プラトン『メネクセノス』メモ

プラトン『メネクセノス』(プラトン全集 (岩波) 第10巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,審議院帰りのメネクセノスとソクラテスの会話で,近いうちに戦死者のための追悼演説が行われるという話をメネクセノスがします。それに対して,ソクラテスがアスパシアという人から,彼女が起草した,ペリクレスが行った追悼演説の内容を聞いたことがあるというので,メネクセノスに促されてその演説を再現するという内容です。その演説の中身を手短に言えば,如何に外敵・内乱から本国を守ってきたかという戦争の歴史と,それを勝ち抜いてきた自分たちがいかに優れた民族であるかを示すものといった感じだと思います。
なのでメネクセノスとの対話は,冒頭とラストに少しあるだけで,ずっとソクラテスの口から一方的に演説の再現の場面が描かれるという,プラトン対話篇としては異色の内容です。演説の内容も,いつもプラトン対話篇で行なわれている「~とは何か」という追求が行われているわけでもなく,普通に追悼演説の内容を紹介しているという感じです。
副題は「戦死者のための追悼演説」。
以下は読書時のメモです。

ソクラテス:それにしても,メネクセノスよ,戦争で死ぬということは,いろいろな点でほんとうに結構なことであるようだね。というのは,たとえ貧乏人であっても,戦死すれば,立派で盛大な葬式をしてもらえるし,またたとえとるにたらぬ人物であっても,賢い人々の賛辞を獲得するのだから。それもその場の思いつきでほめるのではなく,長い時間をかけて演説の準備をしたうえでほめてくれるのだからね。(234C)

基本的には追悼演説 (それ自体なのか,語られる内容についてなのか) に対してはプラトンは反対の立場であると,この皮肉の交じったソクラテスの言葉の響きからは感じられます。次に続きます。

ソクラテス:彼らの賞賛の仕方ときたらそれはもう見事なもので,それぞれの戦死者について,真に当人の手柄であることもそうでないことも引き合いに出し,それを言葉をつくしてこの上もなく美しく飾りたて,もってわれわれの魂を魔術のように魅了するのである。そして彼らは,ありとあらゆるやりかたでこの国をたたえ,戦争で死んだ人をたたえ,われわれに先立つすべての祖先をたたえ,その上まだ生きているわれわれ自身をもたたえるものだから,その結果このぼくなどは,ねえ,メネクセノスよ,彼らにほめられてなんだか自分がすっかり偉くなったような気になって,そしてその度ごとに,聞きほれ,魅了されながら立ちつくすのだ,その場で急にもっと背が高くなり,もっと高貴で美しくなったように思ってね。(235A)

ここで,追悼演説の内容についてのプラトンの見方というか,揶揄が分かりやすくソクラテスによって語られています。後で実際に演説の場面が再現されますが,まあこういう内容で,そんなに読む必要がないかもしれません。

メネクセノス:では,もしあなたが演説をしなければならないとすれば,あなたはどんな話ができるのですか?
ソクラテス:ぼく自身が自分の力でしゃべるとなれば,たぶん何ひとつ言えないだろう。しかし実は昨日も,アスパシアがほかならぬあの戦死者のための追悼演説をしまいまでやってみせたのを,ぼくは聞いていたのだよ。…その一部は即席のものだったが,他の部分は彼女が以前に用意してあったものだった。それは,ぼくのみるところでは,ペリクレスが行なった追悼演説を彼女が起草してやった時のことだと思う。彼女は,その演説にのらなかった残りのものをつなぎ合せて,話してくれたのだね。(236A)

アスパシアとは,ソクラテスの「弁論術にかけて凡庸ならぬ女の先生」(235E) で,ペリクレスの演説 (脚注によるとトゥキュディデス『歴史』に伝えられているもの) の中身も考えていたようです。『ゴルギアス』などからすると,ソクラテスが,真実追求と反対に位置する弁論術を誰かに習っていたとも考えづらく,ここは創作ではと思います (史実は確認してませんが)。
以下,236D の途中からその演説の再現が行われます。

ソクラテス(演):私には,こう思われる―自然の順序に従い,彼らがすぐれた人々となっていった道筋をたどりながら,かれらをたたえなければならないと。ところが彼らがすぐれた人々となったのは,すぐれた人々から生をうけたからに他ならない。それゆえわれわれは,まず第一に彼らの生まれの良さをたたえよう,ついで第二に,彼らが享受した養育と教育をたたえよう。そしてそのうえで,かずかずの偉業をなしとげたその行為を明らかにしよう,彼らがいかに美しく,またいかに生い立ちにふさわしく,その偉業をなしとげてみせたかを。(237A)

ということが言われ,すぐれた祖先を生み出したのは,神々が愛した国だから…というようなことが後に続きます。何となく戦前の日本を連想します。

ソクラテス(演):さて,ある者はこの国制を民主制とよび,ある者は別の気に入った名で呼ぶ。しかし,真実には,それは民衆の賛同に裏づけられた《もっともすぐれた者の支配》なのである。われわれにはつねに王たちがいる。彼らは時には家柄によって,時には選挙によって,任につく。しかし国家の実権をにぎる者はほとんどの場合民衆であり,民衆が,その時々において最良と思われた者に,官職と権力を与えるのである。(238D)

少しだけ国制の説明があります。官職と権力を与えられるものとしては,「虚弱,貧乏,父親の無名といった理由で拒まれない」(238D),「規準となるのは賢者であるか,あるいはすぐれていると思われた者」(238D)といったことが言われます。
また,国制の源は,生まれの平等とも言われます。「むしろ自然における生まれの平等は,われわれをして法における権利の平等を求めさせ,徳と思慮に由来する名声のほかには,何ものによっても互いに他を服することのないようにさせているのである。」(239A)という辺りは,徳と思慮はともかくとして,生まれの平等,法における権利の平等などは,今の人権宣言としても通用しそうな先進的な内容という気がします。まあいずれにしても,演説だから聞き心地のよいことを言っているだけかもしれませんが。

引用は省きますがこの後,(1)ペルシアにおける侵略の歴史(マラトンはペルシアの大軍に攻められても負けなかったとか)→(2)サラミス(とアルテミシオン)の海戦→(3)プラタイアの戦…と延々と外敵との戦争の歴史が語られます。また平和が訪れた後は,羨望,嫉妬により不本意にもギリシア人と戦うことになったという,ペロポネソス戦争のことも語られます。
この辺りはむしろ,歴史の講義を受けているようでこれはこれで面白いです。サラミスの海戦,ペロポネソス戦争などは高校の世界史で習った記憶があります。そう思うと同じことをこの約2,400年の時を超えたプラトンの著作で読めるというのも感慨深いものがありますね。
しかし語り口は,自分たちが生粋のギリシア人であることを強調し,敵はバルバロイ (夷狄と訳されていた) であるなど,民族主義的な感は否めません。

ソクラテス(演):「われわれは,醜い仕方でなら生きながらえることができたとしても,汝らと汝らの後につづく者たちを恥辱にさらし,われわれの父親と祖先の全体を辱しめるよりは,むしろその前に美しく死ぬことの方を選んだのである。なぜならわれわれはこう考えるからだ―自分の血族を辱しめる者にとって人生は生きるにあたいせず,そしてそのような者に対しては地上にあっても,また死してのち地下にあっても,人も神も友となるものはひとりとしていないと」(246D)

醜い生き方をするくらいなら死んだ方がマシ,というここの内容は素のソクラテスが言うとしても全く不思議ではありません。しかし,祖先や国を礼賛する演説という文脈の中で言われると,微妙に胡散臭い印象になります。

ソクラテス(演):「およそひとかどの人物と自負するものにとって,自分の力によってではなく,祖先の名声によって,自分を尊敬される者にすることほどの恥辱はないのだ。」(247A)

ソクラテス(演):「古くから伝えられている《何ごとにも度を過すなかれ》という言葉は,名言であるとされている。事実それは真実を言いあてた言葉である。なぜなら,自分を幸福にするすべてのものを自分自身に依拠させているか,あるいはそれに近い心がまえの者,そして,他人に依存することなく,したがって他人の浮き沈みによって,自分の方も動揺せざるをえないというようなことのない者,そのような者にあってこそ人生を生きる準備はもっとも見事にととのえられているのであって,節度ある人とはまさしくその人のことであり,また勇敢にして思慮ある人とは,まさしくその人のことであるからだ。」(247E)

この言葉などはストア派のエピクテトスが言ったと思わせるような言葉です。国にとって,そういう人間は都合がよいということなのでしょうか。

メモは以上。追悼演説といっても,戦死者たちについて思いを馳せるというよりは,言葉巧みに国威を発揚するような内容になっていると思います。そういう面に疑問を感じたからこそ,プラトンが本対話篇を書き,ソクラテスに語らせた―さすがに普段の対話と違い過ぎるので,ソクラテスに語らせれば皮肉であることくらい分かるだろうと―という見方もできるかもしれません。

プラトン『リュシス』メモ

プラトン『リュシス』((プラトン全集 (岩波) 第7巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,まずソクラテスが移動中にヒッポタレスとクテシッポスに会い,「美しい少年たちがたくさんいる」と近くの体育場に誘われていきます。そしてヒッポタレスがリュシスという少年に恋をしているとか何とかちょっと怪しい会話を経て,リュシスとその友人のメネクセノスとの対話が始まります。
対話は最初,親の子に対する教育のような話になりますが,メインは副題にもあるように「友とは何か」です。しかし結論は出ません。この流れは『カルミデス』や『ラケス』にも類似していて,いわゆる初期対話篇の特徴のようです。

副題は「友愛について」。

「それではご両親は,いったいぜんたい何のために,君がしあわせで何でもしたいことをするのを,そんなにひどくおさまたげになり,そして一日中いつも誰かの奴隷になって,要するにほとんど何ひとつ自分のしたいと思うことができないようなありさまにして,君をお育てになるのだろうか。」(208Eのソクラテス)

ソクラテスがリュシスに,両親がリュシスのためを思うならなぜもっと自由にやりたいことをさせないのか,というようなことを問います。リュシスは「まだ自分が一人前になっていないから」と謙虚な答を言うのですが,何だかんだでソクラテスに言いくるめられます。ただ,そんなに本気でこのテーマを追求するつもりではなかったのか,途中でふと終わります。

「ではメネクセノス,私のたずねることに答えてくれたまえ。じつはちょうど私には,子供のときから手に入れたいと思っているものがあるのだ。人それぞれに,みな何かそういうものがあるもので,馬を欲しがる人があれば,犬を欲しがる人があり,金の欲しい人,名誉の欲しい人と,人によってさまざまだ。私は,そんなものには気がないのだが,友を手に入れるということになると,まったく目がなくて,世界一みごとなうずらや鶏などよりも,まず,よい友だちが自分のものになったらと思うのだよ。」(211D のソクラテス)

これはリュシスとメネクセノスの仲のよさを羨んで問うています。ただ,ソクラテスが友を欲しがる,というのはやや意外な感じもしました。金や名誉が要らないというのはいかにもなのですが。でも見方を変えると,ソクラテスが欲するという「友」というのは何か重大なというか,本当の意味での友,という感じがしてきます。全く想像がつきませんが…。

「では答えてくれたまえ。誰かが誰かを愛するばあい,どちらがどちらの友になるのかね。<愛するほう>が<愛されるほう>の人の友になるのか,あるいは,<愛されるほう>が<愛するほう>の人の友になるのか,それとも,どちらでもまったくかわりのないことかね。」(212B のソクラテス)

本対話篇の注意点かもしれませんが,愛情と友情の区別がありません。なのでここのように,友=愛する/愛される,という言及がされています。さて,言われてみると不思議な話題ですが結局このどっちがどっちというのは破綻します。
その後対話は,「友だちとは『善き人々』という説が出されたり,「<反対のもの>が<反対のもの>にとっていちばんの友である」という説が出されたりします。

「では,正しいものが不正なものと,節制なものが放縦なものと,また,善きものが悪しきものと,友であるのか。」(216B のソクラテス)

ということで<反対のもの>説も否定されます。実際に仲良くなる人というのが,「自分と似た人」なのか,「自分とは似ていない人」なのか,というのは現代でもテーマになったりしそうです。例えば,よくしゃべる人と静かな人とか。そういう観点でいうと,正と不正や,善と悪,という例を持ち出すソクラテスは頭が固すぎます(笑)。ごもっとも,なのですが。
で,話としては,「<善きもの>と<善くも悪くもないもの>とが友になるだけ」 (217A) ということになってきます。

「したがってまた,すでに知者である者は,神々であれ人間であれ,もはや知を愛することがないのであり,他方また,自分の持っている無知によって,すでに悪しき人間になってしまっている人々も,知を愛することがない,なぜなら,悪しく無知なる人は,誰一人知を愛することがないのであるから,といってよいであろう。すると,あとに残るのは,その無知という悪を持ってはいるが,しかし,まだそれによって無知なわからずやになってはいず,自分の知らないことは知らないとまだ考えている人たちである。」(218A のソクラテス)

これはソクラテス流の「中庸」というふうにも思いました。話の流れからいうと,<善くも悪くもないもの>だけが知を愛する,ということになるでしょうか。

「おやおや,われわれが金持ちになったと思ったのは,夢の中でのことらしいよ,リュシスにメネクセノス」
「何ですって?」とメネクセノス。
「どうも,いまわれわれのめぐりあった友についての説は,いわば大ぼらふきたちのようなものだったのではないかと思うのだ。」 (218C)

ここで急に対話がちゃぶ台返しになります。『パイドロス』でも,やはりひっくり返されたことがありました。ダイモーンの何とかってやつで,急にソクラテスの頭にそういう呼びかけがある,というのは『テアゲス』でも言われています。とはいえ,ここでは,一応これまでの経過は生きていて後で言及されています。

「われわれはよく,金銀を大切なものに思うというけれども,おそらくやはり,それは真実ではなく,われわれがほんとうに,それこそすべてであると思っているものは,じつは別にあるのであって,何かそのようなもののためにこそ,われわれは金銀もその他のものも準備するのである。われわれはこう言ってよいだろうか?」
「よいと思います。」
「さて,<友>についても,同じようなことが言えるのではないか。つまり,あきらかにわれわれは,われわれにとって何か或る別の友のために友であると,われわれの主張するようなものどもを,すべて言葉のうえでは<友>と呼んでいる。しかしほんとうに<友>であるものは,おそらく,それらのものどもに対するもろもろのいわゆる愛が,結局すべてそれに帰着することになるかのものにほかならないであろう。」 (220A)

「しかしほんとうに<友>であるものは,おそらく,それらのものどもに対するもろもろのいわゆる愛が,結局すべてそれに帰着することになるかのものにほかならないであろう。」…この部分はプラトン得意の?イデア論の片鱗が見えます。

「したがって,そのときわれわれは,『われわれは善は悪の薬であり,悪は病気であると考えて,悪のゆえに善を尊重し愛していたのだ』ということに気づくのではないだろうか。病気が存在しないなら,薬の必要はすこしもないわけだ。以上のようなわけで,善は,悪のゆえに,悪と善との中間の存在であるわれわれによって愛されるのであって,善だけでは,善自身のために求められるような効用を,すこしももっていないのではないだろうか。」(220D のソクラテス)

「悪のゆえに善を尊重し愛していた」「善だけでは,善自身のために求められるような効用を,すこしももっていないのではないだろうか」というのは,なるほどなあという言い回しです。現代の身近なことにも応用できそうです。ただ,かなり相対的であり,若干プラトンらしくないという感じは受けます。

「では子供たち,人が他の人を求めたり愛したりするばあいも,もしもその人が,ちょうど魂や,魂の何か品性や性向やタイプなどに関して,愛される相手の人にとって,何らかの仕方で<自分のもの>(血のつながったもの)であるのでなければ,けっして求めたり恋したり愛したりすることはないだろう」(222A のソクラテス)

断片的に取り出しましたが,「自分に欠けたもの(を愛する)」→「自分から奪い取られたもの」→「元は自分にあったもの」→「<自分のもの>」という展開がこの前にあります。この推論はともかくとして,自分に欠けたものが,自分の血のつながったもの,というのはそれだけを見ても示唆的だなあと思います。
しかしながら,結局この説も,<自分のもの>の人々が友とすると,善い人は善い人と,不正な人は不正な人と友になるなど,以前に否定されたパターンになるので,それも違うとなります。

「すなわち,もし,<愛される人々>も,<愛する人々>も,<似ている人々>も,<似ていない人々>も,<善き人々>も,<自分のものである人々>(自分と血のつながる人々) も,その他およしいままでわれわれののべてきたかぎりのものも,―あんまり多いので,もう私はおぼえていないのだよ―さて,それらのうちのいかなるものも <友> ではないとすると,私にはもう何を言ってよいのかわからない」(222E のソクラテス)

ということで,プラトン対話篇らしく,迷宮入りしたところで,ちょうどリュシスとメネクセノスのお迎えがきて,対話がお開きになります。

「さあこれで,リュシスとメネクセノスよ,われわれは笑われ者になったのだ,老人であるこの私と君たちは。ここにいる人たちは,帰る道々言うことだろう,われわれは―私も君たちのなかに入れさせてもらって,―お互いに友であると思っているけれども,それなのに,<友>とは何であるかということも,まだ見つけだせなかったのだ,と」(223B のソクラテス)

メモは以上。次回は『ゴルギアス』の予定。