プラトン『国家』第七巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第七巻を読んだときのメモ第2弾。

第七巻の前半で,「洞窟の比喩」と支配者になるべき者の教育について主に対話がなされたと思います。教育とは向け変えの技術で,善を指向するようにするものであると。また,ここで言われている国家の支配者にはそういう教育を受けた者 (つまり哲学者) が就くべきであるということも言われました。
後半では,その具体的な教育内容がテーマになってきます。それは(1)数と計算,(2)幾何学,(3)立体幾何学,(4)天文学,(5)音楽理論,であると (それぞれの名称は『国家』文庫版の冒頭の要約に従った)。これは現代での所謂「リベラルアーツ」に繋がってくるものなのかもしれません。しかし後で触れると思いますが,プラトンは単に教養を深めるためにこれらの学問を課すべしと言っているわけではなく寧ろ逆です。

以下は読書時のメモです。

「さあそこでだが」とぼくは言った,「もしそれらのほかにはもう何も挙げることができないのならば,それらすべてに関わりをもつような何かを,つかまえることにしてみたらどうだろう?」
「と言いますと,それはどのようなものでしょうか?」
「たとえば,およそすべての技術も思考も知識も,共通に用いる或るものがある。これはまた,誰でもが最初に学ばねばならぬものだ」
「何のことでしょう?」と彼はたずねた。
「なに,大したことでもない」とぼくは言った,「つまり,一と二と三を識別するということだ。これを総括して言えば,数と計算ということになる。それとも,これについては,すべての技術も知識も必ずそれを共有しなければならぬ,と言っては間違いだろうか?」(522B)

この直前に、第三巻で言われた守護者が身に付けるべき素養の「体育」「音楽・文芸」とは違うかということが言われますが、体育は身体という変化するものが対象であり、音楽や文芸は習慣付けのためのもので知性を授けるものではないとして退けられます。『ティマイオス』などでも言われていますが,プラトンは「実在」 (不変のもの) と「生成」 (変化するもの) というものを区別しており,善 (のイデア) というものは前者に属します。
ということで、(1)数と計算です。言われてみれば確かに、思考というものを考えた時に、必要なものという気はします。普通は気づきさえしないことですね。また「1」とか「2」というものも定義さえされてしまえば不変です。

「おそらくこの学科は,ちょうどわれわれが求めているような,知識を目覚めさせるように導く性格を本来もっているものの一つらしいのだが,しかし誰もこの学科を―実在するものへと全面的に引っぱって行く力をそれがもっているにもかかわらず―正しい仕方で用いていないのではないか,ということだ」(523A)

…と,僕が上で述べたようなことは浅はかな理解で,ここからプラトン一流のたとえ話で数と計算の重要性が述べられます。

「よく注意すれば,君は次のことに気づくはずだ。―感覚に与えられるもののうちで,そのあるものは,感覚だけでじゅうぶんに判別されるというわけで,それをよくしらべるために知性の活動を助けに呼ぶことはない。しかしまた場合によっては,感覚は何ひとつ信頼できるものを与えないというので,それをよくしらべるように全面的に知性の活動を命じ促すものもあるのだ」(523B)

「知性を助けに呼ばないものというのは」とぼくは言った,「その感覚が同時に正反対のものを示すようなことにならない場合のことだ。これに対して,そういう結果になる場合のことを,知性の助けを呼ぶものと,ぼくは規定するわけだ。つまり感覚だけでは,あるものがこれであるとも,その反対であるとも,いっこうに明らかにされないような場合であって,それが近くから感覚されるか遠くから感覚されるかということには関係がない。」(523B)

「その感覚が同時に正反対のものを示すようなことに」なるかどうか,という論じ方はプラトンらしい,という気がします。一言で言えば,相対性があるかということでしょうか。そしてこの後,「指」に関するたとえ話が続きます。それは面白いですが省略します。

「すなわち,もし<一>というものがまさにそれ自体として,じゅうぶんに見られ,あるいは何か他の感覚によってとらえられるものであるとしたら,ちょうど指の場合について言っていたのと同じように,それはわれわれを実在するものへと引っぱって行く性格のものではないことになるだろう。けれども,もしそれが見られるときにはいつも,何か反対のものが同時に見られて,一つとして現われるのに少しも劣らず,またその反対としても現われるということになるのであれば,これはもう,その上に立って判定する者が必要となるだろう。すなわちこのような状況のなかで,魂は困惑に追いこまれて,自己の内で知性の活動を呼び起しながら探求のやむなきに至り,<一>とはそれ自体としてそもそも何であるのかと,問わざるをえなくなるだろう。そしてこのようにして,<一>について学ぶことは,実在の観想へと魂を向け変えて導いて行くようなものに属することになるだろう」(524E)

端折っている箇所も多いのですが,深いことが言われていると思います。例えばあるものが長いことも短いこともあり,その「長い」ということも「短い」ということもそれぞれが一つであって,場合によって「長い」とも「短い」とも魂に取り次ぐことがある,知性の働きをもたらす (つまり何がどのくらい長い (短い) かということを捉える) のが「数と計算」ということ,でしょうか。そしてこれを測定?するのにはアトミックなもの (<一>) が必要になるので,「実在の観想へと魂を向け変えて導いて行く」と。

「してみると,どうやらそれらの学問は,われわれが求めている学科のひとつだということになるようだ。というのは,戦士にとっては,軍団を編成するためにそれを学ぶ必要があるし,哲学する者にとっては,生成界から抜け出して実在に触れなければならないがゆえに,それを学ばなければならないのであって,そうでなければ,思惟の能力ある者とはけっしてなれないからである」
「そのとおりです」と彼。
「しかるに,われわれの国の守護者は,まさに戦士にしてまた哲学する者なのだ」(525B)

「したがって,グラウコン,この学科を学ぶことを法によって定め,国家において最も重要な任務に将来参与すべき人々を,計算の技術の学習に向かうように説得することは,適切な処置であるということになる。そして彼らは,この学科に素人として触れるのではなく,純粋に知性そのものによって数の本性の観得に到達するところまで行かなければならない。貿易商人や小売商人として売買のためにそれを勉強し訓練するのではなく,その目的は戦争のため,そして魂そのものを生成界から真理と実在へと向け変えることを容易にするためなのだ」(525B)

ということで,「数と計算」を支配者・守護者になる人に学ばせるべきである,ということになります。
ここまでの一連の展開は,「なんで学校で算数・数学を学ぶの?」という素朴な疑問に対する一つの答えになるのかなと思います (戦争に役立つというのはおいといて)。

「ほかでもないが,いまもわれわれが言っていたように,この学問は魂をつよく上方へ導く力をもち,純粋の数そのものについて問答するように強制するのであって,目に見えたり手で触れたりできる物体のかたちをとる数を魂に差し出して問答しようとしても,けっしてそれを受けつけないという点だ。じっさい,君も知っているだろうが,この道に通じた玄人たちにしても,彼らは,<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる人があっても一笑に付して相手にしない。君が<一>を割って細分しようとすれば,彼らのほうがその分だけ掛けて増やし,<一>が一でなくなって多くの部分として現われることのけっしてないように,あくまでも用心するのだ」(525E)

なかなか面白いです。完全に空想上の?ものであると。でもプラトンの定義によると,これは「実在」 (「生成」に対して) ということになると思います。<一>というものが atomic なものということなので。

「それなら,友よ」とぼくは言った,「君もこう見るのだね―おそらくこの学科こそはわれわれにとって,ほんとうの意味で必要欠くべからざるもの (強制力をもつもの) であるだろうと。なぜなら,それは明らかに,魂を強制して,純粋の知性そのものを用いて真理そのものへ向かうようにさせるのだから」(526B)

こういう頭の中だけで考えられる不変のものを考える学問こそが必要…まさに数学の世界という感じがします。また,プログラミングでいえば副作用のない関数型言語を思い浮かべます。
こういう抽象的なものこそが必要,というところは,前にも書いた気がしますが,「それで?」「では具体的には?」みたいに具体的な結果をすぐに欲しがる昨今の世相とは異なるところで,個人的にはどちらかといえば勇気づけられるところです。とはいえ競合するものでもないとは思います。

「ではどうだね,このことをもう注意したことがあるだろうか。―すなわち,生まれつき計算の才のある者は,あらゆる学問を学ぶのに鋭敏に生まれついているといってよいし,また遅鈍な者も,この学科によって教育され訓練されると,たとえほかに何の得るところがなかったとしても,少なくとも以前の自分よりも鋭敏になるという点では,誰もが進歩するということだがね」(526B)

直接は関係ないですが,将棋の棋士を連想しました。将棋の棋士も将棋に限らず頭が物凄く良いと思いますが,それは将棋のルールの上で手を読むというメタな思考を繰り返すことで,頭の回転が速いというだけではなくて (勿論それもあると思いますが),何か真理が見えてくるのかもしれません。

「第二番目には,これにつながりのある学科のことを,はたしてそれがわれわれの目的に適うものであるかどうか,しらべてみることにしよう」
「どのような学科ですか?幾何のことをおっしゃっているのですか?」と彼は言った。
「まさにそのとおり」とぼくは答えた。(526C)

(1)数と計算の話が長かったですが,ここで(2)幾何学に移ります。

「われわれがしらべなければならないのは,幾何の多くのもっと進んだ部分が,あのそもそもの目的,すなわち,<善>の実相を観てとることを容易にするという目的に対して,何らかの点で寄与するものであるかどうか,ということなのだ。」(526E)

少し前でグラウコンが,「陣営の構築や,要地の占領や,軍隊の集合と展開」(526D) などに幾何の心得が役立つ,と言うのですがそれはメインではないと言われます。がそれも副次的な効果として有意義だとも後で言われます(527C)。ともあれ,<善>の実相を観てとることが目的と言われます。

「それが知ろうとするのは,つねにあるものであって,時によって生じたり滅びたりする特定のものではないということだ」
「それは容易に同意を得られる点です」と彼は言った,「なぜなら幾何学は,つねにあるものを知る知識なのですから」(527B)

この辺りは,第六巻メモ(3) の 510E 辺りでも考えたのと同じようなことを考えました。幾何学で考えられる図形というのは完全なもので,逆に実際に図形を描いた時点ではそれは不完全になります。これが幾何学が「つねにあるものを知る」と言われるのだと思います。
この ReadOnly 感はやはり関数型言語っぽいです。

「ではどうだろう,三番目の学科としては,天文学をそれと定めることにしようか?それとも,君は不賛成かね?」
「私としては,それでよいと思います」と彼は答えた,「というのは,月や年の移り変りにおけるさまざまの時期 (季節) を正確に感知するということは,農耕や航海に必要であるだけでなく,軍隊統率のためにも,それに劣らず大切なことですからね」
「君も愉快な男だね」とぼくは言った,「なんだか大衆に気がねして,役にも立たない学問を押しつけようとしていると思われはしないかと,びくびくしているように見えるではないか。しかしほんとうに重大な点,容易には信じがたい点は,こうした学問のなかで各人の魂のある器官が浄められ,ふたたび火をともされるということだ。」(527D)

(3) として天文学に移ります。ここでグラウコンが(2)幾何学の時と同じように実利的な面を強調して,ソクラテスにたしなめられますが,グラウコンがボケて,ソクラテスが突っ込むという図式は本巻ではずっと続きます(笑)。
ともあれ,言われていることは(2)幾何学のときとあまり変わりません。

「それでは,もう一度話を後へ戻してくれたまえ」とぼくは言った,「なぜなら,さっき幾何のつぎに来るべき学科を取り上げたときの,われわれのやり方は正しくなかったからね」
「どういう点がですか?」と彼はたずねた。
「平面のつぎに」とぼくは言った,「もうすでに円運動のうちにある立体を取り上げたからだ―立体をそれだけで取り上げる前にね。しかし順序としては,二次元のつぎには三次元を取り上げるのが正しい。そしてこれは,立方体の次元や一般に深さを分けもつものについて考えられるものであるはずだ」
「たしかにそれはそうです」と彼は言った,「しかしそうした事柄は,ソクラテス,まだ完全に発見されたとはいえないように思えますが」(528A)

ここで(3)は立体幾何学に入れ替わります。ただグラウコンが指摘するように,まだ学問として理論が確立する前のようです。これは脚注にもあります。

「じっさい現在においてすら,世間の人々から軽視されて成長を阻害され,さらにそれが有用であることの根拠を理解していない研究者たちからも,同じ扱いを受けているにもかかわらず,この研究はそれ自身の魅力によって,すべてこれらの抵抗を排して成長しつつあるのだからね。」(528C)

引き続いてのソクラテスの言葉です。まだ確立していない理論とか成長中の技術とかは,あるいはそれに対する法規制なども,現代でもたくさんあると思いますが,「成長自体はそれ自身の魅力によって抵抗はあっても続く」というのは実感する部分です。

「それでは,第四番目の学科として天文学を置くことにしよう」とぼくは言った,「いま未開拓のままの残されている先の学問の研究が,国家がそれを推進するという前提のもとに,すでに確立されているものと考えてね」(528E)

改めて(4)天文学が言われます。

「たぶん君の考えは立派で,ぼくの考え方は愚直なのかもしれない。というのは,ぼくとしては,目に見えない実在に関わるような学問でないかぎり,魂の視線を上に向けさせる学科としてはほかに何も認めることができないからだ。」(529B)

ここも例の,グラウコンのボケ→ソクラテスの突っ込みの場所なのですがどうも神妙です。グラウコンは「魂を強制して上の方を見るようにさせ,魂をこの世界の事物から天上へと導くものである」とこの前に言うのですが,ソクラテスは「目に見えない」実在に関わるもののみが魂の視線を上に向けさせると。これは(1)~(3)の延長線上と考えれば納得はできます。

「だから」とぼくは言った,「天空を飾る模様は,そうして目に見えぬ実在を目指して学ぶための模型としてこそ,これを用いなければならないのであって,それはちょうど,ひとがダイダロスなり,あるいは他の工人なり画家なりによって特別苦心して見事に描かれた図形を前にしたときと同じことである。すなわち,幾何学に通じた人ならば,そうした図形を見て,この上なく美しい出来栄えを認めながらも,しかし等しいものや,二倍のものや,その他何らかの正確な数量的関係の真実のあり方を,そうした図形の内に直接とらえるつもりで本気でこれをしらべるのは,滑稽なことだと考えるだろう」(529D)

実際に天体の動きについてあれこれするのではなく,それを実現させているものについて学び考え,その「美しさ」を理解することが天文学の要諦であると言っているように思われます。
この考え方は,東洋思想で「造化」と呼ばれるものと近いのかもしれません。

「目が天文学との密接な関係において形づくられているのとちょうど同じように,音階の調和をなす運動との密接な関係のもとに耳が形づくられているのであって,この両者に関わる知識は,互いに姉妹関係にあるのだ,と。これはピュタゴラス派の人々が主張し,われわれもまた,グラウコン,賛成するところなのだがね。―それともわれわれは,どういう態度をとろうか?」(530D)

(5)音楽理論について述べられています。ピュタゴラス派の人の音楽研究について言及されていますが,基本的には,今まで述べられた視覚的なものに対して聴覚的なものを対応させたと考えられます。

「つまり彼らは,耳に聞えるこの音の協和の中に直接に数を探し求めるけれども,しかしそれ以上のぼって問題を立てるところまでは行かず,どの数とどの数とがそれ自体として協和的であり,どの数とどの数がそうでないか,またそれぞれは何ゆえにそうでありそうでないのかを,考察しようとしないのだ」(531C)

これも,天文学について述べられたことと似ていると思います。

色々と教育すべき学問について論じられましたが,結局は「善」とか「美」といったイデアというものが脈のようにあって,そこへの入り口となる学問を学ぶべきである,ということになるのかなと思います。冒頭に述べましたが,所謂リベラルアーツという言葉から受ける印象と違い,「教養を豊かにする」という意味 (知識を増やすという意味で) は一切受け取れません。そこは注意する必要があると思います。

次はいよいよ哲学的問答法 (ディアレクティケー) についてですが,それはメモ (3) に。