プラトン『法律』第二巻メモ(1)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第二巻を読んだときのメモ第一弾。

第一巻の終盤は,酒に関する対話が続きました。これも完全に終わったわけではなく,第二巻でもまだ話題に上りますが,メインとなるのは,第一巻の中盤でも言及されていた,教育に関する対話になります。特に,音楽や歌舞が教育に与える影響とは?ということが論じられます。
読んでいて第二巻は,割と冗長で退屈…という印象も強いです。一つには,相手のクレイニアスがおとなしすぎる,ということもあるかもしれません。話に波乱が全く起きません。まあ前・中期対話篇と較べて,後期対話篇は,話としての面白さに欠けるというのは本対話篇に限ったことではない (と思われる) ので,そこは期待せずに読むしかないところではありますが。

以下,読書時のメモです。

アテナイからの客人「さて,当面の問題について,つぎに考察しなくてはならないのは,思うに,酒をかこむ会合が,わたしたちの天性のほどを見抜くという,ただそれだけの利点をもっているのか,それとも,その酒をかこむ会合が正しくとり行なわれた場合には,そこにはずいぶんと真剣になって考えるに値する,なにか大いなる利益がふくまれているのか,ということなのです。」(652A)

ということで,まだ酒の会合の話題が続きます。とはいえこの後,直接酒に関する言及がそんなにあるわけではありません。

アテナイからの客人「そこで,わたしが今一度思い出しておきたいことは,わたしたちの言う正しい教育とは,そもそも何であるか,ということです。それというのも,今のわたしの見当では,酒の会合というこのしきたりが立派に立て直されるとき,そこに,教育の擁護も見られると思うからなのです。」(653A)

第一巻でも教育に関することは言われており,また酒が教育に資するというようなことも言われていました。ここでも改めて,教育とは徳 (特に快楽と苦痛) を備え付けることということが言われます。
また,教育にはたるみが出てきてしまうので,神々は人間への休息として,神々への祭礼を,ムゥサたち,その指揮者アポロン,ディオニュソスの3神とともに与えた,と言われます(653D)。また(動物の中で)人間だけが,リズムとハーモニーを楽しみながら感じる感覚を持っている(神々から与えられた)と言われます(653E)。多くを省略しましたが,割と後々の伏線にもなっていそうな部分です。

アテナイからの客人「すると,わたしたちの場合,教育のない者とは,歌舞の心得をもたぬ者となるのではありませんか。他方,教育のある者とは,充分に歌舞の経験をつんだ者とすべきではありませんか。」(654A)

アテナイからの客人「すると,立派に教育をうけた者は,立派にうたい,おどることができるはずですね。」(654B)

なぜ唐突に,教育のある者が,充分に歌舞の経験を積んだ者であると言われるのでしょうか?クレイニアスは簡単に同意するのですが,それはこの後に詳しく話される内容だと思います。
それとは違うと思いますが,直接的には,労苦からの休息としての祭礼も教育に含まれるということが言われていたので,「休息の中に教育がある」という感じも受けました。

アテナイからの客人「すると,もしここにいるわたしたちが三人とも,歌と踊りについての立派さを認識できれば,わたしたちはまた,正しく教育された者と教育されていない者をも,認識できるわけですね。だが,その点で無知であれば,そもそも教育を守るものがあるのかどうか,あるとすればどこにあるのか,それさえついに,識別することができないでしょう。そうではありませんか。」
クレイニアス「そのとおりです。」
アテナイからの客人「ですから,つぎにわたしたちが,跡をつける猟犬のように探さねばならないのは,歌と踊りにおける立派な身振りと旋律 (メロディー) なのです。」(654D)

歌と踊りについての「善」が,教育についての「善」と通底しているために,前者の認識が後者に関わる,というプラトンらしい見方だと思います (「善」は「美」と言ってもいいのかもしれません)。

アテナイからの客人「さあ,どうでしょう,勇敢な魂が困難におちこんだ場合と,臆病な魂がそれとまったく同じ困難におちこんだ場合とでは,そもそもそこに生じる身振りと話し振りが似ているでしょうか。」
クレイニアス「どうして似ていましょうか,顔色すら似ていないというときに。」
アテナイからの客人「よい答えですね,あなた。しかし,いいですか,音楽はリズムとハーモニーにかかわるゆえに,そのなかには身振りと旋律がふくまれているのです。」(654E)

ここは少しうなった部分です。確かに身振り,話し振りの美しさみたいなものはあると思いますが,それが歌や踊りの立派さ(美しさ?)と共通していると。それなら,前に言われた,「歌と踊りについての立派さの認識が正しい教育の認識」というのもかなり実感が伴います。身振りや話し振りだけの話でもない,という気もします。

アテナイからの客人「そもそも歌舞は,さまざまの行為や状況を通じての諸性格の模倣であり,歌舞者 (俳優) はそれぞれ,各自の性質と模倣によってこれを演じます。したがって,そこで話される言葉,うたわれる調子,あるいは,なんらかの踊りの仕ぐさが,歌舞者 (俳優) の天性や習慣やその両方にかなっていて,自分にぴったりする場合には,歌舞者はそれに喜びを感じてほめたたえ,美しいと呼ばざるをえなくなります。しかし,それが彼らの天性や性格や習性にそむく場合には,彼らは喜びを感じることも,ほめたたえることもできず,醜いと呼ばずにはいられないのです。」(655D)

自分にはよく分からない部分ではありますが,実際に演劇を見たり,あるいは演じたりしている人には,天性と役柄の一致を感じたりすることはあるのでしょうか。
前半は『国家』の「詩人追放論」を思い出しました。

アテナイからの客人「悪い人間の下劣な性質に馴染んでいながら,それを憎みもせずに喜んで受けいれ,申しわけ程度の非難はしてみせるものの,じっさいに相手の悪徳に目ざめているわけではない,というような人がいますが,そういう場合のことですね。そんなとき,善悪どちらの性質に喜びを感じるにせよ,その人は,相手に同化されるにちがいありません。たとえ,それをほめるには羞恥を感じるにしてもです。しかし,そうだとすると,善きにつけ悪しきにつけ,こうした同化以上の大きな影響を確実にもたらすものとして,いったいそのほかに,なにをあげることができるでしょうか。」(656B)

すこしドキッとする部分です。あまり真似したくないようなものでも,受け入れると「同化」で,影響を受けること大だと。『国家』でも似たことが言われていたような。

アテナイからの客人「とすれば,すでに言ったように,もし誰か,旋律の正しさをわずかでも把え得る者があるなら,その人はそれを,迷うことなく法律と規則にもちこまなくてはなりません。というのも,快楽と苦痛を手段にする好奇心は,たえず新しい音楽を手がけてやまないにしても,それとて,神聖化された歌舞を古くさいときめつけて破壊するほどの大きな力は,まず持ってはいますまいからね。」(657B)

省略しましたが,エジプトの例が言われていました:立派な身振りや旋律を指定して神殿に告示し,そして芸術に携わる人が,それ以外の新機軸を出したり,国に伝承されている以外の新しいことをするのを許されてこなかった。かつ,それを「卓越した立法と政治の仕事」と。
旋律や他の芸術的なものの技術が,法律によって定められる,というのはどういうものなのでしょう。確かにそういったものが即ち教育であるということ,あるいはそういったものの絶対値のようなものがあってそれが国民の他の「善」の絶対値をも規定する,ということなら,国民の徳を最大化するために立法化するという発想はあり得るのでしょうか。
そういう風に考えると,理想的で不変な「善いもの」というものが存在する,というのが前提になっているのだなぁと思います。仮に「善いもの」が変化するものであれば,立法化は足枷でしかないと思います。

アテナイからの客人「かりに誰かが,体育競技,音楽競技,馬術競技というような区別をせず,そういう種類の別なく,ただ単純に競技を開催し,市民のすべてを集めてこう布告するとしたら,どういうことになるでしょうか。希望者は誰なりと,快楽についてだけ技を競うべくやってくるがよい。その手段に規定はなく,とにかく観客を最も楽しませた者,楽しませるという効果を最もあげて勝利を獲得し,競技者のなかでいちばん面白いとの判定を下された者,そういう者に賞品が設けてある,―こういう布告から,いったいどんな結果が生じると考えますか。」(658A)

アテナイからの客人「では,もしきわめて幼い子供が判定するとすれば,操り人形を演じた者を,勝利者とするでしょう。そうではありませんか。」
クレイニアス「そのとおりですね。」
アテナイからの客人「しかし,もうすこし大きい子供なら,喜劇を演じた者を勝利者とするでしょう。だが,教養ある婦人や若い青年たち,さらにおそらく大衆の大部分なら,悲劇を演じた者を勝利者とするでしょう。」
クレイニアス「おそらく,そうでしょうね。」
アテナイからの客人「しかしわたしたち老人は,たぶん,『イリアス』や『オデュッセイア』,あるいはヘシオドスの詩句を巧みに吟踊する吟踊詩人に,とりわけ楽しんで耳を傾け,彼をすぐれた勝利者と主張するでしょう。そうなると,いったい誰が,真の勝利をおさめたことになるのか。これが次の問題です。」(658C)

ここでは,子供から老人までの年代に応じて好むものとして,操り人形ー喜劇ー悲劇ー詩,という序列を作っています。実は結構面白いところという気もします。快楽を与えるもの,という共通点はあるわけですが,また全て「模倣」ではあると思いますが,より直接的なものから,真実に近いものになっていく…という感じなのでしょうか。

アテナイからの客人「わたしやあなた方としては,明らかに,わたしたち同年輩の者によって判定された者こそ,真の勝利者だと,言わざるをえません。なぜなら,わたしたちの国のその習慣こそ,あらゆる国,あらゆる所で今日見られるさまざまな習慣のなかで,とりわけ最善のものと思われるからです。」(658E)

仮にも,元々教育問題が言われていた中で,わたしたち同年輩の者,つまり老年者の判定が尊重されるというのは良く分からないところがありますが,年齢が上がるにつれて徳が養われる,ということから考えると当然なのかもしれません。かつ現代でも普通のこととして受け入れられそうな説でもあります。次に続きます。

アテナイからの客人「このわたしにしても,音楽は快楽を規準として判定されなくてはならない,というその点だけのことなら,世間の人びとと同意見なのです。とはいっても,どんな人の快楽でもよい,というのではありません。最もすぐれた人たちや充分な教育をうけた人たちを喜ばせるもの,とりわけ,徳と教育の点で他にぬきんでている一人の人間を喜ばせるもの,それこそ,最も立派なムゥサの技 (音楽) としなくてはなりません。」(658E)

音楽に関して,快楽は快楽でも,「徳と教育」の面で抜きん出ている人を喜ばせるものが,立派なものだと。
ところで本巻のような,音楽などの芸術方面において「徳」という言葉が出てくると,非常に胡散臭い感じを常に受けます。原語は ἀρετή (アレテー) だと思いますが,この言葉は,日本語の「徳」というともすると封建時代の遺物のような語感の言葉よりは,もっと広い意味があるとはよく言われることです。
また最近たまたまある新聞のエッセイで読んだのですが,『礼記』の「楽記」篇でも音楽に秀でることが徳のある人間の証である,ということが書かれていたそうです。
音楽を聴いて,感動する,心が動かされる,ということは自分もよくあるし一般論として否定はできないはずです。「その心の動きとは一体何なのか」という (技術的な) 側面が根本的にはプラトンが考えたテーマだと思います。が,それを教育に利用するということになると,プラトンが忌み嫌ったソフィストのしようとしていたことと紙一重のとても危うい試みになるのでは,という気がします。

アテナイからの客人「真の判定者は,劇場の観客から教わって,つまり,大衆の喝采やみずからの無教養ゆえに正気を失って,判定をくだすべきではありませんし,反対に,真実をわきまえていながら,勇気のなさや臆病ゆえに,判定の初めに神々に呼びかけたその同じ口で,嘘と承知の判定を軽々しく公表すべきでもないからです。」(659A)

この少し前に,「判定者はとりわけ勇気をそなえていなくてはならない」とも言われます。日常でも,周りが面白いと言っているからと,見る前から面白いことにしてしまっていたり,反対の意見が言えない,という例は結構あると思いますが,それに対してプラトンらしい厳しさを感じさせるところ。この後,シケリアやイタリアの反対の現実についての説明もあり,これも現代に当てはまりそうなところがあります。

アテナイからの客人「どうやら議論は,まわりまわって,三度目四度目に,同じところへ到着したようですね。すなわち,教育とは,法律によって正当と告示された理,また老齢の有為な人物から,その経験に照らし,真に正当なりと認められた理,そういう理へ子供たちを誘い導くことにほかならない,ということです。」(659D)

クレイニアス「わたしの見るかぎり,わたしたちの国クレテやラケダイモンの場合を除けば,あなたの今のお話しが実行されているのを,わたしは知りません。むしろ踊りについても,それ以外の音楽全般にわたっても,たえずなにか新しいものの生まれているのを,知っています。しかもそれらの変革は,法律によってではなく,ある種の無秩序な快楽によって行われているのですが,その快楽たるや,あなたがエジプトの例で説明されたように同一のものであったり,同一の状態を保ったりしているどころか,ひとときも同じ姿ではないものなのです。」(660B)

アテナイからの客人は直前に,「真の立法者は,称賛に値する美しい言葉を使って作家を説得し,説得できなければ強制し,作家をして,思慮も勇気もそなえ,あらゆる点ですぐれた人物の身振りをリズムで,調子をハーモニーでそれぞれ描きながら,立派な制作をするように,させることでしょう」(660A)と言います。それに対して抱いた自分の疑問を,ちょうどクレイニアスが聞いてくれました。
これに対してアテナイからの客人は,「こうあってほしいと望むことを話していて,真実を話したのではない」と弁解します。そして望んだとおりになれば,より立派な国になると言います。
この辺りの流れは,進化というか変化によって良くなるという発想がなく,「理」とでもいうものが不変とすると (「イデア」などからするとそうなるのだと思う),こうなるのかなという気がします。

アテナイからの客人「さあ,考えてみてください。わたしははっきりと申しますが,いわゆる悪しきものは,不正な人びとにとっては善いものですが,正しい人びとにとっては悪いものであり,いわゆる善きものも,善き人びとにとってこそ真に善いものですが,悪しき人びとにとっては悪いものとなるのです。そこで,さきほどもお尋ねしたことですが,わたしとあなた方とは同意見なのでしょうか,それとも,どうでしょうか。」
クレイニアス「ある点においては,わたしたちの意見は一致するように思われますが,しかし別の点では,まったく一致しないように思われます。」(661D)

この前で,「善き人は,大きく強かろうと,小さく弱かろうと,あるいは裕福であろうとなかろうと,とにかく思慮があり正しくさえあれば,幸福であり浄福である」(660E) などとも言われました。また,善いと考えられているものを全て身に着けていても,正義などの徳を欠いていたら,最大の禍いをもたらす,ということも言われました(661C)。この辺りは『国家』の「ギュゲスの指輪」を思い出しました。
しかし,本当の意味での「善いもの」というのは,正しい人にとっても不正な人にとっても善いものではないのか?とも思います。その意味では,「いわゆる善い (悪しき) もの」というのは,本文で具体的に挙げられている健康,器量,富など,何か限定があるのかもしれません。この辺り,日本語訳ではうまくニュアンスが伝わっていない可能性もありますが,相対的に善い悪いが論じられるのは若干プラトンらしくない印象も受けました。

アテナイからの客人「すると,わたしがあなた方を説得できない別の点とは,おそらくこのことなのでしょうね。健康,富,僭主的権力を一生涯所有してはいても,―いや,さらにお望みなら,不死と共に卓越した体力と勇気が彼にはそなわっており,いわゆる悪しきものは何ひとつ彼の身に生じないとつけ加えてもよいのですが―,たとえそうであっても,もし自分自身の内部にただ不正と傲慢だけをもつならば,そのような状態で生活をいとなむ者は,あきらかに幸福ではなくみじめになる,という点なのでしょうか。」
クレイニアス「まさにあなたのおっしゃるとおり,その点なのです。」(661E)

前の引用部分では,全面的に意見の一致を表明しなかったクレイニアスですが,ここで言われている「みじめである」というのが,周囲から「思われるもの」という意味で同意しているように思えます。
この後の部分(略)は,結構核心的なことが言われている気がしました。それを正確に読解できている自信はないのですが…。「正しい生き方」と「楽しい生き方」があったとして,それらが両立しないのなら (正しいが苦しい,楽しい (快い) が悪),それを是正するものが立法者のつとめ,と言っているのでしょうか。

メモ(2)に続く…。

プラトン『法律』第一巻メモ(2)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第一巻を読んだときのメモ第二弾。

第一巻後半は,酒がメインテーマです。前半でも片鱗は見られましたが,一味違うプラトンの飲酒論が見られます。また,「人間は神の操り人形」という,ちょっと深遠さを感じさせる比喩も出てきます。
なぜ,プラトンはここまで酒にこだわるのかな?と第一巻をずっと読んでいると思わされると思うのですが,第一巻の最後を読むと,少し納得する部分があります。プラトンが追求するものとして,他の対話篇で扱われてきたものと同じ水脈から出た一つの顕現にすぎない,という気がします。

以下,読書時のメモです。

メギロス「ともかく快楽に関するスパルタのしきたりは,世にも見事に制定されていると,わたしには思われるのです。というのも,わたしたちの法律は,最大の快楽や倨傲やありとあらゆる愚行に,とりわけ人がおちいりやすい機会を,全国土から追放しているからです。田舎であり町であれ,いやしくもスパルタ人の配慮が届いているところでは,酒宴はもとより,それに伴うあらゆる快楽を最大限にあおり立てるいとなみなど,あなたのお目にとまりはしないでしょう。また,酔っ払って騒いでいる者に出あえば,誰もが直ちに最大の罰を科そうとするでしょう。」(637A)

『ミノス』でも同様のことが言われていましたが,酔っぱらいは私は嫌なのでこれは個人的には歓迎です。この後,アテナイからの客人より,種々の国での酒に関する風習が言われます。

アテナイからの客人「では,およそ次のようなやり方で考察してみようではありませんか。いいですか,一方で山羊の飼育を,山羊という動物そのものはよい家畜だと言ってほめたたえる者がいると,他方別の者は,山羊が群れから離れ,農作地で草をはみ,害をはたらいているのを見て,これを非難するとしましょう。さらにどんな動物にせよ,その番人がいなかったり,感心できぬ番人がついていたりするのを見て,そのようにその動物を非難するとしましょう。そんな場合,わたしたちは,そういう人の非難を,多少とも正常と見なすでしょうか。」
メギロス「どうして正常と見られましょう。」(639A)

本来よいものでも,支配者に恵まれない例が挙げられます。「航海術の知識を持っているが,船酔いをしている人」(639A) という例も出てきます。続きます。

アテナイからの客人「では,ほんらい支配者のそなわっている集団,また支配者がそなわっておれば有益である集団,それがどんな集団であれ,そういうものがあるとして,それを称賛したり非難したりする人がいるとしましょう。その人が,支配者を得て立派な集り方をしているその集団の姿を見たことがなく,支配者がいないか,あるいは感心できぬ支配者を得て集まっている姿ばかりをいつも見てきているとすれば,どうでしょうか。いったい,そのような集団のそのような観察者が,多少とも意味のある非難や称賛をするだろうと思いますか。」(639C)

そのものの有益さを引き出す支配者がいる状態をもって,そのもの自身を評価すべきといった感じでしょうか。個人における「理性的部分」(『国家』)になぞらえて考えることができるのかもしれません。

アテナイからの客人「さて,そこでですよ。そういう集団にはたくさんの種類があるでしょうが,飲み仲間や酒宴も,その集りの一つとすることができるでしょうか。」
メギロス「それはもちろんです。」(639D)

アテナイからの客人「そうなると,素面で知恵のある者を,酔っている人びとの支配者に立てるべきであって,その反対であってはならないでしょうね。というのも,酔っぱらっている連中の支配者となる者が,これも酔っぱらっているばかりか,若くて知恵がないとしたら,それでなにかとんでもない失態をやらかさずにすめば,それこそ,大いなる幸運としなくてはならないでしょう。」(640D)

ということで,酒宴についてもそれが当てはまるのでは,ということが言われます。「飲み会の支配者って何?」というのが率直な疑問ではありますが。でもまあ確かに主催者とか上位者によって,飲み会の在り方が決まってくる,という面はあると思います。

アテナイからの客人「しかしもし誰かが,この上なく誤った扱い方をされているその風習の姿を見てこれを罵るのであれば,その人は明らかに,まず第一に,その風習が正しい仕かたで行なわれているのではないということを知らずにいるのだし,第二に,何事にせよそういうふうに,素面の主人や支配者ぬきで行なわれる場合には,わるく見えるものだということについても,無知でいるのです。」(640E)

クレイニアス「そのことは,まことにおっしゃったとおりですよ,あなた。ですが,つづいて次のことを,わたしたちに話していただきたいのです。もしその飲酒のしきたりが正しく行なわれるなら,それはわたしたちに,どのような善をもたらしてくれるのでしょうか。たとえば,今しがたもわたしたちの話に出たことですが,もし軍隊がしかるべき指揮を得ると,それに服する者たちの上に,戦いの勝利が生じてくるでしょうが,これはささいな善ではありません。他の場合もまた同様です。では,もし酒盛りが正しい仕かたで指導をうける場合,個人あるいは国家に,どのような大きい善が生じてくるのでしょうか。」(641A)

飲酒と善の関係という,一見変なテーマを真顔で論じるのがプラトンのよいところです(親睦が深まる的なことは既に言われています)。そして何故か?飲酒は教育に寄与するところ大である(641C)というようなことも言われます。

アテナイからの客人「日頃わたしたちは,人それぞれの育ち方を非難したりほめたりする場合,誰それは教育があるが,誰それは無教育だと言うものですが,時にはそういう人たちでも,小売りのあきないや蛇取り,その他それに類する仕事の才覚では,相当の教育をうけていることさえあるのに,それでもそのように無教育と言うものなのです。これはつまり,思うに,わたしたちの今の (教育) 議論は,そうした仕事の才覚を教育と心得ている人びとには,かかわるものではない,ということなのでしょう。むしろ,徳を目ざしての子供の頃からの教育を教育と考える人びとの,教育論なのです。」(643D)

ということで,この対話での対象は,かなり限定された「教育」のようです。
ただ,現代でも「教育とは何か」という問いを立てた時に,当てはまりそうな感じも多少あります。さすがに「徳」のためとは言わないと思いますが,「教養」のための教育で,具体的なスキルを対象としたものではないという感じでしょうか。そう考えると,抽象的なものを志向するという点でプラトンらしさはあります。

アテナイからの客人「わたしたちは,わたしたち各自を,それぞれ一個人とみなしていいでしょうね。」
クレイニアス「もちろんです。」
アテナイからの客人「ところが,各人は自分自身の内部に,二人の相反する無思慮な忠告者をもっている,と見なしてもよいでしょうね。その二人の忠告者を,わたしたちは,快楽と苦痛と名づけていますが。」
クレイニアス「そのとおりです。」
アテナイからの客人「その二つにつけ加え,さらに,将来のことについての「思わく」をももっています。その「思わく」の共通の名称は「予想」ですが,個別的には,苦痛の予想は「恐怖」,その反対のもの(快楽)の予想は「大胆」と呼ばれています。ところで,さらにそれらすべてに加えて,それら快苦のどれが善くどれが悪いかに関する「思考の能力」(ロギスモス)があります。そして,もしそれが国家の「共通の意見」になると,「法律」と名づけられるのです。」(644C)

急に何の前触れもなく,快楽と苦痛という忠告者を人は持っている,と言い出しましたが,そこから,その予想を含めた善悪についての共通の意見が「法律」 (個人の場合は「思考の能力」) である,と急に定義しました。こういうことをいきなり言われると,「今までのは何だったんだ?」という気にも多少なりますが,なるほどという内容でもあります。これが次の引用にも適用されてきます。

アテナイからの客人「わたしたち生きものはみな,神の操り人形だと考えてみるわけです。もっとも,神々の玩具としてつくられているのか,なにか真面目な意図があってつくられているのか,それは論外としてね。なぜなら,そんなことは,わたしたちに認識できることではありませんから。だが,次のことなら,わたしたちにもわかっているのです。
わたしたちの内部には,以上の情念が,まるで,なにか腱や絃のように置かれていて,わたしたちを引っ張りまわし,しかもそれらが互いに対立しているものですから,相反する行為へと互いに引っ張り合う,ということです。じつにそこが,徳と悪徳との明瞭な分かれ目になるのです。というのも,この議論の語るところによれば,各人はつねに,引く力のなかの,或る一つのものに従い,いかなる場合もそれから離れぬようにしながら,他の多くの腱に抵抗しなくてはならないのです。そしてその一つの引く力こそは,思考の能力 (ロギスモス) による,黄金でつくられた神聖な導きであり,国家の場合には,「共通の法律」と呼ばれるものなのです。これに対し,他の多くの引く力は,硬質で,鉄よりできていて,ありとあらゆる形態をとっています。しかし,さきの一つの導きは,なにぶんにも黄金でできているため,しなやかなのです。そこで,法律の行う,最高に見事なこの導きに対しては,ひとはつねに協力しなくてはならない。というのも,思考の能力は,見事なものではあっても,反面優しく,力を用いて強要してくるものではありませんから,その黄金の種族が,わたしたちの内部で他の種族に打ち勝つためには,その思考の導きを助ける補助者が必要となるのです。」(644D)

長い引用になりましたが,この比喩は何なのか?と最初読んだ時は底知れぬ感じと共に思いました。再度読んだ時には,卓抜した比喩のように思いました。「人間は神の操り人形の比喩」とでも言えるでしょうか。『法律』篇の全体を象徴する何かを暗示している予感がありますが,どうなのでしょうか…?
神の操り人形とは言いますが,「黄金でつくられた神聖な導き」は,思考によるもので,他力的なもの (神の必然的な力) ではないと思われます。「思考の能力は,見事なものではあっても,反面優しく,力を用いて強要してくるものではありません」というのも,人間の思考の能力というものが,色々と思い通りにならないものに引っ張られながらも,何か前向きなものであるというように感じられます。その,絶対性と他者性と自主性のようなもののバランスが,よく表れた比喩のように思うのです。

アテナイからの客人「では答えてください。その操り人形を酔っぱらわせると,わたしたちは,その人形を,どんな状態にさせるでしょうか。」
クレイニアス「いったいなんの目的があって,繰り返しそんなことをお尋ねになるのですか。」(645D)

酒の話題引っ張るなあ…と,クレイニアスと一緒に思うわけですが,アテナイからの客人 (というかプラトン) が本気であって,これをまとめるためにこそ色々伏線を張っているのだから仕方ありません。

アテナイからの客人「そもそも酒を飲むことは,快楽や苦痛,憤怒や愛欲を,いっそうはげしくするのでしょうね。」
クレイニアス「それは大いに。」
アテナイからの客人「これに対し,感覚や記憶や思わくや思慮の面では,どうでしょうか。同じくそれらを,いっそう強度にしてくれるでしょうか。それとも,もしひとがすっかり酔っぱらってしまうと,それらはその人から,まったく去ってしまうでしょうか。」
クレイニアス「そう,まったく去ってしまいます。」
アテナイからの客人「そうするとその人は,魂の状態において,幼い子供の頃と同様になるのではないでしょうか。」(645D)

この辺りは,先ほどの操り人形の比喩を思い浮かべながら読んでいました。そこでの言葉を使うと,酒を飲むと,色んな情念の力が強くなって,「相反する行為へと互いに引っ張り合う」力も強くなり,かつ「引く力のなかの,或る一つのものに従い,いかなる場合もそれから離れぬようにしながら,他の多くの腱に抵抗」する力が弱まる,ということになるでしょうか。

アテナイからの客人「では,このしきたりには馴染むべきであっても,あるかぎりの力でこれを避けたりすべきではないと,そうわたしたちに説得してくれるような説が,そもそもあるでしょうか。」
クレイニアス「どうやら,ありそうですね。だって,少なくともあなたの主張がそうですし,今しがたもあなたは,それを話すおつもりだったのですから。」(646A)

話の流れ的には,酒など避けるべきとなりそうですが,そうではないと。

アテナイからの客人「さらに,このこともよく知っていますね,彼らがみずからすすんで出かけるのは,そのつらさのあとにやってくる利益のためであることも。」
クレイニアス「よく知っています。」
アテナイからの客人「そうすると,他のしきたりについても,わたしたちは同様に考えるべきではありませんか。」
クレイニアス「まことに。」
アテナイからの客人「では,酒をかこんで閑談の時を過ごすことについてもまた,わたしたちは同様の考えをしなくてはなりません。少なくともそのことが,そうしたしきたりの一つと見られて,それで正しいとすれば。」(646C)

前を省略していますが,「彼らがすすんで出かける」というのはつらい治療を病院に受けに行くことです。
ということで酒にも,病気の治療のように,それ自体は身体にとって善いことではないが,後の利益を考えるとどうか?ということを考えないといけないと言われます。
酒それ自体のことを考えると,むしろその場で気を紛らわすためという感じだと思いますが,確かに宴席とかを考えるとそうかもという気はします。

アテナイからの客人「わたしが二つの恐怖と言ったのは,これらなのです。そのうちの後者 (羞恥心) は,苦痛その他いろいろの恐怖に抵抗するとともに,また最大の快楽のほとんどに抵抗します。」
クレイニアス「まことにおっしゃるとおりです。」
アテナイからの客人「したがって,立法者であれその他誰であれ,多少とも見どころのある者なら誰しも,その恐怖を「慎み」と呼び,これを最大の尊敬をもって貴ぶのではないでしょうか。またこれと反対の大胆さを,「慎みのなさ」と呼び,公私を問わず,万人にとっての最大の悪と見なすのではないでしょうか。」(647A)

羞恥心を貴ぶ,というのは個人的には救われる見解です。人は何故不正をしないのか?と考えた場合,罰を受けるのが怖いからというのもあると思いますが,多少なりともここでいう「慎み」のため,というのが人間的 (動物的ではなく) だと思うからです。

アテナイからの客人「そうなると,わたしたちはみな。恐れない者にも恐れる者にもならなくてはなりません。それぞれの理由がどこにあるのか,それはすでにくわしく話しました。」
クレイニアス「たしかに。」
アテナイからの客人「さらにまた,各人を,さまざまの恐怖からまぬかれた「恐れない者」に仕上げようと望む場合,わたしたちは,法律の助けをかりて彼を恐怖へ導き,もってそのような者たらしめます。」
クレイニアス「あきらかにそうします。」
アテナイからの客人「では,他方,いましめの助けをかりて,誰かを「恐れる者」にしようとする場合は,どうでしょうか。」(647B)

「恐れない者」というのは,敵を前にして恐れないという「勇気」の意味で,「恐れる者」というのは,前の引用の通りで「慎み」「羞恥心」のことだと思います。
さて,「恐れない者」に仕上げるにはいわゆるスパルタ式の訓練などが容易に想像できるわけですが (今の視点でよいかどうかは別にして),では「恐れる者」にするには?

アテナイからの客人「ではどうでしょう。そもそも人間に,恐怖を起こす薬を授けた神がいるでしょうか。ひとがその薬を飲もうとすればするほど,その一服ごとに,ますます自分が不幸になるように考え,わが身の現在未来のすべてに対して恐怖をいだくようになり,最も勇気のある人間ですら,ついにはありとあらゆる恐れにとざされる,だがいったんその飲物から解放されて悪夢から覚めると,いつでも再び元の自分に戻る,というような薬です。」
クレイニアス「いったいあなた,およそこの人の世に,そんな飲物があるなどと,どうして言うことができましょう。」(647E)

まず,人に恐怖を起こす飲み物があるかどうか?ということが問われ,「ない」ということになります。しかし,仮にあれば,お手軽かつ安全に勇気があるかどうかのテストができるので非常に有用である,ということが言われます。続きます。

アテナイからの客人「そこで,もう一度立法者に向かって,次のように言ってみようではありませんか。「それはそれとして,立法者よ,このように恐怖をつくる薬は,どうやら神もこれを人間にあたえられなかったし,わたしたち自身にも,その工夫はついていません,―いかさま師は,仲間とはみなしませんから―,だが反対に,恐れを感じなくなり,大胆であってはならぬことにまで,度外れに,時もわきまえず大胆になること,そういうふうにする飲物ならあるでしょうか。それとも,どう言ったものでしょう」」
クレイニアス「「ある」とおそらく彼は肯定するでしょう。酒がそれだと言いながら。」
アテナイからの客人「その飲物こそは,今言われたものと反対の作用をもっているのではありませんか。」(649A)

ということで,段々と結実してきました。酒が「大胆さを作る薬」であると。そしてこの後,勇敢さが恐怖の真っ只中で訓練されねばならないのと同様に,慎みは大胆不敵になる中で養成されなければならないと言われます。

アテナイからの客人「ところで,次のようなものはみな,わたしたちを,大胆不敵にするものではありませんか。憤怒,愛欲,驕慢,無知,食欲,臆病,さらにまた,富,美貌,強力,その他,快楽によって陶酔させ,錯乱状態におとしいれるいっさいのものです。そこで,一方では,これらの状態の,安上がりで比較的無害なテストを行なうという目的,同時に他方では,その訓練をもかねる,という目的からすれば,酒をかこんでの戯れながらのテスト,―むろん,多少の用心をもって行なわれるとしての話ですが―そのテスト以外に,それよりもずっと適切なものとして,いったいどんな快楽をあげることができるでしょうか。」(649D)

酒を飲むことで,色んな情念が強化されるが,実際に何か事件や事故が起きてそういった強い情念が生まれるよりも「安上がりで比較的無害」なので,テストとして最適である―何という,酒好きが聞いたら口実ができて喜びそうな論でしょう(笑)。いやまあ実際には,テストだと思って飲んでも美味しくはなさそうですが…。ここも当然,「神の操り人形」の比喩を思い浮かべてよいところだと思います。

アテナイからの客人「そうなると,魂の性質や状態を認識するというまさにこの行事 (酒宴) は,魂に関することの世話をしなくてはならぬあの技術にとって,最も有用なものの一つとなるでしょう。その世話は,わたしたちの主張によれば,政治術の仕事だと思われます。そうではありませんか。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」(650B)

ということで,酒宴は,魂の世話をする技術,つまり政治術の仕事にとって最も有用なものの一つ,ということでまとめられ,第1巻は終了します。一般的には酒の効能というと,気分が良くなるとか「百薬の長」とかが挙げられると思いますが,効果はともかく,「慎みを養成するためのテスト」で,政治術に有用であるとは,流石にプラトンは考えることが違う,と感嘆させられる第1巻でした。

プラトン『法律』第一巻メモ(1)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第一巻を読んだときのメモ第一弾。

今回の作品は,プラトン対話篇の中での超大作『法律』です。全12巻は,『国家』の全10巻を凌駕します。本メモも,巻ごとにまとめていくことにします。

また同時に本作は,プラトン最晩年の著作としても知られていると思います。が,それはあまり考えないようにしたいと思います。プラトンの思想を分析する観点からは,当然,中期対話篇の『国家』から,『テアイテトス』『パルメニデス』『ソピステス』やなかんずく『ポリティコス(政治家)』等,後期対話篇の期間を通してプラトンの思想がどう変わったのか,自分の政治経験がどう反映されているのか,といったことが着目点なのだろうと思います。
でも,自分には,そういったことはどうでもいいのです(←どうでもいいは言い過ぎだけど)。恐らく70を超える高齢になったプラトンが,確実に死を意識しながらなお,どんな思い,渇望を持ってこんな超大作を書いていたのだろう?ということに思いを馳せたいと思います。また文学作品 (というか,あまつさえ対話篇という形式で書かれた読み物) として考えた場合,著者は読者に,自分がいつ書いたものであろうと等しく読ませるものにすると思われるからです。かつプラトンもそう考えただろうと思うからです。自分のようなアマチュアの読者は,そこを素直に読むべきかなと思います。(但し後期対話篇については,アカデメイアの学生向けに書かれた専門性の高いもので一般向けではない,という説が有力のようなのですが。)

さて第一巻では,まず法律が何を目的に作られたものかということや,法律でどういったことが定められるべきか,といったことを軸に,様々なことが語られていきます。戦争に勝つことが法律の目的とか,快楽などの感情を法律で取り締まるとか,財産や集会を監視するとか,今の自分の感覚ではちょっと信じがたいことも言われたりします。それから,欲望や快楽に対する「訓練」や,飲酒についての話も展開されます。

以下,読書時のメモです。

アテナイからの客人「ねえ,あなた方,神さまですか,それとも誰か人間なのですか,あなた方のお国で法律制定の名誉をになっておられるのは。」
クレイニアス「神さまです,あなた,それは神さまですよ,いちばん正しい言い方をすればね。わたしたちの国ではゼウスですが,この方の出身地ラケダイモン(スパルタ)では,人呼んでアポロンと言っているはずです。そうではありませんか。」
メギロス「そうです。」(624A)

冒頭です。舞台はクレテ島で,アテナイからの客人,クレテのクレイニアス,スパルタのメギロスの3人で対話が進んでいきます。
まず目につくのは,ソクラテスが出てきません。後期対話篇では,ソクラテスが主要人物でないことはありましたが (『ソピステス』『ポリティコス(政治家)』),全く出てこないのは本対話篇だけかもしれません。それは何故なのか?アテナイからの客人というのは実はプラトン自身で,ソクラテスに頼らず,自分自身の考えであることを明確にした…というくらいなら誰でも思い付くことですが,そう思われることは当然プラトンも読んでいたでしょうから,それでもなおこうしたというのは何か別の理由があるのか?これだけでも論文になりそうなテーマですね。

アテナイからの客人「ではお二人は,あなたにせよこの方にせよ,そのようにすぐれた法の習慣のなかで育ってこられたのですから,今日は道すがら,国制と法律について話したり聞いたりして時を過ごすのも,思うに,そうまずいことではありますまい。」(625A)

クレイニアス「ここで立法者は,大衆の愚かさをとがめているように,わたしには思われるのです。というのも大衆は,誰もがすべての国に対し,生涯を通じて不断の戦いにさらされていることを,理解していないからです。そこで,もし戦時にあって,防衛上共同の食事をとり,指揮する者指揮される者の若干が,交替でその見張りに任命されなければならないのだとすれば,そのことは平和のときにも行なわれなくてはなりません。じっさい,世の多くの人びとが平和と呼んでいるものは,たんに名目だけのもので,じじつはむしろ,すべての国はすべての国を相手に,いつも宣戦布告のない戦いにまきこまれているのが,自然本来の姿なのですから。」(625E)

道すがら,国制と法律について論じながら歩いていくという,考えてみるとすごい設定です。「いつも宣戦布告のない戦いにまきこまれている」というのは強烈な言葉です。すごい主戦論者という印象を受けます。次に続きます。

クレイニアス「クレテの立法者は,戦いに着目することによって,公私を問わずわが国の慣習のすべてを制定したのであり,また,まさしくその見解に従って,法律をあたえてこれを守らせたのです。」(626A)

アテナイからの客人「あなたの下された,立派に治められている国家の規準ですが,あなたの言葉では,立派に治められた国とは,戦いで他国を征服できるように,組織され治められていなくてはならないようですね。そうではありませんか。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」(626C)

ということで法律とは,国家とは,戦に勝つことを目的に作られている,というクレイニアス説が言われます。
自分なども平和ボケしているとは思うので,そんなことあり得るのか?と思いますが戦が日常的に行われ重視される時代というのは,そういう考えもあるのでしょうか。

クレイニアス「だってあなた,自分が自分に打ち勝つことが,すべての勝利の根本ともいうべき最善のことであり,自分が自分に負けるのは,最も恥ずかしく,また同時に最も悪いことだとするのは,ほかならぬ今の場合 (自分の内なる戦いの場合) のことなのですよ。というのも,そうした表現は,わたしたち一人ひとりの内部に,自分自身に対する戦いがあることを,意味しているのですから。」
アテナイからの客人「ではひとつ,その議論を逆にしてみようではありませんか。」(626E)

国家の規準について前に述べられましたが,国家→村→個人間→自分自身,についても同じ規準が当てはまるだろうと言われ,そこで最終的に,「自分が自分に勝つことが根本」と言われました。そこから逆に辿って,国家も国家自身に敵を持つ,と言われることになります。

クレイニアス「どんな国家にしても,その内部で,すぐれた人びとが大勢の劣った人びとに勝っている場合は,その国家は,自分自身に勝っていると言われるのが正しく,またその勝利ゆえに称賛をうけるのが,当然でしょう。これに対し,その事情が反対の場合には,その評価も反対になるわけです。」(627A)

これも主戦派のクレイニアスの言葉です。自分には何となく,平等になっているべき (国家内は),という観念があるためか,「すぐれた人びとが大勢の劣った人びとに勝っている場合」が,国家として,自分自身に勝つ,というのは違和感を覚えるところではありますが,寡頭制のような国家では当然なのかもしれません。

アテナイからの客人「ところが,その最善のものとは,戦いでもなければ,内乱でもありません,―それらの手段に訴えることこそ呪われるべきです―,むしろそれは,相互の間の平和であり,かつ友誼なのです。さらに,国家が,自分で自分に勝つということにしても,思うにそれは,「最善のこと」に属していたというより,「やむをえない必然のこと」に属していたわけです。」(628C)

対して,アテナイからの客人は平和主義のように思えます…ここの前にも,内部で敵対する者同士,勝ち負けがつく前に和解させるべきということも言われていました。また前に言われた「自分自身に勝つ」というのは,最善のものではなく,「やむを得ない必然のこと」としているのも印象的です。少し後に比喩もあるのですが,そもそも病気にならない身体であることこそが最善である,しかしそれは病気になってどう直せばよいか,という段階では考えられにくいことだと。

アテナイからの客人「もしひとが,国家や個人の幸福に関してもそのような考え方をして,ただもっぱら外敵との戦いにのみ目を向けていたのでは,けっして真の意味での政治家になることはできないでしょう。また正真正銘の立法者になることもできないでしょう。いやしくも彼が,戦争に関する事柄を目的として平和の事柄を立法するというより,むしろ平和を目的として,戦争に関する事柄を立法するのでないかぎりは。」(628D)

ということで,アテナイからの客人は,前の方でクレイニアスによって言われた,戦のために立法するということに明確に反対の立場を取ります。病気になった時にそれを治そうとするのと同じように,戦も否定はしていないと思いますが,それはやむを得ないことであり,積極的に追及すべきは平和,という感じでしょうか。

アテナイからの客人「戦いには二つの種類がある。その一つは,わたしたちすべてが内乱と呼ぶところのもの,それこそは,今しがたも言ったように,あらゆる戦いのなかで最も恐るべきものだ。これに対し,わたしたちのすべてが,戦いの今一つの種類と見なすものは,国外の,異種族との間で不和になるときに交える戦いであり,これは,さきの戦いよりはるかに穏やかなものだと。」(629D)

本巻では,割と内乱の恐ろしさが強調されていて,アテナイからの客人も,外敵はしょうがないが内乱は絶対避けるべき恐るべきもの,というニュアンスのことを何度か言っています。この後も,外敵との戦いで勇敢な戦士より,内乱において武勇を示した人の方がより武勇の人と言われたり,「内乱に際して信頼に足る,心のしっかりした者となるには,徳のいっさいをそなえずしては不可能なことですから」(630B) と言われたりします。こういうわけで,戦のためにも徳が重要ということになってきます。

アテナイからの客人「ところで,わたしたちのこの議論は,いったいどこへたどりつくのでしょう。また,そもそも何を明らかにしようとして,このように話しているのでしょうか。それはあきらかにこういうことなのです。ゼウスの教えをうけたこのクレテの国の立法者は言うまでもなく,およそ多少なりと有能な立法者ならすべて,法律の制定にさいし,つねに最大の徳以外のものにとりわけ着目することはありえない,ということです。その最大の徳こそは,テオグニスも言うように,危機にさいして信頼に値することであり,ひとはそれを,全体にわたる正義と名づけることもできるでしょう。」(630C)

立法には「つねに最大の徳以外のものにとりわけ着目することはありえない」というのが,アテナイからの客人の一貫した考えで,かつプラトンの「理想」の一環なのでしょう。法律というものを見透かした時に,奥に「全体にわたる正義」が浮かんでくるかどうか。これは民主主義の国家では有効な検証の仕方かもしれません。

クレイニアス「これではあなた,わたしたちは,われわれクレテの立法者を,落第立法者の中に投げこんでいることになりますよ。」
アテナイからの客人「あなたともあろう方が!「わたしたちは」ではありません。むしろ「わたしたちみずからを」投げこんでいることになるのです。かりにも,リュクルゴスやミノスが,とりわけ戦いに着目して,ラケダイモンやクレテの制度いっさいを定めていたなどと考えているようではね。」(630D)

アテナイからの客人「つまり,あなた方の立法者は,徳の一部分,それもきわめてくだらない一部分に着目して制定したのではなく,徳の全体に着目して制定していたのであり,また彼は,当時の人びとの法律を,種目に応じて考察したのですが,しかもその種目は,今日の立法者たちが考察するとき念頭に置くようなものではなかったと,このように言うべきだったのです。というのも,今日の立法者は,それぞれの人がなにかの必要に迫られると,すぐにそのなにかを,考察につけ加えてゆきます。ある人は相続財産と女子相続人に関する事柄を,別に人は暴力行為に関する事柄を,また他の人びとは,それぞれそのように無数に異なったものを,つけ加えてゆくわけです。」(630E)

法律というのは,まず立法事実があって,必要な範囲でそれを帰納的に一般化したものでは?と自分などは思います。なのでここでの「今日の立法者」の言うことの方が,徳の全体に着目して (演繹して) 制定するというのよりは普通に感じます。
ただ,この「今日の立法者」への批判は,全体の利益にならないことがある,ということを問題視しているのかもしれません。確かに本当に必要なものが必要だと分かるタイミングというのは,または必要だと分かってもそれが立法されるタイミングというのは,必ずどこかで平等ではなくなるはずです (同じくらい重要な複数の立法が必要であっても,同時並行で立法できるわけではないので,必ずタイムラグができ,その「タイムラグ×立法されないゆえの不利益」が生じる)。それで,たまたま必要だと迫られたものだけが立法の対象になるのは,最善ではないという気もします。
尤も,仮にそうだとしても,「徳の全体に着目して制定」するのがよいのか?とも思います。

アテナイからの客人「彼らの交わりのいっさいにおいて,彼らの味わう苦痛や快楽や欲望を,またあらゆる情念 (エロース) のうちでも激しい情念をよく観察監視し,法律そのものを手段として,咎むべきを咎め,たたえるべきをたたえなければならない。また,怒りや恐怖,不運ゆえに魂に生じる動揺,幸運にめぐまれてその動揺からまぬかれるさま,さらに病気や戦争や貧乏のために―またはその反対の状況のために―人びとの味わうさまざまな感情,それらすべての場合において,立法者は,人それぞれの精神状態の美しいもの美しくないものを定義し,教示しなくてはならない。」(632A)

情念,感情について,法律で規定されて「よく観察監視」されるっていうのは,今の感覚からするとちょっと信じがたいことのように思います。その結果として現実に何か損害を起こしたりすれば,動機も問われるのだろうと思いますが。
精神状態の美しいもの美しくないもの,というもの自体はあると私も思います。がそれも,決まりを作ってそう仕向けられた時点で美しくなくなる,という気もします。続きます。

アテナイからの客人「つぎに立法者は,市民たちの蓄財と消費がどんな仕かたで行なわれているかを,監視しなくてはなりません。また,市民のすべてがお互いの間で,自発的あるいは強制的に行なう集会や解散について,彼らがそのそれぞれを,お互い同士どんなふうに行なっているか,またどういう場合に正不正が保たれたり欠けたりしているか,そうしたことをも,よく観察しなくてはならない。」(632B)

こちらもひどい監視社会です。今から見るとかなり自由が少ないと感じます。これが見識の持主であるアテナイからの客人の理想なのでしょうか。
現代の,権利とか自由というのが,電気や水のようなもので,今は当たり前にあるのが当時はなかったり殆ど顧みられることのないものだったのだろうと思います。かつ,これがあることが絶対的に幸福か,と言われると分からない面もあります。100年前であれば,また違う感想でしょうか。

アテナイからの客人「わたしの見るところ,もう一度出発点から出直し,わたしたちがやり始めたときのように,まず勇気を養う制度のことを,くわしく話さなくてはならないでしょうね。それにつづいて,もしお望みなら,さらに別の種類の徳を,またさらに別の種類をというように,順次に調べてゆきましょう。」(632D)

出発点から出直す,というのはプラトン対話篇ではお馴染みの光景です。その後の展開が予告されます。

アテナイからの客人「ところでその勇気ですが,さあ,わたしたちはこれをどう定義したものでしょうか。ただ単純に,恐怖と苦痛に対する戦いとのみ定義したものでしょうか。それともさらに,巧みにへつらう誘惑者たる欲望や快楽に対しての戦いをも含めたものでしょうか。そのへつらいこそは,謹直を旨とする人の気概すらも,蠟のように軟化させてしまうものですが。」
メギロス「わたしは後のほうだと思います。つまり,それらいっさいに対する戦いです。」(633C)

単純に「勇気」というものを考えた時には,ここで言われている前者を想定すると思いますが,それは当時も同じだったということが窺われます。欲望や快楽に対する戦いも勇気である,というのは新鮮に映りますが言われてみれば成程と思います。
ただ,それは「節制」(や「節度」) と言われるものではないのか?とも思います。ここは,アリストテレス『ニコマコス倫理学』などとも対比したいところです。

アテナイからの客人「それでは,もう一度話をもとへ戻し,あなた方お二人の国家には,快楽の方を避けずに享受してゆく制度として,どんなものがあるのか,それを話してみようではありませんか。ちょうど苦痛の場合に,これを避けず,むしろ苦痛の真只中に人を連れこみ,強制したり,あるいは名誉を手段に説得したりしながら,その苦痛を征服させた制度のようにね。それと同じような制度が,快楽に関しては,いったいあなた方の法律のどこに制定されているのですか。」(634A)

いわゆる「スパルタ式」の快楽版のような制度があるのか?という感じでしょうか。これについては第1巻の後半で,意外なものが実はこれである,ということが言われます。

アテナイからの客人「あなた方のお国では,じっさい法律のことはなかなか立派に整備されていますが,なかでも最も見事な法律の一つに,こういうものがあるからです。つまり,どの法律がよいかわるいかの吟味は,どんな青年にも許さず,むしろみんなが,声を一つにし口を合わせながら,いっさいの法律は,神々が制定者である以上立派に制定されている,と言うようにさせています。そして,もし誰か別の意見をなすものがあっても,それに耳を傾ける者をそのまま許してはおきません。」(634D)

これはあまり話の本筋とは関係ない部分ですが,前述の監視の部分とのつながりで,いまから考えるととんでもなく自由がないな,ということが思わされる部分ではあります。

アテナイからの客人「もしわたしたちの市民が,若いときから最大の快楽に無経験であるなら,そして,快楽にのぞんだときにそれを抑制し,どんな恥ずかしい行為も意に反しては行なわないだけの訓練を受けていないなら,彼らはやがて,快楽に対処する甘さゆえに,恐怖に打ち負かされる者と同じ目にあうだろう。つまり,快楽にのぞんで抑制のできる者や快楽にかけては熟達している者たち,―ときに根っからの悪党であるが―,そういう者たちの奴隷に,しかもさきとは別のもっと恥ずかしい仕かたで奴隷になるだろう,と。」(635C)

『国家』でも似たことが言われていたと思います。「快楽に対処する甘さゆえに,恐怖に打ち負かされる」というのは (周囲も含めて経験はないですが) 薬物依存のようなものを連想します。
感染症のワクチンのようなもので,免疫を付けることが,快楽に対しても必要,という感じでしょうか?苦痛や恐怖に対しては,前に言われていたように行なわれていたようですが。

これで第1巻の半分くらいです。
前期対話篇ではないので仕方ないのですが,「法律とは何か」という追求の仕方がされているわけではないので,何がテーマなのかが漠然としたものに感じられてしまうところはあります。
これ以降はメモ(2)に。