プラトン『イオン』メモ

プラトン『イオン』(プラトン全集 (岩波) 第10巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,「吟誦詩人」であるイオンが,ホメロスに関しては上手く語ることができるが,他の詩人については「居眠りをする」ほど全然語ることができないということを告白します。それに対してソクラテスは,イオンが技術と知識によってホメロスを語っているのではなく,「神がかり」によって語っているということを言います。イオンは技術を持っていると反論しますが,結局ソクラテスには,それは「ぺてん」であると言われてしまいます。
当時の詩人というものが,(あまねくそうだったのかは分かりませんが,) こういうふうに考えられているものだったのだな,というのが分かる内容です。神の意思が詩人の口を通して民衆に語られる,ということが言われ,「詩人狂気説」と補注で書かれていました。
副題は「『イリアス』について」。

ソクラテス:まさかエピダウロスの人たちの催す奉納競技 (仕合) には,吟誦詩人の競技もはいっていたというわけではないだろうね。
イオン:それが大いにそうなのです。しかも,それ以外に詩や音楽の競技もあったのです。(530A)

イオンという対話相手は,何だか面白そうな奉納競技に出ていた人物のようです。4年に1度のパンアテナイアの祭りも頑張ってくれとこの後ソクラテスに言われます。

ソクラテス:ところでね,ぼくはしばしば,君たち吟誦詩人に羨望の念をいだいたことがある。イオン,その技術のことでね。理由はこうだ,一方では,君たちがつねに身の飾りをととのえ,しかもできるだけ美しく見せるようにしても,それは君たちの技術にとって,当然のこととされているし,同時にまた他方では,多くの他のすぐれた詩人たち,とりわけ詩人たちの中でも第一級で神にひとしいホメロスと君たちがつき合い,たんにその詩句のみか,その考えをもすっかり学びつくすことが,その技術にとって必要とされているが,これは羨望に値することだからね。(530B)

吟誦詩人,というやや見慣れない用語は(ファンタジー系のゲームによく出てくる「吟遊詩人」と同じでしょうか),ホメロスのような詩人の言葉や考えを民衆に伝える役目を担っている詩人のことを指すようです。羽根付き帽子をかぶって竪琴を抱えているイメージ (個人的には)。

ソクラテス:君は,ただホメロスについてだけ,一目おかれるようなものをもっているのか,それとも,ヘシオドスやアルキロコスについてもそうなのか,どうかということだ。
イオン:後者については駄目なのです。ただホメロスについてだけなのです。だって,それでわたしには充分だと思われますから。(531A)

ソクラテス:さてそこで,君の主張はこうではないのかね,つまり,ホメロスも,また,ヘシオドスとアルキロコスとを含めた他の詩人たちも,彼らの語っていることがらは同じであるが,しかし語り方が同じというのではない,一方,ホメロスはうまく,それ以外の詩人たちははるかにまずく語っている,ということではないかね。
イオン:そうです,そしてそのわたしの主張は正しいということにもなります。(532A)

イオンは,なぜかホメロスについてしかうまく語ることができないと言います。ホメロスの方がうまく語っているから,自分はホメロスしか語れないと言います。

イオン:ソクラテス,わたしは,誰かがホメロス以外の他の詩人について人と話をしている場合には,気をとめることもないし,また,ちょっと気のきいたことを―それは何でもかまわないのですが―口ばさむこともできずに,そのまままったく,居眠りをすることになってしまいます。ところが,誰かがホメロスについて言及するや,わたしはすぐに目をさまし,注意を怠らず,口にする言葉に窮するということがなくなるのです―これはどうしたわけなのでしょうか。
ソクラテス:そのわけなら,推量は困難ではないね,君。むしろ,誰にも明白なことなのだ,つまり,君はホメロスについて,技術と知識を用いては語ることのできない人だということだ。なぜなら,もし君がこれのできる人だとしたら,ホメロス以外の他の詩人についても,語ることができるはずだからね。というのも,詩作の技術というものは,なにか全体としてあるものだからだ。それともそうではないかね。(532B)

ここで既に本対話篇の結論のようなことを言ってしまっています(特に結論が重要であるわけでもありません)。もし技術と知識に基づいて詩人を語っているのであれば,優れた詩人について語れるのなら劣った詩人についても語ることができるはずだと言われます。つまり,うまく語っているホメロスを語ることができるイオンが,ヘシオドスやアルキロコスについて語れないはずはないことになります。
まあ技術云々は別にしても,真似とか傾倒という意味では,誰か特定の詩人について語って他の詩人について語れない,ということがあってもおかしくはないかなという気もしますが。

ソクラテス:つまり,それは,技術として君のところにあるわけではないのだ,ホメロスについてうまく語る,ということはね (略) それはむしろ,神的な力なのだ,それが君を動かしているのだ。それはちょうど,エウリピデスはマグネシアの石と名づけ,他の多くの人びとはヘラクレイアの石と名づけている,あの石にある力のようなものなのだ。つまり,その石もまた,たんに鉄の指輪そのものを引くだけでなく,さらにその指輪の中へひとつの力を注ぎこんで,それによって今度はその指輪が,ちょうどその石がするのと同じ作用,すなわち他の指輪を引く作用を,することができるようにするのだ。(533D)

マグネシアの石,とはまさに磁石のことのようですね。この後もこのマグネシアの石の性質について続きますが,見聞録的というか,当時としては珍しい磁石を著書に記すことで人々に知らせる意味もあったのでしょうか。「神的な力」と並べているところが,片方は説明不能な自然現象を,他方は本来は人間の意思に基づくと思われる詩人の語りを,神に結び付けているという点で,案外この部分は本対話篇の本質的な部分かもしれません。

ソクラテス:すなわち,叙事詩の作者たちで,すぐれているほどの人たちはすべて,技術によってではなく,神気を吹きこまれ,神がかりにかかることによって,その美しい詩の一切を語っているのであり (略) 正気を保ちながらその美しい詩歌をつくるのではない。むしろ彼らが調和や韻律の中へ踏みこむときは,彼らは,狂乱の状態にあるのだ。(533E)

(前の引用でもそうですが) 技術に基づかないのであれば,何か思惑とか評判によって語るのか?といういつもの流れを想像していたら,そうではなくて,神的な力,神がかりである,ということになってちょっと意表を衝かれました。

ソクラテス:以上のようなわけで,神は,彼ら詩人たちからその知性を奪い,宣託を告げるようなものたちや神の意をとりつぐ聖なる人たちを召使として使用しているように,詩人たちをも召使として使用しているのであるが,その神の意図は,聴衆であるわれわれに,つぎのことを知らしめようとしているわけだ。(略) むしろ,神みずからがその語り手であり,神みずからが,彼ら詩人たちを介して,われわれに言葉をかけているのだ,ということをね。(534C)

詩人が神の召使で,神は詩人を通して人々に言葉をかけていると。プラトンがどこまで本気で考えていたのかは分かりませんが,当時としては一般的な考え方だったのだと感じさせます。現代でもそういう宗教や職業は一定数あると思われます。

ソクラテス:ところで君は知っているかね,その見物人が,あの指輪―ヘラクレアの石によって,たがいにつぎつぎと力をうけとってゆくと,私の語った―あの指輪のつながりの,最後になることをね。そのつながりの中間は,君という吟誦詩人かつ俳優であり,そのつながりの最初は,ほかならぬ詩人自身なのだ。これにたいし神は,これらつながりのすべてを通じて,つぎからつぎへと力を移動させながら,その望むままのところへ,人びとの魂をひっぱってゆく。(535E)

ここだけ読むと,神をトップとしたピラミッド構造があるわけではなく,詩人→吟誦詩人→見物人,というつながりがあって,そこに力を自在に作用させられるというようですが。この後で,このつながりを「占有されている」と呼ぶとか,吟誦詩人は (元の) 詩人から霊感を吹き込まれるとか,神の恩恵とか,かなりスピリチュアルな様相を呈してきます。
またこのつながりは,ホメロスに端を発するつながり,オルペウスによるつながり,ムゥサイオスによるつながり…というように「詩人単位」のようです。だからこそ,ホメロスの吟誦詩人であるイオンは,ホメロスの言葉のみを上手く語ることができる…「技術によってではなく,神の特別の恩恵によって」(536D)…という説明がなされ,他の詩人の言葉を語ることができないと言われます。また,「たいていの吟誦詩人たちは,ホメロスによって占有され」(536B) るともありますが,ではなぜそこまでホメロスが特別なのかはよく分からなかったです。

ソクラテス:だがきっと,たまたま君の方はその知識をもっていないのに,ホメロスの方はそれを語っているというようなことがらについては,君も物語れまい。(536E)

イオンはあくまでも,神がかりではなくて,技術があるからホメロスを上手く語れるのだという姿勢を崩しません。そこについてソクラテスは何か突破口があるようです。続きます。

ソクラテス:すると,どうだろうか。一方の技術は甲のことがらを対象とした知識であり,他方の技術は乙のことがらを対象とした知識である場合,ぼくは,その事実をもとにして,それぞれの技術を,別べつの名で呼ぶのであるが,君もまたそのようにするだろうか。(537D)

ソクラテス:さあ,では君も―ちょうどぼくが,どのようなことがらを述べた詩句が予言者にかかわり,どのような詩句が医者に,またどのような詩句が釣り師にかかわるのか,その詩句を,オデュッセイアからもイリアスからも,君のために選び出したように,(略) ぼくのために選び出してくれたまえ。どのようなことがらをのべた詩句が,イオン,吟誦詩人に,また吟誦詩人の技術にかかわるのか,つまり,それを調べることも,判定することも,ほかの人びとはさておいて,吟誦詩人にこそふさわしいとされるようなことがらをね。(539D)

ホメロスが語った詩の内容について,例えば馬車に乗って移動する場面や,釣りの場面などで,それが正しい内容かどうかは吟誦詩人の技術じゃなくて,他の専門知識に基づく技術 (この場合御者の技術や魚釣りの技術) である,ということが語られます。と,ここまで来て,じゃあ (イオンの主張する) 吟誦詩人の技術とは何なのか?ということになります。
スピリチュアル感のある展開から,またいつものソクラテスらしい定義の吟味がたちまち始まり,読者としてもいつもの調子に戻ってきました(笑)。

イオン:すくなくとも,わたしの思うところでは,それは,男にとっては何を語るのがふさわしいか,また女にとってはどんなことが,奴隷にとってはどんなことが,自由人にとってはどんなことが,また支配されるものにとってはどんなことが,支配するものにとってはどんなことがふさわしいか,それらを識別するのです。(540B)

とイオンは吟誦詩人の技術について,『ヒッピアス(大)』を彷彿とさせる浅はかなことを言いますが,当然,ソクラテスにボロクソに言われます。「暴れる牛をしずめる牛飼いの奴隷が語るにふさわしいことがらを識別するのは,吟誦詩人の方であっても,牛飼いの方ではないのか?」のように。

ソクラテス:では,兵士たちを勇気づける将軍の男が語るにふさわしいようなことがらを,吟誦詩人は識別することになるのだろうか?
イオン:そうです,そういうことがらを,吟誦詩人は,識別することになりましょう。
ソクラテス:すると,どうなのかね?吟誦詩人の技術は,将軍の技術なのかね?
イオン:とにかく,すくなくともわたしは,将軍の語るにふさわしいようなことがらを,識別できるでしょうからね。(540D)

この前後でずっと対話に出てくる (ホメロスの作品の引用も多くある) 当該の事柄を正しく語るのは,吟誦詩人の技術ではなくそれぞれの専門家の技術だとイオンは答えてきましたが,しかしここで,吟誦詩人の技術は将軍の技術だということを言わされます。この後で「ではなぜ将軍にならないのか」とソクラテスに言われる始末です。
ただ,「兵士たちを勇気づける」というような,人を鼓舞するようなことを言うのに当の技術が必要なのか?という気もします。どちらかというとソフィストの術ではないのか?ん,技術ではないと前半からソクラテスが言っているのはもしやそういうことなのか?

ソクラテス:話をもとに戻せば,イオンよ,君は,技術と知識とをもってホメロスを吟誦することができると語るとき,もし君が,それで真実を語っているとするならば,君はぺてんを行っているわけだ。なぜならその君は,ホメロスについて,たくさんの見事なことがらを知っている様子をぼくによそおい,その証しを見せようと約束しておきながら,ぼくを欺き,証しを見せるどころではないのだからね。(541E)

結局,ソクラテスは見切りをつけ,イオンが技術と知識を持っているという主張を認めません。本対話篇のイオンは,特に悪意を感じられるわけでもないので,こう切り捨てられると少し気の毒な感じもします。

ソクラテス:だがもし君が,技術を心得ず,むしろ,ぼくが君について語ったように,神の特別の恩恵のおかげで,ホメロスによって神がかりにされ,なに一つ知識をもっていないのに,その詩人について多くのことがらを語っているというのであれば,君はべつにぺてんを行っていることにはならないのだ。だから,さあ選びたまえ,われわれからぺてん師と思われるか,それとも,神につかれた男と思われるか,そのどちらを欲するかをね。(542A)

ということで,技術ではなく神がかりによって語っている,ということに収束します。
やはり「知識を持っていないのに,(その詩人について)多くのことがらを語っている」というのはソフィストを連想してしまいます。少なくとも「知識・技術・真理」側ではないということには,なると思います。プラトンが本対話篇で言いたかったことは,それなのでしょうか。
思えば『国家』第十巻で,詩人というのは真似をするだけで真実に触れることはない,と言われていました(書かれた年代はあちらが後と思われます)。その文脈では,詩人がどういう動機で語るのか,は書かれていなかったと思います(そこまで覚えていませんが)。本対話篇では,神にいわば憑依されて語っていると言われるわけですが,憑依されているふりをしていた場合は根拠がなくなります。そして現代的な視点からいえば,自分の意志以外で語っているともなかなか思えません。もしプラトンも本心ではそう思っていたとしたら,当時としては恐るべきことかもしれません。

メモは以上。