プラトン『国家』第五巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第五巻を読んだときのメモ第1弾。

第四巻の最後で,様々な国制について論じていこうとしており,第五巻のテーマも当然それになると思われましたが,そこでポレマルコスやトラシュマコスといった,第一巻で対話相手だった人物が久々に登場して,妻の問題,子供の問題についてのソクラテスの説明が足りないと異議を唱えます。
ソクラテス自身も,その点については騙しおおせようとするつもりだったことを認めます(笑)。そして男女の問題,妻子の共有の問題,そしてそういった理想の国制を実現するための条件といういわゆる「3つの大浪」を語ります。

1つ目の男女の問題は,今日でも通用するような (勿論科学的な知見の隔たりはあると思いますが) 非常にニュートラルで先進的な男女区別の論だと思いました。2つ目の妻子の共有の問題は,逆にぱっと見かなりトンデモな説としか思えません(笑)。いや,それもある種の先入観に囚われているからかもしれません。

3つ目の最大の大浪は,「哲人政治論」として『国家』の内容としても最も有名なものの内の1つだと思われます。全十巻の丁度中間地点,5合目まで来た読者へのご褒美?として非常に興味深い内容です。またこの辺りは本格的にいわゆるイデア論が導入されてくる箇所とも思われます。

本メモ第1弾では,1つ目の大浪についての対話の内容がテーマで,第2弾,第3弾でそれぞれの大浪について取り上げる予定です。

以下はメモです。

ここでぼくはそうした国家のことを,それぞれが一つから他の一つへと移り変って行くようにぼくに思われた順序に従って,つぎつぎに語って行くつもりであった。
ところが,ポレマルコスが―彼はアデイマントスから少し離れて坐っていたので手をのばし,アデイマントスの上着の肩のところを上から掴んで彼を引き寄せ,自分も身を乗り出しかがみこんで,何か二言三言ささやいた。ほかのことは何も聞きとれなかったが,彼がこう言ったのだけは耳に入った―「放免することにしようか?それともどうしたものだろう?」(449B)

「どうも私たちには」と彼は言った,「あなたがずるけて楽をしようとして,議論のなかから,けっして些細なものではない論題の全体をそっくりと,説明を避けるためにひそかに省いてしまっているとしか思えないのです。そしてあんなことをいともぞんざいに言ってのけながら,何とかごまかせるだろうと考えておいでのようです―妻女と子供については『友のものは皆のもの』になるだろうということは誰にも自明のことだ,などとね」(449C)

ということで,ソクラテスが色んな国制について話そうとしたところで,待ったがかかります。この劇場型の展開が面白いです。

ぼくは言った,
「このぼくを掴まえて,何ということを君たちはしてくれたのだ。国制の問題について,まるで最初から出直すのと変りのないような,どれほど大へんな議論を君たちはあらためて呼び起してくれるのか!ぼくとしては,この国制についてはもう話はすんだつもりで,よろこんでいたところなのに。君たちが言ったその問題は,あのとき言われたとおりに受け入れてくれて,そのままそっとしておいてもらえれば有難いと思いながらね。それをいま君たちはわざわざ呼び出すことによって,どれほどの議論の大群を呼び覚ますことになるか,君たちにはわかっていないのだ。ぼくにはその大群がまざまざと見えていたので,これはひどく厄介なことになりそうだと,それを回避するためにあのときは素通りしたのだが」(450A)

ソクラテスは,かなり強い調子でたしなめますが,半面,大きな問題であることを承知で,それを素通りしたことを認めます。
大きな問題であることを自覚しながらスルーしようとしたのは不誠実でソクラテスらしくないという気もしますが…。

「なるほど,自分の言おうとする事柄についてちゃんと知識をもっているという自信がこのぼくにあるのなら,その激励も役に立ったことだろう。なぜなら,もののわかった親しい人たちのなかで,最も重要で自分に親しい事柄について,真実を知っていて語るということは,安全で心もはずむことだからね。しかし,ぼくがまさにしようとしているように,確信もなく模索しながら同時に論をなすというのは,不安であぶなっかしいことだ。笑いものになるのがこわいのではない。そんな恐れなら,子供じみたことだからね。そうではなくて,真理を逸してつまずき,およそ最もつまずいてはならない事柄について,自分ばかりか親しい人たちまでも巻きぞえにして倒れることになるのではないかと,それがこわいのだ」(450E)

その問題を語らなかったのは,「確信もなく模索しながら同時に論をなす」ようなことだったから,「不安であぶなっかしいこと」だからと述べています。
心情としては,理解できる気もします。誰しも確信がないことを論じることほど,不安なこともなく,常に真理を探究するソクラテスにすればなおさらでしょう。
まあ何にしてもこれがプラトンの脚色で,ここで言われる「3つの大浪」については自分としても相当の衝撃を読み手に与えるということを,予め弁明しているフシが本巻には沢山出てきますがこれもその一環と言ってしまえばそれまででしょう。しかし後でも述べますが,こういうソクラテスの人間的な像を読者が読み取ることができる (→プラトンの人間像でもある) というのが対話篇の面白さです。

「いったい番犬のうちの女の犬たちは,男の犬たちが守るものと同じものをいっしょに守り,いっしょに獲物を追い,またそのほかの仕事も共通に分担しなければならないと,われわれは考えるだろうか?それとも,牝犬のほうは,子犬を産んで育てるためにそうした仕事はできないものとして,家の中にいるべきであり,牡犬が骨折り仕事や羊の群の世話いっさいを引き受けなければならに,と考えるだろうか?」
「すべての仕事を同じように分担しなければなりません」とかれは答えた,「両性の体力的な弱さ強さの差を考慮する点をのぞいてはね」
「ところでどんな動物でも」とぼくは言った,「共に同じ養育と教育を与えないでおいて,共に同じ目的のために使うことができるだろうか?」
「いいえ,できません」
「そうすると,女子も男子も同じ目的のために使おうとするなら,女たちにも同じことを教えなければならないわけだ」
「ええ」
「しかるに,男子には音楽・文芸と体育とが課せられたのだった」
「ええ」
「してみると,女子にもこの二つの術を課するほか,戦争に関する事柄も習わせ,そして男子と同じように扱わなければならないことになる」(451D)

ということで男女の区別についての対話に入っていきますが,ある意味ではこのグラウコンの言葉「すべての仕事を同じように分担しなければなりません」「両性の体力的な弱さ強さの差を考慮する点をのぞいてはね」で答えがコンパクトに尽くされていると言えるのかもしれません。

「しかしながら,思うに,人々が実際にやってみるうちに,着物を脱いで裸になるほうが,すべてそうしたことを包みかくすよりもよいとわかってからは,見た目のおかしさということもまた,理が最善と告げるものの前に,消えうせてしまったのだ。そしてこのことは,次のことを明らかに示した。すなわち,悪いもの以外のものをおかしいと考える者は愚か者であること。また,無知で劣悪なものの姿以外の何らかの光景に目を向けて,それをおかしいと見て物笑いの種としようとする者は,逆に美しいものの基準を真剣に求めるにあたっても,善いものを基準とせずに別の何かを目標として立てるものだということ」(452D)

着物を脱いで裸になるほうがよい,という理由はここでは分かりません…。ともあれここで印象に残ったのは,後半部分です。何かと笑いを取ることが重視される世の中なので。それは何なのか,と少し考えさせられます。

「『それなら君たちがいま言っていることは間違っているし自己矛盾だということに,どうしてもならざるをえないのではないか―何しろ君たちはこんどは逆に,男たちも女たちも,それぞれの自然本来の素質がまったくかけ隔っているにもかかわらず,同じことをしなければならないと主張しているのだからね』
―さあ君,これに対して何か弁明することができるかね?」
「そう急に言われても」と彼は言った,「とても容易に答えられるものではありません。」(453C)

男女の自然本来の素質が異なるのなら,すべきことも異なるのではないか,という仮想的な問いです。

「ほかでもない」とぼくは言った,「多くの人々が,自分ではそんなつもりでなくてもその中にはまりこんでしまって,実際には口論しているだけなのに,そうではなくて自分はまともな対話をしているのだ,と思いこんでいるようにぼくには見えるからだ。それというのも,彼らは論題になっている事柄を,その適切な種類ごとに分けて考察することができずに,ただ言葉尻だけをつかまえては相手の論旨を矛盾に追いこもうとするからなのであって,その場合お互いにしているのは,ただの口論であって対話ではないのだ」(454A)

ここでのソクラテスの言葉は,その前の仮想の議論相手の問いに対するものですが,なんかこの一節だけ取ってみても十分に通る内容だなという気がします。プラトンは「口論」「議論」という言葉を否定的に使ってソフィストと関連付け,「対話」という言葉を肯定的に使ってソクラテスや真実の探求の象徴と関連付けていると思います。

「同一ならざる自然的素質は同一の仕事にたずさわってはならないということを,われわれはまことに勇ましくもまた論争家流に,ただ言葉の上だけで追い求めている。他方しかし,いったいその自然的素質が異なるといい同じであるというのがどのような種類のものなのか,またわれわれが違った自然的素質には違った仕事を,同じ自然的素質には同じ仕事を割り当てたときに,その素質の異同ということをとくに何に関係するものとして規定したのか,といったことは,まったく考慮に入れていなかったのだ」(454B)

「だから」とぼくは言った,「男性と女性の場合についても同じように,もしある技術なり仕事なりにどちらか一方がとくに向いているとわかれば,そういう仕事をそれぞれに割り当てるべきだと,われわれは主張するだろう。けれども,もし女は子供を生み男は生ませるという,ただそのことだけが両性の相違点であるように見えるのならば,それだけではいっこうにまだ,われわれが問題としている点に関して女が男と異なっているということは,証明されたことにはならないと主張すべきだろう。そしてわれわれは依然として,われわれの国の守護者たちとその妻女たちとは,同じ仕事にたずさわらないければならないと考えつづけるだろう」(454D)

非常に論理的にソクラテスが問題を片付けたという印象です。もしこれに反論するとしたら,生物学的または統計的にここでいう「守護者」としてどちらかの性が優れているということを示す必要があると思います。
またここでは引用してませんが,「料理をしたり着物を織ったりということも,女性が得意だと思われている(が素質は男女とは関係ない)」ということも言われています(455C)。これもその通りだと思うわけですが,他方で,プラトンの時代も現代も結局あまり変わっていないというのは,男女区別の問題が今も昔も本質的に変わっていないということなのかと思う一方,それとも科学的に証明されていないだけでやはり女性の方がそういうことに向いているという原因が何かあるのではないか,という思いを抱かないでもありません。前者だとは思いますが。

「さあでは,答えてくれたまえ,とわれわれはその人に言うだろう―
自然本来の素質においてあることに向いているがある人は向いていない,と君が言っていたのは,一方の人はそのことを楽々と学ぶのに対して,他方は難渋しながら学ぶという場合のことかね。また一方は一を聞いて十を知るが,他方はさんざん教えられ練習しながら,教えられたことをおぼえることさえできないということかね。さらにまた,一方の人にあっては身体が精神に仕えてじゅうぶんに役立つのに,他方の人にとっては逆に妨げになるということかね。―はたして君は,こういったこと以外の何かによって,それぞれの事柄に生来向いている人とそうでない人とを区別していたのかね?」(455B)

ここではつまり,男女というのは「できる」「できない」という素質に全く介在するものではないということが言われています。そんなのはどっちにも関係なくできる人はできるしできない人はできないと。

「そうとすれば,友よ,国を治める上での仕事で,女が女であるがゆえにとくに引き受けねばならず,また男が男であるがゆえにとくに引き受けなければならないような仕事は,何もないということになる。むしろ,どちらの種族にも同じように,自然本来の素質としてさまざまのものがばらまかれていて,したがって女は女,男は男で,どちらもそれぞれの自然的素質に応じてどのような仕事にもあずかれるわけであり,ただすべてにつけて女は男よりも弱いというだけなのだ」(455D)

「したがって,国家を守護するという任務に必要な自然的素質そのものは,女のそれも男のそれも同じであるということになる。ただ一方は比較的弱く,他方は比較的強いという違いがあるだけだ」(456A)

「女は弱く,男は強いが自然的素質そのものは同じである」というのは簡単な結論といえると思いますが,現代でもそれなりに当てはまりそうです。ただ「女の方が弱い」ということを認めることが差別であると解釈すると,というかそれこそが,男女格差を助長するような気もします。
例えば,学校のマラソン大会で男子の方が距離が長く,女子の方が距離が短いということがあったとして,プラトンは決して差別とは言わないであろうことは話の流れから自明です。少し前のもそうですが,違いを認めることと区別・差別をするということは違うという,今でもよく言われそうなことがここでは書かれていて新鮮です。

「それならば守護者の妻女たちは着物を脱がなければならない―いやしくも,着物の代りに徳 (卓越性) をこそ身に着けるべきであるからには。そして戦争その他,国家の守護にかかわる任務に参加すべきであり,それ以外のことをしてはならないのだ。ただそうした任務そのもののうちでは,女性としての弱さを考慮して,男たちよりも軽い仕事を女たちに割り当てなければならないけれども。
裸の女たちを―それが最善のことであるがゆえに裸で体育にいそしむ女たちを―笑いものにするあの男はといえば,彼はまさしく『笑いの未熟な実を摘み取る者』にほかならず,どうやら,自分が笑っているものが何であるかをまったく知らず,自分のしていることの意味もわからないもののようだ。なぜならば,現在も未来も変らぬこの上なき名言は,こう告げているからだ―益になることは美しく,害になることは醜い,と」(457A)

もっと上にも出てきましたが,まあ別に着物を脱ぐことはないと思いますがね(笑)。
ところでこういう,最善であるからと裸になるというようなことと,そういうものを笑いものにするということは,対極にあることという気がします。個人的には前者を突き進むソクラテスは流石に堅苦しすぎるという気がします (まあこれが過激な言説だとは自身も認めていると思いますが)。かといって善なるものを笑いものにするのがいい傾向とも思えません。

「さてこれでわれわれは,女性に関する法を語るにあたっての,いわば一つの大浪を,無事に逃れることができたと主張して差支えないだろうね」(457B)
「ところが」とぼくは言った,「このつぎにやってくる浪を君が見たら,いまのを大きいなどとは言わなくなるだろう」(457C)

ということで第一の大浪についてはここまでです。この男女の問題については,ソクラテスの論理的かつ自然本来の素質を尊重する特徴がよい方に働いて,現在でも通用する説になっているのではないかと思います。次がとんでもないだけにね…。

で,ここからそのさらに凄い大浪が来るとソクラテスが予告している通り,また次も衝撃的な内容が語られますが続きはメモ(2)で。

プラトン『国家』第二巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第二巻を読んだときのメモ第1弾。

第一巻でトラシュマコスとの対話が終わり,一応正義が不正に勝るという結論にはなったと思いますが,グラウコンがそれでは納得できないということで引き続き正義について話題にしていきます。途中でアデイマントスも加わってきます。なおグラウコンとアデイマントスは兄弟で,プラトンの兄です。
トラシュマコスとは異なり,自分たちはそう考えているわけではないが世間ではこう考えられている,と代理を立てる形で不正を讃える側に立ちます。しかしこのほうが不気味というか,(ソクラテスも途中で述べていますが) 本当はグラウコンたちも内心ではその通りだと思っているのかもしれません。ともかく,長い演説のようなグラウコンとアデイマントスの言葉がずっと続きます。
実際,かなり手ごわく,ソクラテスも答えに窮します。そこで,人間ではなく国家としての正義を考察し,それで明らかになった正義を元に人間としての正義を考えようということになります。
国家としての正義を考えていくところからは,メモ (2) に書きます。

では読書時のメモです。

「そこで,ご異存がなければ,こうしましょう。つまり,トラシュマコスの説を私がもう一度復活させて,次の諸点を私の口から語ることにするのです。
まず第一に,<正義>とは,どのようなもので,どのような起源をもつものと一般に言われているか,ということ。
第二に,正しいことをする人々はみな,それを<善いこと>ではなく<やむをえないこと>と見なして,しぶしぶそうしているのだということ。
第三に,人々のそういう態度は,当然であるということ。―なぜなら,不正な人の生のほうが正しい人の生よりはるかにましであるからと,こう一般には言われているからです。」(358C)

「そういうわけですから,私は精いっぱいの努力をつくして,不正な生を讃えて語ってみましょう。そしてそれを語ることによって,こんどはあなたから,どういう仕方で<不正>をとがめ<正義>を讃えるのを聞かせていただきたいと私が望んでいるかを,あなたに示すことにしましょう。」(358D)

ここでのソクラテスの対話の相手である,トラシュマコスとの対話で完全には納得しなかったグラウコンによって,3つの命題が提示され,それらについて,不正側に仮に加勢してそれをソクラテスに論破してもらうことによって,正義の善さを引き出そうとします。

「では,私がさっき約束した最初の論題について聞いてください。それは,<正義>とは何であり,どのような起源をもつものなのか,という問題です。
人々はこう主張するのです。―自然本来のあり方からいえば,人に不正を加えることは善 (利),自分が不正を受けることは悪 (害) であるが,ただどちらかといえば,自分が不正を受けることによってこうむる悪 (害) のほうが,人に不正を加えることによって得る善 (利) よりも大きい。そこで,人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って,その両方を経験してみると,一方を避け他方を得るだけの力のない連中は,不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが,得策であると考えるようになる。このことからして,人々は法律を制定し,お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。
これはすなわち,<正義>なるものの起源であり,その本性である。つまり<正義>とは,不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと,不正な仕打ちをうけながら仕返しをする能力がないという最悪なこととの,中間的な妥協なのである。これら両者の中間にある<正しいこと>が歓迎されるのは,けっして積極的な善としてではなく,不正をはたらくだけの力がないから尊重されるというだけのことである。」(358E)

「不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが,得策であると考えるようになる」…解説によると,ここの正義の起源についての説明は,「社会契約説」的な説明ということです。人に不正を与えることが善,というのは「ん?」という感じですが,食料を得るために動物を殺したりすることと同じということでしょうか。
そこから導かれた,「<正義>とは,不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと,不正な仕打ちをうけながら仕返しをする能力がないという最悪なこととの,中間的な妥協」…なるほどと思わされる説です。
『ゴルギアス』でカリクレスが主張していたことと通じていると思いました。つまり法律は弱者のためのものであり,強い者を押さえつけるためのものである,と。
何にしても,「不正」というものが,水が上から下に流れるのと同じように,人として自然であり,問題がなければそのままにしておくべきで,水路を作って流れを導いて分かち合うようなことは妥協,というような感じでしょうか。

「つぎに,正義を守っている人々は,自分が不正をはたらくだけの能力がないために,しぶしぶそうしているのだという点ですが,このことは,次のような思考実験をしてみればいちばんよくわかるでしょう。つまり,正しい人と不正な人のそれぞれに,何でも望むがままのことができる自由を与えてやるわけです。そのうえで二人のあとをつけて行って,両者それぞれが欲望によってどこへ導かれるかを観察すればよい。そうすれば,正しい人が欲心 (分をおかすこと) に駆られて,不正な人とまったく同じところへ赴いて行く現場を,われわれははっきり見ることができるでしょう。すべて自然状態にあるものは,この欲心をこそ善きものとして追求するのが本来のあり方なのであって,ただそれが,法の力でむりやりに平等の尊重へと,わきへ逸らされているにすぎないのです。」(359B)

これも,不正というものが自然であると考えれば全くその通りなのだと思います。
個人的な実感としては,半分くらいその通りだなと思います。特に最近のネット社会を考えてみると,よい例になるのかなと思います。未だに規制・法律が追いついておらず割と何でもアリに近い状態とも言えるし,あるいは原理的にそうというか,合法的であっても例えば口では言えないような言葉で他人を非難して傷つけたり (傷つけなくとも信じられないくらい品のないことを書いたり),ある思惑による株価の上下を利用して瞬間的に利益を得るといったことはあると思います。それが「不正」だとして,現実世界では「正しい」人がネットでは「不正」である,という例はいくらでも挙げられるでしょう。現実ではタガにはめられているが,規範のないネット上ではそれが解放されるのかもしれません。
さらに卑近な例でいえば,ゲームで裏技を使うことを許容するかどうか,ということも近いかもしれません(笑)。僕は使う派で,よく FF でアイテムを無限に増殖する技を使ってました…。
他方で,そういう状況にあっても,自分の欲望の赴くままに何でも行うという人ばかりとも思えません。が,それについてもグラウコンは後で手厳しく吟味してきます。

「これすなわち,すべての人間は,<不正>のほうが個人的には<正義>よりもずっと得になると考えているからにほかならないが,この考えは正しいのだと,この説の提唱者は主張するわけです。事実,もし誰かが先のような何でもしたい放題の自由を掌中に収めていながら,何ひとつ悪事をなす気にならず,他人のものに手をつけることもしないとしたら,そこに気づいている人たちから彼は,世にもあわれなやつ,大ばか者と思われることでしょう。ただそういう人たちは,お互いの面前では彼のことを賞讃するでしょうが,それは,自分が不正をはたらかれるのがこわさに,お互いを欺き合っているだけなのです。」(360D)

「面前では正しい人を賞賛するが,それは不正をはたらかれるのが怖いので互いに欺き合っているだけ」というのはなかなかグサリと来る言葉です。学校や会社で「あの人は真面目だ」と言う場合にも,同じようなニュアンスが潜んでいるのではないか?と思ってしまいそうになります。
ただ,ソクラテスじゃないですが,そういう考え方にならないためのものが人としての真の「学び」ではないかと個人的には思います(キリッ)。まあでも残念ながらここのグラウコンの言葉は現実を表しているとは思います。

「さていよいよ,問題の二人の人間の生についての判定ですが,これを正しく行なうためには,われわれは一方に最も正しい人間を置き,他方にこれまた最も不正な人間を置いて比較しなければなりません。そうしないと,正しい判定は不可能です。」(360E)

「こうして,完全に不正な人間には完全な不正を与えて,何ひとつ引き去ってはなりません。彼は最大の悪事をはたらきながら,正義にかけては最大の評判を,自分のために確保できる人であると考えなければなりません。そして万が一しくじるようなことがあっても,その取り返しをつける能力をもっていると考えなければなりません。すなわち,自分がおかした不正の何かがあばかれた場合には,人を説得しおおせるだけの弁論の能力をもち,力ずくで押さえなければならぬ場合には,自分の勇気とたくましさにより,また味方と金を用意することにより,相手を押えつけるだけの実力をもっている者と考えなければなりません。」(361A)

ということで,最も不正な人間と最も正しい人間を仮に想定するわけですが,かなり worst of worst な不正な人間ですね。本当は不正だが,他の人からは,その人は正しい人に見えると。また正しく見せる能力を持つと。確かに評判とか,その結果として得られる報酬を考えると,またそれを使い放題に使えるとすると,最強かもしれません。

「さて,不正な人間をこのように想定したうえで,その横にこんどは正しい人間を―単純で,気だかくて,アイスキュロスの言い方を借りれば『善き人と思われるることではなく,善き人であることを望む』ような人間を―議論のなかで並べて置いてみましょう。正しい人間からは,この<思われる>を取り去らなければなりません。なぜなら,もしも正しい人間だと思われようものなら,その評判のためにさまざまの名誉や褒美が彼に与えられることになるでしょう。そうすると,彼が正しい人であるのは<正義>そのもののためなのか,それともそういった褒美や名誉のためなのか,はっきりしなくなるからです。こうして一切のものを剥ぎとって裸にし,ただ<正義>だけを残してやって,先に想定した人間と正反対の状態に置かねばなりません。すなわち,何ひとつ不正をはたらかないのに,不正であるという最大の評判を受けさせるのです。そうすれば彼は,悪評や,悪評のもたらすさまざまの結果のためにへなへなにならないということによって,その<正義>のほどが完全に吟味されることになるでしょう。」(361B)

こちらも worst of worst な (本来は best と言うべきでしょうが,worst と言いたくなります…) 正しい人です。本当は正しい人なのに,周りからは不正な人と映るとは。今までの話の流れからすると,どうしようもない人ということになります。
ただ,この辺でも,自分が直観的に考える「正しい」と「不正」というものが,完全に逆転しているようだ,ということを忘れずに念頭に置いておきたいです。

「というのは,グラウコンが意図していると思われる点をもっとはっきりさせるためには,われわれとしては,彼が語ったのと反対の立場の議論,つまり,<正義>のほうを讃え,<不正>をとがめる議論も,並べなければならないからです。
思うに,父親は息子たちに向かって,また,一般に誰かの身の上を気づかう人々はすべてその当人に向かって,正しい人でなければならないと説き進めるものですが,これは<正義>というものをそれ自体として讃えているのではなくて,<正義>がもたらすよい評判を讃えているのです。つまり,彼らのそういう勧告の真意は,正しい人であると思われることによって,その評判から,役職,結婚その他,グラウコンがいま数え上げたようなすべての善いものが手に入るようにしなさい,それらが正しい人に与えられるのは,要するによい評判のおかげなのだからと,こういうわけなのです。」(362E)

アデイマントスが割り込んできて話します。確かにこれまでのグラウコンの言葉とは違い,正義の利点を述べている…ようではありますが,これはあくまで正しいと「思われる」ことによる利点にすぎません。

「すべての人々が異口同音にくり返し語るのは,節制や正義はたしかに美しい,しかしそれは困難で骨の折れるものだ,これに対して放埓や不正は快いものであり,たやすく自分のものとなる,それが醜いとされるのは世間の思わくと法律・習慣のうえのことにすぎないのだ,ということです。彼らはまた,不正な事柄のほうが多くの場合正しい事柄よりも得になると言い,邪な人間であっても金その他の力をもっていれば,そういう人間のことを,公の場でも個人的な立場でも,何はばかるところなく,祝福し尊敬しようとします。他方,正しくても無力で貧乏な人間に対しては,前者とくらべてより善人であることは認めながらも,これを見下し,軽蔑しようとするものです。」(364A)

今度は逆に,不正が醜いとされているのも,思わくと法律習慣によるものだと言います。そして不正の方が得だと言います。
「邪な人間であっても金その他の力をもっていれば…何はばかるところなく,祝福し尊敬しようとする」「正しくても無力で貧乏な人間に対しては,…善人であることは認めながらも,これを見下し,軽蔑する」…確かにそういう「権力になびく」人はいるし,それが否定はできません。

「しかしそういうあなた方すべてのうちで,かつて誰一人として,<不正>をとがめ<正義>を讃えるにあたって,評判のことや,名誉のことや,それらから結果する報いのことを云々する以外の仕方によった者はいなかった。<正義>と<不正>のそれぞれが,それぞれを所有している者の魂の内にあって,神々にも人間にも気づかれないときに,それ自体としてそれ自身の力で,どのようなはたらきをなすかということは,詩においても教えにおいても,かつて一度もくわしく語られたことはなかった。」(366E)

「<正義>を讃えるにあたっても,まさにこの肝心の点を讃えてください。<正義>はそれ自体として,それ自身の力だけで,その所有者にどのような利益を与えるのか,逆に<不正>はどのような損害を与えるのかを,示してください。報酬や評判を讃えることのほうは,ほかの人々におまかせになればよろしい。」(367D)

ということで当然ここに来ます。他人の思わくを相手にするのではなく,正義それ自体としてどういう利益があるのか?何となくイデア論の香りがしますね。
ところで,東洋の古典では,例えば「天網恢恢疎にして漏らさず」とか「李下に冠を正さず」とか,人が見ていないところでも正しくしていないとダメだという観念,あるいは「秘すれば花」のように寧ろ見せないのが美徳という観念,があるように思います。それは現代にも生きている気もします。そして,それが何故かというところまではあまり触れられていないように思います。
勿論私のようなアマチュアが知らないことも沢山あると思いますが,いい意味で「天下り的」なのかな,とよく思います。正直ソクラテスの対話にさらされなくてよかったと思います(笑)。もっともソクラテス自身は,違うと思いますが。つまり,暗黙的に,思わくではなくソクラテス的な「善さ」を東洋では認めているような気もします。

「まずぼくは,どうやって<正義>を助けたらよいのかわからない。どうもぼくには,それだけの力がないように思えるのでね。…
かといってまた,<正義>を助けずにいるということも,ぼくにはできないことだ。なぜなら,<正義>が悪しざまに罵られているところに居合わせながら,自分がまだこうして息をして口もきけるというのに,見捨てて助けないというのは,不敬虔なことでもあるのではないかと怖れるのでね。」(368B)

グラウコンとアデイマントスが示した議論は,今でもそうですが当時も確かに現実をよくとらえていたのだと分かります。ソクラテスも困っています。
しかしソクラテスにとっては,分からない,ということは普通というか当然のことでもあるのだと思います。喜びでさえあるのかもしれません。対カリクレス,対トラシュマコスの時も,最初はどうなることかと思いましたが,結局いつの間にかソクラテスの土俵に乗っていました。今回はそのとき以上に厳しそうな戦いですが,だからこそ面白い対話がなされるのではと期待できます。

「<正義>には,われわれの主張では,一個人の正義もあるが,国家全体の正義というものもあるだろうね?」
「ええ,たしかに」と彼は言った。
「ところで,国家は一個人より大きいのではないかね?」
「大きいです」と彼。
「するとたぶん,より大きなもののなかにある<正義>のほうが,いっそう大きくて学びやすいということになろう。だから,もしよければ,まずはじめに,国家においては<正義>はどのようなものであるかを,探求することにしよう。そしてその後でひとりひとりの人間においても,同じことをしらべることにしよう。」(368E)

ということで,大きいもののほうが調べやすいという論理で,人ではなくまず国家の正義を検討するということになりました。かなり遠大な構想です。

この後第二巻は,実際に何もないところから国家というものを作っていき,そこの正義・不正というものを考える,という展開になりますが,続きはメモ(2)に。それにしても毎回長くなります(笑)。

プラトン『国家』第一巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第一巻を読んだときのメモの第2段。 第1段の対話メモの続きで,ここではソクラテス対トラシュマコスの対話がメインとなります。

トラシュマコスのソクラテスに対する敵対的な態度は,『ゴルギアス』のメモでも書きましたが,『ゴルギアス』に出てくるカリクレスを彷彿とさせます。ただ,カリクレスがソクラテスの「哲学の生活」つまり生き方そのものを徹底的に非難したのに対して,トラシュマコスは口調は確かに激しいのですが,あくまで「正義」についての自説を展開したに過ぎない,という気もします。なのでソクラテスの反駁も,淡々と論理的に行なわれたという印象です。まあ,ソクラテスも第一巻からそこまで本気になったら第十巻まで持たないでしょう(笑)。

以下が読書時のメモです。

「何というたわけたお喋りに,さっきからあなた方はうつつをぬかしているのだ,ソクラテス?ごもっとも,ごもっともと譲り合いながら,お互いに人の好いところを見せ合っているそのざまは,何ごとですかね?もし<正義>とは何かをほんとうに知りたい のなら,質問するほうにばかりまわって,人が答えたことをひっくり返しては得意になるというようなことは,やめるがいい。答えるよりも問うほうがやさしいことは,百も承知のくせに!」(336C)

ソクラテスとポレマルコスの対話で,正義とは敵に対してでも害を与えることはない,ということが合意されたところで,トラシュマコスが我慢ならんという感じで割り込んできて上記の言葉を始め,かなり過激な言葉を投げかけます。ソクラテスが驚いた様子も本文に書かれていますが,読み手としてもかなり強烈な印象を受けます。

「では聞くがよい。私は主張する,<正しいこと>とは,強い者の利益にほかならないと。…おや,なぜほめない?さては,その気がないのだな?」(338C)

トラシュマコスの言葉です。なんかこの部分だけ読むと滑稽ですが,「なぜほめない?」というのは,この前に,ソクラテスが「人から何かを学んだときには自分も謝礼をするが,自分はお金がないのでその人を褒めることしかできない」というような言葉を受けてです。

「それぞれの国で権力をにぎっているのは,ほかならぬその支配者ではないか?」
「たしかに」
「しかるにその支配階級というものは,それぞれ自分の利益に合わせて法律を制定する。たとえば,民主制の場合ならば,民衆中心の法律を制定し,僭主独裁性の場合ならば,独裁僭主中心の法律を制定し,その他の政治形態の場合もこれと同様である。そしてそういうふうに法律を制定したうえで,この,自分たちの利益になることこそが被支配者たちにとって<正しいこと>なのだと宣言し,それを踏みはずした者を法律違反者,不正な犯罪人として懲罰する。 さあ,これでおわかりかね?私の言うのはこのように,<正しいこと>とはすべての国において同一の事柄を意味している,すなわちそれは,現存する支配階級の利益になることにほかならない,ということなのだ。しかるに支配階級とは,権力のある強い者のことだ。したがって,正しく推論するならば, 強い者の利益になることこそが,いずこにおいても同じように<正しいこと>なのだ,という結論になる」(338D)

まさに「強者の論理」というのがふさわしいトラシュマコスの言葉…だとは思うのですが,「民主制の場合ならば,民衆中心の法律を制定し…自分たちの利益になることこそが被支配者たちにとって<正しいこと>」と,言葉だけ見ると一見正論を述べてもいるような気もします。
ただ,勿論「利益→正しい」というのが本当なのか?ということと,「民主制における支配階級とは?」というのが疑問に思ったことではあります。前者はソクラテスにお任せするとして,後者は本来であれば,市民一人ひとりということになるのかな,と思います。が現実には代議士,政治家ということになるでしょうか。では政治家の利益になることが正しいことなのでしょうか?現代の視点でトラシュマコスの言葉を考えると,そういう問いかけに取ることも可能かもしれません。

「支配者たち,強い者たちに不利益なことを行なうのも<正しいこと>であると,君はちゃんと同意したのだ,とね。つまりそれは,支配者たちがそのつもり ではないのに自分に不利益なことを命じるような場合のことだ。そして君は,命じられたとおりに行なうのが被支配者にとって正しいことなのだ,と主張してい る」(339E)

ソクラテスの反論です。ここでは結構省いていますが,メモ(1)に書いた,ポレマルコスと対話したのと展開が似ています。つまりポレマルコスは最初,「善いと思われる人」に利益を与えるのが正義だといいましたが,それだと実際には悪い人,つまり敵に利するのが正義の場合もあることになりました。同様に,支配者たちの「利益だと思われる」ことを被支配者が行なった場合,それは実際には不利益かもしれないが,それも正義の場合もあると。但しトラシュマコスは,ここは少し工夫してきます。

「い いかね,早いはなしが,あなたは病人について判断を誤るような者を,判断を誤るまさにその点に関して,『医者』であると呼びますかね?あるいは,計算を誤るような者のことを,計算を誤るまさにその瞬間に,まさにその誤りに関して,『計算家』であると呼びますかね?」(340D)

「あらためて 最も厳密な意味で答えるとすれば,こういうことになる。すなわち,支配者は,支配者たるかぎりにおいては誤ることがない,そして誤ることがない以上,支配者が法として課するのは,自分にとって最善の事柄であって,それを行なうのが被支配者のつとめであると。」(340E)

ということでトラシュマコスは,専門家は,その技術については決して誤ることがない,技術自体は完全なものであるという「厳密な意味での」という前提を導入します。これはこれで,なるほどという仮定だなと思いました。一種のプロフェッショナリズムともいえるかもしれません。確かに間違うことがありうるということになれば,そこで話が頓挫しかねません。が,この後で分かるように,ソクラテスにとっても好都合だったようです。

「(だからまた,) おそらくどんな医者でも,彼が医者であるかぎりにおいては,医者の利益になることを考えてそれを命じるのではなく,病人の利益になる事柄を考えて命令する のではないかね?なぜなら,すでに同意されたところによれば,厳密な意味での医者というものは,金儲けを仕事にするものではなくて,身体を支配する者のこ となのだから。―どうだね,そういうことが同意されたのではないか?」(342D)

「そしてまた,トラシュマコス」とぼくは言った,「一般 にどのような種類の支配的地位にある者でも,いやしくも支配者であるかぎりは,けっして自分のための利益を考えることも命じることもなく,支配される側の もの,自分の仕事がはたらきかける対象であるものの利益になる事柄をこそ,考察し命令するのだ。そしてその言行のすべてにおいて,彼の目は,自分の仕事の 対象である被支配者に向けられ,その対象にとって利益になること,適することのほうに,向けられているのだ」(342E)

ということで,「厳密の意味で」というトラシュマコスの前提を利用する形でソクラテスが反駁します。そもそも技術が完全であるなら,それは金儲け等その他の目的ではなく,その技術の作用を受ける側の利益のみを目的にしたものであり,それはつまり被支配者の利益になることであって支配者の利益になるものではない,と。
繰り返しますが,この「厳密の意味で」という前提は曖昧さを取り除き,論理的な推論を可能にするという点で,かなりソクラテスに有利に働いているように個人的には思います。

「それにまた,お人好しの本尊のソクラテスよ,正しい人間はいつの場合にも不正な人間にひけをとるものだということを,次のようなことから考えてみるがよい。まず第一に, 正しい人間と不正な人間とが互いに契約して,共同で何かの事業をするとしたら,その共同関係を解くにあたって,正しい者のほうが不正な者よりもたくさんの 儲けにあずかるというようなことは,けっして見られないだろう。正しい人のほうが,きまって損をするのだ。」(343C)

ソクラテスを「お人好しの本尊」呼ばわりしますが,そういう,問題の追求とは関係なく相手を貶める言葉を言うのは (まあ面白いですが) 聞き手を呆れさせるだけで言う人間にとって何もメリットはない,と実感します。
それはともかく,このトラシュマコスの言っていること自体は現実のような気もします。

「しかし私の言うことは,最も完全なかたちにおける不正のことを考えてもらえば,あんたにもいちばん楽にのみこめることだろう。最も完全な不正こそは,不正をおかす当人を最も幸せにし,逆に不正を受ける者たち,不正をおかそうとしない者たちを,最も惨めにするものだからだ。独裁僭主のやり方が,ちょうどこれにあたる。」 (344A)

「ところが,いったん国民すべての財産をまき上げ,おまけにその身柄そのものまでを奴隷にして隷属させるような者が現われると,その人はいま言ったような不名誉な名では呼ばれないで,幸せな人,祝福された人と呼ばれるのである。その国民自身がそう呼ぶだけではない。よその国の 者も,彼がそういう完全な不正をなしとげたことを聞き知るならば,口をそろえてそう言うのだ。それというのもほかではない,人々が不正を非難するのは,不正を人に加えることではなく自分が不正を受けることがこわいからこそ,それを非難するのだからである。 このように,ソクラテス,不正がひとたび十分な仕方で実現するときは,それは正義よりも協力で,自由で,権勢をもつものなのだ。そしてわたしが最初から言っていたように,<正しいこと>とは,強い者の利益になることにほかならず,これに反して<不正なこと>こそは,自分自身に利 益になり得になるものなのである」
こういってトラシュマコスは,まるで風呂屋の三助が湯をぶっかけるような勢いで,われわれの耳にたくさんの言葉をわんさかと浴せかけておいてから,そこを立ち去るつもりでいた。(344B)

トラシュマコスは,不正を礼賛するようなことを言います。不正は正しい人を適切に?支配するものであると言います。「正しいことは支配者の利益になることで,不正なことは自分の利益になること」というのは,「お前の物は俺の物,俺の物も俺の物」という所謂ジャイアンの理論を思い出します(笑)。実際,トラシュマコスは支配者が不正を成し遂げ,被支配者が正しい場合が理想的な支配体制と考えているように思えます。ただどちらかというと帰納的で,ソクラテスとの対話が成り立っているようには思えません。
あと最後の「風呂屋の三助」云々は,変わった訳というか,古い訳なのかなと思いました。僕は一応漱石の小説などもよく読むので分かりますが (確か『門』の序盤に出てきたような),今は三助って通じない気がします。勿論原文がそういうものなのでしょうけど。

「ぼくのほうは,ちゃんと自分の考えを表明しておく。すなわち,ぼくは君の言ったことを信じない。不正のほうが正義よりも得になるなどとは,けっして思わない。たとえ不正が放任されていて,何でもしたい放題であるような場合でも,なおかつそうなのだ,とね」(345A)

決然と,といった感じでソクラテスが言います。ごちゃごちゃと理詰めで相手をやり込んでいくのがいつものソクラテスですが,無茶な言説に対してこのように決然と対決姿勢を示す場面はいいなあと思います。
当たり前ですが,ソクラテスほど情に厚い人間もいなかったはずで,普段は理詰めですがこういう時にふと本性が覗くのが,人間的なところを感じさせます。いやまあプラトンの脚色かもしれませんが…。

「ぼ くはね,親愛なるトラシュマコス,まさにこういう理由によってこそ,ついさっき,みずからすすんで支配者の地位につき,他人の災厄に関与して立て直してやろうと望む者は一人もいない,みんなそのための報酬を要求する,と言っていたのだよ。ほかでもない,自分の技術に従って立派に仕事をしようとする者ならば,けっして自分自身のために最善になることを行なうことはないし,また人に命令する場合にも,その技術本来の任務に忠実である限りは同様であって,逆に 被支配者のために最善になることをこそ,行なったり命じたりするのだから。 思うに,支配者の地位につくことを承知しようとする者に報酬が与えられなければならないということは,こうした事情によるのだろう。その報酬が金銭にせよ,名誉にせよ,あるいは,拒む者に対しては罰であるにせよね。」(346E)

「支配者はその技術を被支配者の最善のためだけに使う,自分のためには決してならない,だから報酬が必要」というのは,かなり感銘を受けました。当たり前でもあるかもしれませんが。「プロの態度」のように思えます。
大変な決断をする人には,それなりに報酬を与えないといけない,とも思えます。それなりに報酬を貰っているのなら,その分仕事は虚心に行わなければいけない,とも思えます。不正を行うということは,報酬が足りないからだ,だから自分のための仕事をしてしまうのだ,とも思えます。報酬が足りるかどうかの尺度は難しい,いや節制がない人にとっては無尽蔵だろう,とも思います。
日ごろの仕事に対する姿勢にも通じるところはあります。報酬を貰っているのだから,自分自身の成長とか楽しみとかは,考えるべきではないかもしれません。勿論,楽しむこと,成長することが同時に結果を出すことに繋がればベストだろうとは思いますが…。

「と ころで,罰の最大なるものは何かといえば,もし自分が支配することを拒んだ場合,自分より劣った人間に支配されるということだ。立派な人物たちが支配者となるときには,こういう罰がこわいからこそ,自分が支配者になるのだとぼくは思う。彼らはそのとき,支配することを何か善いことであると考えたり,その地位にあって善い目にあうことを期待したりして,支配に赴くわけではないのだ。支配をゆだねてもよいような,自分以上にすぐれた人たちも,あるいは自分と同 様の人たちさえも見出せないために,万やむをえぬことと考えてそうするのだ。」(347C)

前の引用の最後に「罰」という言葉があり,グラウコンがそれについて質問したところですが,「優れた人にとって,自分が劣った人間に支配されることが罰で,それを受けないためにやむを得ず支配者になる」というソクラテスの説で,これにも唸らされました。
確かに,これまでの話の流れでいくと,支配者とは決して自分のためのことをするわけではなく,その代わりに報酬を貰いますが,金や名誉のために仕事をすることを恥だと思えば,支配者になりたいと思う理由はないようにも思えます。
勿論現実は,出世していい身分になり沢山の金を貰いたい,と思うのが当たり前の世の中だからこそ,このソクラテスの説が新鮮に映るのです。
「マザー2」というゲームで,モグラの5兄弟が敵として出てきて,別々に戦うところがあるのですが,5匹が5匹とも「自分こそが真に3番目に強い」と言って憚らないのをふと思い出しました。トップになりたがらないという共通点だけですが,そう思うと案外深かったです(笑)。

「すると,<不正>とは,次のよう な力をもつのだということが明らかだね。すなわち,それは国家であれ,氏族であれ,軍隊であれ,他の何であれ,およそ何ものの内に宿るのであろうとも,ま ずそのものをして,不和と仲違いのために共同行為を不可能にさせ,さらに自分自身に対して,また自分と反対のすべての者,すなわち正しい者に対して,敵たらしめるものだ。そうではないかね?」
「たしかに」
「そして思うに,一個人の内にある場合にも,<不正>は同じこれら自己本来のはたらきを発揮することに変りはないのだ。すなわち,まずその人 間をして,自分自身との内的な不和・不一致のために事を行なうことを不可能にさせ,さらに自己自身に対しても正しい者に対しても敵たらしめるものだ。そうだね?」(351E)

この前に,不正が正義より劣ったものであるというソクラテスの論証があったのですが,メモは省略しました。トラシュマコスはソクラテスに降参したような形で,割と素直になっており,ここはソクラテスの独壇場のような感じで不正に関する考察が行われます。
しかし,「不正は組織に不和を発生させ,さらに自分自身の中にも不和を発生させる」 (反対に協調を作るのは正義同士のみである),というのはなるほどと思います。

「食いしんぼうの客は,料理の皿が出されるたびに,前の料理をまだじゅうぶんに賞味してもいないのに,すぐ次の皿を ひったくっては味わおうとするものだが,ぼくのやり方も,ちょうどそのとおりだったと自分で思う。最初『<正義>とはそもそも何であるか』と いう問題を考察していながら,答をまだ見出さぬうちにその問題を離れて,『それは悪徳であり無知であるのか,それとも知恵であり徳であるのか』といっ た,<正義>についての特定の問題にとびついて行ってしまった。そのあとでこんどは『<不正>は<正義>よりも得に なるものである』という論が出てくると,またもや先の問題をほったらかして,それに向かわずにはいられなかった。 こうして,討論の結果ぼくがいま得たものはと言えば,何も知っていないということだけだ。それもそのはず,<正義>それ自体がそもそも何であ るかがわかっていなければ,それが徳の一種であるかないかとか,それをもっている人が幸福であるかないかといったことは,とうていわかりっこないだろうか らね」(354B)

…ということで,「不正が正義より得になることはない」という結論になりますが,上記のように「そもそも正義とは何かが分からない」という,『メノン』などと同様の所謂アポリアに陥って第一巻が終了します。

ここまでだけ見ると,これだけで1つの対話編として立派に成り立ちそうです。しかし『国家』は,まだ1合目に過ぎません。これからたっぷりと「正義」の追求が見られます。非常に楽しみです。
次回は第二巻の予定。

プラトン『国家』第一巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第一巻を読んだときのメモ第1弾。

まず『国家』はプラトン全集では,全十巻に分かれています。全体として非常に長いので,メモも1巻ずつに分けて残そうかと思います。…と思ったら第一巻が長くなって早速2つに分かれましたが。

何にしても,まずこの『国家』を,趣味として,読み物として読むことができることに感謝したいと思います。ソクラテスや他の人物の言葉を,「哲学」として検証する立場ではなく,自らも対話の一員のように素直に読むことができることを嬉しく思います。この前呟いたのですが,研究者や専攻の学生でもないのにわざわざ『国家』を,というよりプラトン全集をですが,読む人はなかなかいないと思います。きっかけは何であれ,そういう機会に恵まれてよかったです。

さて実は『国家』は文庫で一応以前読んだことがあります (例によってあまり覚えていません(笑))。話の流れとしては,まず個人の正義とは何かを考え,それから国家の正義というものを考えるために理想の国の形をゼロから考えていく,というようなものだったと思います。

それぞれの巻のメモで,大まかな中身は自分なりにまとめていきたいと思っていますが,文庫版の『国家』の最初に,構成・内容が分かりやすくまとめられていたと思います。

さて第一巻ですが,話はソクラテスがペイライエウスからアテナイに帰るところで,ポレマルコスに呼び止められ,ポレマルコスの家に行って対話が始まります。内容は,大まかにいえば以下のような内容です:

  • ケパロスとの老年についての対話
  • ポレマルコスとの正義についての対話
  • トラシュマコスとの正義についての対話

以前読んだときも第一巻はかなり印象的でした。というのはトラシュマコスという人物が,非常に過激な言説でもってソクラテスと対決したからです。『国家』を買って途中で挫折したという人も,第一巻を読んだ人は多いのではないかと思います。正直,第一巻は内容的に独立しているようにも思えます。そして第二巻以降の退屈な展開とはだいぶ違います(笑)。

以下読書時のメモです。ただ,トラシュマコスとの対話は,メモ第2弾に書きます。

「ええ,それはもう,ケパロス」とぼくは言った,「私には,高齢の方々と話をかわすことは歓びなのですよ。なぜなら,そういう方たちは,言ってみれば,やがてはおそらくわれわれも通らなければならない道を先に通られた方々なのですから,その道がどのようなものか,―平坦でない険しい道なのか,それともらくに行ける道なのかということを,うかがっておかなければと思っていますのでね。とくにあなたからは,それがあなたにどのように思われるかを,ぜひうかがっておきたいのです。」(328D)

ここからのケパロスの話は結構印象的です。自分にとっては,理想の高齢者像のように思える部分もあります。まあケパロスが金銭的に裕福だからいえるのかもしれませんが。あとは,本当にケパロスが言ったのか,プラトンの創作なのか,も分かりません。ちょっと明晰すぎるきらいもありますし。

「そして彼らは,何か重大なものが奪い去られてしまったかのように,かつては幸福に生きていたが今は生きてさえいないかのように,なげき悲しむ。なかには,身内の者たちが老人を虐待するといってこぼす者も何人かあって,そうしたことにかこつけては,老年が自分たちにとってどれほど不幸の原因になっていることかと,めんめんと訴えるのだ。しかし,ソクラテス,どうもこの私には,そういう人たちは,ほんとうの原因でないものを原因だと考えているように思えるのだよ。」(329A)

途中までの言葉は,なんか現代でも丸ごと当てはまりそうな言葉です。

「けれども,げんに私はこれまでに,そうでない人々に何人か出あっているのだ。作家のソポクレスもその一人で,私はいつか,彼がある人から質問されているところに居合わせたことがある。
『どうですか,ソポクレス』とその男は言った,『愛欲の楽しみのほうは?あなたはまだ女と交わることができますか?』
ソポクレスは答えた,
『よしたまえ,君。私はそれから逃れ去ったことを,無常の歓びとしているのだ。たとえてみれば,凶暴で猛々しいひとりの暴君の手から,やっと逃れおおせたようなもの』
私はそのとき,このソポクレスの答を名言だと思ったが,いまでもそう思う気持ちにかわりはない。まったくのところ,老年になると,その種の情念から解放されて,平和と自由がたっぷり与えられることになるからね。」(329B)

「それは,ソクラテス,老年ではなくて,人間の性格なのだ。端正で自足することを知る人間でありさえすれば,老年もまた苦になるものではない。が,もしその逆であれば,そういう人間にとっては,ソクラテス,老年であろうが青春であろうが,いずれにしろ,つらいものとなるのだ。」(330D)

僕もソポクレスの答えは名言だと思いますが,それは食欲とか物欲など色んな欲にも同じことがいえると思いますし,後半のケパロスの言葉のように,歳とは関係ないのかなとも思います。いわゆるストア派の考え方にもつながるのかもしれません。

「で,私としては,お金の所有が最大の価値をもつのは,ほかならぬこのことに対してであると考える。ただし,あらゆる人にとってそうだというのではなく,立派できちんとした人間にとっては,ということだがね。つまり,たとえ不本意ながらにせよ誰かを欺いたり嘘を言ったりしないとか,また,神に対してお供えすべきものをしないままで,あるいは人に対して金を借りたままで,びくびくしながらあの世へ去るといったことのないようにすること,このことのために,お金の所有は大いに役立つのである。」(331A)

ソクラテスに「財産を持っていてよかったことは?」と訊かれたケパロスの答えですが,この言葉もかなり感銘を受けました。つまり「不正を犯さないために,お金は役に立つ」と。
僕なども,「金に魂を売るような人生は絶対に送りたくない」ということは常に思っていますが,それは逆説的ですがある程度お金をもっていないといけないのかな,とも思います。それと心のどこかで,大きな財産を手に入れるというのは何か不正 (違法かどうかではなくもっと広い意味) を伴うんじゃないか?という一種偏見に近い思いも心のどこかにあるような気がします。そこで,「不正を犯さないための財産である」,というのは逆転の発想というか。
後で「支配者にみずから進んでなる者はおらず,そのために支配者は報酬を要求する」というソクラテスの説が出てくるのですが,それとも繋がりがありそうな感じです。報酬が足りないから支配者は不正を犯す,という見方もできるのかもしれません。

「さあそれでは」とぼくは言った,「議論の相続人である君よ,教えてくれたまえ。<正義>についての正しい説だと君が主張するのは,シモニデスのどのような言葉なのかね?」
「『それぞれの人に借りているものを返すのが,正しいことだ』というのです」とポレマルコスは答えた,「私としては,これは立派な言葉だと思いますがね。」(331E)

ここからは,ソクラテスとポレマルコスの正義についての対話が暫く続きます。

「そしてほかのあらゆるものについても,正義とは,それぞれのものの使用にあたっては無用,不用にあたっては有用なもの,ということになるわけだね?」
「どうもそういうことになるようです」
「なんだかそうなると,友よ,<正義>とは,あまり大した代物ではないことになるね。不用なものに対してしか有用ではないというのではね。」(333D)

ポレマルコスは,正義とは契約に関して有用なもの,しかもお金に関することで有用なもの,とソクラテスとの対話で述べます。しかしそれは,お金を何かに使うときではなく「お金を使わないで,そのまま置いておかなければならないとき」に,つまり不用なときに有用である,ということになり,それで上記のようなソクラテスの言葉になりました。この辺りはソクラテスははぐらかしモードのような気がします(笑)。

「冗談ではありませんよ!」とポレマルコスは言った,「しかし私にはもう,自分が何を言っていたのか,さっぱりわからなくなってしまいました。ただし一つだけ,いまでも確かだと思うのは,<正義>とは友を利し敵を害することである,ということです」
「その場合,君が<友>と言っているのは,各人に善い人だと思われている者のことだろうか,それとも,たとえそうは思われなくても,実際に善い人間である者のことだろうか?これは<敵>についても同様なのだが,いったいどちらなのかね?」
「それは」と彼は答えた,「人は相手を善い人間だと思う場合に,その人間を友として愛し,悪い人間だと思う場合に,敵として憎むのだと,当然考えられます」(334B)

「してみると,いいかね,ポレマルコス,多くの人たちにとっては,彼らが人間の判断を誤るかぎり,友に対しては害を与え―その相手は実際には悪い人間なのだからね―敵に対しては益をなす―その相手は実際には善い人間なのだからね―のが正義である,ということになるだろう。そして,このようにしてわれわれは,シモニデスの説だと言っていたこととは,ちょうど正反対のことを言う結果になるだろう」(334E)

後でトラシュマコスとの対話でも似た論理があるのですが,「実際に善い」人と「善いと思われる」人のどちらが友で,その友に利するのが正義かと問います。で,後者だとすると,思われるだけで実際には悪い人間を,つまり敵に利するのが正義だということになります。
実感としては,「善悪の判断を誤らないようにしないといけない」,と現実を反省してしまいがちで,それだと不祥事を起こした企業や政治家が「再発防止を徹底します」と言うだけで何も変わらないのと同じなのかもしれません。一方でソクラテスのほうは,そもそも仮説・前提を覆そうとします。

「善い人間だと思われ,しかも実際にそうであるような者が<友>である,としましょう」と彼は答えた。(334E)

「では,はたして正しい人間は,自分が身につけているその<正義>によって,人を不正な者にすることができるだろうか?あるいは,一般的に言って,善き人間は,その善さ (徳) によって,人を悪い人間にすることができるだろうか?」
「いいえ,できません」
「実際に,思うに,冷たくするということは,熱さのはたらきではなくて,その反対のもののはたらきなのだ」(335C)

「したがって,ポレマルコスよ,相手が友であろうが誰であろうが,およそ人を害するということは,正しい人のすることではなくて,その反対の性格の人,すなわち不正な人のすることなのだ」
「まったくあなたの言われるとおりだと思います,ソクラテス」(335D)

ポレマルコスは,全面的にソクラテスに承服します。で結局は,正義は敵に害を与えるということもこのように否定されます。

ちょっと雑ですが,最初から飛ばすと息切れしそうなので…長くなってきたので,続きはメモ第2弾に。