プラトン『プロタゴラス』((プラトン全集 (岩波) 第8巻) を読んだときのメモ。
第2段です。第1弾はこちら。
なお,実は私がプラトンの著作を読んだのは,実はこの『プロタゴラス』が最初でした。その時は光文社古典新訳文庫で,何となく読みやすそうだったので買ってみたのですが実際,『プロタゴラス』自体が読みやすかったのだと思います…岩波プラトン全集の中でも今のところかなり読みやすい部類だと思います。ただ,それから今で1年半くらい経って,殆ど中身を忘れていました。
やっぱりこのブログのようなメモを残しておかないと後で振り返れないな,というのが1つ。
それと,プラトンの本は,抽象的というか,読んだところで何かが分かった気がするものではなく,読みながら対話者と一緒に考えることに意味があるのかなと思っています,というのがもう1つ。
以下,読書時のメモです。
「あなたは,不正を行ないながら分別 (節制) のあるような人々がいると思われますか」(333D のソクラテス)
「それは」とぼくは言った,「不正行為がうまくいく場合のことでしょうか,まずいことになる場合でしょうか」(ソクラテス)
「うまくいく場合だ」(プロタゴラス) (333D)
ここは,「徳は教育可能か」という話題から転換して,徳というものを構成する部分,ここでは知恵,勇気,正義,節度,敬虔,のそれぞれの関係についてソクラテスがプロタゴラスに肉薄する場面の一部です。「もし徳がある人が不正を行なうとして,それはうまくいくことが善いことなのか,まずいことになるのが善いことなのか」というのはパラドックス的ですが,プラトンの著書にたまに見られる論法で,『ゴルギアス』では「不正を行ないながら罰を受けることより,不正を行ないながら罰を受けないことが最も不幸である」と書かれていたことを思い出しました。
ここでふと「ソフトウェアの品質」ということを思い浮かべました。ソフトウェアの品質というのも割と漠然とした言葉ですが,一応 ISO 9126 という標準では,「機能性」「信頼性」「使用性」「効率性」「保守性」「移植性」というものが定義されています。これが前述の,徳とそれを構成する部分と少し似ています。
とすると,同じように「品質の高いと謳われるソフトウェアがあるとして,実態は信頼性は高いが使用性は悪い,というものがあるとする。このソフトウェアが,使用性の悪さが正しく認識されず (または気づかれず) に従来どおりに品質が高いという評価を受けることと,使用性の悪さを正しく認識して (あるいはソフトウェアの責任者自らが指摘して) 品質が従来ほど高くないという評価を受けること,どちらが善いことなのか?」という問いが可能かなと思います。これはあくまで一例で,信頼性と使用性を当てはめたのは適当です。しかもソフトウェアの品質に完璧なものなどないので場合によってどれを重視するかは匙加減です。しかし「品質」というある意味曖昧で,その分都合よく使われる言葉に対しては,実態を伴わずに言葉が独り歩きするよりは,悪い部分は悪いと正しく評価されるほうが,そのソフトウェアにとって「善い」ことなのではないか…ソクラテスとプロタゴラスの対話から,そんなことを考えました。
「とにかく私の聞くところによりますと」とぼくは言った,「あなたという方は,同じ事柄を扱いながら,その気になれば,けっして言葉の尽きるときを知らないほど長い弁論を展開することもできるし,また他方では,誰もあなたより短く話せないくらいに短い話をすることもできる,それもあなた自身がそうするだけでなく,他人にその能力を授けることもできる,という話です。それでしたら,もしこの私を相手に話し合うおつもりなら,あとのほうのやり方,短い話し方を私に対して適用していただきたいのです」(334E のソクラテス)
この辺りで,対話のやり方でソクラテスとプロタゴラスでひと悶着あり (基本的にソクラテスは禅問答のような端的な対話を好み,演説調の対話は好まない),ソクラテスが席を立とうとする場面もあります。なんにせよプロタゴラスの特徴をよく表現した部分だと思います。
「満場の諸君,私は諸君のすべてが同族の間柄であり,近親であり,同市民であると考える―ただし法においてではなく,自然において。なぜならば,相似たる者は自然において互いに同族の間柄にあるのであるが,これに対して法は,人の世を支配する専制君主であって,多くの反自然的なことを強制するからである」(337C のソクラテス)
これはプロタゴラスへではなく,ソクラテスとプロタゴラスの対話を聞いている観衆に向けて言われた言葉です (演説調ですが,対話ではないのでよいのでしょう)。しかしこの「自然において同属だが,法においてはそうでない。法は人の世を支配する専制君主である」というのは示唆のある言葉です。プラトンは『国家』で哲学者による政治を説いたり,『ポリティコス(政治家)』でも種々の政体が法律遵守的であるならば民主制は最も劣悪であると書くなど,必ずしも法律による統治がよいものとは書いていません。
「かくして,まさにこのこと (メモ註:スパルタの人は,はじめは言論において凡庸な資質しか示さないが,論議がすすむと,投槍の達人のように,突如はっとするような,短く圧縮された言葉を投ずる) に気づいて,スパルタ主義とは本来,体育の愛好よりは,むしろはるかに知恵の愛好にあるのだという事実を看破した人々は,いまの世にもむかしの世にも,けっしていないわけではありません。そういう人々は,如上のごとき寸言を発することができるということは,完全なる教育を身につけた人間にしてはじめて可能なのだということを知っているからであります」 (342E のソクラテス)
この辺りは,ソクラテスがシモニデスの「すぐれた人になることは難しい」と,「すぐれた人であることは難しい」という言葉の違いを延々と説明する部分で,あまり面白くないのですが,よく言われるスパルタ主義 (スパルタ教育) というものの,一般的な認識に対する反論が行なわれていてちょっと目に付きました。
「つまり,善き者には悪い者になる余地がのこされているわけなのであって,…これに反して,悪しき者には悪化の余地がなく,つねに悪しき者であることが必然なのです。」(344D のソクラテス)
「では,たとえば悪しき医者となる可能性のあるのは,いかなる人でしょうか。いうまでもなくその人は,まず第一に医者であること,つぎにすぐれた医者であること,これだけの条件をそなえていなければなりません。なぜなら,そのような人にしてはじめて,また悪しき医者になることもありうるでしょうから。」(345A のソクラテス)
「しかし悪しき人が悪しき人になるということは,けっしてありえないでしょう。なぜなら,つねに悪しき人であるのですから,いやしくも悪しき者となるためには,その人はまずその前に,すぐれた者とならなければならないのです。」(346B のソクラテス)
「悪しき人になるのは善い人のみ」ということが言われます。つまり悪い人=善くない人,ということになります。プラトンの対話篇ではこのある意味デジタル的な対話の展開が結構多いです。でも現実には,悪くも善くもないと思われる人が多いというのが実感ではあり,ピンと来ません。
「これに反してあなたは,あなた自身がすぐれた人物であるとともに,ほかの人々をそうすることもできるのです。しかも,あなたの自信のすばらしさたるやどうでしょう。ほかの人たちはこの技術をかくしているというのに,あなただけは,あまねくギリシアの人々に公公然と自分を宣伝して,ソフィストとして名乗りをあげ,自分が教育をうけもち徳を教える教師であることを標榜したうえで,そのための報酬を受けとることを要求した最初に人なのですからね。」(348E のソクラテス)
これはソクラテスがプロタゴラスを揶揄した言葉だと思いますが,ソフィストをソクラテス (というかプラトン) がどう考えているかというのがよく表れている言葉だと思います。それは,報酬を受け取ることとともに,メモ(1) で考えたように,「そうであるもの」ではなく「そうであると思われるもの」を教えるということを非難していると考えられます。
「―知恵と節制 (分別) と勇気と正義と敬虔と,これらのものは,名前は五つあるけれども,さし示すものは一つなのであるか。それとも,これらひとつひとつの名前のもとには,それぞれ独自のあり方をもった何かが実際に対応していて,それぞれ自己自身の機能をもち,そのひとつは他と同じ性格のものではないのであるか―」(349B のソクラテス)
ここまで例によって話題が飛んで何を話していたのか分からなくなっていたので,ソクラテス自身から問題の再提示です。こういう話題の整理があると読み手としては助かります…割と他の対話篇でもあります。
「してみると,楽しく生きることは善いこと (善),不快な生を送ることは悪いこと (悪) なのですよ」
「そう。ただし」と彼は言った,「立派な事柄を楽しみながら生きるならば,だがね」
「何ですって,プロタゴラス?まさかあなたまでが,多くの人々と同じように,ある種の楽しみは悪であり,ある種の苦しみは善であると呼ぶのではないでしょうね。私の言うのは,楽しいものは,それが楽しいものであるということだけに観点を置くかぎりは,善なのではないかという意味なのであって,そこから何かほかのことが結果するのかどうかは,問題にしないのですよ?…」
「さあね,ソクラテス」と彼は言った,「はたして君がきいているような単純な仕方で,楽しいものは何もかも善いもの,苦しいものは何もかも悪いものだと答えてよいものかどうか―。いや私としては,いま私のあたえるべき答のことだけでなく,私の残りの全生涯のことを考慮してみても,こう答えておくほうが無難なように思える。すなわち,楽しいもののなかには善でないものがあり,他方,苦しいもののなかにも,悪でないものもあれば,悪であるものもあり,第三番目に,善悪どちらでもないようなものもある,とね」(351C)
「さあそれでは,この私といっしょに世人を説得して,よく教えてやるようにつとめてください―彼らの経験するこの状態,すなわち彼らの言うところによると,快楽に負け,そのために何が最善かを知りながら行なわないというこの状態は,そもそも何を意味するかを。」(352E)
これがメモ(1)に取り上げた「徳は教育可能か」に引き続き,本対話篇でこれはと思ったテーマです。つまりここで,ソクラテスは「快楽は善,苦痛は悪」と言っています。正直あまりソクラテスらしくないと感じます。
「『してみると,君たちが悪と考えているのは結局,ほかならぬ苦痛のことであり,善と考えているのは快楽のことなのだ。なぜなら,楽しむことそれ自体までも君たちが悪と呼ぶことがあるのは,いかなる場合かというと,それは,その行為自身が直接もっている快楽よりもさらに大きな快楽が,それによってうばわれるような場合,あるいは,それ自身の内にある快楽よりもさらに大きな苦痛が,それによってもたらされるような場合なのだから。事実,もし君たちがこれ以外の根拠にもとづき,窮極の理由としてこれ以外の何かに目を向けながら,楽しむことそれ自体を悪と呼んでいるのであれば,君たちはそれをわれわれにも言えるはずだが,しかしそうすることはできないだろう』」(354C,仮の聞き手に言うソクラテス)
ソクラテスは,「快楽が仮に悪であると呼ばれるならば,それは別の形でより大きな快楽を奪われる (苦痛を味わう) からである」と言っています。言い換えると,そのものは快楽であっても,時間なり空間なりで積分した結果が苦痛になるから悪である,と。積分した結果も同様に快楽 (の度合い) でしか計れない以上―計れないだろうとソクラテスがここで言っているわけですが―,結局は「快楽→善」かどうかに帰着することになります。
「『よろしい,諸君。ところで実際には,われわれにとって生活を安全に保つ途は,快楽と苦痛を正しく選ぶこと,その多少,大小,遠近を誤たずに評価して選ぶことにあることが明らかになったのであるから,そこに要求されるものは,まず第一に,計量の技術であることは明らかではないだろうか。それは,相互のあいだの超過と不足と等しさとをしらべるものなのだから』」(357A)
「『したがって,快楽に負けるとは何を意味するかというと,それは結局最大の無知にほかならないことになるのである。ここにいるプロタゴラスやプロディコスやヒッピアスは,自分こそはこの無知を癒す医者であると主張しているわけだ』」(357E)
ということで,結局は「計量の技術の欠如」「無知」が,快楽に負ける原因と言っています。
「そうすると」とぼくは言った,「悪―ないしは悪と思う事柄―のほうへ自分からすすんでおもむくような者は,誰もいないのではありませんか。また思うにそのようなことは―善をさしおいて悪と信じるもののほうへ行こうとするようなことは―もともと人間の本性の中にはないのではありませんか。そして,二つの悪のうちどちらかを選ばなければならないときに,小さい悪を選ぶことができるのにもかかわらず,より大きいほうの悪をとるような者は,誰もいないのではありませんか」(358C のソクラテス)
ここに至っては当たり前のことを言っているだけです。では何が違和感なのか?
しかし自分もソクラテスのここの論調を本当には分からないのかもしれません。というのも,こう言っているソクラテス自身がどういう生活を送っているのかというと,少なくともプロタゴラス等ソフィストと対照する限りにおいては,清貧な生活を送っているわけです。なので,「快楽は善」というのを突き詰めた結果,ソクラテスのような哲学者?になるのだとしたら,その境地は遠くにあるのだなと思います。尤も他の対話篇ではまた別のことを言っているので (例えば『ピレボス』では,「思慮の生活を選んだ者は,快苦を感じない生活に何のさわりもなく,それが神に近い生活である」などと書くなど,快楽自体を善であると主張するピレボスと対立していた),なんともいえませんが。
ソクラテスは最後に全体をふり返って,その皮肉な結末に注意を促している (361A~C)。すなわち,ソクラテスはいま正義も節制も勇気も,すべての徳は<知>に帰着することを証明しようとしたが,しかし徳が<知>であるならば徳は教えられうるはずであり,この点について彼が最初表明していた否定的な見解と矛盾する。他方プロタゴラスも,議論の当初には徳が教えられうることを力説していたのに,いまは徳が<知>であることへの同意を極力避けようとすることによって,結果的には最初と反対の主張をするに至っている,と。(解説)
と,解説でまとめられているように,本対話篇は結局,双方の主張がそのまま通るというものではなく,ある意味でお互いが歩み寄る形で真相があいまいになります。まあ私のような読み手にとっては,結論はどうでもよく,対話の過程が非常に面白い対話篇でした。
次は7巻に戻って『テアゲス』の予定。