて,それ自体としてあるところのものに愛着を寄せる人々こそは,<思わく愛好者>ではなく,まさに<愛知者>(哲学者) と呼ばれるべき人々だということになるね?」
「まさしく,そのとおりです」(480A)

ということで,「哲人王」説の「哲学者」とはどういった人物であるべきか,という結論が得られました。ここで第五巻は終わりになります。

ようやく,『国家』も半分まで来ました。ターニングポイントにふさわしく,第五巻は3つの大浪というそれぞれ衝撃的な内容の説が語られ,面白かったと思います。

プラトン『国家』第五巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第五巻を読んだときのメモ第2弾。

「これらの女たちのすべては,これらの男たちすべての共有であり,誰か一人の女が一人の男と私的に同棲することは,いかな る者もこれをしてはならないこと。さらに子供たちもまた共有されるべきであり,親が自分の子を知ることも,子が親を知ることも許されないこと,というの だ」
「これはまた」と彼は言った,「その可能性も有益性も容易には信じられないということにかけて,さっきのよりもはるかに大きな浪ですね」(457C)

ということで,第1弾冒頭で予告した通り,本メモは第2の大浪である,妻子の共有の問題について話題にする部分がメインです。
こ れは相当とんでもない説が出てきたなという感じですが,グラウコンの反応の描き方で,当時でも信じがたい説であったということが分かります。ここに限った ことではないのですが,プラトン自身も相当抵抗があったはずの説が,対話篇という形では,ソクラテスの逡巡やソクラテスの対話相手の反応でそれを示すこと ができたというのは非常に意味があるなと思います。単なる論文形式だとしたら,自説を何の感情の起伏もなく述べるだけで終わりでしょう。
そして,ただとんでもないと一蹴してしまうには,自分はプラトンを信頼しすぎています。この説も,他の対話篇も含めてプラトンが追求してきた「真実」「善」「徳」というようなものの,1つの表象であると考えるべきである,と思います。
つまりこの説自体には,現代の視点からは見るべきものがないとしても,プラトンが唱えたというそのことに,プラトンが何を見出したのかということに,つまりその「イデア」に,思いを致すことに意味はあるでしょう。そしてそこからこの説を演繹しない現代というものを考えることも,何がしかの意味がありそうです。

「そ れでは,立法者としての君は」とぼくはつづけた,「男たちを選び出したのと同じようにして,できるだけこれと同じ素質の女たちを選び出して,彼らに引き渡 すだろう。そして,これらの男女は,家も食事も共同で,私的には誰もその種のものを何ひとつ所有していないのだから,みなが同じところでいっしょに暮すこ とになり,体育のときにもその他の教育を受けるときにも,いっしょに混じってやっているうちに,思うに,あの自然から与えられた必然性に導かれて,やがて 互いに結ばれるに至るだろう。―それとも君には,ぼくの言っていることが必然的な成行きだとは思えないかね?」
「ええ,それは幾何学的な必然性ではなく,恋の力がもつ必然性のしからしめるところですね」と彼は言った,「おそらくこの必然性のほうがもうひとつのよりも,多くの人々を説得して引っぱって行くことにかけては,より鋭い力をもっているでしょう」(458C)

この「必然的な成行き」はその通りだと思いますが,たまに思いますがプラトンはこういった自然というか慣性的なもののほうを恃んで,人の感情にはあまり信頼を置かないのかなという気もします。プラトンがというより,国の支配者がそうあるべきと考えているということかもしれません。

「ほ かでもない,彼ら支配者たちは」とぼくは答えた,「医者の場合でも,薬を必要とせずに養生法だけで治ってしまうような身体を扱う場合なら,それほど大した 医者でなくても間に合うとわれわれは考える。けれども,薬を与えなければならない場合になると,もっと勇気のある医者が必要であることをわれわれは知って いる」
「そのとおりでしょう。しかし,それでどうだと言われるのですか?」
「こういうことだ」とぼくは言った,「おそらくわれわれの国の支配者たちは,支配される者たちの利益のために,かなりしばしば偽りや欺きを用いなければならなくなるだろう。われわれはたしか,すべてそうした手段は,いわば薬として役立つものであると言ったはずだ」
「ええ,そしてそれには正しい理由がありました」と彼は言った。
「そこで,いま問題の結婚と子づくりにおいては,君が正しいと言うそのことが,どうやら,少なからず役割を果すことになるだろう」
「どのように,でしょうか?」
「これまでに同意された事柄からして」とぼくは答えた,「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと,できるだけしばしば交わらなければならないし,最も 劣った男たちと最も劣った女たちは,その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て,他方の子供たちは育ててはならない。もしこの羊の群 が,できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは,支配者たち自身以外には気づかれないように行なわれなければならない―もし守 護者たちの群がまた,できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば」(459C)

優れた人間を生ませるために,支配者 (≒国家) が結婚するカップルを取捨選択する,それは誰にも気づかれずに行なわれるべき,という恐ろしい考えです。この前後でも動物に譬えていますが,まさに人格というものを全く考えていません。しかしそれは逆に考えると,人格というものを考えなければ確かに最強じゃない?という気がしないでもありません。そしてプラトンは,そこまでして国を守る人間を育てなければならないと考えていたということかもしれません。
僕自身も一般化して考えがちなのですが,一応ここでソクラテスが言っているのは守護者が対象です。

「さらにまた若者たちのなかで,戦争その他の機会 にすぐれた働きを示す者たちには,他のさまざまの恩恵や褒賞とともに,とくに婦人たちと共寝する許しを,他の者よりも多く与えなければならない。同時にま たそのことにかこつけて,できるだけたくさんの子種がそのような人々からつくられるようにするためにもね」(460B)

なんかこの辺りは,男の視点であり,メモ(1)で述べられた男女の平等性の話はどこに行ったのか?と思わないでもありません。

「で,ぼくの思うに は,すぐれた人々の子供は,その役職の者たちがこれを受け取って囲い (保育所) へ運び,国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方,劣った者たちの子供や,また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には,これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」
「守護者たちの種族が,純粋のまま維持されるべきでしたらね」と彼は言った。(460C)

この劣った者や欠陥児についての言葉も,そうしたらどうなるのだろう?という人の心の奥底にくすぶっている思いを顕わにしている感があります。ソクラテスの言葉には打算がありませんが,同時に綺麗事というものもなく,劣った者に対しては時にかくも残酷な言葉が発せられることがあります。そしてグラウコンの突っ込みというかフォローがそれを正当化するというか,一見マイルドに見せる効果がある気がします。

「それもまた,たしかに適切な措置には違いありません」と彼は言った,「しかし,いったい彼らは,お互いの父たちや娘たちや,その他いまおっしゃったような親族を,どのようにして識別することになるのでしょうか?」
「まったく識別できないだろう」とぼくは言った,「しかし,彼らのうちのある者が花婿になった日から10ヶ月目,また場合によっては7ヶ月目に生まれた子 供たちがあれば,その人はその子供たちすべてを,男の子なら息子とよび,女の子なら娘と呼ぶだろうし,また子供たちのほうは彼を父と呼ぶことになるだろ う。同様にして,彼はこれらの子供の子供たちをすべて孫と呼び,逆に後者は前者を祖父や祖母と呼ぶだろう。他方また,自分の父親たちと母親たちが子をもう けていた期間に生まれた子供たちはすべて,お互いを兄弟と呼び姉妹と呼ぶだろう。したがって,いまわれわれが言っていたように,これらの者はお互いに関係 をもっていはいけないことになるのだ。ただし,兄弟たちと姉妹たちが一緒になることは,もし籤がそのように出て,さらにピュティア (デルポイ) の神託がそれをよしと告げるならば,法によって許されるだろう」
「おっしゃることはまったく正しいことです」と彼は言った。(461C)

ここで子供たちがどう共有されるのかということが言われます。同じ時期に生まれた子供は,皆兄弟で親にとっては皆息子/娘ということになります。というより自分の本当の親さえ識別できないといいます。

「では,楽しみと苦しみが共にされて,できるかぎりすべての国民が得失に関して同じことを等しく喜び,同じことを等しく悲しむような場合,この苦楽の共有は,国を結合させるのではないかね?」
「まったくそのとおりです」と彼。
「これに反して,そのような苦楽が個人的なものになって,国ないしは国民に起っている状態に対して,ある人々はそれを非常に悲しみ,ある人々はそれを非常に喜ぶような場合,この苦楽の私有化は,国を分裂させるのではないかね?」(462B)

これはまあ確かにその通りだと思います。家族とか仲間内を想像すれば言うまでもないことで,その延長が国家と考えれば分かりやすいです。そして現代は後半のケースになってきているとも思います。

「そ うするとまた,一人の人間のあり方に最も近い状態にある国家が,そうだということにもなるわけだね。―たとえば,われわれの一人が指を打たれたとする。そ のとき,身体中に行きわたって魂にまで届き,その内なる支配者のもとに一つの組織をかたちづくっている共同体が,全体としてそれを感知して,痛められたの は一つの部分だけであるのに,全体がこぞって同時にその痛みを共にする。そしてこのようにしてわれわれは,その人が指を痛めている,と言うことになるの だ。同じことは,人間の他のどの部分についてもいえるだろうね。一部分が痛んでいるときの苦しみについても,それが楽になるときの快さについても」
「ええ,同じことがいえます」と彼は言った,「そしておたずねの点については,最もよく治められている国家は,そのような一人の人間のあり方に最も近いものであるといえます」(462C)

さらに個人の場合まで遡って考えています。そもそも個人の正義∽国家の正義,という仮定が『国家』にはあります。

「それはつまり,『身内の者』は自分に所属している者であり,『よそ者』は自分に所属していない者であるとみなして,そう呼んでいるわけだね?」
「そのとおりです」
「では,君のところの守護者たちはどうかね?その誰かが守護者仲間の誰かをよそ者とみなしたり,そう呼んだりすることがありうるだろうか?」
「けっしてありえません」と彼は言った,「というのは,およそ誰と出会っても,兄弟や姉妹や,父や母や,息子や娘や,あるいはそのまた子供たちや親と出会ったものと考えるでしょうからね」
「ほんとうだ!よく言ってくれた」とぼくは言った。(463C)

ということで,先ほど「家族や仲間内の延長が国家と考えれば…」と書きましたが,妻子の共有というのは譬えではなく本当に家族の延長を国家としようという発想だといえます。
しかし世の中,家族だってそんなに仲がいい家族ばかりではないし,逆に家族だから許せないこともあるでしょう。家族の中で少しでも不穏な関係があると家族全体の雰囲気が悪くなったりすると思うので,いわんやこういう形で子供を共有したりしても,それで結束が固まるのかどうかは何とも言えない気がします。

「してみると,およそあらゆる国々にもまして,この国では,誰か一人が幸福であったり不幸であったりするとき,みなが一致して同じように,さっきわれわれが言っていた言い方で,私のことがうまく行っているとか,私のことがうまく行っていないとか言うだろうね?」
「その点も,まったくおっしゃるとおりです」と彼。(463E)
「ところで,こうしたことがどこから由来しているかといえば,ほかの制度もさることながら,とくに守護者たちの間で妻女と子供が共有されているからではないかね?」(464A)

…国民皆が一致して喜んだり悲しんだりするというのは,前にも書きましたが微妙に北朝鮮のような国を連想するんですよね…。勿論プラトンが目指している国家は独裁とは正反対の国制であって,あのようになるわけではないはずですが。

「そうすると,人々を助け護る任にある者たちの間での,子供と妻女の共有ということは,国家にとって最大の善をもたらす原因であると,われわれに明らかになったわけだ」
「ええ,間違いなく」と彼。
「さらにまたわれわれは,以前に述べた諸点とも一致整合していることになる。なぜなら,われわれはたしか,このように言っていたはずだから。―この人たち は家も土地もどんな持ちものも,いっさい自分だけのものとして私有してはならない,国を守る仕事の報酬として他の人々から暮しの糧を受け取って,みなで共 通に消費しなければならない,もし彼らが真の意味で守護者であろうとするならば,とね」(464B)

確かに後半の話は,以前話していた,報酬や土地の私有の禁止の延長線上で,子供と妻女も私有しないということが言われていると考えることもできる,と思いました。私有でないなら,(ここでの流れでは)国家による共有ということになります。

「で はどうだろう。お互いに対する裁判ごとや訴訟ごとは,彼らの間からいわば消え去ってしまうのではなかろうか―何しろ自分だけの所有物というのは身体一つだ けで,その他のものはみな共有なのだからね。このことからして,彼らは,人間たちが金銭や子供や親族を所有することによって起すいっさいの争いごととは, 縁のない者たちとなるのではないかね?」
「必ずや,そうしたことから解放されるはずです」と彼は言った。
「さらにはまた,暴行を受けたとか危害を加えられたとかいって裁判沙汰を起すことも,彼らの間では正当にはなされえないことなるだろう。なぜなら,同年輩 の者に対しては自分で身を守るのが立派で正しいことであるとわれわれは言って,自分の身体の保護を義務づけるだろうからね」(464D)

自分の身体以外のものは皆共有なので,争いが起こらないはずだと。
ところで,この共有ということをまさに共産主義というのかもしれません。というか正直読みながら「共産主義」「社会主義」という言葉はよく頭を掠めます。しかし現代の所謂共産(社会)主義という枠組みをプラトンの著書に当てはめる (そして切り捨てる) ことに意味があるとは思えません。いわんや,趣味として読んでいる身としてはなおさらです。

「そ れでは,憶えているかね?」とぼくは言った,「前の議論のなかで,あれは誰が論じたことだったか,われわれはこんなふうに言われて叱られたことがあった― われわれはいっこうに国の守護者たちを幸福にしていない,この守護者たちは国民のものすべてを所有できる立場にあるのに,何ひとつ持っていないのだから, とね。これに対してわれわれは,たしかこう答えたはずだ―その点はまたいずれ機会があれば,あらためて考察することになるだろう。いまわれわれは,守護者 たちをまさに守護者たらしめ,国家をできるかぎり最も幸福な国家たらしめることに専念しているところであって,国のなかの一つの階層にだけ目を向けて,こ れを幸福にしようとしているのではないのだ,と」
「憶えています」と彼。
「それならどうだろう,いまやわれわれには,国民を助け守る任にあるこれらの人々の生活は,いやしくもオリュンピア競技の勝者の生活よりも,はるかに立派 ですぐれていることが明らかになっている以上,よもや靴作りたちあるいはその他の職人たちの生活や,農夫たちの生活と比較してみる必要があるとは思われな いだろうね?」(465E)

前半のことは,丁度第四巻メモ(1)でアデイマントスが問うたことでした。その後で,妻子等の共有という話が加わったわけですが,それでもどういう論理でここで改めて守護者の生活が立派だと言っているのか,なかなか普通の感覚では理解しづらいです。
多分,個人の物理的あるいは経済的な利益を超越して,自分のものはすべて国家のものであり,本当に国家の幸福が自分の幸福であるというそれだけを考えないと,そういう境地に達しないのかもしれません。

「それなら君は」とぼくは言った,「賛成してくれるのだね―女たちがわれわれの述べたような仕方で,教育や子供 たちのことや他の国民たちを守護する仕事において,男たちと共同で事に当るということに?そして国に留まりまた戦争に赴いては,ちょうど犬たちのように, 共に国を守護し敵を追うことのほか,できるかぎりあらゆる仕事をあらゆる仕方で共に分担しなければならないということに?のみならずまた,そのようにする ことは最善のことをすることになるだろうし,女性が男性に対してもっている自然本来のあり方,すなわち,両性は本来お互いに共同するように生まれついてい るというそのあり方に,反することにもならないということにも,賛成してくれるのだね?」(466C)

これはどちらかといえばメモ(1)の部分のテーマのまとめのようなものになっています。

「ではどうかね,もし何らかの場合に危険を冒さなければならないのであれば,うまく危険を突破したときに彼らがよりすぐれた人間になるような機会においてこそ,そうしなければならないのではないか」(467B)

これはどんな時に息子を戦争に出すのか,という話の中の一節です。この辺りは割と日本の戦国時代とかに実際にありえた問題だろうなと思いました。

「しかし,きっとこのことになると」とぼくは言った,「君は賛成しないだろうな」
「どんなことですか?」
「ひとりひとりと口づけしたり,されたりすることだ」
「何にもましてそうしなければなりません」と彼は答えた,「そればかりか,私はそのことを規定した法に,次の一項をつけ加えます,―人々がその戦いに出征 している間は,何びともその勇士から口づけしたいと望まれたら,それを拒むことはできないとね。そうすればまた,もしたまたま誰かが,相手が男性であれ女 性であれ誰かを恋している場合,この武功の褒美をかちとることにいっそう熱心にはげむでしょうからね」
「それはすばらしい!」とぼくは言った,「じっさい,すぐれた人間に対しては,そのような人からできるだけ多くの子供が生まれるようにするために,ほかの 者よりも多く結婚の機会が与えられ,そのような人たちがそのために選択される機会は他の者よりも多いだろうということが,すでに言われたことでもあるし ね」(468B)

一応印象的だったのでメモを取ったのだと思いますが,なんかいちいちコメントをつけるのがバカらしくなってきました(笑)。

「ではこの点はどうだろう」とぼくは言った,「戦いに勝ったとき,死んだ者たちから武器以外のものを剥ぎ取るということ は,はたして立派な行為だろうか?そんなことは臆病者たちに対して,死者のまわりをうろつきながら何か必要な仕事をしているかのようなそぶりをさせて,げ んに戦っている敵に立ち向かって行かない口実を与えるものではあるまいか?そしてそのような掠奪のために,これまですでに多くの軍隊が滅んだのではないか ね?」
「ええ,たしかに」
「それにしても屍体から剥ぎ取るとは,卑しくもまた貪欲なことだとは思わないかね?真の敵はもはや飛び去って,戦うのに用いたものを後に残しているだけな のに,その死者の身体を敵とみなすとは,女々しくもまた狭小な精神のすることではないかね?それとも君には,そんなことをする者たちは,自分に投げられた 石に怒って,投げている人には構わない犬たちと,少しでも違ったことをしていると思えるかね?」(469C)

プラトンに,戦争の場面の具体的な描写というものは少ないと思いますが,ここでは敵の戦死者から武具を剥ぎ取ることを痛烈に批判しています。これは少し安心するところです。
そういえば『楊令伝』に,確か武松と李逵だったと思いますが,守りの戦で,倒した敵軍の死体を敵の進軍路に手厚く葬ったところ,敵軍は味方が埋まっている場所は通れないと,攻めに適したその道をあえて迂回して攻めて来たというのがあったのを思い出しました。

「それでは次のことを考えてみ たまえ」とぼくは言った,「現在一般に認められている意味での内乱において,何かそのようなことが起って一つの国が分裂するような場合には,もしそれぞれ 互いに一方の側の人々が他方の側の人々の田畑を荒したり,家々を焼いたりするならば,そうした内乱は忌わしいものと思われ,どちらの側の人々にも国を愛す る気持がないとみなされている。国を愛する者なら,育ての親であり生みの母であるものを荒廃させるようなことは,するに忍びないだろうからね。むしろ,そ ういう場合に勝ったほうの者のとるべき態度としては,負けたほうの人々から収穫を取り立てるぐらいが適切であり,お互いにやがて和解するはずであって,い つも戦い合っている間柄ではないと考えるべきだ,というふうに思われている」
「たしかにそのほうが」と彼はいった,「もうひとつの考え方よりも,はるかに穏当な考えですからね」(470D)

前のメモも一環ですが,ここでは「内乱」と「戦争」ということについて区別して言われています。内乱については,同じギリシア人で身内同士の争いであり,「相手を懲らしめる場合も,善意をもって正すのであって,けっして奴隷にしたり滅ぼしたりするようなことは考えないだろう。彼らは矯正者であって,敵として相対するのではないのだから」(471A)と。
ただ,これはどちらかというと「戦争」,つまり異民族との争いについては決然とした対応を取ると読み取ってしまうところだと思います…。違う民族か同じ民族か,ということは一体何が違うのか?と自分などは思ってしまうところですが世界的に見ても歴史的に見てもプラトンの言うことが現実に即しているとは思います。

「し かしそれはそれとして,ソクラテス,こうした話題について,この調子で話の進行をあなたにおまかせしていると,先ほどあなたがこれらすべての話題に入る前 に,ひとまずわきへ除けておかれたあの肝心の問題が,いつまでたっても取り上げられないことになるのではないでしょうか。―つまり,われわれが語っている この国制 (国家組織) は,実現可能であるか,また,いったいどのような仕方で実現することができるのか,という問題が,です。」(471C)

グラウコンが痺れを切らしてきました。確かに何が問題だったのかがよく分からなくなってくるという,いつものソクラテスの対話っぽくはなってきていました。

そこでここからは,ついに前半最大のターニングポイントである,第3の大浪について語られます。続きはメモ(3)に。

プラトン『国家』第五巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第五巻を読んだときのメモ第1弾。

第四巻の最後で,様々な国制について論じていこうとしており,第五巻のテーマも当然それになると思われましたが,そこでポレマルコスやトラシュマコスといった,第一巻で対話相手だった人物が久々に登場して,妻の問題,子供の問題についてのソクラテスの説明が足りないと異議を唱えます。
ソクラテス自身も,その点については騙しおおせようとするつもりだったことを認めます(笑)。そして男女の問題,妻子の共有の問題,そしてそういった理想の国制を実現するための条件といういわゆる「3つの大浪」を語ります。

1つ目の男女の問題は,今日でも通用するような (勿論科学的な知見の隔たりはあると思いますが) 非常にニュートラルで先進的な男女区別の論だと思いました。2つ目の妻子の共有の問題は,逆にぱっと見かなりトンデモな説としか思えません(笑)。いや,それもある種の先入観に囚われているからかもしれません。

3つ目の最大の大浪は,「哲人政治論」として『国家』の内容としても最も有名なものの内の1つだと思われます。全十巻の丁度中間地点,5合目まで来た読者へのご褒美?として非常に興味深い内容です。またこの辺りは本格的にいわゆるイデア論が導入されてくる箇所とも思われます。

本メモ第1弾では,1つ目の大浪についての対話の内容がテーマで,第2弾,第3弾でそれぞれの大浪について取り上げる予定です。

以下はメモです。

ここでぼくはそうした国家のことを,それぞれが一つから他の一つへと移り変って行くようにぼくに思われた順序に従って,つぎつぎに語って行くつもりであった。
ところが,ポレマルコスが―彼はアデイマントスから少し離れて坐っていたので手をのばし,アデイマントスの上着の肩のところを上から掴んで彼を引き寄せ,自分も身を乗り出しかがみこんで,何か二言三言ささやいた。ほかのことは何も聞きとれなかったが,彼がこう言ったのだけは耳に入った―「放免することにしようか?それともどうしたものだろう?」(449B)

「どうも私たちには」と彼は言った,「あなたがずるけて楽をしようとして,議論のなかから,けっして些細なものではない論題の全体をそっくりと,説明を避けるためにひそかに省いてしまっているとしか思えないのです。そしてあんなことをいともぞんざいに言ってのけながら,何とかごまかせるだろうと考えておいでのようです―妻女と子供については『友のものは皆のもの』になるだろうということは誰にも自明のことだ,などとね」(449C)

ということで,ソクラテスが色んな国制について話そうとしたところで,待ったがかかります。この劇場型の展開が面白いです。

ぼくは言った,
「このぼくを掴まえて,何ということを君たちはしてくれたのだ。国制の問題について,まるで最初から出直すのと変りのないような,どれほど大へんな議論を君たちはあらためて呼び起してくれるのか!ぼくとしては,この国制についてはもう話はすんだつもりで,よろこんでいたところなのに。君たちが言ったその問題は,あのとき言われたとおりに受け入れてくれて,そのままそっとしておいてもらえれば有難いと思いながらね。それをいま君たちはわざわざ呼び出すことによって,どれほどの議論の大群を呼び覚ますことになるか,君たちにはわかっていないのだ。ぼくにはその大群がまざまざと見えていたので,これはひどく厄介なことになりそうだと,それを回避するためにあのときは素通りしたのだが」(450A)

ソクラテスは,かなり強い調子でたしなめますが,半面,大きな問題であることを承知で,それを素通りしたことを認めます。
大きな問題であることを自覚しながらスルーしようとしたのは不誠実でソクラテスらしくないという気もしますが…。

「なるほど,自分の言おうとする事柄についてちゃんと知識をもっているという自信がこのぼくにあるのなら,その激励も役に立ったことだろう。なぜなら,もののわかった親しい人たちのなかで,最も重要で自分に親しい事柄について,真実を知っていて語るということは,安全で心もはずむことだからね。しかし,ぼくがまさにしようとしているように,確信もなく模索しながら同時に論をなすというのは,不安であぶなっかしいことだ。笑いものになるのがこわいのではない。そんな恐れなら,子供じみたことだからね。そうではなくて,真理を逸してつまずき,およそ最もつまずいてはならない事柄について,自分ばかりか親しい人たちまでも巻きぞえにして倒れることになるのではないかと,それがこわいのだ」(450E)

その問題を語らなかったのは,「確信もなく模索しながら同時に論をなす」ようなことだったから,「不安であぶなっかしいこと」だからと述べています。
心情としては,理解できる気もします。誰しも確信がないことを論じることほど,不安なこともなく,常に真理を探究するソクラテスにすればなおさらでしょう。
まあ何にしてもこれがプラトンの脚色で,ここで言われる「3つの大浪」については自分としても相当の衝撃を読み手に与えるということを,予め弁明しているフシが本巻には沢山出てきますがこれもその一環と言ってしまえばそれまででしょう。しかし後でも述べますが,こういうソクラテスの人間的な像を読者が読み取ることができる (→プラトンの人間像でもある) というのが対話篇の面白さです。

「いったい番犬のうちの女の犬たちは,男の犬たちが守るものと同じものをいっしょに守り,いっしょに獲物を追い,またそのほかの仕事も共通に分担しなければならないと,われわれは考えるだろうか?それとも,牝犬のほうは,子犬を産んで育てるためにそうした仕事はできないものとして,家の中にいるべきであり,牡犬が骨折り仕事や羊の群の世話いっさいを引き受けなければならに,と考えるだろうか?」
「すべての仕事を同じように分担しなければなりません」とかれは答えた,「両性の体力的な弱さ強さの差を考慮する点をのぞいてはね」
「ところでどんな動物でも」とぼくは言った,「共に同じ養育と教育を与えないでおいて,共に同じ目的のために使うことができるだろうか?」
「いいえ,できません」
「そうすると,女子も男子も同じ目的のために使おうとするなら,女たちにも同じことを教えなければならないわけだ」
「ええ」
「しかるに,男子には音楽・文芸と体育とが課せられたのだった」
「ええ」
「してみると,女子にもこの二つの術を課するほか,戦争に関する事柄も習わせ,そして男子と同じように扱わなければならないことになる」(451D)

ということで男女の区別についての対話に入っていきますが,ある意味ではこのグラウコンの言葉「すべての仕事を同じように分担しなければなりません」「両性の体力的な弱さ強さの差を考慮する点をのぞいてはね」で答えがコンパクトに尽くされていると言えるのかもしれません。

「しかしながら,思うに,人々が実際にやってみるうちに,着物を脱いで裸になるほうが,すべてそうしたことを包みかくすよりもよいとわかってからは,見た目のおかしさということもまた,理が最善と告げるものの前に,消えうせてしまったのだ。そしてこのことは,次のことを明らかに示した。すなわち,悪いもの以外のものをおかしいと考える者は愚か者であること。また,無知で劣悪なものの姿以外の何らかの光景に目を向けて,それをおかしいと見て物笑いの種としようとする者は,逆に美しいものの基準を真剣に求めるにあたっても,善いものを基準とせずに別の何かを目標として立てるものだということ」(452D)

着物を脱いで裸になるほうがよい,という理由はここでは分かりません…。ともあれここで印象に残ったのは,後半部分です。何かと笑いを取ることが重視される世の中なので。それは何なのか,と少し考えさせられます。

「『それなら君たちがいま言っていることは間違っているし自己矛盾だということに,どうしてもならざるをえないのではないか―何しろ君たちはこんどは逆に,男たちも女たちも,それぞれの自然本来の素質がまったくかけ隔っているにもかかわらず,同じことをしなければならないと主張しているのだからね』
―さあ君,これに対して何か弁明することができるかね?」
「そう急に言われても」と彼は言った,「とても容易に答えられるものではありません。」(453C)

男女の自然本来の素質が異なるのなら,すべきことも異なるのではないか,という仮想的な問いです。

「ほかでもない」とぼくは言った,「多くの人々が,自分ではそんなつもりでなくてもその中にはまりこんでしまって,実際には口論しているだけなのに,そうではなくて自分はまともな対話をしているのだ,と思いこんでいるようにぼくには見えるからだ。それというのも,彼らは論題になっている事柄を,その適切な種類ごとに分けて考察することができずに,ただ言葉尻だけをつかまえては相手の論旨を矛盾に追いこもうとするからなのであって,その場合お互いにしているのは,ただの口論であって対話ではないのだ」(454A)

ここでのソクラテスの言葉は,その前の仮想の議論相手の問いに対するものですが,なんかこの一節だけ取ってみても十分に通る内容だなという気がします。プラトンは「口論」「議論」という言葉を否定的に使ってソフィストと関連付け,「対話」という言葉を肯定的に使ってソクラテスや真実の探求の象徴と関連付けていると思います。

「同一ならざる自然的素質は同一の仕事にたずさわってはならないということを,われわれはまことに勇ましくもまた論争家流に,ただ言葉の上だけで追い求めている。他方しかし,いったいその自然的素質が異なるといい同じであるというのがどのような種類のものなのか,またわれわれが違った自然的素質には違った仕事を,同じ自然的素質には同じ仕事を割り当てたときに,その素質の異同ということをとくに何に関係するものとして規定したのか,といったことは,まったく考慮に入れていなかったのだ」(454B)

「だから」とぼくは言った,「男性と女性の場合についても同じように,もしある技術なり仕事なりにどちらか一方がとくに向いているとわかれば,そういう仕事をそれぞれに割り当てるべきだと,われわれは主張するだろう。けれども,もし女は子供を生み男は生ませるという,ただそのことだけが両性の相違点であるように見えるのならば,それだけではいっこうにまだ,われわれが問題としている点に関して女が男と異なっているということは,証明されたことにはならないと主張すべきだろう。そしてわれわれは依然として,われわれの国の守護者たちとその妻女たちとは,同じ仕事にたずさわらないければならないと考えつづけるだろう」(454D)

非常に論理的にソクラテスが問題を片付けたという印象です。もしこれに反論するとしたら,生物学的または統計的にここでいう「守護者」としてどちらかの性が優れているということを示す必要があると思います。
またここでは引用してませんが,「料理をしたり着物を織ったりということも,女性が得意だと思われている(が素質は男女とは関係ない)」ということも言われています(455C)。これもその通りだと思うわけですが,他方で,プラトンの時代も現代も結局あまり変わっていないというのは,男女区別の問題が今も昔も本質的に変わっていないということなのかと思う一方,それとも科学的に証明されていないだけでやはり女性の方がそういうことに向いているという原因が何かあるのではないか,という思いを抱かないでもありません。前者だとは思いますが。

「さあでは,答えてくれたまえ,とわれわれはその人に言うだろう―
自然本来の素質においてあることに向いているがある人は向いていない,と君が言っていたのは,一方の人はそのことを楽々と学ぶのに対して,他方は難渋しながら学ぶという場合のことかね。また一方は一を聞いて十を知るが,他方はさんざん教えられ練習しながら,教えられたことをおぼえることさえできないということかね。さらにまた,一方の人にあっては身体が精神に仕えてじゅうぶんに役立つのに,他方の人にとっては逆に妨げになるということかね。―はたして君は,こういったこと以外の何かによって,それぞれの事柄に生来向いている人とそうでない人とを区別していたのかね?」(455B)

ここではつまり,男女というのは「できる」「できない」という素質に全く介在するものではないということが言われています。そんなのはどっちにも関係なくできる人はできるしできない人はできないと。

「そうとすれば,友よ,国を治める上での仕事で,女が女であるがゆえにとくに引き受けねばならず,また男が男であるがゆえにとくに引き受けなければならないような仕事は,何もないということになる。むしろ,どちらの種族にも同じように,自然本来の素質としてさまざまのものがばらまかれていて,したがって女は女,男は男で,どちらもそれぞれの自然的素質に応じてどのような仕事にもあずかれるわけであり,ただすべてにつけて女は男よりも弱いというだけなのだ」(455D)

「したがって,国家を守護するという任務に必要な自然的素質そのものは,女のそれも男のそれも同じであるということになる。ただ一方は比較的弱く,他方は比較的強いという違いがあるだけだ」(456A)

「女は弱く,男は強いが自然的素質そのものは同じである」というのは簡単な結論といえると思いますが,現代でもそれなりに当てはまりそうです。ただ「女の方が弱い」ということを認めることが差別であると解釈すると,というかそれこそが,男女格差を助長するような気もします。
例えば,学校のマラソン大会で男子の方が距離が長く,女子の方が距離が短いということがあったとして,プラトンは決して差別とは言わないであろうことは話の流れから自明です。少し前のもそうですが,違いを認めることと区別・差別をするということは違うという,今でもよく言われそうなことがここでは書かれていて新鮮です。

「それならば守護者の妻女たちは着物を脱がなければならない―いやしくも,着物の代りに徳 (卓越性) をこそ身に着けるべきであるからには。そして戦争その他,国家の守護にかかわる任務に参加すべきであり,それ以外のことをしてはならないのだ。ただそうした任務そのもののうちでは,女性としての弱さを考慮して,男たちよりも軽い仕事を女たちに割り当てなければならないけれども。
裸の女たちを―それが最善のことであるがゆえに裸で体育にいそしむ女たちを―笑いものにするあの男はといえば,彼はまさしく『笑いの未熟な実を摘み取る者』にほかならず,どうやら,自分が笑っているものが何であるかをまったく知らず,自分のしていることの意味もわからないもののようだ。なぜならば,現在も未来も変らぬこの上なき名言は,こう告げているからだ―益になることは美しく,害になることは醜い,と」(457A)

もっと上にも出てきましたが,まあ別に着物を脱ぐことはないと思いますがね(笑)。
ところでこういう,最善であるからと裸になるというようなことと,そういうものを笑いものにするということは,対極にあることという気がします。個人的には前者を突き進むソクラテスは流石に堅苦しすぎるという気がします (まあこれが過激な言説だとは自身も認めていると思いますが)。かといって善なるものを笑いものにするのがいい傾向とも思えません。

「さてこれでわれわれは,女性に関する法を語るにあたっての,いわば一つの大浪を,無事に逃れることができたと主張して差支えないだろうね」(457B)
「ところが」とぼくは言った,「このつぎにやってくる浪を君が見たら,いまのを大きいなどとは言わなくなるだろう」(457C)

ということで第一の大浪についてはここまでです。この男女の問題については,ソクラテスの論理的かつ自然本来の素質を尊重する特徴がよい方に働いて,現在でも通用する説になっているのではないかと思います。次がとんでもないだけにね…。

で,ここからそのさらに凄い大浪が来るとソクラテスが予告している通り,また次も衝撃的な内容が語られますが続きはメモ(2)で。

プラトン『国家』第四巻メモ(3)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第四巻を読んだときのメモ第3弾。

前回のメモ第2弾で,国家としての<知恵><勇気><節制>そして<正義>についての対話を見てきました。今回はその続きで,個人としての<正義>を考える部分です。
基本的には,国家の場合の延長線上にあります。というのは,「ひとが同じ名で呼ぶものは,それが大きなものであれ,小さなものであれ,同じ名で呼ばれるちょうどそのその点に関する限り,似ている」(435A) と言われているからです。しかし対話の中では,人の性質 (=国家と同じような<知恵><勇気><節制>に当たる) というものが魂全体から出てくるものなのか,それとも魂の内の別々のはたらきから出てくるものなのか,ということが大きなテーマとなり,それを説明するために順序だてられたソクラテスの話が面白いです。
最後に,国制に関する話題を始めたところでこの第四巻が終わります。

以下は読書時のメモです。

「しかるに,国家が正しい国家であると考えられたのは,そのなかに素質の異なった三つの種族があって,そのそれぞれが自己本来の仕事を行なっているときのことであり,さらにまた,それが節制を保った国家,勇気ある国家,知恵ある国家であるのも,同じそれらの種族がもっている他の状態と持前によるものであった」
「そのとおりです」と彼は答えた。
「してみると,友よ,個人もまたそのように,自分の魂のなかに同じそうした種類のものをもち,それらが国家における三種族と同じ状態にあることによって,当然国家の場合と同じ名前で呼ばれてしかるべきことになると,われわれは期待しなければならないだろう」(435B)

ここが丁度話題の転換点で,これ以後,国家としての<正義>→個人としての<正義>の追求へと移っていきます。

「そして,いいかね,グラウコン,ぼくの考えを打ち明けていえば,こうした問題をほんとうに正確にとらえるということは,われわれがいま議論のなかで採用しているような行き方をもってしては,けっしてできないだろう。その目標へ到達するための道としては,別のもっと長い道があるのだから。ただしかし,これまで語られ考察されてきた事柄に相応するような把握の仕方なら,できるだろうがね」(435D)

「こうした問題」というのは,直前のやりとりから,個人の魂の中身がどうなっているのか,ということだと思います。国家→個人という帰納的なアプローチによると,国家の場合は確かに人の魂,心というものは考えずに現実を基にしていたと思います。しかしながら,ソクラテスも読者も本当に解明したいのは (そしてなかなか解明できないのが),この問題という気もします。解説によると,「別のもっと長い道」は第六巻で取り上げられることになるようです。

「いったい,われわれは同じ一つのものによって,いま挙げられたようなそれぞれの性格のことを行なうのであろうか,それとも,三つの異なったはたらきのものがあって,そのそれぞれによって別々のことを行なうのであろうか。つまり,われわれは,われわれの内なるある一つのものによって物を学び,また別のものによって気概にかられ,さらにまた第三のものによって,食べたり生んだりすることや,すべてそれに類することにまつわるさまざまの快楽を欲望するのであろうか。それとも,われわれが行動を起すときにはいつも,われわれは魂全体によってそれらのひとつひとつのことをするのであろうか―。このような問題になると,納得の行くような決定を与えるのが難しいことになるだろう」(436B)

急に自問しだすこの辺からソクラテスの寝技にかかるというか,一体何が対話の目的なのかが分かりづらくなってくるところです(笑)。ただあとから振り返ってみると,これが結局「自分のことをする」という国家に関して言われた<正義>を個人にも適用するための種になっていることが分かります。

「いうまでもなく,同一のものが,それの同一側面において,しかも同一のものとの関係において,同時に,相反することをしたりされたりすることはできないだろう。したがって,もし問題となっているものの間に,そういう事態が起るのをわれわれが見出すとすれば,それは同一のものではなくて,二つ以上のものであったことがわかるだろう」(436B)

これも急に何を言ってるのかという感じですが,布石の1つです。教科書に載っている数学の証明とかで,「補遺」とか言って何の関係もなさそうな定理をまず証明しておいて,それが元の問題の証明の最後に使われたりすることがありますがそれに似ていますね。
それはそれとして,ソクラテスはここで「独楽は静止していると同時に動いている」といったパラドックスを明確に論破しています。この辺りは科学の本を読んでいるようです。

「では,以上のとおりだとすれば,われわれは,<欲望>というものがあるひとつの種類をなしていて,そのなかでいちばんはっきりしているのは,われわれが渇きと飢えと呼ぶものであると,こう主張してよいのではないかね?」
「ええ,そう主張するでしょう」と彼は答えた。
「一方は飲み物への,他方は食物への欲望なのだね?」
「ええ」
「ところで,渇きというものは,それがただ渇きであるかぎりにおいては,いま言われたもの以上の何かに対する,魂のなかの欲望であろうか?たとえば,渇きははたして熱い飲み物や冷たい飲み物に対する渇きであり,あるいはたくさんの飲み物や少しの飲み物に対する渇きであり,一言でいえば,何らかの性質の飲み物に対する渇きなのであろうか?それとも,渇きのうえに熱さの感じが加わってはじめて,それは冷たい飲み物に対する欲望となり,冷たさの感じが加わってこそはじめて,熱い飲み物に対する欲望となるというのが,ほんとうであろうか?また,多量という性格が加わることによって渇きが大きな渇きとなるならば,それはたくさんの飲み物に対する欲望となり,逆に渇きがわずかな渇きであるならば,少しの飲み物に対する欲望になるのではなかろうか?そして渇きそれ自体は,それの本来対象であるところの,飲み物それ自体以外のものに対する欲望となることはけっしてなく,同様にしてまた,飢えの対象となるのは,ただ単純に食べ物なのではないだろうか?」
「そのとおりです」と彼は言った,「それぞれの欲望それ自体は,ただもっぱら,その本来の対象であるそれぞれのもの自体に対するものであって,対象が『これこれしかじかの』ものであるのは,欲望のほうにも何かがつけ加わっている場合です」(437D)

ここは非常にプラトンらしさを感じる部分です。次にも書きますが,何というか数学的なんですよね。

「だがしかし」とぼくは言った,「およそ何かあるものとの相関関係において成立しているようなものは,ぼくの考えでは,その当のものが何らかの性質のものであれば,相関する相手も何らかの性質のものであるが,それぞれのもの自体は,ただそれぞれのもの自体との関係においてのみあるのだ」(438B)

続きですが,こういう話になると,数直線とか x-y 平面とか,あるいは関数型言語の Map 関数とか Functor 型のようなものを思い浮かべてしまいます。「飲み物」と「渇き」が線形独立である,といったイメージでしょうか。まあこれは自分のイメージなのでどうでもいいのですが。

「では,知識に関することはどうだろう?そのあり方は同じではなかろうか。知識とは,それ自体としては,ただ学ばれるものそれ自体の知識なのであり,あるいは知識の対象を他のどのような言葉で規定すべきであるにせよ,そのもの自体だけにかかわるものであるが,しかし,ある特定の知識,何らかの性質の知識は,ある特定のもの,何らかの性質のものを対象とする。ぼくの言う意味は,次のようなことだ。―知識が家を作ることの知識として成立した場合には,それは他のもろもろの知識から区別されて,建築術と呼ばれることになるのではないかね?」
「ええ,それに違いありません」
「それは,その知識が他のどの知識とも違うような,ある特定の性質の知識であることによってではないかね?」
「ええ」
「その知識は,ある特定の性質のものを対象とするからこそ,それ自身もある特定の性質の知識となったのではないか。そして同じことは,他のさまざまの技術や知識の場合にもいえるだろうね?」
「そのとおりです」(438C)

「何らかの性質のものを対象とする知識は,何らかの性質の知識」というのは当たり前のようですが,今までの話の延長線上で考えるとなるほどなと思います。対象がない知識 (というか,個人の「善」になるような知識?) というものが真の知識という,普通とは逆の (つまり具体的でない知識に意味はないだろうというのとは逆の) 結論になってしまうのでは,とも少し思います。

「そして,そのような行為を禁止する要因が発動する場合には,それは理を知るはたらきが生じて来るのであり,他方,そのほうへ駆り立て引きずって行く諸要因は,さまざまの身体条件や病的状態を通じて生じて来るのではないだろうか?」
「そう思われます」
「そうすると」とぼくは言った,「われわれがこう主張するのは,けっしていわれのないことではないというべきだろう―すなわち,それらは互いに異なった二つの別の要素であって,一方の,魂がそれによって理を知るところのものは,魂のなかの<理知的部分>と呼ばれるべきであり,他方,魂がそれによって恋し,飢え,渇き,その他もろもろの欲望を感じて興奮するところのものは,魂のなかの非理知的な<欲望的部分>であり,さまざまの充足と快楽の親しい仲間であると呼ばれるのがふさわしい,と」(439C)

この部分だけだと分かりづらいですが,「渇きは飲み物を欲するが,それでも人は飲み物を敢えて飲まない場合がある,それは魂の中の何か別のものである,それは何か」ということが考えられています。ここで<理知的部分>と<欲望的部分>というのが導入されます。
一番分かりやすいのが,「食べたい」(欲望) けど「食べると太る (あるいは持病が悪化する)」(理知) といったことだと思います。

「そしてそれはまた,ほかの多くの場合にもわれわれの気づくところではないかね」とぼくはつづけた,「欲望が理知に反して人を強制するとき,その人は自分自身を罵り,自分の内にあって強制しているものに対して憤慨し,そして,あたかも二つの党派が抗争している場合におけるように,そのような人の<憤慨>は,<理性>の味方となって戦うのではないかね?これに反して,自分に敵対する挙に出てはならぬと<理性>が決定を下しているのに,<気概>が<欲望>の側に与するということは,思うに,君はかつてそのような事態が君自身のうちに生じたのに気づいたことがあるとは主張できないだろうし,またほかの人のうちにしてもそうだろうと思うのだが」(440B)

欲望が理知に反する場合に,理知の側に立って戦うのが<気概的部分>ということが言われます。
実際には理知が欲望に負けることもしょっちゅうありますが,それでも気概というものは理知 (理性) の味方であり続けるものだと。
そういえば,なんかこの手の話題は,アリストテレスが三段論法を取り入れたりして精緻に分析していたような気もします。

「そうするとそれは,その<理知的部分>とも別のものなのだろうか,それとも<理知的部分>の一種族であり,したがって魂のなかには三つではなく二つの種族のもの―すなわち<理知的部分>と<欲望的な部分>と―があるだけだ,ということになるのだろうか?それとも,ちょうど国家において,金儲けを業とするもの,統治者を補佐する任をもつもの,政策を審議する任に当るものという,この三つの種族があって一国をまとめていたのと同じように,魂の内においてもまた,この<気概の部分>は第三の種族として区別され,悪しき養育によってだめにされないかぎりは,<理知的部分>の補助者であることを本性とするものなのであろうか?」(440E)

この辺りで気づくのですが,「三辺の比がそれぞれ等しい」という三角形の相似条件に当てはめるように,先に考えた国家と今考えている個人というものが相似ていると考えようとしているのが分かります。

「しかるに,この点はわれわれがよもや忘れてしまっているはずのないことだが,国家の場合は,そのうちにある三つの種族のそれぞれが『自分のことだけをする』ことによって正しいということだった」
「忘れてしまっているとは思いません」
「すると,ここでわれわれは,われわれのひとりひとりの場合もやはり,その内にあるそれぞれの部分が自分のことだけをする場合,その人は正しい人であり,自分のことだけをする人であるということを,憶えておかなければならないわけだ」(441D)

ということで,個人の場合にもやはり『自分のことだけをする』ことが<正義>だと言われます。
もっとも,素直に「自分のことだけをすることが正義」という言葉にしてしまうと,あまりにも誤解を生みそうなところではあります。<理知的部分>と<欲望的部分>と<気概的部分>のそれぞれがそれぞれのことだけをするように自分を戒める,と考えると途方も無く難しく感じます。

「そしてわれわれは,思うに,この部分のゆえに一人一人の人間を勇気ある人と呼ぶことになるのだ。すなわちそれは,その人の<気概の部分>がさまざまの苦痛と快楽のただ中にあって,恐れてしかるべきものとそうでないものについて<理性>が告げた指令を守り通す場合のことだ」
「正しい呼び方です」と彼は答えた。
「他方,知恵があると呼ぶのは,その人のうちで支配し,それらの指令を告げたあの小さな部分によるのであって,この部分もまた,三つの部分のそれぞれにとって,またそれらの部分からなる自分たちの共同体全体にとって,何が利益になるかということの知識を,自分の内にもっているのだ」
「ええ,たしかに」
「ではどうだろう,節制ある人と呼ぶのは,それらの部分の相互の間の友愛と協調によるのではないかね?すなわちそれは,支配する部分と支配される二つの部分とが,<理知的部分>こそが支配すべきであることに意見が一致して,この支配者に対して内乱を起さない場合のことだ」
「確かに節制とは」と彼は言った,「それ以外のものではありません。国家の場合も,個人の場合も」(442B)

<勇気><知恵><節制>についても,国家と同様であるということがここで言われます。実際,ここで言われていることは実感としてもそうだなあと思うことです。

「ただし実際には,グラウコン,それは―だからこそ役にも立ったわけだが―<正義>の影ともいうべきものだったのだ。生まれついての靴作りはもっぱら靴を作って他に何もしないのが正しく,大工は大工の仕事だけをするのが正しく,その他すべて同様であるという,あのことはね」
「そのようです」
「真実はといえば,どうやら,<正義>とは,たしかに何かそれに類するものではあるけれども,しかし自分の仕事をするといっても外的な行為にかかわるものではなくて,内的な行為にかかわるものであり,ほんとうの意味での自己自身と自己自身の仕事にかかわるものであるようだ。すなわち,自分の内なるそれぞれのものにそれ自身の仕事でないことをするのを許さず,魂のなかにある種族に互いに余計な手出しをすることも許さないで,真に自分に固有の事を整え,自分で自分を支配し,秩序づけ,自己自身と親しい友となり,三つあるそれらの部分を,いわばちょうど音階の調和をかたちづくる高音・低音・中音の三つの音のように調和させ,さらに,もしそれらの間に別の何か中間的なものがあればそのすべてを結び合わせ,多くのものであることをやめて節制と調和を堅持した完全な意味での一人の人間になりきって―かくてそのうえで,もし何かをする必要があれば,はじめて行為に出るということになるのだ。それは金銭の獲得に関することでも,身体の世話に関することでも,あるいはまた何か政治のことでも,私的な取引のことでもよいが,すべてそうしたことを行なうにあたっては,いま言ったような魂の状態を保全するような,またそれをつくり出すのに役立つような行為をこそ,正しく美しい行為と考えてそう呼び,そしてまさにそのような行為を監督指揮する知識のことを知恵と考えてそう呼ぶわけだ。逆に,そのような魂のあり方をいつも解体させるような行為は,不正な行為ということになり,またそのような行為を監督指揮する思わくが,無知だということになる」(443C)

今まで,何かと職人とか技術といった譬えが使われてきましたが,ここでは,<正義>とは魂の状態の保全という,とても内的なものである,ということが言葉を尽くして言われています。
そうありたい,とは思います。プラトンの著作全般に言えることですが,というか所謂哲学というものがそうなのかもしれませんが,結論が抽象的な場合が多いと思います。これは,(学問としてとらえる場合は別ですが,生きたものとするためには) それを目指すことに意味がある,ということかなと思います。具体的な結論がある場合にはそれをすればよいのですが,そういう簡単な問題ばかりではないでしょう。

「それでは<不正>とは,こんどは,三つあるそれらの部分の間の一種の内乱であり,余計な手出しであり,他の分をおかすことであり,魂の特定の部分が魂のなかで分不相応に支配権をにぎろうとして,魂の全体に対して起す叛乱でなければならないのではないか―その部分は本来,支配者の種族に属する部分に隷属して仕えるのがふさわしいような性格のものなのにね。思うに,何かそのようなこと,すなわちそれらの種族の混乱や本務逸脱が,不正,放埓,卑怯,無知,一言で言えばあらゆる悪徳にほかならないのであると,われわれは主張すべきだろう」(444B)

<正義>の反対の<不正>についても考察されます。自明なことという感じもしますが,正義←→不正,節制←→放埓,勇気←→卑怯,知恵←→無知,という対義になっていることが分かります。

「しかるに,健康をつくり出すということは,身体のなかの諸要素を,自然本来のあり方に従って互いに統御し統御されるような状態に落着かせることであり,他方,病気を生じさせるとは,それらの要素が自然本来のあり方に反した仕方で互いに支配し支配されるような状態をつくり出すことにほかならない」
「たしかにそうです」
「他方また」とぼくは言った,「<正義>をつくり出すということは,魂のなかの諸部分を,自然本来のあり方に従って互いに統御し統御されるような常態に落着かせることであり,<不正>をつくり出すとは,それらの部分が自然本来のあり方に反した仕方で互いに支配し支配されるような状態をつくり出すことではないかね」
「まさしくそうです」と彼。
「してみると,どうやら,徳とは魂の健康にあたるものであり,美しさであり,壮健さであるということになり,悪徳とはその病気であり,醜さであり,虚弱さであるということになるようだ」(444D)

魂を身体の健康・病気に譬えるというのは何度もなされていると思います。自然本来のものが健康であり正義である,というのはいわゆる性善説を思い浮かべます。

「これでもう,どうやらわれわれに残されているのは,こんどは,正しいことを行ない,美しい仕事を営み,正しい人であることが―そのような人であると知られていようといまいと―得になるのか,それとも,不正を行ない不正な人であることが―罰を受けず,善き人になるための懲らしめを受けずにすまされるなら―得になるのか,という点を考察することだろうね?」(444E)

第二巻メモ(1) で,「不正でありながら周りから正しいと思われている人」「正しいのに周りから不正と思われている人」を想定し,それでも正義を守るべきなのか?というグラウコンからの厳しい問いがありました。そもそもそれが,理想国を創造するきっかけだったわけで,やっとそこに戻ってきたという感じです。尤もその当のグラウコンは,「身体の本来のあり方がだめになっているとしたら,たとえありとあらゆる食物や飲み物,あらゆる富とあらゆる地位を与えられるとしても,人生は生きるに値しないと思われています」(445A) と,「ばかげた考察」だと言ってしまっていますが。
また,『ゴルギアス』などでも似たことは考察されていました。

「国制のあり方がいろいろあって」とぼくは言った,「いくつかの種類に区別されるのに応じて,どうやら魂のあり方のほうも,ちょうどそれと同じ数だけあるようなのだ」
「いったい,いくつあるのですか?」
「国制のあり方も魂のあり方も」とぼくは言った,「それぞれ五つずつ」(445C)

ということで,国制のあり方にテーマが移っていくことになり,ここまで言われてきた理想国では支配者の数によって<王制><優秀者支配制(アリストクラティアー)>と呼ばれる…と言われたところで第四巻が終わります。

この後,第五巻では王制の話の続きから始まる…と思いきや実際には,アデイマントス,ポレマルコス,トラシュマコスといった人物に引き止められ,別のテーマを論じることになります。それは「3つの大波」と言われる割と衝撃的な提案を含みます。

というわけで,続く…。

プラトン『国家』第四巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第四巻を読んだときのメモ第2弾。
メモ第1弾で,守護者はどうあるべきか,法律では何を規定すべきか,といった内容の対話がなされました。 そしてついに,理想国家がひとまず建設され,正義を探し出すフェーズへと意向することになります。
その中でも,まず国家としての正義を見出すための対話がなされた部分を,このメモ第2弾で見ていきます。長いので,個人としての正義については第3弾に。

「さてそれでは」とぼくは言った,「こんなふうにすれば問題のものを見つけ出せるのではないかと,ぼくは期待するのだがね。―われわれの国家は,思うに,いやしくもそれが正しい仕方で建設されたとすれば,完全な意味においてすぐれた国家であるはずだ」
「たしかにそうでなければなりません」と彼は言った。
「とすれば明らかに,この国家は,<知恵>があり,<勇気>があり,<節制>をたもち,<正義>をそなえていることになる」
「ええ,明らかに」
「そうすると,もしわれわれがこの国のなかに,いま挙げたもののうちのどれかを見出すとすれば,残ったものが,まだ見出されていないものにほかならない,ということになるのではないか?」(427E)

この部分だけだと分かりづらいですが,この理想国家 = <知恵> + <勇気> + <節制> + <正義> なので <正義> = 理想国家 – (<知恵> + <勇気> + <節制>) である,という補集合的な考え方がなされて,<知恵><勇気><節制>が何かが分かれば自ずから<正義>が何かが分かる,ということで前者3つが追求されます。
ふと「行政 = 国家 – (立法 + 司法)」という,行政とは何かという説明の仕方を思い出しました。割と消極的というか退嬰的というか,そういう印象は持ちます。大体,理想国家 = <知恵> + <勇気> + <節制> + <正義> の根拠も薄いです。尤も,結局<正義>についても十分に説明がなされるので,この論法である必要があるのかは不明です(笑)。まあでも面白いやり方で印象に残りました。

「し てみると,自然本来のあり方に従って建てられた国家は,みずからの最も小さな階層と部分にほかならない指導者・支配者によってこそ,またその最小部分のう ちにある知識によってこそ,全体として<知恵>があるということになるわけだ。そしてどうやら,本来最も少数しか生じないところのこの種族こそは,他のもろもろの知識のなかでそれだけが<知恵>と呼ばれてしかるべき知識に,あずかることができるもののようだ」(428E)

<知恵>とは何かについてのまとめです。この理想国では,支配者に当たる最も少ない人々の知識が<知恵>に当たることになるようです。
微妙に権威的な感じもしますが,まあ日本でも,政治家特に大臣が国の大事なことを決定するわけなので,その人たちの知恵が国家としての知恵だと見做されても不思議ではないでしょう。

「<勇気>とは」とぼくは言った,「一種の保持であるとぼくは言うのだ」
「保持といいますと,いったいどのような」
「恐ろしいものとは何であり,どのようなものであるかについて,法律により教育を通じて形成された考えの保持のことだ。また,その考えをあらゆる場合を通 じて保持しつづけると言ったのは,苦痛のうちにあっても,快楽のうちにあっても,欲望のうちにあっても,恐怖のうちにあっても,それを守り抜いて,投げ出 さないということだ。」(429C)
「こうしてぼくとしては,このような力のことを,すなわち,恐ろしいものとそうでないものについての,正しい,法にかなった考えをあらゆる場合を通じて保持することを,<勇気>と呼び,そう規定したいのだ。もし君に何か異論があるのでなければね」
「いいえ,何も異議はありません」と彼は言った,「それと同じものに関する正しい考えであっても,教育によらずに生じたもの,つまり動物や奴隷がもってい るようなそれを,あなたはあまり永続的なものとは考えないでしょうし,<勇気>とは別の名で呼ばれるだろうと思いますからね」(430B)

今度は<勇気>ですが,これは結構深いです。まずは<勇気>についても,「国家のことを臆病だとか勇気があるとか言うにあたって,その国を守って戦い,国のために出征する部分以外のものに目を向けてそう言うだろうか?」(429B) と,<知恵>と同じで国家の一部分によると言われますが,「一種の保持」というのはかなり抽象化した言い方です。
この後で,洗剤でも水洗いでも色落ちしない染物の例が出されるのですが,それと同じで,何を恐れ何を恐れるべきでないか,ということを教育によってしっかり身に付け,それが揺るがないのが<勇気>である,という意味で「保持」と言われているようです。 プラトンの抽象志向のようなものが感じられます。その究極は言わずもがなの「イデア」ですが。この<勇気>の説明にしても,後から思い出すとじわじわ来ます。

「し かし」とぼくは言った,「この表現が実際に言おうとしているのは,こういうことだと思われる。―つまり,その人自身の内なる魂には,すぐれた部分と劣った 部分とがあって,すぐれた本性をもつものが劣ったものを制御している場合には,そのことを『おのれに克つ』と言っているのである。いずれにしてもこれは, ほめた言い方だ。そして他方,悪い養育や何かの交わりのために,少数者としてのすぐれた部分が大ぜいの劣ったものによって支配されるにいたった場合は,こ れを恥ずべき状態として非難して,そのような状態にある人のことを『おのれに負ける』とか『放縦である』とか呼ぶわけなのだ」
「ええ,じっさいそういう意味のようですね」と彼は答えた。
「それでは」とぼくは言った,「新しくできたわれわれの国家に目を向けたまえ。そうすれば君は,そのなかに,いま言った状態のうちの一方が実現しているの を見出すことだろう。というのは,この国家は正当に,自分自身に克っていると呼ばれてしかるべきだと,君は主張するだろうからだ―いやしくも,自分のなか のよりすぐれた部分が劣った部分を支配しているようなものは,節制があり,自分自身に克っていると呼ばれるべきであるならばね」(431A)

今度は<節制>の追求に入っていますが,「おのれに克つ」という言い回しについて,「おのれに克つということはおのれに負けるということだから矛盾するのでは?」とソクラテスがちょっと寄り道します。現代でもよく使う言い回しですが,当時でもあったのですね。
そしてここでソクラテスが言う「おのれに克つ」ということが<節制>だというのは,実感があります。ただここで話題になっているのはどちらかといえば国家としての<節制>で,後に続きます。

「他方しかし,単純にして適正な欲望,知性と正しい思わくに助けられ,思惟によって導かれる欲望はといえば,君はそれを少数の,最もすぐれた素質と最もすぐれた教育を与えられた人々のなかにしか,見出さないだろう」
「そのとおりです」と彼は答えた。
「それでは,こうした事情がちゃんと君の国家のなかに存在していて,そこでは,多数のつまらぬ人たちのいだく欲望が,それよりも数の少ない,よりすぐれた人々の欲望と思慮の制御のもとに支配されているのを,君は目にするのではないかね」(431C)

ここでは,国の<知性>に当たる人たちの欲望が正当化され―正当化というか,その人たちの欲望が「善」を求めるものだという前提があると思いますが―,その他多数の欲望が「つまらぬ」もの,という言い方がなされます。
ここは民主主義的ではなく,僭主制のようなものを志向するプラトンの考えがよく分かるという気がします。しかしそれは現実を直視して目をそらさなかったからではないか,ということだとも現代の視点からは思います。

「では,国民たちがそのような状態にあるとき,<節制>は彼らのどちらの側にあると君は言うだろうか。支配する人々のうちにあるのだろうか,それとも支配される人々のうちにあるのだろうか?」
「どちらのうちにも,でしょう」と彼は答えた。
「とすれば,わかるかね?」とぼくは言った,「ついさっきわれわれが,<節制>は調和に似たところがあると予言したのは,間違っていなかったわけだ」
「どうしてですか?」
「こういうわけだ。―<勇気>と<知恵>の場合は,どちらも国家のある特定の部分のうちに存在することによって,一方は国家を知 恵のある国家として,他方は勇気ある国家にするということだったが,<節制>はそうではない。それは国家の全体に,文字通り絃の全音域に行きわたるように行きわたっていて,最も弱い人々にも強い人々にも,またその中間の人々にも,完全調和の音階をもとに同一の歌を歌わせるようにするものなの だ。ここで言う強い人々と弱い人々とを区別する点は,知恵であれ,力であれ,人数の多少であれ,財産であれ,その他これに類する何であれ,君ののぞむまま の観点であってよいのだがね。いずれにせよこのようにして,われわれは,まさにこのような合意こそが<節制>にほかならないと,きわめて正当 に主張することができるだろう―すなわちそれは,国家の場合であれひとりひとりの個人の場合であれ,素質の劣ったものとすぐれたものの間に,どちらが支配 すべきかということについて成立する一致協和なのだ」(431E)

ということで,<知性>や<勇気>とは違い,<節制>というのは支配する側とされる側の合意・調和,ということになります。これもなるほどという思いはありますが,他方で,支配される側が支配する側を認める,というのはなかなか大変なものであるという気もします。

「それでは,グラウコン,いまこそわれわれは,狩人のように藪を取り囲んで,どうかしたはずみに<正義>が逃げ出して姿を消し,行方不明にならないよう注意を集中していなければならない。どこかこのあたりにいることは,もう間違いないのだからね。」(432B)
「しめたぞ,グラウコン!どうやらわれわれは,手がかりとなる足跡をつかんだようだ。もうけっして逃げられるようなことはないと思う」
「それは吉報ですね」と彼が言った。
「なんとまあ」とぼくは言った,「われわれも間抜けだったものだ」
「とおっしゃると?」
「しっかりしてくれたまえ,君!」とぼくは言った,「もう長い間,最初からわれわれの足元をうろつきまわっていたようなのだよ。それがなんと,われわれの 目には入らなかったわけで,まことに笑止千万というほかはない。自分でちゃんと手に持っているものを探しまわる人がよくいるものだが,われわれもまさにそ のとおり,それに目を向けもしないで,どこか遠くのほうばかり眺めてしらべていたわけだ。われわれが見のがしていたのも,おそらくそのためだろう」 (432B)

ということで,後に残る<正義>の番になりましたが,ここは面白い部分です。残る<正義>を取り囲んで逃すまいとするソクラテスの意気込みも面白いのですが,「それは吉報ですね」とか適当に流すグラウコンも面白いです (笑)。まあ翻訳なので何ともいえませんが。
それと,何かを探していて実は手に持っていた,というのも当時からあったのだなあと思います。自分もペンをなくしたと思ったら持っていたりポケットに入っていたりということがよくあります。その,手に持っていたものが何かということが次です。

「それでは」とぼくは言った,「ぼくの言うことに一理あるかどうか,聞いてくれたまえ。―つまり,われわれが先に国家を建設していたとき,いかなる場合にも守らなければならぬ原則として最初に立てたこと,そのことが,あるいは少なくともそのことのひとつの形態が,ぼくの思うには,とりもなおさず<正義>にほかならないようなのだ。ではわれわれが原則として立て,その後もなんどもくり返して口にしたことは何であった かといえば,それは,君が憶えているなら,こういうことだったはずだ―すなわち,各人は国におけるさまざまの仕事のうちで,その人の生まれつきが本来それに最も適しているような仕事を,一人が一つずつ行なわなければならないということ」
「たしかにわれわれは,そのように言っていました」
「そして,自分のことだけをして余計なことに手出しをしないことが正義なのだ,ということも,われわれはほかの多くの人たちから聞いてきたところだし,自分でもしばしば口にしたことがあるはずだ」
「ええ,たしかに」
「そこで,友よ」とぼくは言った,「おそらく,そのことがある仕方で実現されたものが<正義>なのではあるまいか―この『自分のことだけをする』ということが。どうしてぼくがそう考えるか,わかるかね?」(433A)

ということで,<正義> =「自分のことだけをする」ということが言われます。唐突に言われると,それが何故<正義>なのかよく分からないところですが,確かに一人がそれぞれのことを1つだけ行なうべきだというのは何度も言われてきたことです。

「ところでまた」とぼくは言った,「それらの徳のうちで,とくにどれが国の中に生じた場合に,われわれの国家をすぐれた国家たらしめることに最も大きく寄与するであろうかということを,もし判定しなければならないとしたら,これは判定しにくい問題となるだろう。いったいそれは,支配する人々とされる人々との間の意見の一致なのか,それとも,何が恐るべきもので何がそうでないかについての法にかなった考えが,軍人たちのうちに保持されることか,それとも,支配者たちのうちにある守護のための知恵なのか,それともまた,このこと―各人が一人で一つずつ自分の仕事を果し,それ以上の余計なことに手出しをしないというこの原則―が,子供のうちにも女のうちにも,奴隷のうちにも自由人のうちにも職人のうちにも,支配者のうちにも支配される者のうちにも実現されるならば,ほかならぬそのことこそが,国家をすぐれたものとするのに,他の何にもまして寄与するのであろうか…」(433C)

<正義>の追求の中での一節ですが,ここでは言及される順に<節制><勇気><知恵>そして<正義>とはなんなのかのコンパクトなまとめになっています。そしてどれが一番重要であるかとも問いますが,ここでは<正義>も他の3つと同等に重要であるというくらいしか言われません。

「しかしながら,思うに,生まれつきの素質において職人であるのが本来の人,あるいは何らかの金儲け仕事をするのが本来である人が,富なり,人数なり,体の強さなり,その他これに類する何らかのものによって思い上ったすえ,戦士の階層のなかへ入って行こうとしたり,あるいは戦士に属する者がその素質もないのに,政務を取り計らって国を監視・守護する任につこうとしたりして,これらの人々がお互いの仕事道具や地位を取り替える場合,あるいはまた,同じ一人の人間がこれらすべての仕事を兼ねて行なおうとするような場合は,こうした階層どうしのこのような入れ替りと余計な手出しとは,国家を滅ぼすものであるということに,君も同意見だろうと思う」
「ええ,完全に同意見です」
「してみると,三つある種族の間の余計な手出しや相互への転換は,国家にとって最大の害悪であり,まさに最も大きな悪行であると呼ばれてしかるべきだろう」
「まさにそのとおりです」
「しかるに,自分の国家に対する最大の悪行こそは,<不正>にほかならないと君は言うだろうね?」
「ええ,むろん」(434A)

「職人や,金儲けをする人」「戦士」「国を監視・守護する人」という三つの種族が,それぞれ分を弁えずに他の種族に手出ししたりすることは国家を滅ぼすので<不正>であると言われます。またここでは省いていますが,よって逆にそれぞれの自己本来の仕事を守ることが<正義>である,とも言われます。
現代でも,一番分かりやすいのは「文民統制」が必須とされ,軍部大臣現役武官制が否定されているようなことでしょう。それは常識になっていますが,寧ろ逆に政治が色んなことに口を出して他の専門分野を弱めたり意気を阻喪させたりすることのほうが可能性は高いかもしれません。
それと個人的には,このような完全分業と,逆に一人が色んな責務を兼務するというのは,ある一方に傾いた時にはすでに逆側への欲求が発生するように思っています。サインカーブのように,2回微分すると常に正負が逆転するというか。よく分業されている場合は,横断的な役割の人が欲しいと思うし,逆に一人が色んな役割を担っていると,個々の技術が稚拙になるのでもっと分業を進めて欲しいと思います。まあ理想国を考えるにあたってはどうでもよいことですが,これも同じで,理想国が実現しつつあるからこそ現実を考えずにはいられないということでもあるはずです。

「しかしさしあたっていまは,前からの考えに沿った考察を,終りまで進めることにしよう。すなわちわれわれは,こう考えたのだった―<正義>の考察のためには,それをもっているもののうちで,より規模の大きなものを何か先に取り上げて,先にそのなかでそれを観察してみるならば,一個人のうちにおける<正義>がどのような性格のものであるかを,見きわめるのが容易になるであろう,と。そしてわれわれには,そのような規模の大きなものとは,国家にほかならないと思われた。そういうわけでわれわれは,われわれにできるかぎりのすぐれた国家を建設してきたのだった。<正義>はすぐれた国家のうちにこそあるだろうことを,よく知っていたので。
そこでいま,その国家のなかにわれわれが見出したものを,こんどは個人の場合に当てはめてみることにしよう。そして,もしそのまま承認されるならそれでよいし,またもし個人の場合には何か違ったものとして現われるのであれば,もういちど国家の場合に立ちかえって,吟味しなおしてみなければならないだろう。おそらくは,そのようにして両者をつき合せてしらべ,両者を擦り合せて行くうちに,やがてあたかも火切り木から火花が出てくるように,<正義>を明らかにして輝き出させることができるだろう。そしてそれが明らかになったならば,われわれは自分自身のうちでそれを確かめてみるべきだろう」(434D)

ということでここまでで国家の<正義>の考察は終わり,個人としての<正義>に考察が移ります。
何度も言ってきていますが,国家と個人は相似であるという前提でまず規模の大きい国家としての<正義>を追求し,それから個人にもその<正義>を適用しようという話の流れです。といっても,ここまでの国家としての話は,そのまま個人も適用できそうなものばかりで,実際そうなのですが,プラトンらしい独特の表現が沢山出てくるので面白い部分です。

メモ(3)に続く…。

プラトン『国家』第四巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第四巻を読んだときのメモ第1弾。

まずは第三巻の続きから始まります。第三巻の終わりで,ソクラテスは国の守護者の在り様を語りました。それは,第三巻メモ(3) でも述べましたが,私有財産を持たず,自分の住居も持たず,(魂の中に金銀を持つという選ばれた人間なのだから) 報酬も貰えない,というものでした。読む人誰しもが,「そんなの全然幸福じゃない」と思うはずですがここでアデイマントスが読者に代わって (?) ソクラテスに問います。

それから,国家はどうあるべきかという話になってきます。国家が大きくなりすぎてはいけない…分裂してしまうからとか,教育・養育がそのために必要であるとか,法律ではどのようなことを規定すべきなのかとか。
そしてこれが第四巻のメインテーマになってくると思いますが,すぐれた国家は<知恵>,<勇気>,<節制>,そして<正義>を備えているとソクラテスは言い,それらは一体何なのか,ということが論じられます。ここでの<正義>の追求の仕方がちょっと面白いですがそれはメモ(2)で。

また,これを受けて,個人にも同様に<知恵>,<勇気>,<節制>,<正義>を当てはめることができる,ということになります…そもそも対話に国家というものを導入したのも,個人としての「正義とは何か」を考えるに当たって,まずは規模の大きい国家についての正義を考えて,それが分かれば遡って個人の正義が分かるだろう,という第二巻のいきさつがあるので,一種のターニングポイントになると思いますが,個人に当てはめる部分はメモ(3)に書く予定です。

以下は読書時のメモと考察です。

ここでアデイマントスが口をはさんで,次のように言った,
「ソクラテス,あなたは,もし誰かがこう主張したとしたら,いったい何と弁明なさるつもりですか?
―あなたのお話では,この人たちはさっぱり幸福ではないことになる。しかもそれは,彼らがみずから求めてそうしていることになる。なにしろ,国家はほんとうは彼らのものであるのに,この人たちは国家から何ひとつ善いものを享受しないのだから。たとえばほかの国の支配者たちだったら,土地を所有したり,立派な大邸宅を建てたり,それにふさわしい家具調度品をそなえたり,神々に個人的な犠牲を捧げたり,客人をもてなしたり,とくにあなたがいま言われた金や銀をはじめ,およそ人が幸福であるための条件として一般に認められているすべてのものを,所有しているというのに。しかるにこの人たちはといえば,何のことはない,まるで賃銭で傭われた兵隊のように,国のなかで,ほかに何もすることなしにただ見張りをしながら,坐っているだけのように見えるではありませんか。―とこのようにその人は言うでしょう」(419A)

ということで,第三巻の終わりの話に対する当然の疑問をアデイマントスはソクラテスにぶつけます。ソクラテスも,賃銭すら貰えないので,ある意味ではもっとひどいと認めます。しかし,ソクラテスは,今考えているのは「国家全体の幸福」であるとして,次のようにかわします。かわすというか,突き放します。

「いまの場合にしてもこれと同様であって,どうかわれわれに対して,国の守護者たちに守護者であることをやめさせて,他の何にでも仕立てることになるような,そのような性格の幸福を彼らに押しつけることを,強要しないでくれたまえ。というのは,それはわれわれにしても,たとえば農夫たちに豪華な礼装をまとわせ,黄金の冠をかぶらせて,どうにでも好きなように土地を耕すよう命じたり,また陶工たちにも,火のそばで寝椅子に左から右へ席につけてくつろがせ,楽しく宴をはって飲み交すように,轆轤はかたわらに放置して,気が向いた時だけ陶器を作ればよいというように命じたり,その他すべての人々をこうした仕方で仕合せにすることによって,国家の全体を『幸福』にするというやり方があることを,知らないではない。しかし,どうかわれわれにそういうやり方をとるよう忠告するのは,やめてもらいたいのだ。」(420D)

ここで挙げたような例は,個人の幸福ではあるかもしれない,と認めてはいます。しかしそうなると,「農夫はもはや農夫ではなくなり,陶工は陶工でなくなり,またそのほかの何びとも,相まって一国を成立させているそれぞれの特性を,もはや保持しなくなるだろうからだ」(421A)と言います。
以前にも思いましたが,デジタル的というか,個人としての幸福と,国家のための職責を全うするというのが両立できないという感じでしょうか。
さらに続きます。

「―このようにして,われわれのほうは,国に対してけっして害をなすことのないような,ほんとうの意味での守護者たちをつくりつつあるのに,かの反論をなす者がめざしている『幸福』とは,国家においてではなく,いわば祭の宴において御馳走をふるまって楽しむ農夫のような人たちのそれであるとすれば,この人の論じているのは国家の問題ではなくて,何か別のことだということになるだろう。
だから,われわれが考えなければならないのは,国の守護者たちを定めるにあたってのわれわれの目標は,できるだけ多くの幸福を彼ら守護者たちの内に与えられるようにということなのか,それとも,この点についてはむしろ国家の全体に目を向けて,全体としての国の中に幸福があるかどうかを見るべきであって,問題の補助者や守護者たちには,われわれの言う別のことを説得して行なわせるべきであるのか,ということなのだ。その別のこととはすなわち,彼らが自分自身の仕事に対してできるだけすぐれた専門の職人であるように,ということであって,この点はほかのすべての人々に対しても同じようにしなければならない。そしてこのようにして,国家の全体が成長してよく治められている状態のもとでこそ,それぞれの階層をして,自然本来的にそれぞれに与えられる幸福に,あずかるようにさせるべきである。…」(421B)

ここの後半で述べられている,「彼らが自分自身の仕事に対してできるだけすぐれた専門の職人であるように~この点はほかのすべての人々に対しても同じようにしなければならない」というのは,先取りしますが,<正義>とは「自分のことをする」ということの前触れ的な面があるように思います。
それはともかく,「彼ら」の幸福よりも国家全体の幸福,という考え方を世間一般に適用させることは,第一感,危険な発想というふうに思いますし,うまく行かないのではないかなとも思います。ただソクラテスも,「靴作りの職人が堕落しても国家にとってはたいしたことはないが,法律を守護する任の者たちについては,国家の全体を根底から滅ぼすことになる」と言っています(421A)。現代でも,政治家にはここでのソクラテスの話を適用させても尤もだという気がします。

「するとどうやら,ここにもうひとつ,守護者たちがあらゆる手段をつくして,国の中に忍びこんでくるのをけっして見逃さないように見張らなければならないものを,われわれは彼のために発見したことになるようだね」
「それは何のことですか?」
「富と貧乏のことだ」とぼくは言った,「ほかでもない,一方は贅沢と怠惰と,仕事本来のきまりの改変をつくり出し,他方はそういう改変のほかに,卑しさと劣悪な職人根性をつくり出すからだ」(421E)

前の話の流れで,何が職人を,そして守護者を劣悪にするのか?それは「富と貧乏」である,ということが言われます。
実感としては,これは確かにあるなと思います。貧乏はともかく,金があれば本来はもっとよい仕事をするための道具とか環境を手に入れることができ,技術を伸ばすことができると考えることもできますが,怠けてしまうと考えるほうが自然のような気もします。それとすごい技術者などは金にこだわっていないように見えます。あくまでそう思われるだけですが。

「それでは」とぼくは言った,「いまのことはまた,われわれの国の支配者たちにとって,国家の大きさをどれだけのものにすべきか,そしてそれだけの大きさの国家のためにはどれくらいの領土を区切り取って,それ以上の土地には手を出さずにいるべきかということの,最も適切な基準ともなるだろう」
「何が基準となるのですか?」
「ぼくの考えでは,次のことがその基準となる」とぼくは答えた,「すなわち,国家が一つであることをやめることなしに増大できるところまで増大させ,その限度を越えて増大させてはならない,ということだ」(423B)

中で貧富が生じないというのが国家の条件であると,ここでのソクラテスは考えているようです。そうでなかったら,それは1つの国家ではなく,それぞれが互いに争うことになると。
こうなると「国家」とは「単位」なのかなとも思います。というか元々,単位として国家を考えてきたはずで,ここではその仮定を適用しているに過ぎないのだという気もします。
また確かに,中が均質であれば課税や社会福祉などを平等に行なえるので,国家の事業としては,ソクラテスの言う国家というのは理想的なのかもしれません。逆に,均質でないところを平等にするのが国家の事業という気もします。いずれにしても,国家というものが分割できないもの,「単位」である,というのはある本質を言い当てているように思います。

「―すなわち,ほかの国民たちをもまたそのひとりひとりを,それぞれが生まれつき適している一つずつの仕事につけるべきであって,そうすることにより,国民のひとりひとりが自分に与えられた一つの仕事を果して,けっして多くの人間に分裂することなく真に一人の人間となるように,ひいてはそのようにして,国家の全体も自然に一つの国となって,けっして多くの国に分裂することのないようにしなければならないのだ,ということをね」(423D)

これは第三巻メモ(3) のところでもあった,身分に関係なく適材適所でという発想を受けています。

「そうするとどうやら」とぼくは言った,「守護者たちとしては,どこかそのあたりに見張所を建てなければならないようだね―つまり音楽・文芸のなかに」
「たしかに法に反したことでも音楽・文芸におけるそれは」と彼は言った,「やすやすと気づかれずに忍びこんでくるものですからね」(424D)
「事実またそれは,ほかには何もしないのですからね」と彼は言った,「こういう大へんなことを別とすれば。―すなわち,そういう音楽・文芸における違法というものは,少しずつ入りこんできては住みつき,じわじわと目立たぬように人々の品性と営みのなかへ流れ込んで行く。そしてそこから出てくるときには,もっと大きな流れとなっていて,こんどは契約・取引の上の人間関係の分野を侵すことになり,さらにそこから進んで法律や国制へと,ソクラテス,大へんな放縦さをもって向かって行き,こうして最後には,公私両面にわたるすべてを覆すに至るのです」(424D)

教育に関する興味深い指摘です。現在でも,「音楽・文芸」となっているところを「ネット(インターネット)」とか「スマホ」に置き換えると案外当てはまるような気がしますが,それはちょっと安易な譬えですかね。ここではもっと深いというか抽象的なことを言われていると思います。ただ,ここでは悪い面に焦点を当てていますが,逆のこともソクラテスはちゃんと言っています(メモでは省略)。

「だからまた」とぼくは言った,「そのようにして成長した人たちは,それまでの人々がすっかり失ってしまった,些細なものに思われているいろいろの習俗をもう一度,発見し直すことにもなるだろう」
「どのような習俗のことですか?」
「こういったものだ―若い者は年長者のそばでは,しかるべく沈黙していることとか,立ち上って席をゆずることとか,両親に仕えて世話することとか,さらにはまた,髪の切り方や服装や履物などの身だしなみ全般のこと,その他これに類することだ。それとも君は,ぼくの言うようには思わないかね?」
「思います」
「けれども,こうしたことを法律によって規定するのは,愚かなことだとぼくは思う。そんなことを言葉や文字で立法化してみたところで,効果もないし,長つづきもしないだろうからね」(425A)

ここも面白い部分で,いわゆる「最近の若い者」というのが当時もいたということが分かります(笑)。
でも,法律化することは愚かだとも言っています。最近,小学校で道徳教育を復活させるとかの話題を見ることがありますが,そういう考え方にもプラトンは与しないのでしょう。
次に続きます。

「いいえ」と彼は言った,「立派ですぐれた人たちに,いちいち指図するには及ばないでしょう。そうしたことのうち,規定される必要のあるかぎりの法律の内容は,そのほとんどを,彼らはきっと容易に自分で見出すことでしょうからね」
「そうだとも,君」とぼくは言った,「もしわれわれがすでにその前に語ったいくつかの法律を保持することを,神が彼らにお許しになるならばね」
「じっさい,もしそうでなければ」と彼は言った,「彼らは一生涯,たえずそのようなこまごましたたくさんの法律を,制定したり改正したりしながら過すことになってしまうでしょう。いつかは完全なものをつかまえることができると思って」
「君の言うそのような人びとの生き方は」とぼくは言った,「ちょうど,病気をしながら不節制のために良からぬ生活法から脱け出そうとしない人たちの場合と,よく似たものになるだろうね」(425D)

アデイマントスが非常に冴えたことを言っています。ここの最初の「立派で~」の言葉は,『国家』の中でも非常に印象に残っている一節です。ただそうすると,そもそも法律は必要なの?という発想も有り得ます。
『ポリティコス(政治家)』を読んだときにも思いましたが,法律というのは「網」で,その網を作っても現実というのは刻々と変化して網をすり抜けていきます。よって網というものを離散→連続に理想化したものを実現するのが,ここでソクラテスが目指している国家なのかなと思います(後で出ますが,いわゆる「哲人政治」が最たるもの)。が現実には近似としての法律も否定してはいないと。

「ではどうだろう」とぼくは言った,「彼らのこういう点は愛嬌があるのではないかね―もし誰かがほんとうのことを告げて,君は酔っぱらったり,たらふく食ったり,色欲に耽ったり,のらくら怠けたりするのをきっぱりとやめないかぎり,薬を飲んでも,焼いてもらっても,切ってもらっても,さらにはおまじないもお守り札も,そのほかそれに類するどのようなことも,何ひとつ君の為にはならないのだよと言う者がいると,誰よりもその人を憎むという点は?」
「あまり愛嬌もありませんね」と彼は答えた,「善いことを言ってくれる人に腹を立てるということは,愛嬌のあることではありませんからね」(426B)

「それなら,ついさっきわれわれが語っていたように,国家の全体がそれと同じようなことをする場合にも,きっと気味は讃美しないだろうね。それとも君には,次のような国家がしていることは,いま言ったような病人たちと,ちょうど同じことだとは思えないかね?すなわち,国のあり方そのものが悪いのに,国民たちには国制全体を動かすことを禁じて,これを犯す者は死刑に処する旨を告示する。そして他方,そのような悪しき体制のもとにあるがままの自分に最も快い仕方で奉仕してくれる者,自分にへつらい自分のいろいろな望みを察知することによって機嫌をとってくれる者,そしてそれらの望みを充たしてくれることに有能な者があれば,そのような者こそはすぐれた人物であり,国の重大事に関して知恵のはたらく人であって,国から名誉を授けられるであろうと告示するような,そういう国家のことだ」(426B)

ここはちょっと『ゴルギアス』を思い出します(518C あたり)。真実を言うことによって,相手に憎まれることがあり,逆に相手の欲望に応じると喜ばれる,とそこでは言われていましたが,国家についても同じようなことがここで言われています。
但し,ここでソクラテスは,そういう国家に奉仕し,そして自分が有能な政治家であると思い込んでいる連中については,無知ゆえのことで「愛嬌があり」,あまり腹は立てぬことだと言っています。また彼らは先述したような,こまごまとした法律を成立・改正することで何か解決できると思い込んでいると。

「それでは」と彼は言った,「われわれが法律を制定すべきこととしては,あとまだ何が残っていることになるでしょうか?」
ぼくは言った,
「われわれにはもう何も残っていない。しかしデルポイにいますアポロンにはなお,立法される事柄のうち最も重大で,最も立派で,第一のことを規定していただかなければならない」
「とおっしゃると,どのようなもののことですか?」と彼はたずねた。
「神殿の建立や犠牲の奉納をはじめとして,神々や神霊 (ダイモーン) や英雄神へのさまざまな奉仕のことだ。さらに,死者の埋葬その他,あの世の人々に仕えてなだめるために行なわなければならないすべての供養のこともある。」(427B)

今までの話を見ていると,「では法律で規定すべきものは何なのか?」と思うわけで,その一つは前に出た教育のことと言われたわけですが,別のものとして,神事に関することが言われています。
私の印象としては,不遜かもしれませんが,割とどうでもいいことこそを法律にするのだなと思います。どうでもいいというのは誤解がありそうですが,「これが正しい」ということが絶対になく,時代が移り変わっても変わらないもの,とでもいえばいいでしょうか。

「さあそれでは,アリストンの子よ」とぼくは言った,「これでもう君の国家の建設は,すっかり完了したことになるだろう。そこでつぎには,どこかから充分な明りを手に入れてきて,この国家のなかをしらべてみたまえ。自分でしらべるだけでなく,君の兄弟も,それからポレマルコスもその他の人々も,みな助けに呼びたまえ。―いったいこの国のうちのどこに<正義>があり,どこに<不正>があるか,両者は互いにどういう点で異なっているか,また,幸福になろうとする人が,すべての神々と人間に気づかれようと気づかれまいと所有していなければならないのは,どちらのほうなのか,といったことが,何とかしてわれわれに見てとれるかもしれないと期待しつつね」(427D)

ということで,ついに理想の国家が建設され (ちょっと呆気ない感がありますが),国家としての正義についての話題になっていきます。

続きはメモ(2)に。

プラトン『国家』第三巻メモ(3)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第三巻を読んだときのメモ第3弾。
メモ(2)で終わる予定だったのですが,長くなってしまったので (3) まで伸ばしました。(2) の続きで,どういった人が支配者になるべきか,ということが論じられ,最後にソクラテスが「支配者となるべき人間は,生まれた時に身体に金が埋め込まれている」といったような面白い話をします。
前置きはそこそこにして,以下読書時のメモです。

「よろしい」とぼくは言った,「ではこのつぎには,何をわれわれは規定しなければならないだろうか?それは,こうして育てられたほかならぬその国民たちのうちで,どのような人々が支配者となり,どのような人々が支配される者となるべきか,という点ではないだろうか?」
「ええ,疑いもなく」
「それではまず,支配者となるのは年長の人々であり,支配されるのはより若い人々でなければならぬこと,これは明らかだね」
「明らかです」
「そして,年長者のうちでも最もすぐれた人々が支配すべきことも?」
「それも明らかです」(412B)

今度はどのような人が支配者になるべきか,という話に移ります。
「えっ支配者は年長じゃないといけないの?」とまず思ってしまいます。まあ今まで論じられてきた教育内容を等しく受けてきた支配者候補の中から,という条件付きであれば,ということでしょうけど。

「では何を最も愛するかといえば,それは,そのものにとっても自分にとっても同じ事柄が利益となり,そのものが幸福であれば自分も幸福となり,そうでなければ逆の結果となると考えるようなものだ」
「そのとおりです」と彼は答えた。
「してみると,われわれは一般の守護者たちのなかから,まさにそのような人々を選び出さなければならないことになる。すなわち,われわれが観察してみて, 全生涯にわたり,国家の利益考えることは全力をあげてこれを行なう熱意を示し,そうでないことは金輪際しようとしない気持が見てとれるような者たちをね」 (412D)

この辺りの言葉は後のほうにもつながってくる内容だと思います。つまり「そのものが幸福であれば自分も幸福となり…」というのは,別の言い方をすればそのものの幸福のためには自分自身の幸福を捨てることもある,ということになると思います。という,ここでは必要性だけを述べていますが,後に十分性 (つまり自分の幸福→そのものの幸福) も示されます (第4巻)。

「それでは,ついさっきもぼくが言っていたよ うに,誰と誰が自己の信念の―すなわち,それぞれの場合に,国家にとって最善であると思う事柄を行なわなければならぬという信念の―最もすぐれた守護者で あるかをたずね求めなければならない。そこでわれわれは,彼らを早く子供のころから観察するために,最もそのような考えを忘れてしまいそうな,また欺かれ て考えを変えてしまいそうなさまざまの事柄を,彼らに課さなければならないし,そしてそのなかにあってよく記憶を確保する者,欺かれて考えを変えることの ない者を選び出し,そうでない者は名簿からはずさなければならない。―そうだね?」
「ええ」
「またさらに,さまざまの労苦や苦痛や競争を彼らに課して,そのなかで,そうした同じ観察をしなければならない」(413C)

これは子供に対する一種のストレステストですね。次の一節もさらに内容に踏み込みます。

「そ れからまた」とぼくは言った,「<たぶらかし>という第三の種類のものに対しても試練を彼らに与えて,よく見守らなければならない。ちょうど 若駒を騒々しい物音や叫び声のするところへ連れて行って,恐がりかどうかをしらべるように,この人たちを若いうちに何か恐怖をよぶような状況のなかに連れ て行き,それからこんどは快楽のなかへとおきかえて,金を火のなかで試すよりもはるかにきびしく試しながら,よく観察しなければならないのだ―すべての状 況においてその人が,たぶらかしに対する抵抗力と端然とした品位を示すかどうか,自己自身を守り,自分が学んだ教養 (音楽・文芸) を守るすぐれた守護者として,自分が身につけたよきリズムとよき調和をそれらすべての状況のなかで保持し,かくて自己自身にとっても国家にとっても,最も 有用有為の人物でありうるかどうかを。そしてわれわれは,こうして子供のときにも,青年のときにも,成人してからも,たえず試練を受けながら無傷のまま通 過する者を,国家の支配者として,また守護者として任命し,その人の生前にも,また死後も埋葬の儀式やその他彼を記念する数々のものによる最高の贈物を与 えて,これに名誉を授けなければならない。しかし他方,そうでない者は排除しなければならないのだ。
以上のようなことが,グラウコン,国の支配者・守護者を選択し任命するやり方であると,ぼくには思われる。細かい点に立ち入ることなく,輪郭だけを示すとすればね」(413D)

子供の時だけではなく,成人してもたえず試練を与えるべきと言われます。さっ きの裁判官の例(メモ(2))からすると,この試練を与えること自体が不正と親しむことになって将来の裁判官の資格を失うのではないか,と思わなくもないのですが。それ はともかく,常に自分自身のテストを課されるということ自体は必要なことのようにも思います。でも大人になるとそういう試練を受ける という機会はなかなかありません。会社等に忠誠を尽くしているかということは,常に見られているのかもしれませんが。
あとは,現代でいえば,政治家にこういうストレステストのようなものを課すことも必要なのかもしれません。国家の支配者に当たる人ですし。それが選挙なのではと言われれば,形の上ではそうなのかもしれません…。

「― こうして,君たちこの国にいる者のすべては兄弟どうしなのだが―とわれわれは物語をつづけて,彼らに向かって言うだろう―,しかし神は君たちを形づくるに あたって,君たちのうち支配者として統治する能力のある者には,誕生に際して,金を混ぜ与えたのであって,それゆえにこの者たちは,最も尊重されるべき 人々なのである。またこれを助ける補助者としての能力ある者たちには銀を混ぜ,農夫やその他の職人たちには鉄と銅を混ぜ与えた。
こうして君たちのすべては互いに同族の間柄であるから,君たちは君たち自身に似た資質の子供を生むのが普通ではあろうけれども,しかし時には,金の親から 銀の子供が生まれたり,銀の親から金の子供が生まれたり,その他すべて同様にして,お互いどうしから生まれてくることがあるだろう。
そこで,国を支配する者たちに神が告げた第一の最も重要な命令は,次のことなのである。
―彼らがすぐれた守護者となって他の何にもまして見守らなければならぬもの,他の何よりも注意ぶかく見張らなければならぬのは,これら子供たちのこと,す なわち,子供たちの魂の中にこれらの金属のどれが混ぜ与えられているか,ということである。そして,もし自分自身の子供として銅や鉄の混ぜ与えられた者が 生まれたならば,いささかも不憫に思うことなく,その生まれつきに適した地位を与えて,これを職人や農夫たちから,金あるいは銀の混ぜ与えられた子供が生 まれたならば,これを尊重して昇進させ,それぞれを守護者と補助者の地位につけなければならぬ。そのようにすることこそ,『鉄や銅の人間が一国の守護者と なるときその国は滅びる』という信託を守るゆえんなのだ,と。
―さあ,こういう物語なのだが,これを何とか彼らに信じてもらうためのてだてを,君は知っているかね?」(415A)

これは,身分にとらわれずに実際の資質で評価すべしという割と進んだ考え方のように思えます。尤も,生まれた時に金や銀が身体に埋め込まれているということは,資質は生まれた時点で決まっているもので教育や努力では変えられないという解釈をすべきなのかもしれません (でもそうだとしたら今までの内容があまり意味がないので,僕はそうは思いませんでした)。ソクラテスはかなりためらいながらこの作り話?をしているところからすると,当時の常識ではあまり考えられなかったことなのかもしれません。
で も考えてみれば当たり前というか,これまでソクラテスが話してきた支配者の条件に,その人の親がどんな身分であるかといったことが介在する余地はありませ ん。と同時に,親が優れた人物であれば子に優れた教育を施して,結果として子が優れた人物になる,という傾向も当然あると思います。この辺りは『プロタゴラス』等別の対話篇でも論じられてきたところですが,そういうこともひっくるめてそれでも子の資質を見極めるのが親の責務ということでしょうか。
ということでソクラテスとしては当然なのでしょうが,他方で現代でも,そんなに素質がなさそうなのに親が政治家とか社長だからと,子にも同じ道を歩ませる例は結構あると思います。善い悪いは別にして,そうしたいのが親心として当然なのは,当時も今も同じなのでしょう。

「ではひとつ,見てくれたまえ」とぼくは言った,「そのような人間であるべきだとすれば,彼らは何か次のような仕方で生活し居住しなければならないのではないだろうか。
まず第一に,彼らのうちの誰も,万やむをえないものをのぞいて,私有財産というものをいっさい所有してはならないこと。
つぎに,入りたいと思う者が誰でも入って行けないような住居や宝蔵は,いっさい持ってはならないこと。
暮しの糧は,節度ある勇敢な戦士が必要とするだけの分量を取り決めておいて,他の国民から守護の任務への報酬として,ちょうど一年間の暮しに過不足のない分だけを受け取るべきこと。
ちょうど戦地の兵士たちのように,共同食事に通って共同生活をすること。
金や銀については,彼らに次のように告げなければならない。―彼らはその魂の中に,神々から与えられた神的な金銀をつねにもっているのであるから,このう え人間世界のそれを何ら必要としないし,それに,神的な金銀の所有をこの世の金銀の所有によって混ぜ汚すのは神意にもとることである。なぜなら,数多くの 不敬虔な罪が,多くの人々の間に流通している貨幣をめぐってなされてきたのであり,これに対して彼らがもっている金銀は,純粋で汚れなきものだからであ る。いや,国民のうちでただ彼らだけは,金や銀を取り扱い触れることを許されないし,また金銀をかくまっている同じ屋根の下に入ることも,それを身に着け ることも,金や銀の器から飲むことも,禁じられなければならない。」(416E)

ここは結構凄いことが述べられ ていると思います。国を守護するものは,私有財産を持っちゃいけないし,住居もなく共同生活をしなくちゃいけないし,金銭による報酬もない…。多くの人が, 「そんな報われない仕事を誰がするの?」と思うのではないかと思います。僕も思いました,それでその人に生きる喜び,幸福というものが訪れるのかと。
これについては,第4章の冒頭でアデイマントスが同様の疑問をソクラテスに投げかけるのでお楽しみに。

「こ のようにしてこそ彼らは,彼ら自身も救われるだろうし,国を救うこともできるであろう。けれども,彼らがみずから私有の土地や,家屋や,貨幣を所有するよ うになるときは,彼らは国の守護者であることをやめて,他の国民たちの敵としての主人となり,かくて憎み憎まれ,謀り謀られながら,全生涯を送ることにな るであろう―外からの敵よりもずっと多くの国内の敵を,ずっとつよく恐れながら。そうなったとき,彼ら自身も他の国民も,すでに滅びの寸前までひた走って いるのだ。」(417A)

ということで,第3章は以上です。第4章は,章は変わりますが第3章の話題の続きから始まります。

プラトン『国家』第三巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第三巻を読んだときのメモ第2弾。

「では音楽・文芸の次には,若者たちは体育によって育てられなければならない」(403C)

ということで,メモ第1弾で,どういった叙述の仕方や音楽のリズム等を教えるべきかという「音楽・文芸」が論じられたことを見ましたが,その続きとして次は体育等について述べられます。
食べ物は素朴なものがよいとか,体育とは体を鍛えることが目的ではなく実は魂のためであるといったこと,また,「ぼくがためらうのもはなはだ無理からぬこと」として,人は生まれたときに金や銀や銅や鉄が混ぜ込まれておりそれに応じた地位につかなければならない,というような作り話?がソクラテスから語られたりします (→長くなったのでこの作り話はメモ(3)で述べます)。

メモ第1弾ではやや退屈というようなことも述べましたが,本メモの対象である第三巻の後半は,面白いと思います。割とストイックな感じというか,プラトン的というところを僕に感じさせるからでしょうか。

なお一応断っておきますが,『国家』については全集で読むのは諦めました…。図書館で借りてもすぐ期限が切れてしまうし,重くて持ち歩くのが大変ですし。ということで,岩波文庫版をこれ以降は使うことにします。訳者も同じで,本文については今まで違いを見つけたことがありません (ただ違うところは違うと思います;文庫版のほうが新しいです)。

以下は本文を読んだときのメモです。

「そうすると最善の体育は,われわれが少し前に述べた単純な音楽・文芸の,姉妹のようなものだということになるね?」
「どういう意味でしょうか?」
「すぐれた体育,とくに戦士たちのためのそれは,単純素朴なものだろうということだ」
「どういうふうにでしょう?」
「こうしたことなら,ホメロスからも学ぶことができるだろう」とぼくは言った,「というのは,君も知っているように,彼は陣中での英雄たちの宴会において,彼らに魚をふるまっていない。それも,場所はヘレスポントスの海岸だというのに。また肉も煮たのは出さないで,焼いたのだけをふるまっている。たしかに兵士たちには,それがいちばん簡単に用意できるものだろう。どんなところでも,じかに火だけを使うほうが,鍋釜を持ちまわるよりも簡単だといってよいからね」
「ええ,たしかに」
「またたしか,香辛料のことも,ホメロスは一度も語っていなかったと思う。もっともこのことなら,他の一般の競技者たちにしても,身体を良好な状態にしようとするなら,そのようなものはすべて避けなければならないことを知っているのではないかね?」(404B)

まず守護者の食べ物について語られますが,なんというか結局,音楽や文芸と同じように,単純素朴なものがよいということが言われます。まあ実際,体力をつけるとか健康に気をつけるということを考えた場合には,おいしいということは関係ないということでしょう。逆説的 (対偶的) に考えると,おいしいものを選り好みする人は守護者にふさわしくない,ということになります。
なお,全般に言えることですが,「守護者」という言葉は,文字通り国を外的から守る役割の人間の意味で言われるとともに,上に立つ者というような意味でも語られているように思えます。ここでも,勿論体力を考えた場合においしいかどうかは二の次だと言われているとともに,もっと広い意味で,国のために責任を持つ者は私欲を捨てよということも背後に感じられます。冒頭で書いた「ストイックさを感じさせる」というのはこの辺に原因があるのかもしれません。

「すると,先の場合には,多様さは放埓を生むということだったが,ここではそれは病気を生むのであり,他方単純さは,音楽においては魂の内に節度を生み,体育においては身体の内に健康を生む,ということになるのではないかね?」
「完全におっしゃるとおりです」と彼は答えた。
「そして,一国に放埓と病気がはびこるときは,数多くの裁判所と医療所が開かれ,法廷技術と医療技術とが幅をきかすことになるだろうね―自由人ですら大ぜいの人たちが,ひどくそうした事柄について真剣な関心を寄せるような状況では」(404E)

御意…。これに追い打ちをかけるソクラテスの辛辣な言葉は次に続きます。

「しかし,一般の名もない人たちや手職人たちばかりか,自由教育を身につけたと称する人たちまでもが,最高の腕をもつ医者や裁判官を必要としているということ,―いったい,一国における教育が悪しき恥ずべき状態にあることを告げる証拠として,これよりももっと大きなものを何か君は見出すことができるかね?そもそも君には,自分が用いるべき正義を他の人々から借り入れざるをえず,そういう他人をみずからの主人・判定者となし,自分自身の内には訴えるべき正義を何ももたないという状態が,恥ずべきことであり,無教育の大きな証拠だとは思えないかね?」
「それはもう,何よりも恥ずべきことだと思います」と彼は答えた。
「次の場合よりも,もっと恥ずべきだと思うというのかね?」とぼくは言った,「すなわちそれは,生涯の大部分を法廷で訴えたり訴えられたりしながら費やすだけではなく,低俗な好みのために,まさにそうすること自体を得意がるような考えを植えつけられている場合だ。自分は不正を犯すことにかけては腕ききで,あらゆる仕方で身をかわし,あらゆる抜け道を通り抜けて,身をしなわせながら罰を受けないように逃れるだけの腕をもっているのだ,とね。それも,些細でまったくつまらない事柄のためにだよ。それというのもほかではない,そういう人は,自分自身の生涯を,居眠りしている裁判官など少しも必要としないようなものにするほうが,どれだけ美しく善いことであるかということを知らないからなのだが」
「いいえ,そのほうが先の場合よりも,さらに恥ずべきことです」と彼は言った。(405A)

前半では「自由教育を身につけたと称する人たちまでもが,最高の腕をもつ医者や裁判官を必要としているということ」「自分が用いるべき正義を他の人々から借り入れざるをえず,そういう他人をみずからの主人・判定者となし,自分自身の内には訴えるべき正義を何ももたないという状態」が「恥ずべきこと」で無教育の証拠であると言われます。
後半は,『ゴルギアス』で話題になった弁論家を思い浮かべます。真実かどうかではなく,真実らしさによっていかようにも相手を説得する (迎合する,と『ゴルギアス』では言われた) と。
その時も思ったことですが,ここでも「恥ずべきこと」という非難がなされているわけですがそれよりも経済的・物質的なものを優先すれば,現実にはなかなか聞き入れられないという人もいるだろうと思います。極端にいえば多少体調が悪くなろうともおいしいものを沢山食べて酒も飲んで,金に余裕もあるので後で薬を飲んだり医者に見てもらったりして治せばよい,というのもトレードオフと言ってしまえば理に適った選択肢かもしれません。しかしプラトンを読む人間としては,ソクラテスの言う「恥ずべきこと」という最大限の非難を重く受け止める人間でありたいものです。

「たとえば大工ならば」とぼくは言った,「病気になると医者に頼んで,薬を飲んで病気を吐き出してしまうなり,あるいは下剤をかけたり焼いたり切ったりしてもらって,病気からすっかり解放されることを求める。けれども,もし長期の療養を命じられて,頭に布切れを巻いたり,それに類したことをいろいろされるようなことがあれば,彼はただちに言うのだ,―自分には病気などしている暇はないし,それに,病気のことに注意を向けて,課せられた仕事をなおざりにしながら生きていても何の甲斐もないのだ,と。そしてその後は,そのような医者には別れを告げて,いつもの生活へと立ちかえり,健康を回復して,自分の仕事を果しながら生きて行く。またもし彼の身体がそれに堪えるだけの力がなければ,死んで面倒から解放されるのだ」(406D)

病気が直る見込みがなければ,「死んで面倒から解放される」というのはちょっと過激ですが,案外こういう考え方の人は多いのかもしれません。よく「死ぬならポックリ死にたい」というようなことは聞きます。先達の方々の思いが簡単に理解できるわけはありませんが,確かにただ生きるためだけに療養をするというのは,何も自分の責務を果すことができず,周りに面倒もかけ,生き恥をさらすだけだ,という思いがあるとしたら理解できます。最近聞きませんが安楽死 (尊厳死) 問題というのもあります。
ただ,次の言葉にも注意する必要があります。

「しかるに他方,金持は,―とわれわれは言う―それから遠ざけられなければならない場合には生きる甲斐がないといったような,そういう仕事を何ひとつ課せられてもってはいない」(407A)

実際には,今の世の中ではかなり多くの人が,というか少なくとも日本ではほぼ全員が,プラトンの言う「金持」なのかもしれません。社会保険などの福祉もあるし,本当に死と天秤をかけて働かなけれならないという人は殆どいないような気もします。そういう意味では,先ほど述べたようなポックリ死にたいというのは,そこまで覚悟が必要なわけではなく,ある意味贅沢なことを言っているかもしれません。

「それでは,われわれは次のように主張すべきではないだろうか?―すなわち,アスクレピオスもまた,まさにこれらのことを知っていたからこそ,生まれつき生活法によって健康な身体をもちながら局部的な病気にかかった人々,そういう人々とそういう身体の状態のためには医術を教え示し,薬や切開によってそういう人々から病気を追い出して,市民としての仕事をそこなわないようにと,ふだんと同じ生活法を命じたけれども,しかし他方,内部のすみずみまで完全に病んでいる身体に対しては,養生によって少しずつ排泄させたり注入したりしながら,惨めな人生をいたずらに長引かせようとは試みなかったし,また,きっと同じように病弱に違いない彼らの子供を生ませなかったのである,と。そしてむしろ,定められた生活の課程に従って生きて行くことのできない者は,当人自身のためにも国のためにも役に立たない者とみなして,治療を施してやる必要はないと考えたのである,と」
「アスクレピオスも,ずいぶんと国家社会のことに気をつかう人物だったことになりますね」と彼は言った。(407C)

これは,現代でいえばかなり受け入れられない説でしょう。個人の選択として治療を受けない自由はあっても,医者の側であえて治療を施さないことは今の日本では許されないと思われます。
そこを考えると,グラウコンの言う「国家社会のことに気をつかう人物だった」というのも成程と思えなくはありません。どんなに堕落したひどい生き方をして身体を壊しても,今の日本では医療費は社会保険でまかなわれます。

「そうした点は,まさにおっしゃるとおりです」と彼は言った,「しかし,次の点についてのあなたのご意見はいかかでしょうか,ソクラテス。―そもそもわれわれは,国のなかにすぐれた医者を所有しなければならないのではありませんか?そして,すぐれた医者とはほかでもない,健康な人をも病人をも,どちらもできるだけ数多く扱ったことのある医者こそが,とりわけそうであるはずでしょう。その点は裁判官にしても同じことで,ありとあらゆる性質の人間と接した人々が,すぐれた裁判官となるはずです」(408C)

ここで話題の転換があり,グラウコンは,健康から病人まで,色んな患者を扱ったことがあるほうがすぐれた医者のはずだと言い,裁判官も同じだろうと言います。これに対してソクラテスは,医者については確かにそうかもしれないが,裁判官は違うと言い,以下のように述べます。

「しかしながら,裁判官の場合は,君,魂によって魂を支配するのが仕事なのであって,だから彼の魂には,若いときから邪悪な魂のあいだで育てられてこれと親しくつき合い,みずからあらゆる不正を犯す経験をつみ,その結果他人の不正事を,ちょうど身体の場合に病気を診断するような具合に,自分自身のことにもとづいて鋭く推察できるようになる,というようなことは許されないのだ。逆に,裁判官の魂は,やがて美しくすぐれた魂となって,正義を健全に判定すべきであるならば,若いときは悪い品性には無経験で,それに染まないようにしていなければならない。だからこそまた,立派な人物たちは,若いときにはお人好しで,不正な人々にすぐだまされやすい人間のように見えるのだ。なにぶんにも自分自身の内に,邪悪な人々と同性質の範型をもっていないのだから」
「じっさいまた」と彼は言った,「彼らはとくに,よくそういう目にあうものです」(408E)

裁判官は,魂については無菌状態で成長しなければならない,といった感じでしょうか。
この部分は,裁判員制度を思い起こしました。プラトンの言っていることが本当なら,裁判官というのはすぐれた魂の持ち主で,不正を判断するのに最も適していることになり,そこに素人の裁判員を招き入れる必然性はありません。
でも裁判員制度というのが導入された背景というのは恐らくそもそも逆に,頭の固い (というと語弊があるかもしれませんが) 裁判官だけでは時代の変化や庶民感覚がなく,国民の感覚とずれるからだということがあるのではないかと思います。
私の実感としては,今の日本の裁判官というのがプラトンが言うような神聖な人間であるとは想像できないし,多分実際そうではないでしょう(笑)。裁判官といっても神に選ばれるわけでもなく,試験に合格してなるものであるとすれば,プラトンの言うような素質を持っている人間だけが裁判官になるというのは,ありえないことで,寧ろ「試験に合格すること」というのはある意味では迎合的なものであって悪しき魂の持ち主が裁判官になることを防ぐことはできないでしょう。

「さだめし,この上なく気だかい品性の持ち主であることでしょうね」と彼は言った,「そのような裁判官なら」
「そしてすぐれた裁判官でもあるのだよ」とぼくは言った,「君の質問の眼目であったところのね。なぜなら,すぐれた魂をもつ人は,すぐれた人間なのだから。これに対して,あの腕の立つ猜疑心のつよい人,自分自身が多くの不正をはたらいてきて,何でもやってのける賢い人間のつもりでいる人は,たしかに自分と似た者たちを相手にするときは,自分の内にある範型に照らして抜け目なく警戒するので,有能に見えるだろう。ところが,ひとたび善良で自分より年長の人たちと接触するときが来ると,見当違いの疑いをかけ,健全な品性というものがわからないので,こんどは逆に愚か者に見えることになる。なにぶんにも自分では,そういう品性の範型を持ち合わせていないのでね。ただ,すぐれた善い人間よりも劣悪な人間に出会う機会のほうが多いため,自分にも他人にも,どちらかといえば無知であるよりも賢い男だと思われているだけなのだ」
「それは完全におっしゃるとおりです」と彼は答えた。(409C)

ソクラテスの言葉の後半に出てくるような人は確かにいます。どんなに偉くてもいわゆる「小者」というのはいます。

「それでは君は,そのような裁判官のあり方とともに,われわれが先に述べたような医術のあり方をも合わせて,これを法として君の国に制定することになるだろうね。これら両者は,君の国民のなかで,身体と魂の両面においてすぐれた素質をもつ者たちの面倒をみるであろうが,そうでない者については,身体の面で不健全な人々は死んで行くにまかせるだろうし,魂の面で邪悪に生まれつき,しかも治癒の見込みがない者たちはこれをみずから死刑に処するだろう」(409E)

いやー身体が悪い人をみずから死なせることを法にするのは厳しいのでは…?と思わずにはいられません。まあでも2,400年前で,今のような飽食で医療の進んだ時代とは違っていたのだろうとは思います。

「そもそも,グラウコン」とぼくは言った,「音楽・文芸と体育による教育ということを設定した人々も,ある人たちがそう思っているように,一方によって身体を世話し,他方によって魂を世話するという,そういう目的をもって設定したのではないのではあるまいか?」
「ではいったいどうだとおっしゃるのですか?」と彼はたずねた。
「おそらくは」とぼくは答えた,「両方とも魂のことを最も重要な目的として設定したのだろう」(410C)

体育をするのも魂のためである,ということが言われます。これは簡単にいえば,体育とは気概的な素質を高めるというようなことです。
僕も何となく週1回ジョギングをすることが習慣になっていますが,そう言われると,こういう面もあるようには思います。体力も勿論重要ですが,ちょっとしたことで「だるい」とか「面倒くさい」とか思わないためには多少運動して自分を追い込むことも必要だと思います。

「わかりました」と彼は言った,「ただもっぱら体育だけを事としてきた人たちは,しかるべき限度以上に粗暴な人間になる結果となるし,他方逆に,ただもっぱら音楽・文芸だけを事としてきた人たちは,彼らにとって望ましい以上に柔弱になってしまうということですね」(410D)

前述のソクラテスの論の分かりやすい帰結として語られます。これは実感としては,帰納的に正しいように感じられます (勿論例外もあるとは思いますが)。

「しかるにわれわれは,国の守護に当る者たちはいま挙げた二つの素質を,両方とももっていなければならないと主張する」
「そうでなければなりませんとも」
「それらは互いに調和していなければならないね?」
「もちろん」
「そしてそのように調和している人の魂は,節度があり,また勇気があるのだね?」
「たしかに」
「他方,その調和がない人の魂は,臆病であり,また粗暴なのだね?」
「まったくそのとおりです」(410E)

ということで音楽・文芸と体育について,それらを教えることがなぜ必要なのかという答えの1つになる簡潔な言葉かなと思います。国の守護者に限らず,現代の教育に当てはめてもその通りかもしれません。

第三巻はまだ続きますが,ちょっと長くなってきたので,続きはメモ(3)に書きます。