プラトン『法律』第六巻メモ(2)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第六巻を読んだときのメモ第2弾です。

第六巻は,国における役職の話がずっと続いてきましたが,後半は結婚に関する話題が大部分を占めます。また合間に,奴隷に関することや女性についての立法に関することも話題になります。この辺りは当然,人権意識が現代とはかなり異なるので割り引いて読む必要はありますが,実はあまり変わっていないのでは?と思わされるところでもあります。

以下読書時のメモです。

アテナイからの客人「さて以上につづいて,わたしたちの法律は,次のように神聖な事柄を出発点として,そこから始めることにしましょう。つまりまず最初に,わたしたちはもう一度あの5040という数を取りあげて,それが全体としても,また各部族の戸数としても,どれだけの便利な因数を含んでいたか,また含んでいるかを考えてみなければなりません。各部族の戸数をわたしたちは全体の12分の1としましたが,それはちょうど21の20倍にあたります。そしてわたしたちの全体数は12で割ることができ,部族の戸数も12で割ることができます。ですから,それぞれの部分は1年の各月と,万有の回転に対応し,神聖なもの,神の賜物と考えられなければなりません。」(771A)

以前にも出てきましたが,また 5040 という数字が出てきました。
ただ,この「神聖な」数字に基づいて,月に2回祭壇で犠牲を捧げる集まりを催し,そこを婚活パーティのようにも利用?するつもりのようです (その部分は省略)。
考えてみれば,今のように時計やカレンダーもなく,会社も学校もないような時代に,国のようなところが,何かを定期的に開催する,ということの重みは今よりもずっと大きかったのでしょう。かつそれを結婚の機会に結び付けるというのは,今から見ると突拍子もないように思えますが,後で出てくるように当然の要請だったのかもしれません。
この後,第16章からの結婚の話題が続きます。

(第16章)

アテナイからの客人「さて25歳に達した男性は,お互いに調べたり,調べられたりした上で,自分の意にかない,協力して子供を持つにふさわしい娘をみつけたと思ったなら,35歳までのあいだにすべて結婚しなければなりません。だが,適当な,似合いの相手を探す方法について,彼にまず聞かせておかなければなりません。」(772D)

ここからは割とストレートに,いつ誰と結婚すべきか,という話がなされて,本対話篇の中では比較的読み易いところです。
前述の「婚活パーティー」としての集まりもそうですが,何となくお見合い結婚のようなものが前提になっているようにも思えます。

アテナイからの客人「「息子よ,お前は思慮ある人びとにとって評判のよい結婚をしなければならない。彼らはお前に,貧しい人びととの結婚を避けたり,金持との結婚をとくに追い求めたりせずに,もし他の条件が同じなら,つねに劣った方を選んで結婚するようにと忠告するであろう。」」(773A)

アテナイからの客人「「すなわち,各人は,国家にとって利益をもたらす結婚を求むべきであって,自分にとって最も快適なものをではない。ところが,すべての人はなぜかつねに自分に最も似た性質を持つ者の方へ引かれるもので,その結果,国全体に,富の上でも性格の上でも不均衡が生まれる。ここから,わたしたちの国では起こってもらいたくないことが,たいていの国ではじっさいによく起こるのである。」」(773B)

「つねに劣った方を選んで結婚するように」というのは (前提として自分が裕福で優れているということがあると思いますが) かなり意外な言葉です。
つまり結婚とは国の利益になるべきであって,そのためにはできるだけ国民が均一になるようにすべき,と考えられていることが分かります。他にも,せっかちな人は物静かな人を迎えるように,などとも言われます。
別の見方をすると,結婚によって格差が縮小するようにしている,とも言えます。翻って考えると,現代では,裕福な人は裕福な人と結婚するケースが多いようにも思われ,それはどうしても格差が拡大する方向のようにも思われます。だとすると,それを是正するのが国の役割という気もしますが,流石に現代では結婚相手を制限するのは自由の侵害という面が大きく無理なので,課税や給付によって行うということになるのでしょう。
なおこの辺りは,「これらのことを法律の条文によって規定すること (中略) は,滑稽なばかりでなく,多くの人びとの怒りを買うでしょう。」と言われ,法律化はさすがに考えられていなかったようです。

(第17章)

アテナイからの客人「もし誰かが故意にそれに従おうとせず,国のなかにあってよそものとして他人と交わらず,結婚しないままに35歳になるならば,彼は毎年罰金を払わねばなりません。」(774A)
アテナイからの客人「ところで,結婚を欲しない者は,金銭的には,以上の罰を科せられますが,尊敬という点では,彼は年下の者から受けるいっさいの尊敬を奪われ,若者たちも誰ひとりとして自分から進んで彼に従ってはなりません。」(774B)

独身者に厳しいですね。表向きは「子孫を残し,つねに自分に代って神に仕えるものを提供することによって,永遠のいのちに参与すべきだという先の言葉にあわせて」と言われますが,やはり「国家の利益」のためというのは間違いなさそうです。この辺りは,たまに日本の政治家の失言に現れますが,税金や国民の労働で成り立っている現代の国家でも本音は同じなのでしょう。

アテナイからの客人「婚約の権利は,第一に父親,第二に祖父,第三に父を同じくする兄弟に属し,これらの人びとが一人もいない場合には,つぎに同じ順序で母方の親族に移ります。」(774E)

本人の意思ではないのですね。まあ時代が違えば,それも当然と考えられていたのでしょうか。父権的というか,日本でも100年前は似たようなものだったのかもしれません。

(第18章)

ここでは結婚披露宴について,人数はどのくらいが良い,といったことが言われます。
また子供を作ることについて,酒に酔った状態でできた子供は,「性格も身体も真っすぐでない子供」(775A) になるということも言われます。科学的根拠はなかったと思いますが当時でも経験的に知られていたことなのか,それとも酒を戒めるための口実だったのか。

(第19章)

アテナイからの客人「つぎに所有物としては,どんなものを持っていたら,最も適当な財産を持っていることになるでしょうか。その多くは,考えることも,手にいれることも困難ではありませんが,奴隷のことになると,あらゆる点でむずかしいのです。」(776B)
アテナイからの客人「もちろん,わたしたちは誰でも,奴隷はできるだけ気立てのやさしい,できるだけ立派なものを所有すべきだと,言うであろうということは分っています。なぜなら,奴隷の方が兄弟や息子よりも,あらゆる徳性において優れていて,主人やその家財や家族全体を救ってくれたことが,これまでに数多くあるのですから。たしかに,こういうことが奴隷について言われていることをわたしたちは知っています。」(776D)

奴隷の所有について語られます。最初の言葉から,当時から微妙な問題ということは認識されていたことが分かります。
「奴隷の方が兄弟や息子より,あらゆる徳性において優れている」ことが数多くある,というのはかなり意外な言葉です。ただ直後には「また反対に,奴隷の魂には健全なものは何ひとつなく,道理をわきまえた人なら,こんな輩を何ひとつ信用すべきではないとも言われていますね。」(776E)とも。続きます。

アテナイからの客人「ひとが,見せかけでなく心から正義を敬い,真に不正を憎む者であることが明らかになるのは,自分が容易に不正を行なうことのできる人びとに対するときなのです。ですから,奴隷に接するときに示される性格や行為において,不敬や不正に汚されていない者は,徳を育てるための種を蒔く能力を,誰よりも充分に具えていることになりましょう。そして,主人にせよ,僭主にせよ,あるいはおよそどのような権力にしても,自分より弱い者に対して権力を行使する人について,同じことをしかも正しく言うことができます。」(777D)

これは至言だと思います。
プラトンは奴隷制度を否定はしていないし,懲らしめるべきは懲らしめ,付け上がらせてはいけない,とも述べています。また,いっそ別の国の言葉が分からない人たちを奴隷にすべきである,という案も出していて,後の帝国主義,植民地主義を予感させます。
しかし何というか,悪気があまり感じられません。それは,前に挙げたように「奴隷の方が徳性が優れている(ことがある)」と率直に認める面もあり,奴隷に対しても人格をはなから否定しているわけではない,と感じられるからのように思います。そういうふうに互いに接しているのであれば,会社の社長が平社員より幸福とは限らないのと同じで,奴隷も不幸ではないのかもしれません (職業選択の自由の面からは無論許されないでしょうが)。晩年ではありますが,プラトンにたまに感じる前向きさ,明るさのようなものがここでは出ているのかもしれません。
今の日本でも,外国人や低賃金の労働者,ブラック企業の社員など,実質的に奴隷のように扱われている人たちがいる,ということを認めない人は少ないと思います。寧ろ,プラトンが奴隷を見る目よりも,ずっと当人の尊厳を蔑ろにするケースが多いのではないかとも思います。なのでここで悪い意味で言われていることは今でも通用してしまいそうな気もします。

(第20章)

アテナイからの客人「新しく建設され,いままで住居というものがなかった国では,建造物のいわばすべてについて,それらのいちいちを,とくに神殿や城壁を,どんなふうにするかを考慮しなければならないようです。」(778B)

住居や建造物についての話題です。こういう話の勢いになると,『ティマイオス』の国家建設版,という印象がますます強くなってきます。
この後具体的に,神殿は高いところに立てて,隣接して役所と裁判所を,ということなどが言われます。

アテナイからの客人「城壁については,メギロス,少なくともわたしはスパルタに賛成し,城壁を地中に横たわったまま眠らせておいて,起こしたりはしますまい。(中略) 城壁というものは,第一に,国家にとって健康上少しも益がありませんし,またそのなかに住む人びとの魂に,一種の意気地のなさを植えつけるのが常です。城壁は,人びとを誘って,敵を防ぐよりもそのなかへ逃げ込ませ,夜も昼も絶えず誰かが見張りをすることによって国の安全を確保する代りに,城壁と城門に守られて眠りこけているのが,真の安全を得る手段だと考えさせるのです。まるで彼らは苦労を免れるために生まれてきたかのように,そして真の安楽は苦労を通じて得られることを知らないかのように。」(778E)

城壁についてのここは面白いところです。スパルタに賛成し,と言われていますが,理由がまさにスパルタ式ですね…わざわざ住民に苦労させるために城壁を作らないと。冗談なのか本気なのか分かりません。
ただ,城壁の必要性も認識はしているようで,作る場合の構造も述べられています。

(第21章)

アテナイからの客人「彼が個人生活に関しては強制の必要をいっさい認めず,各人はその欲するままに日を送ることが許されるべきであって,けっしてすべてを規則ずくめにすべきではないと考えるならば,どうでしょうか。つまり,個人生活は法律で規制せずに放っておきながら,公共の生活に関しては,市民が法律に従って生きるであろうと期待するとしたら,このような考えはけっして正しくはありません。」(780A)

何気なく書かれているところですが,個人の私生活をかなり規制するようなことが言われています。ただ,公的な場でちゃんと法律を守って生活していくには,プライベートでもそれなりにちゃんとしていないといけない,というのはある程度当たっているという気もします。それは,法律の延長線上 (または起源) にある「法」というものが,人間である限りは公私関係なく普遍的なものであるからだろう,という思いがあるからかもしれません。
ただ国家全体の利益を優先し,人権というものを考慮しなければ,こういう発想になるのも分かる気はします。現代の国家と「国力」というものの位置づけが違っていて,やはり特に戦力というものが重視されるので,規律が重要視されているのでしょうか。

この後で,結婚後も夫は「共同食事」をすべきである,ということが言われ,次の引用に続きます。
「共同食事」というのは『国家』篇や本対話篇でも何度か出てきて,すっかりおなじみの感があります。

アテナイからの客人「しかし,女性の方はまったく不当にも,法律の規制を受けずに放置され,彼女たちの共同食事の制度は日の目をみるに至りませんでした。わたしたち人間のうち,生来その弱さのゆえに,よりいっそう隠しごとを好み,奸智にたけた種族,すなわち女性は,立法者が不当にも手を引いたため,無秩序のままに放置されているのです。」(781A)
アテナイからの客人「すべての制度を女性にも男性にも共通に実施することが,国家に幸福にとってより好ましいことでしょう。」(781B)

確かに「共同食事」というのは国の守護者を対象にしたもの (暗黙的に男性),というのが『国家』篇での前提だったと思いますが,少し前に男性は常に適用されるべきと言われ,さらにここでは男女関係なく適用させるべきだと言われています。
引用の前者の女性に対する偏見はともかく(引用は省いたが,女性は男性より徳性が劣るとも),後者だけ見ると男女平等に少し近づいたともとれます。まあこの制度自体どうなの?とも思いますけど。安全のため,という記述が前にありますが,計画経済的なメリットがあるというのはあるでしょうか。
また,「女性に人前で公然と飲み食いすることを無理強いしようとすることなど,どうして嘲笑を招かずにできましょうか」(780C),「女性は引きこもってひそやかに生きることに慣れている」(同) ということもアテナイからの客人に言わせています。現代でもイスラム教の地域などは,これとあまり変わっていないのではと思われます。
そこで「共同食事」の説が,そういう状況を変えるために,男女関係なく同じ制度を適用すべき,と言っているのなら良いのですが…。そうとも取れる箇所はありますが,ただどうもそうではなくて,女性の方が徳性が劣るために法の支配を強めるべきだということを言っているように思えます。或いは,もっと合理的な理由をプラトンは持っていたのでしょうか?

(第22章)

アテナイからの客人「たしかに,今日でもなお多くのところに,人間がお互いを生贄にするということが残っているのが見られます。しかし別のところでは,これとは反対に次のようなことを聞いています。つまり,人びとは牛肉を味わうことなど敢えてしなかったし,また神々への供物も生きものではなく,麦粉菓子とか蜂蜜漬けの果物とか,その他これに類する清浄な供物であって,肉を食べたり,神々の祭壇を血で汚したりすることは敬虔ならざることであるとして,肉を遠ざけ,いわゆるオルペウス教徒の生活を当時の人びとは送っており,すべていのちのないものだけを口にし,反対にいのちあるもののすべてから遠ざかっていたのです。」(782C)

この部分,今でいうヴィーガン?を連想します。オルペウス教徒というのはあんがい先進的に思えてきます。
さて何故こんなことが急に言われているか?というと,何か深いところが考察されているように思うのですが,自分には理解できているか分からずうまく説明できません。ただ,「人間の種族はその生成の初めもなければ終りもなく,つねにあったし,また将来も絶えずありつづけるものであるか,あるいは人間が初めて生まれて以来,経過した時間の長さは測り知れないほどであったか,そのいずれかだということです」(781E) で始まる本章では,人間の欲望3つ:食べること,飲むこと,生殖の欲望,ということも言われ,それらを,恐怖と法律と真なる言論とによって快楽から善へと向け変えられる,ということも言われます。
正しい法律や支配がなく本能の赴くままなら,人間は共喰いをして生きていくようにもなりえるが,そうでなければ人間以外の生物を粗末にすることもない,ということでしょうか。

(第23章)

ここでは新婚夫婦の子作りに関することが言われます。省略しますが,監督者がいて,夫婦を監督し,定められたこと以外に目を向けている者がいれば報告するということも言われます。以前の巻でも思いましたが,ひどい監視社会です。

アテナイからの客人「子供をつくる機関と子供をつくる者たちを監督する期間は,子供が生まれやすい場合には10年とし,それ以上にわたってはなりません。しかしもし誰かが,この期間が過ぎても子供ができなかった場合には,身内の者たちや監督の役にある婦人たちとともに,双方に都合のよい条件を協議して離婚させます。」(784B)

子供ができなかった場合は離婚させる,というのを国としてさせるのはすごいですね。やはり「国力」を考えた場合には何としても子供を産ませる,ということでしょうか。

アテナイからの客人「しかし法の定めるところに従って子供を設けた後に,もし男が妻以外の女性と,女が夫以外の男性と同様の関係を持つならば,相手がまだ子供をつくる年齢にある場合には,子供をつくる年齢にある人びとについて言われたのと同じ罰を与えるべきです。しかしその年齢を過ぎると,このような事柄に関して自制心のある男女は大いによい評判を受け,反対の者は反対の評判を,というかむしろ不評判をこうむります。大部分の者がこのような事柄に関して節度を守るならば,規則などつくらずにそっとしておくべきですが,風紀が乱れている場合には,いま定めた法律に従って規則をつくり,それを実施しなければなりません。」(784E)

いわゆる不倫に関してでしょうか。ここまでの流れであれば,子供が沢山作れるのであれば不倫も不問に付す,とでも言いかねないところですがさすがにそこまではなく,そこは節度を優先させるようです。

アテナイからの客人「結婚年齢の限界は,女性は16歳から20歳まで,男性は30歳から35歳までとすべきです。」(785B)

婚期が短いですね…。特に女性はなんでこんなに短いのだろう,とも思いますが一昔前の日本もそんな感じだったのかもしれません。寿命も今とはだいぶ異なったからというのもあるのでしょうか。前には男性は35歳を超えたら罰金とありましたし…。

アテナイからの客人「役職につくのは,女性は40歳,男性は30歳からとします。軍務に関しては,男性は20歳から60歳までとします。しかし,女性については,軍務に関して女性を用いる必要があると考えられる場合にかぎって,子供を生んでしまってから50歳に至るまで,各人に可能な,また適当な仕事を課すべきです。」(785B)

女性も (男性と身体能力的な面以外では区別せずに) 軍務に就かせる,というのは『国家』篇でも言われていたことで,結婚・出産を前提にしてはいますが社会復帰のことまで考えられているのは結構進んでいるような印象も持ちます。

第6巻のメモは以上。
主に結婚に関する話題が多くを占めましたが,やはり支配者の立場として「現実的」な見方をしているのかなぁという印象です。かつ個人の自由というかプライベートがあまり考えられていません。ここまで結婚・出産を強いるような法律は,子供を生ませて少なくとも人口が減らないようにしなければならない,という国の将来を考えれば,立法者の立場としてどうしても必要だと考えたのかもしれません。
勿論,個人の自由や尊厳が認められている現代から見ればありえないものが多いわけですが,明文化されていないだけで,国を支配する人びとの意識がそこまで変わったわけではない,とも思えます。
奴隷に関することも同じで,今は制度的には勿論奴隷制はあり得ませんが,特に低賃金で立場の弱い人の,人としての尊厳が守られていない例は多くあると思われ,実質的にそういう扱いを受けていると思います。民主主義/資本主義の現代でも,プラトンの当時と同じことが実質的に起っているのは,どう考えるべきなのでしょう。まあそう思うのは日本人だからであり,欧米やそれに倣った新興国では,立法者や為政者の意識はもっと変わっているのかもしれません。

法律というのは,元々,ある意味「理想」に似ていると思いますが,理想をあらゆることについてこまごまと書こうとすると,理想たりえなくなる,という矛盾のようなものがあるように思います。そこに苦しみつつ書いたのがこの『法律』ではないか?とも思います。