プラトン『ゴルギアス』メモ(3)

プラトン『ゴルギアス』(プラトン全集 (岩波) 第9巻) を読んだときのメモの第3弾。

これまで第2弾で,ソクラテスとカリクレスの対話を見てきたのですが,ここからは対話の後半です。
後半は,これまでの対話内容の繰り返しを含みながら,ソクラテスが「人生いかに生きるべきか」というようなこともテーマにしようとします。これも過激すぎるカリクレスの言説が引き出したということができると思います。
後で出てきますが,ソクラテスは,政治家や指導者は,市民の召使として快楽を満たすことではなく,市民をよい人間にすることが仕事であるということを言います。そしてそういう意味で真の政治家はソクラテス自身だとも言います。
また,もし不正なやり方で訴えられて死刑にされた場合,それは仕方ないというようなことも言います。これはある意味,「ソクラテスの弁明」を先取りしており,その後のソクラテスの現実をなぞっています。実際にソクラテスが言ったのではなく,プラトンの脚色かもしれないところではありますが,ただ言えるのは,「ソクラテスのような「哲学の生活」を行う→殺される (不正に死刑になる)」という図式が,この対話篇でも言われるし実際にソクラテス自身がそうなった,ということです。
つまり,ソクラテスのような善を追求する生き方をするなら,死を覚悟しろということになるのかもしれません。尤もソクラテス自身は,死などよりも,弁論術などの迎合により刑を回避することのほうが恥ずべきことだと述べていますが。
現代では,流石に死に至ることはないと思いますが,それでも組織で昇進できないとか,地位を追われるということはありそうな気はします。

ところで,『パイドロス』のメモを読み返して思い出したのですが,この『ゴルギアス』と『パイドロス』はともに弁論術を論じており,テーマに結構関連というか共通点があります。が,僕が今回全集の『ゴルギアス』を読んでいたときには,情けないことに『パイドロス』の内容が殆ど頭から飛んでいたので(汗),両者の対比は殆ど行なえていません。2周目があるとしたら,比較しながら考えてみたいものです。尤も,それを言うなら『プロタゴラス』などもそうだと思いますが。

あとこれは蛇足ですが,僕は岩波書店のプラトン全集をベースにしており,そこで「カリクレス」という表記だったので違和感がありませんが,岩波文庫では「カ(ル)リクレス」((ル)は小さいル) という PC 用のフォントが存在しない表記となっています。多くの人は逆に文庫でしか読まないと思いますので違和感があるかもしれませんが,フォントが出せないというよりは全集に準拠しただけですので,念のため。

以下はいつもどおり読書時のメモと考察です。

ソクラテス「さらにまた,ぼくの方から話すことも,冗談の つもりで受け取ってもらっては困るのだ。なぜなら,君も見ているとおり,いまぼくたちが論じ合っている事柄というのは,ほんの少しでも分別のある人間なら 誰であろうと,そのこと以上にもっと真剣になれることが,ほかにいったい何があろうか,といってもよいほどの事柄なのだからね。その事柄とはつまり,人生 いかに生きるべきか,ということなのだ。すなわち,君がぼくに勧めているような,それこそ立派な大の男のすることだという,弁論術を修めて民衆の前で話を するとか,また,君たちが現在やっているような仕方で政治活動をするとかして,そういうふうに生きるべきか,それとも,このぼくが行なっているような,知 恵を愛し求める哲学の中での生活を送るべきか,そのどちらにすべきであるかということであり,そしてまた,後者の生活法は前者のそれと比べて,いったい, どこにその優劣はあるのか,ということなのだ。」(500C)

ということで,人生いかに生きるべきか,というテーマに言及していきます。「そのこと以上にもっと真剣になれることが,ほかにいったい何があろうか」…その通りだと思いますが,残念ながらというか,現代 では現実としては逆に一番真剣に考えられない,後回しに考えられることでもあるように思います。そこがソクラテスのいう「哲学の生活」かどうか,ということかもしれません。

ソクラテス「そしてぼくとしては,そのようなやり方こそ「迎合」であると主張しているのだ。その対 象が身体であろうと,魂であろうと,あるいはまた,ほかの何かであろうと,もしひとがそのものの快楽だけに気をつかって,より善いことやより悪いことにつ いては,考えてもみないようなものがあるとすれば,そのものについても同じことなのだ。」(501C)
ソクラテス「弁論家たちはいつも,最善のこ とを念頭において,自分たちの言論によって市民たちができるだけすぐれた人間になるようにという,そのことを狙いながら,話をするのだと君には思われるか ね。それとも,この人たちもまた,市民たちの機嫌をとることのほうへすっかり傾いてしまっていて,そうして,自分たちの個人的な利益のために公共のことを なおざりにしながら,まるで子供たちにでも対するような態度で,市民大衆につき合い,ただもう彼らの機嫌をとろうと努めるだけであって,そうすることがし かし,彼らをいっそうよい人間にするのか,あるいはより悪い人間にするのかという,その点については,少しも考慮を払わないものなのかね。そのどちらだと 君は思うかね。」(502E)

善悪ではなく快楽かどうかだけを考えるのが「迎合」で,そして弁論家もまた善悪ではなく快楽に恃んで人を説得するものである,といえるでしょうか。「彼らの機嫌をとろうと努めるだけ」というのは,いわゆる「耳障りのよい」演説などを思い浮かべると,その通りだなと思います。

ソ クラテス「すなわち,幸福になりたいと願う者は,節制の徳を追求して,それを修めるべきであり,放埓のほうは,われわれ一人一人の脚の力の許すかぎり,こ れから逃れ避けなければならない。そして,できることなら,懲らしめを受ける必要のひとつもないように努めるべきだが,しかし,もしその必要がおきたのな ら,それを必要とするのが自分自身であろうと,身内のなかの誰かほかの者であろうと,あるいは,一個人であろうと,国家全体であろうと,いやしくも幸福に なろうとするのであれば,その者は裁きにかけられて,懲罰を受けるべきである。これこそ,ひとが人生を生きる上において,目を向けていなければならない目 標であると,ぼくには思われるのだ。」(507C)

もし不正や放埓の状態になったら,「裁きを受けるほうが幸福である」というのは,メモ(1)でも触れたポロスとの対話でも出てきました。それも含めて非常にソクラテスらしい言葉だと思います。

ソクラテス「そうすると,残るところは,ただつぎのような者だけが,語るに足るほどの者 として,そのような独裁者に親しい者となるわけだ。つまりそれは,独裁者がなす非難と賞賛とに調子を合わせながら,彼と似た性格の者となっていて,甘んじ てその支配を受け,そしてその支配者の下に隷属しようとする者があるなら,誰であろうと,そういう人間のことなのだ。そのような人こそ,その国では大きな 権力をもつ者になるだろうし,誰だってその人に不正を加えて平気でおられる者はいないだろう。そうではないかね。」(510C)

この部分は,「不正を受けないためにはどうしたらよいのか」ということが論じられる部分です。まず独裁者は一番権力を持っているので不正を受けることはなく,またその独裁者より優れても劣ってもいない似たような人間が一番(その独裁者から)不正を受けないだろうと。
そして,この会話の後で,もしそういう立場になったら,逆に不正を行なう人間になるのではないか?とソクラテスは言います。不正を行なっても罰を受けなくてすむわけなので。そして「それなら,その人は,最大の害悪を背負い込むことになるだろう」と。「邪悪な人間でありながら,立派なよい人間を殺すことになる」,と。

ソクラテス「しかしながら,もしも君が,この国の政治体制に,よりよい側面にであろうと,より悪い側面にであろうと,とにかく似た性格の者となってはいないにもかかわらず,その君を,この国において大きな権力を持つ者にしてくれるはずの,何かそういう技術を,他の誰でもが簡単に君に授けてくれるかもしれないと考えているとするなら,その君の考え方は,当を得たものではないとぼくには思われるよ,カリクレス。」(513A,全集ではなく岩波文庫の『ゴルギアス』より)

ということで,ソクラテスは,「政治体制に似た性格の者こそが真の政治家」というようなことを述べます。つまり民主制なので,市民と同じように,ということになります。そしてこれは,すぐ前に挙げた「独裁者に似たものに」というのとは全く正反対なわけです。
この部分は,『クリトン』で,ソクラテス処刑の前日に訪ねてきたクリトンが,逃げるようにとソクラテスを説得しようとしたとき,ソクラテスが「自分がこの国の市民である上は,ここの法によって裁かれることから逃げることはしない」というようなことを言ったのと,何か関連があるように思います (この『クリトン』の要約は記憶が曖昧なのでかなり適当です)。「法」というものが,魂を善いものにするものであるとソクラテスが言っていることに関係があるのかもしれません。市民は一番法律に縛られ (法律は強者を制限するというのもカリクレスの言葉としてありますが,法律そのものから逃れる力が一番弱いのは市民でしょう),独裁的な立場の人間は一番法律を無視する力があるといえます。そしてソクラテスは,法律を無視して放埓な力を振るうよりは,たとえ正しい運用ではなくても自分たちの国の民主制による法律に縛られて裁かれるほうを選んだ…という見方もできるのではないか,と思います。

ソクラテス 「ぼくたちはこんなふうに質問して,お互いをよく調べ合ってみるべきではないだろうか。―「さあ,それなら,カリクレスはこれまでに,市民たちの中の誰か を,一層すぐれた人間にしたことがあるのか。以前は劣悪な人間であったのに,つまり不正で,放埓で,無思慮な者であったのに,カリクレスのおかげで,立派 なすぐれた人間になった者が,誰かいるのか。それは,よその町の人でも,この町の人でも,あるいは,奴隷でも自由市民でも,誰でもよいけれども」と。」 (515A)

この部分,カリクレスを現代の政治家に当てはめたらどうだろう,と思ったりします。現実はどうあれ,政治家がそういう人間であると思っている人は少ないと思います。なお念のため書くと,ソクラテスは政治術を,魂を善くする技術であると述べています。これはメモ(1)の「迎合と技術の一覧」の図でも分かります。また,直前のメモでも書きましたが,「法律が魂を善いものにする」ものであれば,その法律を制定する政治家は,ここで言われているように市民を優れた人間にする技術を持っていなくては法律なんて作れない,ということにもなるでしょう。

ソクラテス「さて,こうしてみると,ぼくと君とはこの議論において,おかしなことをしつづけているわけだ。つまり,ぼくたちは こうして話し合っている間じゅう,廻りまわっていつも同じ所へ戻り,お互いに何を話し合っているのか,相変らずよくわからないでいる始末だからね。」 (517C)

プラトン対話篇ではよくある場面です。次回予定の『メノン』に出てくる,ソクラテスは「シビレエイ」だという喩えと同じで,自分も相手も痺れて結局何を言おうとしているのか分からなくなってきた状態といえるでしょうか。
カリクレスとの対話が始まったときは,この率直な物言いにソクラテス流の対話が通用するのかとちょっと心配になりましたが,ここに到っては良くも悪くも完全にソクラテスの土俵というわけで,杞憂でした。ソクラテス,恐るべし。

ソクラテス「さて,そう言う君 (メモ註:カリクレス) に向って,ぼくがこう言ったとすれば,君はおそらく腹を立てるだろうね。―君,君は体育術のことについては,何もわかってはいないのだよ。君が言っているのは召使たちであり,欲望の求めに応じようとする連中であって,そこで扱われている事柄については,何一つ善いことも美しいことも知らないでいる者たちなのだ。その連中ときたら,ただもうむやみやたらに詰め込んで,人びとの身体を肥らせ,それで人びとからは賞賛されているけれども,結局は,人びとが以前から持っていた肉づきまでも,失わせることになるのが落ちだろう。ところが,人びとのほうはまた,事情にうといものだから,自分たちを病気にさせ,以前から持っていた肉づきまでも失うようにさせた責任は,そのご馳走をしてくれた人たちにあるとはしないで,むしろ,あの時の飽食が―それは健康によいかどうかを考慮しないでなされたものだから―その後かなり時が経って,彼らに病気をもたらすことにでもなると,その時たまたま彼らの傍にいて,何か忠告する者があるとすれば,誰かれの見さかいなしに,その人たちの責任にして,その人たちを非難し,そして,もしそうすることができるなら,何か害を加えようとさえするだろう。これに反して,あの先の人たち,つまり,この災厄の真の責任者である人たちのほうを,人びとは褒めそやすことだろう。」(518C,全集ではなく岩波文庫の『ゴルギアス』から)

微妙にソクラテスの恨み節のような感じもしますが,かなり含みのある言葉だと思いました。欲望の求め,つまり快楽を与えた者勝ちという構図で,本当にその人のためになることをした人のほうが非難される,と。
自分や現実を顧みて言えば,人間とはそういうものだ,とも思います。やはり快適であるとか,おいしいとか,褒められるとか,お金を貰えるとかいうことに対しては嬉しいし,逆の場合には怒ることもあると思います。つまり快楽というのは感情に訴えかけてその人の善悪判断を鈍らせるということが言えるでしょうか。
そしてこの快楽というのを,弁論術に置き換えても同じ,なのでしょう。

ソクラテス「しかしほんとうは,ソフィストの術のほうが弁論術よりも立派であって,それは,立法の術が司法の術よりも,また体育の術が医術よりも立派であるのと,ちょうど同じ程度にそうなのだ。」(520B)

正直ソフィストの術と弁論術の違いというのは未だにはっきりとは分かりません。ただ,どちらも思惑を相手にしているというのが自分の理解です。ここでは,似ているのは確かなのと,既に悪くなっているものを直すものよりは,もともと悪くならないためのもののほうが格上ということのようです。これは「不正を行なわないのが一番よく,不正を行なったら裁きを受けるのが次によく,…」というソクラテスの主張とちょっと共通点があるかもしれません。

ソ クラテス「ぼくの考えでは,アテナイ人の中で,真の意味での政治の技術に手をつけているのは,ぼく一人だけとはあえて言わないとしても,その数少ない人た ちの中の一人であり,しかも現代の人たちの中では,ぼくだけが一人,ほんとうの政治の仕事を行なっているのだと思っている。そこで,いつの場合でもぼくの する話は,人びとの機嫌をとることを目的にしているのではなく,最善のことを目的にしているのだから,つまり,一番快いことが目的になっているのではない から,それにまた,君が勧めてくれているところの,「あの気の利いたこと」をするつもりがないから,法廷ではどう話していいか,ぼくはさぞ困るにちがいないのだ。」(521D)

この部分の前で,「過去にも現在にも,市民をより善い人間にした政治家はいない」ということをソクラテスは言います。そして「自分だけがほんとうの政治の仕事を行なっている」と言います。そして,だからそうではない政治家から不当に訴えられても,弁論術による迎合で言い逃れをする気はないと言います。
自分こそ真の政治家だ,などという言葉はソクラテスには全く似合わない言葉です。当然ですが驕りなど感じるわけがありません。寧ろ真の政治家がいないことへの諦念というか,現れてほしいという渇望というか,そういうものを感じさせます。

カリクレス「それなら,ソクラテス,ひとがそんな状態におかれていて,そして自分自身を助けることができないでいても,それでもその人は,一国の中で,立派にやっているように思われるのかね。」
ソクラテス「それは,カリクレスよ,君が何度も同意していた,あの一つのことさえ,その人が自分の身につけているなら,立派にやっていることになるのだ よ。つまり,人々に対しても,神々に対しても,不正なことは何ひとつ言わなかったし,また行いもしなかったということで,自分自身を助けてきたのならだ ね。」(522C)

カリクレスは,不正を受けることから自分自身を助けることができないと言い,ソクラテスは,不正を行なわないことで自分自身を助けてきたのだと言います。やっぱりかみ合っていませんが,かみ合わないからこそ相補的に浮き上がってくるともいえます。

ソクラテス「そして,その点での無能力のために死刑になるのだとしたら,ぼくは残念に思うだろう。だがしかし,もしこの ぼくが,迎合としての弁論術をもち合わせていないがために死ぬのだとすれば,これはうけ合っていいけれども,ぼくが動ずることなく死の運命に耐えるのを, 君は見るだろう。というのは,死ぬという,ただそれだけのことなら,まったくの分らず屋で,男らしくない人間でないかぎり,誰ひとりこれを恐れる者はいな いからだ。しかし,不正を行なうことのほうが,誰でもが恐れるからだ。」(522D)

メモの冒頭にも書きましたが,ソクラテスの「哲学の生活」にはそこまでの覚悟が必要なのか,と思わずにはいられません。そして将来実際にこの通りに殺されるわけです。世の中にソクラテスのような人がいないのは,快楽に負けるというよりは,この「覚悟」がないからではないか,という気もします。
「死を恐れる者はいない」と,簡単に言いますが,どうなんでしょうね。昔と今とでは,今の方が交通事故とかいわゆる「不慮の」事故で死ぬ可能性が上がっていると思いますが,逆に病気で死ぬ可能性は下がっているはずです。宗教観もあるので一概には言えないと思いますが,死を恐れないと平然と言える人も現代ではなかなかいないと思います。

ソクラテス「なぜなら,カリクレス,不正を行なう自由が大いにあるなかで育ちながら,一生を正しく送り通すということは,むつかしいことであるし,したがって,それは大いなる賞賛に価するからだ。」(526A)

いわゆる「ノブレス・オブリージュ」を思い起こしました。

ソ クラテス「さて,ぼくとしては,カリクレスよ,これらの話を信じているし,そして,どうしたならその裁判官に,ぼくの魂をできるだけ健全なものとして見せ ることになるだろうかと,考えているわけだ。だから,世の多くの人たちの評判は気にしないで,ひたすら真理を修めることによって,ぼくの力にかなうかぎ り,ほんとうに立派な人間となって,生きるように努めるつもりだし,また死ぬ時にも,そのような人間として死ぬようにしたいと思っているのだ。そして,ほかのすべての人たちに対しても,ぼくの力の許す範囲内で,そうするように勧めているのだが,特にまた君に対しても,君が勧めてくれるのとは反対になるけれ ども,いま言ったその生活を送り,その競技に参加するように勧めたいのだ。」(526D)

この前の部分は,死んだときの神話がソクラテスによって語られます。それは,「死ぬとその時点での魂が,誰のものか (どんな身分の者か) が分からない状態で,神 (ラダマンテュス,アイアコス) によって裁判にかけられ,不正を行なっていればタルタロスに送られる」というようなものです。そしてこのソクラテスの言葉に繋がります。

ということで以上。
『ゴルギアス』のメモは3回に分かれて,しかもそれぞれが長くなってしまいましたが,それだけ印象的な対話篇でした。読み物としても面白いですし,「技術と迎合」,「不正を行なうよりは不正を受けるほうを選ぶ」といったことは目から鱗といった思いもしました。

次回は『メノン』の予定。