プラトン『国家』第八巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第八巻を読んだときのメモ第2弾。

メモ(1)では,<名誉支配制>,<寡頭制>についての国制の成り立ちと,それぞれの国制に対応した人間についての描写の部分を書きましたが,続きである今回は<民主制>と<僭主独裁制>の部分です。
<民主制>については,日本を含めた現代の国家に当てはまる国制なので,実感があります。特に「民主制は自由を善としている」という,現代でも通用する姿を鮮やかに描き出しています。

なお,本文でソクラテスは,あたかもフィクションのように各国制を(<名誉支配制>については「スパルタのような」と明示しています)述べていますが,実際にはモデルとなった国家ないし指導者があったようで,脚注によると<民主制>はアテナイ,<僭主独裁制>はシュラクサイ旅行時のデュオニュシオス一世の治世をある程度モデル化していたのではないかとのこと。つまり<優秀者支配制>こと哲人政治の時のような完全に観念的なモデルと並列に考えると少し無理があり,現実ありきになっている可能性はあると思います。

以下は読書時のメモです。

「それでは,つぎにどうやら<民主制>について,それがどのようにして生じ,生じてからどのような性格をもつかを,考察しなければならないようだ。そのあとでまた民主制的な人間の性格を学んで,これを他と比較判定することができるようにね」(555B)

ということで,いよいよ我らが?民主制の考察になります。

「そこで,寡頭制国家においてその支配者たちは,まさにそのような怠慢な態度で放埓な浪費を許しておくことによって,しばしば凡庸ならざる生まれの人々を貧困へと追い込むのだ」(555D)

「し かも彼らには」とぼくは言った,「このような禍いが燃え上ろうとするとき,先に触れたようなやり方でこれを消し止めようという気はないのだ―つまり,自分の財産を好きなように処分するのを禁止することによってね。さりとてまた,このような事態を解決するための別の法律に訴えるというやり方をも,とろうとし ない」(556A)

<寡頭制>→<民主制>にはどうやって変化するか,というテーマですがこの辺りはまだ寡頭制国家の説明になっています。寡頭制国家では,民の放埓を放置して,支配者がその富を奪う,ということが言われます。

「危険のさなかにあってお互いを観察し合うような機会があるとしたならば,そのような条件のもとでは,貧乏な人々が金持 たちから軽蔑されることはけっしてないだろう。むしろ逆に,しばしば瘠せて日焼けした貧乏人が,戦闘に際して,日陰で育ち贅肉をたくさんつけた金持のそば に配置されたとき,貧乏人は金持がすっかり息切れして,為すすべもなく困り果てているのを目にするだろう。―このような場合,彼は,そんな連中が金持でい るのは自分たち貧乏人が臆病だからだ,というように考えるとは思わないかね?そして自分たちだけで集るときに,『あの連中はわれわれの思いのままになる ぞ。何の力もないのだから』ということを,お互いに口から口へと伝えひろめて行くとは思わないかね?」(556D)

この辺りでついに民衆の逆襲が始まります。民主制の萌芽ですが,武力に訴えて立場を逆転させます。まあ武力というか,寡頭制の支配者は金の亡者という設定なので,金がない状況でそれ以外の部分で勝負すれば勝つというのはある意味当然ではあります。

「そこで,思うに,貧しい人々が闘いに勝って,相手側の人々のうちにある者は殺し,あるものは追放し,そして残りの人々を平等に国制と支配に参与させるようになったとき,民主制というものが生まれるのだ。そして大ていの場合,その国における役職は籤で決められることになる」
「事実たしかに」と彼は言った,「それが民主制の成立次第です―武力によって達成されるにせよ,他方の側の人々が恐れて退くことによって達成されるにせよ」(557A)

「大ていの場合,役職は籤で決められることになる」というのが本来の民主制を思わせます。確か昔の歴史の資料で見たのが,市民全体が参加する直接民主制のギリシャの議会の図ですが,それは流石に無理があるとして,ランダムに議員を選べば精度は落ちますが理念は引き継げるのかもしれません。

「ではまず第一に,この人々は自由であり,またこの国家には自由が支配していて,何でも話せる言論の自由が行きわたっているとともに,そこではなんでも思いどおりのことを行なうことが放任されているのではないかね?」(557B)

ここの部分ですが,当然のことが書かれていると一見思いましたが,考えてみると民主制が「第一に自由」と言えるような根拠って一体何なんでしょう?別の言い方をすると,<寡頭制>と<僭主独裁制>に挟まれた<民主制>に自由の極値が存在するのは何が理由なのでしょう?
「権力者に支配されていない状態では自由が最大になる」と仮定すれば,その通りかもしれません。

「おそらくは」とぼくは言った,「これはさまざまの国制のなかでも,いちばん美しい国制かもしれないね。ちょうど,あらゆる華やかな色彩をほどこされた色とりどりの着物のように,この国制も,あらゆる習俗によって多彩にいろどられているので,この上なく美しく見えるだろう。そしてたぶん」とぼくはつづけた, 「ちょうど多彩の模様を見て感心する子供や女たちと同じように,この国制を最も美しい国制であると判定する人々も,さぞ多いことだろう」(557C)

人々が自由で多様な国制であると言われます。これは今でも全く当然の理念だと考えられていると思います。ここで言われている「美しい」という言葉は,ソクラテス自身は『饗宴』などでおなじみの「美」とは異なる意味で,やや皮肉的に使っているとは思いますが。日本国で一時期言われていた「美しい国」というのともまた違うのでしょう。

「この国は,その放任性のゆえに,あらゆる種類の国制を内にもっているからだ。おそらく,われわれがいまこころみていたようにして国家を建設しようと思う者は,ちょうど国制の見本市へ出かけて行くように,民主制のものにある国家へ行って,どれでも自分の気に入った型のものを選び出したうえで,その見本に従っ て国家を建設しなければならないのかもしれない」(557D)

個別には様々な国制を内包していると言われます。確かに高徳な人もいれば堕落した人もいて法に触れなければ皆生活を許されています。そうすると全体として見ると,全てが互いに打ち消し合って零ベクトルのようなものになりますが,これが民主制の殆ど定義のようにも思えてきます。つまり足し合わせると 0 になるからこそ自由ということが言えるかもしれません。

「それに,この国制がもっている寛大さと,けっして些細なことにこだわらぬ精神,われわれが国家を建設していたときに厳粛に語った事柄に対する軽蔑ぶりはどうだろう!すなわち,われわれはこう言った―とくにずば抜けた素質をもつ者でもないかぎり,早く子供のときから立派で美しいことのなかで遊び,すべて立派で美しい仕事にはげむのでなければ,けっしてすぐれた人物とはなれないだろう,と。すべてこうした配慮を,この国制は何とまあ高邁なおおらかさで,足下に踏みにじってくれることか。ここでは,国事に乗り出して政治活動をする者が,どのような仕事と生き方をしていた人であろうと,そんなことはいっこうに気にも留められず,ただ大衆に好意をもっていると言いさえすれば,それだけで尊敬されるお国柄なのだ」(558B)

と,当然こういう話になると思います。支配者になる人間になるための教育などを論じ,「徳による治世」の国家を目指してきたソクラテスとしては,そんなものいらんという国制には我慢ならないでしょう。
「ただ大衆に好意をもっていると言いさえすれば,それだけで尊敬される」というのは日本のいわゆる「選挙対策」の政策などを彷彿させます。

「ところで,君さえよければ」とぼくは言った,「われわれが暗闇のなかで手探りの議論をするようなことのないように,まずはじめに,<必要な欲望>と<不必要な欲望>とを,はっきりと規定しておくことにしようか?」(558D)

民主制的な人間は,どう生じるか,ということを話す場面ですが,ここでプラトンの対話篇らしい,本題の流れを中断した補題が入ります。<必要な欲望>と<不必要な欲望>についてですが,この中身については大体想像の通りなので割愛します。

「それならまた,われわれがさっき雄蜂と呼んでいた人間とは,ほかでもない,そのような快楽と欲望に満たされていて,<不必要な欲望>に支配されている人間のことを言っていたわけだね?他方,<必要な欲望>に支配されている人が,けちで寡頭制的な人間にほかならないわけだね?」 (559C)

雄蜂と呼んでいた人間,というのは結構前に出てきたのですが,金を浪費して尽きても働かない人間というような感じだったと思います。<必要な欲望>に支配されているのがけちで寡頭制的な人間,というのは必要なものに関しては必要最低限のコストしかかけない,ということでしょうか。というよりは金銭勘定をしている時点で支配されているということなのかもしれません。

「ひとりの青年が,さっきわれわれが言っていたように,教育をかえりみず万事物惜しみする環境のなかで育てられたのち,ひとたび雄蜂どもの与える蜜の味をおぼえたとき,そしてそういう烈しく恐ろしい動物たちと―彼らは多彩にして多様な,あらゆる種類の快楽を提供するすべを心得ているのだが,そういう動物たちと―交わるようになったとき,おそらくそのときにこそ,彼自身の内なる寡頭制が民主制へと移行する,その変化の始まりがあるのだと思ってくれたまえ」(559D)

ここからの民主制的な人間の成り立ちは非常に面白いです。

「こうしてついには,思うにそれらの欲望は,青年の魂の城砦 (アクロポリス) を占領するに至るだろう。学問や美しい仕事や真実の言論がそこにいなくて,城砦が空になっているのを察知するからだ。これらのものこそは,神に愛される人々の心の内を守る,最もすぐれた監視者であり守護者でもあるのに」(560B)

「雄蜂」たちと付き合うようになっても,元々の寡頭制的な性格との葛藤がある,ということも描かれますが,結局は大群に押し切られます。というよりも寝返られて防衛する勢力が無くなるという形で描かれるのが面白いです。

「こうして,<慎み>を『お人好しの愚かし さ』と名づけ,権利を奪って追放者として外へ突き出してしまうのをはじめ,<節制>の徳を『勇気のなさ』と呼んで,辱しめを与えて追放 し,<程のよさ>と締りのある金の使い方を,力を合わせてこれを国境の外へ追い払ってしまうのではないかね」(560D)
「そしてこのまやかしの言論たちは,それらの徳を追い出して空っぽにし,自分たちが占領して偉大なる秘儀を授けたこの青年の魂を洗い浄めると,つぎには直 ちに,<傲慢><無統制><浪費><無恥>といったものたちに冠をいただかせ,大合唱隊を従わせて輝く 光のもとに,これを追放から連れ戻す。<傲慢>を『育ちのよさ』と呼び,<無統制>を『自由』と呼び,<浪費>を 『度量の大きさ』と呼び,<無恥>を『勇敢』と呼んで,それぞれを美名のもとにほめ讃えながら―。」(560E)

ここで一旦城を奪われます。不必要な欲望,に完全に占領されてしまったようですが,続きがあります。

「もし彼が幸運であり,度はずれの熱狂にかられるようなことがなければ,そして年を取って行くおかげもあって,大きな騒ぎが過ぎ去ったのに,追放されたものたちの一部分をふたたび迎え入れ,侵入してきたものたちに自分自身を全面的に委ねることがないならば,その場合彼は,もろもろの快楽を平等の権利のもとに置いたうえで暮して行くことになるだろう。すなわち,あたかも籤を引き当てるようにしてそのつどやってくる快楽に対して,自分が満たされるまでの間,自分自身の支配権を委ね,つぎにはまた別の快楽に対してそうするというように,どのような快楽をもないがしろにすることなく,すべてを平等に養い育てながら生活するのだ」(561B)

ということで,ここに今までの話が結実し,民主制的な人間が見事に描き出されました。また「平等」というこれも民主制を象徴すると思われる言葉は,色んな快楽に対して選り好みせずにすべて等しく認める,ということに帰着しました。言葉として言われると新鮮ですが,これは現代でも実感できるように思えます。
多様な人がいるのが民主制の特徴だと思いますが,これが「平等だから」というのが面白い所です。平等だからバラバラで,足し合わせる (平均を取る) とゼロになるというブラウン運動のようで,ある意味では自然な状態という感じもします。

「ただし,真実の言論 (理) だけは」とぼくは言った,「けっして受け入れず,城砦の見張所へ通すこともしない―かりに誰かが彼に向かって,ある快楽は立派で善い欲望からもたらされるものであるが,ある快楽は悪い欲望からもたらされるものであって,前者のような快楽は積極的にこれを求め尊重しなければならないが,後者のような快楽はこれを懲らしめて屈従させなければならない,と説き聞かせることがあってもね。そういうすべての場合に彼は,首を横にふって,あらゆる快楽は同じような資格のものであり,どれもみな平等に尊重しなければならないと,こう主張するのだ」(561B)

1つ前の言葉とセットになると思いますが,快楽に対して善悪の判断をしないということが言われます。平等であることの弱点も言い当てているかのようです。
善悪では判断しない,なかんずく「真実の言論は決して受け入れない」というのは改めて言われると結構ショックではあります。ただ別にそれ即ち悪に走るわけでもありませんし,背景には「法」というものの存在が前提にされているのだろうと思います。ここに限りませんが,背景に「法」というものをどの位見るかでプラトンの読み方が変わってくるのかもしれません (その意味では我ながら「法」というものがあまり意識に根付いていません…)。

「こうしていまや」とぼくは言った,「かの最も美しい国制と最も美しい人間について述べることが,われわれの仕事として残されているということになろう。すなわちそれは,<僭主独裁制>と<僭主>(独裁者)だ」(562A)

僭主独裁制を「最も美しい」,というような言い回しはよく出てきますね。

「ところで,寡頭制から民主制が生じてくる過程と,民主制から僭主独裁制が生じてくる過程とは,ある意味で同じ仕方によるとはいえないだろうか?」
「どのような意味で?」
「寡頭制的な人々が目標として立てた善」とぼくは言った,「そして寡頭制国家がそれゆえに成立したところの要因,それは<富>であった。そうではないかね?」(562B)
「そこでまた,民主制国家が善と規定するところのものがあって,そのものへのあくことなき欲求こそが,この場合も民主制を崩壊させるのではあるまいか?」
「民主制国家は何を善と規定していると言われるのですか?」
「<自由>だ」とぼくは言った,「じっさい,君はたぶん,民主制のもとにある国で,こんなふうに言われているのを聞くことだろう―この<自由>こそは,民主制国家がもっている最も善きものであって,まさにそれゆえに,生まれついての自由な人間が住むに値するのは,ただこの国だけである,と」(562B)

民主制の説明は終わり,僭主独裁制の説明に入ったところですが,微妙な時間差で民主制の定義らしきものが言われます。また寡頭制とも対比され,寡頭制 : 富 = 民主制 : 自由,というようなことが言われます。この後も暫くは民主制の話です。

「他方また」とぼくはつづけた,「支配者に従順な者たちを,自分から奴隷になるようなつまらぬやつらだと辱しめるだろう。個人的にも公共的にも賞讃され尊敬されるのは,支配される人々に似たような支配者たち,支配者に似たような被支配者たちだということになる。このような国家においては,必然的に,自由の風潮はすみずみにまで行きわたって,その極限に至らざるをえないのではないかね?」(562D)

「たとえば」とぼくは言った,「父親は子供に似た人間となるように,また息子たちを恐れるように習慣づけられ,他方,息子は父親に似た人間となり,両親の前に恥じる気持ちも怖れる気持ちももたなくなる。自由であるためにね。そして居留民は市民と,市民は居留民と,平等化されて同じような人間となり,外人もまた同様だということになる」
「たしかにそういうことになりますね」と彼。
「そういうことのほか」とぼくは言った,「次のようなちょっとした状況も見られるようになる。すなわち,このような状態のなかでは,先生は生徒を恐れて御機嫌をとり,生徒は先生を軽蔑し,個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。一般に,若者たちは年長者と対等に振舞って,言葉においても行為においても年長者と張り合い,他方,年長者たちは若者たちに自分を合わせて,面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために,若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる」
「ほんとうにそうですね」と彼。(563A)

年長者が若者たちを真似て…という下りは昨今よくある光景で実感があり,それは寧ろ好ましいと思われているという気がしますが,逆に言うと歳を取ったらどっしりと構えているべきというプラトンの考え (というよりも当時の常識?) が感じられます。ともあれここに書かれていることは今の日本ではほぼ達成?されているという気もします。民主制だからこそこうなるのかは実感できませんが,流石の卓見です。

「すべてこうしたことが集積された結果として」とぼくは言った,「どのような効果がもたされれるかわかるかね―つまり,国民の魂はすっかり軟らかく敏感になって,ほんのちょっとでも抑圧が課せられると,もう腹を立てて我慢ができないようになるのだ。というのは,彼らは君も知るとおり,最後には法律をさえも,書かれた法であれ書かれざる法であれ,かえりみないようになるからだ。絶対にどのような主人をも,自分の上にいただくまいとしてね」
「よく知っています」と彼は言った。(563D)

少し上に,「法」というものを背後にどれだけ見て取るか?ということを書きましたがこの僭主独裁制の成り立ちの場面ではそれがはっきり無効化されました。

「寡頭制のなかに発生してその国制を滅ぼしたのと同じ病いが」とぼくは言った,「ここにも発生して,その自由放任のために,さらに大きく力強いものとなって,民主制を隷属化させることになる。まことに何ごとであれ,あまりに度が過ぎるということは,その反動として,反対の方向への大きな変化を引き起しがちなものだ。」(563E)

「というのは,過度の自由は,個人においても国家においても,ただ過度の隷属状態へと変化する以外に途はないもののようだからね」
「たしかにそれは,当然考えられることです」
「それならまた,当然考えられることは」とぼくは言った,「僭主独裁制が成立するのは,民主制以外の他のどのような国制からでもないということだ。すなわち,思うに,最高度の自由からは,最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ」(564A)

『国家』を読んでいて,日本国は寡頭制っぽいと思ったり僭主独裁制っぽいと思ったりよくしますが,ここに書かれているように,「最高度の自由」というのは移ろいやすく安定しないもので,寡頭制側と僭主独裁制側を振り子のように常に他方からの反動として行き来しているのかもしれません。「常に存在するもの」たるイデアとは自由は真逆のものなのかもしれません。

「そうすると彼らは,べつに変革を起そうと欲しているのではなくても,他方の側の者たちから,民衆に対して陰謀をたくらんでいるとか,寡頭制をもくろんでいるとかいった非難を受けることになる」
「たしかに」
「こうして彼らは,最後には,民衆が自分の意志によってではないが,無知ゆえに中傷家たちにだまされて彼らに危害を加えようとするのを見ると,そのときはもはや,欲すると欲しないとにかかわらず,ほんとうに寡頭制的な人間になってしまうのだ。みずからすすんで,そうなるのではない。この禍いもまた,あの雄蜂が彼らを毒針で刺して生みつけるものなのだ」(565C)

「みずからすすんで,そうなるのではない」が微妙に印象に残ります。本当かどうかは別にして,そういう言い訳が成り立つと思ったためです。

「ところで,民衆の慣わしとして,いつも誰か一人の人間を特別に自分たちの先頭におし立てて,その人間を養い育てて大きく成長させるのではないかね?」
「たしかに,それが民衆の常です」
「してみると,このことは明らかだ」とぼくは言った,「すなわち,僭主(独裁者)が生まれるときはいつも,そういう民衆指導者を根として芽生えてくるのであって,ほかのところからではないのだ」(565D)

この「民衆の慣わし」は,代議制民主主義のことを言っているのでしょうか?それは穿った見方かもしれませんが,もしそう考えると,自分たちは自分たちの代表を「養い育てて大きく成長」させるというような発想はないなと思います。

「それでは」とぼくは言った,「このような人間と,このような生きものが内に生まれた国家とが,いかに幸福であるかということを語るようにしようか?」
「ええ」と彼は言った,「ぜひそうしましょう」(566D)

先ほどの「最も美しい国家」に続き,また皮肉が出てきました。アデイマントスも相変わらず一緒にボケるのでどこまで本気なのか分からなくなるときがあります(汗)。

「そこで僭主(独裁者)は,支配権力を維持しようとすれば,そういう者たちのすべてを排除しなければならない。ついには敵味方を問わず,何ほどかでも有為の人物は一人も残さぬところまでね」
「ええ,明らかに」
「そういうわけだから,彼は,誰が勇気のある人か,誰が高邁な精神の持主か,誰が思慮ある人か,誰が金持であるかといったことを,鋭く見抜かれなければならない。こうして彼は,そういう人々のすべてに対して,好むと好まざるとにかかわらず敵となって陰謀をたくらまなければならないという,はなはだ幸福な状態に置かれることになるのだ―国家をすっかり浄めてしまうまでは」(567B)

某国の諜報機関を連想します。ここに書かれているような「正しい」人のことを見抜き排除する,というのは,第2巻で出てきた「裏で不正を働きながら正しいとみせかける,不正な人」「本当は正しい行いをしているが不正と見られる,正しい人」を想定して,それでも正義を讃えるか?とグラウコンとアデイマントスがソクラテスに迫った場面を思い起こします (361A)。そうか,そこに戻るのか。と1人で納得。

「こうして」とぼくは言った,「これらの仲間は彼を讃歎し,これら新参の市民たちは彼と交わるけれども,心あるすぐれた人々は,彼を憎み彼を避けるのではないかね」(568A)

「ゼウスに誓って」と彼は言った,「そのときこそ民衆は,やっと思い知らされることでしょう,―自分がどのような身でありながら,どのような生きものを産み出し,かわいがって大きくしたかということを。そして追い出そうとしても,いまや相手の力のほうが自分よりも強いということを」(569A)

民衆が,自分たちの富を吸い上げる僭主のことに後になって気づいても手遅れだということが,いい歳になっても親に養われる子供にたとえられて語られます。

「そうだとすれば」とぼくは言った,「僭主(独裁者)とは父親殺しにほかならないし,老いた親に対して残酷な養い手だということになる。そしてどうやら,これこそがすでに,万人の認める公然たる僭主独裁制というものであるようだ。民衆はといえば,ちょうど諺のとおりに,自由人への隷属という煙を逃れようとして,奴隷たちの専制支配という火の中に落ちこんでしまったことになるだろう。あの豊富で度はずれの自由の代りに,いまや最もきびしく最もつらい,奴隷たちへの隷属という仕着せを身にまとってね」(569B)

ということで僭主独裁制の1つのまとめになっています。思ったのは,民主制(自由人)が専制支配されるようになるというまさにその瞬間というものは一体何なのでしょう?それはやはり僭主が法を(実質的に)無効化した瞬間ということになるのでしょうか。

以上で第8巻は終了ですが,僭主独裁制的な人間の考察がこのまま第9巻に続くことになります。
本メモではプラトンの民主制についての考察を存分に見ることができました。民主制的な人間があらゆる快楽を平等に受け入れる,というのは斬新だと思いましたがある真理の一面を衝いているという気がします。