プラトン『国家』第十巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻,岩波文庫『国家』(下)) 第十巻を読んだときのメモ第2弾。

メモ(1)でいわゆる「詩人追放論」の部分が終わった後,まず魂の不死が論じられます。その後,『国家』篇の最後の最後,「エルの物語」が語られます。
少し先取りしますが (そして実は物語自体は本メモではあまり取り上げていませんが),すごい物語です。岩波文庫で20ページちょっとですが,これだけで映画化やゲーム化ができそうなほど,時間的にも空間的にも壮大なスケールを感じさせる物語です。また惑星の運動に関する知見が当時も結構あったんだなあと驚かされます(尤も脚注を読まないと分かりませんでしたが)。と同時に,生前の生き方が死後の生き方を束縛するという意味で,この期に及んでは宗教的な何かをも感じさせます。
それと,プラトンの著作はそもそも対話篇という形式が独特なわけですが,更にその中で色んな設定を含んだ物語の形で自説を語るというのも回りくどい感はあります。この「エルの物語」というものは一体何なのか?プラトンはどういう意図でこれを考え出し,書いたのか?というのも興味深いところです。「自分自身も詩人だということを示して対話から追放して終了させるため」という皮肉だというのが私の皮肉です(笑)。勿論冗談ですが。
以下読書時のメモです。

「しかしながら」とぼくは言った,「われわれはまだ,徳の最大の報い,徳に対して約束されている最大の褒賞のことを,語ってはいないのだ」(608C)

詩人についての対話が終わって,直後にこう言われます。徳の最大の報い,とは何でしょうか?

「わずかばかりの時間のうちには,どれほどの大きなことが生じうるだろうか?というのは,幼少から老年にいたるまでのこの時間の全体などというものは,全永劫の時間にくらべるならば,ほんのわずかなものにすぎないだろうからね」(608C)

マルクス・アウレリウス・アントニウス『自省録』あたりにも,似た言葉が出てくるのを思い出しました。何か理想化されたものがあり,それは恐らく未来永劫不変で,それに対して自分が年を取るのは如何に速いことか,そしてすぐ死ぬのだろう,というようなことは自分も最近よく感じます。

「君は気づいていないのかね」とぼくは言った,「われわれの魂は不死なるものであって,けっして滅び去ることがないということに?」
するとグラウコンは驚いて,わたしの顔をまじまじと見つめて,言った,
「いいえ,ゼウスに誓って!あなたには,それがそうだと確言できるのですか?」
「当然できなければならぬはずだ」とぼくは答えた,「君にしても同じだと,ぼくは思う。何も特別むずかしいことではないのだから」(608D)

グラウコンがどちらの意味で「いいえ,ゼウスに誓って!」と言ったのか分かりづらいところですが,否定の意味なのでしょう。オーバーリアクション気味のそのグラウコンに対して,ソクラテスは当然のように魂の不死を確言できると言います。
今の世の中でも,別に宗教的じゃない人でも亡くなった人に対して「あの世で喜んでいることでしょう」といった言葉をよく聞きます。それは「魂が不死」という観念というようなものを皆どこかで持っているから,のような気もします。それとこのソクラテスの「魂の不死」論はどこか繋がってくるのでしょうか。

「君は,あるものを善いとか悪いとか呼ぶだろうね?」
「ええ」(608D)

最終巻の最後になってもこんな感じで展開が始まります。呑気なものです(笑)。

「そうすると,それぞれのものは,それぞれと密接に結びついた固有の害悪によってこそ滅ぼされるのであり,あるいは,もしそれによって滅ぼされないとすれば,もはやほかには,その当のものを滅ぼすものはありえないことになるわけだ。なぜなら,善いものは何ものをも滅ぼすことはないだろうし,さらには,善くも悪くもないようなものも,同様だから」(609A)

前に少し説明があるのですが,例えば目にとっては眼炎が害悪だと言われます。それがあったとしても,目を「滅ぼす」(つまり「死なせる」) 所までいかなければ,もともと滅亡ということはないと。続きます。

「ではどうだろう」とぼくは言った,「魂には,それを悪化させるようなものが何かあるのではないかね?」
「大いにあります」と彼は答えた,「われわれがいましがた見てきたすべてのもの,不正,放縦,怯懦,無知などがそれです」(609B)

魂にとっての害悪が言われます。これが魂を滅亡させるものかどうか,ということが当然言われます。そこは重要ながら省略しますが,否定されます。

「同じ理由によって」とぼくはつづけた,「身体の悪が魂の内に魂の悪をつくり出すのでなければ,われわれは,魂が自己に固有の悪がないのに,自分と縁のない悪によって滅ぼされるということを,けっして認めないだろう。それは,あるひとつのものが,それとは別のものに属する悪によって滅ぼされることにほかならないから」(610A)

同じ理由,というのはこの前に「身体が食物の害悪によって滅ぼされる」場合のことが考えられた時のもので,それは「食物によってでも直接には病気という自分自身に固有の悪によって滅びた」のだから自分自身の害悪以外から滅ぶことはない,ということが言われていました。この下りは結構印象的です。自分の権外の影響を受けまいとするストア的な思想の源泉を見る気がします。ともあれ結局,魂に悪を作ることはできないと言われます。
「魂が不死」というのは,害されても滅びないという意味での「不死」なんだなあ,とふと思います。輪廻転生するという意味での「不死」とはまた別で(輪廻転生の意味では後の「エルの物語」がそれに当たると思います),こういう不死は割と意外な感じもします。

「まったく,ゼウスに誓って」と彼は言った,「もしも不正がそれを受け入れる者に直接死をもたらすものだったら,不正はべつにそれほど恐ろしいものではないことになるでしょうね。なにしろ,それのおかげでいろいろの禍いから解放されるわけなのですから。けれども,実際に判明するのは,まったく反対のことではないでしょうか。すなわち,不正はむしろ,可能な場合には他人を殺すものであり,不正の所有者当人には大いに生気を与えるもの,それもただの生気ではなく,不眠不休の活力を与えるものだと思います。それほど不正は,どうやら,当人に死をもたらすことから程遠いところに住んでいるようですね」
「まことに君の言うとおりだ」(610D)

魂は不死だと言われたわけですが,それでは不正は,当人 (の魂) に向かうのではなくて他人に向かうものだと。「受け入れる者に直接死をもたらすものだったら,不正はべつに恐ろしくない」という言葉などは,グラウコンがソクラテス顔負けの,冴えたことを言っているなという印象です。しかしソクラテスのような善の人にとってならともかく,実際には不正を行う人にしてみれば願ったりなのかもしれないと思います。

「しかしグラウコン,われわれはもっと別のところに目を向けなければならないのだ」
「どのようなところに?」と彼はたずねた。
「哲学という,魂にそなわる知への希求に。―魂が,神的で不死で永遠なる存在と同族であるみずからの本性にうながされて,何を把握し,どのような交わりに憧れるかを,われわれは注視しなければならない。」(611D)

海神グラウコスの譬えで,魂に付いた付着物を取り除いて本来の姿を見なければならない,と前に言われます。不死かどうかという話から「魂とは何か」という問いへの転換が行われます…しかし,この問題はここではこれ以上追求されません。但しここで言われるように,知への希求を本質的に備えることには疑いがないようです。
プラトン対話篇にはたまにこう,前後とすこし雰囲気が違って,ソクラテスに決然と言葉を述べさせる場面があります。私は特に好きな場面です。他と違って有無を言わさない感じで,論証というより,プラトンの信念が現れた部分のように思います。

「では,グラウコン」とぼくは言った,「いまならもう,これまで論じた事柄に加えて,正義その他の徳が本来もつべき報酬のことも認めてやったとしても,何も文句は出ないだろうね―正義の徳は魂に対して,人間たちからも神々からも,人がまだ生きている間も死んでからのちも,どれだけの,またどのような報酬をもたらすかを語ったとしても?」(612B)

省略したのですがこの直前に,「ギュゲスの指輪を持っていようといまいと…魂は必ず正しいことを心がけなければならぬ」(612B) とも言われます。不正を行ってもバレないような状況でも正しいことを行うことになるような,正義その他の徳の報酬とは?この辺りは,遠い昔である第二巻の対話を受けてのことでしょう。これがそもそも,個人の正義を考えるために国家の正義を考えるということで,この対話篇がこのタイトル (国家,ポリテイア) になった遠因だと思いますが,しかし製作費が尽きた映画の終盤のように,この周辺の対話は非常にあっさりとしています。第二巻であれだけソクラテスに肉薄したグラウコンが,ここでは借りてきた猫のように従順になってます(笑)。

「したがって正しい人間については,たとえその人が貧乏のなかにあろうと,病のなかにあろうと,その他不幸と思われている何らかの状態のなかにあろうと,その人にとってこれらのことは,彼が生きているあいだにせよ死んでからのちにせよ,最後には何か善いことに終るだろうと考えなければならぬ。なぜなら,すすんで正しい人になろうと熱心に心がける人,徳を行なうことによって,人間に可能なかぎり神に似ようと心がける人が,いやしくも神からなおざりにされるようなことは,けっしてないのだから」(613A)

このことが,「神々からの正しい人への褒賞」と言われます。この前後も含めて,妙に神に愛されるとかそういう事が語られています。これは,話の途中で神話が出てきたりすることは珍しくないですが,何かの原因や理由を神に帰するというのは珍しいようにも思えます。
この後,「人間の側から」の話もあるのですが省略。ただ,「正しい人々は,年が長じてから,望むならば自分の国において支配の任につき…」(613D) というのはちょっと気になりました。支配者にはみずから望んでそうなるのではない,以前の巻で言われていたはずなので。

「さてしかし」とぼくは言った,「これらのものは,正しい人と不正な人のそれぞれを死後において待ちうけているものとくらべるならば,数においても大きさにおいても,何ものでもないのだ。それがいかなるものかを,いまやわれわれは聞かなければならない。正しい人と不正な人のそれぞれが聞かされるべきことを聞いて,われわれの議論から借りとして支払われるべきものを,すっかり完全に受け取ってしまうために」(614A)

ここからいよいよ,いわゆる「エルの物語」が始まります。

「そのむかし,エルは戦争で最期をとげた。一〇日ののち,数々の屍体が埋葬のために収容されたとき,他の屍体はすでに腐敗していたが,エルの屍体だけは腐らずにあった。そこで彼は家まで運んで連れ帰られ,死んでから一二日目に,まさにこれから葬られようとして,野辺送りの火の薪の上に横たえられていたとき,エルは生きかえった。そして生きかえってから,彼はあの世で見てきたさまざまの事柄を語ったのである。」(614B)

なんと,死後12日したら生き返ったと。この時点で既に信憑性ゼロですが,事の真偽は問題ではないと思います (さすがにプラトンも真実だと思われることを期待はしなかったでしょう)。半面プラトンがどうにでも都合よく作ったであろうということも念頭に置く必要はあると思います。以下,エルが見てきた場面が描かれて行きます。
以下少しだけ引用をしていきますが大部分は省略しています。これは物語の要約ではありません。

「こうしてつぎつぎと到着する魂たちは,長い旅路からやっと帰ってきたような様子に見え,うれしそうに牧場へ行き,ちょうど祭典に人が集まるときのように,そこに屯した。知合いの者どうしは互いに挨拶をかわし,大地のなかからやってきた魂は,別の魂たちに天上のことをたずね,天からやってきた魂は,もう一方の魂たちが経験したことをたずねるのであった。こうしてそれぞれの物語がとりかわされたが,そのさい一方の魂たちは,地下の旅路において―それは千年つづくのであったが―自分たちがどのような恐ろしいことをどれだけたくさん受けなければならなかったか,目にしなければならなかったかを思い出しては,悲しみの涙にくれていたし,他方,天からやってきた魂たちは,数々のよろこばしい幸福と,はかり知れぬほど美しい観物のことを物語った。」(614E)

天上や地下から戻って来た (正しい人は天上へ行かされ,不正な人は地下に行かされていた) 魂たちが語り合うという,ちょっと牧歌的な印象を受ける場面です。なおこの部分もそうですが,エルの物語の数か所で,岩波文庫には図が挿入されており非常に話が分かりやすくなります。

「人間の一生を100年とみなしたうえで,その100年間にわたる罰の執行を10度くり返すわけであるが,これは,各人がそのおかした罪の10倍分の償いをするためである。」(615B)

過去にどのくらい不正を行ったかに応じて罰が与えられると言われ,それは100*10=1,000年間であると言われます。なお正しい人は同じく10倍の報いを与えられるともあります。

「さて,牧場に集まった魂たちのそれぞれの群れが七日間を過すと,八日目に彼らはそこから立ち上がって,旅に出なければならなかった。旅立って四日目に,彼らはあるひとつの地点に到着したが,そこからは,上方から天と地の全体を貫いて延びている,柱のような,まっすぐな光が見えた。その光の色は何よりも虹に似ていたが,もっと明るく輝き,もっときよらかであった。
そこからさらに一日の行程を進んだのち,彼らはその光のところまで到着した。そしてその光の中央に立って,天空から光の綱の両端が延びてきているのを見た。というのは,この光はまさしく,天空をしばる綱であったから。それは,あたかも軍船 (三段櫂船) の船体をしばる締め綱のように,回転する天球の全体を締めくくっているのである。」(616B)

急に宇宙を連想させる情景が描かれます。この後はその世界観の描写が続くのでもう省略するしかないのですが,水星・金星・火星などの惑星の回転運動をも描いているようです (解説による)。『ティマイオス』も少し連想させます。
プラトンは,何のためにこんな世界を『国家』に描いたのでしょうか?読者に天文学を紹介するためでしょうか (そういえば夏目漱石も『吾輩は猫である』に (寺田寅彦による?) 最先端の物理学の話題を載せたりしていました)。それとも当時の天文学の成果を歴史に残すという意味でしょうか。それとも惑星は本当に神と同一視されていたのでしょうか。

「『第一番目の籤を引き当てた者をして,第一番目にひとつの生涯を選ばしめよ。その生涯に,以後彼は必然の力によって縛りつけられ,離れることができぬであろう。
徳は何ものにも支配されぬ。それを尊ぶか,ないがしろにするかによって,人はそれぞれ徳をより多くあるは少なく,自分のものとするであろう。
責は選ぶ者にある。神にはいかなる責もない』」(617E)

神の意を伝える神官の言葉なので括弧が入れ子になっています。いろんな生涯の見本 (人間だけでなく動物のもある) が目の前に置かれ,ここで人間として生きる選択を籤で決めた順番で行うことになります。

「けだしこの瞬間にこそ,親愛なるグラウコンよ,人間にとってすべての危険がかかっているのだし,そしてまさにこのゆえにこそ,われわれのひとりひとりは,ほかのことを学ぶのをさしおいて,ただこのことだけを自分でも探求し,人からも学ぶように心がけねばならないのだ―善い生と悪い生とを識別し,自分の力の及ぶ範囲でつねにどんな場合でも,より善いほうの生を選ぶだけの能力と知識を授けてくれる人を,もし見出して学ぶことができるならば。」(618B)

善を追い求める生き方をするのは (と直接は言われませんが),ここで善い生を選択するためだと言われます。魂が不死であるという本メモ前半部分で言われていたことも繋がってきたように思います。

「『最後に選びにやって来る者でも,よく心して選ぶならば,彼が真剣に努力して生きるかぎり,満足のできる,けっして悪くない生涯が残されている。
最初に選ぶ者も,おそろかに選んではならぬ。最後に選ぶ者も,気を落してはならぬ』
エルの話によると,神官がこのように言い終るや,第一番の籤を引き当てていた者は,ただちにすすみ出て,最大の独裁僭主の生涯を選んだ。彼は選択にあたって,浅はかさと欲ふかさのために,あらゆる事柄をじゅうぶんに考えてみなかったのである。」(619B)

最初に人生を選ぶ権利を得た者が,最悪といっていい選択をする例が言われます。次に続きます。

「この男は,天上のほうの旅路を終えてやって来た者たちのひとりであった。彼は前世において,よく秩序づけられた国制のなかで生涯を過したおかげで,真の知を追求する (哲学する) ことなく,ただ習慣の力によって徳を身につけた者だったのである。概して言えば,これと同じようなしくじりにおちいった少なからざる者が,天上からやって来た者たちであった。彼らは,苦悩によって教えられることがなかったからである。これに反して,地下からやって来た者の多くは,自分自身もさんざん苦しんできたし,他人の苦しみも目のあたりに見てきたので,けっしてあだやおろそかに選ぶようなことはしなかった。」(619C)

天上からやってきた者が悪い生涯を選択しがちで,地下からやってきた者が善い生涯を選ぶことが多いと。つまりある魂は周期的に善と悪の人生を経験するということになるのだと思います。ただ,「つねに誠心誠意知を愛し求め」(619E) るような人は常に天上の旅路を行くだろうと言われます。

「まことに,エルの語ったところによれば,どのようにしてそれぞれの魂がみずからの生を選んだかは,見ておくだけの値打のある光景であった。それは,哀れみを覚えるような,そして笑い出したくなるような,そして驚かされるような鑑物だったのである。というのは,その選択はまずたいていの場合,前世における習慣によって左右されたからだ。」(619E)

この後,当時の過去の有名人たちの魂が,どういう生涯を選ぶか,という具体的な例が描かれますが,他愛のない話です。あまり善悪に関係がない部分 (=習慣?) は,前の生涯を踏襲するということでしょうか。

「このようにして,グラウコンよ,物語は救われたのであり,滅びはしなかったのだ。もしわれわれがこの物語を信じるならば,それはまた,われわれを救うことになるだろう。そしてわれわれは,<忘却の河>をつつがなく渡って,魂を汚さずにすむことだろう。しかしまた,もしわれわれが,ぼくの言うところに従って,魂は不死なるものであり,ありとあらゆる悪をも善をも堪えうるものであることを信じるならば,われわれはつねに向上の道をはずれることなく,あらゆる努力をつくして正義と思慮とにいそしむようになるだろう。」(621B)

まあ自分が作った物語だからだろうと言いたくなる所ですが(笑),この物語を信じるなら,知を愛し善を求める生を送れば,魂は不死なので,(身体の)死後も報われるということになります。その意味でずっと一貫しています。

このグラウコンへの呼びかけで(最後ちょっと省略してますが),『国家』は幕を閉じます。最後,物語が一方的に延々と語られるという形になったので,あまり対話がなく取り上げにくかった面はあります。但し,死んだのちにも魂は不死で,生前の生き方に束縛されるというのは,「死ねばチャラ」ではなくちゃんと財産 (負債) が残るというわけで,これまで『国家』で語られてきた生きる上で善を追求する理由は何か?という意味での一番の根拠として示されたといえるのかもしれません。

全体のまとめというか,自分にとっての『国家』について,別途簡単に振り返る予定。