プラトン『国家』((プラトン全集 (岩波) 第11巻) 第二巻を読んだときのメモ第2弾。
メモ第1弾で見たように,ソクラテスが個人としての正義とは何なのかを考えるために,国家としての正義を考えてみようということになりました。それで,そもそもどういう起源で国家というものが作られてくるのか,というところから考察が始まります。実際どうなのかは別にして,非常に遠大な構想です。
そして,ある時点で戦争がどうして起こるのか?という話になり,そして国を守護する者はどういった素質を持っていなくてはならないか,ということに話題が移ります。
正直なところ後半はあまり面白くありませんでした。というのは神話についての話題が続くからです。他の対話篇でもそうですが,科学の時代である現代からすると (あるいは日本人だから?) 神話に関する話は,信じる根拠が薄いです。とはいえ,当時の時代背景とか,なぜそういった神話が作られたのかということを併せ考えるのはそれなりに意義があるとは思います。そもそもソクラテスも「神話は詩人が作った」とここで言っていて,子供に教え聞かせるという観点では否定的だと思います。
では以下は読書時のメモです。
「それでは」とぼくははじめた,「ぼくの考えでは,そもそも国家というものがなぜ生じてくるかといえば,それは,われわれがひとりひとりでは自給自足できず,多くのものに不足しているからなのだ。―それとも君は,国家がつくられてくる起源として,何かほかの原理を考えるかね?」
「いいえ,何も」と彼は言った。
「したがって,そのことゆえに,ある人はある必要のために他の人を迎え,また別の必要のためには別の人を迎えるというようにして,われわれは多くのものに不足しているから,多くの人々を仲間や助力者として一つの居住地に集めることになる。このような共同居住に,われわれは<国家>という名前をつけるわけなのだ。そうだね?」(369B)
ということで,本当にゼロベースで国家を構想していくところから始まります。国家とは,ひとりひとりでは自給自足できないので,色んな役割の人が集まって共同で居住するものであると (いい加減な要約ですが)。
「シムシティ」をやるときにも,こういう根本的なことを考えて街を作っていけば,ちゃんとした街が作れたのかもしれません(笑)。少なくとも自己満足度は上がったかもしれません。
ここでの考え方に基づく限り,国家は市民のためにあるもので,市民が国家のために存在するということにはなりようがありません。
あと,国家を会社などに置き換えても同じ,かもしれません。
「こうして,以上のことから考えると,それぞれの仕事は,一人の人間が自然本来の素質に合った一つのことを,正しい時機に,他のさまざまのことから解放されて行なう場合にこそ,より多く,より立派に,より容易になされるということになる。」(370C)
前後の対話でもあるのですが,一人ひとりの自然本来の素質に合ったことを行なうほうが,一人ひとりが全てのことを少しずつ行なうよりもよい,ということが言われます。「自然本来の」ということが枕詞的に多用されますが,第一巻の後半でトラシュマコスの言う強者の論理や,第二巻の前半でグラウコン達が言う「正義がよいとされるのは法律や思わくの上でのこと」という論理を注意深く踏襲した形で言っているのだと思います。言い換えると法律や慣習を持ち出さないで国家というものを考えていくということだと思います。
「わかったよ,どうやらわれわれは,ただ国家がどのようにして生じてくるかということをしらべるだけではなく,贅沢な国家のこともしらべることになるようだね。まあ,それもまた悪くはないだろう。そういう国家のことをもしらべて行けば,きっと,<正義>と<不正>がどのようにして国々のなかに生まれるかを,見てとることができるだろうからね。とにかく,真実の国家のほうは,われわれがこれまで述べてきたのがそうであるように思われる。いわばこれは,健康な国家とでもいうべきだろう。これに対して,君たちのお望みとあれば,こんどは,熱でふくれあがった国家も観察することにしよう。そうしても,いっこうに差支えないのだ。」(372E)
「真実の (または健康な) 国家」と「贅沢な国家」というのが出てきました。後者は具体的には,「ちゃんと寝椅子の上に横になり,食卓について食事をし,そして現在人々が食べているような料理やデザートを食べ」(372D)る,とグラウコンが言うような国家です。
ソクラテスも言っていますが,ここが1つの分かれ目なのかもしれません。現実は「贅沢な国家」の要素がない国家は考えにくいですが,思想としては「真実の国家」のみを目指す,というものがありえそうです。そして確かにそれなら正義や不正が生じる余地がないかもしれません。不正を遠ざけ正義を求めるのではなく,その絶対値自体を小さくするという発想…。しかしグラウコンも言うのですが,それは「豚の国家」と,つまり人間以外の動物の生活と何が違うのか,とも思います。
ということで,正義と不正について関係あるだろうということで,この後は「贅沢な国家」について考えられることになります。
「また領土にしても,先にはそのときの住民たちを養うのに十分であったのが,いまではとても充分ではなくなって,小さすぎるものとなるだろう。それとも,どう言ったものだろうか?」
「いえ,おっしゃるとおりです」と彼は言った。
「そうするとわれわれは,牧畜や農耕に充分なだけの土地を確保しようとするならば,隣国の人々の土地の一部を切り取って自分のものとしなければならない。そして隣国の人々のほうでもまた,われわれの土地の一部を切り取ろうとするだろう―もし彼らもやはり,どうしても必要なだけの限度をこえて,財貨を無際限に獲得することに夢中になるとするならばね」(373D)
ということで,「贅沢な国家」を作るには自国では土地や資源が足りないので,他国のものを切り取ることになる,と。そして「戦争の起源となるものを発見した」(373E) というようなことが言われます。
「そうすると」とぼくは言った,「国の守護者の果すべき仕事は何よりも重要であるだけに,それだけまた,他のさまざまの仕事から最も完全に解放されていなければならないだろうし,また最大限の技術と配慮を必要とするだろう」…
「そうするとどうやら,もしできるものなら,どれどれの自然的素質,どのような自然的素質が国を守護するのに適しているかを選び出すということが,われわれの仕事となるようだね」(374D)
靴を作る仕事を立派にやってもらうためには,靴作りの専門家にその仕事だけに専念してもらうというのと同じで(374B),戦争をするにも戦争の武器を作るにも,素質がある人にその仕事を専門にやってもらう必要がある,と。
他の対話篇でもあったと思いますが,プラトンは割と,2つの技術両方のエキスパートである,というようなことは否定しているように思われます。デジタル的な発想という気もします。シングル CPU で1時間にタスクが1つの場合とタスクが2つの場合(優先度が同じとする)では前者のほうが1つのタスクについては2倍処理が進む,という発想では専門は1つに絞ったほうがいいというのは当然です。実際には,リニアではない場合を考えれば,5割の時間で7割の技術を習得でき,残りの5割の時間で別の技術の7割を習得できれば2つ合わせた場合の効用は上という考え方もありえるわけですが,そんな7割の技術が何の役に立つのかと。これは,第一巻から続く「厳密の意味」での技術という考え方にもつながると思います。
…これはここではどうでもいい話でした。ではどういう自然的素質が適するのか,という考察が始まります。
「君は犬たちのなかに見てとることができるだろう。まったくこのことは,この動物の感嘆に値する点なのだが。」
「どのようなことでしょうか?」
「知らない人を見ると,それまでに何ひとつひどい目にあわされたことがなくても,その人に対して怒りたけるけれども,知っている人を見たときには,たとえその人からよくしてもらったことが一度もなくても,歓び迎えるという点だ。―君はまだ,このことに感嘆したことはないかね?」(376A)「しかるに,犬が自然本来にもっているこの性質たるや,まことに気のきいたものであって,まさに文字どおり,愛知者的な性質であるように思える」(376A)
敵に対しては勇猛で,見方に対しては温和という相反する性質を同時に持つことはできないのではないか,と初めは言われますが,実際このように犬に見られる性質から,それは愛知者の性質として認められます。
当たり前ですが,当時も今も犬というのは同じなんだなと思います。
「こうしてわれわれにとって,国家のすぐれて立派な守護者となるべき者は,その自然本来の素質において,知を愛し,気概があり,敏速で,強い人間であるべきだということになる」
「まったくおっしゃるとおりです」と彼は答えた。
「ではその人は,もともとそのように生まれついているものとしよう。しかしそれでは,彼ら守護者たちは,どのような仕方で養育され,教育されるべきだろうか?―それにまた,いったいこのことの考察は,われわれがいまやっているすべての考察の目的である,<正義>と<不正>とがどのような仕方で国家のなかに生じてくるかをしかと見きわめるのに何か役に立つだろうか?」(376C)
ということで,このあたりから,守護者はどう教育されるべきか?というテーマに移っていきます。
「それならわれわれとして,次のことをそう簡単に見のがしてよいものだろうか―行き当りばったりの者どもがこしらえ上げた行き当りばったりの物語を子供たちが聞いて,成人したならば必ずもってもらいたいとわれわれが思うような考えとは,多くの場合正反対の考えを彼らがその魂のなかに取り入れるのを?」
「いいえ,何としても見のがすべきではありません」
「そうすると,どうやらわれわれは,まず第一に,物語の作り手たちを監督しなければならないようだ。そして,彼らがよい物語を作ったならそれを受け入れ,そうでない物語は拒(しりぞ)けなければならない。」(377B)
冒頭にも書きましたが,神話に関するソクラテスの話が続き退屈な展開になります。大雑把にまとめると,詩人が作った神々に関する作り話を批判し,それを子供には語るべきではない,とソクラテスは言います…それらは割と,神々の中での兄弟や親族を欺くとか殺害するとかいう内容が多いためです。
現代では基本的には,「表現の自由」等の考え方の方が優勢で,国家として,ここでのソクラテスのように子供たちのためによくないという理由で見せないようにする,というのは受け入れられないような気もします。「はだしのゲン」を学校で読ませてよいかどうか,という問題もありました。
この手の話は「言論統制」とか悪く言おうと思えばいくらでも悪く言えるし,最悪,北朝鮮の報道のようにもなりかねないとは思います。しかしソクラテスが憂慮する限りの意味では,本来必要なことなんだろうなとも思います。
それはともかく,この一連の流れで,神々について第一に,「神はあらゆる事柄の原因なのではなく,ただ善いことの原因である」(380C),第二に「神々はみずから変身して姿を変えるような魔法使いでもないし,言葉や行為における偽りによってわれわれを迷わすこともない」(383A),ということが結論として言われ,どう教育すべきかという問題については,第三巻に続きます。
ということで,第二巻のメモは終了。最後のほうはちょっと退屈な展開でした。次は第三巻の予定。