プラトン『ヒッピアス(小)』メモ

プラトン『ヒッピアス(小)』((プラトン全集 (岩波) 第12巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,一緒にヒッピアスの演説を聴いていたエウディコスが,ソクラテスに何か意見を促す場面から始まり,ヒッピアスが語った『イリアス』と『オデュッセイア』の人物評について尋ねます。そして「抜け目のない人」という評が「偽りの人」だということになり,偽りの人とは実は真実の人であり,善い人のことなのではないか?ということが対話の中で言われます。
この「偽りの人=真実の人=善い人」である,という推論はかなり衝撃的で,ソクラテスも自分で導いておきながら同意できないと言います。自分も改めて眺めると,そんなバカなと思いますが,しかし対話を追っていると,確かにそうなのだなと思ってしまうのがプラトン対話篇の面白さです。この短い初期対話篇は,自分でその問題点を考えろというのが裏のテーマなのかもしれません。以下でも一応自分なりに考えました。
なお,『ヒッピアス(小)』と『ヒッピアス(大)』は,いずれも同じ人物であるヒッピアスとの対話篇です (『小』は『大』の息子が相手というわけではない)。「大」と「小」という名称について詳しくは分かっていないようですが,『小』の方は偽作の疑いはないようです (解説によると,アリストテレス『形而上学』で参照されているのが『小』と見られているらしい)。
副題はそのもの,「偽りについて」。

以下は読書時のメモです。

エウディコス「どうしたんだね,なぜ君は黙っているのだ,ソクラテス。ヒッピアスがこれほどの演説を披露してみせたというのに。一緒になって今の話のどこかを讃めるとか,あるいはまた,話にどこか適切でないところがあると思われるならそれに反駁するとか,どうしてしないのだね?こともあろうに,自ら哲学の議論に加わることを他の誰よりも強く要求するはずの,われわれだけが取り残されているのだからね。」(363A)

これが本対話篇の最初です。ここから,ヒッピアスの演説を大勢が聴いていた情景が思い浮かびます。プラトン対話篇はつかみが上手いですね。

ソクラテス「それで,もしヒッピアスさえその気なら,その点についてぜひ問いただしてみたいのだ。これら二人の人物について彼がどう考えているか,つまり,どちらのほうが優れていると彼は主張するか,をね。」(363B)

「二人」というのは,ホメロス『イリアス』のアキレウスと,『オデュッセイア』のオデュッセウスのことを指します。ヒッピアスが演説で両物語 (詩) とその登場人物に触れたようです。
この後でも,適宜引用はなされますが,読者にはこれらの登場人物の素性について簡単にでも知っていることを前提にしていることが,含意されているように思われます。当時の教養だったのでしょうか。まあ本対話篇に限りませんが。

ヒッピアス「つまり,私の主張では,ホメロスはアキレウスを,トロイアへ赴いた人々の中で最も優れた人物として,またネストルを最も賢明な人物に,そしてオデュッセウスをいちばん抜け目のない人物に描き上げているのだ。」(364C)

「抜け目のない」という形容が微妙なものを感じさせます。なおギリシャ語原文では πολυτροπώτατον (→ πολύτροπος) という単語のようで (Perseus Digital Library のテキストより),辞書で調べる限りでは「変わりやすい,多様な」というような意味のようですが。次に続きます。

ソクラテス「そこで,どうか言ってもらいたい,そうすれば少しはよく理解できると思うんだが―アキレウスはホメロスによって抜け目のない人物に描かれてはいないのかね?」
ヒッピアス「決してそんなことはない,ソクラテス。むしろ,最も一本気で,最も真実の人間とされているのだ―『祈願』の中で彼ら二人を互いに語り合わせている場面では,ホメロス描くところのアキレウスはオデュッセウスに向かってこう述べているのだからね。(中略)
けだし,一事を心に秘めて他を口にするがごとき者,
そは,冥府の門に似てわが憎む者なればなり。
されどわれは,語るべし,今より語り果されんごとく。」(364E)

ソクラテス「それでやっと,ヒッピアス,私は君の言おうとすることが判ったように思う。どうも,君の言う抜け目のない人間というのは,偽りの人のことのようだね,私の見るところでは。」(365B)

ということで結局,「抜け目のない人」というのは「偽りの人」ということで合意されます。

ソクラテス「ではどうなんだろう,同じこの領域で偽りを語るほうは?先の真実の場合と同じように,こだわりなしに堂々と答えてくれたまえ,ヒッピアス。誰かが君に700の3倍はどれだけになるかと訊ねたとしたら,どうだろう,君は,偽りを言おう,そして決して真実は答えまいと望むならば,最もうまく偽りを言うことができ,それについていつも同じように偽りを述べられるのだろうか,それとも,その気になっている君よりは,計算にかけては無知である者のほうがもっとうまく偽りを言うことができるだろうか。いやむしろ,無知な者は,偽りを述べるつもりはあっても,ひょっとしたはずみで,心ならずも真実を述べることがままあるかもしれないが,君のほうは,知者なんだから,偽りを言おうと望む以上は,いつでも同じように偽りを言うことができる,というわけかね?」
ヒッピアス「そうだ,君の言う通りだ。」(366E)

本対話篇の主要なテーマである「偽り」について最も具体的に述べられている部分だと思います。無知であれば,偽ろうと思っても心ならずも真実を述べてしまうことがある,よって偽ることができるのは知者である,というくだりが印象的です。

ソクラテス「それなら同じ人間ではないか,計算に関して偽りと真実を述べる能力を最も多く備えているのは。そしてそれは計算に関して優れている者,つまり計算家ということだ。」(367C)

ソクラテス「では判ったね,同じ人間が,これらのことに関しては偽りの人でも真実の人でもあって,真実の人が偽りの人より優れているということは少しもないのだ,ということが。なぜなら,それらはおそらく同一人物であって,君が先ほど考えたように全く反対であるというわけではないのだからね。」(367C)

「同じ人間が偽りの人でも真実の人でもある」という部分は非常に面白いです。直感的には,その人が嘘 (偽り) を言う人間なのか,が問題という気はしますが,どうなのか。
逆説的ですが,能力や知識がある人は,偽りを言うことは少ない,という先入観というか,根強い観念のようなものを自分の中に発見したような思いです。この対話の場でも,その観念は共有されていると思われる一方,ソクラテスはそれをこそ掻き回してきているという気もします。
この後,ソクラテスがヒッピアスの持つ能力や持っているものなどを褒めつつねちねちと言う展開が続きます:どんな場合に真実の人と偽りの人は別なのか?しかし言うことはできないだろうね,そんな場合はないのだから,とか。

ヒッピアス「ソクラテス,君はいつもなにかこんな風な議論をひねり出すね。そして,議論のいちばん厄介なところをとり上げては,それをしっかりとつかまえて,こま切れにしてつつき廻し,議論が対象としていることがらの全体で議論を戦わせることをしない。」(369B)

何だか,『ヒッピアス(大)』でもそっくりなことを言っていたような。ソフィストからの悪口としてこう描かれていますが,ソクラテスの対話の特徴がよく表れています。
この後,ソクラテスは,アキレウスが偽りを言っていることを指摘します。

ヒッピアス「それは君の考察の仕方がよくないからだ,ソクラテス。なぜなら,アキレウスが偽って言っているその偽りだが,彼がそういう偽りを言うのは明らかに企みによるものではなく,心ならずもそうしているのだが,しかしオデュッセウスのほうの偽りは,彼の意図であり企みから出たものだからだ。」
ソクラテス「君は私を騙しているね,なんということだヒッピアス。そういう君自身もオデュッセウスを見習っているではないか。」
ヒッピアス「決してそんなことはない,ソクラテス。君は何を言いたいのだ,また何をもとにしてそんなことを言うのだ?」(370E)

急にソクラテスが激高?してヒッピアスが戸惑いますが,一つには前に意図して偽る人の方が心ならずも偽る人よりも優れていることになったので,オデュッセウスの方が優れていることになる,ということになり矛盾する,というのがあると思います。もう一つは実際にアキレウスの方も策謀を巡らして偽りを言う場面があるということでその場面を持ち出します(それは省略)。

ヒッピアス「でもどうして,ソクラテス。意図をもって不正をなし,意図的に策謀をめぐらして悪事を働く者が,心ならずもそうする者より優れているなどということが,どうしてありえようか。後者には寛大な態度が示されるというのに。つまり知らないで不正を働くとか,偽りを言うとか,その他の悪事を行うような場合にはだね。また法にしても,たしかに意図をもって悪事を働いたり偽りを言ったりする者に対しては,心ならずもそうする者以上に,はるかに厳酷なのだ。」(371E)

本対話篇のヒッピアスは,『ヒッピアス(大)』のヒッピアスに較べると,常識人という印象を受けます。ここで言っている言葉も常識的な内容だと思います。
ここでソクラテスが突如本気モードに突入します(長い演説調の語りが暫く続く))。

ソクラテス「つまりこの私には,ヒッピアス,全く君の言っていることは正反対であるように思えるのだ。すなわち,人々に危害を加えたり,不正を働いたり,偽りを言ったり,欺いたり,過ちを犯すなどのことを意図的にやって,心ならずもそうするのではないような人は,不本意ながらそうする者よりも優れている,とこう思われるのだ。そうはいえ,時にはそれと正反対に思われることもあり,この点では私の意見がふらついているのだ。それが,私の知らないためであることははっきりしている。」(372D)

これまでの命題が繰り返されますが,ソクラテスは自身の意見がふらついているとも言います。ソクラテスらしい率直さだと思いますがこれは最後にも言われます。

ソクラテス「まあ,そう言わないでくれたまえよ,ヒッピアス。でも故意にではないのだよ,私がそうするのは。故意にだとしたら,私は知者で腕利きの人間のはずだからね,君の論法で行けば。いや,それは心ならずもそうなったのだ。」(373B)

ヒッピアスが,ソクラテスは議論の中に混乱を引き起こすのだと困惑を述べた際のソクラテスの返しです。嫌味っぽい感じで,本対話篇のソクラテスは比較的印象がよくありません(笑)。
この後ソクラテスは「よい走者」と「悪い走者」を例に出し,故意に遅く走る者と,心ならずも遅く走る者を比較したり,他の競技にも広げ,そして体つき,声,視力などにも当てはめますが,結局同じ議論の繰り返しです。

ソクラテス「それなら,一言で全体をまとめると,例えば耳でも,鼻でも,口でも,その他どんな感覚器官でも,すべての場合において,心ならずも悪しき行為をなすものは,劣ったものであるという理由で,所有するに値しないものであり,一方,故意にそうするものは,優れたものであるということで,所有に値する,とこういうわけだ。」
ヒッピアス「うん,そのように思われる。」(374D)

耳や鼻が心ならずも偽るとか,故意に悪しき行為をなす,というのはあまり実感がわきませんが,結論は同じです。
…実感がわかない,というのは寧ろ何かのヒントかもしれません。この場合,耳や鼻については「性能がよい」と言った方がしっくり来る気がします。それは真実とか偽りという,何かの意思によって行為に意味付けされるものではない,それはただそれで機能を果たすものである,という感じがします。

ソクラテス「ところで,われわれの魂がよりすぐれたものとなるのは,それが心ならずも悪事をなし,過ちを犯す場合よりは,むしろ故意にそうする場合ではないかね。」
ヒッピアス「しかし,それでは恐ろしいことになろうよ,ソクラテス。もし,故意に不正をなす者のほうが,心ならずもそうする者より優れた者になるとしたら。」
ソクラテス「でもとにかく,これまでの議論からすれば,彼らは明らかにそうなるように思えるのだ。」
ヒッピアス「しかし,この私にはそうは思えない。」(375D)

珍しく(?),私もここではヒッピアスに賛同します。故意に悪意をなす人の方が魂がより優れたものになる,というのは常識的に考えればどう考えても間違っているように思えます。一方でこれまで同意しながら対話で導かれてきた帰結であることも確かです。
この後道具や魂についても,故意に過ちを行うほうが心ならずも過つよりも優れていると言われます。

ソクラテス「したがって,不正を故意になすというのは善い人間のなしうることであり,心ならずもそうするのは悪い人間のすることだ,ということになるね―善い人間は善い魂を持っているとする以上はね。」
ヒッピアス「うん,善い魂を持っていることは確かだ。」
ソクラテス「したがって,故意に過ちを犯したり,恥ずべき不正なことをなしたりする者というのは,ヒッピアス,かりにこういう人間がいるとしたら,それは善い人間をおいて他にないということになるだろう。」
ヒッピアス「どう見ても,ソクラテス,その結論については君に同意できないね。」
ソクラテス「それはそうさ,言っている私でさえ自分に同意できないのだからね,ヒッピアス。でも,われわれが試みてきた議論によれば,現にそのような結論になってくるのは避けられないのだ。しかし,先ほども言ったことだが,私は,この問題については,上へ下へと考えがふらついていて,一刻も同じ見解をもてないでいるのだ。考えがふらつくのが私は他の普通人のことであれば,べつに驚くほどのことでもない。だが,知者であるあなたがたまでもふらつくようなことにでもなれば,それはもう,われわれにとっても恐ろしいことだ―君たちのもとへ出掛けてきても,そのふらつきから解放されないわけだからね。」(376B)

ということで再び,考えがふらついていて,自分でもこの結論に同意できない,と言います。自分はそれでよいのだとも言います。知者 (=ソフィスト) はそれではダメだとも言います。ここで本対話篇は終了します。

以上,本対話篇では,最後まで偽りの人 (故意に過ちを犯す人) は真実の人であり優れた人である,という結論は反駁されずに終わります。
さて,この点について自分なりに少し思った所をまとめます。

  • 真実を知る人こそが,故意に偽る「ことができる」,そういう能力がある,というのは確かだと思います。しかしこれをもって,真実の人=偽りの人,となるのだろうか?真実を語り得る人は,同じ確からしさを以て,偽りを語ることもできるでしょう。どちらを語るかは,その人が真実を知っているかどうかとは,直交 (独立) しているように思われます。優れた医師は,最善の治療をする能力があるからこそ,最悪の (わざと失敗する) 治療の能力もあると思いますが,どちらを選ぼうとするかは医師としての能力とは直交 (独立) しているように思われます。ソクラテスの論法は,2次元直交座標を1次元に射影して (技術的な (モノであれば性能的な) 次元とでも言えるでしょうか),大小を比較しているような印象があります。もう一方の次元に射影すれば (倫理的な次元とでも言えるでしょうか),「正か不正か」というものが得られるように思います。正しい人は真実を語り,不正な人は偽りを語るのでしょう。
    付記すると,心ならずも偽りをなす人は,故意に偽りをなす人よりも,(技術的な次元で) 能力が低いだけということが言えると思います。倫理的な次元での大小は関係ないのです。
  • 有体に言って,「故意に過ちを犯したり,恥ずべき不正なことをなしたりする者は善い人間」という「善」はプラトンが他の著作も通して追求している「善」ではないと思います。真実を追い求めることが「善」ではないのか?「善い人間」とは,故意に偽りをなすことができる時であっても,真実に背かない人のことではないのか?
    例えば『国家』では,「我々が語ったような者になるべき人々は…自然的素質のなかにこういう点がなければならない。偽りのなさ、すなわち、いかなることがあっても、けっしてみずからすすんで虚偽を受け入れることなく、これを憎み、そして真実を愛するという点だ」(485C) とソクラテスに言わせています。

ということを思ったりしましたが,当然このようなことは他の対話篇でプラトン自身が言っているわけで,どうも掌の上で遊ばされている感が否めません(汗)。実際にソクラテスに反論した人はエネルギーを使っただろうなと実感しました。そういう意味で本対話篇は,短いですが特徴的で面白かったです。

プラトン『ヒッピアス(大)』メモ

プラトン『ヒッピアス(大)』((プラトン全集 (岩波) 第12巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,ヒッピアスがアテナイを訪れた時のソクラテスとの対話で,この2人以外に誰も出てこないというプラトン対話篇としては比較的簡素な設定です。
前半では,ヒッピアスが著名なソフィストでボロ儲けしていること,スパルタ (ラケダイモン) では何故か受け入れられないことなどが話されます。そしてソクラテスが,ある知り合いから「<美>とは何か?」と問われて行き詰まってしまったということを話し,同じ質問をヒッピアスにぶつけます。このテーマがその後ずっと最後まで続きますが,ヒッピアスは「何が美しいか」ということばかり語り (例えば「美しい乙女である」とか),噛み合いません。結局お決まりのアポリア (行き詰まり) に陥り,対話は終了します。
但し,本対話篇はアポリアというよりは,ソフィストの愚かさを浮かび上がらせるためにソクラテスがいちいちヒッピアスの説を反駁して,袋小路に追い詰めたという印象はあります。本作は明らかに初期対話篇と見られていますが,その辺りは他の初期対話篇とはちょっと異なるかもしれません。最後は敵対的な終わり方をします。
なお本対話篇は,偽作の可能性があると研究者から考えられているようです。個人的には,後述する「視覚と聴覚を通じての快楽」が美であるという定義の吟味など,非常にプラトンらしいとは思いましたが。
副題はそのもの,「美について」。

以下,読書時のメモです。

ソクラテス「ところが他方,あの昔の人たちときたら,その唯一人として報酬として金銭を要求するのが妥当などとけっして考えはしなかったし,また雑多な群衆の間で自分の知恵を披歴してみせるべきだとも思わなかった。そのように彼らはおひと好しで,金銭に多大な価値があろうなどとは気づきもしなかったのです。これに引きかえ,いま言ったご両人は,二人とも,他の職人たちが何であれそれぞれの技術でかせいでいるより多額の金銭を,その知恵によってかせいでいるのです。それにまたこの人たちよりもっと前にプロタゴラスがそうしました。」(282C)

昔の人は大衆にソフィストの術を教えても,報酬として金をとらなかったが,対話相手のヒッピアスを始めゴルギアス,プロディコス,プロタゴラスは大金を稼いている,ということが言われます。ヒッピアスは自分たちの技術が昔の人より優れているから多額の報酬を貰うのだと言いますが,むろんソクラテスは皮肉のつもりでしょう。『弁明』では,ソクラテスは何かを教えることがあっても報酬を一切受け取ったことがないと言われています。

ヒッピアス「それというのも,ソクラテス,ラケダイモン人にあっては,法律をみだりに改変したり,あるいはまた慣わしに反して子息の教育することは,父祖伝来のしきたりではないのでね。」
ソクラテス「なんですって?ラケダイモン人にとっては,正しい行ないをせず,間違ったことをするのが,父祖伝来のしきたりなのですか?」(284B)

ヒッピアスが,ソフィストとして金銭をかせいでいるが,ラケダイモン(スパルタ)人からはあまり稼げなかったといいます。それに対してソクラテスが相当あおっていくやり取りが続きますが,自覚しているのかいないのか,柳に風といった感じで乗ってきません。ヒッピアスは,法習(法秩序)に合わなかった,と言っていますが。

ソクラテス「実はごく最近のことなのですが,ある人がですね,あなた,わたしがある議論において,あるものを醜いとして非難し,あるものを美しいとして賞讃していたら,何かこんなふうな調子で,きわめてぶしつけに質問をしてきて,わたしを行詰りにおとしいれたのです。「ねえ,君は」とその男は言うのでした,「ソクラテス,どういうものが美しく,どういうものが醜いかを,いったいどうして知っているのかね?というのは,さあ,<美>とは何か,君は言うことができるかね?」と。そしてわたしは自分の至らなさのために行詰ってしまい,彼に適切な返答をすることができなかった。」(286C)

ヒッピアスが「ひとが若いうちにそれを業とすれば最も評判の高い人となるような,そうした美しい営みとはどのようなものか」(286B) という物語を人に聞かせたという話をした後で,上記が言われます。評判を得るのは美しいこと,という部分にソクラテスが噛みつかないはずはありません。
この後ずっと,この「ある人」の虎の威を借る形で,「この彼ならこう質問する」という形で,ソクラテスがヒッピアスに迫る場面が続きます。後に出てくる描写からも自明なことですが,これはソクラテス本人です。

ヒッピアス「すると,ソクラテス,そういう質問をする男は,ほかでもない,何が美しいかを聞くことを要求しているのだね?」
ソクラテス「わたしにはそうとは思われませんね。そうではなく,美とは何かを聞くことを要求しているのだと思います,ヒッピアス。」(287D)

本対話篇は結局,これに尽きるという気がします。「何が○○か (○○という性質か)」ではなく「○○とは何か」というのを追い求めようとするのは,プラトン対話篇ではお馴染みです。本対話篇でのヒッピアスは,この趣旨を理解していない人として一貫して描かれています。

ソクラテス「するとさらに,これにつづけて彼は言うでしょう―彼の性格から推して,わたしにはほぼよくわかっているのです―,「ねえ君,では美しい土鍋はどうかね?するとこれは美ではないかね?」」
ヒッピアス「ソクラテス,いったいそいつは誰なのかね?おごそかな問題に,かくもくだらないものの名をあえて口にするとは,実に教養のないやつだ。」(288C)

ここの「美しい土鍋」は面白い部分です。元々ヒッピアスが「美しい乙女こそが美なのだ」と言ったことに対するソクラテスの反駁の中の1コマですが,土鍋は他の何かの対話篇でも出てきたような気がします。何にしても,他の対話篇同様,「美しいものが,それ (を分有すること) によって美しくあるところの美」,いわばイデア的なものをソクラテスは追求しているということが分かれば,(ここに限りませんが) ヒッピアスの言う美の定義は一蹴されることはすぐ分かります。

ソクラテス「それならさあ,よく見てください。はたして<ふさわしいもの>とは,こういうもののことをわれわれは言うのですか?もしそれがそなわるなら,何であれそれがそなわる対象のそれぞれのものを美しく見えさせるもののことですか,それともじっさいに美しくあらしめるもののことですか,あるいはそのいずれでもないのですか?」
ヒッピアス「少なくともぼくには,美しく見えさせるものだと思われる。ちょうどひとが着物なり靴なり似合ったものを身につけていると,たとえおかしな姿のひとでも,より美しく見えるようにね。」(293E)

プラトンの他の対話篇を読んでいると,見えたり思われたりするものが「そのもの」であったためしはなく,ここでもヒッピアスが言うような「美しく見えるものが美」というのは却下されます。
美をテーマとした対話篇は,『パイドロス』などもありますが,良くも悪くも本対話篇は対話相手がソフィストであることがその内容を強く特徴づけていると思います。あまり深まりません。

ソクラテス「視覚と聴覚を通じての快楽が美しいのは,このゆえに,つまりそれが視覚を通じるがゆえにではないだろうからね。なぜといって,もしこのことがそれが美しくあることの原因だとしたら,もう一方の,聴覚を通じての快楽のほうは,けっして美しくはないだろうからだ。」(299E)

本対話篇で提案される<美>の定義はいくつにも変遷します (それは省略) が,「視覚と聴覚を通じての快楽」という定義の吟味が一番歯応えがあります。
見た目や聴き心地が善いものが<美>である,というのは割と直感的だと思います (勿論プラトン一流の<美>の定義とは実際は遠いわけですが)。それを,
「見て快いもの,聴いて快いものはそれぞれ美しい」
→「(全ての快楽ではなく)視覚と聴覚を通じての快楽が美,ということはその2つ両方のみに共通して随伴するものがある」
→「視覚と聴覚それぞれ(のみ)に随伴するものが美,ではない」
→「視覚と聴覚の快の両方に随伴するものは美だが,視覚と聴覚それぞれの快に随伴するものは美ではない」
→「前に仮定したこと:見て快いもの,聴いて快いものはそれぞれ美しい,に反する」
という順で,「視覚と聴覚を通じての快楽」という<美>の定義が否定されます(ここに書いたまとめは,私の理解によるまとめで本文の構成とは異なりますし,間違っているかもしれません)。奇数と偶数という例で,それぞれとしては真でも両方としては偽となることがありうる,という話も出てきて面白い部分です。

ヒッピアス「けれども,ソクラテス,君はどう思うのかね,こうしたことの一切合財を。これらはまさに,さっきぼくが言っていたように,細かく切り裂かれた,言論のそぎ屑であり裁ち屑ではないか。それよりむしろ,ああいうことのほうが美しくもあり,大きな価値もあることなのだ,―法廷なり政務審議会なり,その他論議がその前で行なわれる何か公共の機関なりで,申し分なく立派に弁論を駆使し,聴き手を説き伏せたうえで,己れの身の安全や自己の財産や友の身の安全という,勝利者への褒美のうちでも最小ではなくて最大の物を携えて,立ち去ることができるということのほうがね。」(304A)

最終盤で,ヒッピアスの化けの皮が剥がれたというか,ついに本音が出ます。ソクラテスの吟味を屑呼ばわりし,法廷等での議論に勝ち,自身や友の身の安全や財産を勝ち取ることの方が価値があると言います。ここは『国家』や『ゴルギアス』を彷彿とさせます。
まあ本対話篇の流れを踏まえると,気持ちは分かるという気もします。本対話篇は他の対話篇と比較しても,ソクラテスの一方的な土俵という印象はあり,ヒッピアスに良いところがありません。しかし現実にはソフィストとして大金を稼いで自他共に「勝ち組」と認められているという自負があるはずで,それは相手の思惑のみを相手にすればよいことなので,ソクラテスが言うあれこれは枝葉末節であって本質的ではない,ということかもしれません。
それに対するソクラテスは…?

ソクラテス「「しかし君は」と彼は言うでしょう,「誰にせよ,ひとが言論なり,その他の何らかの行為なりを美しく営んでいるかいないかを,どのようにして知るのだろう―肝心の<美>を知らないというのに。そんなていたらくでも,君は死ぬより生きているほうがましだと思うのかね?」と。」(304E)

ヒッピアスの反撃に対して,ソクラテスは直接反論はしません。こういう対話ではアポリアに陥ってヒッピアスのような人の議論に踏みにじられ,一方で家に帰れば「彼」から「何であるか」も分からずに弁論を駆使するのかと罵詈雑言を浴びせられる…と自分を嘆いてみせます。
しかし「彼」の言葉を借りて,そんなことで生きているほうがましか?と決然と言います。
こういう所は,倫理思想という見方もできるかもしれませんが,「論理的」という印象を個人的には持ちます。論理的とは,(論理学的な観点とは異なりますが) ある言論の1つ1つの要素を決しておろそかにしない,本当でないことを自分に許さない,という態度である,という言い方もできるのかなと思います。レンガを積んで壁を作っているようなもので,1つでも抜けがあればそこから崩れてしまうように,「○○とは何か」という根本的な概念を軽視していてはその組み合わせである世の中の真理を語りえない,とソクラテスは言っているように思います。そこはソフィストたるヒッピアスとは平行線なのでしょう。

ということでメモは以上。
本対話篇は,プラトン初期対話篇らしい,「○○とは何か?の追求→アポリア(行き詰まり)」という流れが分かりやすい作品の1つだと思います。また,典型的なソフィストの像と,それに対するソクラテス (というかプラトン) の立場というのも分かりやすいと思います。