プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第九巻を読んだときのメモ第2弾。
第九巻では,これまで僭主独裁制について第八巻から続く説明の後,各国制に対応する人間で優れたものと劣ったものの判定がなされました。続いて,魂の3区分,真/偽の快楽についての判定がなされます。そして,第二巻で提起された問いに戻ってその答えが考察されます。不正が得かどうか,ということについての答えとなる内容で,副題である「正義について」の締め括りにふさわしいものとなっています(第十巻はまたちょっと独立的です)。
途中で出てくる,「キマイラのような怪物と,ライオンと,人間が一体となり,外からは人間としか見えない」という人間のモデルは秀逸だと思います。人間だからこそ持っている理性的な部分と,獣的な部分の混在をよく表していると思います。
以下は読書時のメモです。
「さあこれでよし」とぼくは言った,「以上がわれわれにとって,一つの証明となるだろう。つぎに,この第二番目の証明を見てくれたまえ。それが何ほどかの意味があるものと思えるかどうか」
「それは,どのような証明のことでしょうか?」
「ちょうど国家が三つの種族 (階層) に分けられたように」とぼくは言った,「一人一人の人間の魂もまた,それと同様に三つに区分される以上,そのことにもとづいてわれわれの問題は,また別の証明を得ることになるだろうと,ぼくには思われるのだ」(580C)
ということで,国制に基づいて順位付けされた第一の証明に続いて,魂の3区分,つまり理知的部分,気概的部分,欲望的部分に対応して論じようとします。この3区分は第四巻に出てきました。国制を頂上とすると (いや実際の頂上はイデア論だったかもしれませんが),ちょうど山を下りている感じですね。
この後,魂の3区分についておさらいがあります。そして人間の分類としても <知を愛する人>,<勝利を愛する人>,<利得を愛する人> という3つの種類があると言われます。さらに,快楽にもそれらに対応した3種類があると言われます(581C)。
「だから,君も知っているように」とぼくは言った,「もし君がそうした三種類の人間に向かって,それらの生き方のうちでどれがいちばん快く楽しいかということを,ひとりひとり順番にたずねてみる気になったとしたら,それぞれが自分の生き方を最も褒め讃えるのではないかね。まず金儲けを事とする人間は,利得を得ることにくらべるならば,名誉を得ることの歓びや学ぶことの楽しみなどは,そうしたことが何か金になるのでもないかぎり,まったく何の価値もないと言うことだろうね?」(581C)
悪い順に言おうとしているのか,まず利得を愛する人の快楽について言われます。とにかく金,というヤな人間です (但し実際の欲望はもっといろいろあってここでは金を代表させているに過ぎないと思います)。この後,勝利を愛する人,知を愛する人についても快楽が言われますが,他の2つに該当する快楽を全く無視するのだと書かれているところは共通しています。
まあここでは理想的なサンプルを作っているだけで,実際の人間には,RGB で色が表されるように3つのそれぞれの重みが付けられてその人にとっての快楽が定義される,と考えないと一般性がないと思います。
「それなら次のようにして,考えてみたまえ。―いったい,物事が正しく判定されるためには,何によって判定されなければならないだろうか。経験と,思慮と,言論(理)によってではないだろうか?それとも,これらよりももっとすぐれた判定の基準が何かあるだろうか?」(582A)
とりあえずここで物事の判定基準が導入されます。
それから,「知を愛する者は,利得を得ることがもたらす快楽も知っている」ということも言われます。つまり包含関係ができていて,知を愛する人の経験⊃利得を愛する人の経験,ということのようです。次に続きます。
「では,名誉を愛する人とくらべてどうだろう?はたして後者が知恵をもつ楽しみに無経験である以上に,知を愛する人は名誉を得る楽しみに無経験だろうか?」
「いや,名誉というものは」と彼は言った,「人々がそれぞれ努力の目標としてきたことをなしとげるならば,おのずから彼らのすべてに与えられるものです。じっさい,富者も勇者も知者も,多くの人々から尊敬されることに変りはありませんからね。したがって,名誉を得ることがどのように楽しいかということについては,全部の者がその快楽を経験するわけです。」(582C)
ここで名誉を得る楽しみ(快楽)は,全部の者が知っている,というちょっと意外なことが言われます。具体的に,名誉を愛する人と利得を愛する人の比較がないので微妙ですが,利得を愛する人の経験⊃名誉を愛する人の経験,と言われているように取れます。
順位としては,名誉を愛する人は第2位ということになるので(後で述べられる),経験すべきでないことを経験するのが利得を愛する人…と言えるのでしょうか。まあ世の中,経験したくないとかしないほうがよいことも沢山あるので実感があるところではあります。
「それでは,以上の二点にわたって,以上のようにしてつづけて二度,正義の人は不正の人を打ち負かしたことになるだろう。つぎに三度目はオリュンピアの競技にならって,救い主にしてオリュンピアの神なるゼウスのために,さあ心して見てくれたまえ―思慮ある知者のもつ快楽をのぞいて他の人々の快楽は,けっして完全に真実の快楽ではなく,純粋の快楽でもなく,陰影でまことらしく仕上げられた書割の絵のようなものだということを。このことをぼくは,知者たちの誰かから聞いたことがあるように思うのだ。(583B)」
国制による比較,魂の区分による比較がこれまでになされましたが,次は3つ目として,真実の快楽についての考察がなされます。ここで言われた「陰影でまことらしく仕上げられた書割の絵」という言葉からは,「洞窟の比喩」が連想されます。そこから,イデアへの近さ,という観点なのかなとも思われますが実際にはもっと具体的に論じられます。
「ところで君は」とぼくは言った,「病人たちの言葉を思い出さないだろうか―彼らが病気に悩んでいるときに口にする言葉を?」
「どのような?」
「いわく,『健康であることほど快いものはない。だが病気になる前には,それが最も快いものだということに,自分は気づかずにいた』と」
「そのことなら思い出します」と彼は答えた。
「また,何かひどい苦痛に悩まされている人たちが,『苦痛の止むことほど快いことはない』と言うのを,君は聞かないだろうか?」(583C)
ということで,病気でない,苦痛がない,ということを快いものだと人は考えます。が,実際にはそれは「静止状態」であり積極的な快楽では決してない,とソクラテスは言います。
この手のモチーフはプラトン対話篇ではよく出てきます (例えば『ゴルギアス』)。同じ数直線上に並ぶもので,相対的 (定性的) には方向は合っているが,絶対的 (定量的) にはゼロというか原点の付近であってよい値になっているわけではない,という話でしょうか。
「してみるとそれは,実際にそうであるのではなく,ただそのように見えるだけなのだ」とぼくは言った,「すなわち,静止状態がそのときどきによって,苦と並べて対比されると快いことに見え,快と対比されると苦しいことに見えるというだけであって,こうした見かけのうちには,快楽の真実性という観点からみて何ら健全なものはなく,一種のまやかしにすぎぬということになる」(584A)
相対性ではなく絶対性を追求するプラトンらしい部分です。つまり,「である」のが絶対性,「見える」のが相対性であると思えます。
「しかしながら」とぼくは言った,「肉体を通じて魂にまで届くいわゆる快楽は,そのほとんど大多数のもの,最も主要なものが,この種類に属している。すなわち,いずれも苦痛からの解放と呼ばれてしかるべきものなのだ」
「たしかにそうですね」
「そして,快苦がこれから起ろうとするのに先立って,それへの予期から生じてくる予想的快楽や予想的苦痛もまた,これと同列のものといえないだろうか?」(584C)
大多数が実際は苦痛からの解放である,「肉体を通じて魂にまで届くいわゆる快楽」は具体的にはどういうものがあるのか?怪我や病気からの回復というのは分かりますが。ただここで言おうとしているのは,実は消去法的というか,背理法的なことなのかもしれません。本当の快楽とは知を愛し,真理に近づくことでありそれ以外ではないというような。
予想的快楽 (苦痛) というのも面白いです。日曜日の夜に翌日の仕事のことで憂鬱になったりするものが予想的苦痛でしょうか(笑)。確かに全く相対的なものではあります。
「では,君はどう思うかね―ある人が<下>から<中>へと運ばれるとき,その人は,自分が<上>へ運ばれているとしか考えないのではなかろうか?そして<中>のところに立って,自分がそこから運ばれてきたほうを見やりながら,自分はいま<上>にいるとしか考えないのではなかろうか?もしその人が,ほんとうの<上>というものを見たことがないとすればね」(584D)
これも「洞窟の比喩」を連想しますねえ。
「それならば同様にして,真理に無経験な人たちが,他の多くの事柄について不確かな考えをもつとともに,快楽と苦痛とそれらの中間状態に関してもまた,彼らが苦へと運ばれるときには正しく判断し,そして実際に苦しむのであるが,しかし他方,苦から中間状態へと運ばれるときには,充足と快に到達したとすっかり思い込んでしまうとしても,君はそれを不思議に思うだろうか?ちょうど白色を見たことがない人々が灰色を黒と対比させて眺める場合と同じように,彼らも,真の快楽を知らないために,たんに苦痛がないだけの状態を,苦痛との対比のもとに見ることによってだまされてしまうのだが,君はそのことを驚くだろうか?」(584E)
ということでここまでのまとめのようなことが言われます。
ただ,実際にここで言われるような「真の快楽」,ベクトルの向きが合っているだけではなくて本当にプラスの領域に辿り着くようなものを,達成するのはそう簡単ではないようにも思えます (最初から簡単なんて誰も言ってませんが…)。例えばプラトンが書いたものを読んで,何かしら自分によい影響があったとしても,それは読まない状態から読んだ状態という「相対的なもの」で,つまり良い方向ではあるとしても,絶対的にプラスに辿り着くものなのかどうかなんて分かりません。
それなら,何かしら自分の中から,自ずから生じて来るものがないと,真の快楽とは言えないのでは?と思うわけです。それを「真の快楽を『知る』こと」であると言えるのなら,プラトンの書くことと一致はするのですが。
「つねに不変にして不死なる存在と真理に関連をもつもの,そしてそれ自体もそのような性格で,そのような性格の存在のうちに生じるもののほうが,よりすぐれて存在すると君には思えるだろうか。それとも,片ときも同じ相を保つことのない死すべきものと関連をもつもの,そしてそれ自体もそのような性格で,そのような存在のうちに生じるもののほうだろうか?」
「それはもう」と彼は答えた,「つねに不変なる存在に関連をもつもののほうが,はるかにすぐれています」(585C)
ここの部分は『ティマイオス』などでも言われている「存在と生成」に繋がっていくことですね。哲人政治やイデアの考え方にも通底していて,極めてプラトン的だなあと思います。ただ,今を生きる自分などは,技術の進歩は速く,不変なものなどなく「変化せぬものは変化のみ」というヘラクレイトス・プロタゴラス的な考えにも実感があります。
多分どちらもあり,「不変なものなどない」という達観が思い上がりなのだという気がします。
「こうして,全般的に言って,身体に奉仕する種類のものは,魂に奉仕する種類のものよりも,真理と存在に与る程度が少ないということになるわけだね?」
「ええ,はるかに」
「そして身体そのものについても,魂とくらべて,同じことが言えるとは思わないかね?」(585D)
身体と魂版の「線分の比喩」といえるような内容です。つまり身体の変化するもの(AD)→身体の不変なもの(DC)→魂の変化するもの(CE)→魂の不変なもの(EB),という線分 (AC:CB = AD:DC = CE:EB) ができるのかもしれません。
「したがって,思慮 (知) と徳に縁のない者たち,にぎやかな宴やそれに類する享楽につねになじんでいる者たち,彼らはどうやら,<下> へと運ばれてはまたふたたび <中> のところまで運ばれるというようにして,生涯を通じてそのあたりをさまよいつづけるもののようだ。彼らはけっして,その領域を超え出て真実の <上> のほうを仰ぎ見たこともなければ,実際にそこまで運び上げられたこともなく,また真の存在によってほんとうに満たされたこともなく,確実で純粋な快楽を味わったこともない。むしろ家畜たちがするように,いつも目を下に向けて地面へ,食卓へとかがみこみ,餌をあさったり交尾したりしながら身を肥やしているのだ」(586A)
ここも「洞窟の比喩」が連想されるところですが…。自分はソクラテスが言うことが本当に分かっているのだろうか。結局は自分も<中>と<下>をさまよい続けるだけで終わる人間なのではないか。と思ってしまうところではあります。少し前にも書いたように,本当に <上> を知りたいのなら,繰り返し読んだり考えたりして自分自身から何かが出てくるのを根気よく待つしかないのかなと思います。少なくともプラトンは本気でこれを書いたわけなので,こちらも本気で考えないと不誠実で『国家』を読む意味がありませんが,それでも十分ではないのだと思います。
ともあれ後半部分から,「自分が家畜であってもそれは快楽か」という問いは,非常に印象的です。それが「真の快楽」ではないかどうかの分かりやすい判定方法かもしれません (嫌な判定ですが)。
「ところで君は知っているかね」とぼくはたずねた,「僭主(独裁者)は王とくらべて,どれほど不快な生活を送るかを?」
「教えていただければ,わかるでしょう」と彼は答えた。
「思うに,三つの快楽があるうちで,その一つは本物の快楽であり,あとの二つは贋物の快楽であるが,僭主(独裁者)は法と理とを逃れて,その贋の快楽のさらに向う側にまで超え出たうえで,奴隷の護衛隊にくらべられるような快楽といっしょに暮しているのだ。そして彼がどのくらい劣った生活を送っているかを語るのも,まったく容易ではない。強いて語るとすれば,おそらく次のようなことになるだろう」(587B)
ここで三つの快楽と言われているものは,解説によると,(1)王の快楽,(2)名誉支配制的な人の快楽,(3)寡頭制的な人間の快楽,ということになるようです。
この後,僭主の生活がどのくらい劣っているのかを,プラトン一流の計算が行われた結果,王の方が僭主の729倍快い生活を送っているということが言われます。
「さあ,これでよし」とぼくは言った,「いまやわれわれの議論がこの地点にまで到達した以上,ここでもう一度,最初に語られた言説を取り上げることにしようではないか。われわれがここまでやって来たのも,そもそもはこの言説のためだったのだからね。言われていたことは,たしかこうだった―完全に不正な人間でありながら,世間の評判では正しいと思われている者にとっては,不正をはたらくことが有利である,と。どうだね,このように言われたのではなかったかね?」
「たしかにそうでした」(588B)
変な計算を見せられて疲れてなんかよく分からなくなってきたところで,最初に戻ってきました。
「物語に出てくるような,大昔の怪物のどれか一つを思い浮べてくれたまえ」とぼくは言った,「キマイラとか,スキュラとか,ケルベロスといったようなね。そしてまだほかにも,いくつかの動物の姿が結びついて一つになっている怪物が,たくさんいたと言われている」(588C)
ここから卓越した比喩を使った話が始まります。ここで挙げられている怪物は,ファイナルファンタジー等のゲームをやったことがあればすぐ思い浮かべられますね。
詳細な描写は省きますが,(1)キマイラのような色んな頭を持つ怪物,(2)ライオン,(3)人間の3者が結び付けられ,そしてそれが外側からは1人の人間に見えるような人間(?)が想像させられます。
「さあそれでは,この人間にとって不正をはたらくことが有利であり,正義をなすことは利益にならない,と説く人に対して,われわれは,その主張の意味するところはまさしく次のようなことになるのだと,言って聞かせることにしようではないか。―すなわちこの人間にとっては,かの複雑怪奇な動物とライオンと,ライオンの仲間どもに御馳走を与えてこれを強くし,他方,人間を飢えさせ弱くして,動物たちのどちらかが連れて行くままにどこへでも引っぱられて行くようにしてしまうこと,そして二つの動物を互いに慣れ親しませて友愛の関係に置くことなく,動物たちが相互の間で噛み合い闘い合って,互いに相手を食い合うがままにさせておくこと,このようなことが利益になるのだとね」(588E)
特に書かれていませんが,前述した3つが,「欲望的部分」「気概的部分」「理知的部分」を表していることは明らかです。そして不正が有利であるということは,内なる人間は他の2者の思うがままになってしまうと…。比喩は卓抜で,直感的ではあるのですが,前から同じことを何度も言われているという気もしないでもありません。
「では他方,正義が有利であると説く人の主張は,われわれが言行ともに次のことを目ざさなければならないのだ,ということにほかならないのではなかろうか?―すなわち,内なる人間こそが最もよく人間全体を支配して,かの多頭の動物をみずからの配慮のもとに見守り,ちょうど農夫がするように,穏やかなものはこれを育てて馴らし,野生の荒々しいものは生え出ないように防止し,ライオンの種族を味方につけ,そして動物たちを,お互いに対しても内なる人間自身に対しても友愛の関係に置いたうえで,その全部を共通に気づかいながら,そのようにして養い育てることができるようにしなければならないのだと」(589A)
前の箇所の対句的な部分です。内なる人間が全体を支配する,というのは当然の流れです。他に「穏やか」「友愛」という言葉も目を引きます。少し後ですが,「醜い事柄とは,穏やかな部分を野獣的な部分の配下に従属させるような事柄ではないだろうか?」(589D)ともあります。
「だとすれば,あらゆる点からみて,正義を讃える人の説くところは真実であり,不正を讃える人の説くところは誤りであることになるだろう。なぜなら,快楽のことを考えてみても,評判や利益のことを考えてみても,正義の礼讃者は真実を語っているのに対して,正義をけなす人の言い分には何ひとつ当っているところがないし,またそもそも,自分が何をけなしているかを知らずにけなしているのだからね」(589C)
ここは正直難しいと思いました。全体の流れからすると当然ではあるのですが。また大勢に影響がある箇所でもないと思いますが。「正義の礼讃者が,自分が何を讃えているのかを知らずに讃える」ということはないのでしょうか。全体に言えることだと思いますが,プラトンの言うことは,細い針金の上をちゃんと通れる人にとって正しい,通れない人 (それが本当は大多数のはず) のことが考えられていない,という感じはあります。
「それなら」とぼくはつづけた,「そのように考えるならば,誰にせよ,不正に金を受け取ることが利益になるということが,そもそもありうるだろうか―もしその結果として,金を受け取ることによって同時に自分のうちの最善の部分を,最もたちの悪い部分の奴隷としてしまうことになるのだとしたら?
いいかね,もし金を受け取ることによって,息子なり娘なりを奴隷に―それも野蛮で悪い男たちの奴隷に―することになるとしたら,たとえそのために,巨万の富を手に入れたとしても,けっしてその人の利益になるとはいえないだろう。それなのに,自己の内なる最も神的なものを,最も神と縁遠い最も汚れた部分の奴隷として,何らいたましさを感じないとしたならば,はたしてそれでも彼は,みじめな人間だとはいえないだろうか?その人は,夫の命と引きかえに首飾りを受けとったエリピュレよりも,もっとはるかに恐ろしい破滅を代償に,黄金の贈物を受け取ることにならないだろうか?」(589D)
もしここに書かれているようなことに肯定できないなら,プラトンは合わないでしょうね。あるいは「哲学」という学問の視点でも特に目を瞠るべき部分ではないでしょうが。私は2,400年も前にプラトンがこれを書いていたということに,人として救いを感じます。
「また下賤な手細工仕事や手先の仕事といったものが,なぜ不名誉なものとされると思うかね?それはほかでもない,その人がもっている最善の部分が生まれつき弱くて,自分の内なる獣たちを支配する力がなく,仕えることしかできないようになっていて,ただ獣たちにへつらうことだけしか学ぶことができないような場合,ただそのことのためであると,われわれは言うべきではないだろうか?」(590C)
手細工仕事,手先の仕事が下賤で不名誉だと言われています。これは,皮革細工などがそういう扱いを受けている時代を連想しました。ただ現代では,実際にはもっと広義の労働者階級といえるのでしょう (当然自分も含まれる)。被支配者→自分を支配することができない,というレッテルを貼られるのは悔しいですが。まあ時代の違いもあるでしょう。
「そして明らかに」とぼくは言った,「法律というものも,国民すべての味方として,そのような意図をもっているのだ。子供たちを支配することもまた同じ。すなわち,われわれは同じこの意図のもとにこそ,子供たちの内部に―ちょうど国家の場合と同じように―ひとつの国制をうち立てるまでは,彼らを自由に放任することをしない。そして,彼らの内なる最善の部分をわれわれの内なる最善の部分によって養い育てることにより,同じような守護者と支配者を代りに子供のなかに確立してやって,そのうえではじめて,放免して自由にしてやるのだ」(590E)
子供たちを支配する,というのは教育と言い換えられると思いますが,「教育は法律と同等」ということになります。これは思わず唸りました。大人と子供も国家に見立てると。日本国の各地の教育委員会とかが喜びそうな話です。
「またどうして,不正をはたらきながら人に気づかれず,罰を受けないことが利益になると主張できるのだろうか?むしろ,真実はこうではあるまいか。―すなわち,不正が人目を逃れた者は,さらにいっそう悪い人間となるが,他方,人に気づかれて懲らしめを受ける者の場合は,その人の内なる獣的な部分が眠らされて穏やかになり,おとなしい部分が自由に解放される。」(591A)
「罰を受けることが利益」というのは『ゴルギアス』にも同様のことが書かれていました。
「つぎに,そのような人は」とぼくは言った,「身体の状態や養育を獣的で非合理な快楽に委ねて,そこにのみ関心を向けて生きる,というようなことをしないのはもちろん,健康を目標とすることさえなく,どうすれば強壮になり健康になり美しくなるかというようなことにしても,そのことから思慮の健全さが得られると期待できるのでないかぎりは,これを重要視することもないだろう。彼はつねに,魂の内なる協和音をもたらすためにこそ,身体の内なる調和をはかるのが見られるだろう」(591C)
私がダイエットや健康食品に飛びつく人に対して持っている意見と似ています(笑)。本当の健康というのは外面的なものではなく,魂に従属すると考えれば自然なことではあります。
「むしろ彼は」とぼくは言った,「自己の内なる国制に目を向けて,みずからの国制のなかにあるものを,財産の多寡によって,いささかでもかき乱すことのないように気をつけながら,できるかぎりこのような原則にもとづいて舵を取りつつ,財産をふやしたり消費したりすることだろう」(591E)
御意。
「するとそのような人は」と彼は言った,「国の政治に関することを,すすんで行なおうという気持にはならないでしょうね。もしもいま言われたようなことに,もっぱら気を使うのだとしたら」
「いや,犬に誓って」とぼくは言った,「自己自身の本来の国家においてならば,大いにその気持になるだろう。ただし現実の祖国においては,おそらくその気にならないだろうけれども。何か神の計らいによって,たまたまそういう機会が与えられるのでもないかぎりはね」(592A)
結局この「誰が政治家になるんだ問題」になります。第5巻での哲人政治論が想い起こされますが,ここでは現実の国家においては率直に降参してしまっています。これが,プラトンが現実の人生でここまで辿ってきたすえの政治に対する諦念である,と考えると重い言葉です。今現在の世界の国家に対しても,プラトンはどう言うでしょうか。
「だがしかし」とぼくは言った,「それはおそらく理想的な範型として,天上に捧げられて存在するだろう―それを見ようと望む者,そしてそれを見ながら自分自身の内に国家を建設しようと望む者のために。しかしながら,その国が現にどこかにあるかどうか,あるいは将来存在するだろうかどうかということは,どちらでもよいことなのだ。なぜなら,ただそのような国家の政治だけに,彼は参加しようとするのであって,他のいかなる国家のそれでもないのだから」
「当然そのはずです」と彼は答えた。(592B)
洋画のラストで俳優が語るセリフのような(いや洋画なんて滅多に見ないのでイメージですが…),すごいカッコいいフィナーレで第9巻が終わります。狭義には(第10巻はやや独立的な内容なので)これが『国家』自体のフィナーレで,第10巻は後日譚的なものと見ることもできるかもしれません。ここまで述べられた国家というものそれ自体も実はイデアである,という種明かしだった,という見方もできるのかもしれませんね。
ということで第9巻は以上。これで一応,第2巻以来の「不正は正義より得なのか?」という問いの答えになった,ということになるのだと思いますが (第10巻でも正義については言われます),読む人はこれで納得できるのでしょうか?…私は正直よく分かりませんでした(長かったというのもありますが)。結局のところ,「不正をなしたことに対する罰を与えることがその人にとって善である」ことを肯定するとか,そういう割と論理的というよりは寧ろ倫理的・宗教的に近い部分が土台になっているようにも思われるため,明確に「証明終わり」という感じはしませんね。
それでもプラトンが書こうとしたことは多少分かるつもりです。或いは真剣に向き合うことがこの『国家』を読む価値なのだろうと思います。プラトンにとっては常に,言葉で説明することの限界との闘い,ではなかったかと思います。
次回は第10巻。