[DIVA f]「ブラック★ロックシューター」

Project DIVA f の EXTREME モードの,ブラック★ロックシューターのパーフェクト動画です。
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たまに雑音が入ってしまい,聞き苦しくて申し訳ありません。

難易度は星 7.5 だし,後から見ると特に難しいところはないのですが,何故かかなり苦労しました。中盤までは問題ないのですが,終盤のチャンスタイムの 2:45 あたりの ×△ △× □×□~ というところは何度も失敗したし,最終盤の 3:15 ~の「忘れそうになったら この歌を」というところもタイミングがかなり合わせづらく,何度も失敗しました。

プラトン『ラケス』メモ

プラトン『ラケス』((プラトン全集 (岩波) 第7巻) を読んだときのメモ。

この対話篇は,戦士が重武装して戦う訓練をしているところを見物しているという場面で,リュシマコスとメレシアスが,自分たちの息子がこの戦うすべを学ぶべきかどうかを著名な将軍であるニキアスとラケス,そしてソクラテスに相談する,というのが大まかな設定です。
対話の内容は,この対話篇の副題が「勇気について」であることからも分かるように,勇気とは何であるのかということに帰着します。ニキアスとラケスで主張が異なり,しかもこの2人は仲が悪く,お互いを非難するようなことを言い,ソクラテスがなだめるようなところもあるのですが,そういうところもこの対話篇の見所なのかなと思います。勇気とは何であるか,ということの結論は,他の対話篇でもそうであるように,結局出ません。

以下は読書時のメモです。

リュシマコス「…われわれはどちらも,自分の父親についてであれば,彼らのしたりっぱな仕事を,それが戦時のことであれ平時のことであれ,同盟国の仕事であれ,この国の仕事であれ,たくさんこの若者たちに語ることができるのですが,われわれ自身のしたことというと,二人 (メモ註:リュシマコスとメレシアスの息子たち) とも何も語ることがないのです。そこでそのことで,いささかこの人たちに恥ずかしくもあり,また自分たちの父親にたいしては,われわれが青年になってからは,われわれの気ままにさせておいて,他人のことばかりに精だしていたと,とがめたりもするのです。それで,この事実をこの若者たちに示して,もし私たちの言うことをきかず自分自身に対する心がけを怠るようなことがあれば,名もない人間になるだろうが,その心がけを忘れなければ,きっと,おまえたちのもらっている名に恥ずかしくない人間になるだろう,と言っているのです。」(179C)

最初に書いたように,リュシマコスとメレシアスが自分たちの息子をどうすべきか,と相談するのが対話のきっかけになっているのですが,この2人は,自分たちが自分たちの父親ほど出世というか成功しなかったことを恥じていて,息子たちにはそうなってほしくない,という思いがあるようです。対話篇が書かれてから 2,500 年ほど経つわけですが,人の心とは変わらないものだな,などと思いました。

ニキアス「…ところで,それにすくなからぬ追加をつけますと,それを心得ることによって誰でも,それまでの自分よりずっと,戦いにおいて大胆に勇敢になるでしょう。またこのようなことは,いささか些細なことだと思う人があるかもしれませんが,ばかにせずに言っておかねばならないのは,その人はまた,それまでよりもみごとな態度を,見せるべき場所で見せることになるでしょうし,そこではまた,そのみごとな態度のゆえに敵方の目に,ずっと恐るべきものとして映るでしょう。」(182C)

ニキアスは (戦いの技術を学ばせることに) 賛成派。戦いの技術を身につけることで,態度も優れたものになると。

ラケス「それは…いずれにせよ学んでみる値うちのないものです。じっさいまたこうも思われますから。つまり,もし臆病な人が,自分はそれを知っていると信じるならば,そのことのために,いままでより向こうみずになり,その結果,じつは彼がどのような人間であったかということが,いままでよりはっきり人目にたつことになるでしょうし,またもし勇気のある人であれば,いつも人から監視されていて,すこしでもしくじればひどく悪口を言われることになるでしょう。」(184B)

ラケスは反対派。

ソクラテス「何ですって,リュシマコス?どちらか,われわれの中の多数がすすめるほうの意見を,あなたは用いようとしておいでになるのですか。」(184D)
ソクラテス「正しく判断されるためには,知識によって判断されるべきであって,数によるべきではないでしょうからね。」
メレシアス「そうですとも。」
ソクラテス「それでは,いまのばあいも,私たちの中に誰か,いまわれわれの協議している問題について,技術をもっている人がいるかいないかというそのことを,まずしらべてみねばなりません。そして,もしいるとすれば,他の人はほうっておいて,たとえ一人であってもその人の言うことに従うことにし,もし誰もいなければ,そのときは誰か他に人を探さねばなりません。」(184E)

ニキアスとラケスで意見が分かれたので,ソクラテスの残りの1票で決めてもらおうというようなことをリュシマコスは言うのですが,ソクラテスは数ではなく,確かに技術を持っている人の知識によって判断されるべきであると言います。つまりここでは民主主義的な多数決を否定します。もっとも,後の対話では,ここにはそういう人は「誰もいない」ということになるのですが。逆説的ですが,どこを探しても誰もそういう知識を持っている人がいない状態で何かを決めるとしたら,多数決になる,ということでもあるように思います。

ニキアス「といってソクラテス,重武装して戦うことが,いまのわれわれの問題であって,それを若者たちが学ぶべきか学ぶべきでないかを,しらべているのではありませんか。」
ソクラテス「たしかにそうですよ,ニキアス。しかし,人が何か目につける薬について,それをつけるべきかどうか考えるばあい,そのときそのような考慮がなされているのは,その薬についてであるとお思いですか,それとも目についてであるとお思いですか。」
ニキアス「目についてだと思います。」(185C)
ソクラテス「そうしますと,相談にのってくれる人をしらべるにあたっても,それのためをわれわれが考えてやっている,この当のものを世話する術に,はたしてその人がたけているかどうか,をしらべるべきです。」(185D)

ここは何気ない部分ですが,個人的にハッとしたところです。読書でも何でもそうですが,その内容を見て何を得られるのかというよりは,それを読む自分自身を考えるべきである,ということなのかなと。

ニキアス「誰でもあまりソクラテスに近づいて話をしていますと,はじめは何か他のことから話し出したとしましても,彼の言葉にずっとひっぱりまわされて,しまいにはかならず話がその人自身のこととなり,現在どのような生きかたをしているか,またいままでどのように生きてきたか,を言わせられるはめになるのです。さていったんそうなると,その人の言ったことを何もかもきちんと吟味してしまうまで,ソクラテスは離してくれないでしょう。」(187E)

ソクラテスの対話の特徴 (産婆術などともよく言われます) がよく出ています。ニキアスも別に嫌がっているわけではなく,「常に自分自身が成長できる」というようなことをこの後に言っています。

ラケス「つまり,もし誰かが戦列にふみとどまって敵を防ぎ,逃げようとしないとすると,よろしいか,その人は勇気のある人である,ということになるでしょう。」(190E)
ソクラテス「私のあなたにお訊きしたいと思ったのは,重甲戦において勇敢な人たちだけでなく,騎馬戦その他あらゆる種類の戦いにおいて勇敢な人々,また,戦いだけでなく,海難において勇敢である人々,さらには,病に対して,貧乏に対して,あるいは政治上の事件に対して,勇敢なすべての人々,さらにはまた,苦痛や恐怖に対して勇敢な人々だけではなく,欲望や快楽にたいしてりっぱに戦うことのできる人々―ふみとどまるにせよ,あとで向きなおるにせよ―それらの人々も含めてのことなのです。このようなことにも,勇敢な人々が,いるでしょうからね,ラケス。」(191D)

「勇気」という言葉も日常であまり使わないような気がしますが,現代でも全く同じような問答があっても全然不思議ではありませんね。確かに一義的には,敵に向かっていく気概のような印象はありますが,しかしソクラテスの言うような意味のほうが本当の勇気ということも思います…あえて現代風に言えば「リスクを冒す」という感じでしょうか。

(ここで,引用メモは略したが,ラケスは「思慮ある忍耐心が勇気である」,ニキアスは「恐ろしいものと恐ろしくないものとの知識が勇気である」と主張し,この2人は仲が悪いのかちょっと口論っぽくなったりしている。)

ソクラテス「さてわれわれのほうは,ニキアス,お聞きのように,「未来の悪が<恐ろしいもの>であり,未来の悪くないもの,あるいは善きものが,<恐ろしくないもの>である」と主張するのですが,あなたのほうは,これらについて,そのようにおっしゃいますか,それとも違ったふうにおっしゃいますか。」(198C)

ラケスとニキアスの主張では,個人的にはニキアスのほうが実感しやすいという意味で同意できます。しかしソクラテスは,それは未来だけではなく過去も現在もそうであり,しかも恐ろしいかどうかではなく善と悪についての知識ではないかとただします。そしてそれは,勇気ではなく徳の全体であり,最初に合意した,<勇気>は徳の諸部分の一つ,というのに反するので,結局<勇気>がなんであるかは見つけ得なかったということになります。

ソクラテス「われわれは,みんないっしょになって,なによりまずわれわれ自身のために―われわれは必要としているのですからね―,つぎにはまた,この若者たちのために,金銭も他の何ものも惜しまずに,できるだけすぐれた先生を探さねばならない,と私は申します。他方,われわれ自身を,現在の状態のままにしておかないように,おすすめします。」(201A)

これは最後の場面です。勇気が何であるかが結局明らかにならなかったから,というのも勿論ありますが,対話篇を通じてのラケスとニキアスのお互いを非難する姿勢を見て,
(^^).。oO (こんなことでは子供や若者の教育について論じる以前の問題だ)
と内心思っていたのではないでしょうか。

以上。『ラケス』はいわゆる初期対話篇に属する作とのことで,「~とは何か」という対話の過程が分かり,また登場人物もそれなりにいてマンネリ化せず,長さもほどほどなので,読みやすい対話篇だと思いました。
次回は『リュシス』の予定。

[DIVA f]「Fire◎Flower」

Project DIVA f の EXTREME モードの,Fire◎Flower のパーフェクト動画です。
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全体的にはそこまで難しい部分はありません。チャンスタイムの前半 (1:53 ~ 2:13) と,2回目のテクニカルゾーンのラストの△↑ □← ×↓ ○→ というところ (2:53 ~) がミスしやすかったです。

プラトン『カルミデス』メモ

プラトン『カルミデス』((プラトン全集 (岩波) 第7巻) を読んだときのメモ。

この対話篇は,ソクラテスが出征から戻ってきたところという設定です。その戦争の話を周囲に聞かせたりしているところで,カルミデスという,ソクラテス曰く非常に美しい若者が現れます (勿論男です…この辺りの当時の事情は『饗宴』メモなど参照)。そのカルミデスにソクラテスは,魂の美しさはどうかと確かめたくて対話をしかけます。そこで居合わせたクリティアスが,「カルミデスは克己節制 (思慮の健全さ) において傑出している」と言うので,対話の主題は,カルミデスは克己節制 (思慮の健全さ) を持っているか,そして結局,克己節制 (思慮の健全さ) とは何か,ということになり対話が進められます。といっても,実際にはカルミデスに克己節制 (思慮の健全さ) とは何かを予め言い含めていたクリティアスが対話の一番メインの相手になります。
対話では,「克己節制 (思慮の健全さ) とは「知の知」である」といったなるほどという主張がクリティアスによってなされ,ソクラテスもそれ自体は否定しないのですが,しかし「知の知」というのは他の具体的な知 (例えば健康に関する知) ではないため,結局それがあっても有益ではない,というのが結論のようなものになります。ただ,克己節制 (思慮の健全さ) が有益でないはずはない,ということはソクラテスも言い,自分にはまだそれを明らかにする力がないということになります。
副題は「克己節制 (思慮の健全さ) について」というそのままのもの。

以下は読書時にメモした内容です。

「というのも,かれ(メモ註:従軍中に会ったトラキア人の医術師)の説明では,からだや一個の人間全体の善悪はすべて,たましいに始まり,そこから流れ出してくるのだ。ちょうど,頭から眼に流れこむようにね。したがって,頭にしても,からだの他の部分にしても,うまく働かしたければ,まずなんといっても,とりわけ,そのたましいの世話をしなければいけないそうだ。」(156E のソクラテス)

『論語』に「巧言令色,すくなし仁」というのがありますが,容姿端麗のカルミデスについて,見た目だけじゃなくて魂もちゃんとしたものであるのか?という本格的な対話に入る前の牽制のような言葉だと思います。

「さあ,だから,自分で答えてくれたまえ。はたしてきみ (メモ註:カルミデス) は,このクリティアスの言うことを認めて,すでにもう十分に克己節制 (思慮の健全さ) を分けもっていると主張するかね,それとも,まだ欠けるところがあると言うのかね?」(158C のソクラテス)
「それなら,それがきみ (メモ註:カルミデス) のうちに内在しているのかいないのか,その見当をつけるために,説明してくれたまえ」とぼくはいった。「きみの思わくでは,克己節制 (思慮の健全さ) とは何であると主張するのか,を」 (159A のソクラテス)

クリティアスに克己節制 (思慮の健全さ) を備え持つと言われたカルミデスは,決して驕っているわけではないのですが自分がいかに克己節制 (思慮の健全さ) を持つかということを,また結局その克己節制 (思慮の健全さ) とは何であると考えるかということをソクラテスに問われます。
このあとで,カルミデスは克己節制 (思慮の健全さ) を,(1) 秩序を守りかつもの静かに行なうことである,(2) 人間に恥を知らしめ,羞ずかしがらせるものである,(3) 自分のことだけをすることである,と答えるのですが,いずれもソクラテスに反駁され否定されます。で (3) を教えたのはクリティアスらしいので,ソクラテスはその後,クリティアスを相手に対話を始めます。

「わたしの主張はこうですよ。善いものではなく悪いものを作る人間は,克己節制 (思慮の健全さ) をもたない。しかし,悪いものではなく善いものを作る人間のほうは,克己節制 (思慮の健全さ) をもっている,というのですよ。つまり,善いことをすることが克己節制 (思慮の健全さ) である,とこう明確に規定してあげます」(163E のクリティアス)

「なぜなら,わたしの主張は,克己節制 (思慮の健全さ) とは,まさしく自己自身を知ることにほかならない,といったところですし,そのような意味の銘文をデルポイの神殿に奉納した人にわたしは組するからです。
…すなわち,アポロンはいつだれが参詣に来ても,じつは『思慮が健全であれ』と呼びかけているのです。
ところが,アポロンは予言をつかさどる神ですので,かなり謎めかして呼びかけています。つまり,『なんじみずからを知れ』と『思慮が健全であれ』とは,同じ意味の言葉なのです。」(164D のクリティアス)

この「なんじみずからを知れ」というのは有名な言葉で,『アルキビアデスI』などでも出てきます。ソクラテスを象徴する言葉とも言えると思いますが,ここでクリティアスはそれこそが克己節制 (思慮の健全さ) であると言っているようです。

「それごらん,これだから!ソクラテス」とかれは言った。「結局,あなたは,克己節制 (思慮の健全さ) という知がほかのすべての知とどんな点で異なるのか,という問題を探究するはめになりましたね。もっとも,あなたはそれとほかの知との類似点をさがしておいでですが,しかし,事実,そんな類似点はないのです。ほかの知はどれも,それ自身とはちがったものについての知で,それ自身についての知ではありませんが,この克己節制 (思慮の健全さ) だけは,ほかのいろいろな知についての知であるばかりか,それみずからについての知 [知の知] でもあるのです。」(166B のクリティアス)

克己節制 (思慮の健全さ) とは,知の知である,とクリティアスは言います。「知の微分」という感じかなと私は思いました。ちょっとむきになっていますが,言っていることはなるほどと思うところがあります。

「なんという考え方をするのだ」とぼくはやり返した。「よしんば,きみをやっつけることになっても,それに他意はないわけで,ひとえに自分が何を言おうとしているのかを吟味するためなのだ。つまりぼくは,知らないのに何か知っているように思っていながら,それに気づかないことがありはしないかと恐れるのでね。」
「それなら,自信を出して」とぼくはつづけた。「めぐまれた人よ,きみに思われるとおりに,ぼくの質問に答えてもらいたい。やっつけられるのがクリティアスだろうと,ソクラテスだろうと,そんなことは気にしないで。むしろ,ひたすら議論そのものに注意をはらいつつ,その議論がどうすれば難関をきりぬけられるかを検討してくれたまえ。」(166D のソクラテス)

ソクラテスもクリティアスに手を焼いている感じですが,さすがに冷静です。議論の勝ち負けではなく,ただ答を追求するソクラテスの姿がよく表れている一節です。こういう互いにちょっと激したようなやりとりがあるのも,ただ論文のように自説が淡々と述べられているのとは違う,プラトン対話篇の面白いところです。

「それなら,克己節制 (健全な思慮) の人だけが自己自身を知っていることになり,自分はまさしく何を知り何を知らないかをしらべあげることができることにもなる。さらに,かれだけが,ほかの人びとについても同じようにして考察できることになるわけで,相手の他人(ひと)が何を知り,知っている以上は何を知っていると思っているのか,また反対に,相手の他人が,ほんとうは知らないのに,何を知っているように思っているのかも,考察できるということになるだろう。この克己節制 (健全な思慮) の人以外にはだれも,そういうまねはできないだろうね。そしてまた,まさしくこれこそが,克己節制 (思慮の健全さ) をもつこと,克己節制 (思慮の健全さ),自己自身を知ることにほかならないのだ。つまり,何を知り何を知らないかを知ることこそが。これらの点がきみの言いぶんかね?」(167A のソクラテス)

「何を知っていて,何を知らないか」を知ること,またそれが自分だけでなく他人についても分かることが,克己節制 (思慮の健全さ) であると。

「つまり,それ自身に関係のある独自の機能をもともと自分でもっているものはひとつも存在せず,その機能はもっぱら自分以外のものに関係するだけなのか,それとも,それ自身に関係させるものが存在するばあいもあり,存在しないばあいもあるのか?またもし,今かりに,どういうものであれ,自分が自分に対してそういう関係をもつものがいろいろ存在するとすれば,われわれがまさしく克己節制 (思慮の健全さ) だと主張する知は,はたして,そのなかに数えられるのかどうか?―こういった区別だがね。このぼくには,そういう区別を十分にやってのけるだけの自信はないよ。したがって,これ,つまり,知 (について) の知というものの存在が可能になるかどうかについては,確信ある主張はできないし,また,かりに存在するとしても,その知の知が克己節制 (思慮の健全さ) なのだということを承認することもしないよ―それが,なにかそういう知の知であれば,われわれの利益 (ため) になるのかどうかの検査をぼくがすますまではね。」(169A のソクラテス)

この部分の最初に言われていることは,本文に例があるのですが,例えば「視覚」といった場合には,視覚によって何かを見るわけですが視覚自身を視覚によって見ることはできない…というようなことで,それ自身とその機能が同一でありうるものがあるかどうか,ということが言われています。GNU = Gnu is Not Unix の略のように,自己再帰的かどうかということにちょっと似ています。そして,クリティアスが言う「知の知」というのがそもそも存在可能なのかということをも提起しています。

「したがって,克己節制 (思慮の健全さ) をもつことや,克己節制 (思慮の健全さ) そのものは,何を知り何を知らないかを知ることではなくて,ただ単に,知っている,知っていない,と知るだけのものにすぎないことになるようだね」
「どうも,そういうことになるようです」
「すると,他人 (ひと) がなにか知っていると主張しても,その人が知っていると主張している事柄を,はたして知っているのか,知っていないのかの吟味も,この克己節制 (健全な思慮) のもちぬしにはできないということになる。できるのは,相手の人がなにかある知をもっている,と知るだけのことにすぎないようだ。それに反して,それが何 (について) の知なのかということのほうが,克己節制 (思慮の健全さ) が相手の人に知らせてやることにはならないだろう」(170D)

対話は進んで,克己節制 (思慮の健全さ) は,知っているかどうかは分かるが「何を」知っているのかは分からない,と言われます。なんか段々役立たずな感じになってきます。私のテキトーな「知の微分」説でも,知という一変数にしか触れられないのでその通りかもしれません。で,実際には克己節制 (思慮の健全さ) のみしか持っていなければそうかもしれませんが,克己節制 (思慮の健全さ) と,他に何かしら持っている知を組み合わせれば何を知っているか分かりそうなのですが…。ただそうだとすると,「知がなければ克己節制 (思慮の健全さ) は不要」ともいえます。

「いや,いや,ぼくの言っているのは,いちばんかれの幸福に貢献する知のことだよ」とぼくは言いかえした。「それは,何についての知であるという点で,貢献度がいちばんなのだね?」
「善悪についての知であるという点です」とかれは答えた。
「殺生なやつだな,きみは!」とぼくは言った。「さっきから,ぼくを引っぱりまわすだけ引っぱりまわしておいてだよ,いいようにやる (うまく行く) ことやいいダイモーンがついていること (幸福) を保証してくれるのは,知にしたがって生きるということではなく,さらには,ほかのすべての知にしたがって生きるということでもなくて,ただ一つの知,つまり,善悪についての知にしたがって生きるということだったのに,それをきみは秘密にしてかくしているとは!」(174B)

ここで「善悪の知」というのが出てきます。なんか「知の知」よりも,他の種類の知よりも上のものがこの「善悪の知」ということでしょうか。

「してみると,克己節制 (思慮の健全さ) は,利益の専門家ではないことになるね,友よ。だって,それどころか,われわれはたったいま,その仕事[利益]をほかの技術[善悪の知]にわり当てたばかりだもの。そうだろう?」(175A のソクラテス)

ここで克己節制 (思慮の健全さ) ≠ 善悪の知,となります。上で,克己節制 (思慮の健全さ) 「だけ」では「何を」知っているか分からない,と書きましたが,まさに「善悪の知 + 克己節制 (思慮の健全さ)」こそが,自分自身を知り相手が何を知っているのかも知ることになるのかもしれません。解説にも似たことが書いてありますが。

要するに,「ソープロシーネ (メモ註:克己節制 (思慮の健全さ) の原語)」の基本義は,健全なる思慮,正気ということであり,思慮を失うとか,我を忘れるとかいうことの反対だと解されねばならない。これは死すべき人間が自己の分限をさとることに通じ,反面においては,神の尊厳の認識として,なにか宗教的な意味をもつものなのである。(解説)

本篇を読んでいると「克己節制 (思慮の健全さ)」とは「知の知」,で結局何か役に立たないもの,というようにも思ってしまいますが,確かに素直に考えればこの解説のような意味のほうが近い気もします。

『カルミデス』がプラトンの諸著作のなかで占める思想的位置について考える場合,明瞭なことは,右にのべたように,「善の知」の「知」が徳―本篇の場合では「克己節制 (思慮の健全さ)」の徳―の根底に要請されているという事実である。(解説)

メモは以上。「克己節制 (思慮の健全さ)」というテーマは興味深く,結論は (いつも通り?) 得られませんでしたが,対話のやり取り等も含めて面白い対話篇だったと思います。
次回は『ラケス』の予定。

[DIVA f]「DYE」

Project DIVA f の EXTREME モードの,DYE のパーフェクト動画です。
他の動画はポータルをご覧ください。
テレビを消し忘れたのでニュースの音声が入ってます(笑)。聞き苦しくて申し訳ありません。

つかみどころのない曲です。特に難しい部分はないのですが,歌詞が大部分英語ということもあってか展開が読みにくい (かつ覚えにくい) です。両手を使ってその場その場で対応していく感じでしょうか。

[DIVA f]「タイムマシン」

Project DIVA f の EXTREME モードの,タイムマシンのパーフェクト動画です。
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パーフェクトを取るのはかなり簡単な部類の曲だと思います。技術的にちょっと難しいのは2回目のテクニカルゾーン (1:38 ~) くらいでしょうか。あとは落ち着いてやればできるのかなと思います。まあそれでも実際には結構な回数ミスのためパーフェクトを逃しましたが…。

プラトン『テアゲス』メモ

プラトン『テアゲス』((プラトン全集 (岩波) 第7巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,デモドコスがソクラテスに,息子 (テアゲス) の教育について相談するという設定です。テアゲスはソフィストの元に弟子入りしたいと父に言うが,本当にそれでいいだろうかとソクラテスに相談し,ソクラテスは本人に直接話を聞きます。
テアゲスは,知者になりたいと言いますが,それは一体どんな人間なのか,といったことが追及されます。で,ソクラテスはテアゲスに,政治家に弟子入りしたらよかろうと言いますが,テアゲスは「政治家の息子が優れた政治家になれるとは限らないくらいだから,政治家に弟子入りしても高が知れている」といった鋭い返答をします(この辺は『プロタゴラス』とも通じますね)。
そして結局,ではソクラテスに弟子入りすればいいのではとデモドコスとテアゲスが言います。それに対しソクラテスは,「ダイモーンの合図」に従うとか,自分は弟子に何か具体的に教えたりすることはないとか言いますが,ここはソクラテス流の弟子育成術の紹介になっています。
なお副題は,「知恵について」。

以下は読書時のメモです。

デモドコス「わけても現在この子にとりついている願望が,わたしには頭痛の種でねえ。それはけっして卑しい性質のものではないのだが,危険なものだからだ。なにしろこの子は,ソクラテス,彼の言うところによれば,<知者>になりたいというのだからねえ。」(121C)

冒頭部です。ここから,まずデモドコスがソクラテスに相談します。しかし結局,本人 (テアゲス) に聞いてみようということになります。

ソクラテス「それでは君は,それ自体は知っているが,それの名前は知らないのかね,それとも名前も知っているのかね?」
テアゲス「むろん名前も知っています。」
ソクラテス「では何かね?言いたまえ。」
テアゲス「<知恵>としか言いようがないでしょう,ソクラテス。それ以外の何か別の名でそれを呼ぶことができるでしょうか?」(123D)

「知恵とは何なのか」というソクラテスとの問答を通じて,結局「知恵としか言いようがない」という答になりました。この後,どんなものが知恵なのか,ということが,ソクラテスがいくつか例を示しながら,「あらゆる人間を支配するのに必要な技術」というような答に導かれますが…。

ソクラテス「そうすると,その国のうちにいるすべての人間を支配しようとのぞむ者はみな,この人たちが行なったのと同じ支配,つまり独裁支配をのぞみ,独裁君主たらんことをのぞんでいるのでないかね?」
テアゲス「そのようです。」
ソクラテス「それでは君がのぞむと言っているのもこういう支配なのではないかね?」
テアゲス「私が答えてきたことからすると,どうやらそうらしいです。」(124E)

ということで,テアゲスは,知者になるということは,独裁君主になること,というようなことに同意させられます。
当然ですがソクラテスが知恵をそういうものだと考えているはずはありません。しかしそういう風に誘導したのはソクラテスです。結局のところ,知者になるためにソフィストに弟子入りしようとしているということがそもそもソクラテスにとって笑止千万であり,反例を示すことによってそれを否定するというやり方なのかなと思いました。

テアゲス「たしかに考えてみると,私は独裁君主になることをこいねがっているのかもしれません,できることなら万人の,それがだめならできるだけ多くの人たちの上に君臨する独裁君主に。そしてこれは思うにあなたにしたところで,また他の人々だって誰でもみな,ねがうことでしょう,―おそらくはさらに神になりたいとさえね。しかし,私がのぞんでいると言っていたのは,そのことではありませんでした。」
ソクラテス「それならいったいぜんたい君がのぞんでいるのは何なのかね?国民を支配したいと君は言っているのではないのかね?」
テアゲス「でもけっして力ずくでではありませんし,また独裁君主たちのようなやり方でもありません。そうではなくて,相手の合意を得て支配することです,―この国のなかの有数の人々がそうしたようなやり方で。」(125E)

テアゲスについて,なかなか素直な若者なのだなという印象を持つ部分です。人々はだれでもみな,独裁君主や,神にさえなりたいと思っているだろうというのはある部分では真実を言い当てているのかもしれません。ただ,改めて考えると,それが知者なのか,と思わずにはいられません。少なくともソクラテスは支配者になりたいとは思わなかったはずです。この後,結局ここで言われていた「知者とは」という追求はうやむやのうちに終わってしまいますが,知者を追及するに値しない方向に話が進んでいたからだという感じも個人的にはします。

デモドコス「もしこの子があなたにつくのを喜び,またあなたもこの子を弟子にする気になってくれるとしたら,わたしとしてはそれ以上の仕合せはあるまいと思うだろうからね。」(127B)

ということで,今度はソクラテスの弟子になればいいのだという方向に進みます。ただ,ソクラテスは素直にそれを受け容れようとはしません。

ソクラテス「ぼくには,子供の時からはじまって,神の定めによっていつもぼくにつき従っている,何かダイモーンからの合図といったものが,あるのだよ。それはひとつの声であって,それが現われる時はいつも,ぼくが何かをしようとしていると,それをしないようにとぼくに合図をするのであって,何かをなせと勧めることはどんな場合にもないのだ。また友人の誰かがぼくに助言を求めていて,この声が現われるような場合もこれと同じことで,それはさし止めるのであって,何かを行なうことを許さないのだ。」(128D)

この部分の「ダイモーンの合図」というのは,『ソクラテスの弁明』などにも出てくる結構有名な話です。ふと,ダイモーンの声が「~するな」とソクラテスに語りかけ,ソクラテスはそれに従うと。また他人に対してもその合図があることがあり,ソクラテスがそれを忠言しても,相手がそれを取り合わなかった場合にはいつも悪いことが起きると。というわけで,その合図があるかどうかで,テアゲスが弟子としてふさわしいかどうかも何ともいえないと言います。ただ,最後には,「じゃあひとまず合図が出るかどうか実際に一緒にいさせて確認させてくれ」ということになるのですが。

「ソクラテス,それはまことに信じがたいことですが,しかしほんとうのことです。じっさい私は,あなた自身もご承知のとおり,ついぞこれまで何ひとつとしてあなたから教えていただいたということはありませんでした。にもかかわらずあなたといっしょにいるといつも,私は進歩を遂げたのです,―同じ部屋でなくても,ただ同じ屋根の下にいるというだけです。」(130D,ソクラテスの回想のアリステイデス)

これは過去にソクラテスに付いていたアリステイデスについての回想の一節ですが,ソクラテスと一緒にいた頃は特に何も教えてもらわないのに進歩したといいます。しかし,離れてしまうと徐々にその進歩が失われてしまったといいます。ちょっと聖人化しすぎな感じもありますが実際そういう人だったということなのでしょう。確かに一緒にいるだけで心が澄んでいくというような人はいます。

すなわち,「ソクラテスの教育」は,教師が弟子に学問知識を教えるというような,一方から他方への知識の伝達という形でなされるのではない。神的な意志,「ダイモーンの合図」によって,教師と弟子の関係は決定され,神意によってそのような関係が許されるならば,その親密な交際,特に直接的な接触という仕方で,師の影響力を受け,弟子は進歩向上する,しかしこの点もすべて神的な意志の決定にかかっている,というようなものである。(解説)

解説にある「ソクラテスの教育」の記述です。結局のところは「ダイモーンの合図」に従うという話です。ただ,それに水を差すようですが,そういう合図というものが本当に実際に聞こえてきたとは考えにくいわけで,ではそれは一体何なのだ,という疑問が現代の科学の時代に生きる私としては起こります (ちなみにプラトンの著書に出てくるソクラテスの言葉の大半はプラトンの作り話ですが,『ソクラテスの弁明』等は事実に忠実だとされており,よって「ダイモーンの合図」というのもソクラテスが言ったのだと思われています…クセノポンの著書にもあるそうですし)。それは,霊感とか直感とでもいうべきものなんでしょうか。

ということで,本篇はテアゲスの言う「知者」とは何かという追求から始まりますが,「ダイモーンの合図」「ソクラテスの教育」というのが隠れたテーマだと思います。
次回は『カルミデス』の予定。

[DIVA f]「秘密警察」

Project DIVA f の EXTREME モードの,秘密警察のパーフェクト動画です。
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なかなかテンポの速い曲ですが,その速さの割にはプレイしやすい感じです。伸ばす音や短い音が少ないからでしょうか。
難関はやはり「朝から晩までオマエをみる」という部分でしょうか。特に終盤のチャンスタイムの後半の同時押しが入る部分 (2:35 ~) は大変です。それと,間奏部分で単音の連続する部分 (○×14 (1:23 ~) とか) も意外とタイミングがずれてミスしやすいです。

結構熱い曲ですが,若干手ぬるいという感じもあります。ものすごく早口で歌う部分 (0:23 ~とか) がありますが,そこなどは作りようによっては凶悪な難しさになっただろうなと少し残念。

[DIVA f]「トリノコシティ」

Project DIVA f の EXTREME モードの,トリノコシティのパーフェクト動画です。
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速さは速くもなく遅くもなくといったところで全体として余裕は持てます。
難関は1回目のテクニカルゾーンくらいでしょうか。半面,それ以降は難しいところがない分,ミスしなければ問題ないのだが…という緊張感が長く続きます(さすがに EXTREME は難関箇所以外なら楽勝というわけでもないので)。今回もラストの2回目のテクニカルゾーンあたりはかなり手が震えてました。

個人的にはかなり好きな曲。

[DIVA f]「Nyanyanyanyanyanyanya!」

Project DIVA f の EXTREME モードの,Nyanyanyanyanyanyanya! のパーフェクト動画です。
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今回はブレやノイズが少なく撮れました。

ちょっと特殊な曲で,曲が全体で5部に分かれておりそれぞれテンポなどががらりと変わります。なので切り替えが必要で,特に速いテンポ→遅いテンポ (3部→4部など) では,早く押しすぎてミスるケースが結構あります。
といっても技術的に難しいのは3部と5部の速いパートだと思います。3部の細かい16部音符×2の連続は,右手で左手を追うようにタイミングをちょっとずらしてボタンを押せば簡単です。5部は…慣れでしょう。でも慣れるととても楽しい場所です。

難易度は星9つと高めなのですが,同じ難易度のワールズエンド・ダンスホールとか鏡音八八花合戦よりはだいぶ楽だと個人的には思います。
録画に当たって初めて PV を多少見ましたが,世界を旅行したり宇宙に行ったりとなかなかカオスですね…。