プラトン『法律』第二巻メモ(2)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第二巻を読んだときのメモ第二弾。

早速読書中にメモしたところを振り返ります。

アテナイからの客人「するととうぜん,不正な生活は,正しく敬虔な生活よりも,たんに醜く劣悪であるばかりか,じっさいは,はるかに不愉快なものともなるわけです。」
クレイニアス「少なくともこれまでの議論からすれば,そのようですね,あなた。」
アテナイからの客人「だが,たとえ事実が,いまの議論が明示したようではなかったとしても,多少ともなすところのある立法者が,若者のためによかれと思い,あえて彼らに多少の偽りを言う場合,これ以上に有益な偽りを言うことができるでしょうか。若者たちのすべてが,強制的にではなくみずからすすんで,すべての正しいことを行なうようにさせるのに,これ以上有力な偽りを言うことができるでしょうか。」(663D)

この辺りは,言っていることはなるほどという感じですが,会話の前後の脈絡があまりないような気がします。
次もセット。

アテナイからの客人「立法者がよく考察して見つけねばならないことは,ほかでもなく,なにを説得すれば国家に最大の善をなしうるか,ということなのです。またそれに関連し,万全の方策をも見出さねばなりません。いったいどのような方法をもってすれば,国家という共同体全体が,歌,物語,散文のいずれにおいても,生涯を通じてつねに,その問題に関してできるかぎり同一のことを口にするようになるかという,そのための方策をね。だが,これとは多少でも異なった意見をおもちでしたら,これに対して反論してくださって,いっこうに差しつかえありません。」(664A)

教育とは事実を教えるだけではない。「魂の向け変え」ということが『国家』篇で出てきたと思いますが,それを思い出しました。
しかし国家全体が,生涯を通じてつねに,同一のことを口にする…というのは今の感覚では明らかに社会主義的に思えます。最善のものは不変である,と仮定すればその通りなのでしょうが。

アテナイからの客人「では,老人から成る,この,わたしたちの国家の最善ともいうべき部分,それは年齢と思慮の点で,市民のうち最も説得力をもっている部分ですが,その部分は,いったいどこで,その最も美しい歌をうたえば,最大の善をもたらしてくれることになるでしょうか。いやそれとも,最も美しく,最も有益な歌に関するこの上ない権威ともいうべきこの部分を,わたしたちは,そうむざむざと放置しておいてよいでしょうか。」(665D)

飛ばしましたが,この前でムゥサ,アポロン,ディオニュソスに対応する3種の歌舞団として,(1)少年歌舞団,(2)30歳未満の者からなる歌舞団,(3)30歳以上60歳未満の者からなる歌舞団,があって,これらによって「最も楽しい生活と最も善い生活が一致することが神々によって語られている」と言われます。特に(3)の「老人たちから成るディオニュソスの歌舞団」について,どんな役回りなのかという疑問がクレイニアスによって呈されて,色々話されることになります。

アテナイからの客人「ではわたしたちは,彼らを心から歌に向かうようにさせるには,どのような仕かたで元気づければよいのでしょうか。次のような法律を立てるのが,よいのではないでしょうか。
まず第一に,十八歳未満の子供には,彼らが生活の労苦に立ち向かうようになるまでは,若者にありがちの激情的な性情を警戒させ,身心ともに,火に火をそそぐようなことをしてはならないと教えて,酒はまったく飲ませません。
つぎに,三〇歳までの若者に対しては,適度に酒を飲ませるが,酔っぱらうことや深酒は,かたくひかえさせます。
しかし,彼らが四〇歳に達した場合には,共同食事で食事をすませたあと,神々の名を呼び,わけてもディオニュソスを呼びよせて,老人たちのなぐさみでもある秘儀に臨ませるのです。というのも,その秘儀,―これはつまり酒のことですが―,それは,ディオニュソスが,老いのかたくなさに備える薬として,人間たちにあたえてくださったもので,そのおかげでわたしたちは若返り,あたかも火に入れられた鉄がそうなるように,魂の性格は憂いを忘れて頑固から柔軟となり,そのようにして,ずっと扱いやすくなるのですから。」(666A)

ということで,また酒が出てきました。「ディオニュソスの」歌舞団,というあたりから伏線はあったということになります。
ともあれ,ここでは善と楽しさ (快) の一致という流れで,善を広める力を持つが羞恥心がある年長者に楽しさを与えるのが酒,ということになるでしょうか。

アテナイからの客人「ところで,まず初めに,なんらかの楽しさが伴うものにはすべて,とうぜん,こういう事情が見られるのではありませんか。つまり,それの最も重要な要素は,まさにその楽しさそのものだけであるのか,あるいは,ある種の正しさがそれか,または三番目に,有用性がそうなのか,そのいずれかだということです。」(667B)

アテナイからの客人「さらにまた学問にも,楽しさ,つまり快楽が伴っていますが,しかし,その正しさや有用性,善さや立派さをつくり上げているものは,真実性なのです。」(667C)

学問に快楽が伴う,というのはもうすこし詳しく聞きたいところではありますが…。またこの前後には食物,模写の例もあり,それらの場合には,例えば食べる快楽とは副次的なもので,有用性を持つのは食べ物に含まれるものである…といったことが言われます。

アテナイからの客人「そうなると,快楽という尺度で判定されて差しつかえないのは,こういうものだけではないでしょうか。有用性も真実性も類似性も生み出すことなく,また,もとより害をもたらすこともなくつくり出されるもの,いやむしろ,それら (有用性,真実性,類似性) に付随する楽しさ,ただそれだけを目的として生じるもの,そういうものだけではないでしょうか。もしその楽しさに,以上のどれ一つも付随しないときには,これを快楽と名づけるのがいちばんよいでしょうね」(667D)

少しわかりづらい…。前に具体例として挙げられた,食物,学問,模写などは,有用性,真実性,類似性という「良さ」があるので,それは付随する楽しさで判定すべきではない,ということになるのでしょうか。
自分がここで連想したのはゲームです。上記引用の後にも,その快楽が害にも益にもならないものを遊戯と言う,とも言われていますが,まさに快楽を尺度にするのに相応しいのがゲームだという気がします。まあゲームにも歴史を学べたりするもの (学問?) とか感動する RPG (模写?) とか色々あり,ここで引き合いに出せるのはスマホでやる単純なパズルものなど,割と限定されるかもしれません。

アテナイからの客人「すると,今言われたことから,こんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。およそいかなる模倣にしても,けっして快楽や真ならざる思わくを尺度として判定されるべきではない,―さらにつけ加えれば,いっさいの「等しさ」もまた同様である,とね―。」(667E)

アテナイからの客人「むしろ,いっさいの模倣は,なによりもまず,真実を尺度として判定さるべきであって,断じて,それ以外のものによってではありません。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」
アテナイからの客人「ところで,音楽はすべて,模倣や模写の技術だと言うのではありませんか。」
クレイニアス「そのとおりです。」
アテナイからの客人「そうすると,音楽は快楽を尺度として判定される,と主張する人があっても,けっしてそのような説をうけいれてはなりませんし,また,かりにそうした音楽があったところで,けっしてそれを卓越したものと見なして,探し求めたりしてはなりません。むしろ,わたしたちの求めるべき音楽は,美の原像との類似性を,よく保存しているものでなくてはならないのです。」(668A)

プラトンは「模倣」をテーマにするのが好きなようで,『国家』第9巻などは印象的です。それでも音楽は模倣,と言われるといつも違和感がありますが…。楽譜とか原曲通りに奏でること,という意味でもないのでしょう。プラトンに慣れている自分としては,何か感動する音楽があるとして,「そのまさに感動する部分」(←美の原像?)をどのくらい含むのか,ということを「類似性」と言っているのではないかと読めます。ただこれを恣意的に設定することが想像できるので,先に書いた違和感になってくるのでしょうか?
ただこれはプラトンの意図とは違うかもしれません。模倣するものとしては,この後にも挙げられるように,リズムや旋律を (善いとされる音楽に) 似せる,という具体的なものが想定されているっぽいので。

アテナイからの客人「こうしたやり方はすべて,敏速,技巧,動物的音声を愛好するあまり,笛や竪琴の音を,踊りや歌の伴奏以外においても用いているわけで,きわめて粗野なものであると。けだし笛,竪琴,いずれにせよ,歌い手ぬきで,ただそれだけを用いるというやり方からは,音楽の教養とはまったく関係のない,金銭目あての巧妙さが生まれてくることになるでしょう。」(669E)

かなり省いていますが,模倣,特に音楽の模倣について長く言及しています。引用した部分では,歌がない音楽を否定している?
この後の部分でも,音楽の「正しさ」の認識の重要さを説きます。「正しさ」というのは,「正当」という意味ではなくて「正統」という意味であるなら,模倣というのも正統性を保つという意味で,理解はできるような気もするのですが,「それがいかに立派につくられているか」(669B) ,これは正当性と言えると思いますが,も分からないといけないと言われています。

アテナイからの客人「どうやらここで,わたしたちは再び,あのことを見出しているようです。つまり,今しがたもわたしたちが元気づけ,また一種の方法をもって強制し,自発的にうたうようにさせているかの歌い手たちは,その一人ひとりが,リズムの歩みや旋律の調べに歩調を合わすことのできる程度までは,音楽教育をうけていなくてはならない,ということです。」(670C)

アテナイからの客人「さて,初めにこの議論が目的としたことは,ディオニュソス歌舞団のための弁護の正当性を立証することにあったわけですが,それは力のかぎり話されました。そこで,それがそのとおり成功していたかどうかを調べてみようではありませんか。
思うに,そういう集会は,いつものことながら,酒が進むにつれて,きまって騒がしくなるものです。それとてしかし,今話題になっている集会ではやむをえぬことだと,わたしたちは初めに前提しておきました。」(671A)

ということで,前に言われていた「老人たちから成るディオニュソスの歌舞団」の教育,なかんずく,酒の力を借りると言われていた点について振り返りが始まります。

アテナイからの客人「わたしたちはまた,こうも言いはしなかったでしょうか。そういう状態になると,酒を飲む人たちの魂は,まるで鉄か何かのように灼熱して柔軟にも若々しくもなるから,したがって,教育や形成の能力とそのすべを身につけた人にとっては,その人たちの指導は,彼らが若かった頃と同じように,容易に行われるのだと。」(671C)

さすがに無茶苦茶だと思いました(汗)。確かに,頑なさを和らげ若々しくなるというのは多少分かりますが,それが教育のため,「正しさ」を身に着けるために役立つと言われると…。マイナス効果の方が大きそうな気がしますが。

アテナイからの客人「酒宴に関する法律を制定するのも,その人の仕事でなくてはなりません。それは,その酒宴の席にある者が,期待にあふれ気が大きくなり,度を越して恥知らずになり,また,沈黙,会話,飲酒,音楽などの順序も,それを交互に行なうことをも守ろうとしなくなると,万事それと反対に振舞う気持をおこさせる法律なのです。そして,そういう感心できぬ大胆さのきざしがあらわれるや,これに戦いを挑むきわめて立派な恐怖,わたしたちが慎みとも羞恥心とも名づけたかの神的な恐怖を,正義の力をかりて,直ちに送りこむことのできる法律なのです。」(671C)

酒のマイナス面を法律によって抑え込む,という恐ろしい発想に思えます。まあここでいう「法律」が不文律的なものを指すのなら,現代でも通じているという気はしますが,「羞恥心という恐怖を,正義の力をかりて送り込む法律」と言われると思想弾圧的なものに繋がりそうに感じさせます。

アテナイからの客人「では,この体育という遊戯の起源もまた,すべての動物が,生まれつき跳びはねる習性をもっていることにあるのです。ところが人間という生きものになると,すでに言ったように,リズムの感覚をそなえているところから,踊りを生み出したのです。他方,[歌の]旋律がまたそのリズムを思い出させ目覚めさせるので,その両者が互いに一緒になって,歌舞としての遊戯を生んだのです。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」(673C)

教育とは音声に関わる部分 (音楽),身体の運動に関わる部分 (体育術) に分かれる,と言われ,今までは前者について詳しく論じたので,今度はぜひ後者をと言われて,話されることになります。
…が,実際には上記引用のあと,忽ち次の飲酒についての仕上げに入ってしまい,身体の運動に関わる部分は全然話されません。どこかテキスト自体が不完全な印象を受けます。

アテナイからの客人「では,もしあなた方お二人さえよろしければ,まず酒の酔いの扱い方について,最後の仕上げをしようではありませんか。」(673D)

アテナイからの客人「もしある国家が,今言われた飲酒のしきたりを真剣な問題と見なし,節制をわきまえるための訓練にする意味で,法律と秩序を守って行なうなら,また,その他の快楽に関しても,同様に同じ原理で,快楽に打ち勝つための方法と見なしてそれを回避しないようにするなら,それらのいっさいを同じ方法で扱わねばなりません。
しかし,もし国家が,その風習を娯楽と見なし,誰でも飲みたい人は,飲みたいときに,誰であれ飲みたい相手と一緒に,飲むことが許されているとするなら―その他酒以外のどんな風習の場合も同様ですが―,わたしは,そういう国家やそういう個人が飲酒に親しむべきであるということには,賛成投票をしないでしょう。むしろクレテ人やラケダイモン人の慣例どころか,カルケドン人の次のような法律に賛意を示すでしょう。」(673E)

ということで酒についての仕上げです。「カルケドン人の法律」というのは,直後に言われますが飲酒についてかなり厳しい制限を課すものです (軍役に服している時はいかなるときも飲んではいけないとか,官職にある者は在職年間は飲んではいけないとか)。
特に目新しい内容はなく,飲酒を一種のテストとして,法律によって制限するということが言われます。

第二巻は以上で終わります。
対話に起伏がなく,淡々と進められる感じで,読むのが退屈に感じられたのがこの巻だったというのが率直な感想です。また最後の方で,音楽について語り終えた後で,「もう半分」の体育術について語ると言いながらあまり語られずに終わったのは違和感を感じました。