プラトン『国家』第六巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第六巻を読んだときのメモ第2弾。

メモ第1弾の続きといった内容です。現存する国制では,哲学者による統治が行なわれるようなものはない,しかし可能性がないわけではないし,反対する人にも説明すれば納得するだろうと。
何となく楽観的という印象があります。大衆や,哲人政治に反対するであろう人たちにも,ここで対話されているようなことを説得できるだろうと言われたり,支配者の地位になるような人の中に哲学的素質が芽生える可能性も無くはないと言われたり。まあ楽観的じゃないと哲人政治なんて考えられず,逆にひたすら悲観的で人の善なるものを信じられないなら恐怖政治に陥るしかないのでしょう。だからプラトンはある意味では究極的な楽観主義者であるのかもしれません(笑)。ただまあ,そういうところもプラトンから学び取るべきことなのかもしれません。
なおイデアの本格導入や,太陽の比喩等は次のメモ第3弾に書く予定です。

以下は読書時のメモです。

「哲学に適合した国家のあり方とおっしゃるのは,現存するさまざまの国制のうちの,どれのことなのでしょうか?」
「けっしてどれでもない」とぼくは言った,「まさにそのことが,ぼくの不満とするところなのだ。現在行なわれている国制のうち,どれひとつとして哲学的素質に値するものはないという,そのことがね。だからこそまた,そのような素質はねじ曲げられ,変質させられることにもなるのだ」(497A)

現存するさまざまの国制,というのは実はまだ『国家』では殆ど具体的に述べられていません。第四巻の最後でこれから言及しようとしたところで,別のテーマ (3つの大浪) に移ってしまいました。それは第八巻まで待たねばならないことになります。いずれにせよ,それらは不適合だと。

「そこで君はつぎに,それならその最善の国制とは何かとたずねるだろうことは,よくわかっている」
「わかってはいませんよ」と彼は言った,「わたしがたずねようとしていたのは,そういうかたちの質問ではなくて,いったいその国制とは,われわれがこれまで国を建設しながら語ってきた国制と同じものなのか,それとも違うのか,ということです」(497C)

微妙に反抗的な態度を取るアデイマントスが印象的です(笑)。まあいずれにしても,これまで対話のテーマだった国家の国制ではどうなのか,という話になるのは流れとしては必定です。

「ぼくは熱意のあまり,大胆にも,こう言おうとしているのだよ―国家がこの哲学という仕事を扱う仕方は,現状とまったく反対でなければならない,とね」
「どのような意味で,でしょうか?」
「現状では」とぼくは言った,「哲学を手がける者があるとすれば,そういう人たちは,やっと子供から若者になったばかりのころ,家を持って生計を立てるようになるまでのあいだに,哲学の最も困難な部分に近づいてみたうえで離れ去ってしまう。そんな連中が,いちばんよく哲学を学んだ人たちと見なされてしまうようなありさまなのだ。最も困難な部分というのは,論理的な議論にかかわる部分のことだがね。―そしてそれから以降は,もし招かれてほかの人々のそういう議論の聴き手になることを承諾でもすれば,それで大したことをしたつもりになっている。哲学的な議論などは,片手間のこととしてなすべきだと思っているわけだからね。最後に,老年になると,ほんの少数の例外をのぞいて,彼らの内なる火はすっかり消えてしまう。もう二度と点火されることがないだけ,ヘラクレイトスの太陽よりもずっと完全にね」
「では,本来はどのようにすべきなのでしょうか?」と彼は言った。
「まったく正反対のやり方でなければならない。若者や子供のころには,若い年ごろにはふさわしい教養と哲学を手がけるべきだし,身体が成長して大人になりつつあるあいだは,身体のことにとくによく配慮して,哲学に奉仕するだけの基礎をつくらなければならない。年齢が長じて,魂の発育が完成期に入りはじめたならば,こんどは,そのほうの知的訓練を強化すべきである。そして,やがて体力が衰えて,政治や兵役の義務から解放されたならば,そのときこそはじめて,聖域に草食む羊たちのように自由の身となり,片手間の慰みごとをのぞいては他の一切を投げ打って,哲学に専心しなければならない。そうしてこそ人は幸せに生きることになる,死んでのちはあの世において,自分の生きてきた生のうえに,それにふさわしい運命をつけ加えることになるだろう」(497E)

『ゴルギアス』でのカリクレスは,確か大人になっても哲学を行なっているような人間はぶん殴ってやりたいみたいなことを言っていましたが(笑),ここではソクラテスに,歳をとるほど哲学に専心しないといけないと言わせています。
前半で,「哲学の最も困難な部分というのは,論理的な議論にかかわる部分」と言っていますが,勿論プラトンにとっての哲学は,真実を愛し,イデアを追求することなので,哲学とは何かということについてのギャップがあったということなのでしょう。

「われわれとしては,このトラシュマコスをも,その他の者たちをも説得してしまうまでは,あるいは少なくとも,この人たちが次の世に生まれかわって,いまと同じような議論をすることになったときのために,何ほどか役に立つことをしてやるまでは,けっして努力をゆるめないだろう」
「次の世とはまた」と彼は言った,「少しばかり先のことをおっしゃるものですね!」
「いやいや」とぼくは答えた,「それまでの時間などは無に等しいようなものだ―全永劫の時間を前にしてはね」(498D)

プラトン (ソクラテス) の時間に対する卓見を表す場所だと思います。

「こういった事情があればこそ」とぼくは言った,「またそれを予測したからこそ,われわれはあのとき,恐れながらも真実に強制されて,次のように言ったのだ―
さっき言ったような哲学者たちが,つまり,今日役立たずと呼ばれてはいるが,けっして碌でなしではないところの数少ない哲学者たちが,何らかのめぐり合せにより,欲すると欲しないとにかかわらず国のことを配慮するように強制され,国のほうも彼らの言うことを従順に聞くように強制されるのでなければ,あるいは,現に権力の座にある人々なり王位にある人々なりの息子,ないしはその当人が,何らかの神の霊感を受けて,真実の哲学への真実の恋情に取りつかれるのでなければ,それまでは国家も,国制も,さらには一個人も同様に,けっして完全な状態に達することはないだろう,と。
いま言った二つの条件のうち,どちらか一方,もしくは両方ともが,実際には実現不可能であると考える根拠はまったくない,とぼくは主張したい。もしそうなら,われわれは,たんなるむなしい祈りにしかすぎないような説をなす者として,正当に嘲笑されてしかるべきだろうからね。そうではあるまいか?」(499B)

「こういった事情」というのは,ここまで述べられたような哲学的な素質を持った人による支配や討論などを見たり聞いたりしたことがある人は殆どいない,というようなことですが,確かに何事もそういう理想というか,可能性を知らない,もしくは実現不可能と考えていると,といざチャンスがあったとしても活かせないような気がします。つまりプラトン (ソクラテス) は,確率的に「哲人王」が出現する可能性はあるはずだがそもそもそういう可能性が活かされていないわけだと見ているように思いました。

「ねえ,君」とぼくは言った,「大衆というものをそう無下に悪く言うものではないよ。彼らにしても,君が彼らと争うつもりでなく,穏やかに言い聞かせる気持で,学問愛好に対する偏見を解いてやり,君の言う<哲学者>とはどういう人々のことかを教えてやるならば,そして,彼ら自信が考えているような連中のことを君が言っているのだと思われないために,哲学者たちの自然的素質やその仕事のことを,さっきのようなやり方でちゃんと規定してやるならば,きっと意見を変えることだろう。それとも君は,たとえ彼らが君の説明どおりの見方をするとしても,違った意見をもち,違った答をするようにはならないと,言うつもりかね?いったい,誰にせよ,自分自身が悪意のない穏やかな者でありながら,怒ってもいない者に対して怒ったり,悪意のない者に対して悪意をもったりすると思うかね?」(499E)

基本的にプラトンが大衆のことをいつも悪く言っているじゃないかという気もしますが(笑),まあ彼らは誤解しているだけだと。

「ではまさにこの点についても,君は同じ考えだろうか?ほかでもない,多くの人々が哲学に対してきつく当ることのそもそもの責任は,その柄でもないのによそから入りこんできた,あの騒々しい連中にあるということだ。彼らは,お互いに罵り合い,喧嘩腰であって,いつも世間の人間たちのことばかり論じるという,およそ哲学には最もふさわしからぬことをしている」
「まったくです」と彼。(500B)

「あの騒々しい連中」とは勿論ソフィストを指すと考えられます。
ふと思ったのですが,プラトンは「ソフィスト」についてもイデア的なものを考えていたのかもしれません。「一部の若者たちがソフィストから害毒を受けている(が)…実際には,そういうことを言っている人々自身が最大のソフィストであって…」(492A) と前に言っていますが,つまり善のイデアと同様に,ソフィストのイデアというものがあって,ソフィストたち自身よりもそういう言動をさせているそのものを憎んでいたのかもしれません。

「彼らはその仕事にあたって」とぼくは言った,「いわば画布に相当するものとして,国家と,人間たちの品性とを受け取ったうえで,まず第一に,その画布の汚れを拭い去って浄らかにするだろう。これがそもそも,容易ならぬ仕事なのだ。だがいずれにせよ,君も知るように,彼らはすでにまずこの点において,他の者たちとは違うと言うべきだろう。すなわち,相手が一個人にせよ,国全体にせよ,これを清浄な状態で受け取るか,あるいは自分自身で清浄にするか,どちらかでなければ,それまではけっして手を着けようとせず,法を起草しようともしないという点においてね」(501A)

この辺りは,哲学者が,自己自身のように国全体をどう形作るかという話になっています。いわゆる「ゼロベースで」という感じなのでしょうか。

「さあ,これでわれわれは」とぼくは言った,「われわれを目がけてはげしい勢いで押し寄せてくると君が言っていた連中を,何とか説得することができるだろうか?彼らは,そんなやつに国を委ねるのかと怒ったが,あのときわれわれが彼らに推奨したのは,実はこのようにして国家のあり方を描く画家なのだ,と言ってね。どうだろう,彼らはいま,このことを聞いて,いくらか穏やかになってくれるだろうか?」
「いくらかどころか」と彼は言った,「ずっと穏やかになるでしょう。聞きわけがありさえすれば」
「じっさい,彼らにしても,どの点に異論を申し立てることができるだろう?哲学者とは,実在と真理を愛する者ではないとでも言うのだろうか?」(501C)

現実には全然穏やかになってくれないと思いますが(笑)。実在と真理を愛する者ばかりだといいんですけどね。前々から書いてますが,現代では物理的・経済的な利益を幸福であると考えがちだと思われます。そのために実在と真理をねじ曲げることを厭わない人も多いでしょう。見方によっては,ソクラテス流の対話によってそれを変えることができると信じているのがソクラテスであって,前向きだなあといつも思うようなところです。
また,くだんの連中も,「実際に自分が行なうのではなく,そういう考えの方が優れている」ということならば同意してくれるかもしれませんが…。

「ではどうだろう―そのような自然的素質が自分にぴったりと適合した仕事を与えられたとき,いやしくも何らかの素質がそうなるとすれば,まさにこのような自然的素質こそは,すぐれた性格,哲学的な性格として完成されるだろうということ,このことを否定するのだろうか?それとも,われわれが排除したような人たちのほうが,むしろそうなるなどと主張するだろうか?」
「むろん,そんなはずはありません」
「とすれば,哲学者の種族が国の支配者となるまでは,国家にとっても,国民にとっても,禍いのやむときはないだろうし,われわれが言葉によって物語っている国制が事実において完成されることもないだろう,とわれわれが言うのに対して,彼らは,なおも怒りつづけるだろうか?」(501D)

ということで,哲学者が支配者になることが,今までの国制を実現するための必要条件である,と「哲人王」と同じことが繰り返されます。

「さあそれでは」とぼくはつづけた,「彼らのほうは,この点をすっかり納得してくれたものとしよう。ところで,王位や権力の座にある人々の子供に,哲学的な素質を持った者がたまたま生まれてくるという可能性はないと言って,その点で異論を申し立てる人が誰かいるだろうか?」
「一人もいるはずがありません」と彼は言った。
「では,そういう素質に恵まれた者が生まれたとしても,どっちみち必ず堕落してしまう,と言い切ることが誰かにできるだろうか?」(502A)

今度は既に支配者になるべき人が哲学者になるというパターンについての問いで,これは No という答えが当然直後に言われます。
前に「確率的」ということを述べましたが,ここでも何となく確率的な意味を感じられます。普通は堕落するが中にはたまたま堕落しないような人もいると。
確率的,というのは言い換えれば生物学的,科学的であり,哲学の立場からすれば神の領域でもあると思います。そういうところが,プラトン対話篇で神話が多く出てくることと繋がってくるのかもしれないとふと思いました。

「そうするとどうやら,この立法の問題についていまわれわれに結論できることは,われわれの案は,もし実現できれば最善のものである,しかるにその実現は,困難ではあるけれどもけっして不可能ではないと,こういうことになるようだ」(502C)

「それでは,この点はやっとこれで片がついたわけだから,つぎに,残された問題を論じなければならない。それは,こういう問題だった。―われわれの国制の守り手となるべき者たちは,どのようなやり方で得られ,何を学び何を業とすることによって育成されるか,また,それぞれ何歳ぐらいのときに,それぞれの学問にたずさわったらよいか」(502C)

ということで,哲学者による支配というテーマが一段落ついたところで,ここからは本格的に「善のイデア」とは何かということを探求していくことになりますが,キリがいいのでここで一旦終ります。続きはメモ(3)に。

 

プラトン『国家』第五巻メモ(3)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(上)) 第五巻を読んだときのメモ第3弾。

『国家』第五巻は「3つの大浪」とたとえられるソクラテスの説が披露され,メモ(1)と(2)で最初の2つの部分を取り上げたのですが,本メモ(3)は最大の大浪で,いわゆる「哲人王」「哲人政治論」と言われるものです。
『国家』の内容を紹介するときに,恐らく,序盤のトラシュマコスの激しい肉薄や,後半の「洞窟の比喩」などイデア論を譬えた比喩を抑えて,第1位に挙げられるのがこの「哲人王」の部分ではないでしょうか?確かにその内容は一見して分かりやすく印象的です。
また,前半では「実践は言論より真理に触れることが少ない」といった,常に理想というものを視界にとらえるプラトンらしい命題が言われ印象的です。また哲人政治について述べた後に,ではその哲学者とは一体どういう人なのか,ということも論じられます。ここもかなり重要なことが言われていると思います。最後に,「知識」と「思わく」の違いについても出てきます。

「と にかく,こういう国制がもし実現したとすれば,こういったすべての善い点や,ほかにもまだ無数の長所があるということは認めますから,もうこれ以上,制度そのもののことは話していただかなくても結構です。いまやわれわれは,肝心かなめの点を,すなわち,それが実現可能であるということ自体を,またいかにして実現可能であるかということを,われわれ自身に納得させるように努めるべきときです。そのほかのことについては,これで話を打ち切ることにしましょう」
「これはまた突然に」とぼくは言った,「ぼくの話に向かって襲撃をかけてきたね。ぼくがぐずぐずと引き延ばしているのを,容赦しないというのだね。おそらく君は,先の二つの大浪をぼくがやっとのことで逃れたところへ,君がいま差し向けてよこしたこの第三の浪こそ,三つのうちで最も大きく,最も厄介な大浪だということを,わかってくれていないのだろう。それがどんなものかを実際に見聞きしたなら,君はきっと,大いに寛大になってくれるだろう,―なるほど,これほど常識はずれの言説なら,ぼくがそれを口外して検討を試みるのを恐れてためらっていたのは,無理ではないとね」(471E)

ということで,メモ(2) の最後で急かされたように,ではどうすればそういう国家が実現できるのか?ということを語らされることになります。ソクラテスは,さきの2つの大浪よりも衝撃的な内容であることを予め印象付けます。

「いや, べつに。ただ,君にききたいのだが,もしわれわれが<正義>とはどのようなものかを発見したとした場合,われわれは,正しい人間というのもま た,<正義>そのものと少しも異なっていてはならぬ,あらゆる点でその<正義>の理想そのままでなければならぬ,というふうに要求するだろうか?それとも,できるだけそれに近い人間であって,他の誰よりも<正義>を分けもっているならば,それでよしとするだろうか?」
「そうです」と彼は答えた,「それでよしとするでしょう」
「とすれば」とぼくは言った,「われわれがこれまで,<正義>とはそれ自体としていかなるものであるか,また完全に正しい人間がもしいたとしたら,その場合それはどのような人間であるかを探求してきたのは,模範となるものを求める意味においてだったのだ。そして,<不正>や最も不正な人間のほうについても同様である。つまりそれは,そういう模範としての人間に着目して,彼らが幸・不幸に関してどのようなあり方を示すかをしらべ,それをわれわれ自身にも当てはめてみて,そういう人間に最もよく似た者はまた最もよく似た運命をもつであろうということに,同意せざるをえないようにするためだったので。われわれの目的はけっして,そのような模範が現実に存在しうるということを証明することではなかった」(472B)

…微妙に言い訳っぽい感じがしないでもないのですが,理想と現実が違うとしても理想が色あせるわけではないぞと。次に続きます。

「それなら,かりにわれわれが,語られたとおりに国家を統治することが実際に可能であるということを証明できないからといって,われわれの語った事柄がそれだけ価値を失うと思うかね?」
「けっしてそうは思いません」と彼。
「では,それが真実だと承知したまえ」とぼくは言った,「しかしながら,もしこのうえさらに君を満足させるために,この国家はどのようにすれば最もよく実現され,どのような条件のもとで最も可能であるかを証明することに努力しなければならないとすれば,そのような証明のために,もう一度同じ事を確認しておいてもらいたいのだ」
「どのようなことを?」
「いったい,言葉で語られるとおりの事柄が,そのまま行為のうちに実現されるということは,可能であろうか?むしろ,実践は言論よりも真理に触れることが少ないというのが,本来のあり方ではないだろうか?人はそう思わないかもしれない。しかし君は,これに同意するかね,しないかね?」
「同意します」と彼は答えた。
「それでは,われわれが言葉によって述べたとおりの事柄が,実際においても,何から何まで完全に行なわれうるということを示さなければならぬと,ぼくに無 理強いしないでくれたまえ。むしろ,どのようにすれば国家が,われわれの記述にできるだけ近い仕方で治められうるかを発見したならば,それでわれわれは, 事の実現可能性を見出して君の要求にこたえたことになるのだと,認めてくれたまえ。それとも,それだけの成果ではまだ不服かね?ぼくとしては満足できるのだが」
「ええ,わたしも同じです」と彼は答えた。(472E)

この内容も前の言葉に続くもので,国家についても今まで語られたことが実現できると証明できなくてもやむを得ない,寧ろ実現できなくても言論のほうが真理に近いと。
実現可能かどうかはまずは考えずに,理想の国家を打ち立てて,現実のほうをそこに近づけていく…というのは個人的には共感したい部分です。が,実際はどうかというと,例えばそういう姿勢がソフトウェア開発の世界では失敗しがちな事例が多いと思います。

また全く別の観点からいうと,プラトンのいう言論というのはやはり数学的だ,という思いがします。プラトンの理想というものは,数学では極限が表現できるのと似ているのかもしれません。例えば f(x) = log x は,x → ∞ のとき,f(x) → ∞ になりますが,log の増加率というのは非常に鈍くて f(1000000) でもたったの 6 です (底を 10 として)。それでも数学的には x → ∞ のとき,log x → ∞ で,これは「真理」です。
「実践は言論よりも真理に触れることが少ない」というのは,f(x) が ∞ になるような x は実感できないのが現実,というような感じともいえると思います。そしてプラトンは,数学という抽象化された世界と同様に,正義などの徳についても,x → ∞ に相当するような言論を立てようとしていた,という見方もできるかもしれません。数学の例えは不遜なのでここでやめますが,次の「哲人王」についてもこういう見方はありうるかもしれません。

「さあ,とうとう」とぼくは言った,「われわれが最大の浪にたと えていたものに,ぼくは直面するときがきた。だがとにかく,それは語られなければならぬ。たとえそれが,文字どおり笑いの大浪のように,嘲笑と軽蔑でぼくを 押し流してしまうことになろうとも。―では,これから言うことを,しらべてくれたまえ」
「言ってください」と彼はうながした。
「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った,「あるいは,現在王と呼ばれ,権力者と呼ばれている人たちが,真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり,すなわち,政治的権力と哲学的精神とが一体化されて,多くの人々の素質が,現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり,親愛なるグラウコンよ,国々にとって不幸のやむときはないし,また人類にとっても同様だとぼくは思う。 さらに,われわれが議論のうえで述べてきたような国制のあり方にしても,このことが果されないうちは,可能なかぎり実現されて日の光を見るということは, けっしてないだろう。
さあ,これがずっと前から,口にするのをぼくにためらわせていたことなのだ。世にも常識はずれなことが語られることになるだろうと,目に見えていたのでね。実際,国家のあり方としては,こうする以外には,個人生活においても公共の生活においても,幸福をもたらす途はありえないということを洞察するのは, むずかしいことだからね」(473C)

ここが,『国家』の最大のターニングポイントたる「哲人王」の記述のコアな部分だと思います。相当躊躇したあとにソクラテスの口からやっと出てきますが,内容自体は割とさらっと簡潔に語られます。
メモ(1) で,これは『国家』をここまで読んだ人へのご褒美だ,と書きましたが,単にここだけを読むのと,ここまでのソクラテスやグラウコン,アデイマントス,トラシュマコスたちの腐心を経てここまで辿り着いて読むのとでは違うでしょう。というか自分の場合は,「まあ普通じゃん」というような感じでした。この感じ方自体は普通ではない可能性はありますが(笑),でも何の突拍子もなく出てきたというより,他の対話篇を含めてプラトンがソクラテスに語らせてきたことがエッセンスとして凝縮されてきたという印象です。なので説明は不要という感じです。

ただ,以下に哲学者の定義も出てきますが,ここで言われている哲学者というのが,「いわゆる哲学者」ではないと考えられる,ということは念頭に置く必要があるように思います。「いわゆる哲学者」というのは今の少なくとも日本で哲学者と言った場合に認識される哲学者という意味です。はっきりいって何の役にも立たないことを考えている連中だと思われていると思います(笑)。あるいは「哲学」という学問に通じているとか,概念を系統立てて整理するとか,そういうイメージはあると思います。
ある意味では当たり前すぎる話ですが,プラトンが著した当時は学問としての「哲学」なんてなく,寧ろ (今で言う) 科学ともかなりごっちゃになっていたと思います。また,対話篇を読んでいても分かる通り,プラトンには何か統一的な概念を整理したいという意志があったとも思えません。ただソクラテスのように,物質的/経済的な利得ではなく,常に「善」なり「正義」なり (勿論それらの「イデア」といってもいいと思います) を追求し続ける人,という感じではないでしょうか。
極論すれば,「哲人王」論というのは,トートロジという気もするほどです。プラトンの言う哲学者は,ソクラテスのような,プラトンの理想とする考えを持った人間というようにも読めなくはないからです。だから象徴的ではありますが,他の対話篇も読んできた身からすると「普通じゃん」となるわけです。

「ソクラテス,何という言葉,何という説を,あなたは公表されたのでしょう!そんなことを口にされたからには,御覚悟くださいよ。いまやたちまち,あなたに向かって非常にたくさんの,しかもけっしてばかにならぬ連中が,いわば上着をかなぐり捨てて裸にな り,手あたりしだいの武器をつかんで,ひどい目にあわせてやるぞとばかり,血相かえて押し寄せてきますからね。その連中を言論によって防いで,攻撃を脱れるのでなければ,あなたはほんとうになぶりものにされて,思い知らされることになりますよ」
「そういうことになったのも」とぼくは答えた,「もとはといえば,君のせいではないのかね?」(473E)

ここまで恫喝っぽい表現もあんまりないと思いますが(笑),それだけ当時としてもこの説が異端であると思われる背景があったことを示しています。ソクラテスのとぼけ方は少し面白いところです。

「さ て,そこで思うのだが,もしわれわれが君の言うような連中の攻撃を何とか脱れようとするなら,哲学者たちこそが支配の任に当るべきだとわれわれがあえて主張する場合,われわれが<哲学者>と言うのはどのような人間のことなのかを,彼らに向かって正確に規定してやらねばなるまい。それがはっきり すれば,ある人々は生まれつき哲学にたずさわるとともに国の指導者になるのが適しているが,他の人々は哲学にたずさわることもなく指導者に従うのが適しているという事実を指摘することによって,われわれの立場を防禦することができようからね」(474B)

当然の流れですが,ここで哲学者を定義しようとします。

「では,次のことを肯定するか否定するかしてくれたまえ―ある人をあるものの欲求者であるとわれわれが言う場合,その人は,その欲求の対象の全部の種類を要求していると言うべきだろうか,それとも,ある種のものは欲求するが,ある種のものは欲求しないと言うべきだろうか」
「全部の種類を欲求していると言うべきです」
「では哲学者 (愛知者) もまた,知恵を欲求する者として,ある種の知恵は欲求するがある種の知恵は欲求しないと言うのではなく,どんな知恵でもすべて欲求する人である,と言うべきだろうね?」
「そのとおりです」(475B)

哲学者は,「特定の知恵ではなくどんな知恵でもすべて欲求する人」であると。

「これに反して,どんな学問でも選り好みせずに味わい知ろうとする者,喜んで学習に赴いて飽くことを知らない者は,これこそまさに,われわれが哲学者 (愛知者) であると主張してしかるべき者である。そうではないかね?」(475C)

この少し前に,学習について好き嫌いを言うものは「食物について好き嫌いを言うような者」というたとえもありました。

「そ うなりますと,たくさんの妙な連中があなたの言われた条件にかなう者だということになるでしょう。というのは,見物の好きな連中はみな,学ぶことに喜びを 感じるからこそ,見物好きであるのだと私は思いますし,また,聞くことを好む連中にしても,哲学者のうちに数えられるにしては,何かあまりにも奇妙すぎる人たちですからね。何しろ彼らは,哲学的な議論やそれに類する談論には,けっして自分からすすんで赴こうとはしないのに,合唱隊の歌を聴くことになると, まるで自分の耳を賃貸して,ありとあらゆる合唱隊を聞くことを契約してあるかのように,ディアニュシア祭のときなど,あちこちと駆けずりまわって,町で催される公演も村で催される公園も,一つ残らず聞きのがさないようにするのですからね。(475D)」

このグラウコンの指摘は私もそう思いました。知恵を欲求する人,学ぶことが好きな人はだれでも哲学者なのかと。

「では,真の哲学者とは」と彼はたずねた,「どのような人だと言われるのですか?」
「真実を観ることを」とぼくは答えた,「愛する人たちだ」(475E)

このソクラテスの答えは,噛み締めるしかありません。僕自身は,この答えで竹を割るように納得しました。哲人政治論よりもここのほうが重要でしょう。

「そ して,<正>と<不正>,<善>と<悪>,およびすべての実相 (エイドス) についても,同じことが言える。すなわち,それぞれは,それ自体としては一つのものであるけれども,いろいろの行為と結びつき,物体と結びつき,相互に結びつき合って,いたるところにその姿を現わすために,それぞれが多 (多くのもの) として現われるのだ。」(476A)

これはイデア論の説明と見ることができるのでしょう。が,イデア論云々はどうでもよく,「それ自体」というのがあり,それが姿を現したものもある,というのがここでは分かります。

「一方の人たちは」とぼくは言った,「つまり,いろいろのものを聞いたり見たりすることの好きな人たちは,美しい声とか,美しい色とか,美しい形とか,またすべてこの種のものによって形づくられた作品に愛着を寄せるけれども,<美>そのものの本性を見きわめてこれに愛着を寄せるということは,彼らの精神にはできないのだ」(476B)

この辺りは『饗宴』とも関係してきそうな内容ですが,「そのもの」ではなくてそれが現実に姿を映したもののみに愛着を寄せる人,「そのもの」を認められない者 (は,哲学者ではない) というのを言っています。
少し後に言われることですが,この人たちのことを,「知識」ではなく「思わく」を持つ者,であると語られます。

「ではどうだろう。いま言った人たちとは反対に,<美>そのものが確在することを信 じ, それ自体と,それを分けもっているものとを,ともに観てとる能力をもっていて,分けもっているもののほうを,元のもの自体であると考えたり,逆に元のもの自体を,それを分けもっているものであると考えたりしないような人,このような人のほうは,目を覚まして生きていると思うかね,夢を見ながら生きていると 思うかね?」
「まさに,はっきりと目を覚まして生きていると思います」(476C)

「そのもの」を観てとる能力がある人が,哲学者である,ということになります。
何となく仕事などでも実感する部分です。個別の細かい作業の手順を知っていることと,業務の本質を見抜いていることの違いに似ていると思いました。細かい作業手順を知っていても応用はできませんが,本質を見抜いていれば何かあっても即座に最善の対応ができるでしょう。

「では,ここにわれわれは,一つの論点を確立したことになるのではないか?この論点は,もっといろいろの仕方で考察したとしても揺がぬだろう。すなわちそれは,完全にあるものは完全に知られうるものであり,他方,まったくあらぬものはまったく知られえないものである,ということだ」(477A)

突然「ある」「あらぬ」といった話が出てきますが,これは<知識>と<思わく>の区別と連動しています。以下少し飛ばします。

「そうすると,<あるも の> には<知識>が対応し,他方,<無知>は必然的に<あらぬもの>に対応するのであれば,いま言われた中間的なものに対応するものとしては,<知識>と<無知>との,やはり中間にあるようなものを,求めなければならないのではないか―もしそのよ うなものがあるとすれば」(477A)

「ところで君は,少し前に,<知識>と<思わく>とは同一のものではないと認めていた」
「じっさい」と彼は言った,「誤ることのないものが,誤ることのあるものと同一のものであるなどと,いやしくも理をわきまえた人ならば,どうして考えることができましょう」
「うまい!」とぼくは言った,「では,<思わく>は<知識>とは別のものだということについて,われわれの間の意見の一致は明らかなわけだ」
「別のものです」(477E)

「すると<思わく>は,この両者の外にあるものだろうか?つまり,明確さにおいて<知>を超えるものであったり,あるいは,不明さの点で<無知>を超えるものであったりするのだろうか?」
「そのどちらでもありません」
「そうではなくて」とぼくは言った,「<思わく>は,<知>とくらべれば暗く,<無知>とくらべれば明るいものなのだと,そういうふうに君には思えるのだろうね?」
「まさにそのとおりです」と彼。
「両方の極の内に位置づけられるのだね?」
「ええ」
「そうすると<思わく>は,両者の中間的なものだということになるだろう」(478C)

ということで,<無知> (あらぬもの) というものが 0 で,<知> (あるもの) というものが 1 で,思わくというものはこの線分上の開区間のどこかにあるものである,というような意味のことが言われます。また,途中で知識というものは誤ることがないが,思わくというものは誤ることがある,ということも言われています。
「知識」と「思わく」については,『メノン』で,目的地に到達するまでの道を実際に歩いたことがあって「知っている」ことと,聞いたりして一応到達できそうという「思わく」,という例があったのを思い出しました。

「では,これだけの前提をもとに,あの有能な男―<美>そのものを認めず,恒常不変に同一のあり方を保つ<美>の実相 (イデア) というものがあることをまったく信じないで,多くの美しいものだけを認める男―あの男をして語らせ,答えしめよ,とぼくが言おう。それはさっきの見物好きの男,<美>や<正>やその他のものが一つであると人が言っても,けっして受けつけようとしない,あの男のことだ。
『君よ』とわれわれはこの男に言うだろう,『君の言うそれら多くの美しいもののなかに,醜く現われることのけっしてないようなものが,はたして一つでもあるだろうか?数々の正しいもののなかに,けっして不正に見えることのないようなものが,一つでもあるだろうか?数々の敬虔なもののなかに,けっして不敬虔に見えることのないようなものが,一つでもあるだろうか?』」
「いいえ」とグラウコンは言った,「それらのものは,必ずや,何らかの仕方で美しくあるようにも醜くあるようにも現われるものです。おたずねの他のすべてのものについても,そのことは不可避です」
「では,多くの二倍の分量のものはどうだろう?それらは,二倍のものであるとともに半分のものであるとも見なされることは,絶対にないだろうか?」
「いいえ」(479A)

「見物好きの男」が認めるのは,相対的なものであるようです。この手の議論はよくプラトン対話篇に出てきますね。

「したがって,多くの美しいものは見るけれども<美>そのものを観得することなく,他の者がそこまで導こうとしてもついて行くことのできない人たち,また,多くの正しいものは見るけれども<正>そのものを観得しない人たち,その他すべてにつけて同様の人たち―このような人たちは,万事を思わくしているだけであって,自分たちが思わくしているものを何ひとつ,ほんとうに知ってはいないのだと,そうわれわれは主張すべきだろう」(479E)

自分はどうなのだろう?と思わずにはいられない部分です。というより「そのものを観得する」ことは,目指すべきですが,「実践は言論より真理に触れることが少ない」ので現実には無理ということかもしれません。

「では,そのような人々は<愛知者>(哲学者) であるよりは <思わく愛好者> であると呼んだとしても,われわれはそれほど奇妙な言葉遣いをしたことにならないだろうね?そんな言い方をしたら,彼らはわれわれに対して,ひどく腹を立てるだろうか?」
「いいえ―彼らが私の言うことに従ってくれさえすればね」とグラウコンは言った,「真実のことに対して腹を立てるのは,許されないことですから」
「そうすると,それぞれのものについて,それ自体としてあるところのものに愛着を寄せる人々こそは,<思わく愛好者>ではなく,まさに<愛知者>(哲学者) と呼ばれるべき人々だということになるね?」
「まさしく,そのとおりです」(480A)

ということで,「哲人王」説の「哲学者」とはどういった人物であるべきか,という結論が得られました。ここで第五巻は終わりになります。

ようやく,『国家』も半分まで来ました。ターニングポイントにふさわしく,第五巻は3つの大浪というそれぞれ衝撃的な内容の説が語られ,面白かったと思います。