プラトン『国家』第二巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第二巻を読んだときのメモ第1弾。

第一巻でトラシュマコスとの対話が終わり,一応正義が不正に勝るという結論にはなったと思いますが,グラウコンがそれでは納得できないということで引き続き正義について話題にしていきます。途中でアデイマントスも加わってきます。なおグラウコンとアデイマントスは兄弟で,プラトンの兄です。
トラシュマコスとは異なり,自分たちはそう考えているわけではないが世間ではこう考えられている,と代理を立てる形で不正を讃える側に立ちます。しかしこのほうが不気味というか,(ソクラテスも途中で述べていますが) 本当はグラウコンたちも内心ではその通りだと思っているのかもしれません。ともかく,長い演説のようなグラウコンとアデイマントスの言葉がずっと続きます。
実際,かなり手ごわく,ソクラテスも答えに窮します。そこで,人間ではなく国家としての正義を考察し,それで明らかになった正義を元に人間としての正義を考えようということになります。
国家としての正義を考えていくところからは,メモ (2) に書きます。

では読書時のメモです。

「そこで,ご異存がなければ,こうしましょう。つまり,トラシュマコスの説を私がもう一度復活させて,次の諸点を私の口から語ることにするのです。
まず第一に,<正義>とは,どのようなもので,どのような起源をもつものと一般に言われているか,ということ。
第二に,正しいことをする人々はみな,それを<善いこと>ではなく<やむをえないこと>と見なして,しぶしぶそうしているのだということ。
第三に,人々のそういう態度は,当然であるということ。―なぜなら,不正な人の生のほうが正しい人の生よりはるかにましであるからと,こう一般には言われているからです。」(358C)

「そういうわけですから,私は精いっぱいの努力をつくして,不正な生を讃えて語ってみましょう。そしてそれを語ることによって,こんどはあなたから,どういう仕方で<不正>をとがめ<正義>を讃えるのを聞かせていただきたいと私が望んでいるかを,あなたに示すことにしましょう。」(358D)

ここでのソクラテスの対話の相手である,トラシュマコスとの対話で完全には納得しなかったグラウコンによって,3つの命題が提示され,それらについて,不正側に仮に加勢してそれをソクラテスに論破してもらうことによって,正義の善さを引き出そうとします。

「では,私がさっき約束した最初の論題について聞いてください。それは,<正義>とは何であり,どのような起源をもつものなのか,という問題です。
人々はこう主張するのです。―自然本来のあり方からいえば,人に不正を加えることは善 (利),自分が不正を受けることは悪 (害) であるが,ただどちらかといえば,自分が不正を受けることによってこうむる悪 (害) のほうが,人に不正を加えることによって得る善 (利) よりも大きい。そこで,人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って,その両方を経験してみると,一方を避け他方を得るだけの力のない連中は,不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが,得策であると考えるようになる。このことからして,人々は法律を制定し,お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。
これはすなわち,<正義>なるものの起源であり,その本性である。つまり<正義>とは,不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと,不正な仕打ちをうけながら仕返しをする能力がないという最悪なこととの,中間的な妥協なのである。これら両者の中間にある<正しいこと>が歓迎されるのは,けっして積極的な善としてではなく,不正をはたらくだけの力がないから尊重されるというだけのことである。」(358E)

「不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが,得策であると考えるようになる」…解説によると,ここの正義の起源についての説明は,「社会契約説」的な説明ということです。人に不正を与えることが善,というのは「ん?」という感じですが,食料を得るために動物を殺したりすることと同じということでしょうか。
そこから導かれた,「<正義>とは,不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと,不正な仕打ちをうけながら仕返しをする能力がないという最悪なこととの,中間的な妥協」…なるほどと思わされる説です。
『ゴルギアス』でカリクレスが主張していたことと通じていると思いました。つまり法律は弱者のためのものであり,強い者を押さえつけるためのものである,と。
何にしても,「不正」というものが,水が上から下に流れるのと同じように,人として自然であり,問題がなければそのままにしておくべきで,水路を作って流れを導いて分かち合うようなことは妥協,というような感じでしょうか。

「つぎに,正義を守っている人々は,自分が不正をはたらくだけの能力がないために,しぶしぶそうしているのだという点ですが,このことは,次のような思考実験をしてみればいちばんよくわかるでしょう。つまり,正しい人と不正な人のそれぞれに,何でも望むがままのことができる自由を与えてやるわけです。そのうえで二人のあとをつけて行って,両者それぞれが欲望によってどこへ導かれるかを観察すればよい。そうすれば,正しい人が欲心 (分をおかすこと) に駆られて,不正な人とまったく同じところへ赴いて行く現場を,われわれははっきり見ることができるでしょう。すべて自然状態にあるものは,この欲心をこそ善きものとして追求するのが本来のあり方なのであって,ただそれが,法の力でむりやりに平等の尊重へと,わきへ逸らされているにすぎないのです。」(359B)

これも,不正というものが自然であると考えれば全くその通りなのだと思います。
個人的な実感としては,半分くらいその通りだなと思います。特に最近のネット社会を考えてみると,よい例になるのかなと思います。未だに規制・法律が追いついておらず割と何でもアリに近い状態とも言えるし,あるいは原理的にそうというか,合法的であっても例えば口では言えないような言葉で他人を非難して傷つけたり (傷つけなくとも信じられないくらい品のないことを書いたり),ある思惑による株価の上下を利用して瞬間的に利益を得るといったことはあると思います。それが「不正」だとして,現実世界では「正しい」人がネットでは「不正」である,という例はいくらでも挙げられるでしょう。現実ではタガにはめられているが,規範のないネット上ではそれが解放されるのかもしれません。
さらに卑近な例でいえば,ゲームで裏技を使うことを許容するかどうか,ということも近いかもしれません(笑)。僕は使う派で,よく FF でアイテムを無限に増殖する技を使ってました…。
他方で,そういう状況にあっても,自分の欲望の赴くままに何でも行うという人ばかりとも思えません。が,それについてもグラウコンは後で手厳しく吟味してきます。

「これすなわち,すべての人間は,<不正>のほうが個人的には<正義>よりもずっと得になると考えているからにほかならないが,この考えは正しいのだと,この説の提唱者は主張するわけです。事実,もし誰かが先のような何でもしたい放題の自由を掌中に収めていながら,何ひとつ悪事をなす気にならず,他人のものに手をつけることもしないとしたら,そこに気づいている人たちから彼は,世にもあわれなやつ,大ばか者と思われることでしょう。ただそういう人たちは,お互いの面前では彼のことを賞讃するでしょうが,それは,自分が不正をはたらかれるのがこわさに,お互いを欺き合っているだけなのです。」(360D)

「面前では正しい人を賞賛するが,それは不正をはたらかれるのが怖いので互いに欺き合っているだけ」というのはなかなかグサリと来る言葉です。学校や会社で「あの人は真面目だ」と言う場合にも,同じようなニュアンスが潜んでいるのではないか?と思ってしまいそうになります。
ただ,ソクラテスじゃないですが,そういう考え方にならないためのものが人としての真の「学び」ではないかと個人的には思います(キリッ)。まあでも残念ながらここのグラウコンの言葉は現実を表しているとは思います。

「さていよいよ,問題の二人の人間の生についての判定ですが,これを正しく行なうためには,われわれは一方に最も正しい人間を置き,他方にこれまた最も不正な人間を置いて比較しなければなりません。そうしないと,正しい判定は不可能です。」(360E)

「こうして,完全に不正な人間には完全な不正を与えて,何ひとつ引き去ってはなりません。彼は最大の悪事をはたらきながら,正義にかけては最大の評判を,自分のために確保できる人であると考えなければなりません。そして万が一しくじるようなことがあっても,その取り返しをつける能力をもっていると考えなければなりません。すなわち,自分がおかした不正の何かがあばかれた場合には,人を説得しおおせるだけの弁論の能力をもち,力ずくで押さえなければならぬ場合には,自分の勇気とたくましさにより,また味方と金を用意することにより,相手を押えつけるだけの実力をもっている者と考えなければなりません。」(361A)

ということで,最も不正な人間と最も正しい人間を仮に想定するわけですが,かなり worst of worst な不正な人間ですね。本当は不正だが,他の人からは,その人は正しい人に見えると。また正しく見せる能力を持つと。確かに評判とか,その結果として得られる報酬を考えると,またそれを使い放題に使えるとすると,最強かもしれません。

「さて,不正な人間をこのように想定したうえで,その横にこんどは正しい人間を―単純で,気だかくて,アイスキュロスの言い方を借りれば『善き人と思われるることではなく,善き人であることを望む』ような人間を―議論のなかで並べて置いてみましょう。正しい人間からは,この<思われる>を取り去らなければなりません。なぜなら,もしも正しい人間だと思われようものなら,その評判のためにさまざまの名誉や褒美が彼に与えられることになるでしょう。そうすると,彼が正しい人であるのは<正義>そのもののためなのか,それともそういった褒美や名誉のためなのか,はっきりしなくなるからです。こうして一切のものを剥ぎとって裸にし,ただ<正義>だけを残してやって,先に想定した人間と正反対の状態に置かねばなりません。すなわち,何ひとつ不正をはたらかないのに,不正であるという最大の評判を受けさせるのです。そうすれば彼は,悪評や,悪評のもたらすさまざまの結果のためにへなへなにならないということによって,その<正義>のほどが完全に吟味されることになるでしょう。」(361B)

こちらも worst of worst な (本来は best と言うべきでしょうが,worst と言いたくなります…) 正しい人です。本当は正しい人なのに,周りからは不正な人と映るとは。今までの話の流れからすると,どうしようもない人ということになります。
ただ,この辺でも,自分が直観的に考える「正しい」と「不正」というものが,完全に逆転しているようだ,ということを忘れずに念頭に置いておきたいです。

「というのは,グラウコンが意図していると思われる点をもっとはっきりさせるためには,われわれとしては,彼が語ったのと反対の立場の議論,つまり,<正義>のほうを讃え,<不正>をとがめる議論も,並べなければならないからです。
思うに,父親は息子たちに向かって,また,一般に誰かの身の上を気づかう人々はすべてその当人に向かって,正しい人でなければならないと説き進めるものですが,これは<正義>というものをそれ自体として讃えているのではなくて,<正義>がもたらすよい評判を讃えているのです。つまり,彼らのそういう勧告の真意は,正しい人であると思われることによって,その評判から,役職,結婚その他,グラウコンがいま数え上げたようなすべての善いものが手に入るようにしなさい,それらが正しい人に与えられるのは,要するによい評判のおかげなのだからと,こういうわけなのです。」(362E)

アデイマントスが割り込んできて話します。確かにこれまでのグラウコンの言葉とは違い,正義の利点を述べている…ようではありますが,これはあくまで正しいと「思われる」ことによる利点にすぎません。

「すべての人々が異口同音にくり返し語るのは,節制や正義はたしかに美しい,しかしそれは困難で骨の折れるものだ,これに対して放埓や不正は快いものであり,たやすく自分のものとなる,それが醜いとされるのは世間の思わくと法律・習慣のうえのことにすぎないのだ,ということです。彼らはまた,不正な事柄のほうが多くの場合正しい事柄よりも得になると言い,邪な人間であっても金その他の力をもっていれば,そういう人間のことを,公の場でも個人的な立場でも,何はばかるところなく,祝福し尊敬しようとします。他方,正しくても無力で貧乏な人間に対しては,前者とくらべてより善人であることは認めながらも,これを見下し,軽蔑しようとするものです。」(364A)

今度は逆に,不正が醜いとされているのも,思わくと法律習慣によるものだと言います。そして不正の方が得だと言います。
「邪な人間であっても金その他の力をもっていれば…何はばかるところなく,祝福し尊敬しようとする」「正しくても無力で貧乏な人間に対しては,…善人であることは認めながらも,これを見下し,軽蔑する」…確かにそういう「権力になびく」人はいるし,それが否定はできません。

「しかしそういうあなた方すべてのうちで,かつて誰一人として,<不正>をとがめ<正義>を讃えるにあたって,評判のことや,名誉のことや,それらから結果する報いのことを云々する以外の仕方によった者はいなかった。<正義>と<不正>のそれぞれが,それぞれを所有している者の魂の内にあって,神々にも人間にも気づかれないときに,それ自体としてそれ自身の力で,どのようなはたらきをなすかということは,詩においても教えにおいても,かつて一度もくわしく語られたことはなかった。」(366E)

「<正義>を讃えるにあたっても,まさにこの肝心の点を讃えてください。<正義>はそれ自体として,それ自身の力だけで,その所有者にどのような利益を与えるのか,逆に<不正>はどのような損害を与えるのかを,示してください。報酬や評判を讃えることのほうは,ほかの人々におまかせになればよろしい。」(367D)

ということで当然ここに来ます。他人の思わくを相手にするのではなく,正義それ自体としてどういう利益があるのか?何となくイデア論の香りがしますね。
ところで,東洋の古典では,例えば「天網恢恢疎にして漏らさず」とか「李下に冠を正さず」とか,人が見ていないところでも正しくしていないとダメだという観念,あるいは「秘すれば花」のように寧ろ見せないのが美徳という観念,があるように思います。それは現代にも生きている気もします。そして,それが何故かというところまではあまり触れられていないように思います。
勿論私のようなアマチュアが知らないことも沢山あると思いますが,いい意味で「天下り的」なのかな,とよく思います。正直ソクラテスの対話にさらされなくてよかったと思います(笑)。もっともソクラテス自身は,違うと思いますが。つまり,暗黙的に,思わくではなくソクラテス的な「善さ」を東洋では認めているような気もします。

「まずぼくは,どうやって<正義>を助けたらよいのかわからない。どうもぼくには,それだけの力がないように思えるのでね。…
かといってまた,<正義>を助けずにいるということも,ぼくにはできないことだ。なぜなら,<正義>が悪しざまに罵られているところに居合わせながら,自分がまだこうして息をして口もきけるというのに,見捨てて助けないというのは,不敬虔なことでもあるのではないかと怖れるのでね。」(368B)

グラウコンとアデイマントスが示した議論は,今でもそうですが当時も確かに現実をよくとらえていたのだと分かります。ソクラテスも困っています。
しかしソクラテスにとっては,分からない,ということは普通というか当然のことでもあるのだと思います。喜びでさえあるのかもしれません。対カリクレス,対トラシュマコスの時も,最初はどうなることかと思いましたが,結局いつの間にかソクラテスの土俵に乗っていました。今回はそのとき以上に厳しそうな戦いですが,だからこそ面白い対話がなされるのではと期待できます。

「<正義>には,われわれの主張では,一個人の正義もあるが,国家全体の正義というものもあるだろうね?」
「ええ,たしかに」と彼は言った。
「ところで,国家は一個人より大きいのではないかね?」
「大きいです」と彼。
「するとたぶん,より大きなもののなかにある<正義>のほうが,いっそう大きくて学びやすいということになろう。だから,もしよければ,まずはじめに,国家においては<正義>はどのようなものであるかを,探求することにしよう。そしてその後でひとりひとりの人間においても,同じことをしらべることにしよう。」(368E)

ということで,大きいもののほうが調べやすいという論理で,人ではなくまず国家の正義を検討するということになりました。かなり遠大な構想です。

この後第二巻は,実際に何もないところから国家というものを作っていき,そこの正義・不正というものを考える,という展開になりますが,続きはメモ(2)に。それにしても毎回長くなります(笑)。

プラトン『ゴルギアス』メモ(3)

プラトン『ゴルギアス』(プラトン全集 (岩波) 第9巻) を読んだときのメモの第3弾。

これまで第2弾で,ソクラテスとカリクレスの対話を見てきたのですが,ここからは対話の後半です。
後半は,これまでの対話内容の繰り返しを含みながら,ソクラテスが「人生いかに生きるべきか」というようなこともテーマにしようとします。これも過激すぎるカリクレスの言説が引き出したということができると思います。
後で出てきますが,ソクラテスは,政治家や指導者は,市民の召使として快楽を満たすことではなく,市民をよい人間にすることが仕事であるということを言います。そしてそういう意味で真の政治家はソクラテス自身だとも言います。
また,もし不正なやり方で訴えられて死刑にされた場合,それは仕方ないというようなことも言います。これはある意味,「ソクラテスの弁明」を先取りしており,その後のソクラテスの現実をなぞっています。実際にソクラテスが言ったのではなく,プラトンの脚色かもしれないところではありますが,ただ言えるのは,「ソクラテスのような「哲学の生活」を行う→殺される (不正に死刑になる)」という図式が,この対話篇でも言われるし実際にソクラテス自身がそうなった,ということです。
つまり,ソクラテスのような善を追求する生き方をするなら,死を覚悟しろということになるのかもしれません。尤もソクラテス自身は,死などよりも,弁論術などの迎合により刑を回避することのほうが恥ずべきことだと述べていますが。
現代では,流石に死に至ることはないと思いますが,それでも組織で昇進できないとか,地位を追われるということはありそうな気はします。

ところで,『パイドロス』のメモを読み返して思い出したのですが,この『ゴルギアス』と『パイドロス』はともに弁論術を論じており,テーマに結構関連というか共通点があります。が,僕が今回全集の『ゴルギアス』を読んでいたときには,情けないことに『パイドロス』の内容が殆ど頭から飛んでいたので(汗),両者の対比は殆ど行なえていません。2周目があるとしたら,比較しながら考えてみたいものです。尤も,それを言うなら『プロタゴラス』などもそうだと思いますが。

あとこれは蛇足ですが,僕は岩波書店のプラトン全集をベースにしており,そこで「カリクレス」という表記だったので違和感がありませんが,岩波文庫では「カ(ル)リクレス」((ル)は小さいル) という PC 用のフォントが存在しない表記となっています。多くの人は逆に文庫でしか読まないと思いますので違和感があるかもしれませんが,フォントが出せないというよりは全集に準拠しただけですので,念のため。

以下はいつもどおり読書時のメモと考察です。

ソクラテス「さらにまた,ぼくの方から話すことも,冗談の つもりで受け取ってもらっては困るのだ。なぜなら,君も見ているとおり,いまぼくたちが論じ合っている事柄というのは,ほんの少しでも分別のある人間なら 誰であろうと,そのこと以上にもっと真剣になれることが,ほかにいったい何があろうか,といってもよいほどの事柄なのだからね。その事柄とはつまり,人生 いかに生きるべきか,ということなのだ。すなわち,君がぼくに勧めているような,それこそ立派な大の男のすることだという,弁論術を修めて民衆の前で話を するとか,また,君たちが現在やっているような仕方で政治活動をするとかして,そういうふうに生きるべきか,それとも,このぼくが行なっているような,知 恵を愛し求める哲学の中での生活を送るべきか,そのどちらにすべきであるかということであり,そしてまた,後者の生活法は前者のそれと比べて,いったい, どこにその優劣はあるのか,ということなのだ。」(500C)

ということで,人生いかに生きるべきか,というテーマに言及していきます。「そのこと以上にもっと真剣になれることが,ほかにいったい何があろうか」…その通りだと思いますが,残念ながらというか,現代 では現実としては逆に一番真剣に考えられない,後回しに考えられることでもあるように思います。そこがソクラテスのいう「哲学の生活」かどうか,ということかもしれません。

ソクラテス「そしてぼくとしては,そのようなやり方こそ「迎合」であると主張しているのだ。その対 象が身体であろうと,魂であろうと,あるいはまた,ほかの何かであろうと,もしひとがそのものの快楽だけに気をつかって,より善いことやより悪いことにつ いては,考えてもみないようなものがあるとすれば,そのものについても同じことなのだ。」(501C)
ソクラテス「弁論家たちはいつも,最善のこ とを念頭において,自分たちの言論によって市民たちができるだけすぐれた人間になるようにという,そのことを狙いながら,話をするのだと君には思われるか ね。それとも,この人たちもまた,市民たちの機嫌をとることのほうへすっかり傾いてしまっていて,そうして,自分たちの個人的な利益のために公共のことを なおざりにしながら,まるで子供たちにでも対するような態度で,市民大衆につき合い,ただもう彼らの機嫌をとろうと努めるだけであって,そうすることがし かし,彼らをいっそうよい人間にするのか,あるいはより悪い人間にするのかという,その点については,少しも考慮を払わないものなのかね。そのどちらだと 君は思うかね。」(502E)

善悪ではなく快楽かどうかだけを考えるのが「迎合」で,そして弁論家もまた善悪ではなく快楽に恃んで人を説得するものである,といえるでしょうか。「彼らの機嫌をとろうと努めるだけ」というのは,いわゆる「耳障りのよい」演説などを思い浮かべると,その通りだなと思います。

ソ クラテス「すなわち,幸福になりたいと願う者は,節制の徳を追求して,それを修めるべきであり,放埓のほうは,われわれ一人一人の脚の力の許すかぎり,こ れから逃れ避けなければならない。そして,できることなら,懲らしめを受ける必要のひとつもないように努めるべきだが,しかし,もしその必要がおきたのな ら,それを必要とするのが自分自身であろうと,身内のなかの誰かほかの者であろうと,あるいは,一個人であろうと,国家全体であろうと,いやしくも幸福に なろうとするのであれば,その者は裁きにかけられて,懲罰を受けるべきである。これこそ,ひとが人生を生きる上において,目を向けていなければならない目 標であると,ぼくには思われるのだ。」(507C)

もし不正や放埓の状態になったら,「裁きを受けるほうが幸福である」というのは,メモ(1)でも触れたポロスとの対話でも出てきました。それも含めて非常にソクラテスらしい言葉だと思います。

ソクラテス「そうすると,残るところは,ただつぎのような者だけが,語るに足るほどの者 として,そのような独裁者に親しい者となるわけだ。つまりそれは,独裁者がなす非難と賞賛とに調子を合わせながら,彼と似た性格の者となっていて,甘んじ てその支配を受け,そしてその支配者の下に隷属しようとする者があるなら,誰であろうと,そういう人間のことなのだ。そのような人こそ,その国では大きな 権力をもつ者になるだろうし,誰だってその人に不正を加えて平気でおられる者はいないだろう。そうではないかね。」(510C)

この部分は,「不正を受けないためにはどうしたらよいのか」ということが論じられる部分です。まず独裁者は一番権力を持っているので不正を受けることはなく,またその独裁者より優れても劣ってもいない似たような人間が一番(その独裁者から)不正を受けないだろうと。
そして,この会話の後で,もしそういう立場になったら,逆に不正を行なう人間になるのではないか?とソクラテスは言います。不正を行なっても罰を受けなくてすむわけなので。そして「それなら,その人は,最大の害悪を背負い込むことになるだろう」と。「邪悪な人間でありながら,立派なよい人間を殺すことになる」,と。

ソクラテス「しかしながら,もしも君が,この国の政治体制に,よりよい側面にであろうと,より悪い側面にであろうと,とにかく似た性格の者となってはいないにもかかわらず,その君を,この国において大きな権力を持つ者にしてくれるはずの,何かそういう技術を,他の誰でもが簡単に君に授けてくれるかもしれないと考えているとするなら,その君の考え方は,当を得たものではないとぼくには思われるよ,カリクレス。」(513A,全集ではなく岩波文庫の『ゴルギアス』より)

ということで,ソクラテスは,「政治体制に似た性格の者こそが真の政治家」というようなことを述べます。つまり民主制なので,市民と同じように,ということになります。そしてこれは,すぐ前に挙げた「独裁者に似たものに」というのとは全く正反対なわけです。
この部分は,『クリトン』で,ソクラテス処刑の前日に訪ねてきたクリトンが,逃げるようにとソクラテスを説得しようとしたとき,ソクラテスが「自分がこの国の市民である上は,ここの法によって裁かれることから逃げることはしない」というようなことを言ったのと,何か関連があるように思います (この『クリトン』の要約は記憶が曖昧なのでかなり適当です)。「法」というものが,魂を善いものにするものであるとソクラテスが言っていることに関係があるのかもしれません。市民は一番法律に縛られ (法律は強者を制限するというのもカリクレスの言葉としてありますが,法律そのものから逃れる力が一番弱いのは市民でしょう),独裁的な立場の人間は一番法律を無視する力があるといえます。そしてソクラテスは,法律を無視して放埓な力を振るうよりは,たとえ正しい運用ではなくても自分たちの国の民主制による法律に縛られて裁かれるほうを選んだ…という見方もできるのではないか,と思います。

ソクラテス 「ぼくたちはこんなふうに質問して,お互いをよく調べ合ってみるべきではないだろうか。―「さあ,それなら,カリクレスはこれまでに,市民たちの中の誰か を,一層すぐれた人間にしたことがあるのか。以前は劣悪な人間であったのに,つまり不正で,放埓で,無思慮な者であったのに,カリクレスのおかげで,立派 なすぐれた人間になった者が,誰かいるのか。それは,よその町の人でも,この町の人でも,あるいは,奴隷でも自由市民でも,誰でもよいけれども」と。」 (515A)

この部分,カリクレスを現代の政治家に当てはめたらどうだろう,と思ったりします。現実はどうあれ,政治家がそういう人間であると思っている人は少ないと思います。なお念のため書くと,ソクラテスは政治術を,魂を善くする技術であると述べています。これはメモ(1)の「迎合と技術の一覧」の図でも分かります。また,直前のメモでも書きましたが,「法律が魂を善いものにする」ものであれば,その法律を制定する政治家は,ここで言われているように市民を優れた人間にする技術を持っていなくては法律なんて作れない,ということにもなるでしょう。

ソクラテス「さて,こうしてみると,ぼくと君とはこの議論において,おかしなことをしつづけているわけだ。つまり,ぼくたちは こうして話し合っている間じゅう,廻りまわっていつも同じ所へ戻り,お互いに何を話し合っているのか,相変らずよくわからないでいる始末だからね。」 (517C)

プラトン対話篇ではよくある場面です。次回予定の『メノン』に出てくる,ソクラテスは「シビレエイ」だという喩えと同じで,自分も相手も痺れて結局何を言おうとしているのか分からなくなってきた状態といえるでしょうか。
カリクレスとの対話が始まったときは,この率直な物言いにソクラテス流の対話が通用するのかとちょっと心配になりましたが,ここに到っては良くも悪くも完全にソクラテスの土俵というわけで,杞憂でした。ソクラテス,恐るべし。

ソクラテス「さて,そう言う君 (メモ註:カリクレス) に向って,ぼくがこう言ったとすれば,君はおそらく腹を立てるだろうね。―君,君は体育術のことについては,何もわかってはいないのだよ。君が言っているのは召使たちであり,欲望の求めに応じようとする連中であって,そこで扱われている事柄については,何一つ善いことも美しいことも知らないでいる者たちなのだ。その連中ときたら,ただもうむやみやたらに詰め込んで,人びとの身体を肥らせ,それで人びとからは賞賛されているけれども,結局は,人びとが以前から持っていた肉づきまでも,失わせることになるのが落ちだろう。ところが,人びとのほうはまた,事情にうといものだから,自分たちを病気にさせ,以前から持っていた肉づきまでも失うようにさせた責任は,そのご馳走をしてくれた人たちにあるとはしないで,むしろ,あの時の飽食が―それは健康によいかどうかを考慮しないでなされたものだから―その後かなり時が経って,彼らに病気をもたらすことにでもなると,その時たまたま彼らの傍にいて,何か忠告する者があるとすれば,誰かれの見さかいなしに,その人たちの責任にして,その人たちを非難し,そして,もしそうすることができるなら,何か害を加えようとさえするだろう。これに反して,あの先の人たち,つまり,この災厄の真の責任者である人たちのほうを,人びとは褒めそやすことだろう。」(518C,全集ではなく岩波文庫の『ゴルギアス』から)

微妙にソクラテスの恨み節のような感じもしますが,かなり含みのある言葉だと思いました。欲望の求め,つまり快楽を与えた者勝ちという構図で,本当にその人のためになることをした人のほうが非難される,と。
自分や現実を顧みて言えば,人間とはそういうものだ,とも思います。やはり快適であるとか,おいしいとか,褒められるとか,お金を貰えるとかいうことに対しては嬉しいし,逆の場合には怒ることもあると思います。つまり快楽というのは感情に訴えかけてその人の善悪判断を鈍らせるということが言えるでしょうか。
そしてこの快楽というのを,弁論術に置き換えても同じ,なのでしょう。

ソクラテス「しかしほんとうは,ソフィストの術のほうが弁論術よりも立派であって,それは,立法の術が司法の術よりも,また体育の術が医術よりも立派であるのと,ちょうど同じ程度にそうなのだ。」(520B)

正直ソフィストの術と弁論術の違いというのは未だにはっきりとは分かりません。ただ,どちらも思惑を相手にしているというのが自分の理解です。ここでは,似ているのは確かなのと,既に悪くなっているものを直すものよりは,もともと悪くならないためのもののほうが格上ということのようです。これは「不正を行なわないのが一番よく,不正を行なったら裁きを受けるのが次によく,…」というソクラテスの主張とちょっと共通点があるかもしれません。

ソ クラテス「ぼくの考えでは,アテナイ人の中で,真の意味での政治の技術に手をつけているのは,ぼく一人だけとはあえて言わないとしても,その数少ない人た ちの中の一人であり,しかも現代の人たちの中では,ぼくだけが一人,ほんとうの政治の仕事を行なっているのだと思っている。そこで,いつの場合でもぼくの する話は,人びとの機嫌をとることを目的にしているのではなく,最善のことを目的にしているのだから,つまり,一番快いことが目的になっているのではない から,それにまた,君が勧めてくれているところの,「あの気の利いたこと」をするつもりがないから,法廷ではどう話していいか,ぼくはさぞ困るにちがいないのだ。」(521D)

この部分の前で,「過去にも現在にも,市民をより善い人間にした政治家はいない」ということをソクラテスは言います。そして「自分だけがほんとうの政治の仕事を行なっている」と言います。そして,だからそうではない政治家から不当に訴えられても,弁論術による迎合で言い逃れをする気はないと言います。
自分こそ真の政治家だ,などという言葉はソクラテスには全く似合わない言葉です。当然ですが驕りなど感じるわけがありません。寧ろ真の政治家がいないことへの諦念というか,現れてほしいという渇望というか,そういうものを感じさせます。

カリクレス「それなら,ソクラテス,ひとがそんな状態におかれていて,そして自分自身を助けることができないでいても,それでもその人は,一国の中で,立派にやっているように思われるのかね。」
ソクラテス「それは,カリクレスよ,君が何度も同意していた,あの一つのことさえ,その人が自分の身につけているなら,立派にやっていることになるのだ よ。つまり,人々に対しても,神々に対しても,不正なことは何ひとつ言わなかったし,また行いもしなかったということで,自分自身を助けてきたのならだ ね。」(522C)

カリクレスは,不正を受けることから自分自身を助けることができないと言い,ソクラテスは,不正を行なわないことで自分自身を助けてきたのだと言います。やっぱりかみ合っていませんが,かみ合わないからこそ相補的に浮き上がってくるともいえます。

ソクラテス「そして,その点での無能力のために死刑になるのだとしたら,ぼくは残念に思うだろう。だがしかし,もしこの ぼくが,迎合としての弁論術をもち合わせていないがために死ぬのだとすれば,これはうけ合っていいけれども,ぼくが動ずることなく死の運命に耐えるのを, 君は見るだろう。というのは,死ぬという,ただそれだけのことなら,まったくの分らず屋で,男らしくない人間でないかぎり,誰ひとりこれを恐れる者はいな いからだ。しかし,不正を行なうことのほうが,誰でもが恐れるからだ。」(522D)

メモの冒頭にも書きましたが,ソクラテスの「哲学の生活」にはそこまでの覚悟が必要なのか,と思わずにはいられません。そして将来実際にこの通りに殺されるわけです。世の中にソクラテスのような人がいないのは,快楽に負けるというよりは,この「覚悟」がないからではないか,という気もします。
「死を恐れる者はいない」と,簡単に言いますが,どうなんでしょうね。昔と今とでは,今の方が交通事故とかいわゆる「不慮の」事故で死ぬ可能性が上がっていると思いますが,逆に病気で死ぬ可能性は下がっているはずです。宗教観もあるので一概には言えないと思いますが,死を恐れないと平然と言える人も現代ではなかなかいないと思います。

ソクラテス「なぜなら,カリクレス,不正を行なう自由が大いにあるなかで育ちながら,一生を正しく送り通すということは,むつかしいことであるし,したがって,それは大いなる賞賛に価するからだ。」(526A)

いわゆる「ノブレス・オブリージュ」を思い起こしました。

ソ クラテス「さて,ぼくとしては,カリクレスよ,これらの話を信じているし,そして,どうしたならその裁判官に,ぼくの魂をできるだけ健全なものとして見せ ることになるだろうかと,考えているわけだ。だから,世の多くの人たちの評判は気にしないで,ひたすら真理を修めることによって,ぼくの力にかなうかぎ り,ほんとうに立派な人間となって,生きるように努めるつもりだし,また死ぬ時にも,そのような人間として死ぬようにしたいと思っているのだ。そして,ほかのすべての人たちに対しても,ぼくの力の許す範囲内で,そうするように勧めているのだが,特にまた君に対しても,君が勧めてくれるのとは反対になるけれ ども,いま言ったその生活を送り,その競技に参加するように勧めたいのだ。」(526D)

この前の部分は,死んだときの神話がソクラテスによって語られます。それは,「死ぬとその時点での魂が,誰のものか (どんな身分の者か) が分からない状態で,神 (ラダマンテュス,アイアコス) によって裁判にかけられ,不正を行なっていればタルタロスに送られる」というようなものです。そしてこのソクラテスの言葉に繋がります。

ということで以上。
『ゴルギアス』のメモは3回に分かれて,しかもそれぞれが長くなってしまいましたが,それだけ印象的な対話篇でした。読み物としても面白いですし,「技術と迎合」,「不正を行なうよりは不正を受けるほうを選ぶ」といったことは目から鱗といった思いもしました。

次回は『メノン』の予定。

プラトン『ゴルギアス』メモ(2)

プラトン『ゴルギアス』(プラトン全集 (岩波) 第9巻) を読んだときのメモの続き。
前半はこちらをご覧ください。当記事は主に後半のカリクレスとの対話の部分の途中までがテーマです。

カリクレスは,強者が弱者を支配する,弱肉強食の論理が正義である,人間は欲望に忠実に生きるべきである,というようなある意味過激な主張を繰り広げます。確かニーチェがこのカリクレスを賞賛していたというのをどこかで見ました (私はニーチェについては全然知りません)。
さすがにこれほど率直な言い分に対して,いつものソクラテスの対話というのがどこまで効果があるのかと心配になるところですが,後で述べますが寧ろソクラテスは,いい対話相手を得たというように,「人生いかに生きるべきか」というような根本的な問題を論じます (但しこの部分のメモは (3) に書きます)。そしてソクラテスの土俵で,一応カリクレスも論破されるという結末になったと思います。ただ結末は (多分他の対話篇もそうだと思いますが) それほど重要ではなく,どんな対話がなされたかというのが重要で,その点で本篇のカリクレスの言ったこと自体が残す印象というのは非常に大きいものだと思います。

個人的には,他人がカリクレス的な考え方だった場合に,それをソクラテス的な考え方にするというのは普通は諦めてしまうと思います。少なくとも現代の価値観で,「善く生きる」ということがどれほどのものなのかは,普遍的なものではないように思います。それでも自分は,そういう生き方をすることが少なくとも自分のためにはなるのではないか,と今は思っています。これとて,今後変わるかもしれません。

ソフトウェア開発の分野で「継続的インテグレーション」というのがありますが,趣味としてですが何かを得るために読む立場の人間としては,プラトンの追求したものを,自分のその時の環境や考えや状態をもとに継続的にインテグレーションしていくことが,生きたものにするためには必要と思っています。

カリクレス「つまり,あなたという人はほんとうに,ソクラテスよ,真理を追求していると称しながら,あのような月並みで,俗受けのすることへ,話をもっていくのだからなあ。あのようなことは,自然の本来 (ピュシス) においては美しいことではなく,ただ法律習慣 (ノモス) の上でだけ,そうであるにすぎないのに。」(482E)

カリクレス「かくて,以上のような理由で,法律習慣の上では,世の大多数の者たちよりも多く持とうと努めるのが,不正なこと,醜いことだと言われているのであり,またそうすることを,人びとは不正行為と呼んでいるのだ。しかし,ぼくの思うに,自然そのものが直接に明らかにしているのは,優秀な者は劣悪な者よりも,また有能な者は無能な者よりも,多く持つのが正しいということである。そして,それがそのとおりであるということは,自然はいたるところでこれを明示しているのだが,つまりそれは,他の動物の場合でもそうだけれども,特にまた人間の場合においても,これを国家と国家の間とか,種族と種族の間とかいう,全体の立場で考えてみるなら,そのとおりなのである。すなわち,正義とは,強者が弱者を支配し,そして弱者よりも多く持つことであるというふうに,すでに結論は出てしまっているのだ。」(483C)

確かに,民主主義で法律を作っていくことというのは,動物と同じような弱肉強食の社会になることを妨げる方向に動くことは間違いないように思います。また,「世の大多数の者たちよりも多く持とうと努めるのが,不正なこと,醜いこと」という観念のようなものは現代でも根強く残っていると思います。しかし,それで実際に強者が弱者によって制されているのか?と言われると,法律上はそうかもしれませんが現実にはあんまりそういう気はしません。

カリクレス「われわれはその法律なるものによって,自分たちのなかの最も優れた者たちの最も力の強い者たちを,ちょうど獅子を飼いならすときのように,子供の時から手もとにひきとって,これを型通りの者につくり上げているのだ。平等に持つべきであり,そしてそれこそが美しいこと,正しいことだというふうに語りきかせながら,呪文を唱えたり,魔法にかけたりして,彼らをすっかり奴隷にしてだね。」(483E)

「獅子を飼いならす」ように,突出した人間を押さえつけるというのは,現代でも割と観念としてあるように思います。寧ろ教育問題のコンテキストで語られやすいかもしれません。

カリクレス「というのは,いいかね,ソクラテス,哲学というものは,たしかに,結構なものだよ,ひとが若い年頃に,ほどよくそれに触れておくぶんにはね。しかし,必要以上にそれにかかずらっていると,人間を破滅させてしまうことになるのだ。」(484C)

現代でも哲学というのは役に立たないものの代名詞的な面もあるように思います(笑)。また,僕は漱石をよく読みますが,『虞美人草』の甲野さんという人物が小説中で「哲学者」と称されていて,確かにある意味破滅的なので思い出しました。勿論カリクレスがどこまでの意味を哲学という語に込めたかはなんともいえませんが,かようにソクラテスを徹底的に否定する役目を,カリクレスはプラトンによって負わされているのが本対話篇です。かつそれへの反動を利用してソクラテスの生き方を語らせるのが本対話篇です。

カリクレス「(なぜなら,)今もし誰かが,あなたをでも,あるいは,そういった連中のなかの他の誰かをでも逮捕して,何も悪いことはしていないのに,しているのだといって,牢獄へ引っぱって行くのだとしてごらん。いいかね,あなたはそのとき,どうしてよいかわからないで,目を白黒させているだろうし,また言うべき言葉も知らないで,ぽかんと口をあけているだけだろうからね。そして,法廷へ出頭したなら,あなたを訴えた告発人が,じつにつまらない,やくざな人間であったとしても,もしその男があなたに死刑を求刑しようと思えば,あなたは死刑になってしまうだろうからね。」(486A)

この部分は,メモ(1)での弁論術に関するゴルギアスとの対話でも出てきた「弁論術とは説得であり,真実とは関係ない」というソクラテスの言葉を逆手にとった感じです。そしてこれに対する回答は,一番最後のほうに明確に出てきます。

ソクラテス「「より強い」と,「より優れている」と,そして「より力がある」とは,同じ意味なのかね,それとも,ちがうのかね。」
カリクレス「いや,いいとも。ぼくのほうで,あなたにはっきり言っておこう。それらは同じ意味なのだ。」
ソクラテス「それでは,どうだろう。多数の者は一人よりも,自然本来においては,より強いのではないかね。そして,まさにその多数の者が,一人に対抗して,法律を制定しているのだが,君もさっき言っていたようにだね。」
カリクレス「それはもちろん,そうだ。」
ソクラテス「そうすると,多数の者の定める法規は,より強い人たちの定める法規だ,ということになるね。」
カリクレス「たしかに。」
ソクラテス「ではまた,より優れた人たちの定める法規でもある,ということになるのではないかね。なぜなら,君の説によると,より強い人たちというのは,より優れた人たちのことであるはずだから。」
カリクレス「そうだ。」
ソクラテス「だとすると,彼ら多数の者の定める法規は,自然本来において,美しいものだということになるのではないかね。とにかく,それはより強い人たちの定めるものなのだから。」(488D)

ずっとカリクレスの演説調の話が続きましたが,ここらでソクラテスが反撃に転じます。いつもの調子です。そして「強い者は美しい」というカリクレスの主張を逆手に取って,法規も美しいと言います。「多数→強い」という仮定があるわけですが。

カリクレス「神々に誓って,そのとおりだもの,まったくの話,あなたはいつだって,靴屋だとか,洗い張り屋だとか,肉屋だとか,そして医者だとかのことばかり話していて,いっこうにやめようとはしないのだ。まるでぼくたちの議論は,その人たちのことを問題にしてでもいるかのようにね。」
ソクラテス「それなら,どんな人たちのことを問題にしているのか,さあ,君のほうで言ってくれたまえ。より強くてより思慮のある者は,いったい,何を余計に持つなら,その余計に持つことが正しいことになるのかね。」(491A)

ここはちょっと面白いところです。多分プラトンの対話篇をいくつか読んだ人は,カリクレスと同じような感想を持つと思います。まあでもそういう職人とかが当時もいたんだなあというのが想像できるので貴重でもあると思います。

カリクレス「つまり,正しく生きようとする者は,自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで,欲望はできるだけ大きくなるがままに放置しておくべきだ。そして,できるだけ大きくなっているそれらの欲望に,勇気と思慮をもって,充分に奉仕できる者とならなければならない。そうして,欲望の求めるものがあれば,いつでも,何をもってでも,これの充足をはかるべきである,ということなのだ。しかしながら,このようなことは,世の大衆にはとてもできないことだとぼくは思う。だから,彼ら大衆は,それをひけ目に感じるがゆえに,そうした能力のある人たちを非難するのだが,そうすることで彼らは,自分たちの無能力を蔽い隠そうとするのである。そして,放埓はまさに醜いことであると主張するのだが,ぼくが先ほどの話の中で言っておいたように,こうして彼らは,生まれつきすぐれた素質をもつ人たちを奴隷にしようとするわけなのだ。そしてまた,自分たちは快楽に満足をあたえることができないものだから,それで節制や正義の徳をほめたたえるけれども,それも要するに,自分たちに意気地がないからである。」(491E)

ここの「欲望を抑えず,快楽を満たせ」というところもかなり印象的な部分です。誰しも本能的なものとして,カリクレスの言うようにできればと思う部分があると思います。しかしそれは…と思う部分もあると思います。その後者を引き起こすのが「善」かどうかというのが (対話の流れからいえば先取りしますが) ソクラテスの言うことだと思います。

ソクラテス「ほんとうに憚ることもなしに,カリクレスよ,君は率直に語って,議論を展開するのだね。ほかの人たちなら,心には思っていても,口に出しては言おうとしないようなことを,君はいま,はっきりと述べてくれているのだから。それでは,ぼくは君にお願いしておくけれど,どんなことがあっても,その調子をゆるめないようにしてくれたまえ。ひとはいかに生きるべきかということが,本当に明らかになるためにね。」(492D)

ちょっとソクラテスが本気を出すという感じです。しかし実際,ここまでのカリクレスの率直な表明があってこその本篇のソクラテスです。
このカリクレスという政治家が,実際にここまで過激な人物だったかは定かではないようで,プラトンが自分の中の負の部分をカリクレスに語らせたというような見立てもあるようです (図書館で一部読んだだけですが「プラトンの弁明」という本が『ゴルギアス』を詳細に論じていて,そこで書かれていたと思います)。

ソクラテス「それではまず,こういう点について言ってもらうことにしようか。ひとが疥癬にかかって,かゆくてたまらず,心ゆくまで掻くことができるので,掻きながら一生を送り通すとしたら,それでその人は,幸福に生きることになるのだろうか,どうだね。」
カリクレス「なんて突拍子もないことを言い出す人なんだろうね,あなたは,ソクラテス。何のことはない,あなたはまったくの大道演説家だよ。」(494C)

この部分もちょっと面白いですが,快楽とは何かを考えるときの1つの分かりやすい例だと思います。

ソクラテス「そうすると,ひとが同時にそれから離れたり,また同時にそれを持ったりするような,何かそういうものを,もしわれわれが見つけ出したとすれば,少なくともそれらのものは,明らかに,善と悪とではありえない,ということになるだろう。この点については,ぼくたちの意見は一致しているのかね?それでは,よくよく考えた上で,答えてくれたまえ。」(496C)

これはプラトンがたまに使う論法だと思います。善と悪は,数直線上の + と – で表せるようなものというような意味だと思います。

ソクラテス「われわれ一人一人は,飲むことによって渇きがやむとともに,それと同時にまた,快い気持のほうもやんでしまうのではないかね。」
カリクレス「何のことだか,さっぱりわからないよ。」
ゴルギアス「いやいや,そんな言い方をしてはいけないよ,カリクレス。われわれのためにも答えてあげなさい。それでこの議論も片付くことになるのだから。」
カリクレス「しかし,ソクラテスという人は,いつでもこうなのですよ,ゴルギアス。些細な,ほとんど取るに足らないようなことを問い返しては,人を反駁するのです。」
ゴルギアス「しかし,そんなことは,君には何も関係がないではないかね。いずれにしろ,そういったふうな,ことの大小軽重の評価は,君の役目ではないのだから,カリクレス。さあ,ソクラテスの言うとおりになって,どうであろうと,彼の好きなように反駁させてごらん。」(497B)

ここでゴルギアスが口を挟みますが,いい味を出してます。『プロタゴラス』等でもあったと思いますが,敵役といってもいいようなソクラテスの相手方の人物が,イラつくソクラテスの相手を宥め,真理を追求する姿勢は同じだということを表明するのは非常にいい場面だと思います。現実にこういう人がいたら惚れますね(笑)。

ソクラテス「そうすると,ほかのこともそうなのだが,快いこともまた,善いことのためになすべきであって,快いことのために,善いことをなすべきではないのだ。」
ゴルギアス「たしかに。」
ソクラテス「でははたして,もろもろの快いことのなかから,どのようなのが善いことであり,どのようなのが悪いことであることを選び分けるのは,すべてどの人にでもできることかね。それとも,そうするのには,それぞれの事柄について技術の心得ある人をまたなければならないのか。」
カリクレス「むろん,技術の心得ある人をまたなければならない。」(500A)

先の「掻く」という例に当てはめると,掻くことが身体に善いなら掻く,悪いことなら例え快楽でも掻かない,そしてその善悪を判断するのは医術等の技術だということになるでしょうか。この背景には当然,「弁論術は善悪を判断する技術ではないのに判断させることができるものである」という意味も込められていると思います。

以下はいよいよ「いかに生きるべきか」をソクラテスが語っていく場面ですが,カリクレスとの対話も長くなってしまいましたので,以下は次回 (3) に。