プラトン『法律』第九巻メモ(1)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第九巻を読んだときのメモ第1弾です。

前巻では,割とこまごまとした法律案が列挙されて終わりましたが,本巻は刑法というか,神殿荒し,殺人,傷害といった犯罪を犯した場合の刑罰についてがメインの内容ということになると思います。その法案が淡々と述べられるのは退屈ですが,合間には,裁判手続きについてや,故意である場合とそうでない場合に刑罰 (法律) を別々にすべきか?ということや,「正」と「不正」とは何か?動物も裁判にかけるべき?といったことが言われ面白いです。
自分にもう少し法律に関する知識があれば,現代の法律やその考え方と比較できるところですが,如何せんそういった教育も受けたことがないし法律を読む機会も殆どない怠惰な市民のため,あまり深入りできておらず我ながら勿体ない感はあります。その分,2,400年前のアテナイ市民と比べても進化してなさそうなので当時のレベルの人間として読むには丁度良いのかもしれません。

ここでは章ごとにメモを書いています。本文を引用せずに自分で要約しただけのものもあります。また本巻は長くなってしまったのでメモを2つに分けます。

(第1章)

アテナイからの客人「たしかに,わたしたちが建設しようとしている国においては,――それは,わたしたちに言わせるなら,立派な政治が行われて,徳を実行するのによい条件をすべて備えているはずなのですが――わたしたちがいま定めようとしているようなことすべてを法律に定めるということ自体が,ある意味では,恥ずかしいことなのです。
つまり,そのような国のなかに,他の国々で見られるような邪悪さの最もひどいものを身につけた者が,誰か生まれてくるかも知れないと考えて,そこで,そのような者が現われる場合に備えて,法律によって機先を制し,脅す必要があるのだとか,また,そのような人間は必ず現われてくるものと想定して,彼らが現われるのを阻止するためにも,また現われてきたなら懲らしめるためにも,彼らに対する法律を定めるべきであるとか,ということがそもそも,いまも言いましたように,ある意味では,恥ずかしいことなのです。」(853B)

悪い人がいるということを前提にして,犯罪に対する法を定めるということに幾分かの逡巡があるようです。ただ結局,アテナイからの客人は,昔の立法者は神々の系譜を引くものだったが,現在は死すべき人間が作っているので当然だということを言います。

アテナイからの客人「そこで,そういった連中のために,――「ために」といってもよい意味にではありませんが――,わたしはまず第一に,神殿荒しに関する法律について語ることにしましょう。」(853D)

神殿荒しの罪について語るようです。意外な犯罪ですが,当時としてはかなり問題だったのかもしれません。

アテナイからの客人「「いいかね,君。いま君を駆り立てて神殿荒しへと向かわせている悪しき衝動は,人間の生まれながらの本性に根ざすものでもなければ,神に由来するものでもないのだ。それは,遠い昔に犯されて償われぬままになっている犯罪にもとづいて,人びとの心に植えつけられている一種の狂気なのだ。これが親から子へと巡り廻って,破滅をもたらす呪われたものとなっているのだ。だから君は,全力をあげて,それを警戒しなくてはならない。」」(854B)

神殿荒しをしようとしている人に向かって語り掛ける場面なので括弧を二重にしています。
遠い昔の犯罪によって人々の心に植えつけられている狂気が,呪いとなって現われていると。
神殿荒しをする動機を素直に考えれば,価値がありそうなものが神殿にありそうなので,それを盗る,と考えそうなところですが,この「呪い」の考え方は後々の刑罰の議論でも前提にされているようです。
続きます。

アテナイからの客人「「もしも君に,何かそういった邪な考えが起こった場合には,汚れを浄めてくれる秘儀に参加することだ。禍を防いでくれる神々の社に,歎願者として詣でることだ。君たちの間で徳が高いと評判されている人たちを訪ねて,彼らと交際することだ。そして,ひとはだれも立派なこと,正しいことを尊重しなければならぬと彼らが言うならば,それに耳をかたむけるとともに,自分でもその言葉を口に出して言ってみるようにしたまえ。そして,悪しき人たちとの交際からは逃げて,後をふりむいてはならない。そうすることによって,君の病気が少しで和らぐなら,それでよいし,もし和らがないようなら,死ぬことの方がよりよいことだと考えて,君はこの人生からおさらばしたまえ。」」(854B)

もし徳の高い人の言葉に耳を傾けたりしても和らがない場合,「君はこの人生からおさらばしたまえ」と,自殺を奨励しています。これは峻烈です。例えば仏教の悪人正機説などとは異なります。
考えてみれば,日本のような法然や親鸞に根差した仏教が広く親しまれている国に死刑制度があり,かく言うプラトンの伝統が根付く西洋諸国に死刑制度がない国が多い,というのは不思議だとふと思いました。まあ歴史を見れば,どの国もたやすく人を死刑にしてきたのは同じだと思うので,倫理観の発達度合いの方が,死刑制度の有無に寄与しているのかもしれません。
また以前読んだ新聞記事で「民主主義が発達しすぎた国では,死刑が廃止されづらいことがある」ということが書かれていたのを読んだことがあります。日本国が当てはまるのか当てはまらないのか正直分かりませんが。

(第2章)

アテナイからの客人「神殿荒しをしていて捕まった者は,それが奴隷か外国人である場合は,額と両手に罪人の烙印を押され,裁判官たちが適当と考えるだけの鞭を加えられた上で,国境の外に裸で追い出されるべきである。おそらく彼は,そのような刑罰に処せられることで,分別を取りもどし,より善い人間になるであろうから。というのも,法律にもとづいて科せられる刑罰はどれ一つ,人を害することを目的にしているのではなく,次の二つの効果のうちのどちらかを目ざしている,と言ってよいからである。すなわち,刑罰を受けた者をより善い人間にするか,あるいは少なくとも,悪い程度のより少ない人間にするか,そのどちらかなのであるから。
しかし,もし誰か市民が,何かそのような行為をしているところを見つかった場合には,すなわち,神々や両親や国家に対して,口にするのも憚られるほどの何か重大な犯罪を犯しているのであれば,裁判官としては,その者をもはや治療の見込みのない者とみなさなければならない。だから,その者に対する刑罰は死刑である。これは,彼にとっては,もろもろの不幸のなかでもいちばん小さなものではあるけれども。」(854D)

外国人や奴隷と,市民の場合で,量刑が異なるのも変な感じはしますが,まあそれはよいとしても,市民の場合に神殿荒しで死刑,というのは重過ぎると感じます。
しかし量刑の「相場」というのはどうやって決まるのでしょう。例えば今の日本では,人を故意に殺すようなことをしなければ,どんな巨大な悪意に基づいても死刑にはならないはずです。
それは,罪の「結果」に着目していると言えると思います。対してここでは (そしてアテナイからの客人の根本思想として)「心の善悪」に着目していると言えるでしょうか。ただ心の中の善悪がどれだけ定量的に測れるのかとも思います。
中国や東南アジアでは,麻薬を密輸しようとして死刑になった,というのはたまに聞かれます。重過ぎると思ったりしますが,それも麻薬が意識や健康にもたらす害悪をそれほど重く見たから,と言えるのでしょうか。そしてこれは,先進国では見られない (と思われる) ため,遅れた考え方ということでもあるのでしょうか。

アテナイからの客人「わたしたちがここでなすべき仕事は,[判決の] 投票に関する規則を定めることです。
さて,投票は公開で行なわれねばならない。だが,その投票に先立って,裁判官たちは原告と被告に相対しながら,年長順に,互いにできるだけ接近して着席すべきである。また,市民のなかで暇のある者はすべて出席して,熱心にこの種の裁判に耳を傾けなければならない。」(855D)

裁判手続きについて。この後もう少し詳しく語られますが (原告と被告が一度ずつ陳述して裁判官が尋問していくなど),省略。ただ「市民のなかで暇のある者はすべて出席」というのは面白いです。
言われてみれば,自分たちが裁判について何をどうやって知るのか?というと,新聞やテレビで報じられたものを通じてしか知りません。しかし実際には,報じられない裁判も無数にあり,それらの裁判の過程や判決の中には,自分にとってもっと身近で重要なものがあるのかもしれません。もっと裁判 (司法) に直接参加することが,今の三権分立の国家の成熟には必要かもしれないと思います。まあ立法も行政もそうだと思いますが。

(第3章)

今度では国家転覆罪みたいなものについて述べられます。

アテナイからの客人「他方,このような犯行のどれにも加担してはいないが,国家の最高の官職にありながら,これらの犯行に気づかぬか,あるいは気づいていても,臆病なために,自分の祖国を守って犯人を罰しようとしない者,このような市民は,邪悪さの点で前者につぐ者とみなされるべきです。」(856B)

これは厳しい。例えば予見できた津波の対策をせず原発事故でもあろうものなら,電力会社のトップは自分で事故を起こしたかのように有罪になるのかもしれません。

アテナイからの客人「なお,ひと言でいうなら,父親がこうむった汚名や罰は,彼の子供たちの誰にも及ぼされてはなりません。ただし,父親ばかりでなく,祖父や曾祖父までもがつぎつぎに死刑の判決を受けた者の場合は別です。そのような場合には,国家は,その子供たちに自分の財産を持たせて,――ただし,分配地に充分な設備をほどこすに足るだけの財産は残させて――,彼らの [家族の] 出身地である国や町へ送り返さねばなりません。」(856D)

昔の日本や中世のヨーロッパなどでも,一家全員打ち首のような罰が普通に下されていたと思うので,それに比べればかなり人道的に思えます。

(第4章)

アテナイからの客人「いまかりに,理論はもたずに,経験だけにたよって医術を用いている医者の誰かが,なにかの折に,自由民の医者が自由民の患者と話し合っているところに行き合ったとしてみましょう。そしてこの自由民の医者はそのとき,哲学者が使うのに近いような言葉を使って,病気をその起源から問題にし,身体の本性一般にまで溯って論じているとします,すると,先の [奴隷の] 医者の方は,たちまち大声をあげて笑い出すことでしょう。(略)「なんと非常識な人だろうね。君は患者を治療しないで,教育しているのだよ。まるで相手が願っているのは,健康になることではなくて,医者になることであるかのようにね」」
クレイニアス「そのひとがそのようなことを言ったとしても,それは正しい言い分ではありませんか」
アテナイからの客人「たぶん,正しいでしょうね。もしもその男が,なおその上に,法律についても,いまわたしたちが行なっているようなやり方をする者は,法律を制定しているのではなくて,国民を教育しているのだと,そんな風に考えているのでしたらね」(857C)

なんか含蓄のある部分のような気がしました。法律を制定するということは,どうしても具体的な作業です。少なくとも特定の人間が意思決定をし,特定の言語で表現する必要があります。
しかし本当に法律が目指しているのは,特定の人間 (の経験) にも言語にも依らない,抽象的な,書かれた法律の延長線上の「実在」または「理想」である「法」そのものでしょう。
ここで「教育」と言っているのは,その「法」そのものを掴ませようとする,ということなのかなと思いました。

それはともかく,前後との関連が必ずしも明確ではないのですが,この後,「最善のことと,最低限に必要なことと,どちらを我々はここで実現すべきか」みたいなことが言われ,時間に追われているわけではないので前者だと言われて話が展開します (引用は略)。
考えてみれば立法に関して時間の概念も重要という気はします。よく「熟議が必要」ということが言われ,時間をかけた方が優れた案が出せると思われていますが,どういうことなのでしょうか?
反面,審議が一瞬で,即日発効するような立法が普通で,SNS のタイムラインのように毎日目にする形で新しい法律をみなが認識できるのなら,刻々と変化する現実との距離を可能な限り小さくできるという気はします (逆に時間がかかっていれば,例えば発効する頃にその立法事実たる現実が変化している可能性がある)。つまり微分可能のようなもので,変化する現実に追従し,理想である「法」に限りなく近づけるように思います。2020年~のコロナ禍が典型かもしれません…なかなか法的根拠を持った適切な対策ができないと言われていました。君主制でなく民主制であっても,全国のありとあらゆるデータが常にリアルタイムで取得できて,国民の意思や法への賛否も常に何らかの方法でリアルタイムに反映できるなら,法律もリアルタイムで変える,というのもあり得るのでしょうか。

但しその具体的手段は当分なさそうだし,人間の感情や思考や生活が追い付かない気はしますが。たまに「なぜ,考えるということは,時間がかかるのか?脳内の神経細胞は電気的な仕組みで動いているのなら,殆ど時間はかからないはずなのに」ということを思いますが,理由は何であれ時間がかかるのは事実なのでしょうがないですね。

アテナイからの客人「ホメロスや,テュルタイオスや,その他の詩人たちにとっては,彼らがその作品のなかで,人生や人生の営みについて下手な書き方をしたなら,より多く恥ずかしいことになるけれども,リュクルゴスや,ソロンや,その他およそ立法者としてものを書いた人たちにとっては,下手な書き方をしても,恥ずかしさはより少なくてすむのでしょうか。いやむしろ,こう考えるのが正しいのではありませんか。国々に流布しているすべての文書のなかでは,法律について書かれたものが,それを開いて見た場合に,はるかにずっと立派で善いものに見えなければならないし,そして他の人びとが書いたものは,これを範にして見習ったものでなければならぬか,それとも,これと調子の合わないものなら,ずいぶんと滑稽なものになる,ということなのです。
ですから,国家の法律を文書に書き記すにあたっては,次のようにすべきだとわたしたちは考えることにしましょうか。つまり,書かれた規則が,愛情と分別をそなえた父親や母親の姿をとって現れるようにすべきだということです。それとも,独裁者や主人の流儀にならって,命令や脅迫の形でその規則を壁の上に書いてしまえば,それでもうすんだことにする,というやり方をすべきでしょうか。」(858E)

法律というものが,詩と同じように「美しい」(←これは私の解釈ですが) ものでないといけない,というのは新鮮な思いがします。自分のイメージでも,法律というのは読みづらくて,別に面白くもないとは思います。恐らく,読み手にその内容を正しく伝える必要がある,という法律の性格上,そうなるような気がする一方で,読んだ人が守ろうと思えるような法律の書き方というものがあれば,それは有効なのかもしれないとも思います。
というかそもそも法律を読む習慣がないことも問題で,現実には「法律を誰かが解釈したもの」を何となく守っている,という感じですものね。間接民主制ならぬ,間接法治主義なのかもしれません。プラトンの当時はメディアなどもなかったので,法律自体を読むことの重要度が高かったのでしょうか。
自分もたまに図書館で加除式の法規集を眺めながら,本来こういうのも法治国家の市民として本当は読んでいないといけないんだよなぁ…と思いながら全く読んでいません(笑)。本対話篇と同じで,読めば意外と文学として面白いのかもしれません (可能性は限りなく低いですが)。
さはさりながら,とりあえず前者の線で行こうということになります。

(第5章)

アテナイからの客人「もし,正しさをそなえているものはすべて立派であるとすると,その「すべて」のなかには,わたしたちに対してなされることも含まれていて,それは,わたしたちが他のものに対してなすことと,数の上ではほとんど等しいだけあるでしょう。
(中略)だがもし,わたしたちに対してなされることが,正しくはあるけれども,見苦しいものであることを認めるとすると,その場合には,「正しいこと」と「立派なこと」とは一致しないことになるでしょう。正しいことがこの上なく見苦しいことであると言われたわけですから。」(859E)

この後で「神殿荒しなどを死刑にするのが「正しい」と規定したが,そういった刑罰を受けることは同時に「見苦しい」ことでもあることが分かった」ということも言われます。
たまたま傍註で『ゴルギアス』が言及されていましたが,確かに『ゴルギアス』では,罪を犯した場合に刑罰を受けることは善いことであり,罪を犯しながら刑罰を受けないことが最悪である,と言われていました。他方で刑罰というのは見苦しいものであると。
確かに現実を考えてみると,少なくとも今の日本では,前科というものに対してかなりマイナスの印象を持たれることが多いと思います。でもそもそもそれは正しいのでしょうか?
次の引用にもつながってきます。

アテナイからの客人「不正な人は,たしかに悪しき人であるが,その悪しき人は,不本意ながら悪しき人になっているのです。ところで,自発的な行為が不本意になされるということは理屈に合いません。だから,不正を不本意なものとみなす人にとっては,不正を行なっている者は不本意に不正を行なっているのだ,というふうに見えるでしょう。そしてわたしとしては,今もまたそのことを承認しなければなりません。というのは,ひとはだれも不本意ながら不正を行なうのだ,ということにわたしは賛成するからです。」(860D)

『ゴルギアス』でソクラテスが述べたこととほぼ同じことを,つまり誰も不正をすすんで犯すわけではない,ということを,ここではアテナイからの客人が踏襲しているように思えます。
これがプラトンの変わらぬ信念ということでしょうか。
現代でもなかなか受け入れられない説かもしれません。虫歯になったので治療した,というのと同じように,前科を考える人はいないでしょう。理性的にはそう考えるべきと思うかもしれませんが,感情的には多分簡単には受け入れないことも多いと思います。

前科というものは治療歴であって,虫歯になったのに歯医者に行かない人がいるように,前科がなくても悪いことをしている (した) 人はいるはずです。寧ろ先に述べたように,前科自体をマイナスにとらえる社会では,罪から逃れるために悪事を隠蔽する方向に人は動きがちだと思います。
そういうニワトリが先か卵が先か?(罪を認めて更生したいがそうすると社会的に生きていけない) という状態で,結局は自分の悪事は隠蔽し,他人の罪は糾弾する,という平衡状態になっていて (法的な犯罪だけではなく道義的なものや SNS での攻撃なども広く含む),それが悪しき「自己責任論」というものに行き着くのかもしれません。
当然,病気を放置するのと同じで,たとえ犯罪率が下がっていても,本当の「悪」というのはそこら中に温存されていて,総和の量としては寧ろ増えているのかもしれません。

それはともかく,以下のようなことがテーマになってきます。

アテナイからの客人「「それならあなたは,マグネシア人のために,故意によるのではない (不本意な) 犯罪と,故意による (自発的な) 犯罪とを区別しようとしておられるのだろうか。そしてわたしたちは,故意による過失や犯罪には,より重い罰を科すべきであるが,そうでないものには,より軽い刑罰を科すべきだろうか。それとも,故意による犯罪というものはまったく存在しないと考えて,すべての犯罪に等しい刑罰を科すべきだろうか,どちらにしたものだろう」」(860E)

アテナイからの客人の自問自答の部分なので括弧を二重にしています。
ということで面白くなってきました。今の日本でも,法律に関しては素人中の素人である自分でも,例えば過失致傷 (故意ではない) と傷害 (故意) というように,故意ではない罪と故意である罪に分かれているくらいは知っています。それは何故か,のような根本的な話がプラトンから聞けるのならこれほど面白い話はありません
(その前に法律を学べという気もしますが(笑))。

(第6章)

アテナイからの客人「わたしたちは法律を制定する前に,犯罪には二種類のものがあるけれども,この両者を区別するものは,一般に理解されているものとはちがうということを,何らかの形で明らかにしなければならないのです。それは,この二つの犯罪のそれぞれに対して罰が科せられる場合に,誰でもがわたしたちの定める規定についてくることができて,科せられた刑罰が適当なものであるかどうかを,何とか自分で判断できるようにするためなのです。」(861C)

アテナイからの客人「ひとが誰かに何かをあたえるとしても,または反対に奪うとしても,そのような行為を無条件に「正しい」とか「不正である」とか言うべきではないからです。いな,ひとが正しい性格や品性にもとづいて,誰かに何かの利益なり損害なりをあたえているかどうか,その点を立法者は観察すべきであり,そして不正と損害という,この二つのものを分けて見なければならないのです。」

アテナイからの客人「こんなふうにするのです。ひとが大きなことでも小さなことでも不正行為を犯したときには,法律は,あたえた損害の賠償をさせたうえに,その人を教えたり強制したりしながら,二度と再びそのようなことを自らすすんでは敢えて行なわないようにさせるか,あるいは,そこまではいたらなくても,そうすることが以前と比べてはるかに少なくなるようにさせるべきです。そのための手段としては,行動を用いてもよいし,言葉を用いてもよい。あるいは,快楽や苦痛,名誉や不名誉,罰金や褒章を用いてもよいし,また総じて,不正を憎んで正義を愛するようにする,あるいは少なくとも正義を憎まないようにする何かの手だてがあるなら,そのものによってよい。とにかく,そうすることこそがまさに,最も立派な法律のなすべき仕事です。」(862D)

途中はところどころ省いていますが,アテナイからの客人は,「不正」と「損害」を分けるべきだと言います。例えば誰かに損害を与えたとして,その大小にかかわらず,「正しい性格にもとづいて」いるかどうかで「正しい」か「不正」かを分けるべきだと。
そして (1) 「不正」とはいえない場合でも,損害は賠償させる必要がある,(2) 「不正」である場合,(1) と同様の賠償責任に加え,その「不正」を行なわせた魂を治療すべきである,ということを言っています。

これはかなり明快な論ですね!ただ,少し前には,「誰もすすんで (故意に) 不正を犯すのではない」と言われていたので少し混乱します。
ここには「故意とは,故意ではない」とでもいうようなパラドックスが潜んでいるのだと思います。つまり故意で何か不正をなさしめたところの,その魂の無知自体は,故意ではないということなのでしょう。
…と思いましたがこれについては以下でまた話されます。

(第7章)

アテナイからの客人「では,「正」と「不正」ということによって,わたしが何を言おうとしているかを,複雑な言い方をしないで,いまあなたにはっきり定義することにしましょう。激情 (怒り) や恐怖,快楽や苦痛,嫉妬や欲望が魂のなかで独裁的に支配している状態,――それが実際に何らかの損害をもたらそうともたらすまいと――,すべてそのような状態を一般的に,わたしは「不正」と呼んでいるのです。
これに反して,最善は何かと考える分別,――国家や個人がその最善はどのようにしたら実現されると考えるにせよ――,そのような分別が魂のなかで勝利を占めて,その人の全体を秩序づけているなら,よしときに何らかの過失を犯すことがあるとしても,そのようにしてなされる行為のすべてと,そのような分別の支配に服している各人の状態が,「正しい」のであり,そしてこれこそが,人間の生涯全体を通じて最も善きことなのだと言わなければなりません。もっとも,多くの人たちは,いま述べたような[過失による] 損害行為を,「故意によるのでない不正行為」と考えるかも知れませんが。」(863E)

今度は「不正」についての定義ですが,ここは個人的には本巻のハイライトに思えます。「正」「不正」という大きなテーマなので当然かもしれません。(本当は他の対話篇との比較でもすべきかもしれませんが,そこは専門家にお願いするとして…。)

ここでの,魂の状態としての「不正」とは,「正しい」とは,というのは見事な描写で,人間として本当のことだと自分も思います。「正しい」の説明で「よしときに何らかの過失を犯すことがあるとしても」というのがまさに同意するところです。何か失敗をして損害を出したとしても最善は何かと常に考えで実行した結果であれば「正」で,逆に失敗して損害を出すことを恐れたり (つまり恐怖に支配される),結果として良いことであっても誰かに対する僻み妬みや私利私欲が動機であったりすれば「不正」に分類されることになりますが,その通りに思えます。まあ (私利私欲などはともかく) 恐怖のゆえに「不正」になるというのはちょっと違和感もありますが。

ただ,過去のプラトンであれば,「最善のもの,正しい知識をもったものは間違えない」と言っていそうなところではありますね。ここでは法律を守る (守らせる) べき市民の立場で言っている,言い換えれば完璧な人間などいないという前提,というのが分かります。それは『国家』以後,プラトンが現実で噛みしめてきたことなのでしょう。

さてこの後で,犯罪を犯すことになる原因のまとめがあり,(1) 苦痛 (激情 (怒り),恐怖),(2) 快楽や欲望,(3) 無知の3種類があると言われます。さらに,(3) 無知は (3-1) 単純なもの,(3-2) 知らないことについて知恵があると思い込んでいて,さらに力と強さを伴うもの,(3-2) 知らないことについて知恵があると思い込んでいるが,弱い力しか伴わないもの,とブレイクダウンされます。

但し,これらのどれが故意でどれが故意ではない…という言われ方はなされていません (と思います)。「不正であれば故意」というのが単純な1つの仮説ですが (逆は成り立ちそう),上にも書きましたが恐怖や快楽に支配されている状態が常に故意,というのも違和感はあります。

プラトンを含めたこの時代に,「意志」(デカルト的な?) という概念が見られない,という話をどこかで読んだのを思い出しました。「意志があれば故意」というのは逆も含めて成り立ちそうに思いますし,現代で罪に問える必要条件も「意志」があることと言えるのかもしれません。しかし,「意志」と「正」「不正」の関係となると,一筋縄ではいかないという気がします。ある種の倫理観みたいなものは,「意志」なのかどうか,とか。

ひとまず以下では,故意かどうかで別々に,殺人や傷害といった犯罪を犯した場合の刑罰案が述べられていくことになります。

——————

メモ (1) は以上。もう少し軽く飛ばすつもりだったのですが,余談が思いのほか多くなってしまいました。
市民で暇な者は全員裁判に出席すべきとか,法律は詩人が書いた作品よりも美しいものでなければならないとか,市民が法律や裁判に直接関わるべきとプラトンが考えていたことが分かります。翻って現代では,なかなか法律や裁判に直接アクセスすることはないように思います。
また,犯罪の要件とは「故意」「故意でない」ものに分けられる?という話から,「正」「不正」まで遡るのが,いかにもプラトンといったところ。こういった話は,小中学生向けの話くらいでとどまっている感があり,大人になったら普通は聞かれませんが,これ以上大切なものはないくらいに思うのは私だけでしょうか?ともあれ『国家』などともまた違う市民目線と思いました。

メモ (2) に続く…。