プラトン『メネクセノス』メモ

プラトン『メネクセノス』(プラトン全集 (岩波) 第10巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,審議院帰りのメネクセノスとソクラテスの会話で,近いうちに戦死者のための追悼演説が行われるという話をメネクセノスがします。それに対して,ソクラテスがアスパシアという人から,彼女が起草した,ペリクレスが行った追悼演説の内容を聞いたことがあるというので,メネクセノスに促されてその演説を再現するという内容です。その演説の中身を手短に言えば,如何に外敵・内乱から本国を守ってきたかという戦争の歴史と,それを勝ち抜いてきた自分たちがいかに優れた民族であるかを示すものといった感じだと思います。
なのでメネクセノスとの対話は,冒頭とラストに少しあるだけで,ずっとソクラテスの口から一方的に演説の再現の場面が描かれるという,プラトン対話篇としては異色の内容です。演説の内容も,いつもプラトン対話篇で行なわれている「~とは何か」という追求が行われているわけでもなく,普通に追悼演説の内容を紹介しているという感じです。
副題は「戦死者のための追悼演説」。
以下は読書時のメモです。

ソクラテス:それにしても,メネクセノスよ,戦争で死ぬということは,いろいろな点でほんとうに結構なことであるようだね。というのは,たとえ貧乏人であっても,戦死すれば,立派で盛大な葬式をしてもらえるし,またたとえとるにたらぬ人物であっても,賢い人々の賛辞を獲得するのだから。それもその場の思いつきでほめるのではなく,長い時間をかけて演説の準備をしたうえでほめてくれるのだからね。(234C)

基本的には追悼演説 (それ自体なのか,語られる内容についてなのか) に対してはプラトンは反対の立場であると,この皮肉の交じったソクラテスの言葉の響きからは感じられます。次に続きます。

ソクラテス:彼らの賞賛の仕方ときたらそれはもう見事なもので,それぞれの戦死者について,真に当人の手柄であることもそうでないことも引き合いに出し,それを言葉をつくしてこの上もなく美しく飾りたて,もってわれわれの魂を魔術のように魅了するのである。そして彼らは,ありとあらゆるやりかたでこの国をたたえ,戦争で死んだ人をたたえ,われわれに先立つすべての祖先をたたえ,その上まだ生きているわれわれ自身をもたたえるものだから,その結果このぼくなどは,ねえ,メネクセノスよ,彼らにほめられてなんだか自分がすっかり偉くなったような気になって,そしてその度ごとに,聞きほれ,魅了されながら立ちつくすのだ,その場で急にもっと背が高くなり,もっと高貴で美しくなったように思ってね。(235A)

ここで,追悼演説の内容についてのプラトンの見方というか,揶揄が分かりやすくソクラテスによって語られています。後で実際に演説の場面が再現されますが,まあこういう内容で,そんなに読む必要がないかもしれません。

メネクセノス:では,もしあなたが演説をしなければならないとすれば,あなたはどんな話ができるのですか?
ソクラテス:ぼく自身が自分の力でしゃべるとなれば,たぶん何ひとつ言えないだろう。しかし実は昨日も,アスパシアがほかならぬあの戦死者のための追悼演説をしまいまでやってみせたのを,ぼくは聞いていたのだよ。…その一部は即席のものだったが,他の部分は彼女が以前に用意してあったものだった。それは,ぼくのみるところでは,ペリクレスが行なった追悼演説を彼女が起草してやった時のことだと思う。彼女は,その演説にのらなかった残りのものをつなぎ合せて,話してくれたのだね。(236A)

アスパシアとは,ソクラテスの「弁論術にかけて凡庸ならぬ女の先生」(235E) で,ペリクレスの演説 (脚注によるとトゥキュディデス『歴史』に伝えられているもの) の中身も考えていたようです。『ゴルギアス』などからすると,ソクラテスが,真実追求と反対に位置する弁論術を誰かに習っていたとも考えづらく,ここは創作ではと思います (史実は確認してませんが)。
以下,236D の途中からその演説の再現が行われます。

ソクラテス(演):私には,こう思われる―自然の順序に従い,彼らがすぐれた人々となっていった道筋をたどりながら,かれらをたたえなければならないと。ところが彼らがすぐれた人々となったのは,すぐれた人々から生をうけたからに他ならない。それゆえわれわれは,まず第一に彼らの生まれの良さをたたえよう,ついで第二に,彼らが享受した養育と教育をたたえよう。そしてそのうえで,かずかずの偉業をなしとげたその行為を明らかにしよう,彼らがいかに美しく,またいかに生い立ちにふさわしく,その偉業をなしとげてみせたかを。(237A)

ということが言われ,すぐれた祖先を生み出したのは,神々が愛した国だから…というようなことが後に続きます。何となく戦前の日本を連想します。

ソクラテス(演):さて,ある者はこの国制を民主制とよび,ある者は別の気に入った名で呼ぶ。しかし,真実には,それは民衆の賛同に裏づけられた《もっともすぐれた者の支配》なのである。われわれにはつねに王たちがいる。彼らは時には家柄によって,時には選挙によって,任につく。しかし国家の実権をにぎる者はほとんどの場合民衆であり,民衆が,その時々において最良と思われた者に,官職と権力を与えるのである。(238D)

少しだけ国制の説明があります。官職と権力を与えられるものとしては,「虚弱,貧乏,父親の無名といった理由で拒まれない」(238D),「規準となるのは賢者であるか,あるいはすぐれていると思われた者」(238D)といったことが言われます。
また,国制の源は,生まれの平等とも言われます。「むしろ自然における生まれの平等は,われわれをして法における権利の平等を求めさせ,徳と思慮に由来する名声のほかには,何ものによっても互いに他を服することのないようにさせているのである。」(239A)という辺りは,徳と思慮はともかくとして,生まれの平等,法における権利の平等などは,今の人権宣言としても通用しそうな先進的な内容という気がします。まあいずれにしても,演説だから聞き心地のよいことを言っているだけかもしれませんが。

引用は省きますがこの後,(1)ペルシアにおける侵略の歴史(マラトンはペルシアの大軍に攻められても負けなかったとか)→(2)サラミス(とアルテミシオン)の海戦→(3)プラタイアの戦…と延々と外敵との戦争の歴史が語られます。また平和が訪れた後は,羨望,嫉妬により不本意にもギリシア人と戦うことになったという,ペロポネソス戦争のことも語られます。
この辺りはむしろ,歴史の講義を受けているようでこれはこれで面白いです。サラミスの海戦,ペロポネソス戦争などは高校の世界史で習った記憶があります。そう思うと同じことをこの約2,400年の時を超えたプラトンの著作で読めるというのも感慨深いものがありますね。
しかし語り口は,自分たちが生粋のギリシア人であることを強調し,敵はバルバロイ (夷狄と訳されていた) であるなど,民族主義的な感は否めません。

ソクラテス(演):「われわれは,醜い仕方でなら生きながらえることができたとしても,汝らと汝らの後につづく者たちを恥辱にさらし,われわれの父親と祖先の全体を辱しめるよりは,むしろその前に美しく死ぬことの方を選んだのである。なぜならわれわれはこう考えるからだ―自分の血族を辱しめる者にとって人生は生きるにあたいせず,そしてそのような者に対しては地上にあっても,また死してのち地下にあっても,人も神も友となるものはひとりとしていないと」(246D)

醜い生き方をするくらいなら死んだ方がマシ,というここの内容は素のソクラテスが言うとしても全く不思議ではありません。しかし,祖先や国を礼賛する演説という文脈の中で言われると,微妙に胡散臭い印象になります。

ソクラテス(演):「およそひとかどの人物と自負するものにとって,自分の力によってではなく,祖先の名声によって,自分を尊敬される者にすることほどの恥辱はないのだ。」(247A)

ソクラテス(演):「古くから伝えられている《何ごとにも度を過すなかれ》という言葉は,名言であるとされている。事実それは真実を言いあてた言葉である。なぜなら,自分を幸福にするすべてのものを自分自身に依拠させているか,あるいはそれに近い心がまえの者,そして,他人に依存することなく,したがって他人の浮き沈みによって,自分の方も動揺せざるをえないというようなことのない者,そのような者にあってこそ人生を生きる準備はもっとも見事にととのえられているのであって,節度ある人とはまさしくその人のことであり,また勇敢にして思慮ある人とは,まさしくその人のことであるからだ。」(247E)

この言葉などはストア派のエピクテトスが言ったと思わせるような言葉です。国にとって,そういう人間は都合がよいということなのでしょうか。

メモは以上。追悼演説といっても,戦死者たちについて思いを馳せるというよりは,言葉巧みに国威を発揚するような内容になっていると思います。そういう面に疑問を感じたからこそ,プラトンが本対話篇を書き,ソクラテスに語らせた―さすがに普段の対話と違い過ぎるので,ソクラテスに語らせれば皮肉であることくらい分かるだろうと―という見方もできるかもしれません。

プラトン『イオン』メモ

プラトン『イオン』(プラトン全集 (岩波) 第10巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,「吟誦詩人」であるイオンが,ホメロスに関しては上手く語ることができるが,他の詩人については「居眠りをする」ほど全然語ることができないということを告白します。それに対してソクラテスは,イオンが技術と知識によってホメロスを語っているのではなく,「神がかり」によって語っているということを言います。イオンは技術を持っていると反論しますが,結局ソクラテスには,それは「ぺてん」であると言われてしまいます。
当時の詩人というものが,(あまねくそうだったのかは分かりませんが,) こういうふうに考えられているものだったのだな,というのが分かる内容です。神の意思が詩人の口を通して民衆に語られる,ということが言われ,「詩人狂気説」と補注で書かれていました。
副題は「『イリアス』について」。

ソクラテス:まさかエピダウロスの人たちの催す奉納競技 (仕合) には,吟誦詩人の競技もはいっていたというわけではないだろうね。
イオン:それが大いにそうなのです。しかも,それ以外に詩や音楽の競技もあったのです。(530A)

イオンという対話相手は,何だか面白そうな奉納競技に出ていた人物のようです。4年に1度のパンアテナイアの祭りも頑張ってくれとこの後ソクラテスに言われます。

ソクラテス:ところでね,ぼくはしばしば,君たち吟誦詩人に羨望の念をいだいたことがある。イオン,その技術のことでね。理由はこうだ,一方では,君たちがつねに身の飾りをととのえ,しかもできるだけ美しく見せるようにしても,それは君たちの技術にとって,当然のこととされているし,同時にまた他方では,多くの他のすぐれた詩人たち,とりわけ詩人たちの中でも第一級で神にひとしいホメロスと君たちがつき合い,たんにその詩句のみか,その考えをもすっかり学びつくすことが,その技術にとって必要とされているが,これは羨望に値することだからね。(530B)

吟誦詩人,というやや見慣れない用語は(ファンタジー系のゲームによく出てくる「吟遊詩人」と同じでしょうか),ホメロスのような詩人の言葉や考えを民衆に伝える役目を担っている詩人のことを指すようです。羽根付き帽子をかぶって竪琴を抱えているイメージ (個人的には)。

ソクラテス:君は,ただホメロスについてだけ,一目おかれるようなものをもっているのか,それとも,ヘシオドスやアルキロコスについてもそうなのか,どうかということだ。
イオン:後者については駄目なのです。ただホメロスについてだけなのです。だって,それでわたしには充分だと思われますから。(531A)

ソクラテス:さてそこで,君の主張はこうではないのかね,つまり,ホメロスも,また,ヘシオドスとアルキロコスとを含めた他の詩人たちも,彼らの語っていることがらは同じであるが,しかし語り方が同じというのではない,一方,ホメロスはうまく,それ以外の詩人たちははるかにまずく語っている,ということではないかね。
イオン:そうです,そしてそのわたしの主張は正しいということにもなります。(532A)

イオンは,なぜかホメロスについてしかうまく語ることができないと言います。ホメロスの方がうまく語っているから,自分はホメロスしか語れないと言います。

イオン:ソクラテス,わたしは,誰かがホメロス以外の他の詩人について人と話をしている場合には,気をとめることもないし,また,ちょっと気のきいたことを―それは何でもかまわないのですが―口ばさむこともできずに,そのまままったく,居眠りをすることになってしまいます。ところが,誰かがホメロスについて言及するや,わたしはすぐに目をさまし,注意を怠らず,口にする言葉に窮するということがなくなるのです―これはどうしたわけなのでしょうか。
ソクラテス:そのわけなら,推量は困難ではないね,君。むしろ,誰にも明白なことなのだ,つまり,君はホメロスについて,技術と知識を用いては語ることのできない人だということだ。なぜなら,もし君がこれのできる人だとしたら,ホメロス以外の他の詩人についても,語ることができるはずだからね。というのも,詩作の技術というものは,なにか全体としてあるものだからだ。それともそうではないかね。(532B)

ここで既に本対話篇の結論のようなことを言ってしまっています(特に結論が重要であるわけでもありません)。もし技術と知識に基づいて詩人を語っているのであれば,優れた詩人について語れるのなら劣った詩人についても語ることができるはずだと言われます。つまり,うまく語っているホメロスを語ることができるイオンが,ヘシオドスやアルキロコスについて語れないはずはないことになります。
まあ技術云々は別にしても,真似とか傾倒という意味では,誰か特定の詩人について語って他の詩人について語れない,ということがあってもおかしくはないかなという気もしますが。

ソクラテス:つまり,それは,技術として君のところにあるわけではないのだ,ホメロスについてうまく語る,ということはね (略) それはむしろ,神的な力なのだ,それが君を動かしているのだ。それはちょうど,エウリピデスはマグネシアの石と名づけ,他の多くの人びとはヘラクレイアの石と名づけている,あの石にある力のようなものなのだ。つまり,その石もまた,たんに鉄の指輪そのものを引くだけでなく,さらにその指輪の中へひとつの力を注ぎこんで,それによって今度はその指輪が,ちょうどその石がするのと同じ作用,すなわち他の指輪を引く作用を,することができるようにするのだ。(533D)

マグネシアの石,とはまさに磁石のことのようですね。この後もこのマグネシアの石の性質について続きますが,見聞録的というか,当時としては珍しい磁石を著書に記すことで人々に知らせる意味もあったのでしょうか。「神的な力」と並べているところが,片方は説明不能な自然現象を,他方は本来は人間の意思に基づくと思われる詩人の語りを,神に結び付けているという点で,案外この部分は本対話篇の本質的な部分かもしれません。

ソクラテス:すなわち,叙事詩の作者たちで,すぐれているほどの人たちはすべて,技術によってではなく,神気を吹きこまれ,神がかりにかかることによって,その美しい詩の一切を語っているのであり (略) 正気を保ちながらその美しい詩歌をつくるのではない。むしろ彼らが調和や韻律の中へ踏みこむときは,彼らは,狂乱の状態にあるのだ。(533E)

(前の引用でもそうですが) 技術に基づかないのであれば,何か思惑とか評判によって語るのか?といういつもの流れを想像していたら,そうではなくて,神的な力,神がかりである,ということになってちょっと意表を衝かれました。

ソクラテス:以上のようなわけで,神は,彼ら詩人たちからその知性を奪い,宣託を告げるようなものたちや神の意をとりつぐ聖なる人たちを召使として使用しているように,詩人たちをも召使として使用しているのであるが,その神の意図は,聴衆であるわれわれに,つぎのことを知らしめようとしているわけだ。(略) むしろ,神みずからがその語り手であり,神みずからが,彼ら詩人たちを介して,われわれに言葉をかけているのだ,ということをね。(534C)

詩人が神の召使で,神は詩人を通して人々に言葉をかけていると。プラトンがどこまで本気で考えていたのかは分かりませんが,当時としては一般的な考え方だったのだと感じさせます。現代でもそういう宗教や職業は一定数あると思われます。

ソクラテス:ところで君は知っているかね,その見物人が,あの指輪―ヘラクレアの石によって,たがいにつぎつぎと力をうけとってゆくと,私の語った―あの指輪のつながりの,最後になることをね。そのつながりの中間は,君という吟誦詩人かつ俳優であり,そのつながりの最初は,ほかならぬ詩人自身なのだ。これにたいし神は,これらつながりのすべてを通じて,つぎからつぎへと力を移動させながら,その望むままのところへ,人びとの魂をひっぱってゆく。(535E)

ここだけ読むと,神をトップとしたピラミッド構造があるわけではなく,詩人→吟誦詩人→見物人,というつながりがあって,そこに力を自在に作用させられるというようですが。この後で,このつながりを「占有されている」と呼ぶとか,吟誦詩人は (元の) 詩人から霊感を吹き込まれるとか,神の恩恵とか,かなりスピリチュアルな様相を呈してきます。
またこのつながりは,ホメロスに端を発するつながり,オルペウスによるつながり,ムゥサイオスによるつながり…というように「詩人単位」のようです。だからこそ,ホメロスの吟誦詩人であるイオンは,ホメロスの言葉のみを上手く語ることができる…「技術によってではなく,神の特別の恩恵によって」(536D)…という説明がなされ,他の詩人の言葉を語ることができないと言われます。また,「たいていの吟誦詩人たちは,ホメロスによって占有され」(536B) るともありますが,ではなぜそこまでホメロスが特別なのかはよく分からなかったです。

ソクラテス:だがきっと,たまたま君の方はその知識をもっていないのに,ホメロスの方はそれを語っているというようなことがらについては,君も物語れまい。(536E)

イオンはあくまでも,神がかりではなくて,技術があるからホメロスを上手く語れるのだという姿勢を崩しません。そこについてソクラテスは何か突破口があるようです。続きます。

ソクラテス:すると,どうだろうか。一方の技術は甲のことがらを対象とした知識であり,他方の技術は乙のことがらを対象とした知識である場合,ぼくは,その事実をもとにして,それぞれの技術を,別べつの名で呼ぶのであるが,君もまたそのようにするだろうか。(537D)

ソクラテス:さあ,では君も―ちょうどぼくが,どのようなことがらを述べた詩句が予言者にかかわり,どのような詩句が医者に,またどのような詩句が釣り師にかかわるのか,その詩句を,オデュッセイアからもイリアスからも,君のために選び出したように,(略) ぼくのために選び出してくれたまえ。どのようなことがらをのべた詩句が,イオン,吟誦詩人に,また吟誦詩人の技術にかかわるのか,つまり,それを調べることも,判定することも,ほかの人びとはさておいて,吟誦詩人にこそふさわしいとされるようなことがらをね。(539D)

ホメロスが語った詩の内容について,例えば馬車に乗って移動する場面や,釣りの場面などで,それが正しい内容かどうかは吟誦詩人の技術じゃなくて,他の専門知識に基づく技術 (この場合御者の技術や魚釣りの技術) である,ということが語られます。と,ここまで来て,じゃあ (イオンの主張する) 吟誦詩人の技術とは何なのか?ということになります。
スピリチュアル感のある展開から,またいつものソクラテスらしい定義の吟味がたちまち始まり,読者としてもいつもの調子に戻ってきました(笑)。

イオン:すくなくとも,わたしの思うところでは,それは,男にとっては何を語るのがふさわしいか,また女にとってはどんなことが,奴隷にとってはどんなことが,自由人にとってはどんなことが,また支配されるものにとってはどんなことが,支配するものにとってはどんなことがふさわしいか,それらを識別するのです。(540B)

とイオンは吟誦詩人の技術について,『ヒッピアス(大)』を彷彿とさせる浅はかなことを言いますが,当然,ソクラテスにボロクソに言われます。「暴れる牛をしずめる牛飼いの奴隷が語るにふさわしいことがらを識別するのは,吟誦詩人の方であっても,牛飼いの方ではないのか?」のように。

ソクラテス:では,兵士たちを勇気づける将軍の男が語るにふさわしいようなことがらを,吟誦詩人は識別することになるのだろうか?
イオン:そうです,そういうことがらを,吟誦詩人は,識別することになりましょう。
ソクラテス:すると,どうなのかね?吟誦詩人の技術は,将軍の技術なのかね?
イオン:とにかく,すくなくともわたしは,将軍の語るにふさわしいようなことがらを,識別できるでしょうからね。(540D)

この前後でずっと対話に出てくる (ホメロスの作品の引用も多くある) 当該の事柄を正しく語るのは,吟誦詩人の技術ではなくそれぞれの専門家の技術だとイオンは答えてきましたが,しかしここで,吟誦詩人の技術は将軍の技術だということを言わされます。この後で「ではなぜ将軍にならないのか」とソクラテスに言われる始末です。
ただ,「兵士たちを勇気づける」というような,人を鼓舞するようなことを言うのに当の技術が必要なのか?という気もします。どちらかというとソフィストの術ではないのか?ん,技術ではないと前半からソクラテスが言っているのはもしやそういうことなのか?

ソクラテス:話をもとに戻せば,イオンよ,君は,技術と知識とをもってホメロスを吟誦することができると語るとき,もし君が,それで真実を語っているとするならば,君はぺてんを行っているわけだ。なぜならその君は,ホメロスについて,たくさんの見事なことがらを知っている様子をぼくによそおい,その証しを見せようと約束しておきながら,ぼくを欺き,証しを見せるどころではないのだからね。(541E)

結局,ソクラテスは見切りをつけ,イオンが技術と知識を持っているという主張を認めません。本対話篇のイオンは,特に悪意を感じられるわけでもないので,こう切り捨てられると少し気の毒な感じもします。

ソクラテス:だがもし君が,技術を心得ず,むしろ,ぼくが君について語ったように,神の特別の恩恵のおかげで,ホメロスによって神がかりにされ,なに一つ知識をもっていないのに,その詩人について多くのことがらを語っているというのであれば,君はべつにぺてんを行っていることにはならないのだ。だから,さあ選びたまえ,われわれからぺてん師と思われるか,それとも,神につかれた男と思われるか,そのどちらを欲するかをね。(542A)

ということで,技術ではなく神がかりによって語っている,ということに収束します。
やはり「知識を持っていないのに,(その詩人について)多くのことがらを語っている」というのはソフィストを連想してしまいます。少なくとも「知識・技術・真理」側ではないということには,なると思います。プラトンが本対話篇で言いたかったことは,それなのでしょうか。
思えば『国家』第十巻で,詩人というのは真似をするだけで真実に触れることはない,と言われていました(書かれた年代はあちらが後と思われます)。その文脈では,詩人がどういう動機で語るのか,は書かれていなかったと思います(そこまで覚えていませんが)。本対話篇では,神にいわば憑依されて語っていると言われるわけですが,憑依されているふりをしていた場合は根拠がなくなります。そして現代的な視点からいえば,自分の意志以外で語っているともなかなか思えません。もしプラトンも本心ではそう思っていたとしたら,当時としては恐るべきことかもしれません。

メモは以上。

プラトン『ヒッピアス(小)』メモ

プラトン『ヒッピアス(小)』((プラトン全集 (岩波) 第12巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,一緒にヒッピアスの演説を聴いていたエウディコスが,ソクラテスに何か意見を促す場面から始まり,ヒッピアスが語った『イリアス』と『オデュッセイア』の人物評について尋ねます。そして「抜け目のない人」という評が「偽りの人」だということになり,偽りの人とは実は真実の人であり,善い人のことなのではないか?ということが対話の中で言われます。
この「偽りの人=真実の人=善い人」である,という推論はかなり衝撃的で,ソクラテスも自分で導いておきながら同意できないと言います。自分も改めて眺めると,そんなバカなと思いますが,しかし対話を追っていると,確かにそうなのだなと思ってしまうのがプラトン対話篇の面白さです。この短い初期対話篇は,自分でその問題点を考えろというのが裏のテーマなのかもしれません。以下でも一応自分なりに考えました。
なお,『ヒッピアス(小)』と『ヒッピアス(大)』は,いずれも同じ人物であるヒッピアスとの対話篇です (『小』は『大』の息子が相手というわけではない)。「大」と「小」という名称について詳しくは分かっていないようですが,『小』の方は偽作の疑いはないようです (解説によると,アリストテレス『形而上学』で参照されているのが『小』と見られているらしい)。
副題はそのもの,「偽りについて」。

以下は読書時のメモです。

エウディコス「どうしたんだね,なぜ君は黙っているのだ,ソクラテス。ヒッピアスがこれほどの演説を披露してみせたというのに。一緒になって今の話のどこかを讃めるとか,あるいはまた,話にどこか適切でないところがあると思われるならそれに反駁するとか,どうしてしないのだね?こともあろうに,自ら哲学の議論に加わることを他の誰よりも強く要求するはずの,われわれだけが取り残されているのだからね。」(363A)

これが本対話篇の最初です。ここから,ヒッピアスの演説を大勢が聴いていた情景が思い浮かびます。プラトン対話篇はつかみが上手いですね。

ソクラテス「それで,もしヒッピアスさえその気なら,その点についてぜひ問いただしてみたいのだ。これら二人の人物について彼がどう考えているか,つまり,どちらのほうが優れていると彼は主張するか,をね。」(363B)

「二人」というのは,ホメロス『イリアス』のアキレウスと,『オデュッセイア』のオデュッセウスのことを指します。ヒッピアスが演説で両物語 (詩) とその登場人物に触れたようです。
この後でも,適宜引用はなされますが,読者にはこれらの登場人物の素性について簡単にでも知っていることを前提にしていることが,含意されているように思われます。当時の教養だったのでしょうか。まあ本対話篇に限りませんが。

ヒッピアス「つまり,私の主張では,ホメロスはアキレウスを,トロイアへ赴いた人々の中で最も優れた人物として,またネストルを最も賢明な人物に,そしてオデュッセウスをいちばん抜け目のない人物に描き上げているのだ。」(364C)

「抜け目のない」という形容が微妙なものを感じさせます。なおギリシャ語原文では πολυτροπώτατον (→ πολύτροπος) という単語のようで (Perseus Digital Library のテキストより),辞書で調べる限りでは「変わりやすい,多様な」というような意味のようですが。次に続きます。

ソクラテス「そこで,どうか言ってもらいたい,そうすれば少しはよく理解できると思うんだが―アキレウスはホメロスによって抜け目のない人物に描かれてはいないのかね?」
ヒッピアス「決してそんなことはない,ソクラテス。むしろ,最も一本気で,最も真実の人間とされているのだ―『祈願』の中で彼ら二人を互いに語り合わせている場面では,ホメロス描くところのアキレウスはオデュッセウスに向かってこう述べているのだからね。(中略)
けだし,一事を心に秘めて他を口にするがごとき者,
そは,冥府の門に似てわが憎む者なればなり。
されどわれは,語るべし,今より語り果されんごとく。」(364E)

ソクラテス「それでやっと,ヒッピアス,私は君の言おうとすることが判ったように思う。どうも,君の言う抜け目のない人間というのは,偽りの人のことのようだね,私の見るところでは。」(365B)

ということで結局,「抜け目のない人」というのは「偽りの人」ということで合意されます。

ソクラテス「ではどうなんだろう,同じこの領域で偽りを語るほうは?先の真実の場合と同じように,こだわりなしに堂々と答えてくれたまえ,ヒッピアス。誰かが君に700の3倍はどれだけになるかと訊ねたとしたら,どうだろう,君は,偽りを言おう,そして決して真実は答えまいと望むならば,最もうまく偽りを言うことができ,それについていつも同じように偽りを述べられるのだろうか,それとも,その気になっている君よりは,計算にかけては無知である者のほうがもっとうまく偽りを言うことができるだろうか。いやむしろ,無知な者は,偽りを述べるつもりはあっても,ひょっとしたはずみで,心ならずも真実を述べることがままあるかもしれないが,君のほうは,知者なんだから,偽りを言おうと望む以上は,いつでも同じように偽りを言うことができる,というわけかね?」
ヒッピアス「そうだ,君の言う通りだ。」(366E)

本対話篇の主要なテーマである「偽り」について最も具体的に述べられている部分だと思います。無知であれば,偽ろうと思っても心ならずも真実を述べてしまうことがある,よって偽ることができるのは知者である,というくだりが印象的です。

ソクラテス「それなら同じ人間ではないか,計算に関して偽りと真実を述べる能力を最も多く備えているのは。そしてそれは計算に関して優れている者,つまり計算家ということだ。」(367C)

ソクラテス「では判ったね,同じ人間が,これらのことに関しては偽りの人でも真実の人でもあって,真実の人が偽りの人より優れているということは少しもないのだ,ということが。なぜなら,それらはおそらく同一人物であって,君が先ほど考えたように全く反対であるというわけではないのだからね。」(367C)

「同じ人間が偽りの人でも真実の人でもある」という部分は非常に面白いです。直感的には,その人が嘘 (偽り) を言う人間なのか,が問題という気はしますが,どうなのか。
逆説的ですが,能力や知識がある人は,偽りを言うことは少ない,という先入観というか,根強い観念のようなものを自分の中に発見したような思いです。この対話の場でも,その観念は共有されていると思われる一方,ソクラテスはそれをこそ掻き回してきているという気もします。
この後,ソクラテスがヒッピアスの持つ能力や持っているものなどを褒めつつねちねちと言う展開が続きます:どんな場合に真実の人と偽りの人は別なのか?しかし言うことはできないだろうね,そんな場合はないのだから,とか。

ヒッピアス「ソクラテス,君はいつもなにかこんな風な議論をひねり出すね。そして,議論のいちばん厄介なところをとり上げては,それをしっかりとつかまえて,こま切れにしてつつき廻し,議論が対象としていることがらの全体で議論を戦わせることをしない。」(369B)

何だか,『ヒッピアス(大)』でもそっくりなことを言っていたような。ソフィストからの悪口としてこう描かれていますが,ソクラテスの対話の特徴がよく表れています。
この後,ソクラテスは,アキレウスが偽りを言っていることを指摘します。

ヒッピアス「それは君の考察の仕方がよくないからだ,ソクラテス。なぜなら,アキレウスが偽って言っているその偽りだが,彼がそういう偽りを言うのは明らかに企みによるものではなく,心ならずもそうしているのだが,しかしオデュッセウスのほうの偽りは,彼の意図であり企みから出たものだからだ。」
ソクラテス「君は私を騙しているね,なんということだヒッピアス。そういう君自身もオデュッセウスを見習っているではないか。」
ヒッピアス「決してそんなことはない,ソクラテス。君は何を言いたいのだ,また何をもとにしてそんなことを言うのだ?」(370E)

急にソクラテスが激高?してヒッピアスが戸惑いますが,一つには前に意図して偽る人の方が心ならずも偽る人よりも優れていることになったので,オデュッセウスの方が優れていることになる,ということになり矛盾する,というのがあると思います。もう一つは実際にアキレウスの方も策謀を巡らして偽りを言う場面があるということでその場面を持ち出します(それは省略)。

ヒッピアス「でもどうして,ソクラテス。意図をもって不正をなし,意図的に策謀をめぐらして悪事を働く者が,心ならずもそうする者より優れているなどということが,どうしてありえようか。後者には寛大な態度が示されるというのに。つまり知らないで不正を働くとか,偽りを言うとか,その他の悪事を行うような場合にはだね。また法にしても,たしかに意図をもって悪事を働いたり偽りを言ったりする者に対しては,心ならずもそうする者以上に,はるかに厳酷なのだ。」(371E)

本対話篇のヒッピアスは,『ヒッピアス(大)』のヒッピアスに較べると,常識人という印象を受けます。ここで言っている言葉も常識的な内容だと思います。
ここでソクラテスが突如本気モードに突入します(長い演説調の語りが暫く続く))。

ソクラテス「つまりこの私には,ヒッピアス,全く君の言っていることは正反対であるように思えるのだ。すなわち,人々に危害を加えたり,不正を働いたり,偽りを言ったり,欺いたり,過ちを犯すなどのことを意図的にやって,心ならずもそうするのではないような人は,不本意ながらそうする者よりも優れている,とこう思われるのだ。そうはいえ,時にはそれと正反対に思われることもあり,この点では私の意見がふらついているのだ。それが,私の知らないためであることははっきりしている。」(372D)

これまでの命題が繰り返されますが,ソクラテスは自身の意見がふらついているとも言います。ソクラテスらしい率直さだと思いますがこれは最後にも言われます。

ソクラテス「まあ,そう言わないでくれたまえよ,ヒッピアス。でも故意にではないのだよ,私がそうするのは。故意にだとしたら,私は知者で腕利きの人間のはずだからね,君の論法で行けば。いや,それは心ならずもそうなったのだ。」(373B)

ヒッピアスが,ソクラテスは議論の中に混乱を引き起こすのだと困惑を述べた際のソクラテスの返しです。嫌味っぽい感じで,本対話篇のソクラテスは比較的印象がよくありません(笑)。
この後ソクラテスは「よい走者」と「悪い走者」を例に出し,故意に遅く走る者と,心ならずも遅く走る者を比較したり,他の競技にも広げ,そして体つき,声,視力などにも当てはめますが,結局同じ議論の繰り返しです。

ソクラテス「それなら,一言で全体をまとめると,例えば耳でも,鼻でも,口でも,その他どんな感覚器官でも,すべての場合において,心ならずも悪しき行為をなすものは,劣ったものであるという理由で,所有するに値しないものであり,一方,故意にそうするものは,優れたものであるということで,所有に値する,とこういうわけだ。」
ヒッピアス「うん,そのように思われる。」(374D)

耳や鼻が心ならずも偽るとか,故意に悪しき行為をなす,というのはあまり実感がわきませんが,結論は同じです。
…実感がわかない,というのは寧ろ何かのヒントかもしれません。この場合,耳や鼻については「性能がよい」と言った方がしっくり来る気がします。それは真実とか偽りという,何かの意思によって行為に意味付けされるものではない,それはただそれで機能を果たすものである,という感じがします。

ソクラテス「ところで,われわれの魂がよりすぐれたものとなるのは,それが心ならずも悪事をなし,過ちを犯す場合よりは,むしろ故意にそうする場合ではないかね。」
ヒッピアス「しかし,それでは恐ろしいことになろうよ,ソクラテス。もし,故意に不正をなす者のほうが,心ならずもそうする者より優れた者になるとしたら。」
ソクラテス「でもとにかく,これまでの議論からすれば,彼らは明らかにそうなるように思えるのだ。」
ヒッピアス「しかし,この私にはそうは思えない。」(375D)

珍しく(?),私もここではヒッピアスに賛同します。故意に悪意をなす人の方が魂がより優れたものになる,というのは常識的に考えればどう考えても間違っているように思えます。一方でこれまで同意しながら対話で導かれてきた帰結であることも確かです。
この後道具や魂についても,故意に過ちを行うほうが心ならずも過つよりも優れていると言われます。

ソクラテス「したがって,不正を故意になすというのは善い人間のなしうることであり,心ならずもそうするのは悪い人間のすることだ,ということになるね―善い人間は善い魂を持っているとする以上はね。」
ヒッピアス「うん,善い魂を持っていることは確かだ。」
ソクラテス「したがって,故意に過ちを犯したり,恥ずべき不正なことをなしたりする者というのは,ヒッピアス,かりにこういう人間がいるとしたら,それは善い人間をおいて他にないということになるだろう。」
ヒッピアス「どう見ても,ソクラテス,その結論については君に同意できないね。」
ソクラテス「それはそうさ,言っている私でさえ自分に同意できないのだからね,ヒッピアス。でも,われわれが試みてきた議論によれば,現にそのような結論になってくるのは避けられないのだ。しかし,先ほども言ったことだが,私は,この問題については,上へ下へと考えがふらついていて,一刻も同じ見解をもてないでいるのだ。考えがふらつくのが私は他の普通人のことであれば,べつに驚くほどのことでもない。だが,知者であるあなたがたまでもふらつくようなことにでもなれば,それはもう,われわれにとっても恐ろしいことだ―君たちのもとへ出掛けてきても,そのふらつきから解放されないわけだからね。」(376B)

ということで再び,考えがふらついていて,自分でもこの結論に同意できない,と言います。自分はそれでよいのだとも言います。知者 (=ソフィスト) はそれではダメだとも言います。ここで本対話篇は終了します。

以上,本対話篇では,最後まで偽りの人 (故意に過ちを犯す人) は真実の人であり優れた人である,という結論は反駁されずに終わります。
さて,この点について自分なりに少し思った所をまとめます。

  • 真実を知る人こそが,故意に偽る「ことができる」,そういう能力がある,というのは確かだと思います。しかしこれをもって,真実の人=偽りの人,となるのだろうか?真実を語り得る人は,同じ確からしさを以て,偽りを語ることもできるでしょう。どちらを語るかは,その人が真実を知っているかどうかとは,直交 (独立) しているように思われます。優れた医師は,最善の治療をする能力があるからこそ,最悪の (わざと失敗する) 治療の能力もあると思いますが,どちらを選ぼうとするかは医師としての能力とは直交 (独立) しているように思われます。ソクラテスの論法は,2次元直交座標を1次元に射影して (技術的な (モノであれば性能的な) 次元とでも言えるでしょうか),大小を比較しているような印象があります。もう一方の次元に射影すれば (倫理的な次元とでも言えるでしょうか),「正か不正か」というものが得られるように思います。正しい人は真実を語り,不正な人は偽りを語るのでしょう。
    付記すると,心ならずも偽りをなす人は,故意に偽りをなす人よりも,(技術的な次元で) 能力が低いだけということが言えると思います。倫理的な次元での大小は関係ないのです。
  • 有体に言って,「故意に過ちを犯したり,恥ずべき不正なことをなしたりする者は善い人間」という「善」はプラトンが他の著作も通して追求している「善」ではないと思います。真実を追い求めることが「善」ではないのか?「善い人間」とは,故意に偽りをなすことができる時であっても,真実に背かない人のことではないのか?
    例えば『国家』では,「我々が語ったような者になるべき人々は…自然的素質のなかにこういう点がなければならない。偽りのなさ、すなわち、いかなることがあっても、けっしてみずからすすんで虚偽を受け入れることなく、これを憎み、そして真実を愛するという点だ」(485C) とソクラテスに言わせています。

ということを思ったりしましたが,当然このようなことは他の対話篇でプラトン自身が言っているわけで,どうも掌の上で遊ばされている感が否めません(汗)。実際にソクラテスに反論した人はエネルギーを使っただろうなと実感しました。そういう意味で本対話篇は,短いですが特徴的で面白かったです。

プラトン『ヒッピアス(大)』メモ

プラトン『ヒッピアス(大)』((プラトン全集 (岩波) 第12巻) を読んだときのメモ。

本対話篇は,ヒッピアスがアテナイを訪れた時のソクラテスとの対話で,この2人以外に誰も出てこないというプラトン対話篇としては比較的簡素な設定です。
前半では,ヒッピアスが著名なソフィストでボロ儲けしていること,スパルタ (ラケダイモン) では何故か受け入れられないことなどが話されます。そしてソクラテスが,ある知り合いから「<美>とは何か?」と問われて行き詰まってしまったということを話し,同じ質問をヒッピアスにぶつけます。このテーマがその後ずっと最後まで続きますが,ヒッピアスは「何が美しいか」ということばかり語り (例えば「美しい乙女である」とか),噛み合いません。結局お決まりのアポリア (行き詰まり) に陥り,対話は終了します。
但し,本対話篇はアポリアというよりは,ソフィストの愚かさを浮かび上がらせるためにソクラテスがいちいちヒッピアスの説を反駁して,袋小路に追い詰めたという印象はあります。本作は明らかに初期対話篇と見られていますが,その辺りは他の初期対話篇とはちょっと異なるかもしれません。最後は敵対的な終わり方をします。
なお本対話篇は,偽作の可能性があると研究者から考えられているようです。個人的には,後述する「視覚と聴覚を通じての快楽」が美であるという定義の吟味など,非常にプラトンらしいとは思いましたが。
副題はそのもの,「美について」。

以下,読書時のメモです。

ソクラテス「ところが他方,あの昔の人たちときたら,その唯一人として報酬として金銭を要求するのが妥当などとけっして考えはしなかったし,また雑多な群衆の間で自分の知恵を披歴してみせるべきだとも思わなかった。そのように彼らはおひと好しで,金銭に多大な価値があろうなどとは気づきもしなかったのです。これに引きかえ,いま言ったご両人は,二人とも,他の職人たちが何であれそれぞれの技術でかせいでいるより多額の金銭を,その知恵によってかせいでいるのです。それにまたこの人たちよりもっと前にプロタゴラスがそうしました。」(282C)

昔の人は大衆にソフィストの術を教えても,報酬として金をとらなかったが,対話相手のヒッピアスを始めゴルギアス,プロディコス,プロタゴラスは大金を稼いている,ということが言われます。ヒッピアスは自分たちの技術が昔の人より優れているから多額の報酬を貰うのだと言いますが,むろんソクラテスは皮肉のつもりでしょう。『弁明』では,ソクラテスは何かを教えることがあっても報酬を一切受け取ったことがないと言われています。

ヒッピアス「それというのも,ソクラテス,ラケダイモン人にあっては,法律をみだりに改変したり,あるいはまた慣わしに反して子息の教育することは,父祖伝来のしきたりではないのでね。」
ソクラテス「なんですって?ラケダイモン人にとっては,正しい行ないをせず,間違ったことをするのが,父祖伝来のしきたりなのですか?」(284B)

ヒッピアスが,ソフィストとして金銭をかせいでいるが,ラケダイモン(スパルタ)人からはあまり稼げなかったといいます。それに対してソクラテスが相当あおっていくやり取りが続きますが,自覚しているのかいないのか,柳に風といった感じで乗ってきません。ヒッピアスは,法習(法秩序)に合わなかった,と言っていますが。

ソクラテス「実はごく最近のことなのですが,ある人がですね,あなた,わたしがある議論において,あるものを醜いとして非難し,あるものを美しいとして賞讃していたら,何かこんなふうな調子で,きわめてぶしつけに質問をしてきて,わたしを行詰りにおとしいれたのです。「ねえ,君は」とその男は言うのでした,「ソクラテス,どういうものが美しく,どういうものが醜いかを,いったいどうして知っているのかね?というのは,さあ,<美>とは何か,君は言うことができるかね?」と。そしてわたしは自分の至らなさのために行詰ってしまい,彼に適切な返答をすることができなかった。」(286C)

ヒッピアスが「ひとが若いうちにそれを業とすれば最も評判の高い人となるような,そうした美しい営みとはどのようなものか」(286B) という物語を人に聞かせたという話をした後で,上記が言われます。評判を得るのは美しいこと,という部分にソクラテスが噛みつかないはずはありません。
この後ずっと,この「ある人」の虎の威を借る形で,「この彼ならこう質問する」という形で,ソクラテスがヒッピアスに迫る場面が続きます。後に出てくる描写からも自明なことですが,これはソクラテス本人です。

ヒッピアス「すると,ソクラテス,そういう質問をする男は,ほかでもない,何が美しいかを聞くことを要求しているのだね?」
ソクラテス「わたしにはそうとは思われませんね。そうではなく,美とは何かを聞くことを要求しているのだと思います,ヒッピアス。」(287D)

本対話篇は結局,これに尽きるという気がします。「何が○○か (○○という性質か)」ではなく「○○とは何か」というのを追い求めようとするのは,プラトン対話篇ではお馴染みです。本対話篇でのヒッピアスは,この趣旨を理解していない人として一貫して描かれています。

ソクラテス「するとさらに,これにつづけて彼は言うでしょう―彼の性格から推して,わたしにはほぼよくわかっているのです―,「ねえ君,では美しい土鍋はどうかね?するとこれは美ではないかね?」」
ヒッピアス「ソクラテス,いったいそいつは誰なのかね?おごそかな問題に,かくもくだらないものの名をあえて口にするとは,実に教養のないやつだ。」(288C)

ここの「美しい土鍋」は面白い部分です。元々ヒッピアスが「美しい乙女こそが美なのだ」と言ったことに対するソクラテスの反駁の中の1コマですが,土鍋は他の何かの対話篇でも出てきたような気がします。何にしても,他の対話篇同様,「美しいものが,それ (を分有すること) によって美しくあるところの美」,いわばイデア的なものをソクラテスは追求しているということが分かれば,(ここに限りませんが) ヒッピアスの言う美の定義は一蹴されることはすぐ分かります。

ソクラテス「それならさあ,よく見てください。はたして<ふさわしいもの>とは,こういうもののことをわれわれは言うのですか?もしそれがそなわるなら,何であれそれがそなわる対象のそれぞれのものを美しく見えさせるもののことですか,それともじっさいに美しくあらしめるもののことですか,あるいはそのいずれでもないのですか?」
ヒッピアス「少なくともぼくには,美しく見えさせるものだと思われる。ちょうどひとが着物なり靴なり似合ったものを身につけていると,たとえおかしな姿のひとでも,より美しく見えるようにね。」(293E)

プラトンの他の対話篇を読んでいると,見えたり思われたりするものが「そのもの」であったためしはなく,ここでもヒッピアスが言うような「美しく見えるものが美」というのは却下されます。
美をテーマとした対話篇は,『パイドロス』などもありますが,良くも悪くも本対話篇は対話相手がソフィストであることがその内容を強く特徴づけていると思います。あまり深まりません。

ソクラテス「視覚と聴覚を通じての快楽が美しいのは,このゆえに,つまりそれが視覚を通じるがゆえにではないだろうからね。なぜといって,もしこのことがそれが美しくあることの原因だとしたら,もう一方の,聴覚を通じての快楽のほうは,けっして美しくはないだろうからだ。」(299E)

本対話篇で提案される<美>の定義はいくつにも変遷します (それは省略) が,「視覚と聴覚を通じての快楽」という定義の吟味が一番歯応えがあります。
見た目や聴き心地が善いものが<美>である,というのは割と直感的だと思います (勿論プラトン一流の<美>の定義とは実際は遠いわけですが)。それを,
「見て快いもの,聴いて快いものはそれぞれ美しい」
→「(全ての快楽ではなく)視覚と聴覚を通じての快楽が美,ということはその2つ両方のみに共通して随伴するものがある」
→「視覚と聴覚それぞれ(のみ)に随伴するものが美,ではない」
→「視覚と聴覚の快の両方に随伴するものは美だが,視覚と聴覚それぞれの快に随伴するものは美ではない」
→「前に仮定したこと:見て快いもの,聴いて快いものはそれぞれ美しい,に反する」
という順で,「視覚と聴覚を通じての快楽」という<美>の定義が否定されます(ここに書いたまとめは,私の理解によるまとめで本文の構成とは異なりますし,間違っているかもしれません)。奇数と偶数という例で,それぞれとしては真でも両方としては偽となることがありうる,という話も出てきて面白い部分です。

ヒッピアス「けれども,ソクラテス,君はどう思うのかね,こうしたことの一切合財を。これらはまさに,さっきぼくが言っていたように,細かく切り裂かれた,言論のそぎ屑であり裁ち屑ではないか。それよりむしろ,ああいうことのほうが美しくもあり,大きな価値もあることなのだ,―法廷なり政務審議会なり,その他論議がその前で行なわれる何か公共の機関なりで,申し分なく立派に弁論を駆使し,聴き手を説き伏せたうえで,己れの身の安全や自己の財産や友の身の安全という,勝利者への褒美のうちでも最小ではなくて最大の物を携えて,立ち去ることができるということのほうがね。」(304A)

最終盤で,ヒッピアスの化けの皮が剥がれたというか,ついに本音が出ます。ソクラテスの吟味を屑呼ばわりし,法廷等での議論に勝ち,自身や友の身の安全や財産を勝ち取ることの方が価値があると言います。ここは『国家』や『ゴルギアス』を彷彿とさせます。
まあ本対話篇の流れを踏まえると,気持ちは分かるという気もします。本対話篇は他の対話篇と比較しても,ソクラテスの一方的な土俵という印象はあり,ヒッピアスに良いところがありません。しかし現実にはソフィストとして大金を稼いで自他共に「勝ち組」と認められているという自負があるはずで,それは相手の思惑のみを相手にすればよいことなので,ソクラテスが言うあれこれは枝葉末節であって本質的ではない,ということかもしれません。
それに対するソクラテスは…?

ソクラテス「「しかし君は」と彼は言うでしょう,「誰にせよ,ひとが言論なり,その他の何らかの行為なりを美しく営んでいるかいないかを,どのようにして知るのだろう―肝心の<美>を知らないというのに。そんなていたらくでも,君は死ぬより生きているほうがましだと思うのかね?」と。」(304E)

ヒッピアスの反撃に対して,ソクラテスは直接反論はしません。こういう対話ではアポリアに陥ってヒッピアスのような人の議論に踏みにじられ,一方で家に帰れば「彼」から「何であるか」も分からずに弁論を駆使するのかと罵詈雑言を浴びせられる…と自分を嘆いてみせます。
しかし「彼」の言葉を借りて,そんなことで生きているほうがましか?と決然と言います。
こういう所は,倫理思想という見方もできるかもしれませんが,「論理的」という印象を個人的には持ちます。論理的とは,(論理学的な観点とは異なりますが) ある言論の1つ1つの要素を決しておろそかにしない,本当でないことを自分に許さない,という態度である,という言い方もできるのかなと思います。レンガを積んで壁を作っているようなもので,1つでも抜けがあればそこから崩れてしまうように,「○○とは何か」という根本的な概念を軽視していてはその組み合わせである世の中の真理を語りえない,とソクラテスは言っているように思います。そこはソフィストたるヒッピアスとは平行線なのでしょう。

ということでメモは以上。
本対話篇は,プラトン初期対話篇らしい,「○○とは何か?の追求→アポリア(行き詰まり)」という流れが分かりやすい作品の1つだと思います。また,典型的なソフィストの像と,それに対するソクラテス (というかプラトン) の立場というのも分かりやすいと思います。