プラトン『国家』第三巻メモ(3)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第三巻を読んだときのメモ第3弾。
メモ(2)で終わる予定だったのですが,長くなってしまったので (3) まで伸ばしました。(2) の続きで,どういった人が支配者になるべきか,ということが論じられ,最後にソクラテスが「支配者となるべき人間は,生まれた時に身体に金が埋め込まれている」といったような面白い話をします。
前置きはそこそこにして,以下読書時のメモです。

「よろしい」とぼくは言った,「ではこのつぎには,何をわれわれは規定しなければならないだろうか?それは,こうして育てられたほかならぬその国民たちのうちで,どのような人々が支配者となり,どのような人々が支配される者となるべきか,という点ではないだろうか?」
「ええ,疑いもなく」
「それではまず,支配者となるのは年長の人々であり,支配されるのはより若い人々でなければならぬこと,これは明らかだね」
「明らかです」
「そして,年長者のうちでも最もすぐれた人々が支配すべきことも?」
「それも明らかです」(412B)

今度はどのような人が支配者になるべきか,という話に移ります。
「えっ支配者は年長じゃないといけないの?」とまず思ってしまいます。まあ今まで論じられてきた教育内容を等しく受けてきた支配者候補の中から,という条件付きであれば,ということでしょうけど。

「では何を最も愛するかといえば,それは,そのものにとっても自分にとっても同じ事柄が利益となり,そのものが幸福であれば自分も幸福となり,そうでなければ逆の結果となると考えるようなものだ」
「そのとおりです」と彼は答えた。
「してみると,われわれは一般の守護者たちのなかから,まさにそのような人々を選び出さなければならないことになる。すなわち,われわれが観察してみて, 全生涯にわたり,国家の利益考えることは全力をあげてこれを行なう熱意を示し,そうでないことは金輪際しようとしない気持が見てとれるような者たちをね」 (412D)

この辺りの言葉は後のほうにもつながってくる内容だと思います。つまり「そのものが幸福であれば自分も幸福となり…」というのは,別の言い方をすればそのものの幸福のためには自分自身の幸福を捨てることもある,ということになると思います。という,ここでは必要性だけを述べていますが,後に十分性 (つまり自分の幸福→そのものの幸福) も示されます (第4巻)。

「それでは,ついさっきもぼくが言っていたよ うに,誰と誰が自己の信念の―すなわち,それぞれの場合に,国家にとって最善であると思う事柄を行なわなければならぬという信念の―最もすぐれた守護者で あるかをたずね求めなければならない。そこでわれわれは,彼らを早く子供のころから観察するために,最もそのような考えを忘れてしまいそうな,また欺かれ て考えを変えてしまいそうなさまざまの事柄を,彼らに課さなければならないし,そしてそのなかにあってよく記憶を確保する者,欺かれて考えを変えることの ない者を選び出し,そうでない者は名簿からはずさなければならない。―そうだね?」
「ええ」
「またさらに,さまざまの労苦や苦痛や競争を彼らに課して,そのなかで,そうした同じ観察をしなければならない」(413C)

これは子供に対する一種のストレステストですね。次の一節もさらに内容に踏み込みます。

「そ れからまた」とぼくは言った,「<たぶらかし>という第三の種類のものに対しても試練を彼らに与えて,よく見守らなければならない。ちょうど 若駒を騒々しい物音や叫び声のするところへ連れて行って,恐がりかどうかをしらべるように,この人たちを若いうちに何か恐怖をよぶような状況のなかに連れ て行き,それからこんどは快楽のなかへとおきかえて,金を火のなかで試すよりもはるかにきびしく試しながら,よく観察しなければならないのだ―すべての状 況においてその人が,たぶらかしに対する抵抗力と端然とした品位を示すかどうか,自己自身を守り,自分が学んだ教養 (音楽・文芸) を守るすぐれた守護者として,自分が身につけたよきリズムとよき調和をそれらすべての状況のなかで保持し,かくて自己自身にとっても国家にとっても,最も 有用有為の人物でありうるかどうかを。そしてわれわれは,こうして子供のときにも,青年のときにも,成人してからも,たえず試練を受けながら無傷のまま通 過する者を,国家の支配者として,また守護者として任命し,その人の生前にも,また死後も埋葬の儀式やその他彼を記念する数々のものによる最高の贈物を与 えて,これに名誉を授けなければならない。しかし他方,そうでない者は排除しなければならないのだ。
以上のようなことが,グラウコン,国の支配者・守護者を選択し任命するやり方であると,ぼくには思われる。細かい点に立ち入ることなく,輪郭だけを示すとすればね」(413D)

子供の時だけではなく,成人してもたえず試練を与えるべきと言われます。さっ きの裁判官の例(メモ(2))からすると,この試練を与えること自体が不正と親しむことになって将来の裁判官の資格を失うのではないか,と思わなくもないのですが。それ はともかく,常に自分自身のテストを課されるということ自体は必要なことのようにも思います。でも大人になるとそういう試練を受ける という機会はなかなかありません。会社等に忠誠を尽くしているかということは,常に見られているのかもしれませんが。
あとは,現代でいえば,政治家にこういうストレステストのようなものを課すことも必要なのかもしれません。国家の支配者に当たる人ですし。それが選挙なのではと言われれば,形の上ではそうなのかもしれません…。

「― こうして,君たちこの国にいる者のすべては兄弟どうしなのだが―とわれわれは物語をつづけて,彼らに向かって言うだろう―,しかし神は君たちを形づくるに あたって,君たちのうち支配者として統治する能力のある者には,誕生に際して,金を混ぜ与えたのであって,それゆえにこの者たちは,最も尊重されるべき 人々なのである。またこれを助ける補助者としての能力ある者たちには銀を混ぜ,農夫やその他の職人たちには鉄と銅を混ぜ与えた。
こうして君たちのすべては互いに同族の間柄であるから,君たちは君たち自身に似た資質の子供を生むのが普通ではあろうけれども,しかし時には,金の親から 銀の子供が生まれたり,銀の親から金の子供が生まれたり,その他すべて同様にして,お互いどうしから生まれてくることがあるだろう。
そこで,国を支配する者たちに神が告げた第一の最も重要な命令は,次のことなのである。
―彼らがすぐれた守護者となって他の何にもまして見守らなければならぬもの,他の何よりも注意ぶかく見張らなければならぬのは,これら子供たちのこと,す なわち,子供たちの魂の中にこれらの金属のどれが混ぜ与えられているか,ということである。そして,もし自分自身の子供として銅や鉄の混ぜ与えられた者が 生まれたならば,いささかも不憫に思うことなく,その生まれつきに適した地位を与えて,これを職人や農夫たちから,金あるいは銀の混ぜ与えられた子供が生 まれたならば,これを尊重して昇進させ,それぞれを守護者と補助者の地位につけなければならぬ。そのようにすることこそ,『鉄や銅の人間が一国の守護者と なるときその国は滅びる』という信託を守るゆえんなのだ,と。
―さあ,こういう物語なのだが,これを何とか彼らに信じてもらうためのてだてを,君は知っているかね?」(415A)

これは,身分にとらわれずに実際の資質で評価すべしという割と進んだ考え方のように思えます。尤も,生まれた時に金や銀が身体に埋め込まれているということは,資質は生まれた時点で決まっているもので教育や努力では変えられないという解釈をすべきなのかもしれません (でもそうだとしたら今までの内容があまり意味がないので,僕はそうは思いませんでした)。ソクラテスはかなりためらいながらこの作り話?をしているところからすると,当時の常識ではあまり考えられなかったことなのかもしれません。
で も考えてみれば当たり前というか,これまでソクラテスが話してきた支配者の条件に,その人の親がどんな身分であるかといったことが介在する余地はありませ ん。と同時に,親が優れた人物であれば子に優れた教育を施して,結果として子が優れた人物になる,という傾向も当然あると思います。この辺りは『プロタゴラス』等別の対話篇でも論じられてきたところですが,そういうこともひっくるめてそれでも子の資質を見極めるのが親の責務ということでしょうか。
ということでソクラテスとしては当然なのでしょうが,他方で現代でも,そんなに素質がなさそうなのに親が政治家とか社長だからと,子にも同じ道を歩ませる例は結構あると思います。善い悪いは別にして,そうしたいのが親心として当然なのは,当時も今も同じなのでしょう。

「ではひとつ,見てくれたまえ」とぼくは言った,「そのような人間であるべきだとすれば,彼らは何か次のような仕方で生活し居住しなければならないのではないだろうか。
まず第一に,彼らのうちの誰も,万やむをえないものをのぞいて,私有財産というものをいっさい所有してはならないこと。
つぎに,入りたいと思う者が誰でも入って行けないような住居や宝蔵は,いっさい持ってはならないこと。
暮しの糧は,節度ある勇敢な戦士が必要とするだけの分量を取り決めておいて,他の国民から守護の任務への報酬として,ちょうど一年間の暮しに過不足のない分だけを受け取るべきこと。
ちょうど戦地の兵士たちのように,共同食事に通って共同生活をすること。
金や銀については,彼らに次のように告げなければならない。―彼らはその魂の中に,神々から与えられた神的な金銀をつねにもっているのであるから,このう え人間世界のそれを何ら必要としないし,それに,神的な金銀の所有をこの世の金銀の所有によって混ぜ汚すのは神意にもとることである。なぜなら,数多くの 不敬虔な罪が,多くの人々の間に流通している貨幣をめぐってなされてきたのであり,これに対して彼らがもっている金銀は,純粋で汚れなきものだからであ る。いや,国民のうちでただ彼らだけは,金や銀を取り扱い触れることを許されないし,また金銀をかくまっている同じ屋根の下に入ることも,それを身に着け ることも,金や銀の器から飲むことも,禁じられなければならない。」(416E)

ここは結構凄いことが述べられ ていると思います。国を守護するものは,私有財産を持っちゃいけないし,住居もなく共同生活をしなくちゃいけないし,金銭による報酬もない…。多くの人が, 「そんな報われない仕事を誰がするの?」と思うのではないかと思います。僕も思いました,それでその人に生きる喜び,幸福というものが訪れるのかと。
これについては,第4章の冒頭でアデイマントスが同様の疑問をソクラテスに投げかけるのでお楽しみに。

「こ のようにしてこそ彼らは,彼ら自身も救われるだろうし,国を救うこともできるであろう。けれども,彼らがみずから私有の土地や,家屋や,貨幣を所有するよ うになるときは,彼らは国の守護者であることをやめて,他の国民たちの敵としての主人となり,かくて憎み憎まれ,謀り謀られながら,全生涯を送ることにな るであろう―外からの敵よりもずっと多くの国内の敵を,ずっとつよく恐れながら。そうなったとき,彼ら自身も他の国民も,すでに滅びの寸前までひた走って いるのだ。」(417A)

ということで,第3章は以上です。第4章は,章は変わりますが第3章の話題の続きから始まります。

プラトン『国家』第三巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第三巻を読んだときのメモ第2弾。

「では音楽・文芸の次には,若者たちは体育によって育てられなければならない」(403C)

ということで,メモ第1弾で,どういった叙述の仕方や音楽のリズム等を教えるべきかという「音楽・文芸」が論じられたことを見ましたが,その続きとして次は体育等について述べられます。
食べ物は素朴なものがよいとか,体育とは体を鍛えることが目的ではなく実は魂のためであるといったこと,また,「ぼくがためらうのもはなはだ無理からぬこと」として,人は生まれたときに金や銀や銅や鉄が混ぜ込まれておりそれに応じた地位につかなければならない,というような作り話?がソクラテスから語られたりします (→長くなったのでこの作り話はメモ(3)で述べます)。

メモ第1弾ではやや退屈というようなことも述べましたが,本メモの対象である第三巻の後半は,面白いと思います。割とストイックな感じというか,プラトン的というところを僕に感じさせるからでしょうか。

なお一応断っておきますが,『国家』については全集で読むのは諦めました…。図書館で借りてもすぐ期限が切れてしまうし,重くて持ち歩くのが大変ですし。ということで,岩波文庫版をこれ以降は使うことにします。訳者も同じで,本文については今まで違いを見つけたことがありません (ただ違うところは違うと思います;文庫版のほうが新しいです)。

以下は本文を読んだときのメモです。

「そうすると最善の体育は,われわれが少し前に述べた単純な音楽・文芸の,姉妹のようなものだということになるね?」
「どういう意味でしょうか?」
「すぐれた体育,とくに戦士たちのためのそれは,単純素朴なものだろうということだ」
「どういうふうにでしょう?」
「こうしたことなら,ホメロスからも学ぶことができるだろう」とぼくは言った,「というのは,君も知っているように,彼は陣中での英雄たちの宴会において,彼らに魚をふるまっていない。それも,場所はヘレスポントスの海岸だというのに。また肉も煮たのは出さないで,焼いたのだけをふるまっている。たしかに兵士たちには,それがいちばん簡単に用意できるものだろう。どんなところでも,じかに火だけを使うほうが,鍋釜を持ちまわるよりも簡単だといってよいからね」
「ええ,たしかに」
「またたしか,香辛料のことも,ホメロスは一度も語っていなかったと思う。もっともこのことなら,他の一般の競技者たちにしても,身体を良好な状態にしようとするなら,そのようなものはすべて避けなければならないことを知っているのではないかね?」(404B)

まず守護者の食べ物について語られますが,なんというか結局,音楽や文芸と同じように,単純素朴なものがよいということが言われます。まあ実際,体力をつけるとか健康に気をつけるということを考えた場合には,おいしいということは関係ないということでしょう。逆説的 (対偶的) に考えると,おいしいものを選り好みする人は守護者にふさわしくない,ということになります。
なお,全般に言えることですが,「守護者」という言葉は,文字通り国を外的から守る役割の人間の意味で言われるとともに,上に立つ者というような意味でも語られているように思えます。ここでも,勿論体力を考えた場合においしいかどうかは二の次だと言われているとともに,もっと広い意味で,国のために責任を持つ者は私欲を捨てよということも背後に感じられます。冒頭で書いた「ストイックさを感じさせる」というのはこの辺に原因があるのかもしれません。

「すると,先の場合には,多様さは放埓を生むということだったが,ここではそれは病気を生むのであり,他方単純さは,音楽においては魂の内に節度を生み,体育においては身体の内に健康を生む,ということになるのではないかね?」
「完全におっしゃるとおりです」と彼は答えた。
「そして,一国に放埓と病気がはびこるときは,数多くの裁判所と医療所が開かれ,法廷技術と医療技術とが幅をきかすことになるだろうね―自由人ですら大ぜいの人たちが,ひどくそうした事柄について真剣な関心を寄せるような状況では」(404E)

御意…。これに追い打ちをかけるソクラテスの辛辣な言葉は次に続きます。

「しかし,一般の名もない人たちや手職人たちばかりか,自由教育を身につけたと称する人たちまでもが,最高の腕をもつ医者や裁判官を必要としているということ,―いったい,一国における教育が悪しき恥ずべき状態にあることを告げる証拠として,これよりももっと大きなものを何か君は見出すことができるかね?そもそも君には,自分が用いるべき正義を他の人々から借り入れざるをえず,そういう他人をみずからの主人・判定者となし,自分自身の内には訴えるべき正義を何ももたないという状態が,恥ずべきことであり,無教育の大きな証拠だとは思えないかね?」
「それはもう,何よりも恥ずべきことだと思います」と彼は答えた。
「次の場合よりも,もっと恥ずべきだと思うというのかね?」とぼくは言った,「すなわちそれは,生涯の大部分を法廷で訴えたり訴えられたりしながら費やすだけではなく,低俗な好みのために,まさにそうすること自体を得意がるような考えを植えつけられている場合だ。自分は不正を犯すことにかけては腕ききで,あらゆる仕方で身をかわし,あらゆる抜け道を通り抜けて,身をしなわせながら罰を受けないように逃れるだけの腕をもっているのだ,とね。それも,些細でまったくつまらない事柄のためにだよ。それというのもほかではない,そういう人は,自分自身の生涯を,居眠りしている裁判官など少しも必要としないようなものにするほうが,どれだけ美しく善いことであるかということを知らないからなのだが」
「いいえ,そのほうが先の場合よりも,さらに恥ずべきことです」と彼は言った。(405A)

前半では「自由教育を身につけたと称する人たちまでもが,最高の腕をもつ医者や裁判官を必要としているということ」「自分が用いるべき正義を他の人々から借り入れざるをえず,そういう他人をみずからの主人・判定者となし,自分自身の内には訴えるべき正義を何ももたないという状態」が「恥ずべきこと」で無教育の証拠であると言われます。
後半は,『ゴルギアス』で話題になった弁論家を思い浮かべます。真実かどうかではなく,真実らしさによっていかようにも相手を説得する (迎合する,と『ゴルギアス』では言われた) と。
その時も思ったことですが,ここでも「恥ずべきこと」という非難がなされているわけですがそれよりも経済的・物質的なものを優先すれば,現実にはなかなか聞き入れられないという人もいるだろうと思います。極端にいえば多少体調が悪くなろうともおいしいものを沢山食べて酒も飲んで,金に余裕もあるので後で薬を飲んだり医者に見てもらったりして治せばよい,というのもトレードオフと言ってしまえば理に適った選択肢かもしれません。しかしプラトンを読む人間としては,ソクラテスの言う「恥ずべきこと」という最大限の非難を重く受け止める人間でありたいものです。

「たとえば大工ならば」とぼくは言った,「病気になると医者に頼んで,薬を飲んで病気を吐き出してしまうなり,あるいは下剤をかけたり焼いたり切ったりしてもらって,病気からすっかり解放されることを求める。けれども,もし長期の療養を命じられて,頭に布切れを巻いたり,それに類したことをいろいろされるようなことがあれば,彼はただちに言うのだ,―自分には病気などしている暇はないし,それに,病気のことに注意を向けて,課せられた仕事をなおざりにしながら生きていても何の甲斐もないのだ,と。そしてその後は,そのような医者には別れを告げて,いつもの生活へと立ちかえり,健康を回復して,自分の仕事を果しながら生きて行く。またもし彼の身体がそれに堪えるだけの力がなければ,死んで面倒から解放されるのだ」(406D)

病気が直る見込みがなければ,「死んで面倒から解放される」というのはちょっと過激ですが,案外こういう考え方の人は多いのかもしれません。よく「死ぬならポックリ死にたい」というようなことは聞きます。先達の方々の思いが簡単に理解できるわけはありませんが,確かにただ生きるためだけに療養をするというのは,何も自分の責務を果すことができず,周りに面倒もかけ,生き恥をさらすだけだ,という思いがあるとしたら理解できます。最近聞きませんが安楽死 (尊厳死) 問題というのもあります。
ただ,次の言葉にも注意する必要があります。

「しかるに他方,金持は,―とわれわれは言う―それから遠ざけられなければならない場合には生きる甲斐がないといったような,そういう仕事を何ひとつ課せられてもってはいない」(407A)

実際には,今の世の中ではかなり多くの人が,というか少なくとも日本ではほぼ全員が,プラトンの言う「金持」なのかもしれません。社会保険などの福祉もあるし,本当に死と天秤をかけて働かなけれならないという人は殆どいないような気もします。そういう意味では,先ほど述べたようなポックリ死にたいというのは,そこまで覚悟が必要なわけではなく,ある意味贅沢なことを言っているかもしれません。

「それでは,われわれは次のように主張すべきではないだろうか?―すなわち,アスクレピオスもまた,まさにこれらのことを知っていたからこそ,生まれつき生活法によって健康な身体をもちながら局部的な病気にかかった人々,そういう人々とそういう身体の状態のためには医術を教え示し,薬や切開によってそういう人々から病気を追い出して,市民としての仕事をそこなわないようにと,ふだんと同じ生活法を命じたけれども,しかし他方,内部のすみずみまで完全に病んでいる身体に対しては,養生によって少しずつ排泄させたり注入したりしながら,惨めな人生をいたずらに長引かせようとは試みなかったし,また,きっと同じように病弱に違いない彼らの子供を生ませなかったのである,と。そしてむしろ,定められた生活の課程に従って生きて行くことのできない者は,当人自身のためにも国のためにも役に立たない者とみなして,治療を施してやる必要はないと考えたのである,と」
「アスクレピオスも,ずいぶんと国家社会のことに気をつかう人物だったことになりますね」と彼は言った。(407C)

これは,現代でいえばかなり受け入れられない説でしょう。個人の選択として治療を受けない自由はあっても,医者の側であえて治療を施さないことは今の日本では許されないと思われます。
そこを考えると,グラウコンの言う「国家社会のことに気をつかう人物だった」というのも成程と思えなくはありません。どんなに堕落したひどい生き方をして身体を壊しても,今の日本では医療費は社会保険でまかなわれます。

「そうした点は,まさにおっしゃるとおりです」と彼は言った,「しかし,次の点についてのあなたのご意見はいかかでしょうか,ソクラテス。―そもそもわれわれは,国のなかにすぐれた医者を所有しなければならないのではありませんか?そして,すぐれた医者とはほかでもない,健康な人をも病人をも,どちらもできるだけ数多く扱ったことのある医者こそが,とりわけそうであるはずでしょう。その点は裁判官にしても同じことで,ありとあらゆる性質の人間と接した人々が,すぐれた裁判官となるはずです」(408C)

ここで話題の転換があり,グラウコンは,健康から病人まで,色んな患者を扱ったことがあるほうがすぐれた医者のはずだと言い,裁判官も同じだろうと言います。これに対してソクラテスは,医者については確かにそうかもしれないが,裁判官は違うと言い,以下のように述べます。

「しかしながら,裁判官の場合は,君,魂によって魂を支配するのが仕事なのであって,だから彼の魂には,若いときから邪悪な魂のあいだで育てられてこれと親しくつき合い,みずからあらゆる不正を犯す経験をつみ,その結果他人の不正事を,ちょうど身体の場合に病気を診断するような具合に,自分自身のことにもとづいて鋭く推察できるようになる,というようなことは許されないのだ。逆に,裁判官の魂は,やがて美しくすぐれた魂となって,正義を健全に判定すべきであるならば,若いときは悪い品性には無経験で,それに染まないようにしていなければならない。だからこそまた,立派な人物たちは,若いときにはお人好しで,不正な人々にすぐだまされやすい人間のように見えるのだ。なにぶんにも自分自身の内に,邪悪な人々と同性質の範型をもっていないのだから」
「じっさいまた」と彼は言った,「彼らはとくに,よくそういう目にあうものです」(408E)

裁判官は,魂については無菌状態で成長しなければならない,といった感じでしょうか。
この部分は,裁判員制度を思い起こしました。プラトンの言っていることが本当なら,裁判官というのはすぐれた魂の持ち主で,不正を判断するのに最も適していることになり,そこに素人の裁判員を招き入れる必然性はありません。
でも裁判員制度というのが導入された背景というのは恐らくそもそも逆に,頭の固い (というと語弊があるかもしれませんが) 裁判官だけでは時代の変化や庶民感覚がなく,国民の感覚とずれるからだということがあるのではないかと思います。
私の実感としては,今の日本の裁判官というのがプラトンが言うような神聖な人間であるとは想像できないし,多分実際そうではないでしょう(笑)。裁判官といっても神に選ばれるわけでもなく,試験に合格してなるものであるとすれば,プラトンの言うような素質を持っている人間だけが裁判官になるというのは,ありえないことで,寧ろ「試験に合格すること」というのはある意味では迎合的なものであって悪しき魂の持ち主が裁判官になることを防ぐことはできないでしょう。

「さだめし,この上なく気だかい品性の持ち主であることでしょうね」と彼は言った,「そのような裁判官なら」
「そしてすぐれた裁判官でもあるのだよ」とぼくは言った,「君の質問の眼目であったところのね。なぜなら,すぐれた魂をもつ人は,すぐれた人間なのだから。これに対して,あの腕の立つ猜疑心のつよい人,自分自身が多くの不正をはたらいてきて,何でもやってのける賢い人間のつもりでいる人は,たしかに自分と似た者たちを相手にするときは,自分の内にある範型に照らして抜け目なく警戒するので,有能に見えるだろう。ところが,ひとたび善良で自分より年長の人たちと接触するときが来ると,見当違いの疑いをかけ,健全な品性というものがわからないので,こんどは逆に愚か者に見えることになる。なにぶんにも自分では,そういう品性の範型を持ち合わせていないのでね。ただ,すぐれた善い人間よりも劣悪な人間に出会う機会のほうが多いため,自分にも他人にも,どちらかといえば無知であるよりも賢い男だと思われているだけなのだ」
「それは完全におっしゃるとおりです」と彼は答えた。(409C)

ソクラテスの言葉の後半に出てくるような人は確かにいます。どんなに偉くてもいわゆる「小者」というのはいます。

「それでは君は,そのような裁判官のあり方とともに,われわれが先に述べたような医術のあり方をも合わせて,これを法として君の国に制定することになるだろうね。これら両者は,君の国民のなかで,身体と魂の両面においてすぐれた素質をもつ者たちの面倒をみるであろうが,そうでない者については,身体の面で不健全な人々は死んで行くにまかせるだろうし,魂の面で邪悪に生まれつき,しかも治癒の見込みがない者たちはこれをみずから死刑に処するだろう」(409E)

いやー身体が悪い人をみずから死なせることを法にするのは厳しいのでは…?と思わずにはいられません。まあでも2,400年前で,今のような飽食で医療の進んだ時代とは違っていたのだろうとは思います。

「そもそも,グラウコン」とぼくは言った,「音楽・文芸と体育による教育ということを設定した人々も,ある人たちがそう思っているように,一方によって身体を世話し,他方によって魂を世話するという,そういう目的をもって設定したのではないのではあるまいか?」
「ではいったいどうだとおっしゃるのですか?」と彼はたずねた。
「おそらくは」とぼくは答えた,「両方とも魂のことを最も重要な目的として設定したのだろう」(410C)

体育をするのも魂のためである,ということが言われます。これは簡単にいえば,体育とは気概的な素質を高めるというようなことです。
僕も何となく週1回ジョギングをすることが習慣になっていますが,そう言われると,こういう面もあるようには思います。体力も勿論重要ですが,ちょっとしたことで「だるい」とか「面倒くさい」とか思わないためには多少運動して自分を追い込むことも必要だと思います。

「わかりました」と彼は言った,「ただもっぱら体育だけを事としてきた人たちは,しかるべき限度以上に粗暴な人間になる結果となるし,他方逆に,ただもっぱら音楽・文芸だけを事としてきた人たちは,彼らにとって望ましい以上に柔弱になってしまうということですね」(410D)

前述のソクラテスの論の分かりやすい帰結として語られます。これは実感としては,帰納的に正しいように感じられます (勿論例外もあるとは思いますが)。

「しかるにわれわれは,国の守護に当る者たちはいま挙げた二つの素質を,両方とももっていなければならないと主張する」
「そうでなければなりませんとも」
「それらは互いに調和していなければならないね?」
「もちろん」
「そしてそのように調和している人の魂は,節度があり,また勇気があるのだね?」
「たしかに」
「他方,その調和がない人の魂は,臆病であり,また粗暴なのだね?」
「まったくそのとおりです」(410E)

ということで音楽・文芸と体育について,それらを教えることがなぜ必要なのかという答えの1つになる簡潔な言葉かなと思います。国の守護者に限らず,現代の教育に当てはめてもその通りかもしれません。

第三巻はまだ続きますが,ちょっと長くなってきたので,続きはメモ(3)に書きます。

[DIVA f]「Sweet Devil」

Project DIVA f の EXTREME モードの,Sweet Devil のパーフェクト動画です。
ちゃんと表示されない等,直接 Youtube で見る場合はこちら
他の動画はポータルをご覧ください。

後半のチャンスタイムの辺りで少しピンボケしまい,見苦しくて申し訳ありません。
この曲をプレイするために,「おおもじパック」を PS Store で購入しました。

この曲は,サビに行くまでの前半部分が難関でしょう。それに比べると,以降は楽です。
その割にちょっと出来が悪い点数になってしまいましたが…。

最初プレイした時は,目まぐるしいので訳分からん曲という印象でしたが,くり返しやっていると段々好きになってきました。

スマホユーザーたり,ガラケーユーザーたり

たまには毒にも薬にもならないような記事を。

ついに先週,スマホユーザーになりました。といっても MVNO の SIM カードを買って白ロムに挿して,という「なんちゃって」スマホで,ガラケーも継続して所持していますが。

…ということを書くつもりですが,スマホの使い勝手とか機種のレビューを書くものではありません。そんなもんまだ分かりません。それより,どういう理由でこういう持ち方になったのかということを,メモとして残したいと思います。
とはいえ一応最初に,契約したのは BIC SIM (SMS 対応) のミニマムスタートプラン (月々約 1,100 円で 500 MB まで LTE の高速通信でそれを超えると 200kbps です (超えなくても高速/低速を切り替えられて高速通信分を温存できる機能があるので便利です)) で,スマホは docomo AQUOS PHONE ZETA SH-06E (docomoSHARP)の未使用品を秋葉原で 24,800 円で購入したということを書いておきます。このスマホは割とハイスペックなのに年末から未使用品が安く出回っているということで結構気になっていました。
なお上記リンクをクリックしても私には1円も入らないので安心してください(笑)。というかこのブログ全てそうですが…。

まず,僕はずっとガラケーユーザー (docomo N-02C) だったわけですが,なぜスマホに変えていなかったのかということについて,以前 Twitter で呟いたことからいくつか引用してみます:

 

 

というようなことを過去に呟いてました。

つまり,スマホが必要かといわれればそんなに必要ではないし,かつ,スマホに「使われる」ことを恐れていたわけです。2ちゃんのまとめサイト的なものを外で見ている人について呟きましたが,これは相当な堕落だと今でも思っています。と同時に見られるのだから仕方ないとも思っています。かように人というのは道具に使われる生き物だなあと。

それと同時に,「ガラケーユーザーの生き残り」であることを密かに誇りに思っていたのかもしれません。周りがスマホだから自分もスマホにしたとはあまり思われたくないですし。また「歩きスマホ」のマナーの悪さが結構言われますが,自分はガラケーだから違うぞと(笑)。本当は僕も携帯を操作しながら歩いたりもよくしていましたが…。

あとは,通話やメールに関しては何となくガラケーのほうが信頼性が高そうというのも大きいかもしれません。やはり使い慣れているし。あと当然ですが携帯電話というのはインフラ的な側面があり,何かの時に家族と連絡が取ったりできないと困ります。そういう時に,OS が不安定でハングアップしたり,電池を消耗して使えなくなっていたりすると,必要条件が満たされません。
ただ,これについては単なる思い込みかもしれませんが。

ここまで来ると,「じゃあなんで今回スマホを?」ということになるわけですが,実際外出先で調べ物をしたいときなどに「スマホがあれば…」と思うことが結構多いのも事実です。

それと,僕はソフトウェア関連のエンジニアなのですが,「今時ガラケーとか恥ずかしいし」というシチュエーションがあったりするんですよね。例えば開発者向けのカンファレンスとかで,周りで内容を Twitter で実況したりまとめサイトを作ったりしているときに,ガラケーしかないというのは竹槍と鉄砲的な引け目があって結構残念な思いになります。それだけならいいのですが,常に最新技術にアンテナを張っているべき技術者としての姿勢を疑われても仕方ありません (これについてはスマホを持っているかどうかで判断すべきではないと思いたいですが,現実として全く否定しきることはできません)。
というか実際,講演中にスマホで資料をネットで見たりキーワードを検索したり,ツイートして講演者に質問を送ったりする (講演者も講演中に Twitter を常にチェックする) スタイルというのは,とても合理的でもあり,直観としても「正しい使い方」という感じがします。

ということで,ガラケーユーザーのままでいたいというのと,本当はスマホも持ちたいというジレンマをずっと感じていたのです。

そこで最近格安 SIM がかなり出てきていて,ガラケーを持ったままその格安 SIM を適当なスマホ機種に挿して使えば,自分の都合のいいときに,スマホユーザーにもなれるし,ガラケーユーザーとしても振舞える,というポリモルフィズムを身につけることができて,万事解決と思い至ったわけです (ポリモルフィズムというのはオブジェクト指向開発の用語で,一般的な言葉ではないかもしれません)。

ヘビーな用途もないので,今のところは問題なく使えていますが,そこから考えるとキャリア会社の月々のスマホ料金というのは高いなと思います。携帯電話の信頼性について前述しましたが,半面においてはスマホではそこまで信頼性を必要とする使い方はしたくない,とも思います。それなら格安 SIM で済ますというのは合理的です。もっとも格安 SIM といえどもドコモの MVNO なので回線自体の信頼性は変わらない (使っているキャリアによっても上がる?) かもしれませんが。

なお,自分の場合は料金の問題はそれほど大きくはありませんでした。ガラケーだけどパケホーダイに入っており,月々それなりにかかっていたからです。目的は,日本将棋連盟モバイルという,プロの将棋の対局をほぼ毎日中継するやつを見るためで,これはパケット定額契約が必須なのです。でも Android でも最近は対応しているので,今回それはやめて,もっと安くすませようかと思っています。

それと BIC SIM の特典として,Wi2 300 という公衆無線 LAN が無料で使えるサービスが付いてくるのですが,これも結構大きいです。ノートパソコンを外に持ち出した時に便利だと思いました。

それで実際にスマホに「使われている」のか?とかどんな時に便利なのかとかそういったことはもう少し時間が経ってから考えてみたいと思います。

ということで,以上。

プラトン『国家』第三巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第三巻を読んだときのメモ第1弾。

第三巻は第二巻の続きという感じで,国の守護者を育てるにはどうしたらよいのか,という話題の中で様々なことが論じられます。序盤は正直また神話の中身に関する話が続くので,退屈な展開ではあります。
「何を語るべきか」,ということが前半で語られた後,「いかに語るべきか」ということが話題になります。そしてその後で,音階やリズムの話を挟み,そもそも何を語るべきかに限らず他の職人の仕事にも同じように適用するべきではないか,ということが言われます。

「ではつぎに,その人たちが将来勇気ある人間となるべきだとすれば,どのように考えるべきだろうか?以上の事柄のほか,彼らをできるだけ死を恐れないようにさせる内容のことを,語り聞かせるべきではなかろうか。それとも君は,誰であれ,心の内に死の恐怖をいだいている者が,そもそも勇気ある人間になれると思うかね?」(386A)

これは最初の部分ですが,この後,神々に関する詩の中で,悲嘆にくれる内容であったり,放埓の内容だったり,殺しあう内容だったりするものは語り聞かせるべきではない,ということが言われます。逆に,節制や,勇敢さを喚起するような内容の話を語り聞かせるべきである,と。省略しますが,割と過激な感じで,独裁国家を想像してしまい,全面的に賛成する気持ちにはなれません。

「さあそれでは,話の内容については,これで終ったことにしよう。つぎは,ぼくの思うには,語り方のことを考えてみなければならない。そうすればわれわれにとって,何を語るべきかということと,いかに語るべきかということが,ともに完全に考察されたことになるだろう」(392C)

前の引用からだいぶ飛ばして,ここが1つの転換点です。中身の話から,どう語るかについてに話が移ります。

「しかるに,声においてにせよ,姿かたちにおいてにせよ,自分を他の人に似せるということは,自分が似ようとしている相手の人を,真似るということにほかならないだろうね?」
「そのとおりです」
「したがって,そのような場合には,どうやら,ホメロスにせよ他の作家 (詩人) たちにせよ,<真似>というやり方で叙述を行なっていることになるようだ」(393C)

「創作 (詩) や物語のうち,あるものはその全体が<真似>というやり方によるものであって,君の言うように,悲劇や喜劇がこれにあたる。またあるものは,作者自身の報告によるものであって,君はおそらくディテュランボスに,それを最もよく見出すことができるだろう。もうひとつは,その両方によるものであって,叙事詩の創作や,ほかにも多くの場合に見られるだろう」(394B)

実際に『イリアス』の引用があったりするのですが,前半の「<真似>というやり方」というのは現代の言い方で言うと直接話法のことで,次の「作者自身の報告によるもの」というのは間接話法のことのようです。何かを語るときに,真似,つまり直接話法で語るのと,間接話法で語るのとでどういった違いがあるのか?どういうことを語るときに,どちらで語るべきか?ということが焦点になってきます。

「それでは,アデイマントス,このことを考えてくれたまえ。つまりそれは,われわれの国の守護者たちは真似の達者な人間であるべきかどうか,という問題だ。はたしてこのこともやはり,先の原則に従って考えられるものだろうか?すなわちそれによれば,それぞれの人間は一人で一つの仕事をすれば立派にできるが,一人で多くの仕事をうまくこなすことはできず,あえてそうしようとすれば,たくさんのことに手を出してすべてに失敗し,どれにおいても名のある者にはなれないだろうということだったが」(394E)

この論理 (一人で多くの仕事をうまくこなすことはできない) は,国家の成り立ちを考える一番最初に言われた,全てのエキスパートではいられないというプラトン的な論理のことです。ではそれでも真似によって MP を消費する価値があるかどうか,というのが,この後で論点になることです。

「それとも君は,気づいたことがないかね―真似というものは,若いときからあまりいつまでもつづけていると,身体や声の面でも,精神的な面でも,その人の習慣と本性の中にすっかり定着してしまうものだということに?」(395D)

プラトンが真似を問題視するのは,真似をすることに MP を消費するということと同時に,こういう理由も大きいのでしょうが,これは結構実感できる話です。
若いときに限らず,周りの人の癖などがいつの間にか自分に移ってしまう,というのはあると思います。別に意図はせずとも,例えば「何であの人はあんなことをするのかなあ」とか思っていることでも,ふと気づくと自分がやっているとか。
それに,当時は恐らく本などない時代で,伝えるのは殆ど文字通り語ることによっていたと思われるので,真似 (直接話法) かどうかというのは聞き手に与える影響も単に文字で表される違いよりもずっと大きかったのだろうと思います。

「またぼくの思うには,言葉においても行為においても,気の狂った人々に自分を似せるような習慣をつけてはならない。たしかに,気の狂った人々についても邪悪な人々についても,それが男にせよ女にせよ,知識はもたなければならないけれども,しかしその種の人々のすることを何ひとつ実際に行なうべきではないし,真似すべきでもないからね」(396A)

その人の真似をすることがよいかどうか,端的な言葉になっているのがこの部分だと思います。当たり前のような言葉ですが,プラトンの思想の底流を何となく感じさせる言葉でもあります。

「ぼくの思うに,適正な性格の人は,叙述を進めて行くうちに,すぐれた人物のある言葉なり行為なりのところに来た場合には,自分がその人物になったつもりでそれを報告する気持にすすんでなるだろうし,そのような真似なら恥ずかしいとは思わないだろう…。けれども逆に,自分自身に似つかわしくないような人間が登場する場面に来た場合には,彼は,その人物がたまたま何か善いことをする場合のようなわずかな機会を例外として,本気になって自分を自分より劣った人間に似せようという気持にはなれずに,そうすることを恥ずかしいと思うだろう。それは一つには,そのような人間の真似をすることには慣れていないからでもあるし,一つにはまた,自分が心中軽蔑しているような,より劣悪な人間たちの型に自分をはめこんで形づくるということを,嫌悪するからでもある。冗談にするのでもないかぎりはね」(396C)

ということで,真似するかどうかの是非の結論になりました。この少し後で,「<真似>と単純な叙述との両方のやり方を含みはするけれども,<真似>が占める部分は,長い話のなかで少ししかないことになるのではなかろうか」とも言われます。

「それではこれで」とぼくは言った,「どうやら,君,音楽・文芸のうちで話と物語に関することは,すっかり片がついたようだ。何が語られるべきかということも,いかに語られるべきかということも,述べられてしまったのだからね」(398B)

「そうすると,このつぎには」とぼくは言った,「歌と曲調のあり方に関することが残されているのではないかね?」(398C)

「いずれにしても君は」とぼくは言った。「まず第一に,次のことはよく納得できて,言えるはずだ―歌というものは三つの要素,すなわち言葉 (歌詞) と,調べ (音階) と,リズム (表紙と韻律) とから,成り立っているということは」(398C)

今度はリズムに関する話になります。しかし内容は省略します。基本的に,物語に関することと同じことを辿ることになります。つまり,嘆きや悲しみや柔弱の調べというものは否定し,困難な状況の時に「毅然としてまた確固として運命に立ち向かう人,そういう人の調子や語勢を適切に真似るような調べ」や「結果が思い通りにうまく行って,そのうえでけっして驕り高ぶることなく,…節度を守り端正に振舞って,その首尾に満足する人,そういう人を真似るような調べ」というようなものはよい,ということで,具体的にどんな調べがよいかを当時の作品などから類推しようとします。

「それではわれわれは,ただ詩人たちだけを監督して,すぐれた品性の似姿を作品の中に作りこむようにさせ,さもなければ,われわれのところで詩を作ることを許さずにおけばよいのだろうか?それともむしろ,他のさまざまの職人たちをも同じように監督して,問題の悪しき品性や放埓さや下賤さやみぐるしさを,生きものの似像のうちにも,建築物のうちにも,そのほかどのような制作物のうちにも作りこまないように禁止し,それを守ることのできない者は,われわれのところでそうした制作の仕事をすることを許さないようにすべきだろうか…。いや,われわれの探し求めるべき職人は,そのすぐれた素質によって,美しく気品ある人の本性がのこす跡を追うことのできるような制作者でなければならないのではないか…」(401B)

結局,詩人に何をどう語らせるか,ということの抽象化を進めて,あらゆるものに当てはめようとします。その行き着く先はイデアというものでしょうか。
しかしこの場合,いささか度が過ぎるような気がするというのが率直なところです。こういう規制を行なうというのは,前にも書きましたが,たまにテレビのニュース等で流れる,北朝鮮でトップを礼賛する勇ましい歌や動画を連想してしまうのです。勿論,その国家のトップや統治機構によるのであって,そういう意味で (先取りしますが) 哲人王による政治が実現することが必要条件なのだろうと思います。
この辺りでは,僕も現実のほうを少し考えて,プラトンの主張に珍しく少し疑義を覚えたのでした。

「だから,グラウコン」とぼくは言った,「そういうことがあるからこそ,音楽・文芸による教育は,決定的に重要なのではないか。なぜならば,リズムと調べというものは,何にもまして魂の内奥へと深くしみこんで行き,何にもまして力づよく魂をつかむものなのであって,人が正しく育てられる場合には,気品ある優美さをもたらしてその人を気品ある人間に形づくり,そうでない場合には反対の人間にするのだから。そしてまた,そこでしかるべき正しい教育を与えられた者は,欠陥のあるもの,美しく作られていないものや自然において美しく生じていないものを最も鋭敏に感知して,かくてそれを正当に嫌悪しつつ,美しいものをこそ賞め讃え,それを歓びそれを魂の中に迎え入れながら,それら美しいものから糧を得て育くまれ,みずから美しくすぐれた人となるだろうし,他方,醜いものは正当にこれを非難し,憎むだろうから―まだ若くて,なぜそうなのかという理を把握することができないうちからね。やがてしかし,理が彼にやって来たときには,このように育てられた者こそは誰にもまして,その理と親近な間柄となっているためにすぐ識別できるから,最もそれを歓び迎えることになるだろう」
「たしかに私としては」と彼は答えた,「そのようなことのためにこそ,音楽・文芸による教育はあるのだと思います」(401D)

こちらは同意します。教育の根本的な意義かもしれないとも思います。
以前,僕が高校くらいの時ですが,寝台特急で乗り合わせたおばあさんが「微分積分なんて習っても何の役にも立たなかった」と言っていたのをふと思い出しました。それはある意味自分にとっても真実で,僕も仕事で微分積分を使うことは今はほぼ皆無ですが,ものの量の変化の仕方について考えることが身について,それに関する正しいことや誤ったことが分かるようになった,ということはあると思います。それは,「美しいこと」なんだろうと思います。例として適切かどうかは知りません(笑)。

「それでは,ぼくが言いたいのはこういうことなのだ。―神々に誓って,音楽・文芸の場合もそれと同じように,われわれ自身にしても,われわれが国の守護者として教育しなければならぬと言っている者たちにしても,節制や勇気や自由闊達さや高邁さやすべてそれと類縁のもの,他方またそれと反対のものの実際の姿が,いろいろとくり返し現れるのをあらゆる場合に識別し,それらが内在しているあらゆるもののうちに,その実際の姿をも似姿をもともに認識できるようになるまでは,そして小さなもののうちにあろうと大きなもののうちにあろうと,けっしてないがしろにせず,いずれを知るにも同一の技術と訓練を必要とするものだと考えるようになるまでは,われわれはけっして,音楽・文芸に習熟した者となったとはいえないのではないだろうか?」(402B)

これも,印象的な言葉ですが,音楽や文芸にも限らないようにも思えました。「いろいろとくり返し現れるのをあらゆる場合に識別し,それらが内在しているあらゆるもののうちに,その実際の姿をも似姿をもともに認識できる」というのは,ある技術に対する「理」の境地というふうにも感じます。

「それでは」とぼくは言った,「もしもある人が,その魂の内にもろもろの美しい品性をもつとともに,その容姿にも,それらと相応じ調和するような,同一の類型にあずかった美しさを合わせそなえているとしたら,見る目をもった人にとっては,およそこれほど美しく見えるものはないのではないか?」
「ええ,たしかに」
「そして,最も美しいものは,最も恋ごころをそそるものだね?」
「もちろんです」
「とすれば,真に音楽・文芸に通じた人は,できるだけそのような調和をそなえた人たちをこそ,恋することだろう。逆に,この調和がないならば,彼はそのような者を恋しないだろう」
「恋しないでしょうね―少なくとも,その欠陥が魂のほうにあるとするならば」と彼は言った。(402D)

結論として,音楽・文芸は「美しいものへの恋」に終着します(笑)。いや「(笑)」とか付けましたが,プラトンをここまで読んだ者としては,別に普通の印象ではあります。『パイドロス』のメモに,少し美に関してプログラミングや将棋に言及して書きましたが,プラトンの言う「美」というものは,さきほど「ある技術の「理」の境地」と書いたそういうものが現出したものであるというふうに僕は (勝手に) とらえています。

ということで,ここまで音楽や文芸の話でしたが,ここからは「体育」の話で,医術や食べ物といった話題になっていきます。それはメモ(2)に続きます。