プラトン『ミノス』メモ

プラトン『ミノス』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,割と珍しく?特に設定がありません。冒頭からいきなり,ソクラテスと「友人」との対話が始まります。この友人が何者かも不明です。筋書きは,初期対話篇などで典型的なパターンで,「~とは何か」ということを対話を通じて明らかにしていこうとします。
その中で過去のギリシアの王について語られ,立派な法律を定めた優れた王として,本対話篇のタイトルである,ミノスのことが語られます。対話相手ではない人物がタイトルになっている,珍しい対話篇です。
副題は「法について」。

ソクラテス「法 (きまり,習俗) というのはわれわれにとってなんであるのかね。」
友人「法 (きまり,習俗) といってもいろいろあるが,君の尋ねているのは,そのうちのどんな法のことかね。」
ソクラテス「なんだって?法と法との間に,法であるというまさにその点においてなにか相違があるのかね。」(313A)

という冒頭から始まります。友人は,例えば民法と刑法 (当時あったのかは知りません) みたいなことを言ったつもりなのでしょうか?それに対してのソクラテスの言葉を見ると,「ははあ,例のパターンだな」と思わずニヤリとしてしまいます。つまり,「何が法か」ではなく「法とは何か」,を明らかにしていこうとするソクラテスと,噛み合わない相手との対話,というパターンかなと思わされます。
なお,「法 (きまり,習俗)」とあるように,いわゆる法律に限らないのだろうと思います。ギリシア語は νόμος (ノモス) です。

ソクラテス「法 (きまり) と法との間には,なんら相違はないだろう,いや,むしろみな同じなのだ。つまり,それらの各々は同じように法であって,ある法はいっそう法であり,ある法はいっそう少なく法であることはないのだ。そういうわけで,そのもの自体を,つまり全体としての法がなんであるかをぼくは尋ねているのだ。」(313B)

法と呼ばれるものの,共通部分を見ている感じは,なんとなく初期対話篇を思い出します。

友人「それなら,法 (きまり) とはきめられていること (=一般に認められていること) でないとしたら,ほかの何かね?」
ソクラテス「すると言 (ことば) もまた君には言われているものだと思われるのかね,あるいは視覚 (見えること) というのは見られているものであり,聴覚 (聴こえること) というのは聴こえているものなのかね。」(313B)

という友人の言葉に対するソクラテスの応答から,「法とはきめられたものではない」ということになります (日本語では紛らわしいですが,「きめられた」というのは完了ではなく受動なのが重要なところです)。
ここは結構唸らされたところで,ソクラテスの言葉を読むと,法というものが何か能動的なものであると感じさせます。普通は友人が言うように,法というのは決められた,静止したものだと思ってしまいそうですが。視覚や聴覚のような,ある感覚的なものを法と言っている?これが違和感でもあり新鮮でもあります。ただこの辺りは,翻訳ということもあってどれだけプラトンの言葉通りに理解できているかは,分かりません。

ソクラテス「もし誰かがわれわれに,今言われたことについて次のように尋ねたとしよう,「見られるものは視覚によって見られると君たちが言う場合,どのようなものとしての視覚によって見られるのか」と。われわれはその人に,両眼を通して事物をあきらかにするものとしての感覚によって,と答えたであろう。…もしその人がわれわれに次のように尋ねたとしよう,「きめられているものは法 (きまり) によってきめられるのであるから,どのようなものとしての法 (きまり) によってきめられるのか。それはある種の感覚によってなのか,それとも説明によってなのか,…それともそれはある種の発見によってなのか」」(313C)

ここの言い回しもプラトンらしさを感じるところです。先ほどの引用箇所で言われたように,法とは「A によって B」の A 側とされたので,ではどのようなものとしての A によってなのかということになります。で,それは発見である,と言われます。
法を作る,何かきまりを作る,ということは一体何でしょう。何らかの事実が発生して,その時の対応を一定のものにする,つまり入力に応じた出力を決める,関数を定義するようなもの,といえるのかもしれません。関数というのはあくまで自分のイメージですが。うまい関数を定義できることが,発見,なのでしょうか。

この後,友人:法とは「国家が議決したものであり,票決されたものである」→ソクラテスに「議決のうち,あるものは有用であり,他のものは有害ではないか」「法は害をなすことはないのではないか」と反駁される場面があります。

ソクラテス「そこで,法を考えるに当っては,なにか美しいものについて考えるのと同じようにしなくてはならず,また,善いものとしてそれを求めなければならない。」(314D)

ソクラテス「法の志向が実在の発見にあることに変りはないが,思うに,人間がいつも同じ法を用いるとは限らないとすれば,それは法の志向するもの,つまり実在を人間はいつも見出し得るとは限らないということだ。とはいえ,さあ,われわれは検討してみようではないか,はたしてこれからことがはっきりしてくるかどうか。すなわち,いったいわれわれはいつも同じ法を用いているのか,それとも時によって別の方を用いているのか。また,われわれすべてのものが同じ法を用いるのか,それとも,人によって別の方を用いるのか。」(315B)

実在,というのは多分不変なもので,イデアと同じ意味でしょうか。なおこの少し前にソクラテスが,「法は思いさだめられたもの (思いなし) である」「真なる思いなしというのは,(思われた通りに) 事実あるものの発見」「してみると法において志向されているのは事実あるもの (実在) の発見」と言われていました。

この直後に,友人による,犠牲の例が離されます…人間を犠牲にすることが,我々の習俗や法にはないが,民族や時代によってはそれが法にかなったことである (あった) と。でもソクラテスは違うことを念頭に置いていたようで,

ソクラテス「君が思っていることを君流に長々と話し,ぼくもまたぼくでそうする限り,思うに,いつになっても決して話がかみ合うことはないだろう。」(315D)

と言われてしまいます。「~は何か」を追求する前期対話篇でよく見られた光景です。なんにせよ,友人が言った犠牲の例は,ソクラテスにとって的を射ていなかったようです。

ソクラテス「さあ,それでは君は認めるかね,正しいことが不正であり,不正なことが正しいのかということを。それとも正しいことは正しく,不正なことは不正であるときめるかね。」
友人「ぼくはだね,正しいことは正しく,不正なことは不正だときめるね」(315E)

いきなり何を言い出すんだという感じですが,これぞプラトン対話篇というところです。

友人「われわれは始終,法律をあっちへ変えたりこっちへ変えたりして正反対に変更している事実に思いを馳せると,僕は信じることができないのだ。」(316B)

これは多分当時の一般的な疑問なのかな,と思います。また現代でも,例えば与党と野党で賛否がはっきり分かれるような法案があったりするので実感があります。
理想的な法とは変える必要がない万能なもので (とプラトンは考えている),それを変えるというのは,改悪にしかならないのだと思います。ただ,そういう法は無限遠みたいなもので,現実に本当にそういう状態になることはない,あったとしても時間等色んなパラメータによって静止しない,という気もします。それを常に無限遠にできるだけ近づけるのが,人間 (政治家) の精一杯の智慧という気もします。

ソクラテス「君は今までに病人の健康について書かれたものを見かけたことがあるかね。」
友人「あるとも。」
ソクラテス「それでは,その書かれたものがなんの技術に関係するものなのか君は知っているか。」
友人「知っているとも,医術に,だ。」
ソクラテス「では君はそれらについての専門の知識をもっている人を医者と呼ぶかね。」
友人「そう。」
ソクラテス「さて,それらの専門的知識をもっている人たちは,同じことについては同じことを認めるか,それとも人によって認めることがちがうのかね。」
友人「彼らは同じことを認めると思うね。」
ソクラテス「彼らが知っていることについて同じことを認めるのはギリシア人同士だけなのか,それとも異国の人だって自分たちの間でも,またギリシア人との間でも同じことを認めるのか」
友人「おそらくギリシア人も異国の人も,知っている人々が自分たちお互いの間で認めあってきめていることは同じである,というのがしごくとうぜんのことだろう。」
ソクラテス「適切な答えだ。そしてさらに,いつもそうなのではないかね。」
友人「そう,いつもそうだということにもなる。」(316C~D)

長く引用しましたが,プラトンが言おうとする「法とは何か」の象徴的な部分がここなのかな,と思いました。
この後,医者が書物にしたためるのは,「医療についての法律」だと言われ,農業,園芸,料理なども同様だと言われ,より一般的に,知識を持っている者によって書かれたものはそれに関する法律であると言われます。そして同様に国政に関して書かれたものが (いわゆる) 法である,ともソクラテスは言います。

ソクラテス「したがって,もしわれわれがどこかで法規をいろいろと変える人に出会うなら,われわれはこのようなことをする人を知識ある人と言うだろうか,それとも知識のない人だと言うだろうか」
友人「知識のない人と言う。」(317B)

これがプラトン一流の「法」の捉え方かと思いました。前の長い引用も合わせると,つまり技術であり,知識にもとづくものであり,不変であると。自分の実感としては,時とともに変えるべきものもある,という気もしますが,そこは変わらない「実在」を追い求める理想とするプラトンなので,さもありなんといったところ。

ソクラテス「してみると,さきにわれわれが法はあるもの (有,実在) を発見することなのだということで意見が一致したけれども,あれは間違っていなかったわけだ。」(317D)

この「法は発見である」というものは,序盤にも出てきました。「関数定義みたいなものか」ということをそこで述べましたが,不変性などもそれなら満たします。とはいえちょっと分かっていないです。埋もれている真理を発見する,発掘する,というような理解でもよいのでしょうか。

ソクラテス「すると,誰がこれらの人々の善き王たちであったか君は知ってるかね。ゼウスとエウロペの子供たちであるミノスとラダマンテュスだ,あの方は彼らのものだ。」
友人「たしかにラダマンテュスは,ソクラテス,正しい人であったが,ミノスの方はなにか野蛮な,始末におえぬ,不正な人だと言われているよ。」
ソクラテス「それはねえ君,アッティケの悲劇のお話だよ。」(319C)

ここで,ミノスの名が現れます。この後,ホメロスやヘシオドスによるミノスの賞讃が引用されていきます。なお余談ですが,ミノスはクレタ島にラビリンスを作った王で,そこに出てくるミノタウロスは,ミノスの牛,という意味らしいです。

ソクラテス「ホメロスは,ミノスが九年目にゼウスと会談し,あたかもゼウスが先生であるかのように,彼から教えを受けようとその許に通ったと述べている。ところでこの名誉,つまり,ゼウスから教育を受けたということを,ホメロスは英雄たちのうち,ミノス以外の誰にも与えなかったということ,これは驚くべき賛辞である。」(319C)

これの他にも色々と引用・言及がなされていますが,ホメロス (やヘシオドス) が,ミノスがゼウスに認められたと書いたことを以て,ミノスが善き王で立派な立法家である,というのも説得力がないように思いますが…。

ソクラテス「クレテでは,ミノスが定めたそのほかの法の中に,お互いに酩酊するまで会飲してはいけないということもその一つとしてきめられてある。しかも,彼がこれを立派なものだと認めて,これを自国民のためにも法規として定めたのだということは明白である。」(320A)

これは個人的には賛成ですね。ミノス素晴らしい。

ソクラテス「さて,ところでこの後,彼が次のようにわれわれに質問するとしよう,ではどうだ,立派な立法者であり,牧羊者であるものが魂に分かち与えて,それを立派にするものはいったいなんだねと。なんと答えれば,われわれ自身にとってもわれわれの年齢にとっても恥とならないかね。」
友人「それを言うことはもうぼくにはできないよ。」
ソクラテス「だが,しかしね,われわれ両人のどちらの魂にとっても恥ずかしいことだよ,魂の善し悪しが依存しているかの魂の内部のことを知りもせず,肉体に関することやそのほかのことを考察したことが明らかにされるならばだね。」(321D)

最終場面です。アポリアに陥っているようですが,「魂に分かち与えて,それを立派にする」ものが法である,ということのように思えます。勿論それが何か,は言えないと言われているわけですが。

メモは以上。『法律』篇の前哨戦のような軽いものかと思っていましたが,法とは何か,ということを考えさせられてなかなか面白い対話篇でした。

プラトン『クリティアス』メモ

プラトン『クリティアス』(プラトン全集 (岩波) 第12巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,『ティマイオス』の続きという設定です。ソクラテスに対して,ティマイオスによる宇宙の成り立ちに関する話の次に,クリティアスが 9,000 年前のアテナイと実在した (この「実在した」というのはあくまで対話篇内の文脈の話です) アトランティスに関する話をする,ということが『ティマイオス』篇で言われていました (27A)。あとで触れますが,この後でヘルモクラテスによる話も想定されており,本対話篇と『ヘルモクラテス』篇と合わせた3部作にするつもりだったことがうかがえます。
但し本対話篇は,途中で終わってしまいます。全集の解説では,これはプラトンの死による絶筆ではなく,構想に難があったため,『ヘルモクラテス』含め断念したのだと考察されていました。それは個人的には違和感を感じるところで,途中で投げ出すようなことをプラトンは本当にするのだろうか?とは思いますが,本対話篇より少なくとも『ピレボス』や『法律』の方が後に書かれたと専門家には考えられているようなので,それなら何らかの理由で断念したことになるのでしょう。
副題は「アトランティスの物語」。

以下は読書時のメモです。

ティマイオス「やれやれ,ほっとしたよ,ソクラテス,長い長い旅路を終えて一息ついている旅人のように,いまやっと<言論の旅路>から解放されたのだもの。」(106A)

ティマイオス「だから,これからも神々のご誕生にまつわる物語を正しく話していけますように,「神よ,薬のなかでも最善・最良の妙薬 <知性> をわれらにあたえたまえ」と祈るとしよう。そして祈りがすんだら,さきの申し合わせどおり,つぎの話はクリティアスにゆだねるとしよう。」(106B)

最初の引用のこのティマイオスの言葉で本対話篇が始まります。確かに『ティマイオス』後半のティマイオスの延々と続く話は長くて退屈ではありました。そして次の引用で,『ティマイオス』で言われていた話者の交代の宣言を明確に踏襲します。ここはもう明らかに『ティマイオス』の続きであり,プラトンの対話篇で,ここまで明確に他の対話篇を前提にした対話篇というのは珍しいと思います (尤も後期対話篇は非明示的にはいくつかある気もします)。

クリティアス「つまり,ティマイオス,神々のことを話題に取りあげて,人びとを相手にあれこれしゃべりまくるほうが,死すべきものどものことを取りあげて,われわれを相手にしゃべるより,「もっともな話だ」と思われやすいんだなあ。話の内容について聞き手がまったく無知,無経験の状態にあるというのは,それについてなにか話をしようとする者にとってはまったく好都合なことだし,それにまた,神々に関する自分たちの知識がどの程度のものか,われわれにはよくわかってもいることだしねえ。」(107A)

これは『ティマイオス』のティマイオスの話を読んでいると,実感するところはありました。自分もその部分は全然メモを残さなかったのですが,「もっともな話だ」というよりは,検証不可能で,結果疑問もないんですよね (現代の科学的な視点での疑問は別です。対話としては,という意味)。こういうのは仕事で誰かに説明するときなどでも同じという気がします。
この後も似たような弁解?が数度たとえを変えながら出てきます。クリティアスに言わせてはいますが,プラトン自身が自覚していたことなんだなと思うとちょっと可愛げがあります。

ソクラテス「もちろんですとも,クリティアス,なんでためらいましょう?大きな気持でお話をうかがおうということについてはね。それにまた,わたしどもは第三の語り手ヘルモクラテスにも,同じような寛大な気持でせっしなければなりますまい。」

ソクラテスは,クリティアスの躊躇にも,何の問題もないと励ましますが,同時に「第三の語り手」のヘルモクラテスにも言及します。これは明らかに『ヘルモクラテス』という対話篇が執筆段階で想定されていることを示していると思います。

クリティアス「では,なによりもまず,<ヘラクレスの柱>の彼方に住む人びとと,こちらに住むすべての人びととのあいだに戦がおきたと語り伝えられてから,まる九千年もの歳月がたっているということをお忘れなく。この戦の様子を,これからくわしくお話ししなければなるまい。
さて,話によると,この国 [アテナイ] は一方の側の軍勢の指揮をとり,しまいまで,この戦争を立派に戦いぬいたのだった。これに対して,相手方の軍勢はアトランティス島の王たちの配下にあったという。このアトランティスは,すでにお話ししたように,いまは地震のために海に没し,泥土と化して,これがこの国から彼方の海へと船出する人びとの航路をさまたげ,それいじょうの前進をはばむ障害となっているけれども,かつてはリビュアやアシアよりも大きな島だった。」(108E)

ここでアトランティスという名称が出てきます。ヘラクレスの柱,というのはジブラルタル海峡のことなので(註より),当時のアテナイでは地中海を抜けた先は全く別の未知の世界のようなものだったのでしょうか。地震で海没した,というのは『ティマイオス』で書かれていました。リビュア (アフリカ),アシア (アジア) よりも大きな島,というのは相当なものですね。具体的な島のスケールは後でも述べられます (引用はしていません)。
ここから具体的なアトランティスの描写が始まると思いきや,この後しばらくはアテナイを始めとした国の起りについて語られます。簡単にまとめると,まず神々が大地を地域別に分配しあった→そこの人間を導いた→(アテナイは)ヘパイストスとアテナが自分たちの土地として受け取った→しかしその業績は (大洪水があったこともあり) 途絶えてしまい伝わっていない→先祖の名前は辛うじて伝わっている…というようなことが述べられます。

クリティアス「さて,当時,アテナイにはさまざまな階層の市民たちがいて,それぞれ手仕事に従事したり,大地からの食糧生産に従事したりしながら,それぞれの暮らしをたてていたが,軍人階層のほうは,はじめから神々に縁のある人びとの手で [他の市民から] 分け離され,栄養をとったり教養を深めたりするのに必要なもののすべてを [他の市民から] 手に入れつつ,かれらだけで独自の生活を営んでいた。そして誰ひとりとして,いかなる財も私有することなく,すべてを全員の共有物とみなすとともに,食糧なども適量以上に要求して他の市民から調達するようなことはしなかった。このようにしてかれらは,昨日の会合で話された仕事,つまりわれわれの提案した <国守り> の問題をめぐって述べられたことがらを,あますところなく忠実に実践していたのである。」(110C)

まだアテナイについてですが,ここの内容は,明らかに『国家』第3巻あたりの守護者の私有財産を禁止すべしという部分を踏襲しています。もともと『ティマイオス』がその冒頭の会話から,『国家』の対話の翌日という設定と考えられるので,その内容が色濃く反映されているのは本対話篇も同じで「昨日の会合」というのはまさに『国家』のソクラテス,グラウコン,アデイマントスらとの対話のことでしょう。ただ,その『国家』で語られた理想国家をなぞっていればこそ,ここでの過去のアテナイの描写の真実味が損なわれている,という気もします。

ここから,いかにアテナイの国土が肥沃であったか,ということも入念に語られます。今でもそうだと思いますが,水などの資源や大地の恵みというのは当時としてはもっとクリティカルなことだったのでしょう。
またアクロポリスの説明もなされます。上階を軍人階層,坂の下には職人や農民が住み,軍人階層の人数は約2万人だったことなど。

クリティアス「かれらは,その肉体の美しさと精神のあらゆる面でのすばらしさゆえに,エウロペやアシアのすみずみにまで知れわたり,その当時の人びとのなかでもっとも名のとおった者たちなのであった。」(112E)

クリティアス「ソロンはこの物語を自分の詩作に利用しようと思って,そこに出てくるいろいろな名前の意味を調べているうちに,はじめにこれらの名前を文字に書きとめたあのエジプト人たちが,それらをいちど自分の国のことばになおしてから書いているのに気づいた。そこでソロンは,もういちど [エジプトのことばで書かれた] 名前の一つ一つを,その意味に注目しながら,わが国のことばになおして書きとめた。ぼくの祖父の手もとにあったのはじつはこの記録で,これはいまでもぼくの手もとにあるが,ぼくは子どものころ,これをすっかりおぼえてしまったというわけだ。」(113A)

「異国の者たちがギリシア名で呼ばれているのを聞いても,驚いてはいけません」と前置きして上の言葉が言われます。クリティアスの話というのは,ソロンがエジプトの神官から聞いた内容が元になっているのでした (『ティマイオス』22B~)。それはアトランティスの言葉?→エジプト語に直したもの (エジプトの神官) を,エジプト語→ギリシャ語に直したもの (ソロン) に基づいていると。つまりここでアトランティスの言語の問題が棚上げにされました。

クリティアス「さきほどぼくは神々の国土分配について,「神々は全大地を大小さまざまの地域に分配され,自分のために社と生贄を準備された」とお話ししたが,ポセイドンもまた同じようにしてアトランティス島を受け取りたまい,人間の女に生ませた自分の子どもたちを,この島のつぎのようなところに住まわせたもうた。」(113B)

ついにここからアトランティス島の具体的な描写が始まります。ただ描写については基本的に引用は省略します。
まず島自体の自然環境はポセイドンが整備したとしてその内容が色々言われます。またポセイドンが5組の双子の男の子を生んで,最年長の子の名前をアトラスとしたとか,それで島全体や周辺の海が「アトランティコス…」と呼ばれるようになったとか言われます。ヘラクレスの柱=ジブラルタル海峡の先の海といえばまさに大西洋ですが,その語源がこれだとしたら面白いです (ざっと調べたら,本対話篇より古いヘロドトス『歴史』などにもこの呼称が出てくるようですが)。

クリティアス「このようにかれらが莫大な富を所有し諸施設を完備しえたのは,かれらの支配権のゆえに海外諸国からかれらのもとに多量の物資が寄せられたからであるが,しかし生活に必要な諸物資の大部分をこの島でじかに産出しえたからでもある。なによりもまず,この島では硬・軟両質の地下資源がことごとく採掘された。」(114D)

ということで資源に恵まれていたということが分かりますが,他にも森林も家畜等の動物も香料も果実も,なんでもあったと書かれます。
また,当時は金につぐ貴重な金属である「オレイカルコス」という金属も採れたとあります (114E)。これは,もしや「オリハルコン」でしょうか?なお Perseus Digital Library を見るとギリシア語では ὀρειχάλκου (名詞形 ορείχαλκος ?) のようで,黄銅のことのようですが,勿論アトランティスのそれが今でいう黄銅だったかどうかは分かりませんね。

クリティアス「はじめに,かれらはむかしの中央都市 (メトロポリス) を囲む海水環状帯に橋をかけ,王宮に出入りする道をつくった。それから,はじめはポセイドンとかれらの先祖が居所を定められたちょうどその場所に宮殿を建てたのだが,これは,代々の王が先王からこれを承け継ぐたびに,先王をしのごうと力を尽していろいろな付属施設を整備したので,しまいにはその規模の大きさといい出来ばえのすばらしさといい,驚くほど見事な住まいに仕上げられていったのであった。すなわち…」(115C)

ここから実際に街というか国家の様子が色んな視点から描かれていきます。宮殿,水 (濠,水運),自然条件,徴兵,国家権力など。また全集の解説には,ここの描写を元にアトランティスの地形が図示されていたりします。
引用は全面的に省略していますが,ある意味ではこの部分が本対話篇のメインといえるでしょう。

クリティアス「当時のアトランティスの国々は量質ともにかくもすぐれた力をもっていたのだが,神はその力を一つにまとめられ,こんどは,このわれわれの住むアッティカへお移しになったのである。それは話によると,なにか次のような理由からであった。」(119D)

しかしいきなり,ここで「アッティカへ移った」と言われます。理由の部分は省略しますが簡単にいえば,神性によって保持されていた国の形が,人間が増えて人間的になっていった結果,という感じでしょうか。
ここは『国家』第8巻で,<優秀者支配制>が<名誉支配制>に変化していく過程に対応するのかな?と思った部分です。

ところがなんと本対話篇はこの直後,ゼウスが人々を懲らしめた…と語られている最中に急に終了します。

 

メモは以上。本対話篇は,現代にも語り継がれるアトランティス伝説の「原典」として,読み物として面白いものだと思います。実際に小説や映画 (やファミコンソフト (笑)) にまでなるほど人々を魅了した伝説の,2,400年ほど前にプラトンによって書かれた原典だと思うとワクワクします。そしてこれを,多少プラトンを読んで来た者なら,自ずから『国家』で描かれた内容と関係があるものとして読んでしまうところだと思います。

プラトンはアトランティスを「何のために」描こうとしたのでしょう。まず互いに戦争した片方として,9,000年前当時のアテナイも描かれましたが,そちらの方が『国家』の理想国を具体化したもののようにも思えます (自分側だし,『ティマイオス』の序盤 (26D辺り) でもそれはうかがえます)。しかし本対話篇の中断直前の「アッティカへ移った」という記述から,中断箇所の後で,アトランティスの国制やら何やらがアテナイ側に輸入されるという構想があったのかもしれません。アテナイを描くのに較べ,シムシティ (シムアース?) のように,全てを一から作れるという自由度がアトランティスにはあったと思います (といっても地理的にもなかなか説得力がある設定ですが)。

さて,プラトンは『ティマイオス』のソクラテスに,「立派な動物が,絵に描かれているとか…どこかでそれを見た人が,その動物の動くところを見たい,何かその体格からとうぜん期待されるものを発揮して競技を競うところを見たいと切望するようになる,といった場合がそれなのでして,わたしもまた,いまわれわれが話した国家に対して,それと同じ感情をいだいているわけです」(19B) と言わせています。その期待を受けて語られるアトランティスが,プラトンの理想国家の表象であることは間違いないと思います。

この対話篇が中断したのは,だからこそ,なのかもしれません。国家に関するプラトンの理想が,実装されて (現存したと描かれて) しまうと,少なくともそれは必要条件を満たしてしまいます。しかし『国家』で国家とともに描かれた「イデア」は,実装を拒絶したものだと思います。仮にプラトンが本対話篇で,理想を実装したものでは満足せずに,理想 (イデア) そのものを描こうとしたのなら,それはどうしても現実の国家として描けないもののはずです。もしかしたら SF の世界なら実現できたのかもと思ったりもします。そして実際,未完だったからこそ後世で時代に合わせた色んな実装が現れた,ともいえるので,プラトンも喜んでいるかもしれませんね。

プラトン『メネクセノス』メモ

プラトン『メネクセノス』(プラトン全集 (岩波) 第10巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,審議院帰りのメネクセノスとソクラテスの会話で,近いうちに戦死者のための追悼演説が行われるという話をメネクセノスがします。それに対して,ソクラテスがアスパシアという人から,彼女が起草した,ペリクレスが行った追悼演説の内容を聞いたことがあるというので,メネクセノスに促されてその演説を再現するという内容です。その演説の中身を手短に言えば,如何に外敵・内乱から本国を守ってきたかという戦争の歴史と,それを勝ち抜いてきた自分たちがいかに優れた民族であるかを示すものといった感じだと思います。
なのでメネクセノスとの対話は,冒頭とラストに少しあるだけで,ずっとソクラテスの口から一方的に演説の再現の場面が描かれるという,プラトン対話篇としては異色の内容です。演説の内容も,いつもプラトン対話篇で行なわれている「~とは何か」という追求が行われているわけでもなく,普通に追悼演説の内容を紹介しているという感じです。
副題は「戦死者のための追悼演説」。
以下は読書時のメモです。

ソクラテス:それにしても,メネクセノスよ,戦争で死ぬということは,いろいろな点でほんとうに結構なことであるようだね。というのは,たとえ貧乏人であっても,戦死すれば,立派で盛大な葬式をしてもらえるし,またたとえとるにたらぬ人物であっても,賢い人々の賛辞を獲得するのだから。それもその場の思いつきでほめるのではなく,長い時間をかけて演説の準備をしたうえでほめてくれるのだからね。(234C)

基本的には追悼演説 (それ自体なのか,語られる内容についてなのか) に対してはプラトンは反対の立場であると,この皮肉の交じったソクラテスの言葉の響きからは感じられます。次に続きます。

ソクラテス:彼らの賞賛の仕方ときたらそれはもう見事なもので,それぞれの戦死者について,真に当人の手柄であることもそうでないことも引き合いに出し,それを言葉をつくしてこの上もなく美しく飾りたて,もってわれわれの魂を魔術のように魅了するのである。そして彼らは,ありとあらゆるやりかたでこの国をたたえ,戦争で死んだ人をたたえ,われわれに先立つすべての祖先をたたえ,その上まだ生きているわれわれ自身をもたたえるものだから,その結果このぼくなどは,ねえ,メネクセノスよ,彼らにほめられてなんだか自分がすっかり偉くなったような気になって,そしてその度ごとに,聞きほれ,魅了されながら立ちつくすのだ,その場で急にもっと背が高くなり,もっと高貴で美しくなったように思ってね。(235A)

ここで,追悼演説の内容についてのプラトンの見方というか,揶揄が分かりやすくソクラテスによって語られています。後で実際に演説の場面が再現されますが,まあこういう内容で,そんなに読む必要がないかもしれません。

メネクセノス:では,もしあなたが演説をしなければならないとすれば,あなたはどんな話ができるのですか?
ソクラテス:ぼく自身が自分の力でしゃべるとなれば,たぶん何ひとつ言えないだろう。しかし実は昨日も,アスパシアがほかならぬあの戦死者のための追悼演説をしまいまでやってみせたのを,ぼくは聞いていたのだよ。…その一部は即席のものだったが,他の部分は彼女が以前に用意してあったものだった。それは,ぼくのみるところでは,ペリクレスが行なった追悼演説を彼女が起草してやった時のことだと思う。彼女は,その演説にのらなかった残りのものをつなぎ合せて,話してくれたのだね。(236A)

アスパシアとは,ソクラテスの「弁論術にかけて凡庸ならぬ女の先生」(235E) で,ペリクレスの演説 (脚注によるとトゥキュディデス『歴史』に伝えられているもの) の中身も考えていたようです。『ゴルギアス』などからすると,ソクラテスが,真実追求と反対に位置する弁論術を誰かに習っていたとも考えづらく,ここは創作ではと思います (史実は確認してませんが)。
以下,236D の途中からその演説の再現が行われます。

ソクラテス(演):私には,こう思われる―自然の順序に従い,彼らがすぐれた人々となっていった道筋をたどりながら,かれらをたたえなければならないと。ところが彼らがすぐれた人々となったのは,すぐれた人々から生をうけたからに他ならない。それゆえわれわれは,まず第一に彼らの生まれの良さをたたえよう,ついで第二に,彼らが享受した養育と教育をたたえよう。そしてそのうえで,かずかずの偉業をなしとげたその行為を明らかにしよう,彼らがいかに美しく,またいかに生い立ちにふさわしく,その偉業をなしとげてみせたかを。(237A)

ということが言われ,すぐれた祖先を生み出したのは,神々が愛した国だから…というようなことが後に続きます。何となく戦前の日本を連想します。

ソクラテス(演):さて,ある者はこの国制を民主制とよび,ある者は別の気に入った名で呼ぶ。しかし,真実には,それは民衆の賛同に裏づけられた《もっともすぐれた者の支配》なのである。われわれにはつねに王たちがいる。彼らは時には家柄によって,時には選挙によって,任につく。しかし国家の実権をにぎる者はほとんどの場合民衆であり,民衆が,その時々において最良と思われた者に,官職と権力を与えるのである。(238D)

少しだけ国制の説明があります。官職と権力を与えられるものとしては,「虚弱,貧乏,父親の無名といった理由で拒まれない」(238D),「規準となるのは賢者であるか,あるいはすぐれていると思われた者」(238D)といったことが言われます。
また,国制の源は,生まれの平等とも言われます。「むしろ自然における生まれの平等は,われわれをして法における権利の平等を求めさせ,徳と思慮に由来する名声のほかには,何ものによっても互いに他を服することのないようにさせているのである。」(239A)という辺りは,徳と思慮はともかくとして,生まれの平等,法における権利の平等などは,今の人権宣言としても通用しそうな先進的な内容という気がします。まあいずれにしても,演説だから聞き心地のよいことを言っているだけかもしれませんが。

引用は省きますがこの後,(1)ペルシアにおける侵略の歴史(マラトンはペルシアの大軍に攻められても負けなかったとか)→(2)サラミス(とアルテミシオン)の海戦→(3)プラタイアの戦…と延々と外敵との戦争の歴史が語られます。また平和が訪れた後は,羨望,嫉妬により不本意にもギリシア人と戦うことになったという,ペロポネソス戦争のことも語られます。
この辺りはむしろ,歴史の講義を受けているようでこれはこれで面白いです。サラミスの海戦,ペロポネソス戦争などは高校の世界史で習った記憶があります。そう思うと同じことをこの約2,400年の時を超えたプラトンの著作で読めるというのも感慨深いものがありますね。
しかし語り口は,自分たちが生粋のギリシア人であることを強調し,敵はバルバロイ (夷狄と訳されていた) であるなど,民族主義的な感は否めません。

ソクラテス(演):「われわれは,醜い仕方でなら生きながらえることができたとしても,汝らと汝らの後につづく者たちを恥辱にさらし,われわれの父親と祖先の全体を辱しめるよりは,むしろその前に美しく死ぬことの方を選んだのである。なぜならわれわれはこう考えるからだ―自分の血族を辱しめる者にとって人生は生きるにあたいせず,そしてそのような者に対しては地上にあっても,また死してのち地下にあっても,人も神も友となるものはひとりとしていないと」(246D)

醜い生き方をするくらいなら死んだ方がマシ,というここの内容は素のソクラテスが言うとしても全く不思議ではありません。しかし,祖先や国を礼賛する演説という文脈の中で言われると,微妙に胡散臭い印象になります。

ソクラテス(演):「およそひとかどの人物と自負するものにとって,自分の力によってではなく,祖先の名声によって,自分を尊敬される者にすることほどの恥辱はないのだ。」(247A)

ソクラテス(演):「古くから伝えられている《何ごとにも度を過すなかれ》という言葉は,名言であるとされている。事実それは真実を言いあてた言葉である。なぜなら,自分を幸福にするすべてのものを自分自身に依拠させているか,あるいはそれに近い心がまえの者,そして,他人に依存することなく,したがって他人の浮き沈みによって,自分の方も動揺せざるをえないというようなことのない者,そのような者にあってこそ人生を生きる準備はもっとも見事にととのえられているのであって,節度ある人とはまさしくその人のことであり,また勇敢にして思慮ある人とは,まさしくその人のことであるからだ。」(247E)

この言葉などはストア派のエピクテトスが言ったと思わせるような言葉です。国にとって,そういう人間は都合がよいということなのでしょうか。

メモは以上。追悼演説といっても,戦死者たちについて思いを馳せるというよりは,言葉巧みに国威を発揚するような内容になっていると思います。そういう面に疑問を感じたからこそ,プラトンが本対話篇を書き,ソクラテスに語らせた―さすがに普段の対話と違い過ぎるので,ソクラテスに語らせれば皮肉であることくらい分かるだろうと―という見方もできるかもしれません。

プラトン『イオン』メモ

プラトン『イオン』(プラトン全集 (岩波) 第10巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,「吟誦詩人」であるイオンが,ホメロスに関しては上手く語ることができるが,他の詩人については「居眠りをする」ほど全然語ることができないということを告白します。それに対してソクラテスは,イオンが技術と知識によってホメロスを語っているのではなく,「神がかり」によって語っているということを言います。イオンは技術を持っていると反論しますが,結局ソクラテスには,それは「ぺてん」であると言われてしまいます。
当時の詩人というものが,(あまねくそうだったのかは分かりませんが,) こういうふうに考えられているものだったのだな,というのが分かる内容です。神の意思が詩人の口を通して民衆に語られる,ということが言われ,「詩人狂気説」と補注で書かれていました。
副題は「『イリアス』について」。

ソクラテス:まさかエピダウロスの人たちの催す奉納競技 (仕合) には,吟誦詩人の競技もはいっていたというわけではないだろうね。
イオン:それが大いにそうなのです。しかも,それ以外に詩や音楽の競技もあったのです。(530A)

イオンという対話相手は,何だか面白そうな奉納競技に出ていた人物のようです。4年に1度のパンアテナイアの祭りも頑張ってくれとこの後ソクラテスに言われます。

ソクラテス:ところでね,ぼくはしばしば,君たち吟誦詩人に羨望の念をいだいたことがある。イオン,その技術のことでね。理由はこうだ,一方では,君たちがつねに身の飾りをととのえ,しかもできるだけ美しく見せるようにしても,それは君たちの技術にとって,当然のこととされているし,同時にまた他方では,多くの他のすぐれた詩人たち,とりわけ詩人たちの中でも第一級で神にひとしいホメロスと君たちがつき合い,たんにその詩句のみか,その考えをもすっかり学びつくすことが,その技術にとって必要とされているが,これは羨望に値することだからね。(530B)

吟誦詩人,というやや見慣れない用語は(ファンタジー系のゲームによく出てくる「吟遊詩人」と同じでしょうか),ホメロスのような詩人の言葉や考えを民衆に伝える役目を担っている詩人のことを指すようです。羽根付き帽子をかぶって竪琴を抱えているイメージ (個人的には)。

ソクラテス:君は,ただホメロスについてだけ,一目おかれるようなものをもっているのか,それとも,ヘシオドスやアルキロコスについてもそうなのか,どうかということだ。
イオン:後者については駄目なのです。ただホメロスについてだけなのです。だって,それでわたしには充分だと思われますから。(531A)

ソクラテス:さてそこで,君の主張はこうではないのかね,つまり,ホメロスも,また,ヘシオドスとアルキロコスとを含めた他の詩人たちも,彼らの語っていることがらは同じであるが,しかし語り方が同じというのではない,一方,ホメロスはうまく,それ以外の詩人たちははるかにまずく語っている,ということではないかね。
イオン:そうです,そしてそのわたしの主張は正しいということにもなります。(532A)

イオンは,なぜかホメロスについてしかうまく語ることができないと言います。ホメロスの方がうまく語っているから,自分はホメロスしか語れないと言います。

イオン:ソクラテス,わたしは,誰かがホメロス以外の他の詩人について人と話をしている場合には,気をとめることもないし,また,ちょっと気のきいたことを―それは何でもかまわないのですが―口ばさむこともできずに,そのまままったく,居眠りをすることになってしまいます。ところが,誰かがホメロスについて言及するや,わたしはすぐに目をさまし,注意を怠らず,口にする言葉に窮するということがなくなるのです―これはどうしたわけなのでしょうか。
ソクラテス:そのわけなら,推量は困難ではないね,君。むしろ,誰にも明白なことなのだ,つまり,君はホメロスについて,技術と知識を用いては語ることのできない人だということだ。なぜなら,もし君がこれのできる人だとしたら,ホメロス以外の他の詩人についても,語ることができるはずだからね。というのも,詩作の技術というものは,なにか全体としてあるものだからだ。それともそうではないかね。(532B)

ここで既に本対話篇の結論のようなことを言ってしまっています(特に結論が重要であるわけでもありません)。もし技術と知識に基づいて詩人を語っているのであれば,優れた詩人について語れるのなら劣った詩人についても語ることができるはずだと言われます。つまり,うまく語っているホメロスを語ることができるイオンが,ヘシオドスやアルキロコスについて語れないはずはないことになります。
まあ技術云々は別にしても,真似とか傾倒という意味では,誰か特定の詩人について語って他の詩人について語れない,ということがあってもおかしくはないかなという気もしますが。

ソクラテス:つまり,それは,技術として君のところにあるわけではないのだ,ホメロスについてうまく語る,ということはね (略) それはむしろ,神的な力なのだ,それが君を動かしているのだ。それはちょうど,エウリピデスはマグネシアの石と名づけ,他の多くの人びとはヘラクレイアの石と名づけている,あの石にある力のようなものなのだ。つまり,その石もまた,たんに鉄の指輪そのものを引くだけでなく,さらにその指輪の中へひとつの力を注ぎこんで,それによって今度はその指輪が,ちょうどその石がするのと同じ作用,すなわち他の指輪を引く作用を,することができるようにするのだ。(533D)

マグネシアの石,とはまさに磁石のことのようですね。この後もこのマグネシアの石の性質について続きますが,見聞録的というか,当時としては珍しい磁石を著書に記すことで人々に知らせる意味もあったのでしょうか。「神的な力」と並べているところが,片方は説明不能な自然現象を,他方は本来は人間の意思に基づくと思われる詩人の語りを,神に結び付けているという点で,案外この部分は本対話篇の本質的な部分かもしれません。

ソクラテス:すなわち,叙事詩の作者たちで,すぐれているほどの人たちはすべて,技術によってではなく,神気を吹きこまれ,神がかりにかかることによって,その美しい詩の一切を語っているのであり (略) 正気を保ちながらその美しい詩歌をつくるのではない。むしろ彼らが調和や韻律の中へ踏みこむときは,彼らは,狂乱の状態にあるのだ。(533E)

(前の引用でもそうですが) 技術に基づかないのであれば,何か思惑とか評判によって語るのか?といういつもの流れを想像していたら,そうではなくて,神的な力,神がかりである,ということになってちょっと意表を衝かれました。

ソクラテス:以上のようなわけで,神は,彼ら詩人たちからその知性を奪い,宣託を告げるようなものたちや神の意をとりつぐ聖なる人たちを召使として使用しているように,詩人たちをも召使として使用しているのであるが,その神の意図は,聴衆であるわれわれに,つぎのことを知らしめようとしているわけだ。(略) むしろ,神みずからがその語り手であり,神みずからが,彼ら詩人たちを介して,われわれに言葉をかけているのだ,ということをね。(534C)

詩人が神の召使で,神は詩人を通して人々に言葉をかけていると。プラトンがどこまで本気で考えていたのかは分かりませんが,当時としては一般的な考え方だったのだと感じさせます。現代でもそういう宗教や職業は一定数あると思われます。

ソクラテス:ところで君は知っているかね,その見物人が,あの指輪―ヘラクレアの石によって,たがいにつぎつぎと力をうけとってゆくと,私の語った―あの指輪のつながりの,最後になることをね。そのつながりの中間は,君という吟誦詩人かつ俳優であり,そのつながりの最初は,ほかならぬ詩人自身なのだ。これにたいし神は,これらつながりのすべてを通じて,つぎからつぎへと力を移動させながら,その望むままのところへ,人びとの魂をひっぱってゆく。(535E)

ここだけ読むと,神をトップとしたピラミッド構造があるわけではなく,詩人→吟誦詩人→見物人,というつながりがあって,そこに力を自在に作用させられるというようですが。この後で,このつながりを「占有されている」と呼ぶとか,吟誦詩人は (元の) 詩人から霊感を吹き込まれるとか,神の恩恵とか,かなりスピリチュアルな様相を呈してきます。
またこのつながりは,ホメロスに端を発するつながり,オルペウスによるつながり,ムゥサイオスによるつながり…というように「詩人単位」のようです。だからこそ,ホメロスの吟誦詩人であるイオンは,ホメロスの言葉のみを上手く語ることができる…「技術によってではなく,神の特別の恩恵によって」(536D)…という説明がなされ,他の詩人の言葉を語ることができないと言われます。また,「たいていの吟誦詩人たちは,ホメロスによって占有され」(536B) るともありますが,ではなぜそこまでホメロスが特別なのかはよく分からなかったです。

ソクラテス:だがきっと,たまたま君の方はその知識をもっていないのに,ホメロスの方はそれを語っているというようなことがらについては,君も物語れまい。(536E)

イオンはあくまでも,神がかりではなくて,技術があるからホメロスを上手く語れるのだという姿勢を崩しません。そこについてソクラテスは何か突破口があるようです。続きます。

ソクラテス:すると,どうだろうか。一方の技術は甲のことがらを対象とした知識であり,他方の技術は乙のことがらを対象とした知識である場合,ぼくは,その事実をもとにして,それぞれの技術を,別べつの名で呼ぶのであるが,君もまたそのようにするだろうか。(537D)

ソクラテス:さあ,では君も―ちょうどぼくが,どのようなことがらを述べた詩句が予言者にかかわり,どのような詩句が医者に,またどのような詩句が釣り師にかかわるのか,その詩句を,オデュッセイアからもイリアスからも,君のために選び出したように,(略) ぼくのために選び出してくれたまえ。どのようなことがらをのべた詩句が,イオン,吟誦詩人に,また吟誦詩人の技術にかかわるのか,つまり,それを調べることも,判定することも,ほかの人びとはさておいて,吟誦詩人にこそふさわしいとされるようなことがらをね。(539D)

ホメロスが語った詩の内容について,例えば馬車に乗って移動する場面や,釣りの場面などで,それが正しい内容かどうかは吟誦詩人の技術じゃなくて,他の専門知識に基づく技術 (この場合御者の技術や魚釣りの技術) である,ということが語られます。と,ここまで来て,じゃあ (イオンの主張する) 吟誦詩人の技術とは何なのか?ということになります。
スピリチュアル感のある展開から,またいつものソクラテスらしい定義の吟味がたちまち始まり,読者としてもいつもの調子に戻ってきました(笑)。

イオン:すくなくとも,わたしの思うところでは,それは,男にとっては何を語るのがふさわしいか,また女にとってはどんなことが,奴隷にとってはどんなことが,自由人にとってはどんなことが,また支配されるものにとってはどんなことが,支配するものにとってはどんなことがふさわしいか,それらを識別するのです。(540B)

とイオンは吟誦詩人の技術について,『ヒッピアス(大)』を彷彿とさせる浅はかなことを言いますが,当然,ソクラテスにボロクソに言われます。「暴れる牛をしずめる牛飼いの奴隷が語るにふさわしいことがらを識別するのは,吟誦詩人の方であっても,牛飼いの方ではないのか?」のように。

ソクラテス:では,兵士たちを勇気づける将軍の男が語るにふさわしいようなことがらを,吟誦詩人は識別することになるのだろうか?
イオン:そうです,そういうことがらを,吟誦詩人は,識別することになりましょう。
ソクラテス:すると,どうなのかね?吟誦詩人の技術は,将軍の技術なのかね?
イオン:とにかく,すくなくともわたしは,将軍の語るにふさわしいようなことがらを,識別できるでしょうからね。(540D)

この前後でずっと対話に出てくる (ホメロスの作品の引用も多くある) 当該の事柄を正しく語るのは,吟誦詩人の技術ではなくそれぞれの専門家の技術だとイオンは答えてきましたが,しかしここで,吟誦詩人の技術は将軍の技術だということを言わされます。この後で「ではなぜ将軍にならないのか」とソクラテスに言われる始末です。
ただ,「兵士たちを勇気づける」というような,人を鼓舞するようなことを言うのに当の技術が必要なのか?という気もします。どちらかというとソフィストの術ではないのか?ん,技術ではないと前半からソクラテスが言っているのはもしやそういうことなのか?

ソクラテス:話をもとに戻せば,イオンよ,君は,技術と知識とをもってホメロスを吟誦することができると語るとき,もし君が,それで真実を語っているとするならば,君はぺてんを行っているわけだ。なぜならその君は,ホメロスについて,たくさんの見事なことがらを知っている様子をぼくによそおい,その証しを見せようと約束しておきながら,ぼくを欺き,証しを見せるどころではないのだからね。(541E)

結局,ソクラテスは見切りをつけ,イオンが技術と知識を持っているという主張を認めません。本対話篇のイオンは,特に悪意を感じられるわけでもないので,こう切り捨てられると少し気の毒な感じもします。

ソクラテス:だがもし君が,技術を心得ず,むしろ,ぼくが君について語ったように,神の特別の恩恵のおかげで,ホメロスによって神がかりにされ,なに一つ知識をもっていないのに,その詩人について多くのことがらを語っているというのであれば,君はべつにぺてんを行っていることにはならないのだ。だから,さあ選びたまえ,われわれからぺてん師と思われるか,それとも,神につかれた男と思われるか,そのどちらを欲するかをね。(542A)

ということで,技術ではなく神がかりによって語っている,ということに収束します。
やはり「知識を持っていないのに,(その詩人について)多くのことがらを語っている」というのはソフィストを連想してしまいます。少なくとも「知識・技術・真理」側ではないということには,なると思います。プラトンが本対話篇で言いたかったことは,それなのでしょうか。
思えば『国家』第十巻で,詩人というのは真似をするだけで真実に触れることはない,と言われていました(書かれた年代はあちらが後と思われます)。その文脈では,詩人がどういう動機で語るのか,は書かれていなかったと思います(そこまで覚えていませんが)。本対話篇では,神にいわば憑依されて語っていると言われるわけですが,憑依されているふりをしていた場合は根拠がなくなります。そして現代的な視点からいえば,自分の意志以外で語っているともなかなか思えません。もしプラトンも本心ではそう思っていたとしたら,当時としては恐るべきことかもしれません。

メモは以上。

プラトン『ヒッピアス(小)』メモ

プラトン『ヒッピアス(小)』((プラトン全集 (岩波) 第12巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,一緒にヒッピアスの演説を聴いていたエウディコスが,ソクラテスに何か意見を促す場面から始まり,ヒッピアスが語った『イリアス』と『オデュッセイア』の人物評について尋ねます。そして「抜け目のない人」という評が「偽りの人」だということになり,偽りの人とは実は真実の人であり,善い人のことなのではないか?ということが対話の中で言われます。
この「偽りの人=真実の人=善い人」である,という推論はかなり衝撃的で,ソクラテスも自分で導いておきながら同意できないと言います。自分も改めて眺めると,そんなバカなと思いますが,しかし対話を追っていると,確かにそうなのだなと思ってしまうのがプラトン対話篇の面白さです。この短い初期対話篇は,自分でその問題点を考えろというのが裏のテーマなのかもしれません。以下でも一応自分なりに考えました。
なお,『ヒッピアス(小)』と『ヒッピアス(大)』は,いずれも同じ人物であるヒッピアスとの対話篇です (『小』は『大』の息子が相手というわけではない)。「大」と「小」という名称について詳しくは分かっていないようですが,『小』の方は偽作の疑いはないようです (解説によると,アリストテレス『形而上学』で参照されているのが『小』と見られているらしい)。
副題はそのもの,「偽りについて」。

以下は読書時のメモです。

エウディコス「どうしたんだね,なぜ君は黙っているのだ,ソクラテス。ヒッピアスがこれほどの演説を披露してみせたというのに。一緒になって今の話のどこかを讃めるとか,あるいはまた,話にどこか適切でないところがあると思われるならそれに反駁するとか,どうしてしないのだね?こともあろうに,自ら哲学の議論に加わることを他の誰よりも強く要求するはずの,われわれだけが取り残されているのだからね。」(363A)

これが本対話篇の最初です。ここから,ヒッピアスの演説を大勢が聴いていた情景が思い浮かびます。プラトン対話篇はつかみが上手いですね。

ソクラテス「それで,もしヒッピアスさえその気なら,その点についてぜひ問いただしてみたいのだ。これら二人の人物について彼がどう考えているか,つまり,どちらのほうが優れていると彼は主張するか,をね。」(363B)

「二人」というのは,ホメロス『イリアス』のアキレウスと,『オデュッセイア』のオデュッセウスのことを指します。ヒッピアスが演説で両物語 (詩) とその登場人物に触れたようです。
この後でも,適宜引用はなされますが,読者にはこれらの登場人物の素性について簡単にでも知っていることを前提にしていることが,含意されているように思われます。当時の教養だったのでしょうか。まあ本対話篇に限りませんが。

ヒッピアス「つまり,私の主張では,ホメロスはアキレウスを,トロイアへ赴いた人々の中で最も優れた人物として,またネストルを最も賢明な人物に,そしてオデュッセウスをいちばん抜け目のない人物に描き上げているのだ。」(364C)

「抜け目のない」という形容が微妙なものを感じさせます。なおギリシャ語原文では πολυτροπώτατον (→ πολύτροπος) という単語のようで (Perseus Digital Library のテキストより),辞書で調べる限りでは「変わりやすい,多様な」というような意味のようですが。次に続きます。

ソクラテス「そこで,どうか言ってもらいたい,そうすれば少しはよく理解できると思うんだが―アキレウスはホメロスによって抜け目のない人物に描かれてはいないのかね?」
ヒッピアス「決してそんなことはない,ソクラテス。むしろ,最も一本気で,最も真実の人間とされているのだ―『祈願』の中で彼ら二人を互いに語り合わせている場面では,ホメロス描くところのアキレウスはオデュッセウスに向かってこう述べているのだからね。(中略)
けだし,一事を心に秘めて他を口にするがごとき者,
そは,冥府の門に似てわが憎む者なればなり。
されどわれは,語るべし,今より語り果されんごとく。」(364E)

ソクラテス「それでやっと,ヒッピアス,私は君の言おうとすることが判ったように思う。どうも,君の言う抜け目のない人間というのは,偽りの人のことのようだね,私の見るところでは。」(365B)

ということで結局,「抜け目のない人」というのは「偽りの人」ということで合意されます。

ソクラテス「ではどうなんだろう,同じこの領域で偽りを語るほうは?先の真実の場合と同じように,こだわりなしに堂々と答えてくれたまえ,ヒッピアス。誰かが君に700の3倍はどれだけになるかと訊ねたとしたら,どうだろう,君は,偽りを言おう,そして決して真実は答えまいと望むならば,最もうまく偽りを言うことができ,それについていつも同じように偽りを述べられるのだろうか,それとも,その気になっている君よりは,計算にかけては無知である者のほうがもっとうまく偽りを言うことができるだろうか。いやむしろ,無知な者は,偽りを述べるつもりはあっても,ひょっとしたはずみで,心ならずも真実を述べることがままあるかもしれないが,君のほうは,知者なんだから,偽りを言おうと望む以上は,いつでも同じように偽りを言うことができる,というわけかね?」
ヒッピアス「そうだ,君の言う通りだ。」(366E)

本対話篇の主要なテーマである「偽り」について最も具体的に述べられている部分だと思います。無知であれば,偽ろうと思っても心ならずも真実を述べてしまうことがある,よって偽ることができるのは知者である,というくだりが印象的です。

ソクラテス「それなら同じ人間ではないか,計算に関して偽りと真実を述べる能力を最も多く備えているのは。そしてそれは計算に関して優れている者,つまり計算家ということだ。」(367C)

ソクラテス「では判ったね,同じ人間が,これらのことに関しては偽りの人でも真実の人でもあって,真実の人が偽りの人より優れているということは少しもないのだ,ということが。なぜなら,それらはおそらく同一人物であって,君が先ほど考えたように全く反対であるというわけではないのだからね。」(367C)

「同じ人間が偽りの人でも真実の人でもある」という部分は非常に面白いです。直感的には,その人が嘘 (偽り) を言う人間なのか,が問題という気はしますが,どうなのか。
逆説的ですが,能力や知識がある人は,偽りを言うことは少ない,という先入観というか,根強い観念のようなものを自分の中に発見したような思いです。この対話の場でも,その観念は共有されていると思われる一方,ソクラテスはそれをこそ掻き回してきているという気もします。
この後,ソクラテスがヒッピアスの持つ能力や持っているものなどを褒めつつねちねちと言う展開が続きます:どんな場合に真実の人と偽りの人は別なのか?しかし言うことはできないだろうね,そんな場合はないのだから,とか。

ヒッピアス「ソクラテス,君はいつもなにかこんな風な議論をひねり出すね。そして,議論のいちばん厄介なところをとり上げては,それをしっかりとつかまえて,こま切れにしてつつき廻し,議論が対象としていることがらの全体で議論を戦わせることをしない。」(369B)

何だか,『ヒッピアス(大)』でもそっくりなことを言っていたような。ソフィストからの悪口としてこう描かれていますが,ソクラテスの対話の特徴がよく表れています。
この後,ソクラテスは,アキレウスが偽りを言っていることを指摘します。

ヒッピアス「それは君の考察の仕方がよくないからだ,ソクラテス。なぜなら,アキレウスが偽って言っているその偽りだが,彼がそういう偽りを言うのは明らかに企みによるものではなく,心ならずもそうしているのだが,しかしオデュッセウスのほうの偽りは,彼の意図であり企みから出たものだからだ。」
ソクラテス「君は私を騙しているね,なんということだヒッピアス。そういう君自身もオデュッセウスを見習っているではないか。」
ヒッピアス「決してそんなことはない,ソクラテス。君は何を言いたいのだ,また何をもとにしてそんなことを言うのだ?」(370E)

急にソクラテスが激高?してヒッピアスが戸惑いますが,一つには前に意図して偽る人の方が心ならずも偽る人よりも優れていることになったので,オデュッセウスの方が優れていることになる,ということになり矛盾する,というのがあると思います。もう一つは実際にアキレウスの方も策謀を巡らして偽りを言う場面があるということでその場面を持ち出します(それは省略)。

ヒッピアス「でもどうして,ソクラテス。意図をもって不正をなし,意図的に策謀をめぐらして悪事を働く者が,心ならずもそうする者より優れているなどということが,どうしてありえようか。後者には寛大な態度が示されるというのに。つまり知らないで不正を働くとか,偽りを言うとか,その他の悪事を行うような場合にはだね。また法にしても,たしかに意図をもって悪事を働いたり偽りを言ったりする者に対しては,心ならずもそうする者以上に,はるかに厳酷なのだ。」(371E)

本対話篇のヒッピアスは,『ヒッピアス(大)』のヒッピアスに較べると,常識人という印象を受けます。ここで言っている言葉も常識的な内容だと思います。
ここでソクラテスが突如本気モードに突入します(長い演説調の語りが暫く続く))。

ソクラテス「つまりこの私には,ヒッピアス,全く君の言っていることは正反対であるように思えるのだ。すなわち,人々に危害を加えたり,不正を働いたり,偽りを言ったり,欺いたり,過ちを犯すなどのことを意図的にやって,心ならずもそうするのではないような人は,不本意ながらそうする者よりも優れている,とこう思われるのだ。そうはいえ,時にはそれと正反対に思われることもあり,この点では私の意見がふらついているのだ。それが,私の知らないためであることははっきりしている。」(372D)

これまでの命題が繰り返されますが,ソクラテスは自身の意見がふらついているとも言います。ソクラテスらしい率直さだと思いますがこれは最後にも言われます。

ソクラテス「まあ,そう言わないでくれたまえよ,ヒッピアス。でも故意にではないのだよ,私がそうするのは。故意にだとしたら,私は知者で腕利きの人間のはずだからね,君の論法で行けば。いや,それは心ならずもそうなったのだ。」(373B)

ヒッピアスが,ソクラテスは議論の中に混乱を引き起こすのだと困惑を述べた際のソクラテスの返しです。嫌味っぽい感じで,本対話篇のソクラテスは比較的印象がよくありません(笑)。
この後ソクラテスは「よい走者」と「悪い走者」を例に出し,故意に遅く走る者と,心ならずも遅く走る者を比較したり,他の競技にも広げ,そして体つき,声,視力などにも当てはめますが,結局同じ議論の繰り返しです。

ソクラテス「それなら,一言で全体をまとめると,例えば耳でも,鼻でも,口でも,その他どんな感覚器官でも,すべての場合において,心ならずも悪しき行為をなすものは,劣ったものであるという理由で,所有するに値しないものであり,一方,故意にそうするものは,優れたものであるということで,所有に値する,とこういうわけだ。」
ヒッピアス「うん,そのように思われる。」(374D)

耳や鼻が心ならずも偽るとか,故意に悪しき行為をなす,というのはあまり実感がわきませんが,結論は同じです。
…実感がわかない,というのは寧ろ何かのヒントかもしれません。この場合,耳や鼻については「性能がよい」と言った方がしっくり来る気がします。それは真実とか偽りという,何かの意思によって行為に意味付けされるものではない,それはただそれで機能を果たすものである,という感じがします。

ソクラテス「ところで,われわれの魂がよりすぐれたものとなるのは,それが心ならずも悪事をなし,過ちを犯す場合よりは,むしろ故意にそうする場合ではないかね。」
ヒッピアス「しかし,それでは恐ろしいことになろうよ,ソクラテス。もし,故意に不正をなす者のほうが,心ならずもそうする者より優れた者になるとしたら。」
ソクラテス「でもとにかく,これまでの議論からすれば,彼らは明らかにそうなるように思えるのだ。」
ヒッピアス「しかし,この私にはそうは思えない。」(375D)

珍しく(?),私もここではヒッピアスに賛同します。故意に悪意をなす人の方が魂がより優れたものになる,というのは常識的に考えればどう考えても間違っているように思えます。一方でこれまで同意しながら対話で導かれてきた帰結であることも確かです。
この後道具や魂についても,故意に過ちを行うほうが心ならずも過つよりも優れていると言われます。

ソクラテス「したがって,不正を故意になすというのは善い人間のなしうることであり,心ならずもそうするのは悪い人間のすることだ,ということになるね―善い人間は善い魂を持っているとする以上はね。」
ヒッピアス「うん,善い魂を持っていることは確かだ。」
ソクラテス「したがって,故意に過ちを犯したり,恥ずべき不正なことをなしたりする者というのは,ヒッピアス,かりにこういう人間がいるとしたら,それは善い人間をおいて他にないということになるだろう。」
ヒッピアス「どう見ても,ソクラテス,その結論については君に同意できないね。」
ソクラテス「それはそうさ,言っている私でさえ自分に同意できないのだからね,ヒッピアス。でも,われわれが試みてきた議論によれば,現にそのような結論になってくるのは避けられないのだ。しかし,先ほども言ったことだが,私は,この問題については,上へ下へと考えがふらついていて,一刻も同じ見解をもてないでいるのだ。考えがふらつくのが私は他の普通人のことであれば,べつに驚くほどのことでもない。だが,知者であるあなたがたまでもふらつくようなことにでもなれば,それはもう,われわれにとっても恐ろしいことだ―君たちのもとへ出掛けてきても,そのふらつきから解放されないわけだからね。」(376B)

ということで再び,考えがふらついていて,自分でもこの結論に同意できない,と言います。自分はそれでよいのだとも言います。知者 (=ソフィスト) はそれではダメだとも言います。ここで本対話篇は終了します。

以上,本対話篇では,最後まで偽りの人 (故意に過ちを犯す人) は真実の人であり優れた人である,という結論は反駁されずに終わります。
さて,この点について自分なりに少し思った所をまとめます。

  • 真実を知る人こそが,故意に偽る「ことができる」,そういう能力がある,というのは確かだと思います。しかしこれをもって,真実の人=偽りの人,となるのだろうか?真実を語り得る人は,同じ確からしさを以て,偽りを語ることもできるでしょう。どちらを語るかは,その人が真実を知っているかどうかとは,直交 (独立) しているように思われます。優れた医師は,最善の治療をする能力があるからこそ,最悪の (わざと失敗する) 治療の能力もあると思いますが,どちらを選ぼうとするかは医師としての能力とは直交 (独立) しているように思われます。ソクラテスの論法は,2次元直交座標を1次元に射影して (技術的な (モノであれば性能的な) 次元とでも言えるでしょうか),大小を比較しているような印象があります。もう一方の次元に射影すれば (倫理的な次元とでも言えるでしょうか),「正か不正か」というものが得られるように思います。正しい人は真実を語り,不正な人は偽りを語るのでしょう。
    付記すると,心ならずも偽りをなす人は,故意に偽りをなす人よりも,(技術的な次元で) 能力が低いだけということが言えると思います。倫理的な次元での大小は関係ないのです。
  • 有体に言って,「故意に過ちを犯したり,恥ずべき不正なことをなしたりする者は善い人間」という「善」はプラトンが他の著作も通して追求している「善」ではないと思います。真実を追い求めることが「善」ではないのか?「善い人間」とは,故意に偽りをなすことができる時であっても,真実に背かない人のことではないのか?
    例えば『国家』では,「我々が語ったような者になるべき人々は…自然的素質のなかにこういう点がなければならない。偽りのなさ、すなわち、いかなることがあっても、けっしてみずからすすんで虚偽を受け入れることなく、これを憎み、そして真実を愛するという点だ」(485C) とソクラテスに言わせています。

ということを思ったりしましたが,当然このようなことは他の対話篇でプラトン自身が言っているわけで,どうも掌の上で遊ばされている感が否めません(汗)。実際にソクラテスに反論した人はエネルギーを使っただろうなと実感しました。そういう意味で本対話篇は,短いですが特徴的で面白かったです。

プラトン『ヒッピアス(大)』メモ

プラトン『ヒッピアス(大)』((プラトン全集 (岩波) 第12巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,ヒッピアスがアテナイを訪れた時のソクラテスとの対話で,この2人以外に誰も出てこないというプラトン対話篇としては比較的簡素な設定です。
前半では,ヒッピアスが著名なソフィストでボロ儲けしていること,スパルタ (ラケダイモン) では何故か受け入れられないことなどが話されます。そしてソクラテスが,ある知り合いから「<美>とは何か?」と問われて行き詰まってしまったということを話し,同じ質問をヒッピアスにぶつけます。このテーマがその後ずっと最後まで続きますが,ヒッピアスは「何が美しいか」ということばかり語り (例えば「美しい乙女である」とか),噛み合いません。結局お決まりのアポリア (行き詰まり) に陥り,対話は終了します。
但し,本対話篇はアポリアというよりは,ソフィストの愚かさを浮かび上がらせるためにソクラテスがいちいちヒッピアスの説を反駁して,袋小路に追い詰めたという印象はあります。本作は明らかに初期対話篇と見られていますが,その辺りは他の初期対話篇とはちょっと異なるかもしれません。最後は敵対的な終わり方をします。
なお本対話篇は,偽作の可能性があると研究者から考えられているようです。個人的には,後述する「視覚と聴覚を通じての快楽」が美であるという定義の吟味など,非常にプラトンらしいとは思いましたが。
副題はそのもの,「美について」。

以下,読書時のメモです。

ソクラテス「ところが他方,あの昔の人たちときたら,その唯一人として報酬として金銭を要求するのが妥当などとけっして考えはしなかったし,また雑多な群衆の間で自分の知恵を披歴してみせるべきだとも思わなかった。そのように彼らはおひと好しで,金銭に多大な価値があろうなどとは気づきもしなかったのです。これに引きかえ,いま言ったご両人は,二人とも,他の職人たちが何であれそれぞれの技術でかせいでいるより多額の金銭を,その知恵によってかせいでいるのです。それにまたこの人たちよりもっと前にプロタゴラスがそうしました。」(282C)

昔の人は大衆にソフィストの術を教えても,報酬として金をとらなかったが,対話相手のヒッピアスを始めゴルギアス,プロディコス,プロタゴラスは大金を稼いている,ということが言われます。ヒッピアスは自分たちの技術が昔の人より優れているから多額の報酬を貰うのだと言いますが,むろんソクラテスは皮肉のつもりでしょう。『弁明』では,ソクラテスは何かを教えることがあっても報酬を一切受け取ったことがないと言われています。

ヒッピアス「それというのも,ソクラテス,ラケダイモン人にあっては,法律をみだりに改変したり,あるいはまた慣わしに反して子息の教育することは,父祖伝来のしきたりではないのでね。」
ソクラテス「なんですって?ラケダイモン人にとっては,正しい行ないをせず,間違ったことをするのが,父祖伝来のしきたりなのですか?」(284B)

ヒッピアスが,ソフィストとして金銭をかせいでいるが,ラケダイモン(スパルタ)人からはあまり稼げなかったといいます。それに対してソクラテスが相当あおっていくやり取りが続きますが,自覚しているのかいないのか,柳に風といった感じで乗ってきません。ヒッピアスは,法習(法秩序)に合わなかった,と言っていますが。

ソクラテス「実はごく最近のことなのですが,ある人がですね,あなた,わたしがある議論において,あるものを醜いとして非難し,あるものを美しいとして賞讃していたら,何かこんなふうな調子で,きわめてぶしつけに質問をしてきて,わたしを行詰りにおとしいれたのです。「ねえ,君は」とその男は言うのでした,「ソクラテス,どういうものが美しく,どういうものが醜いかを,いったいどうして知っているのかね?というのは,さあ,<美>とは何か,君は言うことができるかね?」と。そしてわたしは自分の至らなさのために行詰ってしまい,彼に適切な返答をすることができなかった。」(286C)

ヒッピアスが「ひとが若いうちにそれを業とすれば最も評判の高い人となるような,そうした美しい営みとはどのようなものか」(286B) という物語を人に聞かせたという話をした後で,上記が言われます。評判を得るのは美しいこと,という部分にソクラテスが噛みつかないはずはありません。
この後ずっと,この「ある人」の虎の威を借る形で,「この彼ならこう質問する」という形で,ソクラテスがヒッピアスに迫る場面が続きます。後に出てくる描写からも自明なことですが,これはソクラテス本人です。

ヒッピアス「すると,ソクラテス,そういう質問をする男は,ほかでもない,何が美しいかを聞くことを要求しているのだね?」
ソクラテス「わたしにはそうとは思われませんね。そうではなく,美とは何かを聞くことを要求しているのだと思います,ヒッピアス。」(287D)

本対話篇は結局,これに尽きるという気がします。「何が○○か (○○という性質か)」ではなく「○○とは何か」というのを追い求めようとするのは,プラトン対話篇ではお馴染みです。本対話篇でのヒッピアスは,この趣旨を理解していない人として一貫して描かれています。

ソクラテス「するとさらに,これにつづけて彼は言うでしょう―彼の性格から推して,わたしにはほぼよくわかっているのです―,「ねえ君,では美しい土鍋はどうかね?するとこれは美ではないかね?」」
ヒッピアス「ソクラテス,いったいそいつは誰なのかね?おごそかな問題に,かくもくだらないものの名をあえて口にするとは,実に教養のないやつだ。」(288C)

ここの「美しい土鍋」は面白い部分です。元々ヒッピアスが「美しい乙女こそが美なのだ」と言ったことに対するソクラテスの反駁の中の1コマですが,土鍋は他の何かの対話篇でも出てきたような気がします。何にしても,他の対話篇同様,「美しいものが,それ (を分有すること) によって美しくあるところの美」,いわばイデア的なものをソクラテスは追求しているということが分かれば,(ここに限りませんが) ヒッピアスの言う美の定義は一蹴されることはすぐ分かります。

ソクラテス「それならさあ,よく見てください。はたして<ふさわしいもの>とは,こういうもののことをわれわれは言うのですか?もしそれがそなわるなら,何であれそれがそなわる対象のそれぞれのものを美しく見えさせるもののことですか,それともじっさいに美しくあらしめるもののことですか,あるいはそのいずれでもないのですか?」
ヒッピアス「少なくともぼくには,美しく見えさせるものだと思われる。ちょうどひとが着物なり靴なり似合ったものを身につけていると,たとえおかしな姿のひとでも,より美しく見えるようにね。」(293E)

プラトンの他の対話篇を読んでいると,見えたり思われたりするものが「そのもの」であったためしはなく,ここでもヒッピアスが言うような「美しく見えるものが美」というのは却下されます。
美をテーマとした対話篇は,『パイドロス』などもありますが,良くも悪くも本対話篇は対話相手がソフィストであることがその内容を強く特徴づけていると思います。あまり深まりません。

ソクラテス「視覚と聴覚を通じての快楽が美しいのは,このゆえに,つまりそれが視覚を通じるがゆえにではないだろうからね。なぜといって,もしこのことがそれが美しくあることの原因だとしたら,もう一方の,聴覚を通じての快楽のほうは,けっして美しくはないだろうからだ。」(299E)

本対話篇で提案される<美>の定義はいくつにも変遷します (それは省略) が,「視覚と聴覚を通じての快楽」という定義の吟味が一番歯応えがあります。
見た目や聴き心地が善いものが<美>である,というのは割と直感的だと思います (勿論プラトン一流の<美>の定義とは実際は遠いわけですが)。それを,
「見て快いもの,聴いて快いものはそれぞれ美しい」
→「(全ての快楽ではなく)視覚と聴覚を通じての快楽が美,ということはその2つ両方のみに共通して随伴するものがある」
→「視覚と聴覚それぞれ(のみ)に随伴するものが美,ではない」
→「視覚と聴覚の快の両方に随伴するものは美だが,視覚と聴覚それぞれの快に随伴するものは美ではない」
→「前に仮定したこと:見て快いもの,聴いて快いものはそれぞれ美しい,に反する」
という順で,「視覚と聴覚を通じての快楽」という<美>の定義が否定されます(ここに書いたまとめは,私の理解によるまとめで本文の構成とは異なりますし,間違っているかもしれません)。奇数と偶数という例で,それぞれとしては真でも両方としては偽となることがありうる,という話も出てきて面白い部分です。

ヒッピアス「けれども,ソクラテス,君はどう思うのかね,こうしたことの一切合財を。これらはまさに,さっきぼくが言っていたように,細かく切り裂かれた,言論のそぎ屑であり裁ち屑ではないか。それよりむしろ,ああいうことのほうが美しくもあり,大きな価値もあることなのだ,―法廷なり政務審議会なり,その他論議がその前で行なわれる何か公共の機関なりで,申し分なく立派に弁論を駆使し,聴き手を説き伏せたうえで,己れの身の安全や自己の財産や友の身の安全という,勝利者への褒美のうちでも最小ではなくて最大の物を携えて,立ち去ることができるということのほうがね。」(304A)

最終盤で,ヒッピアスの化けの皮が剥がれたというか,ついに本音が出ます。ソクラテスの吟味を屑呼ばわりし,法廷等での議論に勝ち,自身や友の身の安全や財産を勝ち取ることの方が価値があると言います。ここは『国家』や『ゴルギアス』を彷彿とさせます。
まあ本対話篇の流れを踏まえると,気持ちは分かるという気もします。本対話篇は他の対話篇と比較しても,ソクラテスの一方的な土俵という印象はあり,ヒッピアスに良いところがありません。しかし現実にはソフィストとして大金を稼いで自他共に「勝ち組」と認められているという自負があるはずで,それは相手の思惑のみを相手にすればよいことなので,ソクラテスが言うあれこれは枝葉末節であって本質的ではない,ということかもしれません。
それに対するソクラテスは…?

ソクラテス「「しかし君は」と彼は言うでしょう,「誰にせよ,ひとが言論なり,その他の何らかの行為なりを美しく営んでいるかいないかを,どのようにして知るのだろう―肝心の<美>を知らないというのに。そんなていたらくでも,君は死ぬより生きているほうがましだと思うのかね?」と。」(304E)

ヒッピアスの反撃に対して,ソクラテスは直接反論はしません。こういう対話ではアポリアに陥ってヒッピアスのような人の議論に踏みにじられ,一方で家に帰れば「彼」から「何であるか」も分からずに弁論を駆使するのかと罵詈雑言を浴びせられる…と自分を嘆いてみせます。
しかし「彼」の言葉を借りて,そんなことで生きているほうがましか?と決然と言います。
こういう所は,倫理思想という見方もできるかもしれませんが,「論理的」という印象を個人的には持ちます。論理的とは,(論理学的な観点とは異なりますが) ある言論の1つ1つの要素を決しておろそかにしない,本当でないことを自分に許さない,という態度である,という言い方もできるのかなと思います。レンガを積んで壁を作っているようなもので,1つでも抜けがあればそこから崩れてしまうように,「○○とは何か」という根本的な概念を軽視していてはその組み合わせである世の中の真理を語りえない,とソクラテスは言っているように思います。そこはソフィストたるヒッピアスとは平行線なのでしょう。

ということでメモは以上。
本対話篇は,プラトン初期対話篇らしい,「○○とは何か?の追求→アポリア(行き詰まり)」という流れが分かりやすい作品の1つだと思います。また,典型的なソフィストの像と,それに対するソクラテス (というかプラトン) の立場というのも分かりやすいと思います。

プラトン『国家』第十巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第十巻を読んだときのメモ第2弾。

メモ(1)でいわゆる「詩人追放論」の部分が終わった後,まず魂の不死が論じられます。その後,『国家』篇の最後の最後,「エルの物語」が語られます。
少し先取りしますが (そして実は物語自体は本メモではあまり取り上げていませんが),すごい物語です。岩波文庫で20ページちょっとですが,これだけで映画化やゲーム化ができそうなほど,時間的にも空間的にも壮大なスケールを感じさせる物語です。また惑星の運動に関する知見が当時も結構あったんだなあと驚かされます(尤も脚注を読まないと分かりませんでしたが)。と同時に,生前の生き方が死後の生き方を束縛するという意味で,この期に及んでは宗教的な何かをも感じさせます。
それと,プラトンの著作はそもそも対話篇という形式が独特なわけですが,更にその中で色んな設定を含んだ物語の形で自説を語るというのも回りくどい感はあります。この「エルの物語」というものは一体何なのか?プラトンはどういう意図でこれを考え出し,書いたのか?というのも興味深いところです。「自分自身も詩人だということを示して対話から追放して終了させるため」という皮肉だというのが私の皮肉です(笑)。勿論冗談ですが。
以下読書時のメモです。

「しかしながら」とぼくは言った,「われわれはまだ,徳の最大の報い,徳に対して約束されている最大の褒賞のことを,語ってはいないのだ」(608C)

詩人についての対話が終わって,直後にこう言われます。徳の最大の報い,とは何でしょうか?

「わずかばかりの時間のうちには,どれほどの大きなことが生じうるだろうか?というのは,幼少から老年にいたるまでのこの時間の全体などというものは,全永劫の時間にくらべるならば,ほんのわずかなものにすぎないだろうからね」(608C)

マルクス・アウレリウス・アントニウス『自省録』あたりにも,似た言葉が出てくるのを思い出しました。何か理想化されたものがあり,それは恐らく未来永劫不変で,それに対して自分が年を取るのは如何に速いことか,そしてすぐ死ぬのだろう,というようなことは自分も最近よく感じます。

「君は気づいていないのかね」とぼくは言った,「われわれの魂は不死なるものであって,けっして滅び去ることがないということに?」
するとグラウコンは驚いて,わたしの顔をまじまじと見つめて,言った,
「いいえ,ゼウスに誓って!あなたには,それがそうだと確言できるのですか?」
「当然できなければならぬはずだ」とぼくは答えた,「君にしても同じだと,ぼくは思う。何も特別むずかしいことではないのだから」(608D)

グラウコンがどちらの意味で「いいえ,ゼウスに誓って!」と言ったのか分かりづらいところですが,否定の意味なのでしょう。オーバーリアクション気味のそのグラウコンに対して,ソクラテスは当然のように魂の不死を確言できると言います。
今の世の中でも,別に宗教的じゃない人でも亡くなった人に対して「あの世で喜んでいることでしょう」といった言葉をよく聞きます。それは「魂が不死」という観念というようなものを皆どこかで持っているから,のような気もします。それとこのソクラテスの「魂の不死」論はどこか繋がってくるのでしょうか。

「君は,あるものを善いとか悪いとか呼ぶだろうね?」
「ええ」(608D)

最終巻の最後になってもこんな感じで展開が始まります。呑気なものです(笑)。

「そうすると,それぞれのものは,それぞれと密接に結びついた固有の害悪によってこそ滅ぼされるのであり,あるいは,もしそれによって滅ぼされないとすれば,もはやほかには,その当のものを滅ぼすものはありえないことになるわけだ。なぜなら,善いものは何ものをも滅ぼすことはないだろうし,さらには,善くも悪くもないようなものも,同様だから」(609A)

前に少し説明があるのですが,例えば目にとっては眼炎が害悪だと言われます。それがあったとしても,目を「滅ぼす」(つまり「死なせる」) 所までいかなければ,もともと滅亡ということはないと。続きます。

「ではどうだろう」とぼくは言った,「魂には,それを悪化させるようなものが何かあるのではないかね?」
「大いにあります」と彼は答えた,「われわれがいましがた見てきたすべてのもの,不正,放縦,怯懦,無知などがそれです」(609B)

魂にとっての害悪が言われます。これが魂を滅亡させるものかどうか,ということが当然言われます。そこは重要ながら省略しますが,否定されます。

「同じ理由によって」とぼくはつづけた,「身体の悪が魂の内に魂の悪をつくり出すのでなければ,われわれは,魂が自己に固有の悪がないのに,自分と縁のない悪によって滅ぼされるということを,けっして認めないだろう。それは,あるひとつのものが,それとは別のものに属する悪によって滅ぼされることにほかならないから」(610A)

同じ理由,というのはこの前に「身体が食物の害悪によって滅ぼされる」場合のことが考えられた時のもので,それは「食物によってでも直接には病気という自分自身に固有の悪によって滅びた」のだから自分自身の害悪以外から滅ぶことはない,ということが言われていました。この下りは結構印象的です。自分の権外の影響を受けまいとするストア的な思想の源泉を見る気がします。ともあれ結局,魂に悪を作ることはできないと言われます。
「魂が不死」というのは,害されても滅びないという意味での「不死」なんだなあ,とふと思います。輪廻転生するという意味での「不死」とはまた別で(輪廻転生の意味では後の「エルの物語」がそれに当たると思います),こういう不死は割と意外な感じもします。

「まったく,ゼウスに誓って」と彼は言った,「もしも不正がそれを受け入れる者に直接死をもたらすものだったら,不正はべつにそれほど恐ろしいものではないことになるでしょうね。なにしろ,それのおかげでいろいろの禍いから解放されるわけなのですから。けれども,実際に判明するのは,まったく反対のことではないでしょうか。すなわち,不正はむしろ,可能な場合には他人を殺すものであり,不正の所有者当人には大いに生気を与えるもの,それもただの生気ではなく,不眠不休の活力を与えるものだと思います。それほど不正は,どうやら,当人に死をもたらすことから程遠いところに住んでいるようですね」
「まことに君の言うとおりだ」(610D)

魂は不死だと言われたわけですが,それでは不正は,当人 (の魂) に向かうのではなくて他人に向かうものだと。「受け入れる者に直接死をもたらすものだったら,不正はべつに恐ろしくない」という言葉などは,グラウコンがソクラテス顔負けの,冴えたことを言っているなという印象です。しかしソクラテスのような善の人にとってならともかく,実際には不正を行う人にしてみれば願ったりなのかもしれないと思います。

「しかしグラウコン,われわれはもっと別のところに目を向けなければならないのだ」
「どのようなところに?」と彼はたずねた。
「哲学という,魂にそなわる知への希求に。―魂が,神的で不死で永遠なる存在と同族であるみずからの本性にうながされて,何を把握し,どのような交わりに憧れるかを,われわれは注視しなければならない。」(611D)

海神グラウコスの譬えで,魂に付いた付着物を取り除いて本来の姿を見なければならない,と前に言われます。不死かどうかという話から「魂とは何か」という問いへの転換が行われます…しかし,この問題はここではこれ以上追求されません。但しここで言われるように,知への希求を本質的に備えることには疑いがないようです。
プラトン対話篇にはたまにこう,前後とすこし雰囲気が違って,ソクラテスに決然と言葉を述べさせる場面があります。私は特に好きな場面です。他と違って有無を言わさない感じで,論証というより,プラトンの信念が現れた部分のように思います。

「では,グラウコン」とぼくは言った,「いまならもう,これまで論じた事柄に加えて,正義その他の徳が本来もつべき報酬のことも認めてやったとしても,何も文句は出ないだろうね―正義の徳は魂に対して,人間たちからも神々からも,人がまだ生きている間も死んでからのちも,どれだけの,またどのような報酬をもたらすかを語ったとしても?」(612B)

省略したのですがこの直前に,「ギュゲスの指輪を持っていようといまいと…魂は必ず正しいことを心がけなければならぬ」(612B) とも言われます。不正を行ってもバレないような状況でも正しいことを行うことになるような,正義その他の徳の報酬とは?この辺りは,遠い昔である第二巻の対話を受けてのことでしょう。これがそもそも,個人の正義を考えるために国家の正義を考えるということで,この対話篇がこのタイトル (国家,ポリテイア) になった遠因だと思いますが,しかし製作費が尽きた映画の終盤のように,この周辺の対話は非常にあっさりとしています。第二巻であれだけソクラテスに肉薄したグラウコンが,ここでは借りてきた猫のように従順になってます(笑)。

「したがって正しい人間については,たとえその人が貧乏のなかにあろうと,病のなかにあろうと,その他不幸と思われている何らかの状態のなかにあろうと,その人にとってこれらのことは,彼が生きているあいだにせよ死んでからのちにせよ,最後には何か善いことに終るだろうと考えなければならぬ。なぜなら,すすんで正しい人になろうと熱心に心がける人,徳を行なうことによって,人間に可能なかぎり神に似ようと心がける人が,いやしくも神からなおざりにされるようなことは,けっしてないのだから」(613A)

このことが,「神々からの正しい人への褒賞」と言われます。この前後も含めて,妙に神に愛されるとかそういう事が語られています。これは,話の途中で神話が出てきたりすることは珍しくないですが,何かの原因や理由を神に帰するというのは珍しいようにも思えます。
この後,「人間の側から」の話もあるのですが省略。ただ,「正しい人々は,年が長じてから,望むならば自分の国において支配の任につき…」(613D) というのはちょっと気になりました。支配者にはみずから望んでそうなるのではない,以前の巻で言われていたはずなので。

「さてしかし」とぼくは言った,「これらのものは,正しい人と不正な人のそれぞれを死後において待ちうけているものとくらべるならば,数においても大きさにおいても,何ものでもないのだ。それがいかなるものかを,いまやわれわれは聞かなければならない。正しい人と不正な人のそれぞれが聞かされるべきことを聞いて,われわれの議論から借りとして支払われるべきものを,すっかり完全に受け取ってしまうために」(614A)

ここからいよいよ,いわゆる「エルの物語」が始まります。

「そのむかし,エルは戦争で最期をとげた。一〇日ののち,数々の屍体が埋葬のために収容されたとき,他の屍体はすでに腐敗していたが,エルの屍体だけは腐らずにあった。そこで彼は家まで運んで連れ帰られ,死んでから一二日目に,まさにこれから葬られようとして,野辺送りの火の薪の上に横たえられていたとき,エルは生きかえった。そして生きかえってから,彼はあの世で見てきたさまざまの事柄を語ったのである。」(614B)

なんと,死後12日したら生き返ったと。この時点で既に信憑性ゼロですが,事の真偽は問題ではないと思います (さすがにプラトンも真実だと思われることを期待はしなかったでしょう)。半面プラトンがどうにでも都合よく作ったであろうということも念頭に置く必要はあると思います。以下,エルが見てきた場面が描かれて行きます。
以下少しだけ引用をしていきますが大部分は省略しています。これは物語の要約ではありません。

「こうしてつぎつぎと到着する魂たちは,長い旅路からやっと帰ってきたような様子に見え,うれしそうに牧場へ行き,ちょうど祭典に人が集まるときのように,そこに屯した。知合いの者どうしは互いに挨拶をかわし,大地のなかからやってきた魂は,別の魂たちに天上のことをたずね,天からやってきた魂は,もう一方の魂たちが経験したことをたずねるのであった。こうしてそれぞれの物語がとりかわされたが,そのさい一方の魂たちは,地下の旅路において―それは千年つづくのであったが―自分たちがどのような恐ろしいことをどれだけたくさん受けなければならなかったか,目にしなければならなかったかを思い出しては,悲しみの涙にくれていたし,他方,天からやってきた魂たちは,数々のよろこばしい幸福と,はかり知れぬほど美しい観物のことを物語った。」(614E)

天上や地下から戻って来た (正しい人は天上へ行かされ,不正な人は地下に行かされていた) 魂たちが語り合うという,ちょっと牧歌的な印象を受ける場面です。なおこの部分もそうですが,エルの物語の数か所で,岩波文庫には図が挿入されており非常に話が分かりやすくなります。

「人間の一生を100年とみなしたうえで,その100年間にわたる罰の執行を10度くり返すわけであるが,これは,各人がそのおかした罪の10倍分の償いをするためである。」(615B)

過去にどのくらい不正を行ったかに応じて罰が与えられると言われ,それは100*10=1,000年間であると言われます。なお正しい人は同じく10倍の報いを与えられるともあります。

「さて,牧場に集まった魂たちのそれぞれの群れが七日間を過すと,八日目に彼らはそこから立ち上がって,旅に出なければならなかった。旅立って四日目に,彼らはあるひとつの地点に到着したが,そこからは,上方から天と地の全体を貫いて延びている,柱のような,まっすぐな光が見えた。その光の色は何よりも虹に似ていたが,もっと明るく輝き,もっときよらかであった。
そこからさらに一日の行程を進んだのち,彼らはその光のところまで到着した。そしてその光の中央に立って,天空から光の綱の両端が延びてきているのを見た。というのは,この光はまさしく,天空をしばる綱であったから。それは,あたかも軍船 (三段櫂船) の船体をしばる締め綱のように,回転する天球の全体を締めくくっているのである。」(616B)

急に宇宙を連想させる情景が描かれます。この後はその世界観の描写が続くのでもう省略するしかないのですが,水星・金星・火星などの惑星の回転運動をも描いているようです (解説による)。『ティマイオス』も少し連想させます。
プラトンは,何のためにこんな世界を『国家』に描いたのでしょうか?読者に天文学を紹介するためでしょうか (そういえば夏目漱石も『吾輩は猫である』に (寺田寅彦による?) 最先端の物理学の話題を載せたりしていました)。それとも当時の天文学の成果を歴史に残すという意味でしょうか。それとも惑星は本当に神と同一視されていたのでしょうか。

「『第一番目の籤を引き当てた者をして,第一番目にひとつの生涯を選ばしめよ。その生涯に,以後彼は必然の力によって縛りつけられ,離れることができぬであろう。
徳は何ものにも支配されぬ。それを尊ぶか,ないがしろにするかによって,人はそれぞれ徳をより多くあるは少なく,自分のものとするであろう。
責は選ぶ者にある。神にはいかなる責もない』」(617E)

神の意を伝える神官の言葉なので括弧が入れ子になっています。いろんな生涯の見本 (人間だけでなく動物のもある) が目の前に置かれ,ここで人間として生きる選択を籤で決めた順番で行うことになります。

「けだしこの瞬間にこそ,親愛なるグラウコンよ,人間にとってすべての危険がかかっているのだし,そしてまさにこのゆえにこそ,われわれのひとりひとりは,ほかのことを学ぶのをさしおいて,ただこのことだけを自分でも探求し,人からも学ぶように心がけねばならないのだ―善い生と悪い生とを識別し,自分の力の及ぶ範囲でつねにどんな場合でも,より善いほうの生を選ぶだけの能力と知識を授けてくれる人を,もし見出して学ぶことができるならば。」(618B)

善を追い求める生き方をするのは (と直接は言われませんが),ここで善い生を選択するためだと言われます。魂が不死であるという本メモ前半部分で言われていたことも繋がってきたように思います。

「『最後に選びにやって来る者でも,よく心して選ぶならば,彼が真剣に努力して生きるかぎり,満足のできる,けっして悪くない生涯が残されている。
最初に選ぶ者も,おそろかに選んではならぬ。最後に選ぶ者も,気を落してはならぬ』
エルの話によると,神官がこのように言い終るや,第一番の籤を引き当てていた者は,ただちにすすみ出て,最大の独裁僭主の生涯を選んだ。彼は選択にあたって,浅はかさと欲ふかさのために,あらゆる事柄をじゅうぶんに考えてみなかったのである。」(619B)

最初に人生を選ぶ権利を得た者が,最悪といっていい選択をする例が言われます。次に続きます。

「この男は,天上のほうの旅路を終えてやって来た者たちのひとりであった。彼は前世において,よく秩序づけられた国制のなかで生涯を過したおかげで,真の知を追求する (哲学する) ことなく,ただ習慣の力によって徳を身につけた者だったのである。概して言えば,これと同じようなしくじりにおちいった少なからざる者が,天上からやって来た者たちであった。彼らは,苦悩によって教えられることがなかったからである。これに反して,地下からやって来た者の多くは,自分自身もさんざん苦しんできたし,他人の苦しみも目のあたりに見てきたので,けっしてあだやおろそかに選ぶようなことはしなかった。」(619C)

天上からやってきた者が悪い生涯を選択しがちで,地下からやってきた者が善い生涯を選ぶことが多いと。つまりある魂は周期的に善と悪の人生を経験するということになるのだと思います。ただ,「つねに誠心誠意知を愛し求め」(619E) るような人は常に天上の旅路を行くだろうと言われます。

「まことに,エルの語ったところによれば,どのようにしてそれぞれの魂がみずからの生を選んだかは,見ておくだけの値打のある光景であった。それは,哀れみを覚えるような,そして笑い出したくなるような,そして驚かされるような鑑物だったのである。というのは,その選択はまずたいていの場合,前世における習慣によって左右されたからだ。」(619E)

この後,当時の過去の有名人たちの魂が,どういう生涯を選ぶか,という具体的な例が描かれますが,他愛のない話です。あまり善悪に関係がない部分 (=習慣?) は,前の生涯を踏襲するということでしょうか。

「このようにして,グラウコンよ,物語は救われたのであり,滅びはしなかったのだ。もしわれわれがこの物語を信じるならば,それはまた,われわれを救うことになるだろう。そしてわれわれは,<忘却の河>をつつがなく渡って,魂を汚さずにすむことだろう。しかしまた,もしわれわれが,ぼくの言うところに従って,魂は不死なるものであり,ありとあらゆる悪をも善をも堪えうるものであることを信じるならば,われわれはつねに向上の道をはずれることなく,あらゆる努力をつくして正義と思慮とにいそしむようになるだろう。」(621B)

まあ自分が作った物語だからだろうと言いたくなる所ですが(笑),この物語を信じるなら,知を愛し善を求める生を送れば,魂は不死なので,(身体の)死後も報われるということになります。その意味でずっと一貫しています。

このグラウコンへの呼びかけで(最後ちょっと省略してますが),『国家』は幕を閉じます。最後,物語が一方的に延々と語られるという形になったので,あまり対話がなく取り上げにくかった面はあります。但し,死んだのちにも魂は不死で,生前の生き方に束縛されるというのは,「死ねばチャラ」ではなくちゃんと財産 (負債) が残るというわけで,これまで『国家』で語られてきた生きる上で善を追求する理由は何か?という意味での一番の根拠として示されたといえるのかもしれません。

全体のまとめというか,自分にとっての『国家』について,別途簡単に振り返る予定。

プラトン『国家』第十巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第十巻を読んだときのメモ第1弾。

さて,国家も最終巻である第十巻です。第九巻で話としては一応完結したようにも思えますが,第十巻では詩などの模倣の技術のことが語られ,「徳への報い」のことが「エルの物語」を通じて語られます。
第十巻が独立して感じられるのは,画家や詩人に対するプラトンの偏見的ともとれる見方や,死者が生き返るという「エルの物語」が,(それまでと較べて) いささか飛躍していて非現実的な感があるからだと思われます。とはいえ詩については,これまでの対話から当然のように納得させられることもあるし,「エルの物語」を含む死後の世界の話も,イデア論,宇宙論,などを含めたプラトンの世界の1つの表象でしょう。
本メモ(1)は詩人についての部分で,「エルの物語」についてはメモ(2)で書く予定です。

以下は読書時のメモです。

「たしかにわれわれのこの国については」とぼくは言った,「ほかの多くの点でもこの上なく正しい仕方で国を建設してきたと思うけれども,しかしぼくは,とりわけ詩 (創作) についての処置を念頭に置いてそう言いたい」
「とおっしゃいますと,どのような?」と彼はたずねた。
「詩 (創作) のなかで真似ることを機能とするかぎりのものは,けっしてこれを受け入れないということだ。というのは,ぼくは思うのだが,それを絶対に受け入れてはならぬということは,魂の各部分の働きがそれぞれ別々に区別された今になってみると,前よりもいっそう明らかにわかっているわけだからね」(595A)

いわゆる「詩人追放論」と言われるプラトンの立場を端的に示す最初の箇所です。真似ることの弊害は第3巻でも言われていましたが,詩の本質を模倣であるというのがプラトン一流の捉え方だと思います。この後そのココロが存分に語られます。

「話さなければならない」とぼくは言った。「子供のころからぼくをとらえているホメロスへの愛と畏れとが,話すのを妨げるけれども。―じっさいホメロスこそは,あの立派な悲劇作家たちすべての最初の師であり指導者であったように思えるからね。しかしながら,ひとりの人間が真理よりも尊重されるようなことがあってはならない。いや,いま言ったように,話さなければならない」(595B)

プラトンにもホメロスへの敬意があるようで,神妙です。「ひとりの人間が真理よりも尊重されるようなことがあってはならない」は至言ですね。どこかで使えそうです。

「それならば,われわれは次のことから考察をはじめることにしようか―いつもやっている探求方法を出発点としてね。というのは,われわれは,われわれが同じ名前を適用するような多くのものを一まとめにして,その一組ごとにそれぞれ一つの<実相>(エイドス)というものを立てることにしているはずだから。どうだ,わからないかね?」(596A)

うろ覚えですが,名前が実相を表す,というのは『クラテュロス』を想い起こす一節です。ともあれ,いつものように根本的なところから,対話が始まります。

「ところがそれらの家具について,<実相>(イデア)はということになると,二つあるだけだろう―寝椅子のそれが一つと,机のそれが一つ」
「はい」
「ところで,これもまたわれわれのいつもの説ではないか,―すなわち,いまの二つの家具のそれぞれを作る職人は,その<実相>(イデア)に目を向けて,それを見つめながら一方は寝椅子を作り,他方は机を作るのであって,それらの製品をわれわれが使うのである。他のものについても同様なのだ,とね。なぜなら,<実相>そのものについては,職人のうち誰ひとりそれを作ることはないのだから。どうして作ることができようか?」

これの前の「寝椅子や机は数多くある」という一節に続くのですが,身近な例で実感があります。色んな対話篇で「徳」とか「美」とか「勇気」とかについて追求されてきたのと同じで,「まさにそれであるところのもの」をここでは<実相>(イデア)と言っているのですね。
あまり本筋とは関係ありませんが,一つ前の引用と合わせると,「<実相>を作ることはできないが,それに名前が付くことはできる」…というのは一体何なのか?と思います。名前の有無に限らず<実相>は存在するように思えますが…。本来的には,名前とは任意に付けられるようでいて,<実相>にともなって収束するもの,というようにも思えます。

「むずかしい仕方ではないよ」とぼくは答えた,「いろんなやり方で,すぐにでもできることなのだが,まあいちばん手っとりばやくやるには,鏡を手に取ってあらゆる方向に,ぐるりとまわしてみる気になりさえすればよい。そうすれば,君はたちまち太陽をはじめ諸天体を作り出すだろうし,たちまち大地を,またたちまち君自身およびその他の動物を,家具を,植物を,そしていましがた挙げられたすべてのものを,作り出すだろう」
「ええ」と彼は言った,「そう見えるところのもの(写像)を,しかしけっしてほんとうにあるのではないものを,ですね」
「うまい!」とぼくは言った,「議論のために必要適切なことを言ってくれた。というのは,思うに,画家もまたそのような製作者だろうからね。そうだね?」(596D)

すべてなんでも作るような職人がいる,というソクラテスの示唆から上記が言われます。それは見た目を作るだけなら鏡があればよいと。まるで一休さんですが,「そう見えるところのもの,しかしけっしてほんとうにあるのではないもの」というグラウコンの返しは,現代に置き換えても痛い所を衝いているように思えます。何でもスマホ等で写真に撮れるのもそうですがそれに限らず,自分が心底から考えたり作り出したものでもないことを,どこかから調達し,そう見せる(思わせる)コストがものすごく低い現代こそです。

「もし神が二つだけでもお作りになるとするならば,そこにふたたび一なる寝椅子が新たに現れて来て,それの[寝椅子としての]相を,先の二つの寝椅子はともに貰い受けてもっていることになるだろう。そして,この新たな一つの寝椅子こそが<まさに寝椅子であるところのもの>であることになり,先の二つはそうでないことになるだろう」
「そのとおりです」と彼は言った。
「思うに,神はこうした事態を知っているがゆえに,真にあるところの寝椅子の真の作り手となることを―けっして或る特定の寝椅子を作る或る特定の製作者となることをではなく―お望みになって,本性(実在)としてのただ一つなる寝椅子を作り出されたのだ」(597C)

実相(イデア)の唯一な性質をよく表していて面白い箇所だと思います。ただ,何故寝椅子は寝椅子なのか?とも思います。これは最初に<まさに寝椅子であるところのもの>があったというより,実際に大工たちが色々作っている内に寝椅子という概念が出来たという方が自然な気もします。さらに言うと,電気でも半導体でもスマートフォンでもなんでもいいのですが当時存在していなかったものについて,それが実現しない前である当時から実相(イデア)は存在していたと考えるのでしょうか?実相(イデア)は時間を超越すると考えるのでしょうか?よく分かりません。あくまでも実感で,自分の思ったことはアリストテレス的かもしれませんが。

「してみると,悲劇作家もまた,もし彼が<真似る者>(描写家)であるとするならば,そうだということになるだろう―つまり,いわば真実(実在)という王から遠ざかること第三番目に生まれついた素姓の者だ,ということになるだろう。そして他のすべての<真似る者>(描写家)もまた同じことだ」(597E)

省略していますが,神を『本性(実在)製作者』,大工を製作者,画家を<真似る者>として実在に近い方から順位付けしています。

「してみると,真似(描写)の技術というものは真実から遠く離れたところにあることになるし,またそれがすべてのものを作り上げることができるというのも,どうやら,そこに理由があるようだ。つまり,それぞれの対象のほんのわずかの部分にしか,それも見かけの影像にしか,触れなくてもよいからなのだ。
たとえば画家は―とわれわれは言おう―靴作りや大工やその他の職人を絵にかいてくれるだろうが,彼はこれらのどの職人の技術についても,けっして知ってはいないのだ。だがそれにもかかわらず,上手な画家ならば,子供や考えのない大人を相手に,大工の絵をかいて遠くから見せ,欺いてほんとうの大工だと思わせることだろう」(598B)

この部分,『ゴルギアス』に出てくる,弁論術に対するソクラテスの言説と非常に似ています。それの見た目(模倣)バージョンといえるでしょうか。あるいはソフィストを向う側に見ているのかもしれません。それにしても画家に対する見方が厳しいですね。

「では,もしある人が,真似(描写)の対象となるべきものと,その対象の影像と,この両方をともに作り為す能力があるとしたならば,いったいその人は,真剣になって影像を製作することに身をささげ,その仕事を最上の所有物として自分の生活の前面にかかげるだろうと,君は思うかね?」(599A)

もし,製作する能力と真似る能力の両方を持っていたら,誰だって製作するだろう,という話がこの後も続きます。そして返す刀で詩人についても,言葉を真似たり伝えたりするだけで何も実行する能力がない,というようなことが長々と語られ,切り捨てられるのがこの第十巻の前半部です。

「それでは,ホメロスをはじめとしてすべての作家(詩人)たちは,人間の徳―またその他,彼らの作品の主題となるさまざまの事柄―に似せた影像を描写するだけの人々であって,真実そのものにはけっして触れていないのだということを,われわれはここで確認することにしようか?それはちょうど画家の場合と同様であって,先ほどわれわれが言っていたように,画家は実際の靴作りと思えるものを創作するけれども,自分が靴を作ることを知っているわけでもないし,また描いて見せる相手のほうも,同様に何も知らずに,ただうわべの色と形から見て判断するだけの人たちなのだ」(600E)

ということで「真実そのものにはけっして触れていない」という,プラトン的にかなり決定的な烙印が詩人や画家に対して押されました。前述しましたがソフィストに対する言及とほぼ同じで,怨みすら感じられるような峻烈なものです。実際,アリストファネスなどを念頭に置いていたのかもしれません。なお少し後で,「韻律とリズムと調べをつけて語るならば,大へん立派に語られているように思えるのだ」(601A) ともソクラテスに言わせています。
この辺り,善悪はともかく,「プラトンとはそういう人だ」と思うしかありません。作家(詩人),画家,音楽家が知り合いにいたりするとちょっと腹立たしい思いになるかもしれません。そもそも,模倣しか能がないのが画家や作家,というのは現代の感覚からずれています。何も真実に触れることだけが糧になるわけでもないと思いますし。ただ想像ですが当人だったら意外と何とも思わないのではという気もします…抽象的ですが技術的な印象を受けるのもプラトンらしいところ。

「画家は―とわれわれは言う―手綱や馬銜を描くであろう」
「ええ」
「しかしそれを作るのは,皮職人や鍛冶家だろう」
「たしかに」
「では,手綱や馬銜がどのようなものでなければならぬかを,画家は知っているだろうか?それとも実は,製作者である鍛冶家や皮職人でさえ知らないのであって,そのことの知識をもっているのは,それらを使うすべを心得ている人,すなわち,馬に乗る人だけではないだろうか?」(601C)

「あらゆるものについて,事情は同じであると言うべきではないだろうか?」
「どのような意味でですか?」
「それぞれのものについて,いま挙げたような三つの技術があるのではないかね―すなわち,使うための技術,作るための技術,真似るための技術」(601C)

使う人・使うための技術,というのが出てきました。多くは省略しますが,使う人はその物の善し悪しに通じていて,製作者にそれをどのような物として作らなければならないかという知識を伝えるが,真似る人にはそういった知識は必要がない,ということが言われます。

「では,こうした点については,どうやらわれわれは,十分な同意に達したらしいね。すなわち,真似る人は,彼が真似て描写するその当のものについて,言うに足るほどの知識は何ももち合わせていないのであって,要するに<真似ごと>とは,ひとつの遊びごとにほかならず,まじめな仕事などではないということ,そして,イアンボスやエポスの韻律を使って悲劇の創作にたずさわる人々は,すべてみな,最大限にそのような<真似ごと>に従事している人々である,ということだ」(602B)

ということで,作家(詩人)というのは,前に言われたように真実に触れていないだけでなく,知識も持っていないと,ダメを押します。
まあ仮にそうだとしても作家が模倣に生きる職業だとは思いませんが,現代に当てはめると,所謂「まとめサイト」を作ることなどはそういう部類なのかもしれないなと思ったりします。逆に言うと当時の文学に対する見方というのはそういうものだったのかもしれません。

「ところで,測ること,数えること,秤にかけることは,そうした錯覚に対抗してわれわれを助けるための絶妙の手段として,発明されたのではないかね?これのおかげで,われわれの内に支配するのは見かけ上の大きさ・小ささの差異や,見かけ上の数や重さの差異ではなく,数や長さや重さをちゃんと計算し測定したものこそが,支配するようになったのだ」(602D)

見かけ(印象)ではなく,絶対的な尺度があるということが言われます。何となくプラトンらしい流れです。

「そういうわけで,じつはこの点の同意を得たいと思いながら,ぼくはさっき言っていたのだよ。―つまり,絵画および一般に真似の術は,真理から遠く離れたところに自分の作品を作り上げるというだけでなく,他方ではわれわれの内の,思慮(知)から遠く離れた部分と交わるものであり,それも何ひとつ健全でも真実でもない目的のために交わる仲間であり友である,とね」(603A)

人間の思慮というものは絶対的な計量を行うもの,というのがプラトンがいつも言っていることで,真似の術のような見た目だけで思慮に働き掛けないものについては,こういう評価になるだろうなというのは想像できたところです。かつ,模倣というものを「測る,数える」という観点から喝破するのもプラトンならではとも思います。

「立派な人物というものは」とぼくは言った,「息子を失うとか,その他何か自分が最も大切にしているものを失うとか,そういった運命を身に受けたとき,ほかの誰よりも平静にそれを堪え忍ぶだろうということ,ここまでのことは,あのときもたしか,われわれは言っていたはずだ」
「ええ,たしかに」
「いまはさらに,こういうことを考えてみようではないか―いったい,そういう人物は,少しも悲しくはないのだろうか?それとも,そういうことはありえないことであって,ただ悲しみに堪えて節度を保とうとしているのだろうか?」
「後のほうでしょう」と彼はいった,「実情はといえば」(603E)

後の布石として,悲しみを内に秘める立派な人というのが言われます。第八巻で,名誉支配制の国制に対応する人間が言われた時のことを少し思い出します。

「法はきっと,こう言うことだろう―不幸のうちにあっては,できるだけ平静を保って,感情をたかぶらせないことが最も望ましいのだ。ほかでもない,そうした出来事がほんとうは善いことか悪いことかは,必ずしも明らかではないし,堪えるのをつらがってみても,前向きに役に立つことは何ひとつないのだし,そもそも人の世に起る何ごとも大した真剣な関心に値するものではないのだし,それに,悲しみに耽るということは,そのような状況のなかでできるだけ速やかにわれわれに生じてこなければならないものにとって,妨げになるのだから,とね」
「どのようなことが,妨げられるとおっしゃるのですか?」と彼はたずねた。
「起ったことについて熟慮することがだ」とぼくは言った。(604B)

生きているとこういうことがいかに難しいかを日々実感します。こういう恬淡とした,本来の意味でのストイックな,しかし前向きな生き方ができたらいいなと思います。

「だから明らかに,真似を事とする作家(詩人)というものは,もし大勢の人々のあいだで好評を得ようとするのならば,生来けっして魂のそのような部分に向かうようには出来ていないし,また彼の知恵は,けっしてその部分を満足させるようにつくられてはいない。彼が向かうのは,感情をたかぶらせる多彩な性格のほうであって,それはそのような性格が,真似て描写しやすいにほかならないのだ」(605A)

と,作家(詩人)は,感情を理性で抑える立派な人を描くことはできずに,ただむやみに感情的な人ばかり描いている,それは真理とくらべると低劣なものだ,ということが言われます。これを言うために,感情を抑える人を讃えていたのが分かります。将棋で「玉は包むようにして寄せよ」という格言がありますが,周到な筋書きで作家(詩人)を先回りして着実に追い詰めています。
確かに言っていることはその通りだなあと思います。同時に,そういった思慮深い人を描写する言論とは,一体なんなのか。そもそもあるのか。ということも思います。あらゆる描写は,その対象が真実ではなく,演じたものである可能性,または見る側が錯覚した可能性を捨てきれません。イデアは目に見えない(し聞こえない)からです。であれば何か外形的なことを書くこと自体に意味はあるのか。という問いは当然プラトン自身にもブーメランで問われます。『パイドロス』辺りにヒントがあるのでしょうか?

「こういう事実を考慮してもらいたいのだ。―すなわち,先に自分自身の身に起った不幸に際しては無理に抑えられていたが,ほんとうは心ゆくまで泣いて嘆いて満たされることを飢え求めていた部分―というのは,そういったことを欲求するのが,魂のこの部分の自然生来の本性だからなのだが―まさにその部分こそが,いまや,作家(詩人)たちによって満足を与えられ,喜ぶところの部分にほかならないのだということだ。ほかならないのだということだ。そして他方,われわれの内なる生来最もすぐれた部分は,理によって,また習慣によってさえも,まだじゅうぶんに教育されていないために,この涙っぽい部分に対する監視をゆるめてしまう」(606A)

作家(詩人)は,善なる人を描けないだけでなく,人の抑えるべき感情的な部分を呼び覚ましてしまう,ということが言われます。ここの少し前に,「われわれを最も強くそのような状態にさせる作家のことを,すぐれた作家であると真剣に褒め讃えるのだ」(605D)とも言われ,人は自分が本来そうあるべきでない姿に欲求を持つことを指摘しますが,それを喚起する作家(詩人)はけしからんとなるわけです。
感情的な部分,よく言えば人間らしい感情を引き起こすというのなら,悪い面ばかりではないようにも思いますが。思慮深さとは相反するのは確かだという気はします。
「そういったことを欲求するのが,…自然生来の本性」というのは,ソクラテスの口から出ると重い言葉です。これを克服したソクラテスの覚悟というか凄みを感じさせます。

「同じことはまた,滑稽なことについても言えるのではないだろうか。すなわち,もし君が,自分でやるのは恥ずかしいような滑稽なことを,喜劇の行なう真似や私的な機会などに聞いて大いに喜び,下劣なことだと憎むことをしないのであれば,君はまさに悲痛な事柄におけるのと同じことをしていることになるのではないかね?
というのは,道化者と評判されるのをおそれて,この場合にも,ふざけて滑稽なことをしたがる部分を自分の内において理の力で抑えていたのに,いまやまたも君はその部分をゆるめてやり,そしてそのような機会に元気をつけて活溌にしてやることによって,しばしばそれと気づかぬうちに,自分自身の生活そのものにおいて喜劇役者となりはてるところまで,引きずられて行くことになるからだ」(606C)

本当に喜劇役者に魂を引っ張られるならそうだと思いますが…真面目すぎるという感じはします。
確かにバラエティ番組等でも,低俗だと分かっていても笑ってしまったりすることはありますが,自分が実際そういうことをしたがる欲求が裏にあるとは思ったことはありません。が,そうなのかもしれません。

「ただここで,われわれが頑固で粗野だと非難されないためにも,哲学と詩(創作)との間には昔から仲違いがあったという事実を,詩(創作)に向かって言い添えておくことにしよう。というのは,『主に吠えたて叫ぶ犬めが』とか,『愚か者らの下らぬおしゃべりのなかで威張っている』とか,『あまりにも賢い連中の群を支配する者』とか,『自分が貧しいということを思いめぐらすのが落ちの,繊細の思想家たち』とか,その他数えきれない多くの言葉が,哲学と詩の間に昔から対立があったことを示しているからだ。」(607B)

最後に念を押されましたが,こう言われると,こういう不倶戴天の関係があったから帰納的にこれまでのような詩人追放論を言ったのではないのかと逆に思ったりもします。
ただこの後,詩の有益さを論じ明らかにされるのであれば迎え入れる,ということも一応言われます。

「まことに,親しいグラウコンよ」とぼくは言った,「ここで争われていることは重大な,ふつう考えられているよりも,はるかに重大なことなのだからね―すぐれた人間となるか,悪しき人間となるかという,このことは。だからけっして,名誉や金銭や権力の誘惑によって,さらにはまた詩の誘惑によってそそのかされて,正義をはじめその他の徳性をなおざりにするようなことがあってはならないのだ」(608B)

という言葉で締めくくられて,第十巻の前半部が終わります。

これは私見ですが,プラトン自身に詩人の要素が全くなかったら,対話篇という形式で後世に作品を残すこともなかったのでは?という気がします。但しその意味で,作中では「あくまでソクラテスに言わせている限りでは」矛盾はしていないとも言えます。これは対話篇という形式の相補性というか多態性といえるのかもしれませんね。

続きはメモ(2)にて。

プラトン『国家』第九巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第九巻を読んだときのメモ第2弾。

第九巻では,これまで僭主独裁制について第八巻から続く説明の後,各国制に対応する人間で優れたものと劣ったものの判定がなされました。続いて,魂の3区分,真/偽の快楽についての判定がなされます。そして,第二巻で提起された問いに戻ってその答えが考察されます。不正が得かどうか,ということについての答えとなる内容で,副題である「正義について」の締め括りにふさわしいものとなっています(第十巻はまたちょっと独立的です)。
途中で出てくる,「キマイラのような怪物と,ライオンと,人間が一体となり,外からは人間としか見えない」という人間のモデルは秀逸だと思います。人間だからこそ持っている理性的な部分と,獣的な部分の混在をよく表していると思います。

以下は読書時のメモです。

「さあこれでよし」とぼくは言った,「以上がわれわれにとって,一つの証明となるだろう。つぎに,この第二番目の証明を見てくれたまえ。それが何ほどかの意味があるものと思えるかどうか」
「それは,どのような証明のことでしょうか?」
「ちょうど国家が三つの種族 (階層) に分けられたように」とぼくは言った,「一人一人の人間の魂もまた,それと同様に三つに区分される以上,そのことにもとづいてわれわれの問題は,また別の証明を得ることになるだろうと,ぼくには思われるのだ」(580C)

ということで,国制に基づいて順位付けされた第一の証明に続いて,魂の3区分,つまり理知的部分,気概的部分,欲望的部分に対応して論じようとします。この3区分は第四巻に出てきました。国制を頂上とすると (いや実際の頂上はイデア論だったかもしれませんが),ちょうど山を下りている感じですね。
この後,魂の3区分についておさらいがあります。そして人間の分類としても <知を愛する人>,<勝利を愛する人>,<利得を愛する人> という3つの種類があると言われます。さらに,快楽にもそれらに対応した3種類があると言われます(581C)。

「だから,君も知っているように」とぼくは言った,「もし君がそうした三種類の人間に向かって,それらの生き方のうちでどれがいちばん快く楽しいかということを,ひとりひとり順番にたずねてみる気になったとしたら,それぞれが自分の生き方を最も褒め讃えるのではないかね。まず金儲けを事とする人間は,利得を得ることにくらべるならば,名誉を得ることの歓びや学ぶことの楽しみなどは,そうしたことが何か金になるのでもないかぎり,まったく何の価値もないと言うことだろうね?」(581C)

悪い順に言おうとしているのか,まず利得を愛する人の快楽について言われます。とにかく金,というヤな人間です (但し実際の欲望はもっといろいろあってここでは金を代表させているに過ぎないと思います)。この後,勝利を愛する人,知を愛する人についても快楽が言われますが,他の2つに該当する快楽を全く無視するのだと書かれているところは共通しています。
まあここでは理想的なサンプルを作っているだけで,実際の人間には,RGB で色が表されるように3つのそれぞれの重みが付けられてその人にとっての快楽が定義される,と考えないと一般性がないと思います。

「それなら次のようにして,考えてみたまえ。―いったい,物事が正しく判定されるためには,何によって判定されなければならないだろうか。経験と,思慮と,言論(理)によってではないだろうか?それとも,これらよりももっとすぐれた判定の基準が何かあるだろうか?」(582A)

とりあえずここで物事の判定基準が導入されます。
それから,「知を愛する者は,利得を得ることがもたらす快楽も知っている」ということも言われます。つまり包含関係ができていて,知を愛する人の経験⊃利得を愛する人の経験,ということのようです。次に続きます。

「では,名誉を愛する人とくらべてどうだろう?はたして後者が知恵をもつ楽しみに無経験である以上に,知を愛する人は名誉を得る楽しみに無経験だろうか?」
「いや,名誉というものは」と彼は言った,「人々がそれぞれ努力の目標としてきたことをなしとげるならば,おのずから彼らのすべてに与えられるものです。じっさい,富者も勇者も知者も,多くの人々から尊敬されることに変りはありませんからね。したがって,名誉を得ることがどのように楽しいかということについては,全部の者がその快楽を経験するわけです。」(582C)

ここで名誉を得る楽しみ(快楽)は,全部の者が知っている,というちょっと意外なことが言われます。具体的に,名誉を愛する人と利得を愛する人の比較がないので微妙ですが,利得を愛する人の経験⊃名誉を愛する人の経験,と言われているように取れます。
順位としては,名誉を愛する人は第2位ということになるので(後で述べられる),経験すべきでないことを経験するのが利得を愛する人…と言えるのでしょうか。まあ世の中,経験したくないとかしないほうがよいことも沢山あるので実感があるところではあります。

「それでは,以上の二点にわたって,以上のようにしてつづけて二度,正義の人は不正の人を打ち負かしたことになるだろう。つぎに三度目はオリュンピアの競技にならって,救い主にしてオリュンピアの神なるゼウスのために,さあ心して見てくれたまえ―思慮ある知者のもつ快楽をのぞいて他の人々の快楽は,けっして完全に真実の快楽ではなく,純粋の快楽でもなく,陰影でまことらしく仕上げられた書割の絵のようなものだということを。このことをぼくは,知者たちの誰かから聞いたことがあるように思うのだ。(583B)」

国制による比較,魂の区分による比較がこれまでになされましたが,次は3つ目として,真実の快楽についての考察がなされます。ここで言われた「陰影でまことらしく仕上げられた書割の絵」という言葉からは,「洞窟の比喩」が連想されます。そこから,イデアへの近さ,という観点なのかなとも思われますが実際にはもっと具体的に論じられます。

「ところで君は」とぼくは言った,「病人たちの言葉を思い出さないだろうか―彼らが病気に悩んでいるときに口にする言葉を?」
「どのような?」
「いわく,『健康であることほど快いものはない。だが病気になる前には,それが最も快いものだということに,自分は気づかずにいた』と」
「そのことなら思い出します」と彼は答えた。
「また,何かひどい苦痛に悩まされている人たちが,『苦痛の止むことほど快いことはない』と言うのを,君は聞かないだろうか?」(583C)

ということで,病気でない,苦痛がない,ということを快いものだと人は考えます。が,実際にはそれは「静止状態」であり積極的な快楽では決してない,とソクラテスは言います。
この手のモチーフはプラトン対話篇ではよく出てきます (例えば『ゴルギアス』)。同じ数直線上に並ぶもので,相対的 (定性的) には方向は合っているが,絶対的 (定量的) にはゼロというか原点の付近であってよい値になっているわけではない,という話でしょうか。

「してみるとそれは,実際にそうであるのではなく,ただそのように見えるだけなのだ」とぼくは言った,「すなわち,静止状態がそのときどきによって,苦と並べて対比されると快いことに見え,快と対比されると苦しいことに見えるというだけであって,こうした見かけのうちには,快楽の真実性という観点からみて何ら健全なものはなく,一種のまやかしにすぎぬということになる」(584A)

相対性ではなく絶対性を追求するプラトンらしい部分です。つまり,「である」のが絶対性,「見える」のが相対性であると思えます。

「しかしながら」とぼくは言った,「肉体を通じて魂にまで届くいわゆる快楽は,そのほとんど大多数のもの,最も主要なものが,この種類に属している。すなわち,いずれも苦痛からの解放と呼ばれてしかるべきものなのだ」
「たしかにそうですね」
「そして,快苦がこれから起ろうとするのに先立って,それへの予期から生じてくる予想的快楽や予想的苦痛もまた,これと同列のものといえないだろうか?」(584C)

大多数が実際は苦痛からの解放である,「肉体を通じて魂にまで届くいわゆる快楽」は具体的にはどういうものがあるのか?怪我や病気からの回復というのは分かりますが。ただここで言おうとしているのは,実は消去法的というか,背理法的なことなのかもしれません。本当の快楽とは知を愛し,真理に近づくことでありそれ以外ではないというような。
予想的快楽 (苦痛) というのも面白いです。日曜日の夜に翌日の仕事のことで憂鬱になったりするものが予想的苦痛でしょうか(笑)。確かに全く相対的なものではあります。

「では,君はどう思うかね―ある人が<下>から<中>へと運ばれるとき,その人は,自分が<上>へ運ばれているとしか考えないのではなかろうか?そして<中>のところに立って,自分がそこから運ばれてきたほうを見やりながら,自分はいま<上>にいるとしか考えないのではなかろうか?もしその人が,ほんとうの<上>というものを見たことがないとすればね」(584D)

これも「洞窟の比喩」を連想しますねえ。

「それならば同様にして,真理に無経験な人たちが,他の多くの事柄について不確かな考えをもつとともに,快楽と苦痛とそれらの中間状態に関してもまた,彼らが苦へと運ばれるときには正しく判断し,そして実際に苦しむのであるが,しかし他方,苦から中間状態へと運ばれるときには,充足と快に到達したとすっかり思い込んでしまうとしても,君はそれを不思議に思うだろうか?ちょうど白色を見たことがない人々が灰色を黒と対比させて眺める場合と同じように,彼らも,真の快楽を知らないために,たんに苦痛がないだけの状態を,苦痛との対比のもとに見ることによってだまされてしまうのだが,君はそのことを驚くだろうか?」(584E)

ということでここまでのまとめのようなことが言われます。
ただ,実際にここで言われるような「真の快楽」,ベクトルの向きが合っているだけではなくて本当にプラスの領域に辿り着くようなものを,達成するのはそう簡単ではないようにも思えます (最初から簡単なんて誰も言ってませんが…)。例えばプラトンが書いたものを読んで,何かしら自分によい影響があったとしても,それは読まない状態から読んだ状態という「相対的なもの」で,つまり良い方向ではあるとしても,絶対的にプラスに辿り着くものなのかどうかなんて分かりません。
それなら,何かしら自分の中から,自ずから生じて来るものがないと,真の快楽とは言えないのでは?と思うわけです。それを「真の快楽を『知る』こと」であると言えるのなら,プラトンの書くことと一致はするのですが。

「つねに不変にして不死なる存在と真理に関連をもつもの,そしてそれ自体もそのような性格で,そのような性格の存在のうちに生じるもののほうが,よりすぐれて存在すると君には思えるだろうか。それとも,片ときも同じ相を保つことのない死すべきものと関連をもつもの,そしてそれ自体もそのような性格で,そのような存在のうちに生じるもののほうだろうか?」
「それはもう」と彼は答えた,「つねに不変なる存在に関連をもつもののほうが,はるかにすぐれています」(585C)

ここの部分は『ティマイオス』などでも言われている「存在と生成」に繋がっていくことですね。哲人政治やイデアの考え方にも通底していて,極めてプラトン的だなあと思います。ただ,今を生きる自分などは,技術の進歩は速く,不変なものなどなく「変化せぬものは変化のみ」というヘラクレイトス・プロタゴラス的な考えにも実感があります。
多分どちらもあり,「不変なものなどない」という達観が思い上がりなのだという気がします。

「こうして,全般的に言って,身体に奉仕する種類のものは,魂に奉仕する種類のものよりも,真理と存在に与る程度が少ないということになるわけだね?」
「ええ,はるかに」
「そして身体そのものについても,魂とくらべて,同じことが言えるとは思わないかね?」(585D)

身体と魂版の「線分の比喩」といえるような内容です。つまり身体の変化するもの(AD)→身体の不変なもの(DC)→魂の変化するもの(CE)→魂の不変なもの(EB),という線分 (AC:CB = AD:DC = CE:EB) ができるのかもしれません。

「したがって,思慮 (知) と徳に縁のない者たち,にぎやかな宴やそれに類する享楽につねになじんでいる者たち,彼らはどうやら,<下> へと運ばれてはまたふたたび <中> のところまで運ばれるというようにして,生涯を通じてそのあたりをさまよいつづけるもののようだ。彼らはけっして,その領域を超え出て真実の <上> のほうを仰ぎ見たこともなければ,実際にそこまで運び上げられたこともなく,また真の存在によってほんとうに満たされたこともなく,確実で純粋な快楽を味わったこともない。むしろ家畜たちがするように,いつも目を下に向けて地面へ,食卓へとかがみこみ,餌をあさったり交尾したりしながら身を肥やしているのだ」(586A)

ここも「洞窟の比喩」が連想されるところですが…。自分はソクラテスが言うことが本当に分かっているのだろうか。結局は自分も<中>と<下>をさまよい続けるだけで終わる人間なのではないか。と思ってしまうところではあります。少し前にも書いたように,本当に <上> を知りたいのなら,繰り返し読んだり考えたりして自分自身から何かが出てくるのを根気よく待つしかないのかなと思います。少なくともプラトンは本気でこれを書いたわけなので,こちらも本気で考えないと不誠実で『国家』を読む意味がありませんが,それでも十分ではないのだと思います。
ともあれ後半部分から,「自分が家畜であってもそれは快楽か」という問いは,非常に印象的です。それが「真の快楽」ではないかどうかの分かりやすい判定方法かもしれません (嫌な判定ですが)。

「ところで君は知っているかね」とぼくはたずねた,「僭主(独裁者)は王とくらべて,どれほど不快な生活を送るかを?」
「教えていただければ,わかるでしょう」と彼は答えた。
「思うに,三つの快楽があるうちで,その一つは本物の快楽であり,あとの二つは贋物の快楽であるが,僭主(独裁者)は法と理とを逃れて,その贋の快楽のさらに向う側にまで超え出たうえで,奴隷の護衛隊にくらべられるような快楽といっしょに暮しているのだ。そして彼がどのくらい劣った生活を送っているかを語るのも,まったく容易ではない。強いて語るとすれば,おそらく次のようなことになるだろう」(587B)

ここで三つの快楽と言われているものは,解説によると,(1)王の快楽,(2)名誉支配制的な人の快楽,(3)寡頭制的な人間の快楽,ということになるようです。
この後,僭主の生活がどのくらい劣っているのかを,プラトン一流の計算が行われた結果,王の方が僭主の729倍快い生活を送っているということが言われます。

「さあ,これでよし」とぼくは言った,「いまやわれわれの議論がこの地点にまで到達した以上,ここでもう一度,最初に語られた言説を取り上げることにしようではないか。われわれがここまでやって来たのも,そもそもはこの言説のためだったのだからね。言われていたことは,たしかこうだった―完全に不正な人間でありながら,世間の評判では正しいと思われている者にとっては,不正をはたらくことが有利である,と。どうだね,このように言われたのではなかったかね?」
「たしかにそうでした」(588B)

変な計算を見せられて疲れてなんかよく分からなくなってきたところで,最初に戻ってきました。

「物語に出てくるような,大昔の怪物のどれか一つを思い浮べてくれたまえ」とぼくは言った,「キマイラとか,スキュラとか,ケルベロスといったようなね。そしてまだほかにも,いくつかの動物の姿が結びついて一つになっている怪物が,たくさんいたと言われている」(588C)

ここから卓越した比喩を使った話が始まります。ここで挙げられている怪物は,ファイナルファンタジー等のゲームをやったことがあればすぐ思い浮かべられますね。
詳細な描写は省きますが,(1)キマイラのような色んな頭を持つ怪物,(2)ライオン,(3)人間の3者が結び付けられ,そしてそれが外側からは1人の人間に見えるような人間(?)が想像させられます。

「さあそれでは,この人間にとって不正をはたらくことが有利であり,正義をなすことは利益にならない,と説く人に対して,われわれは,その主張の意味するところはまさしく次のようなことになるのだと,言って聞かせることにしようではないか。―すなわちこの人間にとっては,かの複雑怪奇な動物とライオンと,ライオンの仲間どもに御馳走を与えてこれを強くし,他方,人間を飢えさせ弱くして,動物たちのどちらかが連れて行くままにどこへでも引っぱられて行くようにしてしまうこと,そして二つの動物を互いに慣れ親しませて友愛の関係に置くことなく,動物たちが相互の間で噛み合い闘い合って,互いに相手を食い合うがままにさせておくこと,このようなことが利益になるのだとね」(588E)

特に書かれていませんが,前述した3つが,「欲望的部分」「気概的部分」「理知的部分」を表していることは明らかです。そして不正が有利であるということは,内なる人間は他の2者の思うがままになってしまうと…。比喩は卓抜で,直感的ではあるのですが,前から同じことを何度も言われているという気もしないでもありません。

「では他方,正義が有利であると説く人の主張は,われわれが言行ともに次のことを目ざさなければならないのだ,ということにほかならないのではなかろうか?―すなわち,内なる人間こそが最もよく人間全体を支配して,かの多頭の動物をみずからの配慮のもとに見守り,ちょうど農夫がするように,穏やかなものはこれを育てて馴らし,野生の荒々しいものは生え出ないように防止し,ライオンの種族を味方につけ,そして動物たちを,お互いに対しても内なる人間自身に対しても友愛の関係に置いたうえで,その全部を共通に気づかいながら,そのようにして養い育てることができるようにしなければならないのだと」(589A)

前の箇所の対句的な部分です。内なる人間が全体を支配する,というのは当然の流れです。他に「穏やか」「友愛」という言葉も目を引きます。少し後ですが,「醜い事柄とは,穏やかな部分を野獣的な部分の配下に従属させるような事柄ではないだろうか?」(589D)ともあります。

「だとすれば,あらゆる点からみて,正義を讃える人の説くところは真実であり,不正を讃える人の説くところは誤りであることになるだろう。なぜなら,快楽のことを考えてみても,評判や利益のことを考えてみても,正義の礼讃者は真実を語っているのに対して,正義をけなす人の言い分には何ひとつ当っているところがないし,またそもそも,自分が何をけなしているかを知らずにけなしているのだからね」(589C)

ここは正直難しいと思いました。全体の流れからすると当然ではあるのですが。また大勢に影響がある箇所でもないと思いますが。「正義の礼讃者が,自分が何を讃えているのかを知らずに讃える」ということはないのでしょうか。全体に言えることだと思いますが,プラトンの言うことは,細い針金の上をちゃんと通れる人にとって正しい,通れない人 (それが本当は大多数のはず) のことが考えられていない,という感じはあります。

「それなら」とぼくはつづけた,「そのように考えるならば,誰にせよ,不正に金を受け取ることが利益になるということが,そもそもありうるだろうか―もしその結果として,金を受け取ることによって同時に自分のうちの最善の部分を,最もたちの悪い部分の奴隷としてしまうことになるのだとしたら?
いいかね,もし金を受け取ることによって,息子なり娘なりを奴隷に―それも野蛮で悪い男たちの奴隷に―することになるとしたら,たとえそのために,巨万の富を手に入れたとしても,けっしてその人の利益になるとはいえないだろう。それなのに,自己の内なる最も神的なものを,最も神と縁遠い最も汚れた部分の奴隷として,何らいたましさを感じないとしたならば,はたしてそれでも彼は,みじめな人間だとはいえないだろうか?その人は,夫の命と引きかえに首飾りを受けとったエリピュレよりも,もっとはるかに恐ろしい破滅を代償に,黄金の贈物を受け取ることにならないだろうか?」(589D)

もしここに書かれているようなことに肯定できないなら,プラトンは合わないでしょうね。あるいは「哲学」という学問の視点でも特に目を瞠るべき部分ではないでしょうが。私は2,400年も前にプラトンがこれを書いていたということに,人として救いを感じます。

「また下賤な手細工仕事や手先の仕事といったものが,なぜ不名誉なものとされると思うかね?それはほかでもない,その人がもっている最善の部分が生まれつき弱くて,自分の内なる獣たちを支配する力がなく,仕えることしかできないようになっていて,ただ獣たちにへつらうことだけしか学ぶことができないような場合,ただそのことのためであると,われわれは言うべきではないだろうか?」(590C)

手細工仕事,手先の仕事が下賤で不名誉だと言われています。これは,皮革細工などがそういう扱いを受けている時代を連想しました。ただ現代では,実際にはもっと広義の労働者階級といえるのでしょう (当然自分も含まれる)。被支配者→自分を支配することができない,というレッテルを貼られるのは悔しいですが。まあ時代の違いもあるでしょう。

「そして明らかに」とぼくは言った,「法律というものも,国民すべての味方として,そのような意図をもっているのだ。子供たちを支配することもまた同じ。すなわち,われわれは同じこの意図のもとにこそ,子供たちの内部に―ちょうど国家の場合と同じように―ひとつの国制をうち立てるまでは,彼らを自由に放任することをしない。そして,彼らの内なる最善の部分をわれわれの内なる最善の部分によって養い育てることにより,同じような守護者と支配者を代りに子供のなかに確立してやって,そのうえではじめて,放免して自由にしてやるのだ」(590E)

子供たちを支配する,というのは教育と言い換えられると思いますが,「教育は法律と同等」ということになります。これは思わず唸りました。大人と子供も国家に見立てると。日本国の各地の教育委員会とかが喜びそうな話です。

「またどうして,不正をはたらきながら人に気づかれず,罰を受けないことが利益になると主張できるのだろうか?むしろ,真実はこうではあるまいか。―すなわち,不正が人目を逃れた者は,さらにいっそう悪い人間となるが,他方,人に気づかれて懲らしめを受ける者の場合は,その人の内なる獣的な部分が眠らされて穏やかになり,おとなしい部分が自由に解放される。」(591A)

「罰を受けることが利益」というのは『ゴルギアス』にも同様のことが書かれていました。

「つぎに,そのような人は」とぼくは言った,「身体の状態や養育を獣的で非合理な快楽に委ねて,そこにのみ関心を向けて生きる,というようなことをしないのはもちろん,健康を目標とすることさえなく,どうすれば強壮になり健康になり美しくなるかというようなことにしても,そのことから思慮の健全さが得られると期待できるのでないかぎりは,これを重要視することもないだろう。彼はつねに,魂の内なる協和音をもたらすためにこそ,身体の内なる調和をはかるのが見られるだろう」(591C)

私がダイエットや健康食品に飛びつく人に対して持っている意見と似ています(笑)。本当の健康というのは外面的なものではなく,魂に従属すると考えれば自然なことではあります。

「むしろ彼は」とぼくは言った,「自己の内なる国制に目を向けて,みずからの国制のなかにあるものを,財産の多寡によって,いささかでもかき乱すことのないように気をつけながら,できるかぎりこのような原則にもとづいて舵を取りつつ,財産をふやしたり消費したりすることだろう」(591E)

御意。

「するとそのような人は」と彼は言った,「国の政治に関することを,すすんで行なおうという気持にはならないでしょうね。もしもいま言われたようなことに,もっぱら気を使うのだとしたら」
「いや,犬に誓って」とぼくは言った,「自己自身の本来の国家においてならば,大いにその気持になるだろう。ただし現実の祖国においては,おそらくその気にならないだろうけれども。何か神の計らいによって,たまたまそういう機会が与えられるのでもないかぎりはね」(592A)

結局この「誰が政治家になるんだ問題」になります。第5巻での哲人政治論が想い起こされますが,ここでは現実の国家においては率直に降参してしまっています。これが,プラトンが現実の人生でここまで辿ってきたすえの政治に対する諦念である,と考えると重い言葉です。今現在の世界の国家に対しても,プラトンはどう言うでしょうか。

「だがしかし」とぼくは言った,「それはおそらく理想的な範型として,天上に捧げられて存在するだろう―それを見ようと望む者,そしてそれを見ながら自分自身の内に国家を建設しようと望む者のために。しかしながら,その国が現にどこかにあるかどうか,あるいは将来存在するだろうかどうかということは,どちらでもよいことなのだ。なぜなら,ただそのような国家の政治だけに,彼は参加しようとするのであって,他のいかなる国家のそれでもないのだから」
「当然そのはずです」と彼は答えた。(592B)

洋画のラストで俳優が語るセリフのような(いや洋画なんて滅多に見ないのでイメージですが…),すごいカッコいいフィナーレで第9巻が終わります。狭義には(第10巻はやや独立的な内容なので)これが『国家』自体のフィナーレで,第10巻は後日譚的なものと見ることもできるかもしれません。ここまで述べられた国家というものそれ自体も実はイデアである,という種明かしだった,という見方もできるのかもしれませんね。

ということで第9巻は以上。これで一応,第2巻以来の「不正は正義より得なのか?」という問いの答えになった,ということになるのだと思いますが (第10巻でも正義については言われます),読む人はこれで納得できるのでしょうか?…私は正直よく分かりませんでした(長かったというのもありますが)。結局のところ,「不正をなしたことに対する罰を与えることがその人にとって善である」ことを肯定するとか,そういう割と論理的というよりは寧ろ倫理的・宗教的に近い部分が土台になっているようにも思われるため,明確に「証明終わり」という感じはしませんね。
それでもプラトンが書こうとしたことは多少分かるつもりです。或いは真剣に向き合うことがこの『国家』を読む価値なのだろうと思います。プラトンにとっては常に,言葉で説明することの限界との闘い,ではなかったかと思います。

次回は第10巻。

プラトン『国家』第九巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第九巻を読んだときのメモ第1弾。

第八巻で,国制の話がなされ,<優秀者支配制><名誉支配制><寡頭制><民主制><僭主独裁制>について順に論じられましたが,<僭主独裁制>は途中までだったため,この第九巻はその続きから始まります。

長かった『国家』も,哲人政治,イデア (3つの比喩),国制といったヤマ場を越えながら段々収束に向かっていきます。序盤に張った伏線も少しずつ回収されているといった感もあります (といっても私自身も序盤をだいぶ忘れていますが)。
このメモも,だいぶ途中の中断が長かったりしましたが,多少力を抜いて終わりまで行ければと思います。

以下は読書時のメモです。

「ところで」とぼくは言った,「なおまだ物足りないと感じる点があるのだが,何かわかるかね?」
「どんな点でしょう?」
「欲望に関することだ。どれだけの数のどのような欲望があるかということを,われわれはまだじゅうぶん確定的にとらえていないような気がする。この点が不完全のままだと,われわれが目標としている問題の探求も,それだけ不明確なものとなるだろう」(571A)

僭主独裁制的な人間の考察の前に,欲望に関する話が入ります。第八巻でも,民主制の考察の谷間に「必要な欲望」「不必要な欲望」についての補題が入りましたが,その続きのような話です。

「不必要であるような快楽と欲望のうちには,不法なとも呼ばれるべきものがあるように思われる。そうした欲望はおそらく,すべての人の内に生まれついているものなのだが,しかし法によって懲らしめられ,また知性に助けられた他のより良い欲望にたしなめられて,ある人々の場合にはすっかり取り除かれ,残ったとしてもわずかで力の弱いものとなる。」(571B)

「眠りのうちに目覚めるような欲望のことだ」とぼくは言った,「すなわちそうした欲望は,魂の他の部分,理知的で穏やかで支配する部分が眠っているとき,他方獣的で猛々しい部分が,食物や酒に飽満したうえで,跳びはねては眠りを押しのけて外へ出ようと求め,自分の本能を満足させることを求めるようなときに,起るものだ。」(571C)

誰にでも恐ろしい欲望はあるが,それは法や知性によって抑制されると言われます。その欲望は「眠りのうちに目覚める欲望」だという言い方がされます。結構省略していますがこの後で,前に出てきた魂の理知的部分,欲望的部分,気概的部分をよく呼び覚まして眠ればそれは起きないということが言われます。

「しかしわれわれはこうした話に少し深入りしすぎて,わき道にそれてしまった。われわれが知りたいとのぞんでいる肝心の点は,要するに,各人の内にはある種の恐ろしい,猛々しい,不法な欲望がひそんでいて,このことは,われわれのうちできわめて立派な品性の持主と思われている人々とても例外ではないということ,そして,夢の中では,この恐ろしい欲望が明らかに現われること,こういうことなのだ。(572B)」

丸々3章分わき道にそれたりしていたわけで(五~七章),この位普通だと思いますがともあれ今回はすぐ軌道修正します。『歎異抄』の中で「さるべき業縁のもよほさば,いかなるふるまひもすべきとこそ」(第十三条)という言葉がありますが,誰にでも恐ろしい欲望が眠っていてそれがふと表に出るのではと恐れる点は似ているかもしれません。

「ではふたたび」とぼくは言った,「そのような人間がすでに年を取ったとき,彼に若い息子がいて,こんどは彼の習性のなかで育てられた場合を想定してくれたまえ」
「想定します」
「そしてさらに,ちょうど父親の身に起ったのと同じことが,この息子の場合にもくり返されるものと想定してくれたまえ。すなわちこの息子は,あらゆる不法のかぎりへ,誘惑者たちが全き自由と呼ぶところの生き方への,誘い導かれるのであるが,ここで,父親とその他の身内の者たちは先の中間的な欲望を支援し,他方誘惑者たちはこれに対抗して,反対の側を支援するというわけだ。」(572D)

ということで名誉支配性→寡頭制や,寡頭制→民主制と同じ道を辿ります。殆ど省略しますが,親の財産を取り上げたり,暴力を振るうといったようなどうしようもない息子の姿が描かれます。

「昔から恋の神エロースが独裁君主だと言われているのも」とぼくは言った,「こういう事情のためではないだろうか?」(573B)

「そして,わがよき友よ」とぼくは言った,「言葉の厳密な意味において僭主独裁制的な人間が出来上るのは,人が生まれつきの素質によって,あるいは生活の習いによって,あるいはその両方によって,酔っぱらいの特性と,色情的特性と,精神異常的特性とを合わせもつに至ったときなのだ」
「完全にそのとおりです」(573C)

例によって民主制的な人間の中に葛藤がある中で,「彼の内にひとつの恋の欲情を植えつけて…指導者として押し立てようとはかるのだ」(572D) と言われたため,エロースが独裁君主だと言われているようです。恋が理性を狂わせるというのはいくらでもありそうな話ですが,民主制→僭主独裁制の決め手が「恋」であるというのは唸ります。ただどちらかというと,欲望を呼び起こす最強のところのものが「恋」ということで所謂恋愛とは限らないのでしょう。(不必要な)欲望の源泉を「恋」と仮定することはなかなかないと思われるので印象に残ります。
いずれにせよ,誰でもが持っている欲望が呼び起された時に僭主独裁制的な人間になる,というのは怖い話です。

「彼らの内におびただしく孵化したはげしい欲望どもが叫び出し,そして彼らは,いわば他のさまざまの欲望に針を突きたてられるかのごとく,とりわけ,他のすべての欲望を護衛隊として従える恋の欲情そのものによって追いたてられるようにして,荒れ狂いながら,だまし取ったり力ずくで奪い取ったりすることのできる物持が誰かいないものかと,探しまわるのではないだろうか」(573E)

僭主独裁制的な人間がどうなるかですが,ここでも「恋」が出てきました。僭主独裁制のキーワードは「恋」なのでしょうか。

「何ともまあ」とぼくは言った,「僭主的な息子を生むということは,幸せなことのようだね!」
「ええ,まったく」と彼。(574C)

またソクラテスのこの手の皮肉というかボケのやり取りが出てきます。

「これらの考えは,以前,彼自身がまだ法と父親の規制下にあって自分の内に民主制を保っていたころは,睡眠中に夢のなかで解放されるだけのものであった。しかし,恋の欲情の僭主独裁制に支配されるに至って,いまや彼は目覚めながらつねに,かつて時たま夢のなかでしかならなかったような,まさにそのような人間になりきってしまって,どのようなおそるべき殺人からも,おそるべき食い物からも,おそるべき行為からも,身を引くことがなくなるだろう。恋の欲情は彼の内なる僭主(独裁者)として君臨しつつ,ありとあらゆる無政府状態と無法状態のうちに生き,恋自身が独裁者であるがゆえに,いわば国家に相当するところの,その欲情を内にもつ人間を導いて,あらゆる恥しらずのことを行なわせるだろうし,そうすることによって自分と自分を取り巻く騒々しい一団を養って行くだろう。」(574E)

僭主独裁制的な人間の行き着く先がまとめられているような箇所です。繰り返しではありますが,自分に眠る欲望が解放されることの恐ろしさを思わされます。

「それでは」とぼくは言った,「個人としての人間の判定にあたっても,それと同じことを要請するならば,ぼくは正当な要請をしたことになるだろうね。人間について判定する資格のあるのは,ただ,思惟によって人間の品性の内にまで入り込んで見抜く能力のある人,けっして子供のようにただ外から眺めて,独裁政権が外の人々に対して装っている華麗な見せかけによって目を眩まされることなく,じゅうぶんに見抜くような人だけであると,こう主張してよいだろうね?
ぼくとしては,われわれすべてはそのような人の言うところを聞かなければならないと思うのだが,どうだろう?すなわち,われわれが耳を傾けるべき人は,そうした判定能力をもつ上に,僭主と同じ屋根の下に暮したことがあって,家における彼のさまざまの行動に立ち合い,身内の者のひとりひとりに対して彼がどのような態度をとるかに親しく接したことのある人―けだし身内の者たちの中にいるときこそ,舞台用の衣装を脱いだ裸の姿が最もよく見られるだろうからね,―そしてまた公の場において危険に臨んだときの振舞にも,居合わせたことのある人でなければならない。」(576E)

前半は,話の流れとしては当然という感じでプラトンらしい書き方ですが,こういう人が人間について判定する資格がある,というのが自明なのかどうかはよく分かりません。
後半の部分は,第7巻で言われた「幸福者の島」から出てきた人という意味でしょうか。もしくは「洞窟の比喩」において一度外に出た後再び中に戻ったことのある人とも言えるかもしれません。。

「しかるにまた,僭主の独裁のもとに奴隷の状態にある国家は,自分の望む通りのことを行なうということが,最も少ないのではないかね」
「ええ,それはもう」
「してみると,僭主の独裁下にある魂もまた,魂全体について言えば,自分の望み通りのことを最もなしえない,ということになるわけだ。そのような魂は,たえまなく欲望の針によってむりやりに引きまわされて,騒乱と悔恨に満たされていることだろう」(577D)

国家のありようと,その支配者 (=ここでは僭主) の内面 (魂) は似たものであるということが言われた後で上のようなことが言われます (そもそも『国家』の第2巻以降では個人としての正義を考察するために,それよりマクロな人の集まり~国家を考えたのでした)。普通に考えると,例えばブラック企業のトップは社員から搾取して自分はのうのうと贅沢をしていて幸福といえるように思えますが,まあ現代の経済至上主義ではそれはそれで勝ちかもしれませんが,結局は自分の欲望を他人の犠牲に転嫁している時点で実は依存関係が逆転していて,ある種の束縛なのでしょう。

「しかし,こんどは個人としての僭主独裁制的な人間について,君は同じそうしたことに着目しながら,どのように言うだろうか?」
「他のさまざまの人間すべてのうちでも」と彼は答えた,「際立って最もみじめな人間であると」
「その点になると」とぼくは言った,「もはや君の言うことは正しくない」
「どうしてですか?」と彼はたずねた。
「そういう人は」とぼくは言った,「まだ最もみじめな人間であるとはいえないように思うのだがね」(578B)

「それはね」とぼくは言った,「もともと僭主独裁制的な性格の人間である上に,私人としての生活にとどまりつづけることができず,運悪く何かの不幸なめぐり合わせによって,みずからが実際に僭主(独裁者)となる羽目になった人のことだよ」(578C)

僭主独裁制的な人間が最悪ではない,というのは驚くところです。じゃあ何が最悪なのかというと,実際に僭主になった僭主独裁制的な人間と。ちょっと混乱します。角度にラジアンが導入されて,数値に使われていた π がいきなり角度に入ってきたというような感覚です。

「ではどうだろう,―かりにいま,ある神が,50人あるいはもっと多くの奴隷を所有している一人の男を,彼自身と妻子ともども国家のなかから選び出して,自由人の誰ひとりとして彼を助けに来るはずのないような寂しい場所へ,他の財産や召使たちといっしょに置き去りにしたと想像してみよう。そうなったときその男は,召使たちに殺されはしないかと,自分と子供たちと妻の身についてどのように恐れ,どれだけの恐怖におちいるだろうと思うかね?」(578E)

ここはちょっと怖いです。実際に私人として多くの奴隷をかかえているような人 (つまり僭主独裁制的な人間) が,独裁者的な立場においやられていく過程です。「自由人の誰ひとりとして彼を助けに来るはずのないような寂しい場所」でなければ,僭主独裁制的な性格であっても自分の奴隷から反逆されないと少し前に言われていて,それは国家が一般市民を保護しているからと言われています。ただ,今の視点でいえば,反逆が起きた方が寧ろ民主的であるという気もするのですが。

「それでは,僭主(独裁者)とは,まさにそれと同じような一種の牢獄の中に縛られているのではないだろうか―生まれつきわれわれが述べたような性格で,多くのありとあらゆる恐怖や欲情に満ち満ちている人間としてね。」(579B)

やっぱり僭主(独裁者)というのは人の怨みの上に立っているのが違う所だと思わされる一連の流れです。実際の所,誰か他の人を自分と同等に信用するのであればそれは僭主にはならないはずで,逆にそうでないということは常に出し抜かれる緊張を強いられるということでしょう。

「してみると,たとえそう思わない人がいたとしても,真実には,正真正銘の僭主(独裁者)とは,じつに最大のへつらいと隷属を行なうところの,正真正銘の奴隷なのであり,最も邪悪な者たちに仕える追従者にほかならないのだ。彼は自分のさまざまの欲望をいささかでも充足させるどころか,最も多くのものに不足していて,魂の全体を見てとる能力のある人の目には,真実には貧乏人であることが明らかだろう。」(579D)

奴隷(のような民)を所有している僭主が,正真正銘の奴隷だ,というのはパラドックスにも思えます。ここまで読んでいれば当然のようではあり,上にも引用してきたように僭主の魂は隷属状態だと言われています。

「『アリストンの息子は,次のように判定を下した。―最もすぐれていて最も正しい人間が最も幸福であり,そしてそれは,最も王者的で,自己自身を王として支配する人間のことである。他方,最も劣悪で最も不正な人間が最も不幸であり,そしてそれは,最も僭主独裁制的な性格である上に,自己自身と国家に対して,実際に最大限に僭主(独裁者)となる人間のことである』」(580C)

王者支配制的な人間から僭主独裁制的な人間までの5人で,「誰が何位か」という順位付けがされることになり,上記のようなことが言われます (ソクラテスが,こう布告しようか,という形で言うので二重括弧になっています)。最もすぐれた人間は王者であり,かつ自分自身を支配しているというのは前にも述べましたが『大学』の「国を治めるには家を治め,家を治めるには自己を治める」というような一節を連想します(ちょうど父親との関係にも例えられますしね)。

「さらにその布告につけ加えて,こう言い渡してもよいかね?」とぼくは言った,「『たとえすべての人間と神々に,そのような性格の人間であることが気づかれようと気づかれまいと,このことに変りはない』と」(580C)

この付け足しは肝要なところです。「気づかれようと気づかれまいと」というのは,第二巻で「正義や不正という,評判や,周りからどう映るかではなく,正義そのもの」が一体どんな利益があるか,というところから長い長い話が始まったからです(366E 辺り)。

というわけで,第二巻で提示され,その後の長い道を歩むことになった元の命題について,やっと答えらしきものが出てきました。といっても命題自体を忘れてしまったりするほど色々ありましたが…。尤も,答えは名言されなくても,実はずっとソクラテスの土俵で,その答えを前提にした対話が展開されてきたという感じもします。

続きはメモ第2段にて。