プラトン『パイドロス』メモ

プラトン『パイドロス』((プラトン全集 (岩波) 第5巻) を読んだときのメモ。
この対話篇は,まずパイドロスが,リュシアスの恋に関する話というか論説を賞賛し,これについてソクラテスが吟味します。リュシアスの話とは簡単にいえば「恋はしないほうがよい」というもので,恋をしていると邪念やら欲望やらが入り込むので有害だが,恋をしていなければそういった後天的なものに煩わされることなく,純粋でいられるといったようなものでした (全く適当な要約です (笑))。
それに対し,ソクラテスは最初はその大筋には賛成していたのですが,途中で突然,ダイモーンの啓示?のようなものが来たといって,恋は神聖なものだというほうに寝返ります (寝返るという表現は適切ではありませんが,まあ心情としてはそうです (笑))。
そして魂についての論説が加えられた上で,いつの間にか「弁論術の技術とは何か」という最初の方の甘っちょろい話からは想像もできないような,非常にプラトンらしい話に変わっていきました。この変わり方もプラトンらしいと思います。

得てしてプラトンの本というのは,話題がしばしば飛ぶわけですが,主題ではなさそうな部分に結構印象に残る言葉があったりします。自分が読んでいて面白いと思うのも,話そのものよりもそういう部分が多い気がします。この対話篇も,副題は「美について」で,内容も上述のように,恋の話から弁論術の話になっていきました。
しかし今回は,底につながる共通部分というようなものが,自分にも感じられたような気がします。それは,後にも触れると思いますが,「弁論術を技術とするなら結局真実を追い求めなければならない」という結論になるのですが,真実を求める心というのは非常に先天的なものであり,それは恋をする心と同じだ,ということを言っているのではないかと思ったわけです。
まあ1回さらっと読んだだけで核心が分かるはずもありませんが,プラトンの言っていることは,真実を求める心というものが軸になっている,というのは間違いなく,他の表現はそれを別の角度から見たものである,というように思います。そう思うに至ったので,恋だの美だのと書かれても,私としては弁論とか節制とかと同じで,『饗宴』の時のような?キワモノ感はなくなりました(笑)。

それにしても,この対話篇で言われている,「弁論家 (政治家,ソフィスト) は真実らしさを真実そのものよりも尊重した」というのは現代でも本質的な問題ではないかと思います。ソフィスト批判はプラトン対話篇にしばしば出てきますが,特に今 (2012年12月11日) は衆議院議員選挙の前で,基本的に候補者は聞き心地のよいことしか言わないので,特にそう思います。

以下では従来のように,読んでいてメモを取った部分の転記とコメントです。

「いとしき子よ,ひとがどんなことを論議するにしても,そこからよき成果をあげようとするなら,はじめにしておかなければならないことが一つある。それは,論議にとりあげている当の事柄の本質が何であるかを,知っておかなければいけないということだ。それをしないと,完全に失敗することになるのは必定である。ところが,大多数の人々は,それぞれの場合に問題にしている事柄の本質を,自分たちが知っていないという事実に,ぜんぜん気づかないでいる。それゆえ彼らは,考察をはじめるときに,それを知っているものと決めこんで,お互いにちゃんと同意を得ておかないものだから,さて先へ進んでから,その当然のむくいを受けることになる。すなわち,彼らは,自分自身とも,またお互いに相手の者とも,言うことが一致しないのである。」(237B のソクラテス)

これは非常に実感を伴います。打ち合わせや会議などでも,話がかみ合わないというのはしばしばあると思いますが,それはどちらかが本質を掴んでいないか,あるいは互いに別のものを本質として掴んでいる (掴んだつもりになっている),ということだと言えると思います。

「ここでひるがえって,次のことに注意する必要がある。それは,われわれひとりひとりの中には,何かわれわれを支配しみちびく二つの種類のちからがあって,われわれはこの二つのものがみちびくままに,そのほうに向かってついて行くものだ,ということである。その一つは,生まれながらに具わっている快楽への欲望,もう一つは,最善のものを目ざす後天的な分別の心である。われわれの心の中では,この二つが,互いに相和すときもあるが,互いに相争うこともある。そして,あるときには一方が,あるときには他方が勝利を得る。で,その場合,分別の心がわれわれを理性の声によって最善のもののほうへとみちびいて,勝利を得るときには,この勝利に<節制>という名があたえられ,これに対して,欲望がわれわれを盲目的に快楽のほうへと惹きよせて,われわれの中において支配権をにぎるときは,この支配に<放縦>という名があたえられている。」(237D のソクラテス)

ここではまだソクラテスに「ダイモーンの啓示」が来ていない部分なので,後天的な分別の心のほうが善いもののように書かれていて,まさに『荀子』の「性悪説」と通じるものがあります。

「この話全体が言おうとする結論はこうだ。―この狂気こそは,すべての神がかりの状態のなかで,みずから狂うものにとっても,この狂気にともにあずかる者にとっても,もっとも善きものであり,またもっとも善きものから由来するものである,そして,美しき人たちを恋い慕う者がこの狂気にあずかるとき,その人は『恋する人』と呼ばれるのだ,と。」(249E のソクラテス)

これは「ダイモーンの啓示」後で,以後は先ほどと対比すれば「性善説」的,といえるのかもしれません。たまに「狂気の世界に入る」という,ある道を極めすぎて元の世界に戻れなくなるような境地の言い方がありますが,ここのはそれと同じようなプラスの意味でしょうか。

「たしかに,<正義>といい,<節制>といい,またそのほか,魂にとって貴重なものは数々あるけれども,この地上にあるこれらのものの似像の中には,なんらの光彩もない。ただ,ぼんやりとした器官により,かろうじて,それもほんの少数の人たちが,それらのものを示す似像にまで到達し,この似像がそこからかたどられた原像となるものを観得するにすぎないのである。けれども,<美>は,あのとき,それを見たわれわれの眼に燦然とかがやいていた。」(250B のソクラテス)
「われわれがこの世界にやって来てからも,われわれは,美を,われわれの持っている最も鮮明な知覚を通じて,最も鮮明にかがやいている姿のままに,とらえることになった。というのは,われわれにとって視覚こそは,肉体を介してうけとる知覚のなかで,いちばんするどいものであるから。<思慮>は,この知覚によって目にはとらえられない。もしも<思慮>が,何か<美>の場合と同じような,視覚にうったえる自己自身の鮮明な映像をわれわれに提供したとしたら,おそろしいほどの恋ごころをかり立てたことであろう。そのほか,魂の愛をよぶべきさまざまの徳性についても,同様である。しかしながら,実際には,<美>のみが,ただひとり<美>のみが,最もあきらかにその姿を顕わし,最もつよく恋ごころをひくという,このさだめを分けあたえられたのである。」(250D のソクラテス)

なるほど「美」とは唯一目に見えるイデアであると。そう考えると,プラトンが「美」について取り上げるのは何の違和感もありません。また,例えばプログラミングについて,以前先輩が「美しさが重要」と言っていたのが印象に残っていますし,また将棋でも,確かだいぶ前に羽生さんが「手の選択に困ったら,形の美しいほうを選ぶ」という言葉を言っていたと思いますが,まさにここで言われていることではないかと思います。つまり,何か率直に表現できないが善いものがあって,その善いものが視覚でかろうじて捉えられる形になったものが「美」である,とでもいえるでしょうか。プログラムにしても将棋にしても,勿論見た目の美しさなど本質には何の影響もないのですが,逆にその本質が視覚に捉えられるならそれは「美」という言葉でしか表せない,と。この辺り,元の言語と翻訳との違いもありそうな部分ですが,美という言葉はうまくできてるなと思います。

「では,いやしくもものごとが,上手に立派に語られるためには,それを語る人の精神は,自分が話そうとしている事柄に関する真実を,よく知っていなければならないのではなかろうか?」(ソクラテス)
「その点については,親愛なるソクラテス,私は次のように聞いています。つまり,将来弁論家となるべき者が学ばなければならないものは,ほんとうの意味での正しい事柄でなく,群集に―彼らこそ,裁き手となるべき人々なのですが―その群集の心に正しいと思われる可能性のある事柄なのだ。さらには,ほんとうに善いことや,ほんとうに美しいことではなく,ただそう思われるであろうような事柄を学ばねばならぬ。なぜならば,説得するということは,この,人々になるほどと思われるような事柄を用いてこそ,できることなのであって,真実が説得を可能にするわけではないのだから,とこういうのです。」(パイドロス,以上 259E)

残念ながら現代でも確かにその通りという感じがします。

「それならば,弁論家が,何が善であり悪であるかを知らないでいながら,同じように善悪をわきまえぬ国民をつかまえて,説得しようとする場合を考えてみよう。この場合彼は,「驢馬の影」といった些細な事柄について,馬とかんちがいしながら,賞賛の言葉を作るというのではなく,悪について,それを善と信じながらそうするのである。もしこの弁論家が,群像の思わくというものを研究しつくすことによって,善い事柄のかわりに悪い事柄を行なうように説得するとしたら,君はどう思う?彼の弁論術は,こうして蒔いた種からあとでどのような収穫をおさめるだろうか?」(260C のソクラテス)

悪を善と思い込んで説得を行なう…1つ前の,正しいと「思われる」ことを尊重する人の説得を受けた人は,そうなるでしょうか。

「このぼくはね,パイドロス,話したり考えたりする力を得るために,この分割と総合という方法を,ぼく自身が恋人のように大切にしているばかりでなく,また誰かほかの人が,ものごとをその自然本来の性格に従って,これを一つになる方向へ眺めるとともに,また多に分れるところまで見るだけの能力をもっていると思ったならば,ぼくは,このことを実行できる人たちのことを,正しい呼び方かどうかは神のみが知りたもうところとして,とにかくこれまでのところ,哲学的問答法 (ディアレクティケー) を身につけた者と読んでいるのだ。」(266B のソクラテス)

分割と総合,というのはソフトウェアアルゴリズムの「分割統治」を思い浮かべます。通じるものもあるような気はします。つまり,正しいのか正しくないのかよく分からない漠然としたものは,検証可能な大きさまで分割して,そこでソクラテス的な対話によって真理を明らかにする,それを今度は逆にその真理が適用できる範囲まで一般化していく…これはクイックソートの説明と殆ど同じです。

「彼ら (メモ註:テイシアスとゴルギアス) は,真実らしきものが真実そのものよりも尊重されるべきであることを見ぬいた人たちだが,一方ではまた,言葉の力によって,小さい事柄が大きく,大きな事柄が小さく見えるようにするし,さらには目新しい事柄をむかしふうに,古くさい事柄を目新しく語るし,またあらゆる主題について,言葉を簡単に切ったり,いくらでも長くしたりすることを発明したのだ。」(267A のソクラテス)

これは勿論皮肉な言い方。プラトンはソクラテスに常にソフィストを批判させています。

「およそ技術のなかでも重要であるほどのものは,ものの本性についての,空論にちかいまでの詳細な論議と,現実遊離と言われるくらいの高遠な思索とを,とくに必要とする。そういう技術の特色をなすあの高邁な精神と,あらゆる面において目的をなしとげずにはおかぬ力との源泉は,何かそういったところにあるように思われるからだ。」(270A のソクラテス)

これはいい言葉だなあと思います。勿論,これは先ほどの「分割と総合」を念頭に置いて読まなければいけないと思います。

「どちらの場合においても,取りあつかう対象の本性を―医者の場合には身体の本性を,弁論術の場合には魂の本性を―分析しなければならない。つまり,医術とは,身体に薬と栄養とをあたえて健康と体力をつくる仕事であり,弁論術とは,魂に言論と,法にかなった訓育とをあたえて,相手の中にこちらがのぞむような確信と徳性とを授ける仕事であるが,もし君が,こういった仕事にあたって,たんに熟練や経験だけに頼らずに,一つの技術によって事を行なおうとするならばね。」(270B のソクラテス)

弁論術は魂に対する医術のようなもの,というのは他の対話篇でも見た気がします。『ゴルギアス』か『国家』だったでしょうか。

「それでは,彼らの主張するところはこうだ。(略) まったくのところ,弁論の力をじゅうぶんに身につけようとする者は,何が正しい事柄であり善い事柄であるかということに関して,あるいは,そういう人間が―生まれつきにせよ教育の結果にせよ―正しくまた善い人間であるかということに関して,その真実にあずかる必要は,少しもないのだから。じじつ,裁判の法廷において,こういった事柄の真実を気にかける人なんか,ひとりだっておりはしない。そこでは,人を信じさせる力をもったものこそが,問題なのだ。人を信じさせる力をもったもの,それは,真実らしく見えるもののことであって,それにこそ,技術によって語ろうとするものは専心しなければならぬ。すなわち,よしんば実際に行なわれたことであっても,もしそれが真実とは思えないような仕方で行なわれたとしたならば,それをありのままに述べてはいけない場合さえ,しばしばあるのであって,真実らしくみえるような事柄におきかえなければならないのだ。これは,告発するときでも,弁明するときでもそうである。そして,真実にかかずらうのをきっぱりとやめ,言論を用いるにあたってはあらゆる仕方で,この真実らしく見えるものをこそ,追求すべきである。話すときにいつでも,このことを心がけていれば,それで技術のすべてを獲得できるのだから。」(272D のソクラテス)

裁判うんぬんという部分も現代に通じるかなり本質的なことのように思います。真実を追求するのなら,確固たる証拠がないのに起訴し,法廷でも証拠をでっち上げて冤罪が起こる,ということは起こらないでしょう。真実追求以外の何かが介在し,それを真実らしく見せている,ということだと考えられると思います。なお上記引用は長いので念のため書くと,最初に「彼らの主張」と書いてある通り,プラトン (ソクラテス) の主張としては勿論これの正反対です。

「テウトはこのタモスのところに行って,いろいろの技術を披露し,ほかのエジプト人たちにもこれらの技術を広くつたえなければいけません,と言った。(略) だが,話が文字のことに及んだとき,テウトはこう言った。
『王様,この文字というものを学べば,エジプト人たちの知恵はたかまり,もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは,記憶と知恵の秘訣なのですから』。―しかし,タモスは答えて言った。
『たぐいなき技術の主テウトよ。技術上の事柄を生み出す力をもった人と,生み出された技術がそれを使う人々にどのような害を与え,どのような益をもたらすかを判別する力をもった人とは,別の者なのだ。いまもあなたは,文字の生みの親として,愛情にほだされ,文字が実際にもっている効能と正反対のことを言われた。なぜなら,人々がこの文字というものを学ぶと,記憶力の訓練がなおざりにされるため,その人たちの魂の中には,忘れっぽい性質が植えつけられるだろうから。それはほかでもない,彼らは,書いたものを信頼して,ものを思い出すのに,自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり,自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。じじつ,あなたが発明したのは,記憶の秘訣ではなくて,想起の秘訣なのだ。また他方,あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは,知恵の外見であって,真実の知恵ではない。すなわち,彼らはあなたのおかげで,親しく教えを受けなくても物知りになるため,多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら,見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろうし,また知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達するため,つき合いにくい人間となるだろう』。」(ソクラテス)
「ソクラテス,あなたは,エジプトの話でも,また気の向くままにどこの国の話でも,らくらくと創作されますね。」(パイドロス,以上 274D)

文字は記憶力を弱くする,ということもありますが,文字によって「自分以外のものに彫りつけられたしるしによって」「見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになる」「また知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達する」という側面がある,というのはやはりプラトンならではの鋭い指摘だなと思います。ではテレビはどうだろう?ネットはどうだろう?変わらないのは自分という人間だけ,という意味では同じなのでしょう。
最後のパイドロスの言葉が非常に笑えました。

「つまり,ぼくたちの目的は,まず,話を書くということに関してリュシアスに向けられた非難を吟味すること,そしてそれとともに,言論というものそれ自体を吟味して,どのような言論が技術によって書かれたものであり,どのような言論が非技術的に書かれたものであるかを見ることであった。そこで,この技術性の有無という問題のほうには,すでに適切な解明が与えられたと思われるのだが。」(277A のソクラテス)
「語ったり書いたりするひとつひとつの事柄について,その真実を知ること。あらゆるものを本質それ自体に即して定義しうるようになること。定義によってまとめた上で,こんどは逆に,それ以上分割できないところまで,種類ごとにこれを分割する方法を知ること。さらには魂の本性について同じやり方で洞察して,どういうものがそれぞれの性質に適しているかを見出し,その成果にもとづいて,複雑な性質の魂にはあらゆる調子を含むような複雑な言論をあたえ,単純な魂には単純な言論を適用するというように,話し方を排列し整理すること。―以上挙げただけのことをしないうちは,言論というものを,その技術的な取りあつかいが本来可能な範囲で,技術にかなった仕方で取りあつかうということは,けっしてできないであろう。これは,その目的とするところが教えることであれ,人を説得することであれ,同様である。」(277B のソクラテス)

これが本対話篇のまとめ,といえるでしょうか。「分割と総合」も入っています。さらに次の解説の言葉も含めればもっとまとまる感じです。

「真実そのものの把握なしには,真実らしく思われるように巧みに語るということさえ,本来不可能であること,したがって,一般に弁論術がひとつの技術の名に値するものであろうとするならば,真実そのものの追求をめざす哲学とその方法としてのディアレクティケー (哲学的問答法) に依存しなければならないということであった」 (解説 二)

まあプラトンなら当然というところもありますが,弁論術にも必要なのは哲学的問答法,という結論になっています。

今回は異様に長くなりました。しかしそれだけ,この『パイドロス』は読んでいて「これは」と思った部分が多かったというのが事実です。特に,弁論家とは「真実らしさ」で説得する,というのは,どうも軽い感じがする昨今の演説やプレゼンが上手いような人に対して抱く違和感への答えの1つとして(まあプラトンは本対話篇に限らず常に書いていることですが) ,よくまとまっており,今後も振り返りたいと思いました (ちなみにこの対話篇は文庫化されています)。
次回は『アルキビアデス I』の予定。

プラトン『饗宴』メモ

プラトン『饗宴』((プラトン全集 (岩波) 第5巻) を読んだときのメモ。
この篇は,プラトンの著作では異色の内容で,表題のように宴会 (のようなもの) が舞台です。そこで出席者が,エロースという神をそれぞれ讃える演説を順に行なっていきます。最後にソクラテスが語ったあと,突如,かつてソクラテスの恋人であったアルキビアデスが乱入してきて,ソクラテスに対して怨みだか敬いだかよく分からないようなことを色々告げて,終わります。

ちなみにアルキビアデスを含めて出席者は全員男です (ソクラテスの回想に登場する (虚構の人物という説が有力らしい) ディオティマは女性の神官ですが)。恋というのも男→男のことを言っています。どうも当時はそういう男→男の恋愛というのはアテネでは普通で,ソクラテスだけがそうだった,というわけではないようです。
それが何でなのかは勿論説明不能ですが,『饗宴』を読んで残った印象としては,プラトン的な,真理を追い求める姿勢というのも関係しているように思われました。つまり動物的な恋愛ではなく,逆に純粋に感情の介入を許さずに理性として対象が好きになるということ,を突き詰めると,そうなるのかなあと。

以下では自分が読書中にメモしたことを抜き出しています。話の流れとは殆ど関係ありませんので要注意。

「それならば,ちなみに問おう。この指導原理は何であるか。醜いものに対しては恥じ,美しいものに対しては功名を競う心,これである。…恋をしている者は,自分が何か恥ずべきことをしているとか,あるいは他人からそういう目にあいながら,勇気に欠けるために身を守ることをしないとか,こうしたことが人に知れる場合には,その目撃者が父であれ,自分の仲間であれ,あるいはその他の誰であれ,自分の恋している少年に見られるほどには苦しみ悩むことはないであろう。また,恋される者も,それと同じ状態であることを,ぼくらは日ごろ見ているのである。つまりそのような者は,自分が何か恥ずべきことを人に見られるときには,とりわけ自分を恋している者に対して恥じ入るものである。」(178D のパイドロス)

言っているのは,恥の意識というのは恋から来る,ということでしょうか。そういえばプラトンの本では「孝」というものが出てくることは少ないように思います。孔子であれば、恋>孝、のようなことは決して言わなかっただろうなあと思いました。

「思うに,支配されている民の中に軒昂たる想いの生じることは,強固な友情や交わりと同様,支配者側にとって得になることではなく,しかもほかならぬこうしたものは,とりわけエロースこそがいちばん人々の心に植えつける傾向をもっているからである。…かくして,自分に恋を寄せている者の思いを受け容れることが醜いと決められた所では,そのように定めた人々の不徳によって,つまり支配者の貪婪と被支配者側の懦弱とによってそうなっているのであり,他方それが美しいと無条件に定められた所では,それは当事者たちの精神的怠惰に由ることなのである。」(182B のパウサニアス)

これも結構深い言葉なのかもしれません。規制を緩和するか引き締めるか,ということで一般論としても当てはまりそうですが,ここのようなテーマだと微妙すぎます。

「こういう少年たち (メモ註:元が男男の片割れである男) のみが成人するや,政治の世界に対して一人前の男子としての実を示すのである。しかも男盛りになった暁には,少年を恋して,結婚や子供を作ることには生れつき目もくれないのである。」(192A のアリストパネス)

ここの意味は,作中に出てくる神話が元になっています。すなわち,人間は元々2人で1人だったが (男男,男女,女女というパターンがあった),傲慢であったため神が人間を半分に分割した。しかしその半分になった人間は,元の片割れの自分を探して元に戻ろうとした。―これが恋 (エロース) の元で,なので元々が男男だったような人は男が男に恋すると。
プラトンの本にはこういう神話の内容がよく出てきます。プラトンが創作したものもあるのかは分かりませんが,多くはホメロス等で既に伝承されていたようです。しかも読む限りでは驚くほどよくできているというか,整合性が取れていると感心することが多いです。まあ科学なんてない時代ですからね…現実を説明するために,あるいは人が誤った方向に進まないために,そういう整合性の取れた物語が必要だった,ということでしょうか。
話を戻すと,男に恋するような男こそが,出世できる,ということを仕立て上げている,という感じでしょうか。

『神々にあっては,知を愛することはなく,知者になろうと熱望することもない―なぜなら,現に知者であるから―。また,神以外にも,知者であれば知を愛することはしない。しかし反面,無知蒙昧な者もまた知を愛さず,知者になろうと熱望することもない。つまり,この点こそは,無知の始末の悪いゆえんなのです。自分が立派な人物でもなければ思慮ある者でもないのに,自分の目には申し分のない人間にうつる点がね。ともかく,自分は欠けたところのある人間だと思わない者は,欠けているとも思わないものを自分から欲求するということは決してありません。』
『それなら,ディオティマ』とぼくは言った『いったい誰が知を愛するものなのです。知ある者も無知な者もそうでないとすれば』『そのことなら』と彼女は答えた『もう子供にだってわかり切ったことではありませんか。いま言った両者の中間にある者がそれです。そしてエロースもまた入るのです。さて,そのわけは言うまでもなくこうです。知は最も美しいものの一つであり,しかもエロースは美しいものに対する恋 (エロース) です。したがって,エロースは必然的に知を愛する者であり,知を愛する者であるがゆえに,必然的に,知ある者と無知なる者との中間にある者です。』(204A のソクラテスの回想)

この辺りまできてちょっと安心できました (笑)。いつものプラトンの本のようになってきたので。有名な「無知の知」を思わせる内容ですが,そもそも神は全て知っているので知る必要はない,また全く智恵もない人間も何かを知ろうとはしない,では誰が知を愛するのか?
答えは中庸ということですね。サインカーブのように,上下の頂点では微分係数 0 で,真ん中の時に微分係数が最大になる,という感じでしょうか。

『創作 (ポイエーシス) というのは広い意味の言葉です。言う迄もなく,いかなるものであれ非存在から存在へ移行する場合その移行の原因は全て,創作です。…しかし,それにもかかわらず,…創作全体のうちから一部分,すなわち,音楽と韻律に関する部分だけが別にされ,全体の名前で呼ばれているのです。』
『ところで,恋 (エロース) についてもまたそういった事情です。総じて言うならば,よきものと幸福であることへの欲望はすべて,あの “最も力強く,まったく巧智にたけた恋” というわけです。しかし,金儲けの道,体育愛好の道,愛知の道というふうに,数多くある別の道でそれ [恋] に向う人々は,恋をしているとも恋をしている人とも呼ばれないのです。ところが,恋のうちある一種類の道を進み一所懸命になる人々は,全体の名前を,つまり恋,恋している,恋している人,という名前を持つのです。』(205B のソクラテスの回想)

これもプラトンらしさが出ているというか。つまり物事の真理,または「イデア」を追求するということの中で,たまたま今回のそれは恋と呼ばれているだけだ,ということでしょうか。

『ソクラテス,すべての人は肉体的にも精神的にも妊娠して [生むものを持って] いるのです。』(206C のソクラテスの回想)

これも,「ソクラテスは産婆術を持っている」という,『テアイテトス』等に出てくるものと同じようなことを言っているのではないかと思います。つまりソクラテスの対話というのは,相手に質問をしてその答えを引き出すというスタイルですが,それを相手の孕んでいるものを出す手助けをしている,という見立てです。『テアイテトス』では自分自身は身籠ることはない,というようなことをソクラテスが言っていた気がしますが。

ということで,以上。プラトンの著作としては読みやすく,テーマとしてはちょっとキワモノ的なところもあるのですが,やはりそれでも随所にプラトンらしさが出ていた作でした。
次回は『パイドロス』の予定。