プラトン『国家』第一巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第一巻を読んだときのメモの第2段。 第1段の対話メモの続きで,ここではソクラテス対トラシュマコスの対話がメインとなります。

トラシュマコスのソクラテスに対する敵対的な態度は,『ゴルギアス』のメモでも書きましたが,『ゴルギアス』に出てくるカリクレスを彷彿とさせます。ただ,カリクレスがソクラテスの「哲学の生活」つまり生き方そのものを徹底的に非難したのに対して,トラシュマコスは口調は確かに激しいのですが,あくまで「正義」についての自説を展開したに過ぎない,という気もします。なのでソクラテスの反駁も,淡々と論理的に行なわれたという印象です。まあ,ソクラテスも第一巻からそこまで本気になったら第十巻まで持たないでしょう(笑)。

以下が読書時のメモです。

「何というたわけたお喋りに,さっきからあなた方はうつつをぬかしているのだ,ソクラテス?ごもっとも,ごもっともと譲り合いながら,お互いに人の好いところを見せ合っているそのざまは,何ごとですかね?もし<正義>とは何かをほんとうに知りたい のなら,質問するほうにばかりまわって,人が答えたことをひっくり返しては得意になるというようなことは,やめるがいい。答えるよりも問うほうがやさしいことは,百も承知のくせに!」(336C)

ソクラテスとポレマルコスの対話で,正義とは敵に対してでも害を与えることはない,ということが合意されたところで,トラシュマコスが我慢ならんという感じで割り込んできて上記の言葉を始め,かなり過激な言葉を投げかけます。ソクラテスが驚いた様子も本文に書かれていますが,読み手としてもかなり強烈な印象を受けます。

「では聞くがよい。私は主張する,<正しいこと>とは,強い者の利益にほかならないと。…おや,なぜほめない?さては,その気がないのだな?」(338C)

トラシュマコスの言葉です。なんかこの部分だけ読むと滑稽ですが,「なぜほめない?」というのは,この前に,ソクラテスが「人から何かを学んだときには自分も謝礼をするが,自分はお金がないのでその人を褒めることしかできない」というような言葉を受けてです。

「それぞれの国で権力をにぎっているのは,ほかならぬその支配者ではないか?」
「たしかに」
「しかるにその支配階級というものは,それぞれ自分の利益に合わせて法律を制定する。たとえば,民主制の場合ならば,民衆中心の法律を制定し,僭主独裁性の場合ならば,独裁僭主中心の法律を制定し,その他の政治形態の場合もこれと同様である。そしてそういうふうに法律を制定したうえで,この,自分たちの利益になることこそが被支配者たちにとって<正しいこと>なのだと宣言し,それを踏みはずした者を法律違反者,不正な犯罪人として懲罰する。 さあ,これでおわかりかね?私の言うのはこのように,<正しいこと>とはすべての国において同一の事柄を意味している,すなわちそれは,現存する支配階級の利益になることにほかならない,ということなのだ。しかるに支配階級とは,権力のある強い者のことだ。したがって,正しく推論するならば, 強い者の利益になることこそが,いずこにおいても同じように<正しいこと>なのだ,という結論になる」(338D)

まさに「強者の論理」というのがふさわしいトラシュマコスの言葉…だとは思うのですが,「民主制の場合ならば,民衆中心の法律を制定し…自分たちの利益になることこそが被支配者たちにとって<正しいこと>」と,言葉だけ見ると一見正論を述べてもいるような気もします。
ただ,勿論「利益→正しい」というのが本当なのか?ということと,「民主制における支配階級とは?」というのが疑問に思ったことではあります。前者はソクラテスにお任せするとして,後者は本来であれば,市民一人ひとりということになるのかな,と思います。が現実には代議士,政治家ということになるでしょうか。では政治家の利益になることが正しいことなのでしょうか?現代の視点でトラシュマコスの言葉を考えると,そういう問いかけに取ることも可能かもしれません。

「支配者たち,強い者たちに不利益なことを行なうのも<正しいこと>であると,君はちゃんと同意したのだ,とね。つまりそれは,支配者たちがそのつもり ではないのに自分に不利益なことを命じるような場合のことだ。そして君は,命じられたとおりに行なうのが被支配者にとって正しいことなのだ,と主張してい る」(339E)

ソクラテスの反論です。ここでは結構省いていますが,メモ(1)に書いた,ポレマルコスと対話したのと展開が似ています。つまりポレマルコスは最初,「善いと思われる人」に利益を与えるのが正義だといいましたが,それだと実際には悪い人,つまり敵に利するのが正義の場合もあることになりました。同様に,支配者たちの「利益だと思われる」ことを被支配者が行なった場合,それは実際には不利益かもしれないが,それも正義の場合もあると。但しトラシュマコスは,ここは少し工夫してきます。

「い いかね,早いはなしが,あなたは病人について判断を誤るような者を,判断を誤るまさにその点に関して,『医者』であると呼びますかね?あるいは,計算を誤るような者のことを,計算を誤るまさにその瞬間に,まさにその誤りに関して,『計算家』であると呼びますかね?」(340D)

「あらためて 最も厳密な意味で答えるとすれば,こういうことになる。すなわち,支配者は,支配者たるかぎりにおいては誤ることがない,そして誤ることがない以上,支配者が法として課するのは,自分にとって最善の事柄であって,それを行なうのが被支配者のつとめであると。」(340E)

ということでトラシュマコスは,専門家は,その技術については決して誤ることがない,技術自体は完全なものであるという「厳密な意味での」という前提を導入します。これはこれで,なるほどという仮定だなと思いました。一種のプロフェッショナリズムともいえるかもしれません。確かに間違うことがありうるということになれば,そこで話が頓挫しかねません。が,この後で分かるように,ソクラテスにとっても好都合だったようです。

「(だからまた,) おそらくどんな医者でも,彼が医者であるかぎりにおいては,医者の利益になることを考えてそれを命じるのではなく,病人の利益になる事柄を考えて命令する のではないかね?なぜなら,すでに同意されたところによれば,厳密な意味での医者というものは,金儲けを仕事にするものではなくて,身体を支配する者のこ となのだから。―どうだね,そういうことが同意されたのではないか?」(342D)

「そしてまた,トラシュマコス」とぼくは言った,「一般 にどのような種類の支配的地位にある者でも,いやしくも支配者であるかぎりは,けっして自分のための利益を考えることも命じることもなく,支配される側の もの,自分の仕事がはたらきかける対象であるものの利益になる事柄をこそ,考察し命令するのだ。そしてその言行のすべてにおいて,彼の目は,自分の仕事の 対象である被支配者に向けられ,その対象にとって利益になること,適することのほうに,向けられているのだ」(342E)

ということで,「厳密の意味で」というトラシュマコスの前提を利用する形でソクラテスが反駁します。そもそも技術が完全であるなら,それは金儲け等その他の目的ではなく,その技術の作用を受ける側の利益のみを目的にしたものであり,それはつまり被支配者の利益になることであって支配者の利益になるものではない,と。
繰り返しますが,この「厳密の意味で」という前提は曖昧さを取り除き,論理的な推論を可能にするという点で,かなりソクラテスに有利に働いているように個人的には思います。

「それにまた,お人好しの本尊のソクラテスよ,正しい人間はいつの場合にも不正な人間にひけをとるものだということを,次のようなことから考えてみるがよい。まず第一に, 正しい人間と不正な人間とが互いに契約して,共同で何かの事業をするとしたら,その共同関係を解くにあたって,正しい者のほうが不正な者よりもたくさんの 儲けにあずかるというようなことは,けっして見られないだろう。正しい人のほうが,きまって損をするのだ。」(343C)

ソクラテスを「お人好しの本尊」呼ばわりしますが,そういう,問題の追求とは関係なく相手を貶める言葉を言うのは (まあ面白いですが) 聞き手を呆れさせるだけで言う人間にとって何もメリットはない,と実感します。
それはともかく,このトラシュマコスの言っていること自体は現実のような気もします。

「しかし私の言うことは,最も完全なかたちにおける不正のことを考えてもらえば,あんたにもいちばん楽にのみこめることだろう。最も完全な不正こそは,不正をおかす当人を最も幸せにし,逆に不正を受ける者たち,不正をおかそうとしない者たちを,最も惨めにするものだからだ。独裁僭主のやり方が,ちょうどこれにあたる。」 (344A)

「ところが,いったん国民すべての財産をまき上げ,おまけにその身柄そのものまでを奴隷にして隷属させるような者が現われると,その人はいま言ったような不名誉な名では呼ばれないで,幸せな人,祝福された人と呼ばれるのである。その国民自身がそう呼ぶだけではない。よその国の 者も,彼がそういう完全な不正をなしとげたことを聞き知るならば,口をそろえてそう言うのだ。それというのもほかではない,人々が不正を非難するのは,不正を人に加えることではなく自分が不正を受けることがこわいからこそ,それを非難するのだからである。 このように,ソクラテス,不正がひとたび十分な仕方で実現するときは,それは正義よりも協力で,自由で,権勢をもつものなのだ。そしてわたしが最初から言っていたように,<正しいこと>とは,強い者の利益になることにほかならず,これに反して<不正なこと>こそは,自分自身に利 益になり得になるものなのである」
こういってトラシュマコスは,まるで風呂屋の三助が湯をぶっかけるような勢いで,われわれの耳にたくさんの言葉をわんさかと浴せかけておいてから,そこを立ち去るつもりでいた。(344B)

トラシュマコスは,不正を礼賛するようなことを言います。不正は正しい人を適切に?支配するものであると言います。「正しいことは支配者の利益になることで,不正なことは自分の利益になること」というのは,「お前の物は俺の物,俺の物も俺の物」という所謂ジャイアンの理論を思い出します(笑)。実際,トラシュマコスは支配者が不正を成し遂げ,被支配者が正しい場合が理想的な支配体制と考えているように思えます。ただどちらかというと帰納的で,ソクラテスとの対話が成り立っているようには思えません。
あと最後の「風呂屋の三助」云々は,変わった訳というか,古い訳なのかなと思いました。僕は一応漱石の小説などもよく読むので分かりますが (確か『門』の序盤に出てきたような),今は三助って通じない気がします。勿論原文がそういうものなのでしょうけど。

「ぼくのほうは,ちゃんと自分の考えを表明しておく。すなわち,ぼくは君の言ったことを信じない。不正のほうが正義よりも得になるなどとは,けっして思わない。たとえ不正が放任されていて,何でもしたい放題であるような場合でも,なおかつそうなのだ,とね」(345A)

決然と,といった感じでソクラテスが言います。ごちゃごちゃと理詰めで相手をやり込んでいくのがいつものソクラテスですが,無茶な言説に対してこのように決然と対決姿勢を示す場面はいいなあと思います。
当たり前ですが,ソクラテスほど情に厚い人間もいなかったはずで,普段は理詰めですがこういう時にふと本性が覗くのが,人間的なところを感じさせます。いやまあプラトンの脚色かもしれませんが…。

「ぼ くはね,親愛なるトラシュマコス,まさにこういう理由によってこそ,ついさっき,みずからすすんで支配者の地位につき,他人の災厄に関与して立て直してやろうと望む者は一人もいない,みんなそのための報酬を要求する,と言っていたのだよ。ほかでもない,自分の技術に従って立派に仕事をしようとする者ならば,けっして自分自身のために最善になることを行なうことはないし,また人に命令する場合にも,その技術本来の任務に忠実である限りは同様であって,逆に 被支配者のために最善になることをこそ,行なったり命じたりするのだから。 思うに,支配者の地位につくことを承知しようとする者に報酬が与えられなければならないということは,こうした事情によるのだろう。その報酬が金銭にせよ,名誉にせよ,あるいは,拒む者に対しては罰であるにせよね。」(346E)

「支配者はその技術を被支配者の最善のためだけに使う,自分のためには決してならない,だから報酬が必要」というのは,かなり感銘を受けました。当たり前でもあるかもしれませんが。「プロの態度」のように思えます。
大変な決断をする人には,それなりに報酬を与えないといけない,とも思えます。それなりに報酬を貰っているのなら,その分仕事は虚心に行わなければいけない,とも思えます。不正を行うということは,報酬が足りないからだ,だから自分のための仕事をしてしまうのだ,とも思えます。報酬が足りるかどうかの尺度は難しい,いや節制がない人にとっては無尽蔵だろう,とも思います。
日ごろの仕事に対する姿勢にも通じるところはあります。報酬を貰っているのだから,自分自身の成長とか楽しみとかは,考えるべきではないかもしれません。勿論,楽しむこと,成長することが同時に結果を出すことに繋がればベストだろうとは思いますが…。

「と ころで,罰の最大なるものは何かといえば,もし自分が支配することを拒んだ場合,自分より劣った人間に支配されるということだ。立派な人物たちが支配者となるときには,こういう罰がこわいからこそ,自分が支配者になるのだとぼくは思う。彼らはそのとき,支配することを何か善いことであると考えたり,その地位にあって善い目にあうことを期待したりして,支配に赴くわけではないのだ。支配をゆだねてもよいような,自分以上にすぐれた人たちも,あるいは自分と同 様の人たちさえも見出せないために,万やむをえぬことと考えてそうするのだ。」(347C)

前の引用の最後に「罰」という言葉があり,グラウコンがそれについて質問したところですが,「優れた人にとって,自分が劣った人間に支配されることが罰で,それを受けないためにやむを得ず支配者になる」というソクラテスの説で,これにも唸らされました。
確かに,これまでの話の流れでいくと,支配者とは決して自分のためのことをするわけではなく,その代わりに報酬を貰いますが,金や名誉のために仕事をすることを恥だと思えば,支配者になりたいと思う理由はないようにも思えます。
勿論現実は,出世していい身分になり沢山の金を貰いたい,と思うのが当たり前の世の中だからこそ,このソクラテスの説が新鮮に映るのです。
「マザー2」というゲームで,モグラの5兄弟が敵として出てきて,別々に戦うところがあるのですが,5匹が5匹とも「自分こそが真に3番目に強い」と言って憚らないのをふと思い出しました。トップになりたがらないという共通点だけですが,そう思うと案外深かったです(笑)。

「すると,<不正>とは,次のよう な力をもつのだということが明らかだね。すなわち,それは国家であれ,氏族であれ,軍隊であれ,他の何であれ,およそ何ものの内に宿るのであろうとも,ま ずそのものをして,不和と仲違いのために共同行為を不可能にさせ,さらに自分自身に対して,また自分と反対のすべての者,すなわち正しい者に対して,敵たらしめるものだ。そうではないかね?」
「たしかに」
「そして思うに,一個人の内にある場合にも,<不正>は同じこれら自己本来のはたらきを発揮することに変りはないのだ。すなわち,まずその人 間をして,自分自身との内的な不和・不一致のために事を行なうことを不可能にさせ,さらに自己自身に対しても正しい者に対しても敵たらしめるものだ。そうだね?」(351E)

この前に,不正が正義より劣ったものであるというソクラテスの論証があったのですが,メモは省略しました。トラシュマコスはソクラテスに降参したような形で,割と素直になっており,ここはソクラテスの独壇場のような感じで不正に関する考察が行われます。
しかし,「不正は組織に不和を発生させ,さらに自分自身の中にも不和を発生させる」 (反対に協調を作るのは正義同士のみである),というのはなるほどと思います。

「食いしんぼうの客は,料理の皿が出されるたびに,前の料理をまだじゅうぶんに賞味してもいないのに,すぐ次の皿を ひったくっては味わおうとするものだが,ぼくのやり方も,ちょうどそのとおりだったと自分で思う。最初『<正義>とはそもそも何であるか』と いう問題を考察していながら,答をまだ見出さぬうちにその問題を離れて,『それは悪徳であり無知であるのか,それとも知恵であり徳であるのか』といっ た,<正義>についての特定の問題にとびついて行ってしまった。そのあとでこんどは『<不正>は<正義>よりも得に なるものである』という論が出てくると,またもや先の問題をほったらかして,それに向かわずにはいられなかった。 こうして,討論の結果ぼくがいま得たものはと言えば,何も知っていないということだけだ。それもそのはず,<正義>それ自体がそもそも何であ るかがわかっていなければ,それが徳の一種であるかないかとか,それをもっている人が幸福であるかないかといったことは,とうていわかりっこないだろうか らね」(354B)

…ということで,「不正が正義より得になることはない」という結論になりますが,上記のように「そもそも正義とは何かが分からない」という,『メノン』などと同様の所謂アポリアに陥って第一巻が終了します。

ここまでだけ見ると,これだけで1つの対話編として立派に成り立ちそうです。しかし『国家』は,まだ1合目に過ぎません。これからたっぷりと「正義」の追求が見られます。非常に楽しみです。
次回は第二巻の予定。

プラトン『国家』第一巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第一巻を読んだときのメモ第1弾。

まず『国家』はプラトン全集では,全十巻に分かれています。全体として非常に長いので,メモも1巻ずつに分けて残そうかと思います。…と思ったら第一巻が長くなって早速2つに分かれましたが。

何にしても,まずこの『国家』を,趣味として,読み物として読むことができることに感謝したいと思います。ソクラテスや他の人物の言葉を,「哲学」として検証する立場ではなく,自らも対話の一員のように素直に読むことができることを嬉しく思います。この前呟いたのですが,研究者や専攻の学生でもないのにわざわざ『国家』を,というよりプラトン全集をですが,読む人はなかなかいないと思います。きっかけは何であれ,そういう機会に恵まれてよかったです。

さて実は『国家』は文庫で一応以前読んだことがあります (例によってあまり覚えていません(笑))。話の流れとしては,まず個人の正義とは何かを考え,それから国家の正義というものを考えるために理想の国の形をゼロから考えていく,というようなものだったと思います。

それぞれの巻のメモで,大まかな中身は自分なりにまとめていきたいと思っていますが,文庫版の『国家』の最初に,構成・内容が分かりやすくまとめられていたと思います。

さて第一巻ですが,話はソクラテスがペイライエウスからアテナイに帰るところで,ポレマルコスに呼び止められ,ポレマルコスの家に行って対話が始まります。内容は,大まかにいえば以下のような内容です:

  • ケパロスとの老年についての対話
  • ポレマルコスとの正義についての対話
  • トラシュマコスとの正義についての対話

以前読んだときも第一巻はかなり印象的でした。というのはトラシュマコスという人物が,非常に過激な言説でもってソクラテスと対決したからです。『国家』を買って途中で挫折したという人も,第一巻を読んだ人は多いのではないかと思います。正直,第一巻は内容的に独立しているようにも思えます。そして第二巻以降の退屈な展開とはだいぶ違います(笑)。

以下読書時のメモです。ただ,トラシュマコスとの対話は,メモ第2弾に書きます。

「ええ,それはもう,ケパロス」とぼくは言った,「私には,高齢の方々と話をかわすことは歓びなのですよ。なぜなら,そういう方たちは,言ってみれば,やがてはおそらくわれわれも通らなければならない道を先に通られた方々なのですから,その道がどのようなものか,―平坦でない険しい道なのか,それともらくに行ける道なのかということを,うかがっておかなければと思っていますのでね。とくにあなたからは,それがあなたにどのように思われるかを,ぜひうかがっておきたいのです。」(328D)

ここからのケパロスの話は結構印象的です。自分にとっては,理想の高齢者像のように思える部分もあります。まあケパロスが金銭的に裕福だからいえるのかもしれませんが。あとは,本当にケパロスが言ったのか,プラトンの創作なのか,も分かりません。ちょっと明晰すぎるきらいもありますし。

「そして彼らは,何か重大なものが奪い去られてしまったかのように,かつては幸福に生きていたが今は生きてさえいないかのように,なげき悲しむ。なかには,身内の者たちが老人を虐待するといってこぼす者も何人かあって,そうしたことにかこつけては,老年が自分たちにとってどれほど不幸の原因になっていることかと,めんめんと訴えるのだ。しかし,ソクラテス,どうもこの私には,そういう人たちは,ほんとうの原因でないものを原因だと考えているように思えるのだよ。」(329A)

途中までの言葉は,なんか現代でも丸ごと当てはまりそうな言葉です。

「けれども,げんに私はこれまでに,そうでない人々に何人か出あっているのだ。作家のソポクレスもその一人で,私はいつか,彼がある人から質問されているところに居合わせたことがある。
『どうですか,ソポクレス』とその男は言った,『愛欲の楽しみのほうは?あなたはまだ女と交わることができますか?』
ソポクレスは答えた,
『よしたまえ,君。私はそれから逃れ去ったことを,無常の歓びとしているのだ。たとえてみれば,凶暴で猛々しいひとりの暴君の手から,やっと逃れおおせたようなもの』
私はそのとき,このソポクレスの答を名言だと思ったが,いまでもそう思う気持ちにかわりはない。まったくのところ,老年になると,その種の情念から解放されて,平和と自由がたっぷり与えられることになるからね。」(329B)

「それは,ソクラテス,老年ではなくて,人間の性格なのだ。端正で自足することを知る人間でありさえすれば,老年もまた苦になるものではない。が,もしその逆であれば,そういう人間にとっては,ソクラテス,老年であろうが青春であろうが,いずれにしろ,つらいものとなるのだ。」(330D)

僕もソポクレスの答えは名言だと思いますが,それは食欲とか物欲など色んな欲にも同じことがいえると思いますし,後半のケパロスの言葉のように,歳とは関係ないのかなとも思います。いわゆるストア派の考え方にもつながるのかもしれません。

「で,私としては,お金の所有が最大の価値をもつのは,ほかならぬこのことに対してであると考える。ただし,あらゆる人にとってそうだというのではなく,立派できちんとした人間にとっては,ということだがね。つまり,たとえ不本意ながらにせよ誰かを欺いたり嘘を言ったりしないとか,また,神に対してお供えすべきものをしないままで,あるいは人に対して金を借りたままで,びくびくしながらあの世へ去るといったことのないようにすること,このことのために,お金の所有は大いに役立つのである。」(331A)

ソクラテスに「財産を持っていてよかったことは?」と訊かれたケパロスの答えですが,この言葉もかなり感銘を受けました。つまり「不正を犯さないために,お金は役に立つ」と。
僕なども,「金に魂を売るような人生は絶対に送りたくない」ということは常に思っていますが,それは逆説的ですがある程度お金をもっていないといけないのかな,とも思います。それと心のどこかで,大きな財産を手に入れるというのは何か不正 (違法かどうかではなくもっと広い意味) を伴うんじゃないか?という一種偏見に近い思いも心のどこかにあるような気がします。そこで,「不正を犯さないための財産である」,というのは逆転の発想というか。
後で「支配者にみずから進んでなる者はおらず,そのために支配者は報酬を要求する」というソクラテスの説が出てくるのですが,それとも繋がりがありそうな感じです。報酬が足りないから支配者は不正を犯す,という見方もできるのかもしれません。

「さあそれでは」とぼくは言った,「議論の相続人である君よ,教えてくれたまえ。<正義>についての正しい説だと君が主張するのは,シモニデスのどのような言葉なのかね?」
「『それぞれの人に借りているものを返すのが,正しいことだ』というのです」とポレマルコスは答えた,「私としては,これは立派な言葉だと思いますがね。」(331E)

ここからは,ソクラテスとポレマルコスの正義についての対話が暫く続きます。

「そしてほかのあらゆるものについても,正義とは,それぞれのものの使用にあたっては無用,不用にあたっては有用なもの,ということになるわけだね?」
「どうもそういうことになるようです」
「なんだかそうなると,友よ,<正義>とは,あまり大した代物ではないことになるね。不用なものに対してしか有用ではないというのではね。」(333D)

ポレマルコスは,正義とは契約に関して有用なもの,しかもお金に関することで有用なもの,とソクラテスとの対話で述べます。しかしそれは,お金を何かに使うときではなく「お金を使わないで,そのまま置いておかなければならないとき」に,つまり不用なときに有用である,ということになり,それで上記のようなソクラテスの言葉になりました。この辺りはソクラテスははぐらかしモードのような気がします(笑)。

「冗談ではありませんよ!」とポレマルコスは言った,「しかし私にはもう,自分が何を言っていたのか,さっぱりわからなくなってしまいました。ただし一つだけ,いまでも確かだと思うのは,<正義>とは友を利し敵を害することである,ということです」
「その場合,君が<友>と言っているのは,各人に善い人だと思われている者のことだろうか,それとも,たとえそうは思われなくても,実際に善い人間である者のことだろうか?これは<敵>についても同様なのだが,いったいどちらなのかね?」
「それは」と彼は答えた,「人は相手を善い人間だと思う場合に,その人間を友として愛し,悪い人間だと思う場合に,敵として憎むのだと,当然考えられます」(334B)

「してみると,いいかね,ポレマルコス,多くの人たちにとっては,彼らが人間の判断を誤るかぎり,友に対しては害を与え―その相手は実際には悪い人間なのだからね―敵に対しては益をなす―その相手は実際には善い人間なのだからね―のが正義である,ということになるだろう。そして,このようにしてわれわれは,シモニデスの説だと言っていたこととは,ちょうど正反対のことを言う結果になるだろう」(334E)

後でトラシュマコスとの対話でも似た論理があるのですが,「実際に善い」人と「善いと思われる」人のどちらが友で,その友に利するのが正義かと問います。で,後者だとすると,思われるだけで実際には悪い人間を,つまり敵に利するのが正義だということになります。
実感としては,「善悪の判断を誤らないようにしないといけない」,と現実を反省してしまいがちで,それだと不祥事を起こした企業や政治家が「再発防止を徹底します」と言うだけで何も変わらないのと同じなのかもしれません。一方でソクラテスのほうは,そもそも仮説・前提を覆そうとします。

「善い人間だと思われ,しかも実際にそうであるような者が<友>である,としましょう」と彼は答えた。(334E)

「では,はたして正しい人間は,自分が身につけているその<正義>によって,人を不正な者にすることができるだろうか?あるいは,一般的に言って,善き人間は,その善さ (徳) によって,人を悪い人間にすることができるだろうか?」
「いいえ,できません」
「実際に,思うに,冷たくするということは,熱さのはたらきではなくて,その反対のもののはたらきなのだ」(335C)

「したがって,ポレマルコスよ,相手が友であろうが誰であろうが,およそ人を害するということは,正しい人のすることではなくて,その反対の性格の人,すなわち不正な人のすることなのだ」
「まったくあなたの言われるとおりだと思います,ソクラテス」(335D)

ポレマルコスは,全面的にソクラテスに承服します。で結局は,正義は敵に害を与えるということもこのように否定されます。

ちょっと雑ですが,最初から飛ばすと息切れしそうなので…長くなってきたので,続きはメモ第2弾に。

プラトン『クレイトポン』メモ

プラトン『クレイトポン』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,ソクラテスがクレイトポンに,自分の悪い評判を流したのではないかと問いただす場面が始まりですが,ソクラテスがしゃべるのはそれを含めて序盤の2言だけで,クレイトポンが殆ど一方的に話すだけで終わります。なのでいわゆる「対話篇」らしいソクラテスの対話は殆どありませんが,クレイトポンの回想の中で片鱗を見ることはできます。

この対話篇の特徴は,何と言っても短いことです。全集ではわずか13ページです。同じ11巻に収録されている超大作の『国家』と対照的です。なのでこのメモもいつものように長くせず,短くすることでその特徴を伝えられればと思います(笑)。あとは訳の関係もあると思いますが,ソクラテスを「あんた」呼ばわりするクレイトポンの口の悪さが印象的ではあります。

副題は「徳のすすめ」。以下が読書時のメモです。

クレイトポン「つまり,これらの説と,それからまた,ほかにも,徳は教えられるものだとか,何よりも自分自身に気をつけなければいけないとか,以上に言われたのと似たような論がたいへんたくさん,たいへんみごとに言われたものがあって,わたしは,それらにはほとんど反対したこともなかったし,これからもけっして反対することはないだろうと思う。それは,われわれに学を志すことを教え,われわれを益することの最も大なるものであり,まるで眠っているみたいなわれわれの目をさましてくれるものだ,と思っているのだ。
そこでだ,わたしの関心は,それから先の話を聞かしてもらいたいということに向けられてきたのだ。…」(408B)

クレイトポンとソクラテスは,あまり折り合いがよくないようで,実際クレイトポンは,トラシュマコスという『国家』でソクラテスと対決する弁論家と親しいようです。それでも,ソクラテスを最初は立てています。皮肉のような気もしますが。

クレイトポン「「いや,そんな名前だけ答えてもらっても仕方がない。わたしの求めているのは,こういうことだ。医療の技術というようなものが認められているね。ところが,それが究極においてなしとげることには二つあって,一つは健康をつくるということ,もう一つは,既存の医者に加えて,また別の医者をたえずつくってゆくということだ。しかし,そのうちの一方は,もはや技術の形で存在するだけのものではなくて,教えたり教えられたりする当の技術の作物となりうるものなのだ。つまり,われわれが健康と言っているものはだね。…
そうすると,正義も同じことで,その一つの仕事は,正義の人をつくることであるとしよう。それは,いま言ってきたような技術のばあいでも,それぞれの技術者 (専門家) をつくることであったのと同じことだ。しかしもう一つの仕事は,どうなのか。正義の人がわれわれのためにつくることのできる作物とは何だと言うのか。それを言ってくれたまえ。」」(409B)

「魂の善さを目指す技術は?」という問いに「正義である」と答える,ソクラテス派の?人物の言葉に対する,クレイトポンの答えです (過去の回想なので括弧をダブらせています)。正義はどんな「作物」を作るのか?と。この後答えは色々と言われますが結局はっきりしません。

クレイトポン「あんたという人は,徳に意を用いよとすすめることにかけては,世にもすぐれた実践家だけれども,しかしあるいは,あんたにできるのはただそこまでのことで,それ以上は何もないのかもしれないという,半々の (二つに一つの) 可能性を認めたからだ。」(410B)

クレイトポン「なぜなら,まだ徳のすすめを説かれたことのない人間にとっては,ソクラテス,あんたは何にもかえがたい値打のある人だけれども,すでにそのすすめを受けてしまった人にとっては,徳の完成に達し幸福を得るということのためには,ほとんど邪魔だと言ってもいいくらいのものだということになるだろうからね。」(410E)

クレイトポンは,よくいる「それで?」「具体的には?」と訊きたがるタイプの人のような感じでしょうか。前述の正義による「作物」と同じで,ソクラテスは徳を賞賛したり,必要性を説いたりはするが,そこまでであり,実際にその具体的な知識を持っていないのではないか?と。で,この言葉でこの対話篇が終了します。

ということで,以上。「正義によって得られる作物とは?」というのが印象的な対話篇ですが,まあ読み物としては『国家』のプロローグ的なものとしてさらっと読む感じのものでしょうか。なお本対話篇は,「偽作の疑いあり」と解説にはあります。
次は『国家』の予定。