プラトン『国家』第二巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第二巻を読んだときのメモ第2弾。

メモ第1弾で見たように,ソクラテスが個人としての正義とは何なのかを考えるために,国家としての正義を考えてみようということになりました。それで,そもそもどういう起源で国家というものが作られてくるのか,というところから考察が始まります。実際どうなのかは別にして,非常に遠大な構想です。
そして,ある時点で戦争がどうして起こるのか?という話になり,そして国を守護する者はどういった素質を持っていなくてはならないか,ということに話題が移ります。
正直なところ後半はあまり面白くありませんでした。というのは神話についての話題が続くからです。他の対話篇でもそうですが,科学の時代である現代からすると (あるいは日本人だから?) 神話に関する話は,信じる根拠が薄いです。とはいえ,当時の時代背景とか,なぜそういった神話が作られたのかということを併せ考えるのはそれなりに意義があるとは思います。そもそもソクラテスも「神話は詩人が作った」とここで言っていて,子供に教え聞かせるという観点では否定的だと思います。

では以下は読書時のメモです。

「それでは」とぼくははじめた,「ぼくの考えでは,そもそも国家というものがなぜ生じてくるかといえば,それは,われわれがひとりひとりでは自給自足できず,多くのものに不足しているからなのだ。―それとも君は,国家がつくられてくる起源として,何かほかの原理を考えるかね?」
「いいえ,何も」と彼は言った。
「したがって,そのことゆえに,ある人はある必要のために他の人を迎え,また別の必要のためには別の人を迎えるというようにして,われわれは多くのものに不足しているから,多くの人々を仲間や助力者として一つの居住地に集めることになる。このような共同居住に,われわれは<国家>という名前をつけるわけなのだ。そうだね?」(369B)

ということで,本当にゼロベースで国家を構想していくところから始まります。国家とは,ひとりひとりでは自給自足できないので,色んな役割の人が集まって共同で居住するものであると (いい加減な要約ですが)。
「シムシティ」をやるときにも,こういう根本的なことを考えて街を作っていけば,ちゃんとした街が作れたのかもしれません(笑)。少なくとも自己満足度は上がったかもしれません。
ここでの考え方に基づく限り,国家は市民のためにあるもので,市民が国家のために存在するということにはなりようがありません。
あと,国家を会社などに置き換えても同じ,かもしれません。

「こうして,以上のことから考えると,それぞれの仕事は,一人の人間が自然本来の素質に合った一つのことを,正しい時機に,他のさまざまのことから解放されて行なう場合にこそ,より多く,より立派に,より容易になされるということになる。」(370C)

前後の対話でもあるのですが,一人ひとりの自然本来の素質に合ったことを行なうほうが,一人ひとりが全てのことを少しずつ行なうよりもよい,ということが言われます。「自然本来の」ということが枕詞的に多用されますが,第一巻の後半でトラシュマコスの言う強者の論理や,第二巻の前半でグラウコン達が言う「正義がよいとされるのは法律や思わくの上でのこと」という論理を注意深く踏襲した形で言っているのだと思います。言い換えると法律や慣習を持ち出さないで国家というものを考えていくということだと思います。

「わかったよ,どうやらわれわれは,ただ国家がどのようにして生じてくるかということをしらべるだけではなく,贅沢な国家のこともしらべることになるようだね。まあ,それもまた悪くはないだろう。そういう国家のことをもしらべて行けば,きっと,<正義>と<不正>がどのようにして国々のなかに生まれるかを,見てとることができるだろうからね。とにかく,真実の国家のほうは,われわれがこれまで述べてきたのがそうであるように思われる。いわばこれは,健康な国家とでもいうべきだろう。これに対して,君たちのお望みとあれば,こんどは,熱でふくれあがった国家も観察することにしよう。そうしても,いっこうに差支えないのだ。」(372E)

「真実の (または健康な) 国家」と「贅沢な国家」というのが出てきました。後者は具体的には,「ちゃんと寝椅子の上に横になり,食卓について食事をし,そして現在人々が食べているような料理やデザートを食べ」(372D)る,とグラウコンが言うような国家です。
ソクラテスも言っていますが,ここが1つの分かれ目なのかもしれません。現実は「贅沢な国家」の要素がない国家は考えにくいですが,思想としては「真実の国家」のみを目指す,というものがありえそうです。そして確かにそれなら正義や不正が生じる余地がないかもしれません。不正を遠ざけ正義を求めるのではなく,その絶対値自体を小さくするという発想…。しかしグラウコンも言うのですが,それは「豚の国家」と,つまり人間以外の動物の生活と何が違うのか,とも思います。
ということで,正義と不正について関係あるだろうということで,この後は「贅沢な国家」について考えられることになります。

「また領土にしても,先にはそのときの住民たちを養うのに十分であったのが,いまではとても充分ではなくなって,小さすぎるものとなるだろう。それとも,どう言ったものだろうか?」
「いえ,おっしゃるとおりです」と彼は言った。
「そうするとわれわれは,牧畜や農耕に充分なだけの土地を確保しようとするならば,隣国の人々の土地の一部を切り取って自分のものとしなければならない。そして隣国の人々のほうでもまた,われわれの土地の一部を切り取ろうとするだろう―もし彼らもやはり,どうしても必要なだけの限度をこえて,財貨を無際限に獲得することに夢中になるとするならばね」(373D)

ということで,「贅沢な国家」を作るには自国では土地や資源が足りないので,他国のものを切り取ることになる,と。そして「戦争の起源となるものを発見した」(373E) というようなことが言われます。

「そうすると」とぼくは言った,「国の守護者の果すべき仕事は何よりも重要であるだけに,それだけまた,他のさまざまの仕事から最も完全に解放されていなければならないだろうし,また最大限の技術と配慮を必要とするだろう」…
「そうするとどうやら,もしできるものなら,どれどれの自然的素質,どのような自然的素質が国を守護するのに適しているかを選び出すということが,われわれの仕事となるようだね」(374D)

靴を作る仕事を立派にやってもらうためには,靴作りの専門家にその仕事だけに専念してもらうというのと同じで(374B),戦争をするにも戦争の武器を作るにも,素質がある人にその仕事を専門にやってもらう必要がある,と。
他の対話篇でもあったと思いますが,プラトンは割と,2つの技術両方のエキスパートである,というようなことは否定しているように思われます。デジタル的な発想という気もします。シングル CPU で1時間にタスクが1つの場合とタスクが2つの場合(優先度が同じとする)では前者のほうが1つのタスクについては2倍処理が進む,という発想では専門は1つに絞ったほうがいいというのは当然です。実際には,リニアではない場合を考えれば,5割の時間で7割の技術を習得でき,残りの5割の時間で別の技術の7割を習得できれば2つ合わせた場合の効用は上という考え方もありえるわけですが,そんな7割の技術が何の役に立つのかと。これは,第一巻から続く「厳密の意味」での技術という考え方にもつながると思います。
…これはここではどうでもいい話でした。ではどういう自然的素質が適するのか,という考察が始まります。

「君は犬たちのなかに見てとることができるだろう。まったくこのことは,この動物の感嘆に値する点なのだが。」
「どのようなことでしょうか?」
「知らない人を見ると,それまでに何ひとつひどい目にあわされたことがなくても,その人に対して怒りたけるけれども,知っている人を見たときには,たとえその人からよくしてもらったことが一度もなくても,歓び迎えるという点だ。―君はまだ,このことに感嘆したことはないかね?」(376A)

「しかるに,犬が自然本来にもっているこの性質たるや,まことに気のきいたものであって,まさに文字どおり,愛知者的な性質であるように思える」(376A)

敵に対しては勇猛で,見方に対しては温和という相反する性質を同時に持つことはできないのではないか,と初めは言われますが,実際このように犬に見られる性質から,それは愛知者の性質として認められます。
当たり前ですが,当時も今も犬というのは同じなんだなと思います。

「こうしてわれわれにとって,国家のすぐれて立派な守護者となるべき者は,その自然本来の素質において,知を愛し,気概があり,敏速で,強い人間であるべきだということになる」
「まったくおっしゃるとおりです」と彼は答えた。
「ではその人は,もともとそのように生まれついているものとしよう。しかしそれでは,彼ら守護者たちは,どのような仕方で養育され,教育されるべきだろうか?―それにまた,いったいこのことの考察は,われわれがいまやっているすべての考察の目的である,<正義>と<不正>とがどのような仕方で国家のなかに生じてくるかをしかと見きわめるのに何か役に立つだろうか?」(376C)

ということで,このあたりから,守護者はどう教育されるべきか?というテーマに移っていきます。

「それならわれわれとして,次のことをそう簡単に見のがしてよいものだろうか―行き当りばったりの者どもがこしらえ上げた行き当りばったりの物語を子供たちが聞いて,成人したならば必ずもってもらいたいとわれわれが思うような考えとは,多くの場合正反対の考えを彼らがその魂のなかに取り入れるのを?」
「いいえ,何としても見のがすべきではありません」
「そうすると,どうやらわれわれは,まず第一に,物語の作り手たちを監督しなければならないようだ。そして,彼らがよい物語を作ったならそれを受け入れ,そうでない物語は拒(しりぞ)けなければならない。」(377B)

冒頭にも書きましたが,神話に関するソクラテスの話が続き退屈な展開になります。大雑把にまとめると,詩人が作った神々に関する作り話を批判し,それを子供には語るべきではない,とソクラテスは言います…それらは割と,神々の中での兄弟や親族を欺くとか殺害するとかいう内容が多いためです。
現代では基本的には,「表現の自由」等の考え方の方が優勢で,国家として,ここでのソクラテスのように子供たちのためによくないという理由で見せないようにする,というのは受け入れられないような気もします。「はだしのゲン」を学校で読ませてよいかどうか,という問題もありました。
この手の話は「言論統制」とか悪く言おうと思えばいくらでも悪く言えるし,最悪,北朝鮮の報道のようにもなりかねないとは思います。しかしソクラテスが憂慮する限りの意味では,本来必要なことなんだろうなとも思います。
それはともかく,この一連の流れで,神々について第一に,「神はあらゆる事柄の原因なのではなく,ただ善いことの原因である」(380C),第二に「神々はみずから変身して姿を変えるような魔法使いでもないし,言葉や行為における偽りによってわれわれを迷わすこともない」(383A),ということが結論として言われ,どう教育すべきかという問題については,第三巻に続きます。

ということで,第二巻のメモは終了。最後のほうはちょっと退屈な展開でした。次は第三巻の予定。

プラトン『国家』第二巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第二巻を読んだときのメモ第1弾。

第一巻でトラシュマコスとの対話が終わり,一応正義が不正に勝るという結論にはなったと思いますが,グラウコンがそれでは納得できないということで引き続き正義について話題にしていきます。途中でアデイマントスも加わってきます。なおグラウコンとアデイマントスは兄弟で,プラトンの兄です。
トラシュマコスとは異なり,自分たちはそう考えているわけではないが世間ではこう考えられている,と代理を立てる形で不正を讃える側に立ちます。しかしこのほうが不気味というか,(ソクラテスも途中で述べていますが) 本当はグラウコンたちも内心ではその通りだと思っているのかもしれません。ともかく,長い演説のようなグラウコンとアデイマントスの言葉がずっと続きます。
実際,かなり手ごわく,ソクラテスも答えに窮します。そこで,人間ではなく国家としての正義を考察し,それで明らかになった正義を元に人間としての正義を考えようということになります。
国家としての正義を考えていくところからは,メモ (2) に書きます。

では読書時のメモです。

「そこで,ご異存がなければ,こうしましょう。つまり,トラシュマコスの説を私がもう一度復活させて,次の諸点を私の口から語ることにするのです。
まず第一に,<正義>とは,どのようなもので,どのような起源をもつものと一般に言われているか,ということ。
第二に,正しいことをする人々はみな,それを<善いこと>ではなく<やむをえないこと>と見なして,しぶしぶそうしているのだということ。
第三に,人々のそういう態度は,当然であるということ。―なぜなら,不正な人の生のほうが正しい人の生よりはるかにましであるからと,こう一般には言われているからです。」(358C)

「そういうわけですから,私は精いっぱいの努力をつくして,不正な生を讃えて語ってみましょう。そしてそれを語ることによって,こんどはあなたから,どういう仕方で<不正>をとがめ<正義>を讃えるのを聞かせていただきたいと私が望んでいるかを,あなたに示すことにしましょう。」(358D)

ここでのソクラテスの対話の相手である,トラシュマコスとの対話で完全には納得しなかったグラウコンによって,3つの命題が提示され,それらについて,不正側に仮に加勢してそれをソクラテスに論破してもらうことによって,正義の善さを引き出そうとします。

「では,私がさっき約束した最初の論題について聞いてください。それは,<正義>とは何であり,どのような起源をもつものなのか,という問題です。
人々はこう主張するのです。―自然本来のあり方からいえば,人に不正を加えることは善 (利),自分が不正を受けることは悪 (害) であるが,ただどちらかといえば,自分が不正を受けることによってこうむる悪 (害) のほうが,人に不正を加えることによって得る善 (利) よりも大きい。そこで,人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って,その両方を経験してみると,一方を避け他方を得るだけの力のない連中は,不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが,得策であると考えるようになる。このことからして,人々は法律を制定し,お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。
これはすなわち,<正義>なるものの起源であり,その本性である。つまり<正義>とは,不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと,不正な仕打ちをうけながら仕返しをする能力がないという最悪なこととの,中間的な妥協なのである。これら両者の中間にある<正しいこと>が歓迎されるのは,けっして積極的な善としてではなく,不正をはたらくだけの力がないから尊重されるというだけのことである。」(358E)

「不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが,得策であると考えるようになる」…解説によると,ここの正義の起源についての説明は,「社会契約説」的な説明ということです。人に不正を与えることが善,というのは「ん?」という感じですが,食料を得るために動物を殺したりすることと同じということでしょうか。
そこから導かれた,「<正義>とは,不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと,不正な仕打ちをうけながら仕返しをする能力がないという最悪なこととの,中間的な妥協」…なるほどと思わされる説です。
『ゴルギアス』でカリクレスが主張していたことと通じていると思いました。つまり法律は弱者のためのものであり,強い者を押さえつけるためのものである,と。
何にしても,「不正」というものが,水が上から下に流れるのと同じように,人として自然であり,問題がなければそのままにしておくべきで,水路を作って流れを導いて分かち合うようなことは妥協,というような感じでしょうか。

「つぎに,正義を守っている人々は,自分が不正をはたらくだけの能力がないために,しぶしぶそうしているのだという点ですが,このことは,次のような思考実験をしてみればいちばんよくわかるでしょう。つまり,正しい人と不正な人のそれぞれに,何でも望むがままのことができる自由を与えてやるわけです。そのうえで二人のあとをつけて行って,両者それぞれが欲望によってどこへ導かれるかを観察すればよい。そうすれば,正しい人が欲心 (分をおかすこと) に駆られて,不正な人とまったく同じところへ赴いて行く現場を,われわれははっきり見ることができるでしょう。すべて自然状態にあるものは,この欲心をこそ善きものとして追求するのが本来のあり方なのであって,ただそれが,法の力でむりやりに平等の尊重へと,わきへ逸らされているにすぎないのです。」(359B)

これも,不正というものが自然であると考えれば全くその通りなのだと思います。
個人的な実感としては,半分くらいその通りだなと思います。特に最近のネット社会を考えてみると,よい例になるのかなと思います。未だに規制・法律が追いついておらず割と何でもアリに近い状態とも言えるし,あるいは原理的にそうというか,合法的であっても例えば口では言えないような言葉で他人を非難して傷つけたり (傷つけなくとも信じられないくらい品のないことを書いたり),ある思惑による株価の上下を利用して瞬間的に利益を得るといったことはあると思います。それが「不正」だとして,現実世界では「正しい」人がネットでは「不正」である,という例はいくらでも挙げられるでしょう。現実ではタガにはめられているが,規範のないネット上ではそれが解放されるのかもしれません。
さらに卑近な例でいえば,ゲームで裏技を使うことを許容するかどうか,ということも近いかもしれません(笑)。僕は使う派で,よく FF でアイテムを無限に増殖する技を使ってました…。
他方で,そういう状況にあっても,自分の欲望の赴くままに何でも行うという人ばかりとも思えません。が,それについてもグラウコンは後で手厳しく吟味してきます。

「これすなわち,すべての人間は,<不正>のほうが個人的には<正義>よりもずっと得になると考えているからにほかならないが,この考えは正しいのだと,この説の提唱者は主張するわけです。事実,もし誰かが先のような何でもしたい放題の自由を掌中に収めていながら,何ひとつ悪事をなす気にならず,他人のものに手をつけることもしないとしたら,そこに気づいている人たちから彼は,世にもあわれなやつ,大ばか者と思われることでしょう。ただそういう人たちは,お互いの面前では彼のことを賞讃するでしょうが,それは,自分が不正をはたらかれるのがこわさに,お互いを欺き合っているだけなのです。」(360D)

「面前では正しい人を賞賛するが,それは不正をはたらかれるのが怖いので互いに欺き合っているだけ」というのはなかなかグサリと来る言葉です。学校や会社で「あの人は真面目だ」と言う場合にも,同じようなニュアンスが潜んでいるのではないか?と思ってしまいそうになります。
ただ,ソクラテスじゃないですが,そういう考え方にならないためのものが人としての真の「学び」ではないかと個人的には思います(キリッ)。まあでも残念ながらここのグラウコンの言葉は現実を表しているとは思います。

「さていよいよ,問題の二人の人間の生についての判定ですが,これを正しく行なうためには,われわれは一方に最も正しい人間を置き,他方にこれまた最も不正な人間を置いて比較しなければなりません。そうしないと,正しい判定は不可能です。」(360E)

「こうして,完全に不正な人間には完全な不正を与えて,何ひとつ引き去ってはなりません。彼は最大の悪事をはたらきながら,正義にかけては最大の評判を,自分のために確保できる人であると考えなければなりません。そして万が一しくじるようなことがあっても,その取り返しをつける能力をもっていると考えなければなりません。すなわち,自分がおかした不正の何かがあばかれた場合には,人を説得しおおせるだけの弁論の能力をもち,力ずくで押さえなければならぬ場合には,自分の勇気とたくましさにより,また味方と金を用意することにより,相手を押えつけるだけの実力をもっている者と考えなければなりません。」(361A)

ということで,最も不正な人間と最も正しい人間を仮に想定するわけですが,かなり worst of worst な不正な人間ですね。本当は不正だが,他の人からは,その人は正しい人に見えると。また正しく見せる能力を持つと。確かに評判とか,その結果として得られる報酬を考えると,またそれを使い放題に使えるとすると,最強かもしれません。

「さて,不正な人間をこのように想定したうえで,その横にこんどは正しい人間を―単純で,気だかくて,アイスキュロスの言い方を借りれば『善き人と思われるることではなく,善き人であることを望む』ような人間を―議論のなかで並べて置いてみましょう。正しい人間からは,この<思われる>を取り去らなければなりません。なぜなら,もしも正しい人間だと思われようものなら,その評判のためにさまざまの名誉や褒美が彼に与えられることになるでしょう。そうすると,彼が正しい人であるのは<正義>そのもののためなのか,それともそういった褒美や名誉のためなのか,はっきりしなくなるからです。こうして一切のものを剥ぎとって裸にし,ただ<正義>だけを残してやって,先に想定した人間と正反対の状態に置かねばなりません。すなわち,何ひとつ不正をはたらかないのに,不正であるという最大の評判を受けさせるのです。そうすれば彼は,悪評や,悪評のもたらすさまざまの結果のためにへなへなにならないということによって,その<正義>のほどが完全に吟味されることになるでしょう。」(361B)

こちらも worst of worst な (本来は best と言うべきでしょうが,worst と言いたくなります…) 正しい人です。本当は正しい人なのに,周りからは不正な人と映るとは。今までの話の流れからすると,どうしようもない人ということになります。
ただ,この辺でも,自分が直観的に考える「正しい」と「不正」というものが,完全に逆転しているようだ,ということを忘れずに念頭に置いておきたいです。

「というのは,グラウコンが意図していると思われる点をもっとはっきりさせるためには,われわれとしては,彼が語ったのと反対の立場の議論,つまり,<正義>のほうを讃え,<不正>をとがめる議論も,並べなければならないからです。
思うに,父親は息子たちに向かって,また,一般に誰かの身の上を気づかう人々はすべてその当人に向かって,正しい人でなければならないと説き進めるものですが,これは<正義>というものをそれ自体として讃えているのではなくて,<正義>がもたらすよい評判を讃えているのです。つまり,彼らのそういう勧告の真意は,正しい人であると思われることによって,その評判から,役職,結婚その他,グラウコンがいま数え上げたようなすべての善いものが手に入るようにしなさい,それらが正しい人に与えられるのは,要するによい評判のおかげなのだからと,こういうわけなのです。」(362E)

アデイマントスが割り込んできて話します。確かにこれまでのグラウコンの言葉とは違い,正義の利点を述べている…ようではありますが,これはあくまで正しいと「思われる」ことによる利点にすぎません。

「すべての人々が異口同音にくり返し語るのは,節制や正義はたしかに美しい,しかしそれは困難で骨の折れるものだ,これに対して放埓や不正は快いものであり,たやすく自分のものとなる,それが醜いとされるのは世間の思わくと法律・習慣のうえのことにすぎないのだ,ということです。彼らはまた,不正な事柄のほうが多くの場合正しい事柄よりも得になると言い,邪な人間であっても金その他の力をもっていれば,そういう人間のことを,公の場でも個人的な立場でも,何はばかるところなく,祝福し尊敬しようとします。他方,正しくても無力で貧乏な人間に対しては,前者とくらべてより善人であることは認めながらも,これを見下し,軽蔑しようとするものです。」(364A)

今度は逆に,不正が醜いとされているのも,思わくと法律習慣によるものだと言います。そして不正の方が得だと言います。
「邪な人間であっても金その他の力をもっていれば…何はばかるところなく,祝福し尊敬しようとする」「正しくても無力で貧乏な人間に対しては,…善人であることは認めながらも,これを見下し,軽蔑する」…確かにそういう「権力になびく」人はいるし,それが否定はできません。

「しかしそういうあなた方すべてのうちで,かつて誰一人として,<不正>をとがめ<正義>を讃えるにあたって,評判のことや,名誉のことや,それらから結果する報いのことを云々する以外の仕方によった者はいなかった。<正義>と<不正>のそれぞれが,それぞれを所有している者の魂の内にあって,神々にも人間にも気づかれないときに,それ自体としてそれ自身の力で,どのようなはたらきをなすかということは,詩においても教えにおいても,かつて一度もくわしく語られたことはなかった。」(366E)

「<正義>を讃えるにあたっても,まさにこの肝心の点を讃えてください。<正義>はそれ自体として,それ自身の力だけで,その所有者にどのような利益を与えるのか,逆に<不正>はどのような損害を与えるのかを,示してください。報酬や評判を讃えることのほうは,ほかの人々におまかせになればよろしい。」(367D)

ということで当然ここに来ます。他人の思わくを相手にするのではなく,正義それ自体としてどういう利益があるのか?何となくイデア論の香りがしますね。
ところで,東洋の古典では,例えば「天網恢恢疎にして漏らさず」とか「李下に冠を正さず」とか,人が見ていないところでも正しくしていないとダメだという観念,あるいは「秘すれば花」のように寧ろ見せないのが美徳という観念,があるように思います。それは現代にも生きている気もします。そして,それが何故かというところまではあまり触れられていないように思います。
勿論私のようなアマチュアが知らないことも沢山あると思いますが,いい意味で「天下り的」なのかな,とよく思います。正直ソクラテスの対話にさらされなくてよかったと思います(笑)。もっともソクラテス自身は,違うと思いますが。つまり,暗黙的に,思わくではなくソクラテス的な「善さ」を東洋では認めているような気もします。

「まずぼくは,どうやって<正義>を助けたらよいのかわからない。どうもぼくには,それだけの力がないように思えるのでね。…
かといってまた,<正義>を助けずにいるということも,ぼくにはできないことだ。なぜなら,<正義>が悪しざまに罵られているところに居合わせながら,自分がまだこうして息をして口もきけるというのに,見捨てて助けないというのは,不敬虔なことでもあるのではないかと怖れるのでね。」(368B)

グラウコンとアデイマントスが示した議論は,今でもそうですが当時も確かに現実をよくとらえていたのだと分かります。ソクラテスも困っています。
しかしソクラテスにとっては,分からない,ということは普通というか当然のことでもあるのだと思います。喜びでさえあるのかもしれません。対カリクレス,対トラシュマコスの時も,最初はどうなることかと思いましたが,結局いつの間にかソクラテスの土俵に乗っていました。今回はそのとき以上に厳しそうな戦いですが,だからこそ面白い対話がなされるのではと期待できます。

「<正義>には,われわれの主張では,一個人の正義もあるが,国家全体の正義というものもあるだろうね?」
「ええ,たしかに」と彼は言った。
「ところで,国家は一個人より大きいのではないかね?」
「大きいです」と彼。
「するとたぶん,より大きなもののなかにある<正義>のほうが,いっそう大きくて学びやすいということになろう。だから,もしよければ,まずはじめに,国家においては<正義>はどのようなものであるかを,探求することにしよう。そしてその後でひとりひとりの人間においても,同じことをしらべることにしよう。」(368E)

ということで,大きいもののほうが調べやすいという論理で,人ではなくまず国家の正義を検討するということになりました。かなり遠大な構想です。

この後第二巻は,実際に何もないところから国家というものを作っていき,そこの正義・不正というものを考える,という展開になりますが,続きはメモ(2)に。それにしても毎回長くなります(笑)。

プラトン『国家』第一巻メモ(2)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第一巻を読んだときのメモの第2段。 第1段の対話メモの続きで,ここではソクラテス対トラシュマコスの対話がメインとなります。

トラシュマコスのソクラテスに対する敵対的な態度は,『ゴルギアス』のメモでも書きましたが,『ゴルギアス』に出てくるカリクレスを彷彿とさせます。ただ,カリクレスがソクラテスの「哲学の生活」つまり生き方そのものを徹底的に非難したのに対して,トラシュマコスは口調は確かに激しいのですが,あくまで「正義」についての自説を展開したに過ぎない,という気もします。なのでソクラテスの反駁も,淡々と論理的に行なわれたという印象です。まあ,ソクラテスも第一巻からそこまで本気になったら第十巻まで持たないでしょう(笑)。

以下が読書時のメモです。

「何というたわけたお喋りに,さっきからあなた方はうつつをぬかしているのだ,ソクラテス?ごもっとも,ごもっともと譲り合いながら,お互いに人の好いところを見せ合っているそのざまは,何ごとですかね?もし<正義>とは何かをほんとうに知りたい のなら,質問するほうにばかりまわって,人が答えたことをひっくり返しては得意になるというようなことは,やめるがいい。答えるよりも問うほうがやさしいことは,百も承知のくせに!」(336C)

ソクラテスとポレマルコスの対話で,正義とは敵に対してでも害を与えることはない,ということが合意されたところで,トラシュマコスが我慢ならんという感じで割り込んできて上記の言葉を始め,かなり過激な言葉を投げかけます。ソクラテスが驚いた様子も本文に書かれていますが,読み手としてもかなり強烈な印象を受けます。

「では聞くがよい。私は主張する,<正しいこと>とは,強い者の利益にほかならないと。…おや,なぜほめない?さては,その気がないのだな?」(338C)

トラシュマコスの言葉です。なんかこの部分だけ読むと滑稽ですが,「なぜほめない?」というのは,この前に,ソクラテスが「人から何かを学んだときには自分も謝礼をするが,自分はお金がないのでその人を褒めることしかできない」というような言葉を受けてです。

「それぞれの国で権力をにぎっているのは,ほかならぬその支配者ではないか?」
「たしかに」
「しかるにその支配階級というものは,それぞれ自分の利益に合わせて法律を制定する。たとえば,民主制の場合ならば,民衆中心の法律を制定し,僭主独裁性の場合ならば,独裁僭主中心の法律を制定し,その他の政治形態の場合もこれと同様である。そしてそういうふうに法律を制定したうえで,この,自分たちの利益になることこそが被支配者たちにとって<正しいこと>なのだと宣言し,それを踏みはずした者を法律違反者,不正な犯罪人として懲罰する。 さあ,これでおわかりかね?私の言うのはこのように,<正しいこと>とはすべての国において同一の事柄を意味している,すなわちそれは,現存する支配階級の利益になることにほかならない,ということなのだ。しかるに支配階級とは,権力のある強い者のことだ。したがって,正しく推論するならば, 強い者の利益になることこそが,いずこにおいても同じように<正しいこと>なのだ,という結論になる」(338D)

まさに「強者の論理」というのがふさわしいトラシュマコスの言葉…だとは思うのですが,「民主制の場合ならば,民衆中心の法律を制定し…自分たちの利益になることこそが被支配者たちにとって<正しいこと>」と,言葉だけ見ると一見正論を述べてもいるような気もします。
ただ,勿論「利益→正しい」というのが本当なのか?ということと,「民主制における支配階級とは?」というのが疑問に思ったことではあります。前者はソクラテスにお任せするとして,後者は本来であれば,市民一人ひとりということになるのかな,と思います。が現実には代議士,政治家ということになるでしょうか。では政治家の利益になることが正しいことなのでしょうか?現代の視点でトラシュマコスの言葉を考えると,そういう問いかけに取ることも可能かもしれません。

「支配者たち,強い者たちに不利益なことを行なうのも<正しいこと>であると,君はちゃんと同意したのだ,とね。つまりそれは,支配者たちがそのつもり ではないのに自分に不利益なことを命じるような場合のことだ。そして君は,命じられたとおりに行なうのが被支配者にとって正しいことなのだ,と主張してい る」(339E)

ソクラテスの反論です。ここでは結構省いていますが,メモ(1)に書いた,ポレマルコスと対話したのと展開が似ています。つまりポレマルコスは最初,「善いと思われる人」に利益を与えるのが正義だといいましたが,それだと実際には悪い人,つまり敵に利するのが正義の場合もあることになりました。同様に,支配者たちの「利益だと思われる」ことを被支配者が行なった場合,それは実際には不利益かもしれないが,それも正義の場合もあると。但しトラシュマコスは,ここは少し工夫してきます。

「い いかね,早いはなしが,あなたは病人について判断を誤るような者を,判断を誤るまさにその点に関して,『医者』であると呼びますかね?あるいは,計算を誤るような者のことを,計算を誤るまさにその瞬間に,まさにその誤りに関して,『計算家』であると呼びますかね?」(340D)

「あらためて 最も厳密な意味で答えるとすれば,こういうことになる。すなわち,支配者は,支配者たるかぎりにおいては誤ることがない,そして誤ることがない以上,支配者が法として課するのは,自分にとって最善の事柄であって,それを行なうのが被支配者のつとめであると。」(340E)

ということでトラシュマコスは,専門家は,その技術については決して誤ることがない,技術自体は完全なものであるという「厳密な意味での」という前提を導入します。これはこれで,なるほどという仮定だなと思いました。一種のプロフェッショナリズムともいえるかもしれません。確かに間違うことがありうるということになれば,そこで話が頓挫しかねません。が,この後で分かるように,ソクラテスにとっても好都合だったようです。

「(だからまた,) おそらくどんな医者でも,彼が医者であるかぎりにおいては,医者の利益になることを考えてそれを命じるのではなく,病人の利益になる事柄を考えて命令する のではないかね?なぜなら,すでに同意されたところによれば,厳密な意味での医者というものは,金儲けを仕事にするものではなくて,身体を支配する者のこ となのだから。―どうだね,そういうことが同意されたのではないか?」(342D)

「そしてまた,トラシュマコス」とぼくは言った,「一般 にどのような種類の支配的地位にある者でも,いやしくも支配者であるかぎりは,けっして自分のための利益を考えることも命じることもなく,支配される側の もの,自分の仕事がはたらきかける対象であるものの利益になる事柄をこそ,考察し命令するのだ。そしてその言行のすべてにおいて,彼の目は,自分の仕事の 対象である被支配者に向けられ,その対象にとって利益になること,適することのほうに,向けられているのだ」(342E)

ということで,「厳密の意味で」というトラシュマコスの前提を利用する形でソクラテスが反駁します。そもそも技術が完全であるなら,それは金儲け等その他の目的ではなく,その技術の作用を受ける側の利益のみを目的にしたものであり,それはつまり被支配者の利益になることであって支配者の利益になるものではない,と。
繰り返しますが,この「厳密の意味で」という前提は曖昧さを取り除き,論理的な推論を可能にするという点で,かなりソクラテスに有利に働いているように個人的には思います。

「それにまた,お人好しの本尊のソクラテスよ,正しい人間はいつの場合にも不正な人間にひけをとるものだということを,次のようなことから考えてみるがよい。まず第一に, 正しい人間と不正な人間とが互いに契約して,共同で何かの事業をするとしたら,その共同関係を解くにあたって,正しい者のほうが不正な者よりもたくさんの 儲けにあずかるというようなことは,けっして見られないだろう。正しい人のほうが,きまって損をするのだ。」(343C)

ソクラテスを「お人好しの本尊」呼ばわりしますが,そういう,問題の追求とは関係なく相手を貶める言葉を言うのは (まあ面白いですが) 聞き手を呆れさせるだけで言う人間にとって何もメリットはない,と実感します。
それはともかく,このトラシュマコスの言っていること自体は現実のような気もします。

「しかし私の言うことは,最も完全なかたちにおける不正のことを考えてもらえば,あんたにもいちばん楽にのみこめることだろう。最も完全な不正こそは,不正をおかす当人を最も幸せにし,逆に不正を受ける者たち,不正をおかそうとしない者たちを,最も惨めにするものだからだ。独裁僭主のやり方が,ちょうどこれにあたる。」 (344A)

「ところが,いったん国民すべての財産をまき上げ,おまけにその身柄そのものまでを奴隷にして隷属させるような者が現われると,その人はいま言ったような不名誉な名では呼ばれないで,幸せな人,祝福された人と呼ばれるのである。その国民自身がそう呼ぶだけではない。よその国の 者も,彼がそういう完全な不正をなしとげたことを聞き知るならば,口をそろえてそう言うのだ。それというのもほかではない,人々が不正を非難するのは,不正を人に加えることではなく自分が不正を受けることがこわいからこそ,それを非難するのだからである。 このように,ソクラテス,不正がひとたび十分な仕方で実現するときは,それは正義よりも協力で,自由で,権勢をもつものなのだ。そしてわたしが最初から言っていたように,<正しいこと>とは,強い者の利益になることにほかならず,これに反して<不正なこと>こそは,自分自身に利 益になり得になるものなのである」
こういってトラシュマコスは,まるで風呂屋の三助が湯をぶっかけるような勢いで,われわれの耳にたくさんの言葉をわんさかと浴せかけておいてから,そこを立ち去るつもりでいた。(344B)

トラシュマコスは,不正を礼賛するようなことを言います。不正は正しい人を適切に?支配するものであると言います。「正しいことは支配者の利益になることで,不正なことは自分の利益になること」というのは,「お前の物は俺の物,俺の物も俺の物」という所謂ジャイアンの理論を思い出します(笑)。実際,トラシュマコスは支配者が不正を成し遂げ,被支配者が正しい場合が理想的な支配体制と考えているように思えます。ただどちらかというと帰納的で,ソクラテスとの対話が成り立っているようには思えません。
あと最後の「風呂屋の三助」云々は,変わった訳というか,古い訳なのかなと思いました。僕は一応漱石の小説などもよく読むので分かりますが (確か『門』の序盤に出てきたような),今は三助って通じない気がします。勿論原文がそういうものなのでしょうけど。

「ぼくのほうは,ちゃんと自分の考えを表明しておく。すなわち,ぼくは君の言ったことを信じない。不正のほうが正義よりも得になるなどとは,けっして思わない。たとえ不正が放任されていて,何でもしたい放題であるような場合でも,なおかつそうなのだ,とね」(345A)

決然と,といった感じでソクラテスが言います。ごちゃごちゃと理詰めで相手をやり込んでいくのがいつものソクラテスですが,無茶な言説に対してこのように決然と対決姿勢を示す場面はいいなあと思います。
当たり前ですが,ソクラテスほど情に厚い人間もいなかったはずで,普段は理詰めですがこういう時にふと本性が覗くのが,人間的なところを感じさせます。いやまあプラトンの脚色かもしれませんが…。

「ぼ くはね,親愛なるトラシュマコス,まさにこういう理由によってこそ,ついさっき,みずからすすんで支配者の地位につき,他人の災厄に関与して立て直してやろうと望む者は一人もいない,みんなそのための報酬を要求する,と言っていたのだよ。ほかでもない,自分の技術に従って立派に仕事をしようとする者ならば,けっして自分自身のために最善になることを行なうことはないし,また人に命令する場合にも,その技術本来の任務に忠実である限りは同様であって,逆に 被支配者のために最善になることをこそ,行なったり命じたりするのだから。 思うに,支配者の地位につくことを承知しようとする者に報酬が与えられなければならないということは,こうした事情によるのだろう。その報酬が金銭にせよ,名誉にせよ,あるいは,拒む者に対しては罰であるにせよね。」(346E)

「支配者はその技術を被支配者の最善のためだけに使う,自分のためには決してならない,だから報酬が必要」というのは,かなり感銘を受けました。当たり前でもあるかもしれませんが。「プロの態度」のように思えます。
大変な決断をする人には,それなりに報酬を与えないといけない,とも思えます。それなりに報酬を貰っているのなら,その分仕事は虚心に行わなければいけない,とも思えます。不正を行うということは,報酬が足りないからだ,だから自分のための仕事をしてしまうのだ,とも思えます。報酬が足りるかどうかの尺度は難しい,いや節制がない人にとっては無尽蔵だろう,とも思います。
日ごろの仕事に対する姿勢にも通じるところはあります。報酬を貰っているのだから,自分自身の成長とか楽しみとかは,考えるべきではないかもしれません。勿論,楽しむこと,成長することが同時に結果を出すことに繋がればベストだろうとは思いますが…。

「と ころで,罰の最大なるものは何かといえば,もし自分が支配することを拒んだ場合,自分より劣った人間に支配されるということだ。立派な人物たちが支配者となるときには,こういう罰がこわいからこそ,自分が支配者になるのだとぼくは思う。彼らはそのとき,支配することを何か善いことであると考えたり,その地位にあって善い目にあうことを期待したりして,支配に赴くわけではないのだ。支配をゆだねてもよいような,自分以上にすぐれた人たちも,あるいは自分と同 様の人たちさえも見出せないために,万やむをえぬことと考えてそうするのだ。」(347C)

前の引用の最後に「罰」という言葉があり,グラウコンがそれについて質問したところですが,「優れた人にとって,自分が劣った人間に支配されることが罰で,それを受けないためにやむを得ず支配者になる」というソクラテスの説で,これにも唸らされました。
確かに,これまでの話の流れでいくと,支配者とは決して自分のためのことをするわけではなく,その代わりに報酬を貰いますが,金や名誉のために仕事をすることを恥だと思えば,支配者になりたいと思う理由はないようにも思えます。
勿論現実は,出世していい身分になり沢山の金を貰いたい,と思うのが当たり前の世の中だからこそ,このソクラテスの説が新鮮に映るのです。
「マザー2」というゲームで,モグラの5兄弟が敵として出てきて,別々に戦うところがあるのですが,5匹が5匹とも「自分こそが真に3番目に強い」と言って憚らないのをふと思い出しました。トップになりたがらないという共通点だけですが,そう思うと案外深かったです(笑)。

「すると,<不正>とは,次のよう な力をもつのだということが明らかだね。すなわち,それは国家であれ,氏族であれ,軍隊であれ,他の何であれ,およそ何ものの内に宿るのであろうとも,ま ずそのものをして,不和と仲違いのために共同行為を不可能にさせ,さらに自分自身に対して,また自分と反対のすべての者,すなわち正しい者に対して,敵たらしめるものだ。そうではないかね?」
「たしかに」
「そして思うに,一個人の内にある場合にも,<不正>は同じこれら自己本来のはたらきを発揮することに変りはないのだ。すなわち,まずその人 間をして,自分自身との内的な不和・不一致のために事を行なうことを不可能にさせ,さらに自己自身に対しても正しい者に対しても敵たらしめるものだ。そうだね?」(351E)

この前に,不正が正義より劣ったものであるというソクラテスの論証があったのですが,メモは省略しました。トラシュマコスはソクラテスに降参したような形で,割と素直になっており,ここはソクラテスの独壇場のような感じで不正に関する考察が行われます。
しかし,「不正は組織に不和を発生させ,さらに自分自身の中にも不和を発生させる」 (反対に協調を作るのは正義同士のみである),というのはなるほどと思います。

「食いしんぼうの客は,料理の皿が出されるたびに,前の料理をまだじゅうぶんに賞味してもいないのに,すぐ次の皿を ひったくっては味わおうとするものだが,ぼくのやり方も,ちょうどそのとおりだったと自分で思う。最初『<正義>とはそもそも何であるか』と いう問題を考察していながら,答をまだ見出さぬうちにその問題を離れて,『それは悪徳であり無知であるのか,それとも知恵であり徳であるのか』といっ た,<正義>についての特定の問題にとびついて行ってしまった。そのあとでこんどは『<不正>は<正義>よりも得に なるものである』という論が出てくると,またもや先の問題をほったらかして,それに向かわずにはいられなかった。 こうして,討論の結果ぼくがいま得たものはと言えば,何も知っていないということだけだ。それもそのはず,<正義>それ自体がそもそも何であ るかがわかっていなければ,それが徳の一種であるかないかとか,それをもっている人が幸福であるかないかといったことは,とうていわかりっこないだろうか らね」(354B)

…ということで,「不正が正義より得になることはない」という結論になりますが,上記のように「そもそも正義とは何かが分からない」という,『メノン』などと同様の所謂アポリアに陥って第一巻が終了します。

ここまでだけ見ると,これだけで1つの対話編として立派に成り立ちそうです。しかし『国家』は,まだ1合目に過ぎません。これからたっぷりと「正義」の追求が見られます。非常に楽しみです。
次回は第二巻の予定。

プラトン『国家』第一巻メモ(1)

プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第一巻を読んだときのメモ第1弾。

まず『国家』はプラトン全集では,全十巻に分かれています。全体として非常に長いので,メモも1巻ずつに分けて残そうかと思います。…と思ったら第一巻が長くなって早速2つに分かれましたが。

何にしても,まずこの『国家』を,趣味として,読み物として読むことができることに感謝したいと思います。ソクラテスや他の人物の言葉を,「哲学」として検証する立場ではなく,自らも対話の一員のように素直に読むことができることを嬉しく思います。この前呟いたのですが,研究者や専攻の学生でもないのにわざわざ『国家』を,というよりプラトン全集をですが,読む人はなかなかいないと思います。きっかけは何であれ,そういう機会に恵まれてよかったです。

さて実は『国家』は文庫で一応以前読んだことがあります (例によってあまり覚えていません(笑))。話の流れとしては,まず個人の正義とは何かを考え,それから国家の正義というものを考えるために理想の国の形をゼロから考えていく,というようなものだったと思います。

それぞれの巻のメモで,大まかな中身は自分なりにまとめていきたいと思っていますが,文庫版の『国家』の最初に,構成・内容が分かりやすくまとめられていたと思います。

さて第一巻ですが,話はソクラテスがペイライエウスからアテナイに帰るところで,ポレマルコスに呼び止められ,ポレマルコスの家に行って対話が始まります。内容は,大まかにいえば以下のような内容です:

  • ケパロスとの老年についての対話
  • ポレマルコスとの正義についての対話
  • トラシュマコスとの正義についての対話

以前読んだときも第一巻はかなり印象的でした。というのはトラシュマコスという人物が,非常に過激な言説でもってソクラテスと対決したからです。『国家』を買って途中で挫折したという人も,第一巻を読んだ人は多いのではないかと思います。正直,第一巻は内容的に独立しているようにも思えます。そして第二巻以降の退屈な展開とはだいぶ違います(笑)。

以下読書時のメモです。ただ,トラシュマコスとの対話は,メモ第2弾に書きます。

「ええ,それはもう,ケパロス」とぼくは言った,「私には,高齢の方々と話をかわすことは歓びなのですよ。なぜなら,そういう方たちは,言ってみれば,やがてはおそらくわれわれも通らなければならない道を先に通られた方々なのですから,その道がどのようなものか,―平坦でない険しい道なのか,それともらくに行ける道なのかということを,うかがっておかなければと思っていますのでね。とくにあなたからは,それがあなたにどのように思われるかを,ぜひうかがっておきたいのです。」(328D)

ここからのケパロスの話は結構印象的です。自分にとっては,理想の高齢者像のように思える部分もあります。まあケパロスが金銭的に裕福だからいえるのかもしれませんが。あとは,本当にケパロスが言ったのか,プラトンの創作なのか,も分かりません。ちょっと明晰すぎるきらいもありますし。

「そして彼らは,何か重大なものが奪い去られてしまったかのように,かつては幸福に生きていたが今は生きてさえいないかのように,なげき悲しむ。なかには,身内の者たちが老人を虐待するといってこぼす者も何人かあって,そうしたことにかこつけては,老年が自分たちにとってどれほど不幸の原因になっていることかと,めんめんと訴えるのだ。しかし,ソクラテス,どうもこの私には,そういう人たちは,ほんとうの原因でないものを原因だと考えているように思えるのだよ。」(329A)

途中までの言葉は,なんか現代でも丸ごと当てはまりそうな言葉です。

「けれども,げんに私はこれまでに,そうでない人々に何人か出あっているのだ。作家のソポクレスもその一人で,私はいつか,彼がある人から質問されているところに居合わせたことがある。
『どうですか,ソポクレス』とその男は言った,『愛欲の楽しみのほうは?あなたはまだ女と交わることができますか?』
ソポクレスは答えた,
『よしたまえ,君。私はそれから逃れ去ったことを,無常の歓びとしているのだ。たとえてみれば,凶暴で猛々しいひとりの暴君の手から,やっと逃れおおせたようなもの』
私はそのとき,このソポクレスの答を名言だと思ったが,いまでもそう思う気持ちにかわりはない。まったくのところ,老年になると,その種の情念から解放されて,平和と自由がたっぷり与えられることになるからね。」(329B)

「それは,ソクラテス,老年ではなくて,人間の性格なのだ。端正で自足することを知る人間でありさえすれば,老年もまた苦になるものではない。が,もしその逆であれば,そういう人間にとっては,ソクラテス,老年であろうが青春であろうが,いずれにしろ,つらいものとなるのだ。」(330D)

僕もソポクレスの答えは名言だと思いますが,それは食欲とか物欲など色んな欲にも同じことがいえると思いますし,後半のケパロスの言葉のように,歳とは関係ないのかなとも思います。いわゆるストア派の考え方にもつながるのかもしれません。

「で,私としては,お金の所有が最大の価値をもつのは,ほかならぬこのことに対してであると考える。ただし,あらゆる人にとってそうだというのではなく,立派できちんとした人間にとっては,ということだがね。つまり,たとえ不本意ながらにせよ誰かを欺いたり嘘を言ったりしないとか,また,神に対してお供えすべきものをしないままで,あるいは人に対して金を借りたままで,びくびくしながらあの世へ去るといったことのないようにすること,このことのために,お金の所有は大いに役立つのである。」(331A)

ソクラテスに「財産を持っていてよかったことは?」と訊かれたケパロスの答えですが,この言葉もかなり感銘を受けました。つまり「不正を犯さないために,お金は役に立つ」と。
僕なども,「金に魂を売るような人生は絶対に送りたくない」ということは常に思っていますが,それは逆説的ですがある程度お金をもっていないといけないのかな,とも思います。それと心のどこかで,大きな財産を手に入れるというのは何か不正 (違法かどうかではなくもっと広い意味) を伴うんじゃないか?という一種偏見に近い思いも心のどこかにあるような気がします。そこで,「不正を犯さないための財産である」,というのは逆転の発想というか。
後で「支配者にみずから進んでなる者はおらず,そのために支配者は報酬を要求する」というソクラテスの説が出てくるのですが,それとも繋がりがありそうな感じです。報酬が足りないから支配者は不正を犯す,という見方もできるのかもしれません。

「さあそれでは」とぼくは言った,「議論の相続人である君よ,教えてくれたまえ。<正義>についての正しい説だと君が主張するのは,シモニデスのどのような言葉なのかね?」
「『それぞれの人に借りているものを返すのが,正しいことだ』というのです」とポレマルコスは答えた,「私としては,これは立派な言葉だと思いますがね。」(331E)

ここからは,ソクラテスとポレマルコスの正義についての対話が暫く続きます。

「そしてほかのあらゆるものについても,正義とは,それぞれのものの使用にあたっては無用,不用にあたっては有用なもの,ということになるわけだね?」
「どうもそういうことになるようです」
「なんだかそうなると,友よ,<正義>とは,あまり大した代物ではないことになるね。不用なものに対してしか有用ではないというのではね。」(333D)

ポレマルコスは,正義とは契約に関して有用なもの,しかもお金に関することで有用なもの,とソクラテスとの対話で述べます。しかしそれは,お金を何かに使うときではなく「お金を使わないで,そのまま置いておかなければならないとき」に,つまり不用なときに有用である,ということになり,それで上記のようなソクラテスの言葉になりました。この辺りはソクラテスははぐらかしモードのような気がします(笑)。

「冗談ではありませんよ!」とポレマルコスは言った,「しかし私にはもう,自分が何を言っていたのか,さっぱりわからなくなってしまいました。ただし一つだけ,いまでも確かだと思うのは,<正義>とは友を利し敵を害することである,ということです」
「その場合,君が<友>と言っているのは,各人に善い人だと思われている者のことだろうか,それとも,たとえそうは思われなくても,実際に善い人間である者のことだろうか?これは<敵>についても同様なのだが,いったいどちらなのかね?」
「それは」と彼は答えた,「人は相手を善い人間だと思う場合に,その人間を友として愛し,悪い人間だと思う場合に,敵として憎むのだと,当然考えられます」(334B)

「してみると,いいかね,ポレマルコス,多くの人たちにとっては,彼らが人間の判断を誤るかぎり,友に対しては害を与え―その相手は実際には悪い人間なのだからね―敵に対しては益をなす―その相手は実際には善い人間なのだからね―のが正義である,ということになるだろう。そして,このようにしてわれわれは,シモニデスの説だと言っていたこととは,ちょうど正反対のことを言う結果になるだろう」(334E)

後でトラシュマコスとの対話でも似た論理があるのですが,「実際に善い」人と「善いと思われる」人のどちらが友で,その友に利するのが正義かと問います。で,後者だとすると,思われるだけで実際には悪い人間を,つまり敵に利するのが正義だということになります。
実感としては,「善悪の判断を誤らないようにしないといけない」,と現実を反省してしまいがちで,それだと不祥事を起こした企業や政治家が「再発防止を徹底します」と言うだけで何も変わらないのと同じなのかもしれません。一方でソクラテスのほうは,そもそも仮説・前提を覆そうとします。

「善い人間だと思われ,しかも実際にそうであるような者が<友>である,としましょう」と彼は答えた。(334E)

「では,はたして正しい人間は,自分が身につけているその<正義>によって,人を不正な者にすることができるだろうか?あるいは,一般的に言って,善き人間は,その善さ (徳) によって,人を悪い人間にすることができるだろうか?」
「いいえ,できません」
「実際に,思うに,冷たくするということは,熱さのはたらきではなくて,その反対のもののはたらきなのだ」(335C)

「したがって,ポレマルコスよ,相手が友であろうが誰であろうが,およそ人を害するということは,正しい人のすることではなくて,その反対の性格の人,すなわち不正な人のすることなのだ」
「まったくあなたの言われるとおりだと思います,ソクラテス」(335D)

ポレマルコスは,全面的にソクラテスに承服します。で結局は,正義は敵に害を与えるということもこのように否定されます。

ちょっと雑ですが,最初から飛ばすと息切れしそうなので…長くなってきたので,続きはメモ第2弾に。

プラトン『クレイトポン』メモ

プラトン『クレイトポン』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,ソクラテスがクレイトポンに,自分の悪い評判を流したのではないかと問いただす場面が始まりですが,ソクラテスがしゃべるのはそれを含めて序盤の2言だけで,クレイトポンが殆ど一方的に話すだけで終わります。なのでいわゆる「対話篇」らしいソクラテスの対話は殆どありませんが,クレイトポンの回想の中で片鱗を見ることはできます。

この対話篇の特徴は,何と言っても短いことです。全集ではわずか13ページです。同じ11巻に収録されている超大作の『国家』と対照的です。なのでこのメモもいつものように長くせず,短くすることでその特徴を伝えられればと思います(笑)。あとは訳の関係もあると思いますが,ソクラテスを「あんた」呼ばわりするクレイトポンの口の悪さが印象的ではあります。

副題は「徳のすすめ」。以下が読書時のメモです。

クレイトポン「つまり,これらの説と,それからまた,ほかにも,徳は教えられるものだとか,何よりも自分自身に気をつけなければいけないとか,以上に言われたのと似たような論がたいへんたくさん,たいへんみごとに言われたものがあって,わたしは,それらにはほとんど反対したこともなかったし,これからもけっして反対することはないだろうと思う。それは,われわれに学を志すことを教え,われわれを益することの最も大なるものであり,まるで眠っているみたいなわれわれの目をさましてくれるものだ,と思っているのだ。
そこでだ,わたしの関心は,それから先の話を聞かしてもらいたいということに向けられてきたのだ。…」(408B)

クレイトポンとソクラテスは,あまり折り合いがよくないようで,実際クレイトポンは,トラシュマコスという『国家』でソクラテスと対決する弁論家と親しいようです。それでも,ソクラテスを最初は立てています。皮肉のような気もしますが。

クレイトポン「「いや,そんな名前だけ答えてもらっても仕方がない。わたしの求めているのは,こういうことだ。医療の技術というようなものが認められているね。ところが,それが究極においてなしとげることには二つあって,一つは健康をつくるということ,もう一つは,既存の医者に加えて,また別の医者をたえずつくってゆくということだ。しかし,そのうちの一方は,もはや技術の形で存在するだけのものではなくて,教えたり教えられたりする当の技術の作物となりうるものなのだ。つまり,われわれが健康と言っているものはだね。…
そうすると,正義も同じことで,その一つの仕事は,正義の人をつくることであるとしよう。それは,いま言ってきたような技術のばあいでも,それぞれの技術者 (専門家) をつくることであったのと同じことだ。しかしもう一つの仕事は,どうなのか。正義の人がわれわれのためにつくることのできる作物とは何だと言うのか。それを言ってくれたまえ。」」(409B)

「魂の善さを目指す技術は?」という問いに「正義である」と答える,ソクラテス派の?人物の言葉に対する,クレイトポンの答えです (過去の回想なので括弧をダブらせています)。正義はどんな「作物」を作るのか?と。この後答えは色々と言われますが結局はっきりしません。

クレイトポン「あんたという人は,徳に意を用いよとすすめることにかけては,世にもすぐれた実践家だけれども,しかしあるいは,あんたにできるのはただそこまでのことで,それ以上は何もないのかもしれないという,半々の (二つに一つの) 可能性を認めたからだ。」(410B)

クレイトポン「なぜなら,まだ徳のすすめを説かれたことのない人間にとっては,ソクラテス,あんたは何にもかえがたい値打のある人だけれども,すでにそのすすめを受けてしまった人にとっては,徳の完成に達し幸福を得るということのためには,ほとんど邪魔だと言ってもいいくらいのものだということになるだろうからね。」(410E)

クレイトポンは,よくいる「それで?」「具体的には?」と訊きたがるタイプの人のような感じでしょうか。前述の正義による「作物」と同じで,ソクラテスは徳を賞賛したり,必要性を説いたりはするが,そこまでであり,実際にその具体的な知識を持っていないのではないか?と。で,この言葉でこの対話篇が終了します。

ということで,以上。「正義によって得られる作物とは?」というのが印象的な対話篇ですが,まあ読み物としては『国家』のプロローグ的なものとしてさらっと読む感じのものでしょうか。なお本対話篇は,「偽作の疑いあり」と解説にはあります。
次は『国家』の予定。

プラトン『メノン』メモ

プラトン『メノン』((プラトン全集 (岩波) 第9巻) を読んだときのメモ。

本対話篇の設定は非常に簡素で,最初からメノンとソクラテスの対話で始まり,おりからの問いが以下のメモの引用の最初の言葉で,本題にいきなり入っていきます。途中,メノンの召使という無名人物と,アニュトスという人物が対話に参加します。
なお,アニュトスとの対話場面はメモが残っていないのでここで書いておくと,アニュトスとはここではソフィストを徹底的に嫌った人物として描かれているのですが,他方で『ソクラテスの弁明』に出てくる裁判でソクラテスを告発した3人のうちの1人でもあります。プラトン対話篇ではだいたい,実際の相手との対話を超えて「ソクラテス対ソフィスト」という構図が多いと思うのですが,アニュトスは反ソフィストかつ反ソクラテス,という第三者的な人物に映り結構新鮮です (尤も本対話篇ではソクラテスと対立するわけではなく,一般的な知識人の例という感じ)。
さて本対話篇の大きなテーマとしては,以下のようなものが挙げられると思います。

  • 徳は教えられうるか
  • 想起説 (例として正方形の面積を求める過程)
  • 「知識」と「思わく」の違い

なお副題は「徳について」。以下は読書時のメモです。

メノン「こういう問題に,あなたは答えられますか,ソクラテス。―人間の徳性というものは,はたしてひとに教えることができるものであるか。それとも,それは教えられることはできずに,訓練によって身につけられるものであるか。それともまた,訓練しても学んでも得られるものではなくて,人間に徳がそなわるのは,生まれつきの素質,ないしはほかの何らかの仕方によるものなのか…。」(70A)

この「徳を教えられうるか」というのがこの対話篇の一貫したテーマです。『プロタゴラス』でもまさにこのテーマが論じられたと思います。また直前の『ゴルギアス』でも,弁論術とは何かが一応メインテーマでしたが,背後では,弁論術は徳を授けられるものではない,と言われていたと思います。かようにプラトンの対話篇の中身は結構オーバーラップしていますが,そもそも「徳」というものはソクラテスその人を象徴した言葉で,全ての対話篇に通底しているテーマといえるのかもしれません。

ソクラテス「すくなくとも,君がこの土地のだれかをつかまえて,いまのような問をかけるつもりになってみれば,それがわかるだろう。きっと誰でもわらってこう答えるだろうから。
「客人,どうやら君には,ぼくが何か特別に恵まれた人間にみえるらしいね。徳が教えられうるものか,それともどんな仕方でそなわるものなのか,そんなことを知っていると思ってくれるとは!だがぼくは,教えられるか教えられないかを知っているどころか,徳それ自体がそもそも何であるかということさえ,知らないのだよ。」」(71A)

ここで,ソクラテスの本対話篇での一貫した立場を架空の人物に語らせています。つまり「徳とは何か」が分からないのだから,それがどういうものであるか,つまり教えられるのかどうか,というのも分からない,と。

ソクラテス「君があげたいろいろの徳についても同じことが言える。たとえその数が多く,いろいろの種類のものがあるとしても,それらの徳はすべて,ある一つの同じ相 (すがた) (本質的徳性) をもっているはずであって,それがあるからこそ,いずれも徳であるということになるのだ。この相 (本質的徳性) に注目することによって,「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかにするのが,答え手としての正しいやり方というべきだろう。ぼくの言おうとすることがわからないかね?」(72C)

この言葉の前には,「男の徳は~,女の徳は~,子供の徳は~」といったように色んな条件での徳があるとメノンが言い,それに対するソクラテスの言葉です。
所謂「イデア」を思わせる言葉です。読み物として読む立場としては,イデア云々は比較的どうでもいいことなのですが,個人的にはこの追求の仕方は非常に論理的というか,集合論的な考え方だとかねがね思います。つまり対話相手が挙げているのは,必要条件ですが,ソクラテスが言わせようとしているのは十分条件である,と。

メノン「正義は,ソクラテス,徳なのですから。」
ソクラテス「徳,だろうか,メノン,それとも,徳の一種だろうか?」
メノン「と言われる意味は?」
ソクラテス「ほかの何についても言えるようなことだ。たとえば,円形というものについて考えてみてもよいが,ぼくなら,それを形の一種であると言って,ただたんに形であるとは言わないだろうね。なぜそういうふうに言うかというと,ほかにもいろいろ形があるからだ。」(73D)

メノン「それでは,勇気が徳であると私には思われますし,それから節制,知恵,度量の大きさなど,ほかにもずいぶんたくさんあるでしょう。」
ソクラテス「再度われわれは,メノン,同じ目にあったわけだね。一つの徳を求めながら,またしてもわれわれはたくさんの徳を見つけ出してしまった。そうなるに至った手順は,さっきとは別だけれども。君のあげたすべての徳目をつらぬいているただ一つの徳を,どうしてもわれわれは見つけ出すことができないのだ。」(74A)

徳なのかその部分なのか,という話は『プロタゴラス』でも語られていた記憶があります。あんまり面白くなかったので流してましたが(笑)。

あとこれは知らない人には何の事だかサッパリだと思いますが,ソフトウェア開発の「オブジェクト指向」の考え方で,イデア論やもしくは哲学を説明しようとする試みが行なわれていたのをどこかで見たことを思い出しました。ここの部分は,いかにも is-a 関係 (つまり継承) の例になりそうなので。私自身は,真実を追求する姿勢に数学的・理系的なものを感じたり,対話のやり方にアジャイル的なものを感じることはあっても,ソフトウェア開発の方法論を当てはめる観点でプラトンを読もうと思ったことはありません。

ソクラテス「そして問答法においては,ただたんにまちがっていない答をあたえるだけでなく,質問者が知っていると前もって認めるような事柄を使って答えるのが,おそらくその結果によりかなったやり方というべきだろう。」(75D)

これはさらっと書かれていますが,案外プラトン対話篇をつらぬく重要なことかもしれません。というのは,プラトン対話篇というのは読者に何の前提知識も求めず,何から読んでもそれ単体で読めるものになっているからで,それを示しているようにも思えるからです。知らないことを知っていると思わせないために,「分かった気にさせない」ということでもあるのかなと思います。

メノン「ソクラテス,お会いする前から,うわさはかねがね耳にしていました―あなたという方は何がなんでも,みずから困難に行きづまっては,ほかの人々も行きづまらせずにはいない人だと。げんにそのとおり,どうやらあなたはいま,私に魔法をかけ,魔薬を用い,まさに呪文でもかけるようにして,あげくのはてにこの私を,すっかり途方にくれさせてしまったようです。もし冗談めいたことをしも言わせていただけるなら,あなたという人は,顔かたちその他,どこから見てもまったく,海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら,あのシビレエイも,近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが,あなたがいま私に対してしたことも,何かそれと同じようなことであるように思われるからです。なにしろ私は,心も口も文字通りしびれてしまって,何をあなたに答えてよいのやら,さっぱりわからないのですから。」(80A)

ソクラテス「それから,このぼくのことだが,もしそのシビレエイが,自分自身がしびれているからこそ,他人もしびれさせるというものなら,いかにもぼくはシビレエイに似ているだろう。だがもしそうでなければ,似ていないということになる。なぜならぼくは,自分では疑問からの抜け道を知っていながら,他人を困難に行きづまらせるというのではないからだ。道を見うしなっているのは,まず誰よりもぼく自身であり,そのためにひいては,他人をも困難に行きづまらせる結果となるのだ。」(80C)

シビレエイのたとえが出てきました。ソクラテスの対話でよく出てくる,所謂アポリアーです。但し前半の言葉によると,実際にソクラテスの容姿はシビレエイそっくりらしいのですが。これは貴重な証言なのではないでしょうか。尤も残っている石像の写真を見ると,「100分de名著」で伊集院光が言っていた「西田敏行に似ている」というほうがしっくり来ます(笑)。そもそも自分自身が痺れている,というソクラテスの答えも秀逸だなと思います。

ソクラテス「こうして,魂は不死なるものであり,すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから,…魂がすでに学んでしまっていないようなものは,何ひとつとしてないのである。だから,徳についても,その他いろいろの事柄についても,いやしくも以前にもまた知っていたところのものである以上,魂がそれらのものを思い起こすことができるのは,何も不思議なことではない。なぜなら,事物の本性というものは,すべて互いに親近なつながりをもっていて,しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから。もし人が勇気をもち,探求に倦むことがなければ,ある一つのことを想い起したこと―このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが―その想起がきっかけとなって,おのずから他のすべてのものを発見するということも,充分にありうるのだ。それはつまり,探求するとか学ぶとかいうことは,じつは全体として,想起することにほかならないからだ。」(81C)

これが「想起説」と呼ばれるもののようです。そもそもメノンが「知っている事柄については,既に知っているのだから探求する必要がない,しかし知らない事柄については,何を探求すればよいのか分からない」ということを指摘した (実際にはソクラテスに言わせた) のがきっかけで,ソクラテスが語ったことです。
科学的な知見がない時代なので,本能的なものがなぜ人間に備わっているのかを説明しようとしたとも思えます。しかしどちらかといえば,セレンディピティみたいな後天的な閃きに近いでしょうか。それにしても上手い説です。本当によく考察した結果なのだなと思います。

この後,メノンの召使に正方形の面積についての問題を「想起」によって解かせる場面があります。メモは全面的に省略しましたが,面白い場面です。ここは「いかにして問題をとくか」という古典的な本 (理系では有名?) で,生徒に先生がどう図形の問題を解かせるかを教える場面を思い出しました。非常に似ていると思います。つまり未知の問題を解くプロセスとして,この想起説の考え方は今にも生きているのではないかと思います。

ソクラテス「とすると,もし徳というものが,魂にそなわる資質のひとつに数えられるようなものであり,また,かならず有益なものでなければならないとするならば,徳とは知でなければならないことになる。なぜなら,いやしくもすべて魂の資質というものは,それ自体単独では有益なものでも有害なものでもなく,そこに知もしくは無知がはたらくことによってはじめて,有害なものとなったり有益なものとなったりするのだから。こうしてこの議論にしたがえば,徳が有益なものである以上,それはひとつの知でなければならないのだ。」(88C)

この少し前では,「例えば勇気は,正しい知識が伴わなければ害を受け,伴えば有益になる」というようなことを言われます。ということで,徳は善いものであれば知識であり,知識なのであれば教えられる,という論理的な帰結が導かれたことになります。しかしそもそも徳は知識なのか?という疑問が生じ,「思わく」というものを提示した結果,次のように言われます。

ソクラテス「してみると,行為の正しさということに観点をおくなら,正しい思わくは,導き手としての「知」に何ら劣るものではないことになる。そしてこの点こそ,われわれがさっき,徳とはいかなるものかを考察するにあたって,見のがしていたことなのだ。われわれは,正しい行為を導くのはただ「知」だけだと言っていたのだから。実際にはしかし,正しい思わくもまたそうだったのだ。」(97B)

「思わく」の例として,実際に目的地までの道を歩いたことがあり行き方を知っている (知識) のと,歩いたことはないが行き方の見当をつけて,それが結果的に正しい (正しい思わく),ということが直前に書かれています。目的地に到着できるかぎりでは,知識と正しい思わくは同じだと。

ソクラテス「つまり,正しい思わくというものも,やはり,われわれの中にとどまっているあいだは価値があり,あらゆるよいことを成就させてくれる。だがそれは,長い間じっとしていようとはせず,人間の魂の中から逃げ出してしまうものであるから,それほどたいした価値があるとはいえない―ひとがそうした思わくを原因 (根拠) の思考によって縛りつけてしまわないうちはね。しかるにこのことこそ,親愛なるメノン,先にわれわれが同意したように,想起にほかならないのだ。そして,こうして縛りつけられると,それまで思わくだったものは,まず第一に知識になり,さらには,永続的なものとなる。ここにこそ,知識が正しい思わくよりも高く評価されるゆえんであり,知識は,縛りつけられているという点において,正しい思わくとは異なるわけなのだ。」(97E)

ここで「想起」と「知識と思わくの違い」が結びつきます。
「思わくを縛り付けたものが知識」というのは結構実感できる部分です。同じことを訊かれても,その時々で自分の答えが変わるようなことは確固たる知識ではないのかもしれません。他方で確かに自分の中で何か順序だてて答えを導いたようなことは,頭の中でしっかりと定着したような感じになります。このプロセスが「想起」なのだと言われれば,すごく納得します。

ソクラテス「してみると,実際の行為に関するかぎり,正しい思わくは,知識とくらべて何ひとつ劣るところはなく,また有益であるという点でも,けっしてひけをとらないわけだね。同じことは,正しい思わくをもっている人と,知識をもっている人とをくらべた場合にも言えるだろう。」(98C)

ということで,ここから,過去の偉大な政治家等の人物が国を治めることができたのは,知識を持っていたのではなく,正しい思わくをもっていたにすぎない,ということが言われます。知識ではないから,子孫に伝えられなかったのだと言われます。そしてその思わくは,神によって授けられるものである,と言われます。…ただこの結論は,どちらかといえば時間切れという側面なのかなと思います。結局は,ソクラテスの最初からの姿勢である,「そもそも徳とは何であるか」をまず明らかにすべき,というところで終わります。

ということで以上。『メノン』は比較的短い対話篇ですが,テーマにしても対話の流れにしても,プラトンらしさがとてもよく出ていて,入門的なものだと位置づけられるのも頷けます。
次回は『ヒッピアス (大)』の予定。