プラトン『ゴルギアス』メモ(3)

プラトン『ゴルギアス』(プラトン全集 (岩波) 第9巻) を読んだときのメモの第3弾。

これまで第2弾で,ソクラテスとカリクレスの対話を見てきたのですが,ここからは対話の後半です。
後半は,これまでの対話内容の繰り返しを含みながら,ソクラテスが「人生いかに生きるべきか」というようなこともテーマにしようとします。これも過激すぎるカリクレスの言説が引き出したということができると思います。
後で出てきますが,ソクラテスは,政治家や指導者は,市民の召使として快楽を満たすことではなく,市民をよい人間にすることが仕事であるということを言います。そしてそういう意味で真の政治家はソクラテス自身だとも言います。
また,もし不正なやり方で訴えられて死刑にされた場合,それは仕方ないというようなことも言います。これはある意味,「ソクラテスの弁明」を先取りしており,その後のソクラテスの現実をなぞっています。実際にソクラテスが言ったのではなく,プラトンの脚色かもしれないところではありますが,ただ言えるのは,「ソクラテスのような「哲学の生活」を行う→殺される (不正に死刑になる)」という図式が,この対話篇でも言われるし実際にソクラテス自身がそうなった,ということです。
つまり,ソクラテスのような善を追求する生き方をするなら,死を覚悟しろということになるのかもしれません。尤もソクラテス自身は,死などよりも,弁論術などの迎合により刑を回避することのほうが恥ずべきことだと述べていますが。
現代では,流石に死に至ることはないと思いますが,それでも組織で昇進できないとか,地位を追われるということはありそうな気はします。

ところで,『パイドロス』のメモを読み返して思い出したのですが,この『ゴルギアス』と『パイドロス』はともに弁論術を論じており,テーマに結構関連というか共通点があります。が,僕が今回全集の『ゴルギアス』を読んでいたときには,情けないことに『パイドロス』の内容が殆ど頭から飛んでいたので(汗),両者の対比は殆ど行なえていません。2周目があるとしたら,比較しながら考えてみたいものです。尤も,それを言うなら『プロタゴラス』などもそうだと思いますが。

あとこれは蛇足ですが,僕は岩波書店のプラトン全集をベースにしており,そこで「カリクレス」という表記だったので違和感がありませんが,岩波文庫では「カ(ル)リクレス」((ル)は小さいル) という PC 用のフォントが存在しない表記となっています。多くの人は逆に文庫でしか読まないと思いますので違和感があるかもしれませんが,フォントが出せないというよりは全集に準拠しただけですので,念のため。

以下はいつもどおり読書時のメモと考察です。

ソクラテス「さらにまた,ぼくの方から話すことも,冗談の つもりで受け取ってもらっては困るのだ。なぜなら,君も見ているとおり,いまぼくたちが論じ合っている事柄というのは,ほんの少しでも分別のある人間なら 誰であろうと,そのこと以上にもっと真剣になれることが,ほかにいったい何があろうか,といってもよいほどの事柄なのだからね。その事柄とはつまり,人生 いかに生きるべきか,ということなのだ。すなわち,君がぼくに勧めているような,それこそ立派な大の男のすることだという,弁論術を修めて民衆の前で話を するとか,また,君たちが現在やっているような仕方で政治活動をするとかして,そういうふうに生きるべきか,それとも,このぼくが行なっているような,知 恵を愛し求める哲学の中での生活を送るべきか,そのどちらにすべきであるかということであり,そしてまた,後者の生活法は前者のそれと比べて,いったい, どこにその優劣はあるのか,ということなのだ。」(500C)

ということで,人生いかに生きるべきか,というテーマに言及していきます。「そのこと以上にもっと真剣になれることが,ほかにいったい何があろうか」…その通りだと思いますが,残念ながらというか,現代 では現実としては逆に一番真剣に考えられない,後回しに考えられることでもあるように思います。そこがソクラテスのいう「哲学の生活」かどうか,ということかもしれません。

ソクラテス「そしてぼくとしては,そのようなやり方こそ「迎合」であると主張しているのだ。その対 象が身体であろうと,魂であろうと,あるいはまた,ほかの何かであろうと,もしひとがそのものの快楽だけに気をつかって,より善いことやより悪いことにつ いては,考えてもみないようなものがあるとすれば,そのものについても同じことなのだ。」(501C)
ソクラテス「弁論家たちはいつも,最善のこ とを念頭において,自分たちの言論によって市民たちができるだけすぐれた人間になるようにという,そのことを狙いながら,話をするのだと君には思われるか ね。それとも,この人たちもまた,市民たちの機嫌をとることのほうへすっかり傾いてしまっていて,そうして,自分たちの個人的な利益のために公共のことを なおざりにしながら,まるで子供たちにでも対するような態度で,市民大衆につき合い,ただもう彼らの機嫌をとろうと努めるだけであって,そうすることがし かし,彼らをいっそうよい人間にするのか,あるいはより悪い人間にするのかという,その点については,少しも考慮を払わないものなのかね。そのどちらだと 君は思うかね。」(502E)

善悪ではなく快楽かどうかだけを考えるのが「迎合」で,そして弁論家もまた善悪ではなく快楽に恃んで人を説得するものである,といえるでしょうか。「彼らの機嫌をとろうと努めるだけ」というのは,いわゆる「耳障りのよい」演説などを思い浮かべると,その通りだなと思います。

ソ クラテス「すなわち,幸福になりたいと願う者は,節制の徳を追求して,それを修めるべきであり,放埓のほうは,われわれ一人一人の脚の力の許すかぎり,こ れから逃れ避けなければならない。そして,できることなら,懲らしめを受ける必要のひとつもないように努めるべきだが,しかし,もしその必要がおきたのな ら,それを必要とするのが自分自身であろうと,身内のなかの誰かほかの者であろうと,あるいは,一個人であろうと,国家全体であろうと,いやしくも幸福に なろうとするのであれば,その者は裁きにかけられて,懲罰を受けるべきである。これこそ,ひとが人生を生きる上において,目を向けていなければならない目 標であると,ぼくには思われるのだ。」(507C)

もし不正や放埓の状態になったら,「裁きを受けるほうが幸福である」というのは,メモ(1)でも触れたポロスとの対話でも出てきました。それも含めて非常にソクラテスらしい言葉だと思います。

ソクラテス「そうすると,残るところは,ただつぎのような者だけが,語るに足るほどの者 として,そのような独裁者に親しい者となるわけだ。つまりそれは,独裁者がなす非難と賞賛とに調子を合わせながら,彼と似た性格の者となっていて,甘んじ てその支配を受け,そしてその支配者の下に隷属しようとする者があるなら,誰であろうと,そういう人間のことなのだ。そのような人こそ,その国では大きな 権力をもつ者になるだろうし,誰だってその人に不正を加えて平気でおられる者はいないだろう。そうではないかね。」(510C)

この部分は,「不正を受けないためにはどうしたらよいのか」ということが論じられる部分です。まず独裁者は一番権力を持っているので不正を受けることはなく,またその独裁者より優れても劣ってもいない似たような人間が一番(その独裁者から)不正を受けないだろうと。
そして,この会話の後で,もしそういう立場になったら,逆に不正を行なう人間になるのではないか?とソクラテスは言います。不正を行なっても罰を受けなくてすむわけなので。そして「それなら,その人は,最大の害悪を背負い込むことになるだろう」と。「邪悪な人間でありながら,立派なよい人間を殺すことになる」,と。

ソクラテス「しかしながら,もしも君が,この国の政治体制に,よりよい側面にであろうと,より悪い側面にであろうと,とにかく似た性格の者となってはいないにもかかわらず,その君を,この国において大きな権力を持つ者にしてくれるはずの,何かそういう技術を,他の誰でもが簡単に君に授けてくれるかもしれないと考えているとするなら,その君の考え方は,当を得たものではないとぼくには思われるよ,カリクレス。」(513A,全集ではなく岩波文庫の『ゴルギアス』より)

ということで,ソクラテスは,「政治体制に似た性格の者こそが真の政治家」というようなことを述べます。つまり民主制なので,市民と同じように,ということになります。そしてこれは,すぐ前に挙げた「独裁者に似たものに」というのとは全く正反対なわけです。
この部分は,『クリトン』で,ソクラテス処刑の前日に訪ねてきたクリトンが,逃げるようにとソクラテスを説得しようとしたとき,ソクラテスが「自分がこの国の市民である上は,ここの法によって裁かれることから逃げることはしない」というようなことを言ったのと,何か関連があるように思います (この『クリトン』の要約は記憶が曖昧なのでかなり適当です)。「法」というものが,魂を善いものにするものであるとソクラテスが言っていることに関係があるのかもしれません。市民は一番法律に縛られ (法律は強者を制限するというのもカリクレスの言葉としてありますが,法律そのものから逃れる力が一番弱いのは市民でしょう),独裁的な立場の人間は一番法律を無視する力があるといえます。そしてソクラテスは,法律を無視して放埓な力を振るうよりは,たとえ正しい運用ではなくても自分たちの国の民主制による法律に縛られて裁かれるほうを選んだ…という見方もできるのではないか,と思います。

ソクラテス 「ぼくたちはこんなふうに質問して,お互いをよく調べ合ってみるべきではないだろうか。―「さあ,それなら,カリクレスはこれまでに,市民たちの中の誰か を,一層すぐれた人間にしたことがあるのか。以前は劣悪な人間であったのに,つまり不正で,放埓で,無思慮な者であったのに,カリクレスのおかげで,立派 なすぐれた人間になった者が,誰かいるのか。それは,よその町の人でも,この町の人でも,あるいは,奴隷でも自由市民でも,誰でもよいけれども」と。」 (515A)

この部分,カリクレスを現代の政治家に当てはめたらどうだろう,と思ったりします。現実はどうあれ,政治家がそういう人間であると思っている人は少ないと思います。なお念のため書くと,ソクラテスは政治術を,魂を善くする技術であると述べています。これはメモ(1)の「迎合と技術の一覧」の図でも分かります。また,直前のメモでも書きましたが,「法律が魂を善いものにする」ものであれば,その法律を制定する政治家は,ここで言われているように市民を優れた人間にする技術を持っていなくては法律なんて作れない,ということにもなるでしょう。

ソクラテス「さて,こうしてみると,ぼくと君とはこの議論において,おかしなことをしつづけているわけだ。つまり,ぼくたちは こうして話し合っている間じゅう,廻りまわっていつも同じ所へ戻り,お互いに何を話し合っているのか,相変らずよくわからないでいる始末だからね。」 (517C)

プラトン対話篇ではよくある場面です。次回予定の『メノン』に出てくる,ソクラテスは「シビレエイ」だという喩えと同じで,自分も相手も痺れて結局何を言おうとしているのか分からなくなってきた状態といえるでしょうか。
カリクレスとの対話が始まったときは,この率直な物言いにソクラテス流の対話が通用するのかとちょっと心配になりましたが,ここに到っては良くも悪くも完全にソクラテスの土俵というわけで,杞憂でした。ソクラテス,恐るべし。

ソクラテス「さて,そう言う君 (メモ註:カリクレス) に向って,ぼくがこう言ったとすれば,君はおそらく腹を立てるだろうね。―君,君は体育術のことについては,何もわかってはいないのだよ。君が言っているのは召使たちであり,欲望の求めに応じようとする連中であって,そこで扱われている事柄については,何一つ善いことも美しいことも知らないでいる者たちなのだ。その連中ときたら,ただもうむやみやたらに詰め込んで,人びとの身体を肥らせ,それで人びとからは賞賛されているけれども,結局は,人びとが以前から持っていた肉づきまでも,失わせることになるのが落ちだろう。ところが,人びとのほうはまた,事情にうといものだから,自分たちを病気にさせ,以前から持っていた肉づきまでも失うようにさせた責任は,そのご馳走をしてくれた人たちにあるとはしないで,むしろ,あの時の飽食が―それは健康によいかどうかを考慮しないでなされたものだから―その後かなり時が経って,彼らに病気をもたらすことにでもなると,その時たまたま彼らの傍にいて,何か忠告する者があるとすれば,誰かれの見さかいなしに,その人たちの責任にして,その人たちを非難し,そして,もしそうすることができるなら,何か害を加えようとさえするだろう。これに反して,あの先の人たち,つまり,この災厄の真の責任者である人たちのほうを,人びとは褒めそやすことだろう。」(518C,全集ではなく岩波文庫の『ゴルギアス』から)

微妙にソクラテスの恨み節のような感じもしますが,かなり含みのある言葉だと思いました。欲望の求め,つまり快楽を与えた者勝ちという構図で,本当にその人のためになることをした人のほうが非難される,と。
自分や現実を顧みて言えば,人間とはそういうものだ,とも思います。やはり快適であるとか,おいしいとか,褒められるとか,お金を貰えるとかいうことに対しては嬉しいし,逆の場合には怒ることもあると思います。つまり快楽というのは感情に訴えかけてその人の善悪判断を鈍らせるということが言えるでしょうか。
そしてこの快楽というのを,弁論術に置き換えても同じ,なのでしょう。

ソクラテス「しかしほんとうは,ソフィストの術のほうが弁論術よりも立派であって,それは,立法の術が司法の術よりも,また体育の術が医術よりも立派であるのと,ちょうど同じ程度にそうなのだ。」(520B)

正直ソフィストの術と弁論術の違いというのは未だにはっきりとは分かりません。ただ,どちらも思惑を相手にしているというのが自分の理解です。ここでは,似ているのは確かなのと,既に悪くなっているものを直すものよりは,もともと悪くならないためのもののほうが格上ということのようです。これは「不正を行なわないのが一番よく,不正を行なったら裁きを受けるのが次によく,…」というソクラテスの主張とちょっと共通点があるかもしれません。

ソ クラテス「ぼくの考えでは,アテナイ人の中で,真の意味での政治の技術に手をつけているのは,ぼく一人だけとはあえて言わないとしても,その数少ない人た ちの中の一人であり,しかも現代の人たちの中では,ぼくだけが一人,ほんとうの政治の仕事を行なっているのだと思っている。そこで,いつの場合でもぼくの する話は,人びとの機嫌をとることを目的にしているのではなく,最善のことを目的にしているのだから,つまり,一番快いことが目的になっているのではない から,それにまた,君が勧めてくれているところの,「あの気の利いたこと」をするつもりがないから,法廷ではどう話していいか,ぼくはさぞ困るにちがいないのだ。」(521D)

この部分の前で,「過去にも現在にも,市民をより善い人間にした政治家はいない」ということをソクラテスは言います。そして「自分だけがほんとうの政治の仕事を行なっている」と言います。そして,だからそうではない政治家から不当に訴えられても,弁論術による迎合で言い逃れをする気はないと言います。
自分こそ真の政治家だ,などという言葉はソクラテスには全く似合わない言葉です。当然ですが驕りなど感じるわけがありません。寧ろ真の政治家がいないことへの諦念というか,現れてほしいという渇望というか,そういうものを感じさせます。

カリクレス「それなら,ソクラテス,ひとがそんな状態におかれていて,そして自分自身を助けることができないでいても,それでもその人は,一国の中で,立派にやっているように思われるのかね。」
ソクラテス「それは,カリクレスよ,君が何度も同意していた,あの一つのことさえ,その人が自分の身につけているなら,立派にやっていることになるのだ よ。つまり,人々に対しても,神々に対しても,不正なことは何ひとつ言わなかったし,また行いもしなかったということで,自分自身を助けてきたのならだ ね。」(522C)

カリクレスは,不正を受けることから自分自身を助けることができないと言い,ソクラテスは,不正を行なわないことで自分自身を助けてきたのだと言います。やっぱりかみ合っていませんが,かみ合わないからこそ相補的に浮き上がってくるともいえます。

ソクラテス「そして,その点での無能力のために死刑になるのだとしたら,ぼくは残念に思うだろう。だがしかし,もしこの ぼくが,迎合としての弁論術をもち合わせていないがために死ぬのだとすれば,これはうけ合っていいけれども,ぼくが動ずることなく死の運命に耐えるのを, 君は見るだろう。というのは,死ぬという,ただそれだけのことなら,まったくの分らず屋で,男らしくない人間でないかぎり,誰ひとりこれを恐れる者はいな いからだ。しかし,不正を行なうことのほうが,誰でもが恐れるからだ。」(522D)

メモの冒頭にも書きましたが,ソクラテスの「哲学の生活」にはそこまでの覚悟が必要なのか,と思わずにはいられません。そして将来実際にこの通りに殺されるわけです。世の中にソクラテスのような人がいないのは,快楽に負けるというよりは,この「覚悟」がないからではないか,という気もします。
「死を恐れる者はいない」と,簡単に言いますが,どうなんでしょうね。昔と今とでは,今の方が交通事故とかいわゆる「不慮の」事故で死ぬ可能性が上がっていると思いますが,逆に病気で死ぬ可能性は下がっているはずです。宗教観もあるので一概には言えないと思いますが,死を恐れないと平然と言える人も現代ではなかなかいないと思います。

ソクラテス「なぜなら,カリクレス,不正を行なう自由が大いにあるなかで育ちながら,一生を正しく送り通すということは,むつかしいことであるし,したがって,それは大いなる賞賛に価するからだ。」(526A)

いわゆる「ノブレス・オブリージュ」を思い起こしました。

ソ クラテス「さて,ぼくとしては,カリクレスよ,これらの話を信じているし,そして,どうしたならその裁判官に,ぼくの魂をできるだけ健全なものとして見せ ることになるだろうかと,考えているわけだ。だから,世の多くの人たちの評判は気にしないで,ひたすら真理を修めることによって,ぼくの力にかなうかぎ り,ほんとうに立派な人間となって,生きるように努めるつもりだし,また死ぬ時にも,そのような人間として死ぬようにしたいと思っているのだ。そして,ほかのすべての人たちに対しても,ぼくの力の許す範囲内で,そうするように勧めているのだが,特にまた君に対しても,君が勧めてくれるのとは反対になるけれ ども,いま言ったその生活を送り,その競技に参加するように勧めたいのだ。」(526D)

この前の部分は,死んだときの神話がソクラテスによって語られます。それは,「死ぬとその時点での魂が,誰のものか (どんな身分の者か) が分からない状態で,神 (ラダマンテュス,アイアコス) によって裁判にかけられ,不正を行なっていればタルタロスに送られる」というようなものです。そしてこのソクラテスの言葉に繋がります。

ということで以上。
『ゴルギアス』のメモは3回に分かれて,しかもそれぞれが長くなってしまいましたが,それだけ印象的な対話篇でした。読み物としても面白いですし,「技術と迎合」,「不正を行なうよりは不正を受けるほうを選ぶ」といったことは目から鱗といった思いもしました。

次回は『メノン』の予定。

プラトン『ゴルギアス』メモ(2)

プラトン『ゴルギアス』(プラトン全集 (岩波) 第9巻) を読んだときのメモの続き。
前半はこちらをご覧ください。当記事は主に後半のカリクレスとの対話の部分の途中までがテーマです。

カリクレスは,強者が弱者を支配する,弱肉強食の論理が正義である,人間は欲望に忠実に生きるべきである,というようなある意味過激な主張を繰り広げます。確かニーチェがこのカリクレスを賞賛していたというのをどこかで見ました (私はニーチェについては全然知りません)。
さすがにこれほど率直な言い分に対して,いつものソクラテスの対話というのがどこまで効果があるのかと心配になるところですが,後で述べますが寧ろソクラテスは,いい対話相手を得たというように,「人生いかに生きるべきか」というような根本的な問題を論じます (但しこの部分のメモは (3) に書きます)。そしてソクラテスの土俵で,一応カリクレスも論破されるという結末になったと思います。ただ結末は (多分他の対話篇もそうだと思いますが) それほど重要ではなく,どんな対話がなされたかというのが重要で,その点で本篇のカリクレスの言ったこと自体が残す印象というのは非常に大きいものだと思います。

個人的には,他人がカリクレス的な考え方だった場合に,それをソクラテス的な考え方にするというのは普通は諦めてしまうと思います。少なくとも現代の価値観で,「善く生きる」ということがどれほどのものなのかは,普遍的なものではないように思います。それでも自分は,そういう生き方をすることが少なくとも自分のためにはなるのではないか,と今は思っています。これとて,今後変わるかもしれません。

ソフトウェア開発の分野で「継続的インテグレーション」というのがありますが,趣味としてですが何かを得るために読む立場の人間としては,プラトンの追求したものを,自分のその時の環境や考えや状態をもとに継続的にインテグレーションしていくことが,生きたものにするためには必要と思っています。

カリクレス「つまり,あなたという人はほんとうに,ソクラテスよ,真理を追求していると称しながら,あのような月並みで,俗受けのすることへ,話をもっていくのだからなあ。あのようなことは,自然の本来 (ピュシス) においては美しいことではなく,ただ法律習慣 (ノモス) の上でだけ,そうであるにすぎないのに。」(482E)

カリクレス「かくて,以上のような理由で,法律習慣の上では,世の大多数の者たちよりも多く持とうと努めるのが,不正なこと,醜いことだと言われているのであり,またそうすることを,人びとは不正行為と呼んでいるのだ。しかし,ぼくの思うに,自然そのものが直接に明らかにしているのは,優秀な者は劣悪な者よりも,また有能な者は無能な者よりも,多く持つのが正しいということである。そして,それがそのとおりであるということは,自然はいたるところでこれを明示しているのだが,つまりそれは,他の動物の場合でもそうだけれども,特にまた人間の場合においても,これを国家と国家の間とか,種族と種族の間とかいう,全体の立場で考えてみるなら,そのとおりなのである。すなわち,正義とは,強者が弱者を支配し,そして弱者よりも多く持つことであるというふうに,すでに結論は出てしまっているのだ。」(483C)

確かに,民主主義で法律を作っていくことというのは,動物と同じような弱肉強食の社会になることを妨げる方向に動くことは間違いないように思います。また,「世の大多数の者たちよりも多く持とうと努めるのが,不正なこと,醜いこと」という観念のようなものは現代でも根強く残っていると思います。しかし,それで実際に強者が弱者によって制されているのか?と言われると,法律上はそうかもしれませんが現実にはあんまりそういう気はしません。

カリクレス「われわれはその法律なるものによって,自分たちのなかの最も優れた者たちの最も力の強い者たちを,ちょうど獅子を飼いならすときのように,子供の時から手もとにひきとって,これを型通りの者につくり上げているのだ。平等に持つべきであり,そしてそれこそが美しいこと,正しいことだというふうに語りきかせながら,呪文を唱えたり,魔法にかけたりして,彼らをすっかり奴隷にしてだね。」(483E)

「獅子を飼いならす」ように,突出した人間を押さえつけるというのは,現代でも割と観念としてあるように思います。寧ろ教育問題のコンテキストで語られやすいかもしれません。

カリクレス「というのは,いいかね,ソクラテス,哲学というものは,たしかに,結構なものだよ,ひとが若い年頃に,ほどよくそれに触れておくぶんにはね。しかし,必要以上にそれにかかずらっていると,人間を破滅させてしまうことになるのだ。」(484C)

現代でも哲学というのは役に立たないものの代名詞的な面もあるように思います(笑)。また,僕は漱石をよく読みますが,『虞美人草』の甲野さんという人物が小説中で「哲学者」と称されていて,確かにある意味破滅的なので思い出しました。勿論カリクレスがどこまでの意味を哲学という語に込めたかはなんともいえませんが,かようにソクラテスを徹底的に否定する役目を,カリクレスはプラトンによって負わされているのが本対話篇です。かつそれへの反動を利用してソクラテスの生き方を語らせるのが本対話篇です。

カリクレス「(なぜなら,)今もし誰かが,あなたをでも,あるいは,そういった連中のなかの他の誰かをでも逮捕して,何も悪いことはしていないのに,しているのだといって,牢獄へ引っぱって行くのだとしてごらん。いいかね,あなたはそのとき,どうしてよいかわからないで,目を白黒させているだろうし,また言うべき言葉も知らないで,ぽかんと口をあけているだけだろうからね。そして,法廷へ出頭したなら,あなたを訴えた告発人が,じつにつまらない,やくざな人間であったとしても,もしその男があなたに死刑を求刑しようと思えば,あなたは死刑になってしまうだろうからね。」(486A)

この部分は,メモ(1)での弁論術に関するゴルギアスとの対話でも出てきた「弁論術とは説得であり,真実とは関係ない」というソクラテスの言葉を逆手にとった感じです。そしてこれに対する回答は,一番最後のほうに明確に出てきます。

ソクラテス「「より強い」と,「より優れている」と,そして「より力がある」とは,同じ意味なのかね,それとも,ちがうのかね。」
カリクレス「いや,いいとも。ぼくのほうで,あなたにはっきり言っておこう。それらは同じ意味なのだ。」
ソクラテス「それでは,どうだろう。多数の者は一人よりも,自然本来においては,より強いのではないかね。そして,まさにその多数の者が,一人に対抗して,法律を制定しているのだが,君もさっき言っていたようにだね。」
カリクレス「それはもちろん,そうだ。」
ソクラテス「そうすると,多数の者の定める法規は,より強い人たちの定める法規だ,ということになるね。」
カリクレス「たしかに。」
ソクラテス「ではまた,より優れた人たちの定める法規でもある,ということになるのではないかね。なぜなら,君の説によると,より強い人たちというのは,より優れた人たちのことであるはずだから。」
カリクレス「そうだ。」
ソクラテス「だとすると,彼ら多数の者の定める法規は,自然本来において,美しいものだということになるのではないかね。とにかく,それはより強い人たちの定めるものなのだから。」(488D)

ずっとカリクレスの演説調の話が続きましたが,ここらでソクラテスが反撃に転じます。いつもの調子です。そして「強い者は美しい」というカリクレスの主張を逆手に取って,法規も美しいと言います。「多数→強い」という仮定があるわけですが。

カリクレス「神々に誓って,そのとおりだもの,まったくの話,あなたはいつだって,靴屋だとか,洗い張り屋だとか,肉屋だとか,そして医者だとかのことばかり話していて,いっこうにやめようとはしないのだ。まるでぼくたちの議論は,その人たちのことを問題にしてでもいるかのようにね。」
ソクラテス「それなら,どんな人たちのことを問題にしているのか,さあ,君のほうで言ってくれたまえ。より強くてより思慮のある者は,いったい,何を余計に持つなら,その余計に持つことが正しいことになるのかね。」(491A)

ここはちょっと面白いところです。多分プラトンの対話篇をいくつか読んだ人は,カリクレスと同じような感想を持つと思います。まあでもそういう職人とかが当時もいたんだなあというのが想像できるので貴重でもあると思います。

カリクレス「つまり,正しく生きようとする者は,自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで,欲望はできるだけ大きくなるがままに放置しておくべきだ。そして,できるだけ大きくなっているそれらの欲望に,勇気と思慮をもって,充分に奉仕できる者とならなければならない。そうして,欲望の求めるものがあれば,いつでも,何をもってでも,これの充足をはかるべきである,ということなのだ。しかしながら,このようなことは,世の大衆にはとてもできないことだとぼくは思う。だから,彼ら大衆は,それをひけ目に感じるがゆえに,そうした能力のある人たちを非難するのだが,そうすることで彼らは,自分たちの無能力を蔽い隠そうとするのである。そして,放埓はまさに醜いことであると主張するのだが,ぼくが先ほどの話の中で言っておいたように,こうして彼らは,生まれつきすぐれた素質をもつ人たちを奴隷にしようとするわけなのだ。そしてまた,自分たちは快楽に満足をあたえることができないものだから,それで節制や正義の徳をほめたたえるけれども,それも要するに,自分たちに意気地がないからである。」(491E)

ここの「欲望を抑えず,快楽を満たせ」というところもかなり印象的な部分です。誰しも本能的なものとして,カリクレスの言うようにできればと思う部分があると思います。しかしそれは…と思う部分もあると思います。その後者を引き起こすのが「善」かどうかというのが (対話の流れからいえば先取りしますが) ソクラテスの言うことだと思います。

ソクラテス「ほんとうに憚ることもなしに,カリクレスよ,君は率直に語って,議論を展開するのだね。ほかの人たちなら,心には思っていても,口に出しては言おうとしないようなことを,君はいま,はっきりと述べてくれているのだから。それでは,ぼくは君にお願いしておくけれど,どんなことがあっても,その調子をゆるめないようにしてくれたまえ。ひとはいかに生きるべきかということが,本当に明らかになるためにね。」(492D)

ちょっとソクラテスが本気を出すという感じです。しかし実際,ここまでのカリクレスの率直な表明があってこその本篇のソクラテスです。
このカリクレスという政治家が,実際にここまで過激な人物だったかは定かではないようで,プラトンが自分の中の負の部分をカリクレスに語らせたというような見立てもあるようです (図書館で一部読んだだけですが「プラトンの弁明」という本が『ゴルギアス』を詳細に論じていて,そこで書かれていたと思います)。

ソクラテス「それではまず,こういう点について言ってもらうことにしようか。ひとが疥癬にかかって,かゆくてたまらず,心ゆくまで掻くことができるので,掻きながら一生を送り通すとしたら,それでその人は,幸福に生きることになるのだろうか,どうだね。」
カリクレス「なんて突拍子もないことを言い出す人なんだろうね,あなたは,ソクラテス。何のことはない,あなたはまったくの大道演説家だよ。」(494C)

この部分もちょっと面白いですが,快楽とは何かを考えるときの1つの分かりやすい例だと思います。

ソクラテス「そうすると,ひとが同時にそれから離れたり,また同時にそれを持ったりするような,何かそういうものを,もしわれわれが見つけ出したとすれば,少なくともそれらのものは,明らかに,善と悪とではありえない,ということになるだろう。この点については,ぼくたちの意見は一致しているのかね?それでは,よくよく考えた上で,答えてくれたまえ。」(496C)

これはプラトンがたまに使う論法だと思います。善と悪は,数直線上の + と – で表せるようなものというような意味だと思います。

ソクラテス「われわれ一人一人は,飲むことによって渇きがやむとともに,それと同時にまた,快い気持のほうもやんでしまうのではないかね。」
カリクレス「何のことだか,さっぱりわからないよ。」
ゴルギアス「いやいや,そんな言い方をしてはいけないよ,カリクレス。われわれのためにも答えてあげなさい。それでこの議論も片付くことになるのだから。」
カリクレス「しかし,ソクラテスという人は,いつでもこうなのですよ,ゴルギアス。些細な,ほとんど取るに足らないようなことを問い返しては,人を反駁するのです。」
ゴルギアス「しかし,そんなことは,君には何も関係がないではないかね。いずれにしろ,そういったふうな,ことの大小軽重の評価は,君の役目ではないのだから,カリクレス。さあ,ソクラテスの言うとおりになって,どうであろうと,彼の好きなように反駁させてごらん。」(497B)

ここでゴルギアスが口を挟みますが,いい味を出してます。『プロタゴラス』等でもあったと思いますが,敵役といってもいいようなソクラテスの相手方の人物が,イラつくソクラテスの相手を宥め,真理を追求する姿勢は同じだということを表明するのは非常にいい場面だと思います。現実にこういう人がいたら惚れますね(笑)。

ソクラテス「そうすると,ほかのこともそうなのだが,快いこともまた,善いことのためになすべきであって,快いことのために,善いことをなすべきではないのだ。」
ゴルギアス「たしかに。」
ソクラテス「でははたして,もろもろの快いことのなかから,どのようなのが善いことであり,どのようなのが悪いことであることを選び分けるのは,すべてどの人にでもできることかね。それとも,そうするのには,それぞれの事柄について技術の心得ある人をまたなければならないのか。」
カリクレス「むろん,技術の心得ある人をまたなければならない。」(500A)

先の「掻く」という例に当てはめると,掻くことが身体に善いなら掻く,悪いことなら例え快楽でも掻かない,そしてその善悪を判断するのは医術等の技術だということになるでしょうか。この背景には当然,「弁論術は善悪を判断する技術ではないのに判断させることができるものである」という意味も込められていると思います。

以下はいよいよ「いかに生きるべきか」をソクラテスが語っていく場面ですが,カリクレスとの対話も長くなってしまいましたので,以下は次回 (3) に。

プラトン『ゴルギアス』メモ(1)

プラトン『ゴルギアス』((プラトン全集 (岩波) 第9巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,まずソクラテスとカイレポンが,カリクレスと話していて,ソクラテスがゴルギアスと話すためにカリクレスの家に招かれるという場面で始まります。そしてカリクレス邸で,ソクラテスがゴルギアス,ポロス,カリクレスの3人と対話していきます。

テーマは大きく分けると,(1) 弁論術とは何か (対ゴルギアス),(2) 不正を受けることと不正を行なうことはどちらがより害悪か (対ポロス),(3) 人生いかに生くべきか (対カリクレス),というような感じに分かれています。

内容についてはここでは措くとして,それぞれの人物について簡単に書くと,ゴルギアスは非常に有名な弁論家で既に老齢,ポロスは長い演説調の話が好きでソクラテスによく注意される若者,カリクレスは欲望に忠実な気鋭の政治家,という感じでしょうか。特にカリクレスの口調の激しさは,『国家』のトラシュマコスと並んでプラトン対話篇の中で (自分が文庫やこれまでの全集で読んだ範囲でですが) は際立って好戦的・挑発的で非常に印象的です。これに対しソクラテスがどう反駁していくか,というのが読み物としては非常に面白いところです。

また,(3) ではプラトンはソクラテスの生き方についてのかなり本質的なことを書いていて,それで本対話篇はプラトンの代表作として数えられることも多いと思います。実のところ,僕がプラトンに興味を持ったのは,ある無料の講座で (確か2011年) 『ゴルギアス』の一部分の紹介があり (確か「ソフィストというのは議論はするが真実は何も語らない」というようなことだったと思う),それで面白そうだと思ったのがきっかけです。

なお今回はメモが多くなったので2部に分けます。1部すなわち当記事は,前述の (1),(2) つまり対ゴルギアス,対ポロスの対話に関して,2部は (3) すなわち対カリクレスの対話に関してのメモを書いていきます。

また副題は「弁論術について」です。

ソクラテス「ごもっともです。さあ,それでは,弁論術についても,どうか,その調子で答えてください。それは,およそ存在するもののうちの,何についての知識ですか。」
ゴルギアス「言論についてだよ。」(449D)

ソクラテス「では,その技術は,何を対象にしているのか,言ってください。弁論術の用いる言論が取り扱っている対象とは,およそ存在するもののうちの,いったい,何なのですか。」
ゴルギアス「それはね,ソクラテス,人間にかかわりのある事柄のなかでも,一番重要で,一番善いものなのだよ。」(451D)

ソクラテスはゴルギアスに,まさに「弁論術とは何か」を肉薄しますが,やはり最初はなかなかかみ合いません。しかし,「言論について」と言われれば,「しかし医術とか計算術とか天文学も言論を用いるが,これらは弁論術ではない。では弁論術とは何の言論に関する技術か (なお後ではソクラテスは「弁論術は技術ではない」と述べる)」という感じでだんだん追い込んでいきます。

ソクラテス「それで,いったい,そのものとは何だと言われるのですか。」
ゴルギアス「わたしの言おうとしているのは,言論によって人びとを説得する能力があるということなのだ。つまり,法廷では裁判官たちを,政務審議会ではその議員たちを,民会ではそこに出席する人たちを,またその他,およそ市民の集会であるかぎりの,どんな集会においてでも,人びとを説得する能力があるということなのだ。しかも,君がその能力をそなえているなら,医者も君の奴隷となるだろうし,体育教師も君の奴隷となるだろう。それからまた,あの実業家とやらにしても,じつは,他人のために金儲けをしていることが明らかになるだろう。つまり,自分のためにではなく,弁論の能力があり,大衆を説得することのできる,君のために金儲けをしているのだということがね。」(452D)

ここで「弁論術とは,人びとを説得するためのものである」というところまで来ました。特に大衆を相手にするということが重視されているように思えます。また弁論術さえ知っていれば,自分がそれ以外の専門知識を持っていなくても,自分の為に他の人を利用できるということも言われます。ここはとても実感しやすい部分です。また他の対話篇でも出てきたソフィストの説明にもちょっと似ています。

ゴルギアス「というのはつまり,むろん君は百も承知だろうけれども,あの船渠も,アテナイの城壁も,そして港湾の施設も,テミストクレスの提案にもとづいて生まれたものであるし,またその一部は,ペリクレスの勧告によってできたものであって,決して職人たちの意見によって生まれたものではないのだよ。」
ソクラテス「たしかに,テミストクレスについては,そんなふうに伝え聞いております,ゴルギアス。また,ペリクレスのほうについては,彼が「中の城壁」のことでわれわれに勧告していたときに,わたし自身も直接,彼から話を聞いたのです。」
ゴルギアス「それだけではなく,君がさきほど話していた人たちの,選考が行なわれるような場合にも,ソクラテス,君が現に目にしているとおり,それらのことについて提案し,そして自分の意見を通す人たちは,弁論家なのだよ。」
ソクラテス「それを不思議に思っていますからこそ,ゴルギアス,さきほどからわたしは,弁論術の力とはいったいどういうものなのかと,訊ねているわけなのです。実際,そのように見てくると,その力の大きさは,何か人間業を超えたもののようにわたしには見えるのですから。」(455D)

「決して職人たちの意見によって生まれたものではない」というのがこの部分のテーマです。つまり腕のよい職人の意見ではなく,弁論家の意見によって決まるのだということがゴルギアスから言われます。その道の専門家で真実をよく知っている職人ではなく,その道の知識がなくても説得を行なう能力のある弁論家に決定権があると。

ゴルギアス「しかしまた他方,ゼウスに誓って言うのだが,もしだれかが相撲場に熱心に通って,身体つきがよくなり,拳闘の心得ができたものだから,そこで,自分の父や母を,あるいはその他,家族や友人たちのうりの誰かを,殴ることがあるとしても,それだからといって,体育教師や武装して戦う術を教えた人たちを憎んだり,国家から追放したりしてはならないのである。というのは,教えた人たちのほうは,敵や不正を加える者どもに対して,それらの術を正しく用いるようにという意図で授けたのであるが,習った人たちのほうがその教えをゆがめて,その力と技術とを正しくない仕方で使っているからだ。だから,決して,教えた人たちが悪いのではないし,また,そのことに関して,その技術が責任を問われることもなければ,その技術が悪いのでもないのだ。そうではなくて,その技術を正しく用いない人たちが悪いのだとわたしは思う。」(456D)

これは現代でも色んなことに当てはまると思います。殺人に使われたから包丁が悪いのかとか,事件の背景として連絡の手段に使われたから LINE が悪いのかとか。2,500年前から言われていたのですね。そして「技術に使われる」という構図もきっと当時からあったのでこういうことが言われてもいたのでしょう。

ソクラテス「ところで,そういうわたしとは,どんな人間であるかといえば,もしわたしの言っていることで何か間違いでもあれば,こころよく反駁を受けるし,他方また,ひとの言っていることに何か本当でない点があれば,よろこんで反駁するような,とはいってもしかし,反駁を受けることが,反駁することに比べて,少しも不愉快にはならないような,そういう人間なのです。…」(458A)

これは対話の内容とは関係ありませんが,ソクラテスの人物を表している箇所ではあると思います。言うのは簡単ですが,現実世界で反駁されても不愉快にならないというのはなかなか難しいことです。

ソクラテス「そうすると,弁論術のほうが医者よりも,説得力があるという場合には,知識のない者のほうが知識のある者よりも,ものごとを知らない人たちの前でなら,もっと説得力がある,ということになるでしょう。」…
ソクラテス「つまり弁論術は,事柄そのものが実際にどうであるかを少しも知る必要はないのであって,ただ,何らかの説得の工夫を見つけ出して,ものごとを知らない人たちには,知っている者よりも,もっと知っているのだと,見えるようにすればよいわけなのです。」(459B)

実際にその事柄を知っている必要はなく,(本当に知っている人よりも) 知っているように見えるようにするのが弁論術である…この辺りは,『プロタゴラス』に出てきた,「魂に有益「である」ことではなく,有益「であると思われる」ことを教えるのがソフィストである」というのを彷彿とさせる部分です。つまりどちらも思惑を相手にしていて,真実を求めてはいないのだというところが共通していると思います。

ソクラテス「それは,技術の名に値するような仕事ではないが,しかし,機を見るのに敏で,押しがつよくて,生まれつき人びととつき合うのが上手な精神の持主が,行なうところの仕事なのです。そして,その仕事の眼目となっているものを,わたしとしては,迎合 (コラケイアー) と呼んでいるのです。この迎合の仕事には,ほかにもいろいろと多くの部門があるように思いますが,たとえば,料理法もその一つなのです。それは一般に技術であると思われていますが,しかしわたしに言わせるなら,技術ではなくて,経験や熟練であるにすぎません。そして弁論術も,この種の仕事の一部門であるとわたしは呼んでいるのですが,さらにまた化粧法も,それからソフィストの術も,そうなのです。つまりそれらは,四つの対象に応じて,四つの部門をつくっているわけです。」(463A)

ここに書かれていることは,理解云々以上にかなり意識の底にこびりついている実感という感じがあります。結局は文系か理系かということにも近いのかもしれません…上にも出てきましたが,人の思惑を相手にするのが文系の学問という見方も有り得るのかなと。また技術を担う,自然を相手にするのが理系であれば,その反対の迎合を担うのは文系であると。僕は何度かプラトンは理系的だと思うと書いてきましたが,そう考えると自明なことということになります。
念のため書くと,プラトン的な善さを求めるには理系的なほうが近いのかなということであって,現実は逆なんじゃないかという思いも拭えません。会社とか組織に属して勤めている以上,その組織の目標を達成するために迎合が必要なことも全く否定しません。しかし,それでも真にどうあるべきかを無視して,思惑を相手に迎合するだけで進歩があるのだろうか,とはよく思います。何れにせよこういう狭量な喩えはプラトンに失礼なので以後やめにします(汗)。

ソクラテス「かくて,これら四つの技術があって,そしていつも最善ということをめざしながら,前者の組は身体の,後者の組は魂の世話をしているのですが,そのことを迎合の術は感知すると―という意味は,はっきり認識してというのではなく,当て推量してということなのですが―自分自身を四つに分けた上で,いま言われた技術のそれぞれの部門の下にこっそりもぐり込み,そのもぐり込んだ先のものであるかのようなふりをしているのです。そして,最善ということにはまるっきり考慮を払わずに,そのときどきの一番快いことを餌にして,無知な人びとを釣り,これをすっかり欺きながら,自分こそ一番値打ちのあるものだと思わせているのです。」(464C)

今までのと共通しますが,迎合というのは善を求めるものではない,というのがプラトンの考えなのでここではかなり批判的に書かれています。そして,それは「当て推量」でその技術を知っているふりをして,無知な人に対して自分が知っていると思わせる,と。
ただ,ここではソクラテスの主張ばかり挙げていますが,例えば政治家とか社長が法律なり事業なりの末端の詳細なところまで知っているはずもなく,どこかで「迎合」が行なわれるのは仕方がないという気もします。
ただ,その上で,知っていることと知らないことを峻別することの重要さということは変わらないはずで,「知らないことを知っているふりをして自分に便宜をはかること」はダメだといっているのだろうとは思います。

ソクラテス「また,そういう料理法のようなものは,技術であるとは認めずに,むしろ経験であると主張しているのだ。なぜなら,それは自分の提供するものが本来どんな性質のものであるかについて,何の理論も持たず,したがって,それぞれの場合において,なぜそうするのかという理由を述べることができないからである。」(465A)

プラトン対話篇で不当な仕打ちを受けているのが料理法です(笑)。だいたい医術との引き合いに出され,本当に身体のためになるものではなく,体が快いと思うことをするという感じの悪い意味で使われます。まあ確かにとも思います。全く関係ありませんが,僕は普段薄っぺらい布団を狭い散らかった床に敷いて寝ていて,全く快適ではなく,ホテルのベッドのようなところで快適に寝たいとたまに思います。しかし寝心地が悪くとも僕は今のところ極めて健康です。それは寝るときに快適かどうかではなく,日頃の節制の問題だろうと思います。
というわけで(?),「技術」か「迎合」か,というのは善か快か,ということと繋がりがあるのではと思ったりします。
現代においても,ある事柄が「技術」に当たるものか,「迎合(経験,熟練)」に当たるものか,を考えるのは面白いと思います。

ソクラテス「―つまり,化粧法の体育術に対する関係は,ソフィストの術の立法術に対する関係に等しく,また,料理法の医術に対する関係は,弁論術の司法 (裁判) の術に対する関係に等しい,ということである。」(465C)

ここで,身体と魂のそれぞれについて,それを善くするための技術と迎合の一覧が分かりやすく傍注に載っていたので掲載します。
今までほぼ省いていますが,魂を善くする技術が政治術であるとプラトンは言っています。
ゴルギアス

ソクラテス「どうしてって,人に不正を行なうのは,害悪の中でもまさに最大の害悪だからだ。」
ポロス「え?それが最大の害悪なんですか?自分が不正を受けるほうが,もっと大きな害悪ではないですか。」
ソクラテス「いや,とんでもない。」
ポロス「するとあなたは,人に不正を行なうよりも,むしろ,自分が不正を受けるほうを望まれるのですね?」
ソクラテス「ぼくとしては,そのどちらも望まないだろうね。だがもし,人に不正を行なうか,それとも,自分が不正を受けるか,そのどちらかがやむをえないとすれば,不正を行なうよりも,むしろ不正を受けるほうを選びたいね。」(469B)

この「不正を行なうよりも,むしろ不正を受けるほうを選ぶ」というのは本対話篇の中で一番感銘を受けた箇所です。命題自体は中学生でも理解できるような易しいものですが,それでも『ゴルギアス』のこの下りを読んで心を打たれない人は少ないでしょう。
理由云々ではなく,そうソクラテスに言わせたプラトン (または本当にそういったかもしれないソクラテス) の心情を噛み締めたいと思います。

ソクラテス「ところで,裁きを受けるということは,最大の悪,つまり悪徳からの解放だったのではないか。」
ポロス「そうでした。」
ソクラテス「それというのも,裁きは,人びとを節度のある者にし,より正しい者となし,かくして,悪徳の医術となるからであろう。」
ポロス「そうです。」
ソクラテス「そうすると,一番幸福なのは,魂のなかに悪をもたない人間なのだ。というのも,その悪こそ,もろもろの悪のなかでも最大のものであることが明らかにされたのだから。」
ポロス「むろん,そうです。」
ソクラテス「ところで,二番目に幸福なのは,その悪から解放される人だろう。」
ポロス「そうらしいです。」
ソクラテス「で,その人とは,説諭されたり,叱責されたり,裁きを受けたりする人のことだったのだ。」
ポロス「ええ。」
ソクラテス「したがって,その悪をもったままでいて,それから解放されない人は,一番不幸な生活を送る,ということになるのだ。」
ポロス「そうなるようですね。」
ソクラテス「では,その一番不幸な生活を送る人というのは,まさにこういう人のことではないかね。つまり,最大の悪事を犯し,最大の不義不正を行ないながら,うまく立ちまわって,説諭されることも,懲戒されることも,また裁きを受けることもないようにしている者があるとすれば,誰であろうと,まさにそのような人こそ,それなのではないかね。たとえば,君の主張によると,アルケラオスはそれに成功しているのだし,またその他の独裁者たちや,弁論家たちや,権力者たちにしても,そうだということなのだが。」(478D)

ここも印象に残る箇所です。「裁きを受けるよりも,裁きを受けないほうが不幸である」と。
こういう考え方は,物質主義的というか,裁きを受けることによって生じる経済的・時間的な損失を不利益と考えてしまうと全く相容れないことです。しかしこれは裏を返すと,経済的・時間的な利益を得られるのであれば不正を犯してもよいという考え方になりかねない,ということでもあるのかなと思います。
プラトンの言っていることは,個人の善の追求が何よりも利益になるということに基づいていると思うので,それを念頭に置けば特に違和感はなくなります。プラトンを読むときくらいは,物質的な幸福から超然としていたいものです(笑)。

ソクラテス「ところで,今度は反対に,いまとは逆の場合で,かりにひとが誰かに対して,…害を加えなければならないのだとしてみよう。…そんなときには,その敵が裁きを受けないように,また裁判官のところへも行かないように,ひとは言行いずれの面においても,あらゆる手段をつくして,工作しなければならないわけだ。…もし死刑に値する悪事を行なっていたのなら,できることなら決して死刑にならずに,むしろ悪人のままでいつまでも死なないでいるように,…。そういう目的のためになら,ポロスよ,弁論術は役に立つものであると,ぼくには思われるのだ。けれども,およそ不正を行なう意志のない人間にとっては,それの効用は大したものだとは思われないよ,よし,これまでの話の中にはどこにも明らかにされなかったような効用が,何かあるとしてもだよ。」(480E)

前の内容を受けて,ここは逆に,「人に害をあたえるのなら,裁きを受けさせない」というパラドックス的なことが言われます。
さてここで言われているような内容(裁きを受けさせない)は,現代では被告人の弁護士の役割を思わせます。被告を無罪にしようとしたり,可能な限りの減刑を求めたりといったことを弁護士はするのだと思います。しかしここでのソクラテスの論法で言えば,その被告が本当に悪人であれば,その悪さに適った刑罰を与えることがその被告の幸福のためであり,やみくもに減刑を求めることではないということになりますし,「弁護士は被告に正しく刑を受けさせることが責務である」と弁護士が言うのなら,逆に検察側がやみくもに大きな刑を与えようとしているという論理になります。実際検察の問題も最近よく報じられます。そういう無思慮な人ばかりではないとしても,多分その差分が,完璧ではない人間社会の妥協点なのかもしれません。

さてカリクレスとの対話については,メモ(2) に続きます。