プラトン『ティマイオス』メモ

プラトン『ティマイオス』((プラトン全集 (岩波) 第12巻) を読んだときのメモ。

目下『国家』を読解しているところですが,一応,2014年 (平成26年) のお盆休みの課題の1つとして図書館に通いつめて読みました(笑)。

本対話篇は,『国家』の対話が行なわれた翌日という設定 (と言われているわけではありませんが,明らかでしょう) で,ソクラテスがティマイオス,クリティアス,ヘルモクラテスという3人と会い,前日にソクラテスが語った国家についてそれぞれ語っていくということになります。その前に,クリティアスが祖父に聞いたという昔話…アテナイにこそそういう国家がかつて存在していたとか,アトランティスという島が昔存在して隆盛を極めていたなどというエジプトに伝わる言い伝え…を語り,その後まずは天文学に詳しいティマイオスが「宇宙の生成から始めて,人間のなりたち (自然の本性) のところで話を終えてもらう」(27A) ということでティマイオスがそういうことをほぼ一方的に語っていきます。

この『ティマイオス』は,自然科学に通じるような内容を扱っているという点で異色だと思います。例えば万物は火,空気,水,土から構成されるというようなことも結構な筋立てで言われます (火は正四面体,空気は正八面体の要素で構成されているとか)。しかし,基本的な考えとしては,宇宙というのは「善なる創造主」が作ったということで,プラトンとしては,そういう万能の主がある思わくをもって (→「善のイデア」に基づいて?) 宇宙・世界・人間を作ったということになると思います。他方で,当時は原子の存在などは観察できていなかったわけです (原子論などは当時もあったようですが)。つまり,そういう意味で現代の目からすると,物質や生物の成り立ちについては「合目的的」な内容に始終していると感じました (「合目的的」というのは解説で使われていた言葉ですが,これに尽きると思いました)。半面で,天体観測については当時も行なわれていたようで,宇宙とか惑星については当時もかなり知見があったんだなと思わされるところもありました。

なお,アトランティス自体は,同じ全集12巻に所収されている『クリティアス』の方が詳しいようです。

以下は読書時のメモです。

ソクラテス「それでは,わたしがあなた方に,どんなことについて話してもらいたいとお願いしたか,その全部をおぼえておいででしょうか。」
ティマイオス「おぼえている分もありますよ。しかし,おぼえていない分は,当のあなたがここにおられるのだから,思い出させてもらいましょう。いや,それより,面倒でなければ,あの話をはじめから簡単に,もう一度くり返してみてくれませんか。そうすればわれわれの側としても,記憶がもっと確かになるでしょうから。」
ソクラテス「そのようにしましょう。昨日のわたしの話の要点は,国家について,それがどんな体制のもので,どんな成員から構成されるなら,最上のものになるだろうかという,わたしの所見をお話したものだったと思いますが。」(17B)

ということで,ソクラテスがティマイオス達に,なにかをお願いしたようですが,それは「昨日のソクラテスの話」に関することのようで,明らかに『国家』の翌日という設定なのが読み取れます。この後,具体的に『国家』の要約が行なわれます (但し,「哲人政治」やイデア論的な内容は語られなかった)。
そしてソクラテスは,「模倣を仕事とする」作家でも,ソフィストでもない人として,ティマイオス達に,ソクラテスが語った国家について語ってもらおうとしたようです。

クリティアス「すると,神官のうちでも大そう年とった一人が,こう言ったというのである。『おお,ソロンよ,ソロンよ,あなた方ギリシア人はいつでも子供だ。ギリシア人に老人というものはいない』と。」(22B)

ここから暫くは,クリティアスの祖父 (も,クリティアスというらしい) がソロンに聞いた話を,クリティアスが語ります。正確には,クリティアスの祖父が,その父ドロピデスから,ソロンの話として聞いた話をクリティアスに話した内容,ということのようです。そしてソロンも,このようにエジプトの神官に聞いた話と。
つまり,エジプトの神官→ソロン→曽祖父ドロピデス→祖父クリティアス→クリティアス,と伝承されてきた話ということになります。こういうややこしい設定がプラトンは好きですね(笑)。
この後,「エジプトではナイル河等の自然に守られていて過去の記録が残っているが,ギリシアでは大洪水が何度もあって記録されることもなかった」というようなことも言われます。

クリティアス「『かつて,水による最大の破壊に見舞われる以前に,現にアテナイの国であるところのあの都市国家が,戦争にかんしても最強であれば,またあらゆる面で卓抜した法秩序を持っていたことがあるのだ。そして,その国家の遂行した偉業も,その国政も,およそこの天の下でわれわれの耳に達したあらゆる事例のうちで,最も立派なものだったと言われているのである』。」(22C)

伝承の話が暫く続きます。アテナイにかつて,理想的な都市国家が存在していたそうです。なおメモにはありませんが,これは9,000年前の話と言われています。現代からプラトンの時代が2,400年ほど前なので,まあ相当前だなあという感じです…電気,半導体,コンピュータ,インターネット,携帯電話等を代表する現代の文明と,プラトンの時代との時間的な差の更に4倍以上も昔の話で,そのどこかで今のような文明が栄えたらどうなっていたのだろう?とか思ってしまいます。

クリティアス「『文書は,どれほどまでに大きな勢力の侵入を,あなた方の都市がかつて阻止したかを語っているのだが,これは,外海アトラスの大洋 (大西洋) を起点として,一挙に全ヨーロッパとアジアに向かって,暴慢にも押し渡って来ようとしたものなのだ。』」(24E)

クリティアス「『さて,このアトランティス島に,驚くべき巨大な,諸王侯の勢力が出現して,その島の全土はもとより,他の多くの島々と,大陸のいくつかの部分を支配下におさめ,なおこれに加えて,海峡内のこちら側でも,リビュアではエジプトに境を接するところまで,またヨーロッパではテュレリアの境界に到るまでの地域を支配していたのである。』」(25A)

アトランティスが出てきました。このアトランティスは相当強大な国家?だったようです。
さて現代,アトランティスと聞くと,「なんかそういうファミコンのゲームがあったなあ」というのが僕の第一感でしたが (笑),伝説上の大陸というイメージがあると思います。それが,プラトンの著作に出てくる,というこの何ともいえない唐突な感じが嬉しいです。
今年 (2014年) になって,「アトランティス大陸が発見された?」というニュースが NHK でありましたが,その時に「プラトンの著作に出てくる」というようなことは言われていました。

クリティアス「『しかし後に,異常な大地震と大洪水が度重なって起こった時,過酷な日がやって来て,その一昼夜の間に,あなた方の国の戦士はすべて,一挙にして大地に呑み込まれ,またアトランティス島も同じようにして,海中に没して姿を消してしまったのであった。』」(25D)

…ということで伝承は,アテナイの理想国家もアトランティス島も地震と洪水で沈没してしまった,ということになるのですが…本当に地震・洪水でこれらが滅び,かつその伝承がエジプトに残っていた,ということが事実ならば,奇跡だなと思います。地震と洪水でそんなに広範囲が滅亡してしまうというのも想像はしづらいのですが,何せ10,000年以上の時の中では自分が生きてきた高々何十年の常識を超越する何かがあっても不思議ではない,という気もします。
でもまあ,きっと作り話なんでしょう(笑)。プラトン自身が作ったかどうかは措くとして。

クリティアス「さて,ソクラテス,老祖父クリティアスがソロンから聞いたままに語ってくれたことは,簡潔に言えば,以上君が聞いた通りだ。ところで,君の話のあの国家とその成員のことだが,それを昨日君が話してくれていた時,わたしは,ちょうどいま言ったことを思い出して驚いていたのだ。…君の話が大部分,ソロンの言ったこととぴったり一致しているのに気づいたからだ。」(25E)

伝承の話が終ったところで,『国家』でソクラテスが語った国家 (と思われる) と,アテナイの理想国家がおおむね一致していたとクリティアスは言います。
これが本当なら,そういう国家があったことも,その国家を伝え聞いていたクリティアスが『国家』の舞台にたまたま同席していたことも,さらにソクラテスがその国家について知らなかったことも,すごい偶然ということになると思います。
くどくなってしまいました。まあ信憑性についてはどうでもいいですね。当時プラトンがこれを書いた,というだけのことです。

クリティアス「いやほんとうに,君,子供の頃に学んだことは驚くほど記憶に残るという諺の通りだねえ。何しろわたしなんか,昨日聞いたことだと,その全部を記憶に呼び戻すことが,さあできるかどうか,あやしいと思うが,ずっと以前に聞いたあの話のほうは,その一つでもわたしの記憶から落ちているとすれば,それこそまったく不思議だろうからね。」(26B)

これは特に内容とは関係ないのですが,たまたま僕も読んだ当時に昔のゲーム (FF2) をプレイしていて,小学生の時のゲームにもかかわらずかなり深くストーリーとか街の名前とか登場人物とか音楽とかをとてもよく覚えているのに,反対に最近のゲームについては全然覚えてないな,と思い実感がありました。

クリティアス「われわれの案では,こういうことになったのだ。まずティマイオスだが,この人はわれわれの中で一番よく天文学に通じていて,万有の本性を知ることを,特に自分の仕事にして来た人だから,最初にこの人に,宇宙の生成から始めて,人間のなりたち (自然の本性) のところで話を終えてもらう。」(27A)

この後の対話の展開を,クリティアスがリードして,まずティマイオスに宇宙の生成や人間のなりたちについて話してもらうことになりました。

メモは以上。
…実はこの後こそが『ティマイオス』の主要な部分で,ティマイオスが延々と,創造主の話,天体の話,元素?の話 (→火,空気,水,土から万物ができている) といった自然の話や,味覚や嗅覚等の感覚や臓器,病気,身体と魂,男女といった人間の成り立ちの話が語られますが,そんなにメモしたい部分がなかったようです。
また全集では補注がやたら充実しています。これは主に『ティマイオス』の具体的な内容をどう解釈するかということや,当時の物質の成り立ちに関するピュタゴラス派,エレア派等の学説とか色々あったようですが,殆ど読み飛ばしました…。
総じて,研究者としては解釈の面で重要でしょうが,読み物としては,最初に書いたように,合目的的に,つまり善のイデアがあってそれが全てのものを支配していると仮定して宇宙や人間を説明した,という感じです。電子顕微鏡によって原子が実際に観察されるまでになった現代の科学の視点からは,火が正四面体,空気が正八面体,土が正六面体,水が正二十四面体で構成されている…といったような説を元に言われる話は直観に反する内容で,悪く言えばオカルトっぽいのです。
勿論,だからといって『ティマイオス』の価値を損ねるものではない,と思います。むしろ逆で,自然に対する好奇心や尊崇の念と,当時なりにあらゆることの整合性が合うようにと考えたその情熱というものはひしひしと感じます。今とは違って,自分たちの知ることのできる範囲というのは極めて限定されている,ということの自覚もあったはずで,だからこそ単なる空想ではなく,自然への信頼というのは今よりあったのかもしれません。
それを承知の上で,やっぱり退屈なのは事実です(笑)。読む前は,比較的話題に上りやすい (と思われる) この対話篇がなんで文庫化されないのかなあ,と思っていたのですが,読んでみて分かった気がします。尤も,本篇だけではなく後期対話篇 (『ソピステス』とか『パルメニデス』とか) 共通ではあるかなと思います。やはり難解なのです。

ということで少し順番を変えての夏休みの課題でした…。ちょっと時間があまりなかったので慌てて読んだ感もあり,もう少しじっくり読んでみたいという感じもします。

プラトン『国家』第六巻メモ(3)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第六巻を読んだときのメモ第3弾。

ここでのテーマはずばり「(善の) イデア」といってもよいと思います。有名な「太陽の比喩」「線分の比喩」も出てきます (「洞窟の比喩」は第七巻)。
読み物としてプラトンを読む立場としては,いわゆる「イデア論」というのはどうでもいいことで,寧ろ後世の学問としての「哲学」という枠にプラトンを押し込めるような不遜なイメージがないともいえないようなものです。プラトンが著したものを「哲学」として捉えるだけでは,「哲学」として以上は何の役にも立たない,そしてそれはプラトンの意図したことではない,と思います(キリッ)。
…と,いうことで,必ずしも「イデア論」を理解しなくてもよい立場なのですが,ここに至っては,太陽の比喩の分かりやすさ,線分の比喩の意味不明さ (?) も相俟って,「イデア」という考え方のその強力さを実感します。とともに,メモにも書いたのですが,これまでに読んで来た対話篇にあまねく横たわってきたものが,少し姿を現わしたか,という感じも覚えました。
ちなみに,「理想」という言葉は元々西周が「イデア」を訳したものである,ということをどこかで読みました。

以下は読んだときのメモです。

「それというのも,君」とぼくは言った,「いましがたやっとの思いで宣言されたことを,あのときは口にするのがためらわれたからなのだ。しかしいまは,このことを宣言するだけの勇気が,われわれに完全に与えられたものとしよう―すなわち,われわれの任命する最も厳密な意味での守護者たちは,哲学者でなければならぬ,とね」(503B)

改めて哲人王のことが言われます。

「多分君は憶えているだろうが」とぼくは言った,「われわれは,魂における三つの種類のものを区別したうえで,そこから<正義>と<節制> と<勇気>と<知恵>について,それぞれが何であるかということを結論したのであった」(504A)

これは第四巻の主要なテーマでした。こういう感じでたまにおさらいをしてくれるのが,プラトンのいいところです。

「われわれはたしか,こう言っていたはずだ。―それらの徳の何であるかをできるかぎりよく見てとるためには,別のもっと長いまわり道が必要なのであって,そのまわり道を通って行けば,それらははっきりと明らかになるはずであるけれども,しかしそれまでに語られてきた事柄と同列の証明をつけ加えることなら,そのままの行き方でもできるだろう,とね。そうしたら君たちは,それで充分だと答えた。そこでそういう了解のもとに,あのときのことは語られたわけだが,それはどうもぼくには,厳密さに欠けるように見えた。しかし君たちにはあれで満足に見えたかどうかは,君たちから言ってもらわなければね」(504B)

だいぶ前の話のように思えますが,「別のまわり道」が必要,と言われたことはよく覚えていました。それだけコアなテーマという印象があったのかもしれません。

「それならば,君」とぼくは言った,「そういう任につく者は,もっと長いほうのまわり道を進まなければならない。そして体育で苦労するのにおとらず,学業においても苦労を積まなければならないのだ。そうでなければ,いまも言っていたように,その本分に最もふさわしい最大の学業の終極にまで到達することは,けっしてありえないだろう」(504C)

「国家と国法を守護する者」(504C) にとっては,この「まわり道」を進むことが必要ということになり,やっと語られることになりました。

「しかし,いったいあなたは,あなたが最大の学業と言われるものが何であるか,またその学業は何に関わるものなのかをあなたにたずねないままで,あなたを放免する人が誰かいるとお考えですか?」
「いや,けっして」とぼくは言った,「さあ,君もまたたずねたまえ。どっちみち君は,たしかにそれを一度ならず聞いたことがあるのだが,いまはそれに気づかないのか,あるいは,またしても,しつこくつかまえてぼくを困らせてやろうという魂胆なのか,どちらかなのだ。ぼくの思うには,きっと後者のほうだろ う。げんに君は,<善>の実相 (イデア) こそは学ぶべき最大のものであるということは,何度も聞いているはずだからね―この<善>の実相がつけ加わってはじめて,正しい事柄もその他の事柄も,有用・有益なものとなるのだ,と。」(504E)
「ありとあらゆるものを所有していても,しかしその所有が善い所有でないとしたら,何かの足しになると君は思うかね?あるいは,善を抜かして他のすべての事柄に知恵をもちながら,美しいもの・善いものについては何の知恵もないとしたら?」(505B)

…ということで,ついに「善のイデア」が出てきました。これが最大の学業とも言われていますが,「善のイデアが付け加わってはじめて,事柄は有用・有益なものとなる」「その所有が善い所有でないとしたら,何かの足しになるのか?」といったことは非常にプラトンらしさを感じます。
何というか,懐かしさに似た感じを覚えます。恐らく,今までのどの対話篇でも,ソクラテスの対話にはこれが通底していたからでしょう。

「ところでまた,君はこういうことも知っているはずだ,―その<善>とは,多くの人々には快楽のことだと思われているし,他方,もう少し気のきいた人々には知恵のことだと思われている,ということをね」
「ええ,もちろん」
「それからまた,友よ,後者のように考える人々は,その知恵とはいかなる知恵のことなのかを示すことができないで,しまいには,<善>を知る知恵がそれなのだ,などと言わざるをえなくなるということもね」(505B)

「善とは快楽か」というのは,『ピレボス』のテーマだったと思います (執筆されたのは『国家』より後ということだったと思いますが)。「善とは知恵か」というのは何となく直感的には間違ってもいなさそうという感じもありますが。もっともここでプラトンは必ずしもこれらをここで否定しているわけではなく,そういう考えもあると言いたいだけのようです。

「しかしどうだろう,この点は明らかとはいえないだろうか?―すなわち,正しいことや美しいこと (見ばえのよいこと) の場合は,そう思われるものを選ぶ人が多く,たとえ実際にはそうでなくても,とにかくそう思われることを行ない,そう思われるものを所有し,人からそう思われさえすればよいとする人々が多いだろう。しかし善いものとなると,もはや誰ひとりとして,自分の所有するものがただそう思われているというだけでは満足できないのであって,実際にそうであるものを求め,たんなる思われ (評判) は,この場合にはもう誰もその価値を認めないのではないか」(505D)

それはどうかなあ,と思ってしまった部分です。「正」「美」と「善」を対照していますが,仮に前者について「そう思われるものを選ぶ人が多い」のであるならば,実際には後者,つまり善についても,そう思われていることで満足するというのはありえるのでは,と一般的には思えるような気はします。
ただ,プラトンが言いたいのは,「次元が違う」というようなことなのかもしれません。「思われるものを選ぶ」という行為自体を束縛するのが「善」ということなのかもしれません。

「こうして,すべての魂がそれを追い求め,それのためにこそあらゆる行為をなすところのもの,―それがたしかに何ものかであると予感はしながらも,しかし,そもそもそれが何であるかについては,魂は困惑してじゅうぶんに把握することができず,さらに他の事柄の場合のように,動かぬ信念をもつこともできないでいるもの,―そしてまさにそのために,そういう他の事柄についても,そこに何か役に立つものがあったとしても,とらえそこなうことになってしまうのだが,― じつにこのような性格の,このように重大なものについて,われわれが万事を委ねるところの,国家における最もすぐれた人々までもがそのように不明のままであってよいと,はたしてわれわれは言ってよいものだろうか?」(505E)

ここは何というか,非常に素直に心の動きを描写しているという印象です。「そもそもそれが何であるかについては,魂は困惑してじゅうぶんに把握することができず」というのは,善というもののつかみどころのなさをよく表わしていると思います。

「自分の知らない事柄について,あたかも知っているかのように語るのが正しいことだと,君は思うのかね?」
「いいえ,けっして正しいこととは思いません」と彼は言った,「知っているかのように語るのはね。―しかし,自分の思っていることを,そのままただ自分の思うところを述べるというかたちでならば,当然話す気になってしかるべきでしょう」
「何だって?」とぼくは言った,「知識を欠いた思わくというものはどれもみな醜いものだということを,君は感じたことはないのかね?それの最上のものとて も,いわば盲目なのだ。―それとも,知ることなしに思わくだけで何か本当のことに行き当たる人たちは,盲人がひとり歩きして,たまたま道を間違えないとい うのと,どこか違うように思えるかね?」(506C)

ここは,アデイマントスがソクラテスに「善とは何か」を語らせようとして,ソクラテスが,自分ははっきりとは知らないので語ることはできないという意味で言った部分と思います。

「どうかゼウスに誓って,ソクラテス」と,ここでグラウコンが言った,「まるでもう終りまで来てしまったように引き下がらないでください。私たちとしては,あなたが<正義>や<節制>その他について話された,あれと同じ仕方で<善>についても説明してくださるなら,それで満足するでしょうから」
「それはもう,このぼくにしても,君」とぼくは言った,「それができたら大いに満足だろうよ。しかしぼくにはできないだろうし,できないのに気持だけが先に立って不体裁を演じ,笑い者になることだろうと,それが心配なのだ。
いや,幸福なる諸君よ,さしあたっていまのところは,<善>とはそれ自体としてそもそも何であるかということは,わきへのけておくことにしよう。なぜなら,それをとにかくぼくが何であると思うかということだけでも,そこまでいま到達するのは,現在の調子ではぼくの力に余ることのように思えるからだ。そのかわり,<善>の子供にあたると思われるもので,<善>に最もよく似ているように見えるものを,もし諸君がそれでよいと思うなら,語ることにしたいのだ。だが,それではだめだということなら,やめておこう」(506E)

ソクラテスはかたくなに,<善>とは何かを語ることを拒否?固辞?します。
というか多分,語れないというのは本当なのでしょう。語った瞬間にそれは違うものになってしまう,というものは実感としても結構ありますが <善> もそういうものなのかもしれません。とりあえずここでは,<善>の子供で妥協してもらうことになります。

「多くの美しいものがあり」とぼくは言った,「多くの善いものがあり,また同様にしてそれぞれいろいろのものがあると,われわれは主張し,言葉によって区別している」
「ええ,たしかに」
「われわれはまた,<美>そのものがあり,<善>そのものがあり,またこのようにして,先に多くのものとして立てたところのすべてのものについて,こんどは逆に,そのそれぞれのものの単一の相に応じてただ一つだけ実相 (イデア) があると定め,これを<まさにそれぞれであるところのもの>と呼んでいる」
「そのとおりです」
「さらにまた,われわれの主張では,一方のものは見られるけれども,思惟によって知られることはなく,他方,実相 (イデア) は思惟によって知られるけれども,見られることはない」(507B)

イデアについての分かりやすい説明だと思います。この <まさにそれぞれであるところのもの> というものこそは,他の対話篇 (正確には初期対話篇?) で散々追求されてきてその都度行き詰まり (アポリアー) に陥ってきたものでしょう。

「君は,いろいろの感覚の作り主が,見ることと見られることに関わる機能を,どれだけ特別に贅沢なものとして作ったかということに,気づいたことがあるだろうか?」
「いいえ,ぜんぜん」と彼。(507C)

僕も「いいえ,ぜんぜん」だったのですが (笑),言われてみると (この後の内容も含めてですが) 確かにそうなのかなと思ったりします。

「それでは」とぼくは言った,「ぼくが<善>の子供と言っていたのは,この太陽のことなのだと理解してくれたまえ。<善>はこれを, 自分と類比的なものとして生み出したのだ。すなわち,思惟によって知られる世界において,<善>が<知るもの>と<知られるもの>に対してもつ関係は,見られる世界において,太陽が<見るもの>と<見られるもの>に対してもつ関係とちょうど同じなのだ」(508B)

ここからが「太陽の比喩」です。そのまま <善> を太陽に喩えています。
以下,その説明が続きます。

「目というものは」とぼくは言った,「君も知っているように,もはやこれを,白昼の光が表面の色どりいっぱいに広がっているような事物には向けずに,夜の薄明りに蔽われている事物に向けるときには,ぼんやりとにぶって,盲目に近いような状態となり,純粋の視力を内に もっていないかのようにみえるものだ」
「大いにそのとおりです」と彼。
「けれども,思うに,陽光に明るく照らされている事物であれば,はっきりと見えて,同じその目の内に純粋の視力が宿っていることが明らかになるのだ」(508C)

「それでは,同様にして,魂の場合についても,次のことを心に留めてくれたまえ。―魂が,<真>と<有>を照らしているものへと向けられてそこに落着くときには,知が目覚めてそのものを認識し,その魂は知性をもっているとみられる。けれども,暗闇と入り混じったもの,すなわち,生成し 消滅するものへと向けられるときは,魂は思わくするばかりで,さまざまの思わくを上を下へと転変させるなかで,ぼんやりとしかわからず,こんどは知性をもっていないのと同じようなことになる」
「たしかにそういうことになります」
「それでは,このように,認識される対象には真理性を提供し,認識する主体には認識機能を提供するものこそが,<善>の実相 (イデア) にほかならないのだと,確言してくれたまえ。それは知識と真理の原因 (根拠) なのであって,たしかにそれ自身認識の対象となるものと考えなければならないが,しかし,認識と真理とはどちらもかくも美しいものではあるけれども,<善>はこの両者とは別のものであり,これらよりもさらに美しいものと考えてこそ,君の考えは正しいことになるだろう。これに対して知識と真理とは,ちょうど先の場合に,光と視覚を太陽に似たものとみなすのは正しいけれども,それがそのまま太陽であると考えるのは正しくなかったのと同じように,この場合も,この両者を<善>に似たものとみなすのは正しいけれども,しかし両者のどちらかでも,これをそのまま<善>にほかならないと考えるのは正しくないのであって,<善>のあり方はもっと貴重なものとしなければならないのだ」(508D)

「ぼくの思うには,太陽は,見られる事物に対して,ただその見られるというはたらきを与えるだけではなく,さらに,それらを生成させ,成長させ,養い育くむものでもあると,君は言うだろう―ただし,それ自分がそのまま生成ではないけれども」
「ええ,むろん生成ではありません」
「それなら同様にして,認識の対象となるもろもろのものにとっても,ただその認識されるということが,<善>によって確保されるだけでなく,さらに,あるということ・その実在性もまた,<善>によってこそ,それらのものにそなわるようになるのだと言わなければならない―ただし,<善>は実在とそのまま同じではなく,位においても力においても,その実在のさらにかなたに超越してあるのだが」(509B)

…ということで,少し長く引用しましたが,太陽の比喩は3つの比喩の中では比較的単純というか,分かりやすいものだと思います。
<善> とは真理を照らし,またそれを認識する力を与える,と。これが,ものを見る時に太陽 (=光源) がない場合にはぼんやりとしか見えないことに喩えられていると。また,成長させるはたらきもあると。
ただ,これはあくまで比喩であるとソクラテスに強調させていたのも,何となく分かる気はします。イメージは確かにしやすいですが,だからといって,これでは <善> について根拠があって説明したことにはなりません。そして,それでよいのだとも思います。

「ではそれらを,一つの線分 [AB] が等しからざる部分 [AC, CB] に二分されたかたちで思い描いてもらって,さらにもう一度,それぞれの切断部分を―すなわち,見られる種族を表わす部分 [AC] と思惟によって知られる種族を表わす部分 [CB] とを―同じ比例に従って切断してくれたまえ。」(509E)

続いて,「線分の比喩」についても語られます。が,ここでは内容については省略します…。文章だけでは意味不明だと思われますし。本には線分の図 (編集時につけ加えたのだと思います) とともに分かりやすく説明されています。

「それならまた,このことも知っているだろう―彼らは目に見える形象を補助的に使用して,それらの形象についていろいろと論じるということを。ただしその場合,彼らが思考しているのは,それらの形象についてではなく,それを似像とする原物についてなのであり,彼らの論証は四角形そのもの,対角線そのもののためになされるのであって,図形に描かれる対角線のためではなく,その他同様である。彼らが立体像として作るものや図形として描くものは,それだけとってみれば,それのまた影も水面の似像として用い,思考によってしか見ることのできないようなかのものを,それ自体として見ようと求めているのだ」(510E)

数学の問題を解くときに描く図形とはいったい何なのか,ということが言われています。それはそこに書いた図そのものではなく,四角形なら「理想的な」四角形のはずです。それがここでは「原物」と言われていると思います。
この手のことを考えると結構迷宮に入ったようになりますが,例えば試験問題などで「角Aの大きさを求めよ」みたいなものがあったとして,条件に示された図形をコンパスと定規で正確に図示して,分度器で角度を測れば答えになるんじゃないか,みたいなことは中学生くらいの時に誰しも考えることだと思います。しかし「正確な」図示など不可能で,僕らは線分すら引けないはずなのです(笑)。角度を測っても,精度の問題に突き当たって,90度丁度とかの角度すらも描けないはずです。そういう意味では真理というのは数式とか言葉とかでは表せますが現実には存在しない,似像に過ぎない,と思えてしまいます。

「可知界を切り分けたもう一つの部分 [EB] として,ぼくが次のようなもののことを言おうとしているのだとわかってくれたまえ。―すなわちそれは,理 (ロゴス) がそれ自身で,問答 (対話) の力によって把握するところのものであって,この場合,理はさまざまの仮設 (ヒュポテシス) を絶対的始原とすることなく,文字通り <下に (ヒュポ) 置かれたもの (デシス)> となし,いわば踏み台として,また躍動のための拠り所として取り扱いつつ,それによってついに,もはや仮設ではないものにまで至り,万有の始原に到達することになる。そしていったんその始原を把握したうえで,こんどは逆に,始原に連絡し続くものをつぎつぎと触れたどりながら,最後の結末に至るまで下降して行くのであるが,その際,およそ感覚されるものを補助的に用いることはいっさいなく,ただ <実相> そのものだけを用いて,<実相> を通って <実相> へと動き,そして最後に <実相> において終るのだ」(511B)

可知界についてです (前に示した部分は可視界の話)。学術的なもの (線分では CE) は,仮設を超えたものは出ないが,「理 (ロゴス) がそれ自身で,問答 (対話) の力によって把握するところのもの」では,<実相>のみを使って仮設を超越して始原に達するらしいです。
何となく感覚的には分かる気もします。いわゆる「発明」「イノベーション」というものの説明のようにも思えます。また例えば将棋の指し手でも,手を読むことによらずに直観で絶妙手を発見する,ということがあると思われていると思います (自分でそういう手を発見した経験は思い浮かびませんが,例えば昔の竜王戦の羽生-谷川の△7七桂などが思い浮かびます)。つまり発見時は仮設や理屈を超越していますが,検証すると確かに理屈にも適うということはあります。このプロセスは,確かに「始原に連絡し続くものをつぎつぎと触れたどりながら,最後の結末に至るまで下降して行く」という説明とよく合うのです。
…こんな喩えも,僕のイメージに過ぎませんが,そもそも線分の比喩自体もイメージであり,それをどう理解するかは各人によって異なるでしょうから (学会・学界にはコンセンサスがあるでしょうが),ご容赦ください。

「実在し知られるものでは,問答 (対話) の知識によって観得されるものは,いわゆる『学術』によって考察されるものよりも,明確であるということですね。後者にとっては,さまざまの仮設がそのまま始原にほかならないのであって,考察にたずさわる人々は,感覚ではなく思考を用いて対象を考察しなければならないけれども,しかし彼らは始原にまでさかのぼって考究するのではなく,仮設から出発して考察するがゆえに,あなたの見るところでは,対象についてほんとうの <知> をもつに至らないのです―ただしそれらの対象は,ひとたび始原と関係づけられるならば,それとともに知性による把握のもとにおかれるものではあるけれども。」(511C)

これはグラウコンの言葉ですが,「申し分のないほど,よく理解してくれた」(511D) とソクラテスに褒められます。
ここの言葉でも,『学術』というものは線引きされたものである,というような認識が引き起こされるように思います。また「感覚ではなく思考」と言われていますが,思考というのは仮設から導かれる論理的な推論のことかなと思います。

ということで,メモは以上。
ここでの説明に出てくるような「イデア」は,プラトンの考えを理解するためには役に立つものだと思いました。
話としてはこの第六巻の終わり方は中途半端で,この後第七巻に入ってすぐ,3大比喩の最後の「洞窟の比喩」が出てきます。

プラトン『国家』第六巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第六巻を読んだときのメモ第2弾。

メモ第1弾の続きといった内容です。現存する国制では,哲学者による統治が行なわれるようなものはない,しかし可能性がないわけではないし,反対する人にも説明すれば納得するだろうと。
何となく楽観的という印象があります。大衆や,哲人政治に反対するであろう人たちにも,ここで対話されているようなことを説得できるだろうと言われたり,支配者の地位になるような人の中に哲学的素質が芽生える可能性も無くはないと言われたり。まあ楽観的じゃないと哲人政治なんて考えられず,逆にひたすら悲観的で人の善なるものを信じられないなら恐怖政治に陥るしかないのでしょう。だからプラトンはある意味では究極的な楽観主義者であるのかもしれません(笑)。ただまあ,そういうところもプラトンから学び取るべきことなのかもしれません。
なおイデアの本格導入や,太陽の比喩等は次のメモ第3弾に書く予定です。

以下は読書時のメモです。

「哲学に適合した国家のあり方とおっしゃるのは,現存するさまざまの国制のうちの,どれのことなのでしょうか?」
「けっしてどれでもない」とぼくは言った,「まさにそのことが,ぼくの不満とするところなのだ。現在行なわれている国制のうち,どれひとつとして哲学的素質に値するものはないという,そのことがね。だからこそまた,そのような素質はねじ曲げられ,変質させられることにもなるのだ」(497A)

現存するさまざまの国制,というのは実はまだ『国家』では殆ど具体的に述べられていません。第四巻の最後でこれから言及しようとしたところで,別のテーマ (3つの大浪) に移ってしまいました。それは第八巻まで待たねばならないことになります。いずれにせよ,それらは不適合だと。

「そこで君はつぎに,それならその最善の国制とは何かとたずねるだろうことは,よくわかっている」
「わかってはいませんよ」と彼は言った,「わたしがたずねようとしていたのは,そういうかたちの質問ではなくて,いったいその国制とは,われわれがこれまで国を建設しながら語ってきた国制と同じものなのか,それとも違うのか,ということです」(497C)

微妙に反抗的な態度を取るアデイマントスが印象的です(笑)。まあいずれにしても,これまで対話のテーマだった国家の国制ではどうなのか,という話になるのは流れとしては必定です。

「ぼくは熱意のあまり,大胆にも,こう言おうとしているのだよ―国家がこの哲学という仕事を扱う仕方は,現状とまったく反対でなければならない,とね」
「どのような意味で,でしょうか?」
「現状では」とぼくは言った,「哲学を手がける者があるとすれば,そういう人たちは,やっと子供から若者になったばかりのころ,家を持って生計を立てるようになるまでのあいだに,哲学の最も困難な部分に近づいてみたうえで離れ去ってしまう。そんな連中が,いちばんよく哲学を学んだ人たちと見なされてしまうようなありさまなのだ。最も困難な部分というのは,論理的な議論にかかわる部分のことだがね。―そしてそれから以降は,もし招かれてほかの人々のそういう議論の聴き手になることを承諾でもすれば,それで大したことをしたつもりになっている。哲学的な議論などは,片手間のこととしてなすべきだと思っているわけだからね。最後に,老年になると,ほんの少数の例外をのぞいて,彼らの内なる火はすっかり消えてしまう。もう二度と点火されることがないだけ,ヘラクレイトスの太陽よりもずっと完全にね」
「では,本来はどのようにすべきなのでしょうか?」と彼は言った。
「まったく正反対のやり方でなければならない。若者や子供のころには,若い年ごろにはふさわしい教養と哲学を手がけるべきだし,身体が成長して大人になりつつあるあいだは,身体のことにとくによく配慮して,哲学に奉仕するだけの基礎をつくらなければならない。年齢が長じて,魂の発育が完成期に入りはじめたならば,こんどは,そのほうの知的訓練を強化すべきである。そして,やがて体力が衰えて,政治や兵役の義務から解放されたならば,そのときこそはじめて,聖域に草食む羊たちのように自由の身となり,片手間の慰みごとをのぞいては他の一切を投げ打って,哲学に専心しなければならない。そうしてこそ人は幸せに生きることになる,死んでのちはあの世において,自分の生きてきた生のうえに,それにふさわしい運命をつけ加えることになるだろう」(497E)

『ゴルギアス』でのカリクレスは,確か大人になっても哲学を行なっているような人間はぶん殴ってやりたいみたいなことを言っていましたが(笑),ここではソクラテスに,歳をとるほど哲学に専心しないといけないと言わせています。
前半で,「哲学の最も困難な部分というのは,論理的な議論にかかわる部分」と言っていますが,勿論プラトンにとっての哲学は,真実を愛し,イデアを追求することなので,哲学とは何かということについてのギャップがあったということなのでしょう。

「われわれとしては,このトラシュマコスをも,その他の者たちをも説得してしまうまでは,あるいは少なくとも,この人たちが次の世に生まれかわって,いまと同じような議論をすることになったときのために,何ほどか役に立つことをしてやるまでは,けっして努力をゆるめないだろう」
「次の世とはまた」と彼は言った,「少しばかり先のことをおっしゃるものですね!」
「いやいや」とぼくは答えた,「それまでの時間などは無に等しいようなものだ―全永劫の時間を前にしてはね」(498D)

プラトン (ソクラテス) の時間に対する卓見を表す場所だと思います。

「こういった事情があればこそ」とぼくは言った,「またそれを予測したからこそ,われわれはあのとき,恐れながらも真実に強制されて,次のように言ったのだ―
さっき言ったような哲学者たちが,つまり,今日役立たずと呼ばれてはいるが,けっして碌でなしではないところの数少ない哲学者たちが,何らかのめぐり合せにより,欲すると欲しないとにかかわらず国のことを配慮するように強制され,国のほうも彼らの言うことを従順に聞くように強制されるのでなければ,あるいは,現に権力の座にある人々なり王位にある人々なりの息子,ないしはその当人が,何らかの神の霊感を受けて,真実の哲学への真実の恋情に取りつかれるのでなければ,それまでは国家も,国制も,さらには一個人も同様に,けっして完全な状態に達することはないだろう,と。
いま言った二つの条件のうち,どちらか一方,もしくは両方ともが,実際には実現不可能であると考える根拠はまったくない,とぼくは主張したい。もしそうなら,われわれは,たんなるむなしい祈りにしかすぎないような説をなす者として,正当に嘲笑されてしかるべきだろうからね。そうではあるまいか?」(499B)

「こういった事情」というのは,ここまで述べられたような哲学的な素質を持った人による支配や討論などを見たり聞いたりしたことがある人は殆どいない,というようなことですが,確かに何事もそういう理想というか,可能性を知らない,もしくは実現不可能と考えていると,といざチャンスがあったとしても活かせないような気がします。つまりプラトン (ソクラテス) は,確率的に「哲人王」が出現する可能性はあるはずだがそもそもそういう可能性が活かされていないわけだと見ているように思いました。

「ねえ,君」とぼくは言った,「大衆というものをそう無下に悪く言うものではないよ。彼らにしても,君が彼らと争うつもりでなく,穏やかに言い聞かせる気持で,学問愛好に対する偏見を解いてやり,君の言う<哲学者>とはどういう人々のことかを教えてやるならば,そして,彼ら自信が考えているような連中のことを君が言っているのだと思われないために,哲学者たちの自然的素質やその仕事のことを,さっきのようなやり方でちゃんと規定してやるならば,きっと意見を変えることだろう。それとも君は,たとえ彼らが君の説明どおりの見方をするとしても,違った意見をもち,違った答をするようにはならないと,言うつもりかね?いったい,誰にせよ,自分自身が悪意のない穏やかな者でありながら,怒ってもいない者に対して怒ったり,悪意のない者に対して悪意をもったりすると思うかね?」(499E)

基本的にプラトンが大衆のことをいつも悪く言っているじゃないかという気もしますが(笑),まあ彼らは誤解しているだけだと。

「ではまさにこの点についても,君は同じ考えだろうか?ほかでもない,多くの人々が哲学に対してきつく当ることのそもそもの責任は,その柄でもないのによそから入りこんできた,あの騒々しい連中にあるということだ。彼らは,お互いに罵り合い,喧嘩腰であって,いつも世間の人間たちのことばかり論じるという,およそ哲学には最もふさわしからぬことをしている」
「まったくです」と彼。(500B)

「あの騒々しい連中」とは勿論ソフィストを指すと考えられます。
ふと思ったのですが,プラトンは「ソフィスト」についてもイデア的なものを考えていたのかもしれません。「一部の若者たちがソフィストから害毒を受けている(が)…実際には,そういうことを言っている人々自身が最大のソフィストであって…」(492A) と前に言っていますが,つまり善のイデアと同様に,ソフィストのイデアというものがあって,ソフィストたち自身よりもそういう言動をさせているそのものを憎んでいたのかもしれません。

「彼らはその仕事にあたって」とぼくは言った,「いわば画布に相当するものとして,国家と,人間たちの品性とを受け取ったうえで,まず第一に,その画布の汚れを拭い去って浄らかにするだろう。これがそもそも,容易ならぬ仕事なのだ。だがいずれにせよ,君も知るように,彼らはすでにまずこの点において,他の者たちとは違うと言うべきだろう。すなわち,相手が一個人にせよ,国全体にせよ,これを清浄な状態で受け取るか,あるいは自分自身で清浄にするか,どちらかでなければ,それまではけっして手を着けようとせず,法を起草しようともしないという点においてね」(501A)

この辺りは,哲学者が,自己自身のように国全体をどう形作るかという話になっています。いわゆる「ゼロベースで」という感じなのでしょうか。

「さあ,これでわれわれは」とぼくは言った,「われわれを目がけてはげしい勢いで押し寄せてくると君が言っていた連中を,何とか説得することができるだろうか?彼らは,そんなやつに国を委ねるのかと怒ったが,あのときわれわれが彼らに推奨したのは,実はこのようにして国家のあり方を描く画家なのだ,と言ってね。どうだろう,彼らはいま,このことを聞いて,いくらか穏やかになってくれるだろうか?」
「いくらかどころか」と彼は言った,「ずっと穏やかになるでしょう。聞きわけがありさえすれば」
「じっさい,彼らにしても,どの点に異論を申し立てることができるだろう?哲学者とは,実在と真理を愛する者ではないとでも言うのだろうか?」(501C)

現実には全然穏やかになってくれないと思いますが(笑)。実在と真理を愛する者ばかりだといいんですけどね。前々から書いてますが,現代では物理的・経済的な利益を幸福であると考えがちだと思われます。そのために実在と真理をねじ曲げることを厭わない人も多いでしょう。見方によっては,ソクラテス流の対話によってそれを変えることができると信じているのがソクラテスであって,前向きだなあといつも思うようなところです。
また,くだんの連中も,「実際に自分が行なうのではなく,そういう考えの方が優れている」ということならば同意してくれるかもしれませんが…。

「ではどうだろう―そのような自然的素質が自分にぴったりと適合した仕事を与えられたとき,いやしくも何らかの素質がそうなるとすれば,まさにこのような自然的素質こそは,すぐれた性格,哲学的な性格として完成されるだろうということ,このことを否定するのだろうか?それとも,われわれが排除したような人たちのほうが,むしろそうなるなどと主張するだろうか?」
「むろん,そんなはずはありません」
「とすれば,哲学者の種族が国の支配者となるまでは,国家にとっても,国民にとっても,禍いのやむときはないだろうし,われわれが言葉によって物語っている国制が事実において完成されることもないだろう,とわれわれが言うのに対して,彼らは,なおも怒りつづけるだろうか?」(501D)

ということで,哲学者が支配者になることが,今までの国制を実現するための必要条件である,と「哲人王」と同じことが繰り返されます。

「さあそれでは」とぼくはつづけた,「彼らのほうは,この点をすっかり納得してくれたものとしよう。ところで,王位や権力の座にある人々の子供に,哲学的な素質を持った者がたまたま生まれてくるという可能性はないと言って,その点で異論を申し立てる人が誰かいるだろうか?」
「一人もいるはずがありません」と彼は言った。
「では,そういう素質に恵まれた者が生まれたとしても,どっちみち必ず堕落してしまう,と言い切ることが誰かにできるだろうか?」(502A)

今度は既に支配者になるべき人が哲学者になるというパターンについての問いで,これは No という答えが当然直後に言われます。
前に「確率的」ということを述べましたが,ここでも何となく確率的な意味を感じられます。普通は堕落するが中にはたまたま堕落しないような人もいると。
確率的,というのは言い換えれば生物学的,科学的であり,哲学の立場からすれば神の領域でもあると思います。そういうところが,プラトン対話篇で神話が多く出てくることと繋がってくるのかもしれないとふと思いました。

「そうするとどうやら,この立法の問題についていまわれわれに結論できることは,われわれの案は,もし実現できれば最善のものである,しかるにその実現は,困難ではあるけれどもけっして不可能ではないと,こういうことになるようだ」(502C)

「それでは,この点はやっとこれで片がついたわけだから,つぎに,残された問題を論じなければならない。それは,こういう問題だった。―われわれの国制の守り手となるべき者たちは,どのようなやり方で得られ,何を学び何を業とすることによって育成されるか,また,それぞれ何歳ぐらいのときに,それぞれの学問にたずさわったらよいか」(502C)

ということで,哲学者による支配というテーマが一段落ついたところで,ここからは本格的に「善のイデア」とは何かということを探求していくことになりますが,キリがいいのでここで一旦終ります。続きはメモ(3)に。