プラトン『プロタゴラス』メモ(2)

プラトン『プロタゴラス』((プラトン全集 (岩波) 第8巻) を読んだときのメモ。
第2段です。第1弾はこちら

なお,実は私がプラトンの著作を読んだのは,実はこの『プロタゴラス』が最初でした。その時は光文社古典新訳文庫で,何となく読みやすそうだったので買ってみたのですが実際,『プロタゴラス』自体が読みやすかったのだと思います…岩波プラトン全集の中でも今のところかなり読みやすい部類だと思います。ただ,それから今で1年半くらい経って,殆ど中身を忘れていました。
やっぱりこのブログのようなメモを残しておかないと後で振り返れないな,というのが1つ。
それと,プラトンの本は,抽象的というか,読んだところで何かが分かった気がするものではなく,読みながら対話者と一緒に考えることに意味があるのかなと思っています,というのがもう1つ。

以下,読書時のメモです。

「あなたは,不正を行ないながら分別 (節制) のあるような人々がいると思われますか」(333D のソクラテス)
「それは」とぼくは言った,「不正行為がうまくいく場合のことでしょうか,まずいことになる場合でしょうか」(ソクラテス)
「うまくいく場合だ」(プロタゴラス) (333D)

ここは,「徳は教育可能か」という話題から転換して,徳というものを構成する部分,ここでは知恵,勇気,正義,節度,敬虔,のそれぞれの関係についてソクラテスがプロタゴラスに肉薄する場面の一部です。「もし徳がある人が不正を行なうとして,それはうまくいくことが善いことなのか,まずいことになるのが善いことなのか」というのはパラドックス的ですが,プラトンの著書にたまに見られる論法で,『ゴルギアス』では「不正を行ないながら罰を受けることより,不正を行ないながら罰を受けないことが最も不幸である」と書かれていたことを思い出しました。

ここでふと「ソフトウェアの品質」ということを思い浮かべました。ソフトウェアの品質というのも割と漠然とした言葉ですが,一応 ISO 9126 という標準では,「機能性」「信頼性」「使用性」「効率性」「保守性」「移植性」というものが定義されています。これが前述の,徳とそれを構成する部分と少し似ています。
とすると,同じように「品質の高いと謳われるソフトウェアがあるとして,実態は信頼性は高いが使用性は悪い,というものがあるとする。このソフトウェアが,使用性の悪さが正しく認識されず (または気づかれず) に従来どおりに品質が高いという評価を受けることと,使用性の悪さを正しく認識して (あるいはソフトウェアの責任者自らが指摘して) 品質が従来ほど高くないという評価を受けること,どちらが善いことなのか?」という問いが可能かなと思います。これはあくまで一例で,信頼性と使用性を当てはめたのは適当です。しかもソフトウェアの品質に完璧なものなどないので場合によってどれを重視するかは匙加減です。しかし「品質」というある意味曖昧で,その分都合よく使われる言葉に対しては,実態を伴わずに言葉が独り歩きするよりは,悪い部分は悪いと正しく評価されるほうが,そのソフトウェアにとって「善い」ことなのではないか…ソクラテスとプロタゴラスの対話から,そんなことを考えました。

「とにかく私の聞くところによりますと」とぼくは言った,「あなたという方は,同じ事柄を扱いながら,その気になれば,けっして言葉の尽きるときを知らないほど長い弁論を展開することもできるし,また他方では,誰もあなたより短く話せないくらいに短い話をすることもできる,それもあなた自身がそうするだけでなく,他人にその能力を授けることもできる,という話です。それでしたら,もしこの私を相手に話し合うおつもりなら,あとのほうのやり方,短い話し方を私に対して適用していただきたいのです」(334E のソクラテス)

この辺りで,対話のやり方でソクラテスとプロタゴラスでひと悶着あり (基本的にソクラテスは禅問答のような端的な対話を好み,演説調の対話は好まない),ソクラテスが席を立とうとする場面もあります。なんにせよプロタゴラスの特徴をよく表現した部分だと思います。

「満場の諸君,私は諸君のすべてが同族の間柄であり,近親であり,同市民であると考える―ただし法においてではなく,自然において。なぜならば,相似たる者は自然において互いに同族の間柄にあるのであるが,これに対して法は,人の世を支配する専制君主であって,多くの反自然的なことを強制するからである」(337C のソクラテス)

これはプロタゴラスへではなく,ソクラテスとプロタゴラスの対話を聞いている観衆に向けて言われた言葉です (演説調ですが,対話ではないのでよいのでしょう)。しかしこの「自然において同属だが,法においてはそうでない。法は人の世を支配する専制君主である」というのは示唆のある言葉です。プラトンは『国家』で哲学者による政治を説いたり,『ポリティコス(政治家)』でも種々の政体が法律遵守的であるならば民主制は最も劣悪であると書くなど,必ずしも法律による統治がよいものとは書いていません。

「かくして,まさにこのこと (メモ註:スパルタの人は,はじめは言論において凡庸な資質しか示さないが,論議がすすむと,投槍の達人のように,突如はっとするような,短く圧縮された言葉を投ずる) に気づいて,スパルタ主義とは本来,体育の愛好よりは,むしろはるかに知恵の愛好にあるのだという事実を看破した人々は,いまの世にもむかしの世にも,けっしていないわけではありません。そういう人々は,如上のごとき寸言を発することができるということは,完全なる教育を身につけた人間にしてはじめて可能なのだということを知っているからであります」 (342E のソクラテス)

この辺りは,ソクラテスがシモニデスの「すぐれた人になることは難しい」と,「すぐれた人であることは難しい」という言葉の違いを延々と説明する部分で,あまり面白くないのですが,よく言われるスパルタ主義 (スパルタ教育) というものの,一般的な認識に対する反論が行なわれていてちょっと目に付きました。

「つまり,善き者には悪い者になる余地がのこされているわけなのであって,…これに反して,悪しき者には悪化の余地がなく,つねに悪しき者であることが必然なのです。」(344D のソクラテス)
「では,たとえば悪しき医者となる可能性のあるのは,いかなる人でしょうか。いうまでもなくその人は,まず第一に医者であること,つぎにすぐれた医者であること,これだけの条件をそなえていなければなりません。なぜなら,そのような人にしてはじめて,また悪しき医者になることもありうるでしょうから。」(345A のソクラテス)
「しかし悪しき人が悪しき人になるということは,けっしてありえないでしょう。なぜなら,つねに悪しき人であるのですから,いやしくも悪しき者となるためには,その人はまずその前に,すぐれた者とならなければならないのです。」(346B のソクラテス)

「悪しき人になるのは善い人のみ」ということが言われます。つまり悪い人=善くない人,ということになります。プラトンの対話篇ではこのある意味デジタル的な対話の展開が結構多いです。でも現実には,悪くも善くもないと思われる人が多いというのが実感ではあり,ピンと来ません。

「これに反してあなたは,あなた自身がすぐれた人物であるとともに,ほかの人々をそうすることもできるのです。しかも,あなたの自信のすばらしさたるやどうでしょう。ほかの人たちはこの技術をかくしているというのに,あなただけは,あまねくギリシアの人々に公公然と自分を宣伝して,ソフィストとして名乗りをあげ,自分が教育をうけもち徳を教える教師であることを標榜したうえで,そのための報酬を受けとることを要求した最初に人なのですからね。」(348E のソクラテス)

これはソクラテスがプロタゴラスを揶揄した言葉だと思いますが,ソフィストをソクラテス (というかプラトン) がどう考えているかというのがよく表れている言葉だと思います。それは,報酬を受け取ることとともに,メモ(1) で考えたように,「そうであるもの」ではなく「そうであると思われるもの」を教えるということを非難していると考えられます。

「―知恵と節制 (分別) と勇気と正義と敬虔と,これらのものは,名前は五つあるけれども,さし示すものは一つなのであるか。それとも,これらひとつひとつの名前のもとには,それぞれ独自のあり方をもった何かが実際に対応していて,それぞれ自己自身の機能をもち,そのひとつは他と同じ性格のものではないのであるか―」(349B のソクラテス)

ここまで例によって話題が飛んで何を話していたのか分からなくなっていたので,ソクラテス自身から問題の再提示です。こういう話題の整理があると読み手としては助かります…割と他の対話篇でもあります。

「してみると,楽しく生きることは善いこと (善),不快な生を送ることは悪いこと (悪) なのですよ」
「そう。ただし」と彼は言った,「立派な事柄を楽しみながら生きるならば,だがね」
「何ですって,プロタゴラス?まさかあなたまでが,多くの人々と同じように,ある種の楽しみは悪であり,ある種の苦しみは善であると呼ぶのではないでしょうね。私の言うのは,楽しいものは,それが楽しいものであるということだけに観点を置くかぎりは,善なのではないかという意味なのであって,そこから何かほかのことが結果するのかどうかは,問題にしないのですよ?…」
「さあね,ソクラテス」と彼は言った,「はたして君がきいているような単純な仕方で,楽しいものは何もかも善いもの,苦しいものは何もかも悪いものだと答えてよいものかどうか―。いや私としては,いま私のあたえるべき答のことだけでなく,私の残りの全生涯のことを考慮してみても,こう答えておくほうが無難なように思える。すなわち,楽しいもののなかには善でないものがあり,他方,苦しいもののなかにも,悪でないものもあれば,悪であるものもあり,第三番目に,善悪どちらでもないようなものもある,とね」(351C)
「さあそれでは,この私といっしょに世人を説得して,よく教えてやるようにつとめてください―彼らの経験するこの状態,すなわち彼らの言うところによると,快楽に負け,そのために何が最善かを知りながら行なわないというこの状態は,そもそも何を意味するかを。」(352E)

これがメモ(1)に取り上げた「徳は教育可能か」に引き続き,本対話篇でこれはと思ったテーマです。つまりここで,ソクラテスは「快楽は善,苦痛は悪」と言っています。正直あまりソクラテスらしくないと感じます。

「『してみると,君たちが悪と考えているのは結局,ほかならぬ苦痛のことであり,善と考えているのは快楽のことなのだ。なぜなら,楽しむことそれ自体までも君たちが悪と呼ぶことがあるのは,いかなる場合かというと,それは,その行為自身が直接もっている快楽よりもさらに大きな快楽が,それによってうばわれるような場合,あるいは,それ自身の内にある快楽よりもさらに大きな苦痛が,それによってもたらされるような場合なのだから。事実,もし君たちがこれ以外の根拠にもとづき,窮極の理由としてこれ以外の何かに目を向けながら,楽しむことそれ自体を悪と呼んでいるのであれば,君たちはそれをわれわれにも言えるはずだが,しかしそうすることはできないだろう』」(354C,仮の聞き手に言うソクラテス)

ソクラテスは,「快楽が仮に悪であると呼ばれるならば,それは別の形でより大きな快楽を奪われる (苦痛を味わう) からである」と言っています。言い換えると,そのものは快楽であっても,時間なり空間なりで積分した結果が苦痛になるから悪である,と。積分した結果も同様に快楽 (の度合い) でしか計れない以上―計れないだろうとソクラテスがここで言っているわけですが―,結局は「快楽→善」かどうかに帰着することになります。

「『よろしい,諸君。ところで実際には,われわれにとって生活を安全に保つ途は,快楽と苦痛を正しく選ぶこと,その多少,大小,遠近を誤たずに評価して選ぶことにあることが明らかになったのであるから,そこに要求されるものは,まず第一に,計量の技術であることは明らかではないだろうか。それは,相互のあいだの超過と不足と等しさとをしらべるものなのだから』」(357A)
「『したがって,快楽に負けるとは何を意味するかというと,それは結局最大の無知にほかならないことになるのである。ここにいるプロタゴラスやプロディコスやヒッピアスは,自分こそはこの無知を癒す医者であると主張しているわけだ』」(357E)

ということで,結局は「計量の技術の欠如」「無知」が,快楽に負ける原因と言っています。

「そうすると」とぼくは言った,「悪―ないしは悪と思う事柄―のほうへ自分からすすんでおもむくような者は,誰もいないのではありませんか。また思うにそのようなことは―善をさしおいて悪と信じるもののほうへ行こうとするようなことは―もともと人間の本性の中にはないのではありませんか。そして,二つの悪のうちどちらかを選ばなければならないときに,小さい悪を選ぶことができるのにもかかわらず,より大きいほうの悪をとるような者は,誰もいないのではありませんか」(358C のソクラテス)

ここに至っては当たり前のことを言っているだけです。では何が違和感なのか?
しかし自分もソクラテスのここの論調を本当には分からないのかもしれません。というのも,こう言っているソクラテス自身がどういう生活を送っているのかというと,少なくともプロタゴラス等ソフィストと対照する限りにおいては,清貧な生活を送っているわけです。なので,「快楽は善」というのを突き詰めた結果,ソクラテスのような哲学者?になるのだとしたら,その境地は遠くにあるのだなと思います。尤も他の対話篇ではまた別のことを言っているので (例えば『ピレボス』では,「思慮の生活を選んだ者は,快苦を感じない生活に何のさわりもなく,それが神に近い生活である」などと書くなど,快楽自体を善であると主張するピレボスと対立していた),なんともいえませんが。

ソクラテスは最後に全体をふり返って,その皮肉な結末に注意を促している (361A~C)。すなわち,ソクラテスはいま正義も節制も勇気も,すべての徳は<知>に帰着することを証明しようとしたが,しかし徳が<知>であるならば徳は教えられうるはずであり,この点について彼が最初表明していた否定的な見解と矛盾する。他方プロタゴラスも,議論の当初には徳が教えられうることを力説していたのに,いまは徳が<知>であることへの同意を極力避けようとすることによって,結果的には最初と反対の主張をするに至っている,と。(解説)

と,解説でまとめられているように,本対話篇は結局,双方の主張がそのまま通るというものではなく,ある意味でお互いが歩み寄る形で真相があいまいになります。まあ私のような読み手にとっては,結論はどうでもよく,対話の過程が非常に面白い対話篇でした。

次は7巻に戻って『テアゲス』の予定。

プラトン『プロタゴラス』メモ(1)

プラトン『プロタゴラス』((プラトン全集 (岩波) 第8巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,直接の舞台設定としては,友人がソクラテスを訪ねてきたときに,ソクラテスがプロタゴラスと対話した前日を回想するというものですが,実質的には,(プロタゴラスを訪れる過程も含めて) その前日のプロタゴラスとの対話がメインです…まあ題名からしても当然ですが。
その前日の深夜に,「プロタゴラスが (アテナイに) 来た」とヒッポクラテスがわざわざソクラテスを訪ねてくるくらいなので,プロタゴラスがいかに有名だったかが分かります。

本対話篇は,さすがプロタゴラスと思わせるような論説もあります。一方で,対話の劇場型の展開も面白いところで,途中,アルキビアデス,ヒッピアス,プロディコス,カリアスなども出てきます (対話の舞台はカリアス邸です)。

ちなみに副題は「ソフィストたち」で,ソフィストの中のソフィストであるプロタゴラスに,上で述べたようなソフィストも出てくるのでそのままの副題です。プラトンのソフィストについての対話篇は,名前どおり『ソピステス』や,やはり著名なソフィストである『ゴルギアス』などもあります。また,プロタゴラスについては,私がメモを残していない時期でしたが『テアイテトス』にも詳しく出てきていました…確かソクラテスがプロタゴラスに憑依されて話をするというような変わった現れ方でした。

なお,本対話篇のメモは長いため,2つに分ける予定です。この (1) は前半の,「徳は教えられるか」というテーマ,(2) は後半の,「楽しいものは何でも善いものなのか」というテーマが中心になると思います。

ソクラテスの友人「どこからやってきた?ソクラテス。言わずとしれたこと,アルキビアデスの青春を追いまわしてきたところなのだろうね。じっさい,ついこのあいだもぼくはこの目でみたが,あいかわらず美しい男だと思ったよ。だが,もう男だね,ソクラテス―われわれのあいだだけの話だが。もうすっかり鬚も生えはじめているし。」
ソクラテス「それがいったい,どうしたというのだ。君は,「鬚生えそめし若さこそ,げに優美さのきわみなれ」と言ったホメロスの賛美者ではなかったのか?アルキビアデスは,いままさにそういう若盛りにあるのだ。」(309A)

この怪しい会話で本篇が始まり,時系列的には現在になります。冒頭にも書きましたが,ソクラテスがプロタゴラスを訪ねたのは前日のことで,この後,この友人に当時の様子を話すという設定です。

「それならひとつ,言ってみてくれたまえ。君の考えではソフィストとは何ものなのかね」(ソクラテス)
「私の承知しているところでは,ソフィストとは,まさに読んで字のごとく,賢い事柄を知っている人にほかなりません」(ヒッポクラテス)
「…そこでもし誰かが,『では,ソフィストは,何に関して賢い事柄を知っているのか』とたずねたとしたら,われわれはその人に何と答えたものだろうか。ソフィストは,何をつくることを知っている者なのだろうか」
「われわれの答としては,ソクラテス,ソフィストとは,ひとを言論に秀でた者にする知識をもっている者である,というよりほかはないでしょう」
「おそらくそれで,間違ってはいないだろうが,しかし充分な答とはいえないようだ。なぜならわれわれにとって,その答はさらにあらたな問を要求するからだ―ソフィストがひとを言論に秀でた者にするというのは,いったい何についての言論なのか,とね。…」
「むろんそれは,自分がひとに知識をさずけるまさにその事柄についてでしょう」
「ちがいないだろうね。では,その事柄とはいったい何なのだろうか。ソフィストが自分でも知識をもち,弟子にも知識をさずけるのは,何についてなのだろうか」(312C)

ヒッポクラテスが,プロタゴラスに弟子入りしたいと言うので,ソクラテスは,よく考えるように言います。何度か尋ねて「ひとに知識をさずけるまさにその事柄 (についての言論)」を教えられるのがソフィストである,ということになりますが,捻り出した感はありますがなるほどと思います。

「そもそもソフィストとは,ヒッポクラテス,魂の糧食となるものを,商品として卸売りしたり,小売りしたりする者なのではないだろうか」(313C のソクラテス)
「ソフィストが,ちょうど身体の糧食をあきなう卸商人や小売商人と同じように,自分の売りものをほめたてて,われわれをだますことのないように,気をつけたほうがいいよ。というのは,彼ら食物の商人たちも,自分たちが持ってくる商品について,そのどれが身体によいか悪いか自分自身でも知らないのに,売るにあたって何もかもほめたてるし,彼らから買うほうは買うほうでまた,体育家や医者でもないかぎり,そのよしあしがわからない。それと同じように,いろいろの知識を国から国へと持ち歩いて売りものにしながら,そのときそのときに求めに応じて小売りする人々,そういう人々もまた,売りものとなれば何もかもほめたてるけれども,しかし中にはおそらく,君,自分が売ろうとするものについて,そのどれが魂に有益であり,有害であるかを,知りもしないような連中がいるかもしれない。」(313C のソクラテス)

魂に有益「である」ことではなく,有益「であると思われる」ことを教えるのがソフィストである…これは他の対話篇でも言っていたような気がします。ここの卸商人や小売商人の例は非常に分かりやすいです。プラトンは,イデア論などもあるように,「~であるまさにそのもの」とは何か,というのを常にソクラテスに追求させますが,ソフィストはそういうのは実はどうでもよく,人々がどう思うか,という思惑に対しての知識・言動をするものである,というのがソクラテスとソフィストの違いである…プラトンが描いているのはそういうことなのかな,と思います。ある意味市場主義的なのがソフィストといえるかもしれません。
そして,ある意味答は出ているのかもしれません。プロタゴラスなどのソフィストは豪勢な生活を送り,ソクラテスは清貧な生活を送ったわけです (と確たる根拠もなく書いてますが)。

話は変わりますが,私が好きな将棋では,「勝負師タイプ」と「求道者タイプ」がいます。前者は実戦的な,勝つための手・手段を考え,例えば相手の間違いを期待する手を指したり,相手の持ち時間が少なくなったら時間攻めをしたりします。後者は将棋の真理を常に追究し,常に最善手を求めますが,しかし将棋が完全に解明されない限り,最善手と思われるものが勝ちに結びつくかどうかは分からないので,結局実戦的には悪い手を指すこともあります。新しくない例でいえば,前者は大山康晴十五世名人,後者は加藤一二三九段などが当てはまりそうです…勿論以上は例であり,またそこまで分かりやすい人はそうはおらず気持ちがどちらにより近いかという程度だと思います。また,どちらが好ましいということではなく,ましてやプロであれば勝とうとすることは当たり前です。しかし,将棋の真理を追究する人がいればこそ,将棋界全体のレベルというものも上がるし,また将棋自体をただの勝ち負けのゲームにしてしまうことから守っている面もあると思います。
他にも,相撲は興行なのか伝統行事なのか,というのも多少似ているかもしれません。同じようなことは世の中にいくらでもあり,要は役に立つか,立たないか (立たないけれどもそれであるためには必要ではないか),という観点で二分できてしまうものは多いと思いますが,そういう場合は役に立たない方に本質があるかもしれません。閑話休題。

「そして他方,人々の行なおうとする論議が,そのすべてが正義と節制を通じて行なわれなければならないような,国民としての徳性にかかわる場合には,彼らは誰の意見でも聞き入れるのであるが,これも当然のことである。ほかでもない,人々は,この徳性に関するかぎり,もともとあらゆる人間がそれを分けもっているべきであり,さもなければ国家は成り立たないと考えているのだから。」(323A のプロタゴラス)

前の引用まではカリアス邸に行く前のソクラテスとヒッポクラテスの会話ですが,ここからがカリアス邸に着いたあとのソクラテスとプロタゴラスの対話です。
ここでは,他方で建設とかそういう専門的な分野については専門家のみが意見を言うことができる,と言われており,逆に徳性というものは専門技術ではなく誰でも持っている (いないといけない) ということです。

「すなわち,お互いがもっている欠点が,生まれつきや偶然によるものであると人々が考えるような場合には,何びともそのような欠点の持ち主に対して,これを是正しようという意図のもとに,怒ったり,叱ったり,教えたり,懲らしめたりするようなことはしない。ただ気の毒だと思うだけである。たとえば,醜い顔だちの者や,矮小な者や,虚弱な者たちに向かって,何かいま言ったような態度に出ようとするほど愚かな人間が,どこにいるだろうか。…だがこれに対して,心がけや,躾や,教えの結果として人間にそなわると考えられるような美点に関しては,もし誰かがそういった美点をもたずに,その反対の欠点をもっているならば,この場合にこそおそらく,怒りや,懲らしめや,訓戒が向けられるであろう。不正も,不敬虔も,また一言にしていえば,すべて国家社会の一員としてもつべき徳性に反するところのものは,この種の悪のひとつなのである。この場合にあっては,まさしくすべての人がすべての人に対して怒ったり叱ったりするのであるが,このことは明らかに,そのような徳性が心がけと学習によって獲得できるという,人々の教えを示すものといわねばならぬ。」(323C のプロタゴラス)

この部分を読んで,僕は昨今問題になっている体罰の問題を思い浮かべました。徳性を授けようという度合い (または,相手の徳性に反する度合い) が大きい場合,一般論として言葉で全てを伝えられるのか,伝えられずにその結果取り返しのつかない事態が起こったときに責任を取れる のか,という一種の不安が指導者にあることもあるとは思います。尤も,ここで先に言われている「生まれつきや偶然によるものである」原因で体罰を起こしたりするから論外扱いされるのだろうと思います。
まあなんしても,次にもあるように罰というものが徳性を授けるため,未来のため,というのがここで重要な考え方なのだろうと思います。

「道理をわきまえて懲らしめようとする者なら,過去になされた不正のゆえに報復するようなことはしない。一度なされたことは,取り返しがつかないだろうから。むしろその目的は未来にあり,懲らしめを受ける当人自身も,その懲罰を目にするほかの者も,二度とふたたび不正をくりかえさないようにするためなのである。そしてそう考えている以上,彼は徳というものを,教育可能のものと考えていることになる。とにかく,悪いことをやめさせようと思えばこそ,懲らしめをあたえるのであるから。」(324B のプロタゴラス)

プロタゴラスは,罰というのは「二度とふたたび不正をくりかえさないようにするため」,つまりその人に徳性を授けるものである,という観点から,それならそもそも徳とは教育可能であると言います。同じように,国家が罪人に刑罰を課すのは更生のためであれば,法律というものも徳を教育可能であることを前提にしている,ということが言われます。これはなるほどと思います。が,実際の法律は更生のため以外に,「目には目を」のように報復のための刑罰というのも被害者感情や抑止力のために必要な面もあるだろうとも思います。また,このプロタゴラスの説は死刑には整合がとれないと思いますが,日本においては「仇討ち」のような私刑を法が代行するという武士の時代の名残の意味合いも死刑にはあるのでしょうか。

「さて,ここにまだひとつの問題がのこっている。それは君が,すぐれた人物たちについて解釈に苦しんでいるところの難問であって,いったいぜんたいなぜすぐれた人物たちは,…自分自身がすぐれた人物であるゆえんの,その肝心の徳性に関しては,息子たちをほかの者とくらべて何らすぐれた人間にしなかったのであろうか,という問題である。」(324D のプロタゴラス)

優れた人の子が,必ずしも優れてはいない,ということは当時からあったのですね。企業や政治家における世襲批判というのは今にもあるので,非常に興味深い話題です。但し,プラトンの当時は当然,進化論や遺伝の法則などの生物学的な知見は知られていなかったということを前提にする必要はあると思います。

「そのような事柄について,そもそも彼らは,息子たちに教育をあたえもしなければ,万全の配慮もはらおうとしないのであろうか?―いな,ソクラテス,彼らは当然それをしていると考えねばならぬ。」(325C のプロタゴラス)
「さて,子供たちが先生たちの手をはなれると,彼らが自分の好き勝手なふるまいをしないように,今度は国家が,法律を学びその規範に従って生きることを要求する。それはちょうど文字を教える先生たちが,まだ字を上手く書けない子供たちのためにしてやることとまったく同じであって,…国家もそれと同じように,むかしのすぐれた立法者たちがつくり出した法律を,規範として下書きしてやり,支配するにも支配をうけるにも,これにのっとるように命じるのである。そして,この規範から道をふみはずす者があれば,懲らしめを与えるのである。」(326D のプロタゴラス)
「それなら,すぐれた人物を父親にもつ息子たちが,しばしばつまらぬ人間になる場合が多いのはなぜだろうか。」(326E のプロタゴラス)
「さて,笛を吹くことにおいてもちょうどこれと同じように,われわれがお互いに教え合うことに心の底から熱心になり,これを惜しまないとしたならば,どうだね,ソクラテス,その場合,すぐれた笛吹きの息子はへたな笛吹きの息子よりも,いくらかでもいっそうすぐれた笛吹きになることが多いと君は思うかね?私はそうは思わない。むしろ,誰の息子であろうと,笛を吹くための素質に最も恵まれているならば,そういう子供こそが長じてから名をあげ,素質がなければ名もない者になるというのが実際であろう。…しかしとにかく,笛吹きであるという点にかけては,彼らはすべて,笛を吹くことについて全然何も知らない素人とくらべれば,有能な笛吹きであることにまちがいないのだ。」(327B のプロタゴラス)

ここのプロタゴラスの説には非常に感心しました。「教育」と「資質 (または才能)」ということでしょうか。ある下限は,教育によって授けることができるが,できるのはそれだけで,それ以上は「資質」によると。まあ当たり前といえば当たり前ですが,2500年前からそういう説があったのが新鮮です。なので教育に必要な知識というものが秘匿されていて,例えば息子にだけ教育するなどすれば,世襲も立派に成り立ちそうな気はします。ただ政治とか経営とか,ましてや徳は違うでしょうね。

「いまわれわれが当面している問題についても,これと同じように君は考えなければならない。すなわち,法律の支配する人間社会の中で育てられた者のうちで,最も不正な者だと君に見えるような人間であっても,もしその人を,教育も法廷も法律もなく,徳をつねに心がけるようにしむけるいかなる強制もあたえられていない一種の野蛮人たちとくらべて,判定しなければならないとすれば,なお正義の人であり,この事柄の専門家であるといわねばならぬ。」(327C のプロタゴラス)

これは「教育や法治を諦めてはいけない」というふうに私は受け取りました。消極的ではありますが,前向きであると思います。下限を担保できるのが教育や法治であり,「どうせ教えても資質があるとは限らないから無駄だ」「どうせ更生などしない」といって最初から何もしないのでは,落ちるところまで落ちると。

ということで,その1ではプロタゴラスの「徳は教えられるか」というテーマの周辺を見てきました。個人的には納得してしまうことが多かったです。なお,以上で見てきたようなプロタゴラスの論説に対して,ソクラテスはこれといった反駁を行なっていません (と思います)。全然述べませんでしたが,「徳の構成要素のそれぞれは相異なる他のものと同じように部分か」というようなことをテーマにします。もし以上で述べてきたようなプロタゴラスに反駁するとしたら,どんなことを言っていたか…これはかなり大きな問題だと思いますが,面白い問題でもあると思うのでいずれ考えてみたいです。

冒頭に述べたように,次回は同じ『プロタゴラス』のその(2)の予定です。